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2012年7月22日 (日)

パリ観劇記 第三夜 オデオン座「令嬢ジュリー」

   6月24日(日)
   肌寒い日曜日、ムフタール通りに買い物に出るため、朝9時半にホテルを出ました。このホテルは私たちにはやや贅沢なホテルです。ハイシーズンなので、もっと安いホテルにしたかったのですが、妻がどうしてもというのでここに決めました。妻によると、レセプションの人間が全員きちんとしているし、それに、朝ホテルを出る瞬間の雰囲気が良いというのです。確かに、出るとすぐ酔っ払いが寝転んでいたり、物乞いの人が座っているのを見るのでは爽やかな気持ちも吹き飛んでしまいます。ホテルのあるパンテオン広場は、荘厳なパンテオンはもちろん、端正なサント・ジュヌヴィエーヴ図書館、リセ・アンリ四世校、サン・テティエンヌ・デュ・モン教会、ソルボンヌ法学部に囲まれて朝の一歩を踏み出すのには最高の環境です。コンコルド広場に面したクリヨン、ヴァンドーム広場に面したリッツなどの豪華ホテルより、その点ではこのつつましい小さなホテル Hotel des Grands Hommes の方が優っているように思われます。

    パリの街の美しさを、説得的に語るのはたいへん難しい。しかし、たとえばこの整然として格調のあるパンテオン広場を見渡した時、私はかつて島崎藤村(彼もカルチェラタンのホテルに泊まっていた)が書いていたことを思い出します。彼はパスカルが宗教的な生涯を送った思想家であると同時に数学者であったことに思いを寄せ、パリの美はその数理的な想像力にあると悟ったのです。眼前の美に囚われず、想像力を豊かにして、面、積、質、距離、位置、長さ、高さ、速力、配合、組立などの持つ美を感知すること、それが生活を簡素にし、また豊かにもすると。数理の観念と美の結合、「古人の設計になる茶室の簡素がいかに数量の美に基くかを見よ」と藤村は書いています。

   さて、ムフタール通りはホテルから坂を下ってすぐ、途中にカフェの集まったにぎやかなコントルスカルプ広場があります。そこから開け始めた商店を眺めながら(ムフタールの商店街は日曜営業、月曜休みです)、ムフタール通りを降り切って、モンジュ通りにあるパン屋、Boulangerie Mongeに入りました。たいへん美味しいパン屋で、そこでクロワッサン、チョコのエスカルゴ、パン・オ・レザンなどを買いましたが、入り口のところで大柄の白人男性が行きつ戻りつしながら物乞いをしているのが気になりました。私たちと目が合うと、遠慮がちに手のひらを丸く差し出します。むろん、無視することにしているのですが、妻がレジで代金を払っている間、私が試食のパン・ド・カンパーニュを食べていると、また目が合ってしまいました。日本に住んでいると、物乞いの人に会うことがまずないので、こういう人たちとの距離の取り方に苦労します。昨日もリュクサンブールのバス停で、中年の白人女性が弱々しい声で妻に、自分の窮状を訴えてきました。私には、ただ最後のシルヴ・プレ、シルヴ・プレ、シルヴ・プレという三回繰り返された消えいるような声しか聞こえませんでしたが、妻によると、病気で苦しんでいるらしいとのこと、咄嗟のことで、妻は黙っていましたが、次に話しかけられた若い女性はあからさまに忌避する態度を示しました。しかし、その横にいた初老の女性は乞われもしないのにバッグから硬貨を出してその女性に渡していました。

   ムフタール通りに戻って、サン・メダール広場の近くで新聞を売っていました。真ん中に積んであったのは le Parisien Dimanche (パリジャン日曜版)で、一面には大きく Quelle Tristesse! (何て退屈なんだ!)と書いてあります。早速、1.25ユーロ払って買ってみると、昨夜のEuro2012 準々決勝対スペイン戦の完敗(0-2)をボロクソにこき下ろしていました。防御ばかりの臆病な試合運びを批判し、スペインを一度も脅かそうとしなかった作戦のまずさから一気に監督の解任まで話を展開しています。私もフランスを応援していたのでとても残念でした。

   ムフタール通りで苺とワインと鶏肉のローストとジャガイモを買って、ホテルにもどりました。朝食と昼食を合わせたような食事をとってから昼すぎにホテルを出ました。今日の観劇はホテルからすぐ近く、リュクサンブール公園の前にあるオデオン座です。三時からなので、オデオン交差点際にあるカフェ・エディトゥールでコーヒーを飲みました。ここで、たっぷり一時間、「令嬢ジュリー」のフランス訳本の最後の勉強をしました。もう何度も読んでいるし、モリエールに比べればたいへん易しいので、細部にごちゃごちゃしたところはあるが、本筋の展開は間違えようがありません。スエーデン語原本からの日本語訳も参照したが、その違いはごくわずかです。

   外へ出ると雨が降りだしています。まだ時間があったので、近くのサン・シュルピス寺院に行って見ることにしました。ここは本当に立派な教会で、私はここの付属修道院で勉強したエルネスト・ルナンを思い出すのですが、妻は何より、ドラクロワの畢生の大作、ヤコブと天使の闘いその他をじっくり鑑賞したかったのでしょう。

   いよいよ三時近くなったので、オデオン座に入りました。この劇場は、1782年、マリー・アントワネット臨席のもとに開場した由緒ある劇場で、元々はコメディ・フランセーズの劇場でしたが、紆余曲折を経て現在はヨーロッパ劇場としてジャンル、国籍を問わず上演されています。私の記憶の中では、68年の5月革命の時に学生に占拠されていたことでよくメディアにその名が登場していました。さて、劇場はいわゆる新古典主義建築で、ギリシア的な荘厳な円柱が並ぶファサードは、いささか大げさで重厚すぎる感じです。二階にはゆったりしたカフェがあり、オペラ座を思わせる客席はとても素晴らしい。私たちの席はpremier balcon つまり日本で言う三階のやや右寄りの一番後ろで、少し遠いが舞台ははっきりと見えます。しかし、これで24ユーロ(2400円)はやや高いかもしれません。

