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2012年8月16日 (木)

パリ観劇記第五夜 オペラ・ガルニエ「ラ・フィユ・マル・ガルデ」

    6月26日(火)
    昨夜は遅くまで起きていたので、9時過ぎに目が覚めました。買って置いたパンを食べ、コーヒーを沸かして飲んで、10時近くになって出発しました。サン・ジェルマン=カーディナル・ルモワーヌというバス停から24番のバスでコンコルドまで行くつもりが、その停留所がなかなか見つかりません。小雨の中をずいぶん歩いて、やっとセーヌ川のほとりでそのバス停を見つけました。パリの道路は一方通行が多いので、往路と復路では停留所の場所がかなり違うことがあります。この24番のバスは、路線のほとんどをセーヌ川の右岸と左岸に沿って走るので、観光路線としても最高です。道はやや混雑していましたが、サン・ミッシェルの停留所で停まったまま動きません。首を伸ばして見ると、運転手がドアの外の車椅子の老婦人と大きな声で話しています。やがて、運転手がどこかに電話したあと、「5本に1本走っている」と老婦人に大声で叫びました。すると車椅子の老婦人は「ジャメ!ジャメ!ジャメ!(全然来ない、ずっと来ない)」とさらに大きな声で叫んでいます。どうも車椅子のまま乗車できるバスを待っているのになかなか来ないので怒っているようです。雨の中、車椅子ごとびしょ濡れですが、とても元気です。バスは何事もなかったように再び走り出して、セーヌ川の向こうにはサント・シャペルやコンシェルジュリの塔が見え始めました。

   今回はできるだけバスでパリを移動することにしました。メトロでの窃盗が増えているということもありますが、せっかくの良い季節、車窓の風景を楽しみながら行くのも悪くありません(一度だけパリを訪れるのなら6月のパリにせよ、と言われています)。ところが、バスに乗っていると、風景よりも乗客に心を奪われます。だいたいがパリ在住の人で、老人が多く、乳母車を引いた人や中型犬をのせてくる人もいます(どのバスにも乳母車のスペースがあります)。そして面白いことに、老人たちはよく私たちに話しかけてくるのです。降りる停留所を聞いて、そこが近づくと教えてくれたり、渋滞だからコンコルドまで20分はかかるとか言ってくれます。むろん、いろいろな人がいて、何十分も運転手に文句を言っている人や、バゲットを一本食べてしまう人もいます。レイチェル・サイモンの『妹とバスに乗って』は知的障害者の妹と一年間一緒にバスに乗る感動的な小説ですが、一日中バスに乗って飽きない妹のベス同様、私もパリの街をいつまでもバスに乗っていたくなりました。

   マラケ河岸、ヴォルテール河岸、アナトール・フランス河岸とセーヌ川に沿って走り、コンコルド橋でセーヌ川を渡ります。そこでバスを降り、今度は73番のバスに乗り換えて停留所を3つ越えてシャンゼリゼ通りの真中で降りました。雨はもうすっかり上がっています。今日は、朝、メトロの改札口の自動販売機でモビリス(一日自由乗車券)を買っておいたので、乗り降りは全く自由です。モビリスはパリ市内(ゾーン1・2)は6.4ユーロなので、二人で12.8ユーロ。カルネ(10枚綴りの切符)が12.7ユーロなので、一日に五回以上メトロやバスに乗ればモビリスの方が得ですが、何よりモビリスの良いところは自由に乗り降りできるところです。モビリスは普通のチケットとほとんど同じ形で、ただ使用前に名前と日付を記入しておかねばなりません。

   さて、シャンゼリゼ通りに来た理由は、妻がゲラン本店で香水を買いたいと言っていたからです。しかし、店の前に行ってみると、ビシッとした黒服の男性が扉のところにいて入るのに気後れがします。それで、申し訳ないが妻だけ入店させて、私は近くのベンチで座って待っていることにしました。高級店に入って居心地の悪い思いをするのはたいへん辛いことです。以前、ブルガリが銀座通りにビルを出した時、たまたま妻と二人で通りかかって、ぞろぞろ入って行く人並みに吸い込まれて入店してしまった時があります。ちょうど長年愛用していた手巻時計が壊れてしまっていたので、手頃な腕時計を見てみることにしました。中に、6万2千円の洒落た時計があったので、横にいた妻に半ば冗談で「ねえ、これ気にいったんだけど、どうかな」と言うと、すばやく聞きつけた美人の店員が寄ってきて、ガラスケースの鍵を開けて時計を取り出しました。店員は優しく微笑みながら「どうですか?」と私の腕に時計を当てています。その時になって、私は値札にゼロが一つ多かったことに気づきました。何とか、しどろもどろにその場を切り抜けましたが、妻には「値札を読み間違えたんでしょう?」とすぐに見抜かれました。

