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2011年12月18日 (日)

藤原保信『ヘーゲル政治哲学講義』(1)

2011年も何とか年の瀬までたどりつきました。今年は春の終わりから冬にかけて、九州、四国、関東で知人や親類が亡くなりました。その中でも、暑い夏のさなかに起きた実兄の急死は私の心に大きな衝撃をもたらしました。このことは、できれば早い時期に記事に書きたいと思っています。12月の初めに、母の33回忌、父の27回忌の法要があって、思えば速い 時間の流れに感慨深いものがありました。大震災の記憶もまだ生々しく、重い心はまだ癒えませんが、ブログを続けられるほどの穏やかな日常に感謝したいと思います。

さて、久びさのブログ更新は、何とも硬い本、藤原保信の代表作ともいえる『 ヘーゲル政治哲学講義』(1982御茶ノ水書房)です。藤原は1994年に58歳で骨ガンで急逝しましたが、その遺作となった『自由主義の再検討』(1993岩波新書)で、自分の立場を表明して、マイケル・サンデル、チャールズ・テイラー、アラスデア・マッキンタイアなどいわゆるコミニュタリアンたちに同調せざるをえないと書いています。それについては、別に一書を著すと記していましたが、今ではそれもかなわぬ夢となりました。

ところで、彼のこの立場は、私にとって、納得できるが、また不満も残ります。コミニュタリズムについての解説は私の手に余りますが、要約めいたものを記しておきましょう。それは、1971年のロールズの『正義論』の刊行に始まります。ロールズらリベラリストといわれる人達は、ベンサム以来の「最大多数の最大幸福」という暗黙の了解になっていたクレドに挑戦しました。自由意志を持った多数 の人間が互いに自己主張し合う社会では、「最大多数の最大幸福」というスローガンは直感的に正しいように思えます。多数決で不本意な意見が通ってしまっても、じっと我慢してしまうのは、より多数者の幸福を優先しなければならないという考えに律儀に納得するからです。これは、いわば、将来のために誰かが最初に我慢するという考えで、その根底には、社会は今すぐには全員を幸福にできないが、将来的に見た場合、社会の成員全員に幸福が行き渡るのだという幻想が横たわっています。これが、今の快楽を我慢して、将来のもっと大きな快楽を目指すという個人の貧相な欲望に根を持っていることは疑いありません。しかし、個人のレベルでは共感せざるをえないものの、十分大きな共同体ではいくらでも欺瞞が可能です。約束の幸福を先送りにして、現在の幸不幸の割り当てを半永久的に固定しようとするのです。空港やダムをつくるために立ち退きを強いられる人達は、経済的には等価交換に似た補償が提示されますが、故郷を去るという現実をどのような倫理的根拠で受け止めるべきなのでしょうか。

リベラリストたちは、この前提となっている幸福の定義に疑義を挟みます。ベンサムにとって幸福とは快楽の総数が苦痛のそれを上回ることにほかならず、その快楽自体は、古の哲学者たちがもっとも下位においた物質的欲望に他なりません。観相的・瞑想的幸福やポリスの政治に参加することの幸福は、啓蒙の進展とともに、あるいは中世的封建経済から近代資本主義への変遷とともに失われて行ったのです。むろんこのことは宗教的、階級的桎梏からの解放に他ならず、個物を個物として見るという科学的思考の侵入のやむを得ざる結果と言えましょう。マッキンタイアは、このような思考のもっとも強力な指標を、ルターとマキャベリに見ています。ルターは、あらゆる宗教的拘束を取っ払って、一人の個人を神と相対させました。「ルターが個人とは何であるかを説明しようとするとき、彼は、あなたが死んだら死ぬのはあなたであり、誰一人あなたの代わりに死ぬことはできない、ということを指摘することで説明する」(マッキンタイア『西洋倫理学史』深谷昭三訳・以文社)