   舞台はストリンドベリの『令嬢ジュリー』で、目玉はジュリー役のジュリエット・ビノシュです。映画「ポン・ヌフの恋人」の魅力的なビノシュも今は48歳になっています。原作では令嬢ジュリーは25歳、召使のジャンは30歳ですが、最初は どうしても年上の女性が年下の男性を誘惑しているようにしかみえません。しかし、徐々に自分が芝居に溶け込んでくると、そんなことも気にならなくなりました。ビノシュは控えめな演技で好感が持てます。演出はやや前衛的で、ぬいぐるみのウサギが脈絡なく舞台に登場するのは、(妻によれば)デビッド・リンチの「マルホランド・ドライブ」を思い起こさせるそうです。なお、舞台はシリアスな展開なのですが、面白くもないところで、しばしば笑いが起こるのが解せません。また、信じられないことに、この著名な戯曲のあらすじさえ知らないで観にくる客が多いらしく、物語の展開にいちいち驚きの声が上がるのも呆れるというか、羨ましくも感じます。もっとフランス語を正確に聞き取れれば、私も予習せずに素のままでどっぷりと芝居を楽しめるのにと思いました。実際はまるごと暗記するぐらいフランス語の台詞を読み込んで、やっと舞台についていけるほどなのですが。

   ところで、この劇は、原作者の意向で幕間休憩というものがなく、1時間50分ぶっ続けです。ストリンドベリによれば、自分の目的は観客を教育することにあるので、途中で休んでしまうと、観客は作者の催眠術から逃れてしまう可能性があるというのです。全く愚かな考えで、白いタオルを頭に巻いて客の食べ方を監視している頑固なラーメン屋の主人を思い起こさせます。映画と違って観劇は神経を集中させるので、幕間のロビーで飲む一杯のワインやリキュールはこの上ない楽しみでもあるのです。休憩がないために、辛抱強い妻も途中で疲れて眠そうになっていました。

   問題の「令嬢ジュリー」ですが、あらすじは簡単で、貴族の令嬢がその館の召使の男に誘惑されて破滅していく話です。この芝居の価値はその徹底した自然主義にあると言ったらよいでしょうか。自然主義とは、もともとフランス文学で発達したもので、自然の世界の弱肉強食や適者生存が人生にもあてはまるという思想です。日本ではなぜか自分や社会を暴露的に描写する手法とみなされましたが、元来は世界を美化せず、科学的合理的に捉えていく考えです。ストリンドベリは、人間関係、とくに男女の関係を闘争と捉え、あらゆる術策を労して片方が片方を支配して行く関係と見なしました。こういう世界では、人間相互の細やかな思いやりというものが、嘘っぽく偽善的に見え、利己的で露悪的なものがよりリアルなものと思われるのです。
   わかりやすくその正反対のものを挙げれば、たとえばNHKの朝ドラ「梅ちゃん先生」でしょう。私たちは夫婦でいつも録画して楽しく見ているのですが、なぜ楽しく見ているかというと、これが全くのデタラメなドラマだからです。主人公は誰からも憎まれそうにない性格で、相手の行為を常に善意に解釈し、周囲の人を何とか幸せにしようといつも努力しています。行き違いや無理解や人の死という避けられない出来事さえも、この主人公の愛情によってトラクターのようにきれいに刈り取られてしまいます。むろん、現実にこんな女性がいるはずもなく、こんなに都合よく振り回される周囲の人たちも存在しません。まさに、それゆえにこのドラマは楽しいので、明るい液晶画面のこちら側には容赦してくれない過酷な現実があります。私たちは、朝から軋轢に溢れた現実と向き合うことを嫌い、進んで幻想に身を預けて一時を楽しむのです。

   ストリンドベリの活躍した19世紀後半も、軽い喜歌劇や軽演劇がベルリンやパリの巷に溢れた時代で、それは古典主義の窮屈な悲劇や歌劇に飽き足らない観客、つまり現実には金銭がすべての支配者である毎日を送るブルジョアジーの全般に大いに歓迎されました。人々は現実を適度に混じえながら、たっぷり幻想をふりかけた出し物を要求していたのです。ストリンドベリは幻想にたぶらかされることを極度に嫌う男で、現実をさらに先鋭化して示すことで、メロドラマに慰安を求める大衆の根性を叩き直そうとしたのです。その思想の要諦は「令嬢ジュリー」のフランス語版に付された序文によく表されていますが、この序文こそ、その明晰さで世界文学史上屈指のものであると思います。

   どの時代でも人々の感情を強く動かす出来事はある階級の没落、あるいは支配するものと支配されるものの逆転による悲劇です。このようなことは、心弱い観衆の気持ちを逆なでするが、しかし、なぜそれを力強い自然の営み、ヒルが水牛を食い殺すようなダイナミックな人生の活き活きとした営みと理解してはいけないでしょうか。自分はそこにこそ、自然の、いや人生の面白さがある、とストリンドベリは言っています。つまり、令嬢ジュリーの転落と使用人ジャンの勝利は、その過程において、それを自然主義的に描写できさえすれば、多大な興味を有した人間劇を展開しうるわけです。
   その描写方法も問題です。登場人物の行動にはさまざまな理由があり、ひとつの理由に絞ることはできないのは、現実世界における私たちの行動と一緒です。ジュリーの転落は、母親への憎しみかもしれないし、父親への同情、あるいは祭りの夜の高揚した気持ち、または単なる気まぐれか、それらのどれでもないかも知れません。どちらにしても、ある理由に納得して、登場人物を現実の人間よりも単純なものとみなし、高みの見物のままでいることは許されません。私たちは、登場人物の不安の只中にいて、まさにその不安そのものとなるのです。

   さらに、ストリンドベリはその考えを徹底するために、登場人物(この劇ではわずか三人)を無性格な人間として措定します。彼によれば、性格とは進歩を忘れた人間の残骸であり、あるいはパターン化された人間、かの偉大なモリエールも陥った人間の単純化です。ある登場人物の行動は、彼の性格によるのでなく、もっと複雑で様々な要因によるのであり、人は場合によっては自分の「性格」に逆らって行動することさえあるのです。

   このように「令嬢ジュリー」は意欲的で難しい芝居であるが、美しい貴族の令嬢の華やかさ、軽妙で密度の濃い会話と、前半と後半の緊迫感の落差とスピードによって、見るものを十分に楽しませます。ジュリー役のジュリエット・ビノシュですが、彼女の魅力は美しさはもちろん、その知的な軽さ、親しみやすさにあります。パリの芸術的な家庭の出で、演劇学校(コンセルヴァトワール)を出たあと、ヨーロッパの映画賞をほぼ総なめにして、『イングリッシュ・ペイシェント』でアカデミー賞も取りました。面白いことに、スピルバーグから『ジュラシック・パーク』のオファーが来た時、彼は女性を深く表現しようとしない監督だからという理由で断ったというのです。これは納得できる意見で、「少年の目で見た驚くべき世界」を撮り続けているスピルバーグにとって、女性が何を考えているかなどはどうでもいいことで、数秒の考慮にも値しません。