   15分ほどで妻が出てきました。買い物をした様子がないので尋ねると、いろいろ試してみたが、買おうと思った香水の値段が高過ぎた、といっていました。あらかじめ私が予算の上限を伝えていたのが悪かったのかもしれません。店員の女性はたいへん親切で、パ・ド・スシ(気になさらないで)と言ってくれたそうです。
   またまた短い距離をバスに乗ってコンコルド広場まで行き、左に曲がってヴァンドーム広場に入りました。ここは宝石店や高級ホテルが並んでいますが、どこにも寄らず、サントノレ通りに出て、エリゼ宮の前をブラブラしてから、高級ブティックのウィンドーをはしごして歩きました。入ってみたのはブルックスとポール・スミスだけで、ともに明日からのソルドの準備に慌ただしくて落ち着いて見れませんでした。私は何度かパリに来ているのに、サントノレ通りを歩くのはおそらく始めてです。それにしても狭い通りに車がいっぱいで、渋滞しているところに警察の車が割り込んで来て、騒音はひどい上に排気ガスで苦しくなりそうです。マドレーヌ広場を過ぎたあたりでバスに乗ってマレ地区まで急ぎました。

   サン・タントワーヌ通りのヴォージュ広場近くのバス停で降りて、食事ができるところを探しました。この辺は手頃なレストランがたくさんあります。ホテルを出る時間が遅かったので、もう1時をずいぶん回っています。ヴォージュ広場の北からTurenne通りに入って少し歩くとビストロCafe de Museesがありました。ここは、フィガロ紙の2012ベスト・ビストロ15に載っていたお店です。予想通りお客がいっぱいで、その喧騒はまるで戦場のようです。それでも、入口のすぐ手前の窮屈な席を空けてくれてそこに坐りました。入口の小さな黒板に殴り書きされていた日替りランチ(前菜・主菜で13ユーロ)を注文しましたが、それが都合の良いことに妻の好きな鴨の骨付もも肉だったからです。

   前菜は緑色の冷製スープ(何が入っていて緑色なのか忘れました)で、底にラディッシュ(赤カブ)を刻んだものが沈んでいます。これがとても美味しくて、量が多かったにもかかわらず、全部飲んでしまいました。赤カブのコリコリした感触が清涼感をさらに増すようです。スープとパンですでにややお腹いっぱいになっていたところに、鴨のもも肉が来たのですが、これにかけられていた黒いソースが濃厚すぎて私の口に合いません。けっきょく、肉の表側だけ食べて、付け合わせのオリーブと卵も残してしまいました。ワインとコーヒーを合わせて二人で38ユーロと安かったのですが、やはりランチ・メニューは慎重に考慮して然るべきです。なお、妻は、トイレの電気がどうしても点かなかった、とかなり怒っていました。私たちの席のすぐそばがカウンターで、そこにいるマスターらしき男性がたいへん愛想よく私たちに話しかけてきます。私にとっては、ここはまずまずの店で、というのも妻と飲んだミュスカデがとても美味しかったからです。

   マレ地区に来たのは、妻がカルナヴァレ館の再訪を望んでいたからです。Cafe de Museesから歩いてすぐに貴族の館カルナヴァレ館があります。ここが無料なのは信じられないことですが、フランス革命を中心としたパリの歴史の資料がふんだんに展示されていて、もっともパリらしい美術館として知られています。入口の門をくぐって、フランス式庭園のある中庭を歩いている時、ふっとシャツの下のお腹のところの感触に違和感があることに気づきました。瞬間、スーと血の気が引くような感じが、、、何と常に首にかけて服の下にあるはずのパスポート入れが無いのです! お腹や背中を探ってもどこにもありません。「パスポート入れが失くなった!」と思わず声を発すると、妻がびっくりして振り返りました。風呂に入る時と寝る時以外首から外したことがない大事なものです。中は二人のパスポート、二人のクレジットカード、日本円で現金10万円、私の銀行券3枚、とほぼ全財産といってよいし、何より、パスポートが失くなったら日本に帰れません。
   
   私は中庭のところで一歩も動けずに立ち尽くしました。いったいどうして? パスポート入れの紐が切れたなんてことはあり得ない。10年前に銀座のデパートで買ったものですが、ナイフで刺されても穴も空かない丈夫なもので、海外旅行には常に携帯していました。しかし、それではどこに? おそらく、ホテルのベッドの上に置き忘れたのでしょう。それ以外考えられません。いつもは執拗なほどパスポート入れをチェックしているのに、今日に限って迂闊だったのは、昨日の札束洗濯事件が尾を引いていたからで、胸ポケットの札束にばかり気を取られて肝心のパスポート入れのことを忘れていました。

   とにかく、ただちにホテルに帰って確かめてみなければいけません。観光どころではないのですが、妻はせっかく入館したばかりのカルナヴァレ館を去るので不満顔です。「もし、盗まれていたらどうしよう?」と私が言うと「あのホテルなら大丈夫よ。こういう時のために少し高くてもあのホテルに決めたんだから」と妻はそれほど心配している様子はありません。しかし、先日も全仏オープンで優勝した男子のテニス選手が8区のホテルで3000万円の時計を盗まれたとFrance Soir のサイトに出ていたばかりです。私たちのホテル・グランゾムは格式のあるきちんとしたホテルですが、確かめてみるまでは非常に心配です。幸い、旅行保険やパスポート再発行用の証明写真やコピーは今掛けている鞄に入っているので、最悪の場合でも、帰国は遅れるが、何とかなるかも知れません。