一方、マキャベリは俗界のルターで、個人が個々の選択や目的において全く自由なのだから、道徳的規則は人間が多少とも堕落しているという前提で作らねばならないと考えました。このような人間本性への覚めた見方は、ポリスの衰退を生き抜いたプラトンやアリストテレス同様、列強からの外的脅威にさらされたフィレンツェに生きたマキャベリに特有のものであったとマッキンタイアは書いています。「絶え間ない変化の時代に生きてマキャベリは、政治的諸秩序の儚さを理解したし、しかもこのことこそが、人間本性の永遠に対する彼の訴えを、かくも印象的なものたらしめたのである。」そして、個人が究極の単位であり、権力が人間の究極の目標であるとしたら、これを普遍的人間の哲学として確立できる思想家の登場が待たれたのも当然でしょう。

この希望はホッブズにおいて十全に満たされました。ホッブズこそ、人間の条件とその運命を根底から考えようとした思想家でした。ホッブズは、まず原初世界を想定して、そこでは人間は限りなく自由で平等であると言います。 「まず、平等ということに関していうならば、そこにおいていかに力の弱い者といえども、もっとも力の強い者を殺害しうるだけの肉体的能力をもち、精神的能力においてはその平等はさらに大きい。そして自由ということに関していうならば、そこにおいて各人は、自分自身の判断にしたがって自分自身の生命の保全のためにいかなることもなしうる。ホッブズが自然権とよぶのはまさにかかる 自由のことである」(藤原保信『自由主義の再検討』)魂にはある種の内的秩序があるとしたプラトンやアリストテレスとの違いはここにあります。ホッブズのように、人間を魂の卓越性においてでなく、欲求と嫌悪によってとらえる限り、人間は限りなく平等であり、自然的優劣は生じようがありません(肉体的優劣は狡知によって十分に補填できる)。

かくして「死ぬまで止まない永続的な欲望」に支配された人間同士が共存する世界は、「万人が万人の敵である」情け容赦のない世界となります。「至福」はここでは最終目標ではなく、それはさらに多くの欲望に挑むきっかけにすぎません。人間を支配するものは他の人間に勝りたい、追い抜きたい、一位になりたいという願望ですが、この「誇り」は裏側に恐怖を宿しています。すなわち、追い抜かれる、打ち負かされるという恐怖です。それは究極的には不名誉な死への恐怖に収斂するのですが、ここに理性の計算が働き、平和の戒律である自然法(平和のために自己保存としての自然権を一部放棄すること。汝の欲せざることを他に施すことなかれという規範)が作り出されるのです。いわば、妥協の産物として作り出された自然法ですが、二度と終わりなき闘争に立ち戻らないために、それが永続的に維持されるべき方法を考えねばなりません。ホッブズの偉大なところは、自然法の発見の後も利己的な人間本性は変わらないと考えた点で、ここに強力な国家の出現が要請されるのです。人間とは長期的には互いの利益になるとわかっていても、短期的には自分自身の利益のために容易に自然法を侵すでしょう。いや、利益にならなくとも、侵すことを目的とするのが人間というものです。「あなたの楽観主義を考え直してください。悪のために悪をなすことほど人間にとってありふれたことはありません」と、メリメは不用心な女友達にあてた手紙で書いています。

ロックやルソーの考えと比較してみましょう。ロックは、自然状態でも一種の自然法の存在を認めましたが、これは彼が人間の知性の優位を信じていたからで、人間は欲望に翻弄されながらもそれを統御し得る存在であるという確信、それは神の造ったこの世界が無目的に無意味に放置されるはずがないという確信から来ています。(それに対してホッブズは、世界の第一原因としてのみ神をみています)一方、ルソーはこれまでの人類の歴史を一つの苦悩としてみました。本来、善であるべき人間が、制度と社会によって、捻じ曲げられていると信じたのです。そして、一般意志の支配する国家においては、人間は自然的欲望から解放されて、道徳的自由さえも獲得するといっています。