   芝居がはねて劇場を出ると、雨はさらに激しく降っていました。サン・トゥスタッシュ教会の日曜夕方の無料のオルガンコンサートに行くために急ぎましたが、リュクサンブールから85番のバスに乗ろうとしたら、何とこのバスは日曜は走ってないのです。そのため、サン・ミッシェルまで歩いてメトロでレ・アールまで行きましたが、寒い雨の中、短くない距離を妻に歩かせてしまいました。すでにオデオン座で、疲れが出て眠そうだったので、また頭痛が出るのではと心配しました。サントゥスタッシュ教会に着くと、すでにコンサートは始まっていましたが、最後の三曲を何とか聴くことができたのは幸運でした。最後の曲はバッハの「トッカータとフーガ」で、巨大なパイプオルガンが石の壁面に反射して、CDでは絶対に味わえない震えるような響きに心を打たれました。終了後にオルガンの写真など撮っていると、教会の人が近寄ってきて、ミサが始まるから写真は撮らないでくれと言われました。それでも、ぐずぐずしていると、奥の階段から鮮やかな水色の祭服を着た司祭が降りてきたので慌てて教会の外に出ました。

   まだ雨がやまず、妻も眠そうですが、お腹も空いたので、メトロで6番線のDuplexまで行って、ビストロCantaine de Troque Duplex に入りました。ここは非常に評判の良いビストロ Cantaine de Troque の2号店ですが、日曜も営業しているので助かります。店内はとてもくつろいだ感じで、まだ7時過ぎで客は少なかったのですが、評判通り、すぐにいっぱいになってきました。店の奥には男ばかり4人の日本人グループが卓を囲んでいましたが、妙に和気藹々な雰囲気で、しかしうるさくなく、微笑ましい感じでした。さて、妻は真ダラ cabillaud を、私はカンテーヌ風サラダを食べました。妻が魚ばかり食べるのは日本では放射能のため魚を食べられないからで、私のサラダは痛風予防のためです。真鱈はほっこりとしてとても美味しい。サラダはアンチョビが辛かったが、野菜をたっぷり食べられました。これにロゼのカラフ(500ml)、ラムの染み込んだババ・オ・ラムとコーヒーで58ユーロは納得できました。サービスは非常に打ち解けて感じ良い、私はこの店がたいへん気に入りました。

   店から次の駅モット・ピケ・グルネルまで歩いて、メトロ10番線でカーディナル・ルモワーヌまで行き、まだやまぬ雨の中、ホテルまでの坂道を上がりました。バスタブにゆっくり浸かって、寝る前のハーブ・ティーを飲むと、妻は疲れてもう瞼があかないようです。私は机の上でノートの整理をしながら、朝にムフタール通りで買ったワインのハーフ・ボトルをあけました。「令嬢ジュリー」について考えていたのですが、それにしてもラストは曖昧で唐突な終わり方で、この作品が世評ほどすぐれているとは思えません。ストリンドベリは猜疑心にさいなまれ、自分が常に騙されているのではと思っていたそうですが、ヘルダーリンやニーチェやヴァルザーほどではないが、精神病者ぎりぎりの哀れな人間だったと思います。狂人がしばしば真実を見抜くように、確かに人生は情け容赦のない冷酷なものかも知れません。シオランもどこかで、男と女はいつでもどちらかが支配しどちらかが支配されるものだ、と書いていました。私もどちらかというと悲観的な人間ですが、それでも、テーヌがメリメについて言ったように、人はしばしば自分の猜疑心にだまされるものだから観念して生きるに若くはないのだと思います。それに、だまされることも大きな快感で、私たちは名状し難い力でそこに飛び込まされていくのです。
   昨日買ったle Magagine Litteraire を開けてみると、ストリンドベリ没後100年ということで、写真愛好家としてのストリンドベリが紹介されていました。25歳から撮り始めたという写真は、彼が感じたいと思っていた世界、彼が打ち立てたいと思っていた真実の世界の仮象だというのです。フランス語の revelateur (現像液)という言葉には、隠れた秘密を明かすという意味がありますが、この作家にふさわしい形容詞ではないでしょうか。

Grandhomme

ホテルの玄関。ジャスミンの柱で飾られています。

Pantheon

パンテオン広場。左がサント・ジュヌヴィエーヴ図書館、右がパンテオン。 

Mouffetard

朝のムフタール通り。冷えるので、妻は白いスカーフを巻いています。

Paper

サン・メダール広場の新聞売り子。サッカーの記事を読むためでしょうか、ひっきりなしに客が来ています。私もパリジャンを一部買いました。

Sulpice

サン・シュルピス教会。光にあふれた荘厳な教会です。

Odeon

オデオン座。開演前の一時。オペラと違って、開演時間ぎりぎりに人が集まってきます。

Odeon0

オデオン座のエントランスと二階のカフェ・バー。

Odeon2

芝居が終わって、雨の中を帰ります。今日が千秋楽ですが、ジュリエット・ビノシュと握手とかはできませんでした。

Photo

サン・トゥスタッシュ教会の日曜夕のオルガン・コンサート。心に響くパイプオルガンの調べ。聴衆は敬虔な信徒と観光客が入り混じっていました。

Julie

芝居のパンフレットとチケットと本。台詞はかなり変わっていました。

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2012年7月13日 (金)

パリ観劇記 第二夜 ヴィユ・コロンビエ座「アンフィトリヨン」

   6月23日(土)
   朝7時、ホテルのすぐ裏のエストラパド通りのパン屋へパンを買いに行ってみると、土曜日だからでしょうか、まだ店を開けていません。それで、サン・ジャック通りまで出て、開店準備中のパン屋で、焼けたばかりのクロワッサンとパン・オ・ショコラを買いました。ホテルに戻ると、妻がコーヒーを沸かしています。テレビで幼児向けのアニメを見ながらパンを食べました。こういうアニメはフランス語が易しいのでよくわかります。日本で、毎週配信してもらっている7jours というフランス語ニュース(完全なスクリプト付き)の難しい聴き取りに苦しんでいる身としては感動するほどです。
   さて、今日の午前中の目的地はギメ東洋美術館です。リュクサンブールまで降りて、キオスクで妻のために二冊の雑誌、Pianisteと Le Magagine Litteraire(今月号はボルヘス特集)を買って、昨日と同じ82番のバスに乗りました。良い天気で、朝の日差しはまぶしいほどです。妻が用意してきたサングラス(ユニクロで980円で買った)は着いたその日に壊れてしまったので、妻は大きな庇(ひさし)のある夏用の帽子を被っています。エッフェル塔の下を通り、セーヌ川を渡ってイエナで降りました。そのすぐ前が特徴ある建物の国立ギメ東洋美術館です。