   マレ地区からパンテオン広場まで一本で行けるバスもメトロもないので、サン・タントワーヌ通りに出て、サン・ポールの停留所から96番のバスに乗ってサン・ミッシェルまで行き、そこから早足でホテルに急ぎました。全身汗びっしょりになって最上階の部屋に飛び込むと、ちょうど黒人女性が部屋を掃除している最中で、私の顔を見ると微笑を浮かべて「ポルトフィユ? ス・ラ」とベッドの横の電話機を指差しました。パスポート入れはその電話機の上にきちんと紐で結んで置いてありました。

   掃除が終わるのをロビーで待って、部屋に戻り、風呂に入って、ベッドにぐったりと横になりました。二日続きの失敗で、かなり落ち込んでいたのですが、それにしても妻のいうように、ホテルはやはり信頼できるところでなくてはなりません。以前泊まったサン・ミッシェルやモット・ピケ・グルネルのアルバイトばかりのレセプショニストのいるホテルでは、今日のような場合どうなっていたかわかりません。

   だらだらとテレビを見ているうちに時間になったので、観劇に出る準備を始めました。妻が支度に時間がかかりそうなのは、今日の行先がオペラ・ガルニエだからです。7時半開演のため5時半にホテルを出ました。リュクサンブールの交差点まで下り、サン・ミッシェル通りからゲイ・リュサック通りに少し入ったところにあるバス停でバスを待ちます。ここを通る21番と27番のバスはカルチェラタンとオペラを通るいわば黄金路線で、途中ルーヴル美術館の中庭を突っ切ります。バス停のところに土産物屋があって、店頭にびっしり飾られた絵葉書を見ているとバス待ちの時間も忘れてしまいました。夕方の混雑だからでしょうか、10分ほど待って27番のバスが来ました。後ろの並んだ席に座り、バスの窓から見えるセーヌの流れを楽しみました。27番のバスは、行きは左岸を走ってカルーセル橋でセーヌ川を渡り、帰りは右岸に沿って走り、サン・ミッシェル橋でセーヌを渡ります。ところが、セーヌ川を渡ってパレロワイヤル=コメディ・フランセーズのバス停で車内アナウンスがあって、乗客がぞろぞろ降りて行きます。後ろの老人が「みんな降りるよ」と言ってくれたので、私たちも降りました。空っぽになったバスはどこかに行ってしまいました。次のバスを待っていては間に合わない恐れがあるので、そこからオペラ座まで歩くことにしましたが、広いオペラ大通りの突き当たりにオペラ・ガルニエが見えるものの、歩いても歩いてもなかなか到着しません。着いた時には喉がカラカラでまた冷たいシュウェップスが飲みたくなりました。

   夜7時近いが、むろん空はきわめて明るい。オペラ座の階段は観光客でいつもいっぱいですが、その下を通る時、不用意に私が上の入口の方を指差した時、勘違いしたのか、一人の黒人が立ち上がって、私たちに向かって大声で怒鳴り始めました。何語かわからなかったが、ニイハオとか言っているので、どうも中国人に間違われたようです。言い返したかったが、賢明にも知らぬふりをして通り過ぎました。昔は中国人に間違われることなぞまず無かったのですが、それだけ日本人観光客が少なく、中国人観光客が多くなっているのでしょう。ガルニエはすでに開場していて、バスチーユに勝るほどの華やかな装いの人が続々と入場して行きます。ロビーに子供が多かったのは、きょうの演目が家族向けのバレエ「ラ・フィユ・マル・ガルデ」だったからでしょう。

   私たちの席は三階の左のボックス席で、二つ並んだ椅子が前から三列あって、計六人が座れます。その二列目が私たちの席(40ユーロ)ですが、よく見えるのは一番前の席だけで、二列目はやや苦しい、三列目は全く見えません(三列目の白人夫婦は最後まで立ちっぱなしでした)。開演直前まで一番前の席が空席だったので、もしかしてラッキーかも、と思っていたらギリギリで母と娘が入って来ました。後ろの荷物置き用のソファーにフルフェイスのヘルメットを二つ置いていたことから、バイクで二人乗りしてきたのでしょう。母親はまだ若くすらっとして、娘はどう見ても小学生です。休憩の時に、その母親は、妻が身につけていたヴィンテージものの怪しいネックレス(後で聞いたらケネス・ジェイ・レーンとのこと)を、穴のあくほど見つめていました。