人間精神が制度によって変わり得るという考えは、まず現実の社会への深い呪詛から始まります。ルソーの場合は王侯貴族を頂点とする身分制社会への憎しみが生涯に渡って抜けきれることはありませんでした。彼はフランス王の与える年金すら拒否しています。ルソーの性格には看過できない欠点も数多いし、友人にしたくない人物ですが、この反骨精神だけはすばらしい。精神の自由を束縛するものへの批判を口にしながら、安全で心地よい生活を願った人間の卑小さと比べてみましょう(ディドロはロシアのエカテリーナに、ヴォルテールはプロイセンのフリードリヒ二世にそれぞれ保護を受けています)。

しかし、このように制度を変えることで人間も変わるなどとは世迷い言の類で、レオ・シュトラウスも言っているように、自分自身の心の中を覗いて見れば誰にでも判ることなのです。ところが、ルソーの思想をさらに発展させたのがマルクスで、そもそもマルクスにとっては、ロックやアダム・スミスが自然法の基本とした私有財産制度こそ害悪の根元であり、人間が類としての存在から放擲され、個人的欲求に邁進することが、いわゆる疎外を引き起こすというのです。資本主義は、その人狼的、飽くなき欲求拡大によって、不平等と貧困、独占と不況を生み出し、結局は革命によって転覆されるのですが、問題はその後に展開される社会の構想です。生産手段が公有化され、個別的労働が同時に社会的労働になると、労働の桎梏が労働の喜びになり、ついには精神的労働と肉体的労働の区別も無くなるというのです。そして、『ドイツ・イデオロギー』の有名な公式によれば、生産様式という巨大な下部構造の上に、法律的政治的上部構造が、そして人間の社会意識が載って立っているのですから、下部構造が変われば、当然人間の意識も変わってくるはずです。マルクスはじめ、彼に続く革命家たちは、この世界史的変革の後に訪れるユートピアとも言うべき社会について無責任にも書き散らしています。政治や公務の仕事は労働者と同じ賃金になり、誰でもできる片手間となる、私有財産が消滅した社会では交換価値も意味をなさずトイレさえも金でつくられるだろう云々と。

むろん、こんな社会が簡単に実現するわけもなく、革命が成就しても過渡的制度としてプロレタリア独裁が必要とされています。そして、永遠に過渡的制度が延長されれば、ユートピアどころか最悪の社会に転化するのは歴史が証明しているでしょう。資本主義とその下での人間の運命について、あれほど鋭く、克明に解明したマルクスが、権力を手にした人間の堕落について全く予見できなかったのは驚きです。左翼的(革新的)人間全般に言える人間についての楽天的考え、想像力の貧困がこれほど露骨な形で表れたこともありません。昔、書店の店頭で、三浦つとむの『レーニンから疑え』という書名を見たとき、まことに失礼ながら笑ってしまったのですが、「マルクスから疑え」あるいは「自分から疑え」そして「すべてを疑え」となるのが思想というものの本筋ではないでしょうか。

話は脱線しますが、この想像力の貧困というものが、政治思想には何か決定的のような気がすることがよくあります。若年のころから、社会の不正に憤り、懸命にこの世の真実を追求する挙句に、自分に都合良い事実ばかりしか見えなくなる、といった人間には文学的な、あるいは広い意味で芸術的な教養が欠落しているが場合が往々にして見られるようです。特に、文学は(そのもっともすぐれた達成においては)政治に対する終ることのない反措定であり、一見非政治的にしかみえない文学にこそ政治的言説では捉えきれない本質的な洞察が含まれていることがあるのです。著名な政治学者のマイケル・オークショットの論文の中にはキーツやシェリーやコンラッドなどの引用が、単なる飾りとしてでなく、その論説の主調音を奏でている場合があり、それが彼の文章をきわめて弾力のある色褪せにくいものにしているのです。