   受付でパスポートを預けて日本語音声ガイドを借り、展示室に足を踏み入れた途端、巨大なナーガ(蛇神)が私たちを迎えます。ギメの展示がまずカンボジア美術から始まるというのには理由があります。インドシナを排他的に支配してきたフランスは、クメールの地で、生い茂る草の中にアンコールワットやアンコールトムの遺跡群を発見しました。すでに多くの宣教師によって知られていたにもかかわらず、その圧倒的な美の殿堂の価値をみとめ、世に知らしめたのはフランス人旅行家や遺跡学者でした。ほとんど完璧なまでに造形された美は、カンボジアを東洋のギリシアと呼ばせるにふさわしいものとしたのです。今、そのカンボジア芸術の集積は、ブノンペン国立博物館を除けば、ここギメにほぼ独占的に展示されています。

   妻の好みは、カンボジア美術の中でも特にバイヨン様式(12世紀後半から13世紀)にあります。「クメールの微笑」と言われた深い精神性を湛えた表情は、何とも言い表し難い気品に満ちています。これに比べれば、タイやベトナムやビルマの芸術は幼稚であり、偏屈であり、奇矯であるとさえ思えます。インド芸術も奥深いが、その官能性を純化して神秘的領域まで高めたのがバイヨンの各彫像群であると思われます。

   しかし、ギメはいつ来ても空いていて、ゆっくり見ることができます。美術館を出てから、私たちはプレジダント・ウィルソンの通りを、朝市を見ながらゆっくり歩いて、アルマ橋でセーヌ川を渡りました。この橋から見たエッフェル塔もまた美しい。私はエッフェル塔と東京タワーの違いが三つあることに気づきました。まず、エッフェル塔が枯草色の地味な色に塗装されているのに対して東京タワーは紅白の安全色です。次に、エッフェル塔が脚の中を斜めに登るエレベーターによって脚元に広い空間を作り軽さを強調しているのに対して、東京タワーは垂直なエレベーターとそれを収納する無粋なビルを脚元に建て、重い感じになっています。三番目に、エッフェル塔の周りには高い建物がありませんが、東京タワーは首都のビル群に囲まれています。

   ここで、私は東京という街の醜さについて言及しないわけにはいきません。いや、どんな街であれ、美的な自由が許された所は必然的に醜くなるのです。パリの美しさは、その中央集権的な、エリート的な、官僚的なところに依存しているのです。フランスには、歴史的建造物を半径500メートル以内から見る時、その環境を妨げるものが入ってはいけないという条例があります。 また、歴史的建造物から周囲を見渡すとき、半径500メートル以内にその環境を妨げるものが見えてもいけません。だから、ノートルダム寺院やパンテオンやアンバリッドの美しさの大半は周囲の景観によっているのです。これがシャルトルやモン・サン・ミシェルのような地方の建造物になると、半径5キロまで拡大されます。よって、シャルトルの大伽藍はボース平野の真ん中に遥か遠くから見渡すことができるのです。

   街の中でもっとも厳しい規制は広告看板です。原則的には、丸い広告塔やメトロの駅以外は看板はすべて禁止です。特に禁止の強いのは屋上看板で、パリの街の美しさのほとんどはこれに由来します。この規制はフランス人の心性にもあうのか、パリから空港への高速道路から見えるビルの屋上看板は大部分日本や韓国や北欧の企業です。また、商店の外装、特に店名の設置も細かく規制されていますが、歩道に垂直に張り出す四角い看板は、むしろ美的観点から奨励されています。これらを監視する検査官の権威は相当なもので、法的権限は無いが、その勧告はほぼ命令と同一視されるようです。

   街の美しさということに、今回はより強い感慨を抱きました。それは、パリという街に対するいとおしさ、いや人類に対するいとおしさと言ったらよいでしょうか。人間の時代の盛りはすでに過ぎて、未来はとても暗いとしかいえません。人間性の進歩などなかった。いつの時代にも、悲惨な生活と喜びの生活があり、残酷な所業と美しい自己犠牲が、憎悪と慈愛がありました。そして、人間を取り巻く自然環境が確実に劣化していき、過酷な状況を避けられなくなるのですから、明るい未来を望む方が無理というものです。最も美しいもの、貴重なものはすでに出尽くしてしまった、ギリシアの彫刻、カンボジアの彫像、中国の陶器、日本列島の自然、そして19世紀末から20世紀初頭までのパリの街並みの美しさ。今のパリは自動車が溢れていて、通りの美しさは、隙間ない路上駐車に妨げられています。しかし、かつてこのような美しい街があったということは、人類のかけがえのない記憶となるでしょう。果てない宇宙空間を行く惑星探査機ボイジャーには、バッハのブランデンブルグ協奏曲が収められていますが、人類の最後のロケットにはセピア色のパリの写真も収められるに違いありません。

   さて、アルマ橋から数分のサン・ドミニク通りに評判のビストロ、Cafe Constant があります。12時になったばかりですが、もう店は半ば埋まっています。一階の端の席について、妻は thon (マグロ)私は poulet(若鶏)を注文しました。両方とも火の通り方が絶妙で美味しい。特に妻のマグロは苔のような緑色に調理され、野趣をだすように、ズッキーニとニンジンの天麩羅が添えられて、あたかも草庵の前栽の一部を切り取ったかのようになっています。デセールも劣らず素晴らしく、私のプロフィットロールは目の前でチョコレートがたっぷりと注がれました。店は忙しかったが、サービスもたいへん丁寧で好感が持てました。75ユーロとやや予算をオーバーしたのは、ワイン(コート・デュ・ローヌ)のカラフ(500ml)が18ユーロもしたからです。

   また、82番のバスでホテルに戻って、少し休んでから、6区にあるヴィユ・コロンビエ座に歩いて向かいました。リュクサンブール公園の脇を通っていくと、古書店の並んだ中に Jose Corti 書店がありました。ここはジュリアン・グラックの本を一手に出している書店です。余りに地味な書店で、店の前のワゴンには売れ残ったグラックの本が半額で並べられています。フェルー通りを通って、サン・シュルピス通りに入ります。サン・シュルピス寺院の横を過ぎると、そのまま通りはヴィユ・コロンビエ通りになって、劇場はその通りの一番奥にあります。ヴィユ・コロンビエ座 Theatre du Vieux-Colombier はたいへん伝統のある劇場で、1913年にジャック・コポーが純粋に文学的な演劇を目指して開業して以来、世界的に名の知られた劇場になりました。とりわけ、1944年5月、パリ解放目前にサルトルの『出口なし』が上演されたことはどの文学史にも載っています。そして、1989年に、サル・リシュリューに次ぐコメディ・フランセーズの二番目の劇場として衣替えして現在に至っています。