   さて、今日の演目はバレエ「ラ・フィユ・マル・ガルデ(直訳すると、下手に監視された娘)」です。1789年にフランスの民謡など をもとにして作られた最も古いバレエの演目の一つですが、1828年ルイ・ジョセフ・フェルディナント・エロールによって原型が作曲されました。しかし、忘れられ散逸しかかったこの作品を傑作に仕上げたのはイギリス人の振付師フレデリック・アシュトンです。彼と作曲家ジョン・ランチベリーは古い楽譜を探し求め、足りないところを作曲し、家族向きのバレエとして完成させ、1960年に英国ロイヤルバレエ団によって初演されました。 今回のガルニエのバレエもこのアシュトン版に基づいています。
   あらすじは家族向けのバレエらしく極めて単純です。農家の女主人シモーヌは、一人娘のリーズを裕福な農場主の息子と結婚させたがっています。しかし、その息子アランは知的な発達障害があり、いつも絶対に赤いコウモリ傘を手放しません。実はリーズにはコラという恋人がいて、母親の目を盗んで逢引しています。リーズの母とアランの父親は画策して、リーズを部屋に閉じ込めて、一気にアランと式をあげさせようとしています。ところが、その部屋にはすでにコラが隠れていて、二人は互いに結婚を誓い合ってしまいます。事実を見せつけられて母親も納得し、幸福のうちに幕が降ります。

   私は、前回のパリ訪問で「白鳥の湖」を観て圧倒されて以来、再び本格的なバレエを観てみたいと思っていたのですが、ちょうど夏場で良いプログラムがなく、あったのは子供向けのこのバレエだけでした。全く期待せずに観たのですが、意外にも夢中になって、休憩を挟んで二時間弱の時間があっという間に過ぎ去りました。パリ・オペラ座のダンサーたちの踊りはもちろんですが、元になったフレデリック・アシュトンの構成・振付が素晴らしいのです。バレエは可愛らしい鶏のダンスから始まります。二人の恋人とそれを邪魔しようとする母親、何とか二人を結婚させようとする村の若者たちの楽しい踊り、突然の嵐で傘をさしたまま飛ばされていくアラン、クライマックスの幸せな恋人たち、と息もつかせぬほどテンポの良い演出です。

   しかし、このバレエの本当の魅力は知的障害者のアランにあるのです。裕福な農場主の父親は、何とかしてアランを可愛くて利口な娘リーズと結婚させたがっています。アランも父親の意を汲んでリーズに接近しますが、どうやら父親ほど熱心ではないようです。村の若者たちは、リーズとコラの恋路の邪魔になっているアランをからかいますが、陽気なアランはむしろそれを楽しんでいるように見えます。そして、最後の場面に、このバレエのいわば本質ともいうべきものが垣間見えるのです。リーズとコラが結ばれて、幸せな恋人たちとそれを取り巻く人々が舞台から去り、照明は落とされ、誰もいない暗いリーズの家だけが残されます。すると、舞台の端からこっそりアランが現れ、リーズの家に忘れた赤いコウモリ傘を見つけて嬉しそうに帰って行くのです。この印象的な終わりのシーンを子供たちはどんな思いで観るでしょうか。哀れな知的障害者? いやいや、このバレエを観た人間は誰でもアランこそもっとも幸福な人間に違いないと思うでしょう。そして、彼がいなかったら、このバレエはフランスの田舎の単純な恋物語で終わって、人生の深みと崇高さのかけらすら感じられなかったでしょう。

   バレエが終わったのは、まだ9時半過ぎ。ガルニエ宮の外に出ると、昼間のような明るさに戸惑います。オペラ交差点はいっぱいの人で歩くのにも苦労しましたが、カフェ・ド・ラ・ペの前を通ってオペラ大通りのバス停から27番のバスに乗って帰りました。ルーヴルの明るく輝くピラミッド、右岸から見えるセーヌ川の暗い水面、サン・ミッシェルの橋のたもとのブラッスリーの眩しいほどの照明、やがて、リュクサンブールの静かな通りにたどり着くと、そこからホテルは歩いてすぐです。今日はたいへんな失敗をして、危うく日本大使館に駆け込まねばならぬところでした。それにしても、昼過ぎまでパスポート入れを忘れたことに気づかなかったとは、旅の慣れによる心の緩みとしか考えられません。帰国まであと二日、果たして無事に旅は終わるのでしょうか。

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カーディナル・ルモワーヌ通り71番地、ヴァレリー・ラルボーの所有していたアパルトマン。左の門を入って坂を上がったところが入口。ラルボーはこの静かなアパルトマンを『ユリシーズ』執筆中のジェイムズ・ジョイスに貸し、1921年その大作が完成すると直ちにフランス語に翻訳しました。

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シャンゼリゼ通りのゲランの店。一階が香水売り場、二階がスパになっています。

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カルナヴァレ館の中庭。悲劇はこの後に起きました。

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カフェ・ド・ミュゼの鴨のもも肉。半分しか食べられませんでした。

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Hotel des Grandes Hommes のレセプションの女性。話してみると、みな知的なので驚きます。