ところで、マルクスについてはロールズがその『政治哲学史講義』で面白いことを書いています。彼によれば、マルクスは左派リバタリアンとも呼べるというのです。というのも、マルクスの著作の中には、共産主義の社会では強い者が弱い者を助ける、あるいは多く仕事のできるものができない者を助けるとはどこにも書いてないからで、共有されるのは生産手段だけで、平等なのは資源だけだからです。そして、分業によって桎梏となった労働が、再びその全一性を取り戻し、労働の苦しみが労働の喜びに変わるような世界では個人の格差はますます拡大するだろうし、「各人はその能力によって」得られる社会ではその格差は決定的になるでしょう。卑近な例でいえば、ある学校が生徒の華美な装いによる差別を失くすために全生徒一律着用の制服を導入したところ、先天的な美醜がそのまま強調されてより大きい差別を生む要因になったようなものでしょう。こうしてみると、マルクスは一面では社会主義革命がもたらす社会を先見の明を持って見ていたと言えるかもしれません。というのも、国家が全権を握る全体主義社会の特徴は、価値が一元化されていることだからです。

話をもとに戻して、ホッブズの功績は、人間を何の拘束もない自由で平等な原子論的個人としたことです。人間は政治的動物(アリストテレス)などではありません。また、人間の生き方についての段階的秩序(倫理的、観照的等々の)などあるはずもなく、太初以来、低俗な欲望に(名誉欲のような)支配されてきたのが人間というものです。あらゆる希望的観測を振り捨てて、何はともあれこのような原点から出発すべきものを、ロックやルソーは人間の原初的行動のなかによりよき社会の萌芽や根拠を見出したり、それを近代市民社会の思想の根幹にさえしたのです。

ホッブズの原子論的個人は、啓蒙主義のそして民主主義の資本主義の科学主義のつまり現代に至る市民主義の基礎になりました。ここから、さらに、自立的経済人としての典型像を確立したのはデフォーの『ロビンソン・クルーソー』です。ここには冒険と計算という資本主義の性格があらっぽい形で描かれています。主人公は、中産階級に生まれたことを神に感謝しろと父親の遺言で諭されますが、中産階級こそ家柄や身分にとらわれず、また自由に金銭を稼げる市民だからです。彼は、すべてを簿記の形で計算、判断します。海賊の奴隷になった時、逃亡の助けをしてくれたムーア人の少年(「終生この人を愛そう」と主人公を慕ってくれた)さえも60スペインドルで売り払ってしまいます。このような、すべてを合理的に計算し、将来の計画を練っていく啓蒙の完成形態がベンサムの「最大多数の最大幸福」という言葉に要約されていると言えるでしょう。ここで幸福は、単純にも快楽と苦痛の多寡によってきめられます。ホッブズにとって、やむを得ざる出発であった「原子論的個人」という概念は、ベンサムには最終の目的、それによって始めて民主主義、議会主義、資本主義が正当化される根拠となりました。プラトン、アリストテレス以来、貶められていた民主主義がついに肯定的、積極的に評価されたのです。アダム・スミスが市場に神の手を認め、自己利益の追求こそが全体の幸福につながると信じたと同様に、議会制度が整えさえすれば自動的に最大多数の最大幸福が実現できると考えられました。仁恵は人間同士の直接的な隣人愛によってでなく、市場社会の交換システムによってよりよく実現できるというアダム・スミスの論理は真理を瞬間かすったともいえますが、ロック、ルソー同様、その楽観主義は覆うべくもありません。

一方、ホッブズ的な人間の捉え方に対する強烈な反発もおこります。先に述べたマルクスは資本主義を人間に疎外をもたらすものと考えましたが、歴史的衣装を纏っているその思想も歴史の中で見事に破綻してしまいました。経済全体を公的に計画していくこと、官僚の独裁、無謬性の固持など、社会と人間の見通しの脆弱さと甘さは人類史上もっとも甚大な犠牲をもたらしています。しかし、ホッブズの自由主義的個人主義の、真っ当な反論は、ヘルダーから続くドイツ・ロマン主義によってなされたと言ってよいでしょう。