   ところで、この劇場は私には最悪の劇場でした。狭い通りに面した狭い入口、開園までの時間を潰すのは、細長いセルフサービスのカフェテリアのみ。しかも妻はそこのチーズケーキが口に合わず、気分を悪くしてしまいました。ぎりぎりに開場すると、ロビーなど狭過ぎてないも同然です。客席は、昔の本八幡駅前にあった小さな映画館を思い出させるもので、通路もない20ほど並んだ席がびっしりと置かれているだけです。席に座ると、もう動けない状態で、トイレに立つときは10人くらいの人を立ち上がらせないといけません。私にはこの劇場の圧迫感は堪え難いものでした。妻もドレスコードを誤って当惑しています。きちんとした格好をして来たものの、客は皆ふつうの服装、というよりさらにくだけた感じで、Tシャツ、パーカー、ジーンズ、さらに作業着の人さえいます。同じコメディ・フランセーズとはいえ、サル・リシュリューとはずいぶん雰囲気が違います。なお、席は前から三番目の真ん中(29ユーロ)という最高の席ですが、むしろ、もっと端で後ろの方がのんびり見れたと思います。

   コメディ・フランセーズでモリエールを観たいと以前から思っていたので、チケットを手配すると、早速シナリオを注文しました。ところが、「真珠採り」の歌詞は一日で読んでしまえたのに、モリエールは難解でなかなか読めません。ラルースの学生版なので17世紀当時の言い回しにはちゃんと注釈がついているのですが、それでもスムーズに訳せず、悪戦苦闘してプロローグと第一幕は読んだが、二幕三幕は図書館でモリエール全集をコピーしてきて対照しながら読みました。一ヶ月かけて三回読みましたが、自分の読みの勘違いが多く、翻訳者というものはやはり上手いものだと感心しました。いよいよ、幕が開き、メルキュールと夜の神が出てくると期待は高まります。家来のソジが演じる一人芝居は劇場爆笑の連続でした。私は、あれほど苦労して読んだ台詞が、いとも簡単に次々と語られて行くことに、何か言いしれぬ虚しさを感じました。なお、この芝居は幕間の休憩がなく、二時間以上ぶっ続けなので、疲れた私は二幕の途中から眠り始めました。初日の睡眠不足と時差の疲労が一気に出て、人生でこれほど眠さを感じたことはありません。何度も妻に起こされ、ちょうど十分ごとに早送りできる録画を見ているように、場面はとびとびですが、あらすじを熟知しているので、何とか芝居をフォローすることはできました。

   ここで、演し物について説明しておきます。今夜の演目はモリエールの「アンフィトリヨン」(三幕)で、あまり有名ではないが、話はなかなか面白い。ジュピターは、絶世の美女アルクメーヌに恋するのですが、夫である将軍アンフィトリヨンを愛する貞淑なアルクメーヌには一部の隙もありません。しかし、どんなことをしても好きな女性を手に入れてきたジュピターは諦めずに一計を案じ、アンフィトリヨンが戦地に赴いている間に自分はアンフィトリヨンに成りすまして、一夜をともにすることに成功します。それと知らずに戦地から帰還した本物のアンフィトリヨン、しかし、妻のアルクメーヌとはどうも話のつじつまが合いません。すれ違いのドタバタ芝居の最後に、本物と偽物のアンフィトリヨンは鉢合わせすることになります。偽物は、自分がジュピターであることを告白して、「ジュピターと(女を)共有できたことを名誉に思え」と言って天空に帰ってしまいます。
   このジュピターとの一夜によって産まれたのがヘラクレスで、彼はジュピターの正妻ヘラに憎まれて一生苦労することになります。ところで、この話にはいろいろ面白い要素が詰まっています。まず、これは虚栄心の強いフランス人のもっとも忌避するcocu 寝取られ男の話であり、また、もう一人の自分と相対するドッペルゲンガーの話でもあります。後のクライスト『アンフィトリヨン』やジロドゥ『アンフィトリヨン38』では(読んでいないので推測ですが)、ジュピターの気紛れによって操を喪ったアルクメーヌと妻を寝取られたアンフィトリヨンの人間的苦悩を描いているのでしょうが、私にはモリエールの主眼は、むしろジュピターの苦悩にあると思います。ジュピターとは人間でいえばカザノヴァ的で、肉体的な愛を優先します。というより、狙った相手の肉体を享楽するためなら手段を選ばず、牛にも蛇にも白鳥にも変身するほどで、この場合も夜の神に頼んで夜の時間を普通より長くしてもらうようなせこい男です。ところが、新婚熱々の時期を利してその夫に変身して思いを遂げたものの、アルクメーヌが情熱的になればなるほどジュピターは嫉妬にかられます。ジュピターであるがゆえに、すべては思い通りになるが、唯一愛されることだけはないのです。

   しかし、劇の主役はアンフィトリヨンでもアルクメーヌでもジュピターでもなく、家来のソジという男です。ソジは庶民であり、悲劇的な運命に翻弄されるなどということはなく、物事をまず自分の卑小な生活をもとに考えます。戦場の勲功ばかり考える男(アンフィトリヨン)、夫に愛されることばかり考える女(アルクメーヌ)、人の妻ばかり狙う男(ジュピター)、これら大真面目でそれゆえに滑稽な登場人物と違って、ソジは足が地についた冷徹な観察者です。そして、これがルイ14世とその宮廷生活に対する庶民の興味を代弁しているのです。ジュピターはそのままルイ14世なのですが、宮廷劇作家であるモリエールが庇護者であるルイ14世を揶揄できるわけはありません。しかし、この舞台はお咎めなしに29回のロングランに成功しています。モリエールはいつもよく分かっています。「女店員がロールスロイスの所有者と結婚するということは、実際にはほとんどあり得ないであろう。しかし、女店員たちがロールスロイスの所有者との結婚を夢見ているということが、ロールスロイス所有者たちの夢なのだ」(ジークフリート・クラカウワー)つまりモリエールは、貴賓席にいる王侯貴族から天井桟敷の庶民までを満足させるという離れ業をいとも易々とやってのけるのです。