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三階のボックス席からの眺め。子供連れが多かったです。

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苦しい位置からの撮影。すばらしく楽しいバレエでした。

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バレエが終わってガルニエ宮を出る人々。夜9時40分なのにこの明るさです。

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2012年8月 4日 (土)

パリ観劇記第四夜 オペラ・バスチーユ「セヴィリアの理髪師」

    6月25日(月)
    今朝は妻がすぐ裏のパン屋で、朝食を買ってきました。ところが、パン・オ・ショコラやパン・オ・レザンはいいとしても、リンゴのタルトやイチゴのタルトなど甘いものをいっぱい買ってきて呆れました。朝からこんなものばかり食べられません。おそらく、日本と比べて、安いし美味しいのでつい買いすぎてしまうのでしょう。パン屋のあるエストラパド通りは、ホテルの真裏で、「パリ随想」(みすず書房)の著者湯浅年子(1909-1979)が念願のアパルトマンを購入した通りでもあります。湯浅年子は大戦直前に単身フランスに渡り、キュリー夫人の娘婿ジョリオ・キュリーの下で核物理学の研究を始め、以来40年、パリで研究を続け、ついにパリで没した女性です。日本に暮らしていた時はただ生物的に生きていただけだった、と語る彼女の見たパリは、そしてフランス人はどんなものだったのでしょうか。

   まず、フランスは個人の独立を重んじる社会です。湯浅は、腰の曲がった老人が杖をつき買い物かごを下げて苦しそうに歩いていく光景をよく見かけるが、それは度重なる外敵の侵入や体制の転覆を経験し、信じられるものは自分だけだと悟った民族の一特徴であると書いています。日本のように何となく他人や親類や知人をあてにすることはありません。自分の持つ権利に固執することは、保険や遺言や住居などについての煩雑な書類の洪水によく表れています。また、重い病にかかり、治癒が絶望的であっても、一縷の望みがあれば決して諦めず、とことん病気と闘います。人生とは現世のことであると悟っているからです。また、このような個人主義、現実主義は必然的に人間相互の平等性を徹底させます。アメリカのレディファーストはそのような慣習があること自体ひとつの偏見ですが、フランスの女性は叫ぶよりもまず社会の中に現実的にしっかりした地位を築いてきた、と湯浅年子は書いています(2012年現在のオランド大統領下での女性の閣僚は34人中17人です)。

   そして、このこと、つまり人間の独立性と平等性は個々の人間の可能性についての寛容さに関わってくると、彼女は言います。全く何の後ろだてもなく、パリに飛び込んできた彼女を、その学問への志のみで研究所の仲間に加えてくれた人々への感謝の思いもあるでしょう。そのことで、彼女の師でノーベル賞受賞者のジョリオ・キュリーが亡くなった時、ジョリオの元運転手が語った思い出は私たちを驚かせます。晩年のジョリオが自分で車の運転ができなくなって運転手を雇ったとき、彼はこの小学校しか出ていない運転手に次のように言ったというのです。「私はきみを単なる運転手として雇うつもりはない。きみはまだ若い。もし、きみが望むならば研究所の仕事を教えてあげよう。知識の有無は問題ではない。志さえあればよいのだ」と。この若者は、計算尺の使い方やストップウォッチの押し方から始めて、徐々に実験検査の技術を身につけて、教授の代わりに公機関への調査報告を作成するまでになったということです。わたしはこれを読んで教育者アランの「人は、彼が望むと同じだけの知性を得ることができる」という言葉を思い出しました。

   ところで、先日家の近くの書店で、吉本隆明の『真贋』という談話の筆記録めいた文庫本が平積みされていたので、パラパラ立ち読みしたのですが、その中で、フランス人と結婚してフランスに住んでいるある女性に吉本が、「ルーヴル美術館で人と待ち合わせをしていると、肩にかけたカメラをサーと持っていかれてしまうようなそんなフランスのどこがいいんですか?」と聞くと、その女性は「日本の方が治安は良いし、物価は安いし、住みやすいとは思うが、ただ一つ、フランスには人間関係でとても自由なところがある。誰と付き合っても全く自由であるというような。それ以外では日本の方が住みやすいと思う」と答えています。このことは、要するに、世間の目とか、家族や地域や職場の「掟」のようなものとか、によって自分の行動を自己規制してしまうことが少ないということを意味しているのでしょう。もし、そうだとしたら、この自由はたいへんすばらしいものに思えます。協調性が美徳とされる社会ほど生きづらいものはありません。