チャールズ・テイラー『ヘーゲルと近代社会』(岩波書店1881渡辺義雄訳)によれば、ホッブズの描いた原子論的個人の社会はヘルダーにとって戯画にすぎなかったということです。ヘルダーによれば、そもそも人間を利己主義的欲望によって動く主体と決めつけることに誤りがあったので、人間はある中心核もしくは霊感から出発し、常に発展しつつある生命の統一体と考えるべきで、その理由は、人間が芸術作品において人間の最高の実現に到達することからもわかる、というのです。また彼は、啓蒙主義的個人が、自然と社会から孤立していることも批判しています。ホッブズの考える個人は、自然と社会を自分の欲望実現のための手段としかみない、しかし、人間は自然の大きな生命の一部であり、自然に対して盲目に閉ざされた関係を解消し、自然との親しい交わりを回復しなければならない。また、社会は単なる利己的な人間の集団ではなく、人間と同じく統一された表現体であり、個人はその中でのみ自分を実現することができる。ヘルダーは、ここで、民族(Volk)という概念に言及します。民族とは、その構成員の支えとなるある一定の文化の担い手で、各民族はそれ自身の指導的主題もしくは独特でかけがえのない表現様式を持っており、これは決して抑圧されてはならず、またその独自性を決して真似ることはできないもの(ドイツ人がフランス文化を真似るように)なのです。

ヘルダーのこの考えには近代ナショナリズムの原点があるが、またそれは現代の行き過ぎたナショナリズムに対する大防壁ともなっている、とテイラーは言っています。まことに的を得た記述と言えるでしょう。ナショナリズムを感ずることなく、また深く考察することなしに、単なる平和や民主主義や命の大切さなどを連呼する者は、自分の根っこを忘れた脆弱さゆえに、容易にその反対のものに転換し得ることを銘記すべきです。

科学的、原子論的個人主義に対するヘルダーの戦いは、ドイツ・ロマン主義において文学的深化を遂げましたが、時代の趨勢は如何ともし難く、ホッブズの自由主義はベンサム、ミルら功利主義者に受け継がれて英国のさらに資本主義国の政治的バックボーンとなりました。しかし、ホッブズの理論の真に根本的な批判はイマヌエル・カントによってなされたのです。カントは、ホッブズの「人間」は少しも自由な存在ではないと言います。欲望によって動かされた人間が本当に自由であると言えるでしょうか。自由な人間とは、利己的な欲望に惑わされず、自分自身の内で打ち立てられた道徳に進んで従う人間を言うのではないでしょうか。自分の内部で打ち立てられた道徳とは、自分と社会の考慮の中で、大いなる統一に至る決断をする勇気で、これこそ自律というべきものです。これは理性が自ら与えた命令であるがゆえに、畏怖すべきもの、神聖であるべきものでした。中世キリスト教における神は、ホッブズの理論体系のうちで情け容赦なく形骸化されたのですが、カントに至ってその骸も打ち捨てられました。尊敬すべきは神ではなく自らの道徳法則であり、人はそれに従って生きる時、神に近い存在になる、というより神そのものなのです。この思想はフランス革命が起こしたと同じほどの衝撃を、若きシェリングに、フィヒテに、ヘルダーリンに与えました。「測り知れない影響を及ぼしてきたこの道徳哲学の、人を奮い立たせる核心は、徹底した自由の観念である」と、チャールズ・テイラーは書いています。「道徳的生活は道徳的意志による自己規定というこの徹底的な意味において、自由と同義語である。」