   芝居がはねてから、サン・シュルピス通りをまた歩いて帰りました。すでに10時を回っているのに空にはまだ薄明かりが残っています。リュクサンブールの交差点にはマクドナルドとクイックというハンバーガーの店が競うように向かい合っていますが、どちらも客が入っています。パンテオンへと続くスフロ通りのカフェも満員で、大きなテレビを備えたカフェには、まだ終わったばかりのEuro2012準々決勝フランスースペイン戦の余韻が残っているようです。私たちはスフロ通りのアイスクリーム屋で3.5ユーロのアイスを二つ買いました。店員のイタリア人女性はたいへん親切で、三種類のアイスを山盛りにしてくれました。ちょうどホテルの前まで来ると食べ終わりましたが、ホテルの玄関の前に置かれた二本の大きなジャスミンの花で作った飾りが、夜の広場にこの世ならぬ強い香りを放っていました。

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世界有数の東洋美術コレクションを誇るギメ東洋美術館。

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カンボジアの女性像。ジャアヴァルマン7世の妃とも言われています。ギメのカタログの表紙を飾るこの坐像はバイヨン期を代表する彫像の一つ。感情の全表出を特徴とするインド美術に対して、ここには悲哀、喜び、苦痛、希望さえもが深い内面をうかがわせる微笑の中に溶け入っています。心を奪われるほどの写実性の中に、私は何か救いのようなものを感じるのです。

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ブッダ、後期バイヨン様式。怒り、激情、諦念、すべてを経験して至りついた悟りの表情を、これほど説得的に造形し得たことは驚きです。すばらしい彫像です。

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バイヨン期には、仏教とヒンドゥー経が穏やかに共存していました。シヴァ神が妻になるパラヴァティを試しています。右はバラモンに仮装したシヴァがパラヴァティによからぬことを吹き込んでいますが、中央上のパラヴァティは両耳を塞いで聞き入れません。左は正体を現したシヴァに、テストに合格したパラヴァティが恭順を示しているところ。何と活き活きとした浮彫りでしょうか。

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日本室にあった埴輪。妻によれば、この時代から日本人はかわいいものが好きだったそうです。この三頭身の馬の埴輪は、細かく装飾された馬具が愛らしい。

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アルマ橋からエッフェル塔を撮影。1898年の建造以来、この風景はほとんど変わっていないはずです。右の橋はイエナ橋。6月の緑と豊かなセーヌの流れ。

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カフェ・コンスタンの洗練されたマグロ料理。典型的なビストロ料理とは全く違っています。

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ヴィユ・コロンビエ座の正面。パリジャンが気軽に観に来る劇場ですが、私には窮屈すぎて苦しい劇場でした。

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2012年7月 7日 (土)

パリ観劇記 第一夜 オペラ・コミック座「真珠採り」

   6月22日(金)
   朝の6時、飛行機はシャルル・ドゴール空港に無事着陸しました。到着一時間ほど前から妻は能面のような白い顔をしています。表情のないのは偏頭痛がひどいからで、気圧の変化で必ず体調を崩すのは、いつものことで仕方ありません。よろよろと席をたって、迷わないように日本人客の後について通路を進むのですが、途中トイレに立ち寄ってけっきょく日本人の列を見失ってしまって焦るのも毎度のことです。ようやく入国カウンターに辿り着いて行列の後ろに並びました。スムーズに前へ進んで行ったのですが、私たちのすぐ前の若い日本人男性が、係官に向かって「何言ってるか、わかんねえよ」と叫んでいます。それでも何とか通過できたのですが、私にはこの青年の気持ちがよくわかります。東洋人にも容赦なく早口で質問する空港警察の係官も問題ですが、実はこのような短いしかし重要な質問というのが最もわかりにくい。日本語でも咄嗟の質問は聞き取りにくいのにましてやフランス語です。切れてしまって日本語で叫ぶのもやはり辛抱がないが、私はこんな場合、つぎのように思うことにしています。つまり、フランスに来た以上、どんな人間も、子供でも老人でも警官でも私たちのフランス語の教師である、彼らの仮借ない早口や、慇懃無礼な挨拶や、気取りのない問いかけも、パリという「学校」で私たちに課せられたさまざまなトラップ、いや小テストなのだと。それがまた、英語圏でない国を訪問する醍醐味でもあるのですが。

   流れてくる荷物を受け取って、エールフランスのリムジンバス乗り場に来ると、もう7時半です。機内で服用した薬が効いてきたのか、妻は大分元気になりました。ところが、外の寒さ(12℃)に触れた途端、今度は私の具合が悪くなりました。例によって吐き気と腹痛です。旅の初日はいつもこの二つに苦しみますが、特に今回は、初めての羽田発の深夜便パリ行きで、機内で熟睡できない私には責苦でした。リムジンバスをパリの外れのポルト・マイヨーで降りて、ホテル近くに行く82番のバスの停留所を探している間、苦しみは頂点に達します。旅に出てきたことへの後悔、無事帰れるかという不安、脱出できない困難の中にいるという気持ち、それもいつものことなのですが、今回はさらに絶望的なものでした。おまけに、大きなホテルが林立し車やバスが行き交う朝のポルト・マイヨーの排気ガスまみれの空気を吸うと、吐き気が胸上まで上がってきます。やっとバス乗り場を見つけて、都合よく来た82番に乗ると、空いている席は私の苦手な進行方向逆向きで、急ブレーキでもかけられたら嘔吐しそうで心配です。

   82番のバスは、セーヌ河をイエナ橋で渡り、エッフェル塔の真下をかすめます。私はエッフェル塔に登ったことがなく、こんな近くで見るのさえ初めてですが、彫刻のようなレースのような軽やかな造り、とてもセーヌ河の川底深く足を食い込ませて支えているとは思えません。バスは塔から離れながら、なお美しい肢体を存分に窓の外に見させてくれます。不快感は依然として続いていましたが、6月のパリの爽やかさが一瞬吹き抜けたように感じられました。次にバスはエコール・ミリテール(陸軍士官学校)の横を通り過ぎて、ついにアンバリッド(廃兵院)のドームの真ん前にたどり着きます。朝の陽射しが金色のドームに反射して、きらきらと弾けるようです。この中に安置されている巨大なナポレオンの柩を見た時の衝撃はまだ忘れられません。さらにバスは典雅なサン・フランソワ・グザヴィエ教会の前を通り、モンパルナス駅前で多くの客を降ろしてから、クーポールやカフェ・ドームの並ぶモンパルナス大通りを過ぎるとスタニスラス通りの狭い路地裏に躊躇なくすべりこみます。公園の若葉が道に張り出している緩やかな坂道を上り切ると、そこはもう終点のリュクサンブールです。「大丈夫だった?」とすっかり気分が良くなった妻が聞いてきます。「治ってきたよ」と言って、バスの低いタラップを降り、サン・ミッシェル通りに立つとようやく異国の地の興奮が湧いてきました。目的のホテルは、そこからすぐ近くのパンテオン広場に面した前回と同じHotel des Grands Hommesです。