   さて、エストラパド通りからカーディナル・ルモワーヌ通りに抜ける途中に、rue Rollin という歩行者専用道があります。その道に入ろうとしたら、何やら中高年の観光客が大勢固まってガイドの話を聞いています。その場所に張られたプレートを見ると、ヘミングウェイが住んでいたカーディナル・ルモワーヌのアパルトマンではありませんか。妻が、中年の女性に話しかけてみると、たいへんニコニコと愛想がよく、自分たちはオーストラリアからきた観光客だと言いました。「パリはどうですか?」と妻が尋ねると、「ビューティフル!」と感に堪えない様子です。
    非常に古い道、rue Rollin を通り抜けて、花で飾られた階段を降りるとそこはモンジュ通りです。月曜の朝の活気がまぶしいほどで、人も車もひっきりなしに広いモンジュ通りを行き交います。すぐ近くの植物園へ行くつもりで、モンジュ通りを渡ろうとしたら、つるっと足が滑りました。転びそうになるのをやっとこらえて足元を見ると、何と黄色い犬の糞がべっとりついています。思わず大声を出し、都合よく道路清掃の水が流れていたので、それで靴を懸命になって洗いました。「パリの洗礼ね」と妻は言いましたが、大切に履いていたニューバランスの黒レザーのトラベルウォーカーを汚したのが悔しくて、その怒りをどこにぶちまけていいか分かりません。気を取り直して、モンジュ通りを渡り、植物園への道の途中にあるリュテス闘技場跡を見学しました。教師に連れられた小学生の群れが何組かいて、それぞれ話を聞いたり、スケッチをしたりしていました。ここはおそらく紀元後1世紀に造られた円形闘技場で、石の切り出し、組立、きれいな円形の形すべてきれいに整っていて、この種の建築物を造るローマ人の器用さが窺い知れます。

   闘技場を出て、リンネ通りに出ると、街角に古生物学、動物学の巨人キュヴィエ George's Cuvier1769-1832 の記念像がありました。ライオンに腰掛ける裸身の女性の周りにたくさんの動物が顔を出していて、その下は小さな泉となっています。その前がもう植物園で、園内を歩くと6月の緑に溢れて息苦しいほどでした。妻の希望で、植物園の端にあった進化大博物館という建物に入ってみましたが、見学に来た小学生で一杯で、うるさいほどです。展示も大したことがなく、これなら隣のモスケの中のアラビア風カフェで水ギセルを吸った方がよかったかも知れません。

   そのモスケの前のバス停から89番のバスに乗ってモンパルナスへ。ところが、モンパルナス駅前で降りるところ、降車ボタンを押し忘れて一駅乗り過ぎてしまい、日差しの強い中、妻を歩かせてしまいました。ドゥランブル通りにあるガレットの店 Ti jos へ12時ちょうどに入店。モンパルナスはブルターニュからパリに上ってくる人々の玄関口で、郷土料理ガレットのお店が多いのも肯けます。この Ti josはその中でも一番の老舗ですが、観光客向けでない素朴なガレットを食べさせると評判です。店内も明るくシンプルで、いかにも郷土料理という内装でないのが好感がもてます。一番高いガレット•プロヴァンシャル(9.2ユーロ)を食べましたが、たいへんおいしかった。定番のシードルも飲み易くはないがおそらくブルターニュの味で、ルナン描くところの内向的で辛抱強いブルターニュ気質を思いおこさせるようです。

   ガリマール書店で買いたい本があったので、モンパルナス駅前から伸びるレンヌ通りをサン•ジェルマン•デ•プレに向かって歩きました。ラスパイユ通りに入って少し歩くとその本屋があります。ベルトラン•ド•ジュヴネルの『アルカディ』は、エッセイの棚の J のところで入店数分も経たないうちに見つけました。妻は、と見ると、何やら店員と話をしています。ガリマール発行ではない本を探しているので、店員に別の本屋への地図を描いてもらっているらしい。その地図のとおり、左へ曲がって、右へ曲がって、また右へ曲がると、いつのまにかサン•ジェルマン•デ•プレのカフェ•フロールの隣の文学書専門店L'Ecume des Pages の前に来ていました。早速、妻が店員に尋ねるとただちに棚の上の方から本を一冊とってくれました。レジで代金を払ってから、ちらりとみると、クルティウスの『バルザック』のフランス語版です。

   そこから歩いてホテルに帰ったのですが、途中でスーパーのカルフールで牛乳、ワイン、ハムなどを買いました。汗をかいたので、シャツを洗いながらバスにゆっくりつかりました。この部屋のバスルームは窓が大きく開いて爽快な感じです。アンドレ•ブルトンとフィリップ•スーポーが共同で『磁場』を書いて、シュルレアリスムの幕開けを告げたのはこのホテルの確か屋根裏部屋だったので、まさにこの部屋だったかもしれません。

   7時半のオペラ開演に間に合うように、6時にはホテルを出られるように準備していたところ、シャツのポケットに入れておいて、洗う時に取り出しておいた札束が見つかりません。札束といっても、5ユーロ、10ユーロ、20ユーロの小額紙幣の束で、大した額ではないのですが、私にとっては大金です。刻々出発時間が迫っているのに、どこを探しても出てきません。だんだん焦ってきて、冷汗も出てきました。妻は呆れたのか、ベッドに腰掛けて笑っています。「笑いごとではない、大変なことだよ」と私は怒りましたが、ふっと気がついて、バスルームに干していたシャツを調べてみると、ぐっしょり濡れた札束が入ったままです。思わずホッとして胸を撫で下ろしました。