いかなる外的干渉も受けず、いかなる権威(神のでさえ)による干渉も他律として批判されるこの徹底的自由はまた代償を要求します。それは厳しい自律の絶えざる自己検証で、カント自身も、この「涙の谷」では自立的道徳の達成は不可能だと思っていたようです。それは無限の将来に達成するかもしれない永遠に続く努力である、と。
ベンサム、ミル以来の功利主義もまた、カントの経験を通じて変容して行きました。しかし、それはカントの道徳の定言用法(偶然的な幸福に関係なく、目的によって曲げられず、ただ「するべし」という義務によって制限される)からではなく、その爽やかとも言える自由の観念からでした。ホッブズは、国家や法律をそれによって自由が守られる止むを得ないものと見なしました。自由とは制限から逃れるもの、法律の檻の外にあるものでした。だが、カントによって初めて自由は哲学的に高められ、政治の世界としては積極的に求められるようになったのです。そして、これはアメリカにおけるリベラリズムの根幹をなす考えと直結します。自由とは何事があろうとも侵してはならないものである、それは主張するのです。

ロールズ、ドゥオーキン、ノージックら、リベラリストと言われる人たちの哲学的政治的根拠は、まさにこれに他なりません。彼らは、もはやベンサムの「最大多数の最大幸福」などという定言に惑わされたりはしません。国家が幸福になろうと、個人が幸福にならなければ意味がありません。いや、幸福が目標ではなく、個人が自由に選択しつつ生きることこそが重要なのです。崇高なのは「個人」と「自由」なのです。そして、彼らは、この自由と個人を侵害するものに対して強い反発を表明します。平等主義リベラリストは、自分の自由な能力を展開するための障害を排除するために、最低限の福祉政策を要求します。リバタリアニズムと言われるリベラリストは、自分の労働によって獲得した私的所有権を最大限に擁護しようとします。「平等主義的であれ、リバタリアン的であれ、カント主義的リベラリズムは、『私たちがばらばらの個別的存在であり、それぞれの目的、興味、そして善き生についての考え方を抱いている人格である』と主張するところから始まる。カント主義的リベラリズムは、他者にも自分と同様の自由を認めながら、私たちがそれぞれ自由で道徳的な主体として行動する能力を実現できるような権利の枠組みを求めている。」(マイケル・サンデル『民主制の不満』金原恭子・小林正弥訳・勁草書房)


リベラリストたちは、何がこの世の善であるかという探求には興味を示しません。むしろ、そのような領域に踏み込むことは価値の強要になり自律性を損ねるというのです。また、いかなる道徳的命令にも屈する理由も持ち合わせません。自律的に納得したのでない限り、自分の属する国、地域、民族、コミュニティが自分に課すいかなる義務も原則的に負う義務はないのだと信じています。人格には、性別、人種別、国別の差異を超えた何か特別なものがあるとも思っているのです。しかし、そのような個と自由の神聖さが、社会的に守られねばならない最低限の枠組とはいかなるものでしょうか。ここに、ロールズの卓抜さがあるのです。ロールズは、自分の社会的地位や富などを捨象した「無知のヴェール」を被った人間を想定して、彼にある選択を行なわせます。彼の前には三つのポッドが置かれていて、一つには、−7,8,12 の三枚のカードが、次の一つには −8,7,14 の三枚のカードが、そして最後のポッドには 5,6,8 の三枚のカードが入っています。彼は、この三つのポッドのうちのどれか一つのポッドを選んで目をつむって一枚カードを取ることができるのですが、彼は果たしてどのポッドを選ぶでしょうか。このゲームは、いくつかの状況を想定することができます。何か仕事を始めるとき、100ドル単位で彼が最初に所有する自己資金としてもよいでしょう。最初のポッドを選んだ人間は、700ドルの負債からスタートするか、あるいは800ドルか1200ドルの資金かを賭けることができます。もしくは、このゲームを彼に与えられる生得の状況と考えることもできるでしょう。二つ目のポッドを選んだ人間は、極貧の家庭に生まれるか、中流の上の家庭か、極めて裕福で権力のある家庭かを選ぶことを選択したわけです。ロールズはいずれにせよ多くの人間は最後の ポッドを選ぶだろうと言っています。各人は、いずれが自分の利益になるかわからない「無知のヴェール」で覆われている原初状態では、ありうる最悪の事態を避けるような選択を行うというのです。この予測はロールズの持つ特定の人間観によってバイアスがかけられているという批判がありますが、「無知のヴェール」という条件を考えれば十分納得できる仮定と言えましょう。