   チェックインは2時なので、それまで荷物をレセプションに預け、疲れた体をカフェにでも入って休ませることにしました。すぐ近くのソルボンヌ広場のカフェ・エクリトワールに入ってコーヒーとサラダとパンの遅い朝食を済ませましたが、のんびりしていると、ランチの準備でカフェが慌ただしくなったので、出てきました。時間潰しにサン・ミッシェル界隈の古本屋を覗いてみようとしましたが、私がVignes書店で懸命に均一本を漁っていると妻は店の外で退屈そうにしています。それで、歩いて遠くないヴァル・ド・グラースに行くことにしましたが、着いてみると何と鉄の門は閉ざされています。ホテルの方に向かって歩いていくと、ランチの時間だからでしょうか、どの店も学生でいっぱいです。すぐそこにあるフランス最難関の高等師範(エコール・ノルマル)の学生たちも混じっているのでしょう。私たちは、もう眠いし、足も疲れたので、ホテルのあるパンテオン広場にあるサン・テティエンヌ・デュ・モン教会に入って休むことにしました。教会は涼しいので一時休憩するのには最適です。この教会は、15世紀から建築が始められ、その時代時代の様々な様式と好みが混交しながら調和している稀有の建物です。マルク・フュマロリは名著『文化国家』の中で、「混交の中の調和」というもっともフランス的な伝統の見事な具現化をこのサン・テティエンヌ・デュ・モン教会に見出しています。
   
   2時になったので、チェックインして入室。部屋は6階で屋根裏部屋なので天井が斜めになっています。窓を開けると、パンテオン側ではなく中庭に面していますが、その分、夜は静かそうです。ベッド、風呂場などは申し分なく、ハイシーズンの今ではこれで十分でしょう。観劇のある夜まで仮眠をとる予定でしたが、トランクを開けて荷物の整理などして、お茶を沸かして飲んだりしているうちに夕方になってしまいました。今回の旅行は、いわば、あの3月11日の大震災がもたらしたようなものです。あの日以来、妻は心身ともに疲れること多く、仕事も休みがちになっていました。放射能汚染への恐怖が、政治やメディアへの不信と重なって、毎日の生活を暗くしていました。妻が東日本の生産物を食べないようにしているので、仕事の帰りに食材調達を担当している私は、しばしばスーパーの野菜売り場で買うものがなくて叫びたくなったものです。そんな時に、妻がエールフランスのサイトで10ヶ月も先の安い航空券があると言い出しました。むろん、パリ直行便です。今は旅行よりも、落ち着いた生活を取り戻すのが先だと思っていた私は最初反対しましたが、よく考えれば、この旅行が妻にとって格好の気分転換になるのでは、と思い承諾しました。その効果は望外で、チケットを買い、ホテルを予約すると、妻の生活は一変しました。オペラの日程を調べたり、パリで着る洋服を買い始めたり、フランス語の勉強を再開したり、それまでと打って変わって毎日は明るく刺激に満ちたものとなりました。さすがに年が明けると準備疲れが出て、私などは、もうどうでもいいやと思ってしまうのですが、春が来て夏が近づくと一気に緊張感が高まってきました。(もっとも私の準備といえば、パリのビストロの評判を調べたり、バス路線を覚えたりの他には、毎日France Soirのサイトを熱心に読んだくらいでしたが)

    さて、初日の観劇はオペラコミック座で夜7時半開演のビゼーのオペラ「真珠採り」です。メトロでオペラまで行き、オペラ座前のカプシーヌ大通りを東に歩いて、少し引っ込んだところにあるオペラコミック座に到着しましたが、40分も前に着いたので、まだ開場していません。残念なことに劇場の正面は全面工事中で、瀟洒なファサードを見ることはできませんでした。コミック座前の広場の向かいの建物には「椿姫」の作者デュマ・フュスがここで生まれたことを示すプレートが掛けられてありましたー。すでに観劇の人たちが広場にたくさん集まって、それぞれ立ち話などをしています。シナリオや歌詞の書かれたコピーを熱心に予習している人もいます。驚いたことにほぼ全員が中高年で、皆がみな楽しそうな顔をしています。服装もオペラ座ほど派手ではないが、日常よりややおしゃれな出で立ちです。開演20分ほど前にやっと開場しました。ロビーも廊下も客席もオペラ座をコンパクトにしたような親しみのもてる劇場です。このオペラコミック座は、たいへん伝統のある劇場で、ビゼーの「カルメン」の初演もここで行われました。

    私たちの席は、Paradis、つまり天井桟敷のさらに一番高いところ、わずか6ユーロ(600円)の席で、しかも左端と右端に離れて座らなければなりません。なぜこんな席になったかというと、オペラコミック座のチケットの売り出しは早く、すでにこの二つの席しか残されていなかったからです。左の一番高い六階まで登っていくと、座席係りが私のチケットを見て、一番上の一番端の席まで案内してくれてそこにプログラムを一枚置いてくれました。それで、私がそこに座って開演を待っていると、中年の婦人が来て、私の席を指さして何か文句を言っています。何を言っているかわからなかったが、私の座席の番号を見ると9と書いてあります。え、と思ってチケットを見ると10番ではありませんか。でも10番の席はないのです。それで、座席係の人に聞いてみると、早口で説明するのでよくわかりません。どうもそこが10番でいいらしいのです。私が不満顔でまた階段を上っていくと、後ろから「ミスター、ミスター」と追いかけてきて、やさしく私の手をとってそこにさっきもらったばかりのプログラムをまた握らせてくれました。

   席に戻ってみると、私の席に婦人のものらしい白いショールがかけてあります。それを横の席に放り投げて座ってしまいましたが、先ほどの婦人はどこに行ったか姿が見えません。開演間際にどっと人が入ってきて、天井桟敷は満員になりました。見ると先ほどの婦人は天井桟敷の一番下の階段に座っています。始まってみるとわかったのですが、この席からは歌手の頭すら見えません。だから一番後ろの席の人は階段に座ったり立ち見をしているのです。席の番号など全く意味がありません。私も第一幕は立ち見をしていましたが、幕間の休憩に下まで走っておりて、一番右端まで駆けて、また上まで上がって妻の席まで行ってみました。何と妻は前の席に空きがあったのでそこに座っていると、さらに前の席が空いたのでちゃっかりそこにすわっています。両方ともとても見やすく、二幕、三幕はそこに縦に並んで座って観ました。このオペラコミック座はオペラ座より狭いが、音響は素晴らしく、舞台も見やすい。これでチケットが6ユーロ〜110ユーロというのは信じられない安さで、すぐに売り切れるはずです。