   カーディナル・ルモワーヌまで降りて86番のバスでバスチーユへ向かいました。セーヌ川を渡り、活気あるサン・タントワーヌ通りに入ると、バスチーユ広場はすぐそこです。午後7時ですが、むろんまだ空は明るい。今、開場したばかりらしく、大勢の人がオペラ・バスチーユの入口に集まっています。簡単な手荷物検査を済ませて入場すると、ロビーは、オペラの開演を待つ人々の熱気でしょうか、祭りの興奮とも思えるざわめきに満ちています。オペラ・コミック座やオデオン座に比べるとはるかに華やかな人々の装いで、驚くことに、子供の姿も目立ちました。冷たいものが飲みたいというので、バーでシュウェップスを飲んだのですが、人々を観察するだけでも相当に面白い、ギリギリまでロビーにいて、開演直前に席につきました。座席は一階の真中の通路際で、何と155ユーロの席、妻が勝手に購入したこの席でいっとき夫婦喧嘩が起こりました。私はもっと上の安い席がよかったのです。

   さて、今夜の演目はロッシーニの「セヴィリアの理髪師」です。1775年ボーマルシェによって書かれたこの戯曲は、同年コメディ・フランセーズによって初演されました。後にパイジェッロによってオペラ化されましたが、1816年ロッシーニが再度この劇作をオペラ化したことで一躍オペラ史上の傑作の一つとなりました。このオペラの魅力は、何よりも、ボーマルシェとロッシーニという二人の天才によっています。原作はとても面白い(岩波文庫『セビーリャの理髪師』参照。なお、解説に記されたボーマルシェの生涯はまさに波乱万丈で驚きに満ちています。)場所はスペインのセヴィリア、トレドで見初めた美女ロジーナをスペイン中を探し回ってやっとセヴィリアで見つけたアルマヴィーヴァ伯爵は、何とか彼女に渡りをつけようと焦っています。若くて美男で裕福、しかし、財産や家柄目当ての女に飽きた伯爵は、貧乏な青年を装って、ロジーナから真実の愛を引き出そうと画策します。ところが、ロジーナは彼女の美貌と財産目当ての後見人のバルトロからまさに今夜結婚を強制されようとしていました。バルトロは医者で抜け目のない老人、結婚が成立するまでロジーナを家の中に閉じ込めて外に出そうとしません。困ったアルマヴィーヴァ伯爵、しかしここで伯爵のために町の理髪師フィガロが一肌脱ぎます。理髪師とはいえ、情報通で賢くて機知に富んだフィガロは伯爵のために大活躍、あれやこれやの騒動のあとで舞台は無事伯爵とロジーナの結婚で終わります。

   ロッシーニは19歳でデビューし、20歳で人気者になり、おそらく史上もっとも成功した音楽家になり、37歳で引退し、76歳で死にました。「セヴィリアの理髪師」は油の乗り切った彼の24歳の時の傑作です。「ロッシーニの楽風が最も鮮明に現れているオペラ」とスタンダールは『ロッシーニ伝』で書いていますが、その理由は「セヴィリアの理髪師」が全く憂愁の忍び込む隙間のないドラマだからです。アルマヴィーヴァ伯爵を苦しめる困難は、単に物理的なものであって、強欲な人間から恋人を奪い取るための機知とスピードを必要とするにすぎません。しかも最後は水戸黄門ではないが、伯爵の地位と財力で簡単に解決してしまいます。まさに、ロッシーニのためにできたようなオペラで、底抜けの明るさと切れのよい音楽が持ち味の彼の独擅場といってよいでしょう。
   ロッシーニは全ヨーロッパからオペラの作曲を頼まれ、招待された土地に着くと、まず2、3週間は遊んで暮らし、やっと一カ月近くなってから晩餐会やサロンを断りはじめ、歌手の声のチェックをして、そしてー初演20日前に作曲を始めます(「セヴィリアの理髪師」も2週間で書き上げました)。その軽快さと滑稽味は天性のもので、同時代の天才モーツァルトとは全く正反対でした。「モーツァルトは生涯に二度しか陽気にならなかったが、反対にロッシーニは生涯に二度しか憂鬱にならなかった」とスタンダールは書いています。
 