ここから有名なロールズの「格差原理」、つまり社会的、経済的不平等はもっとも恵まれていない人びとの最大の利益になるよう配置されるべきである、が生まれてきます。彼はこれを、各自が追求する「善」に先立って立てられる第一の徳性であり、正義の原理の一つであると言明したのです。まことに立派な考えであり、ロールズが出てくるまでは分析哲学によるメタ倫理が支配的であった倫理思想の分野に爽快な衝撃を与えたものでした。

さて、ここでコミュニタリアリズムの登場です。ロールズらリバタリアンたちは、ホッブズの原子論的個人を継承して、他律による道徳を拒否して、最低限の正義や平等の原理を第一義と考えました。しかし、そのようにはじめから善の問題を回避することは人間には不可能である、とコミュニタリアンたちは考えます。リバタリアンたちの「個」は実際には存在せず、現実に在るのはある言語共同体に属し、その共同体から何らかの負荷を受けている諸個人であり、そのような共同体に属する諸個人が考える「善」があるとしたら、それは相対的だから意味がないとはいえず、十分合理的とみなす根拠があるというのです。むしろ、共同体の中で、その共同社会の討議を通じて、人は個人によっては思いもつかなかった「真理」に到達できるかもしれません。

こうして、倫理と政治は再びギリシアのアゴラ(広場)に立ち戻ったような気がします。マイケル・サンデルが、集団対話形式の授業で現実の正義の問題を俎上にのせるのも、そのような形式でこそ真理に接近できるという信念からかも知れません。これは、哲学とは善き生についての教えに他ならぬというプラトン、アリストテレスの伝統への回帰です。欲望の合理的追求こそ幸福の道である原子論的個人主義の考えから決別して、また幸福であることこそ道徳であるという功利主義の考えからも離れて、ここではアリストテレスがその師プラトンについて言ったように、正しくあることと幸福であることはただ同時的にのみ可能である、という信念が隠されているのです。

宇宙の中を原子が飛び回っているように、ホッブズは人間は欲望というエネルギーで飛び回る個体と考えました。これが科学主義、議会主義、資本主義の原点であり推進力になったことは間違いありません。道徳的問題を相対的とみなす考えは現実の体制の肯定につながり、人間をもっとも原始的な欲望の塊とする思考は現代の大衆主義、愚昧主義に連なっています。しかし、善き生についての探究は、それがどれほど状況に迫られたものであっても、行きつくところは宗教であり、また芸術であるでしょう。また、コミュニタリアンの語る共同体のイメージは、あまりに多彩で要約し難い。それが厳密に哲学であるのなら、状況から生み出される善は、相応しい普遍性を持ち得ないでしょう。普遍性を内包しないものは、けっきょくすべては出鱈目かもしれないのです。私自身は政治哲学ではホッブズ、カント、ロールズの側に組みしたいが、メーストルやシュミット、レオ・シュトラウスにも敬意を払いたい。また、アーレントの記述にも看過できない、というより重要な真理が隠されていると思います。彼女は、人が政治の場に入っていく時、背中からある別の人格が現れてくる、というようなことを書いています。人間が人間であるための必要不可欠なものが政治的場で立ち現れてくるのです。ここに、私的生活(プライヴァシー)とは何かが欠如 privatizeした生活であるという彼女の有名な議論の根拠があります。

行き着くところが再び終わることのない論争の世界なら、それをまず根底から考えていく力が必要でしょう。功利主義に対するロマン主義的反対の風潮にはなびかずに、ヘーゲルは、あまりに素朴な私たちの意識から出発して、法と国家に至る厳密な哲学的諸段階を記述する試みを開始しました。 『精神現象学』から『法の哲学』までに展開される壮大な道筋は一人の人間が、また再び自分自身に帰ってくる長い散歩に他なりません。
断続的になると思いますが次回よりヘーゲルについて書き進めていこうと思います。

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