   ところで、肝心のオペラ「真珠採り Les Pecheurs de Perles」ですが、これは「カルメン」ほど華やかでないが、美しいメロディーが宝石箱のように詰まったすばらしいオペラです。数々の魅惑的な調べの中でも特にナディールが歌う「耳に残るは君の歌声」は、アルフレッド・ハウゼ楽団の編曲により「真珠採りのタンゴ」として、コンチネンタル・タンゴの名曲となりました。物語は、これまたよく出来ていて、なぜ映画化されないか不思議なほどです。舞台は英国統治前のセイロンのある島、真珠採りを生業とする部族が、ズルガという新しいリーダーの誕生を祝って踊っています。まったく都合よく、そこにズルガの親友だったナディールが長い旅から帰ってきました。二人は、昔、レイラという美しい女性をともに愛した為に、友情が壊れることを恐れたナディールが自ら行方をくらましたのです。密かにナディールを愛していたレイラも姿を隠しました。ズルガとナディールは再会を祝って歌を歌いますが、またまた都合よく、巫女を乗せた船が島に近づいて来ました。この島では毎年、海が穏やかであることを祈って、巫女に歌を歌わせるのです。巫女の歌声を聞いたナディールは、その巫女がレイラであることに気づきます。ヴェールの下から、レイラもナディールに気がつきます。そこに神官ヌーラバッドが現れて、レイラに、決してヴェールを取らないこと、決して身を汚してはいけないこと、そうでなければ死ななければならない、と厳命します。レイラは、ヌーラバッドに子供時代のある出来事を語って、自分がいかに約束を守る意志の強い女性であるかを強調します。この話がこの物語の急所になっているのですが、それは次のようなものです。レイラがまだ幼かった時、ある男が敵の部族から追われてレイラの家に逃げ込みました。レイラは彼の身を隠してやり、追手の追求にも口を割らなかったのです。命を助けられた男は感謝と思い出のために真珠の首飾りをレイラに渡します。

   二幕から話は急展開します。寝所で休んでいるレイラのところにナディールが忍んできて、愛し合う二人はついに結ばれてしまいます。ところが、それが島の人に目撃され、二人は神官ヌーラバットにより死を宣告されます。レイラはズルガに会って、ナディールだけでも命を助けて欲しいと懇願します。親友の身を案じていたズルガは、しかし、ヴェールを取った巫女がレイラであることを知って嫉妬にかられて二人の処刑を認めてしまいます。ここで、深い人間的真実を覗かせる場面が展開します。レイラがズルガに、なぜナディールだけでも助けられないかと質問するのですが、ズルガは、自分もレイラを愛しているのだ、と告白します。それを聞いてレイラは深いため息とともに、すべてを諦めるのです。なぜなら彼女は、男の嫉妬に抗うことなぞできないことをよく分かっているからです。レイラは処刑の前に、身につけていた真珠の首飾りを、後で母親に届けて欲しいとズルガに頼みます。その瞬間、ズルガは、彼女こそ昔自分を助けてくれた少女であったことを知るのです。ズルガはレイラとナディールを逃がしてやり、村に火を放ち、ヌーラバットは村人にズルガを逮捕し処刑するよう命令します。

   ビゼーは、まさに天才であり、25歳の時のこの作品も、出だしの緊迫感溢れた音楽から最後の急展開まで観る人を全く飽きさせません。登場人物の四人(ソプラノ、テノール、バリトン、バス)はみな初めての名前ですが、聞き応えは十分でした。フランス放送交響楽団の演奏も評判通りです。惜しむらくは、日本人笈田ヨシの舞台演出です。場所はセイロンなのに、沖縄の漁民をイメージした貧乏臭い衣装で、レイラは何と平安時代の白い旅装束で現れます。ヴェネツィアのフェニーチェ歌劇場はこのオペラの1・2幕をネットで公開していますが、それはインド風の衣装でレイラも妖艶に踊ります。セイロンという場所と物語から私たちが普通に連想し期待するのはこのようなものではないでしょうか。ともあれ、これは普遍的な愛の物語で、ゲーテやシャトーブリアンやドラクロア同様、異国の姿を借りてのみ表現できた素朴で直接的な愛の物語です。

   終演後、人々が劇場の外に出て行く時、それは余韻に満ちたすばらしい時間です。友人たちと語らいながら、あるいは一人物思いに沈みながら、人の波はファヴァール街からイタリアン大通りへと興奮のさざ波を運ぶように散って行きます。見たところ、ほとんどが地元のオペラ好きの人々で、観光客らしき姿は見あたりません。駅に続く大通りはカフェが歩道まで張り出していて、金曜の夜の喧騒が最高潮に達しています。メトロでカーディナル・ルモワーヌまで帰り、コントルスカルプ広場を通ると、飲み終わった学生の集団がざわざわと騒いでいます。ホテルにもどると、もう12時近い。朝からパンとサラダしか食べていないので二人ともお腹が空いてきました。旅行鞄に飛行機の中で食べようと持って来た不二家のカントリーマアムが残っていたので、二つずつ食べました。潰されてボロボロになっていましたが、不思議なことに何となくパリの味がするようです。

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狭いヴァル・ド・グラース通りから見たVal de Grace 教会堂。1645年、ルイ13世の妃アンヌがルイ14世誕生を感謝して建てたもの。

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サン・テティエンヌ・デュ・モン教会。三層になったファサードはとても優雅。前にある彫像は劇作家コルネイユ。

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透かしのあるジュべが何とも美しい。

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オペラ・コミック座の向かいの建物に張られたプレート。『椿姫』の作者デュマ・フィスは1824年ここで生まれました。パリではいたるところにこのようなプレートが張られています。

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オペラ・コミック座のエントランス。開場を待ちかねた人々が続々と入ってきます。

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コミック座のロビー。開演前にすでにシャンパンを飲んでいる人もいます。

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幕間のくつろいだ客席。ここが天井桟敷で、オーケストラが遥か下に見えます。しかし、歌手の歌声はむしろ下よりも響くようです。非常に好ましい劇場です。

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