   場内が暗くなり、軽妙な序曲が聞こえて来ました。オペラのたぶんもっとも胸高鳴る瞬間は、この時でしょう。ゆったりと座席の背にもたれながら今から始まる場面を想像して目を閉じます。あらかじめ図書館で「セヴィリアの理髪師」のDVDを二種類借りて鑑賞し、アヴァド指揮のフェニーチェ歌劇場のCDも iPad に入れて何度も聴いていました。ところが、幕が上がって、最初の舞台を見て驚愕しました。そこにはスペイン・セヴィリアの街頭があるのではなく、だだっ広い砂漠とテントのような家があるだけなのです。やがて登場するのはアラビアの地味な衣装のむさ苦しい男たち。ギターを抱え、洒落た衣装を着て出てくるはずのフィガロも、若々しいアルマヴィーヴァ伯爵も、この舞台では同じような格好で最初は区別がつきません。実は、パリ・オペラ座の「セヴィリアの理髪師」は2002年から映画監督コリン・セローの舞台演出で、すっかりアラビアの物語に変えられていたのです。すでにDVDも出ている有名な演出で、ネットで検索すればすぐに気がついたのに全く迂闊でした。これで、ロビーに子供が多かったのも頷けます。演出は家族で楽しめるよう、合間にポピュラー音楽が挿入されたり、楽器が点滅したり、伯爵が衣装の下にサッカーのユニフォームを着てたり、果てはボールを蹴ろうとまでします。何とも納得できず、開始直後「これセヴィリアの理髪師だよね」と思わず妻に確認しました。初めて一人でパリに来た時、飛行機の座席の周りが皆ロシア人だったので、シートベルトを外して後ろのスチュワーデスの控室に駆け込んで「これパリ行きですよね」と確認したことを思い出しました。

   幕間休憩の時に妻に聞いてみると、妻はオペラ座のホームページで動画を見ていたのですでにこの演出は知っていたとのこと。「えー、何で教えてくれなかったの」と言うと、「これほどひどいとは思わなかった、最初に砂漠が出るなんて」と返事されました。オペラで時代背景や設定が変わるのはよくあることですが、セヴィリアの理髪師をアラビア仕様にするのは次元の違う改変で、すべてがまるで違ってしまいます。そもそも、アラビアに理髪師なんているのでしょうか(髭剃りは禁止されているのに)。また、子供向けの余興もいらぬ演出で、前に書いたように、このオペラはボーマルシェとロッシーニという二人の稀代の天才によってのみ作り得た作品で、それ自体が立派なもので、十分面白い、余計な演出なぞ不要です。

  アルマヴィーヴァ伯爵を演じたシラキューサは素晴らしいが、フィガロは印象薄く、妻によれば、ちょこちょこ動いて詐欺師のように見えた、とのこと。フィガロといえば、自己の才覚一つで生き抜く新しい時代の象徴であるキャラクターですが、この舞台では小物感が半端ない、すっかりアルマヴィーヴァの影になってしまっています。さて、その舞台ですが、これはパリ・オペラ座の威信をかけた豪勢なもので、大きなアラビア風室内の調度、またバルコニーに反転する天幕の美しさ、など見ごたえはありました。それにしても、最後までオペラに没入することはできず、不満と疑問と怒りを感じながら劇場を後にしました。
   夜遅くバスがもう走ってないので、メトロでカーディナル・ルモワーヌまで帰りましたが、坂道を間違えて隣の駅ジュシーまで行ってしまいました。やっと深夜近くにホテルに帰りましたが、まだ興奮冷めやらず、二人でハムをおかずにワインを飲みながら、ひとしきりオペラの話で盛り上がりました。寝る前に、昼間洗濯してしまった札束を新聞紙の上に一枚一枚展げて乾かしておきました。

   Apart

エストラパド広場。エストラパド通りとユルム通りの交差点。左がパンテオン、右に行くとエコール・ノルマルとヴァル・ド・グラース。

Hemingway

カーディナル・ルモワーヌ通り74番地、ヘミングウェイの住んでいたアパルトマン。オーストラリアからの観光客がガイドの話を聞いています。

14

古い通り rue de Rollin。左の14番地がデカルトが住んでいた建物。扉の横に透明なプレートが張られています。なお画面には写っていませんが22番地はパスカルが死んだアパルトマン。この通りの突き当りがヘミングウェイのアパルトマンになります。

Lutece

リュテス闘技場跡。19世紀半ばのモンジュ通りの拡張工事の際偶然発見されました。ローマ時代約一万人の観客を収容できたと言われています。小学生がたくさん見学に来ていました。

Cuvier

リンネ通りにあるキュヴィエの記念碑。若い女性がライオンの背中に座り、その下にたくさん動物が彫刻されています。博物学の巨人にふさわしい像です。

Jardin

植物園にあるビュフォンの像。王立植物園の園長として世界中からたくさんの植物を収集しました。『博物誌』の著者としても有名です。

Opera

オペラ・バスチーユの幕間休憩のロビー。子供が何人もいたのには驚きました。

Figaro

「セヴィリアの理髪師」。終わりの出演者全員の挨拶。舞台に上がって一言文句を言いたくなりました。

Livre

今日買った本二冊。ジュヴネルは保守主義の哲学者・政治経済学者で継母である作家コレットとの恋愛関係は彼女の『青い麦』『シェリ』などの作品に濃い影を落としています。

Osatsu
「愚かさを忘れないために」妻が撮った写真。洗濯してしまった札束は新聞紙の上に一枚ずつ並べて乾かしました。

 

 

 

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