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2011年2月15日 (火)

パリのクリスマス(7)サン・ジェルマン・デ・プレ

 1227日(月)

 ここ2,3日は天気がよく、シャルル・ド・ゴール空港もすっかり平常に戻っているようで安心しました。明日の帰国便も予定通り出発しそうです。今日は予備日なのでとくに予定はありません。妻の行きたいところをすべて行ったら、私の好きなところへ行こうと思っていたのですが、足の具合が心配なのでホテルから歩いていけるサン・ジェルマン・デ・プレを散歩することにしました。リュクサンブール公園から右に曲がってサン・シュルピスの横を通り抜けてオデオンに出ようと思ったら、セーヌ通りの左に惣菜店のジェラール・ミュロがありました。中に入ってみると、ケーキやパンや高級そうな惣菜が並んでいます。午前中ですが、店は人でいっぱいで、行列ができています。不思議なことに、このような店が好きなはずの妻があまり興味なさそうにぼんやり立っています。私はハムの、妻はツナのサンドイッチを買いましたが、店を出て早速サンドイッチをほおばる私と対照的に妻はまったく食欲がないようです。

 サン・ジェルマン・デ・プレはパリでもっともスノッブな街といえるでしょう。実存主義とジャズはここでは反体制の同義語でした。カルチェ・ラタンの知的さとモンパルナスの狂宴を併せ持ったようなこの街は、今やアルマーニのビルが中心に建つ観光と高級ブランドの街になり、割高なホテルやレストランが軒をつらねます。訪れるたびに変わりつつある街ですが、私はサン・ジェルマン・デ・プレからオデオンを通ってサン・ミッシェルまでの雑踏が好きです。観光客とパリジャンたちがうまく入り混じったこの通りは、ひとたび横道に入ると中世から続く裏通りが縦横に行き交い、ここに住んだ文人たちの面影をしのばせます。そういえばコメディ・フランセーズが生まれたのもこの界隈でした(その通りの名も Rue de L'Ancienne-Comedie となっています)。

 ところで、サン・ジェルマン・デ・プレといえばスノッブな本屋がいくつもあるので、見て回るだけで楽しいです。私の好みの書店は私の知能指数プラス5 ぐらいの書物を並べてあるところで、そういうところは知的刺激が快く、いつまでいても飽きません。カフェ・ドゥ・マゴやカフェ・フロールの並びの書店に入ってみましたが、すぐ手前に新刊書が平積みとなっています。目に付くのは、ペーパーバックで出たばかりのクロード・ランズマンの思想的自伝Le lievre de Patagonie (パタゴニアの野うさぎ)です。10ユーロですが、かなり厚い。表紙の写真もよいが、その書名がすばらしいではありませんか。レジスタンス、サルトルやボーヴォアールとの出会い、雑誌の編集、ドキュメンタリーの制作などが書かれてあるのでしょうが、実は映画『ショアー』を見ていないので、シオニストといわれる彼の思想についてはよくわからないのです。でも面白そうだから買おうかと思いましたが、分厚い本は妻が文句をいうだろうと心配しだした途端、妻の姿が見えないことに気づきました。店内を探すと、二階に上がる階段の横に身をもたせて苦しそうな顔をしています。聞くと、急性胃炎らしい、ホテルの部屋に置いてある薬を飲めば治る、というので直ちにホテルに帰ることにしました。

 サン・ジェルマン大通りに出ましたが、歩いていくにはやや遠いし、タクシーを使うには近すぎるし、メトロの階段を降りるのも面倒です。通りの向こうを見ると、ホテル・マディソンの前のバスの停車場にちょうど86番のバスが停まっていました。サン・ジェルマン・デ・プレ始発のバスでモベール・ミューチュアリテを通ってセーヌ川を渡るバスです。ポケットからメトロの切符を出して急いでそのバスに乗りました。窓から見えるホテル・マディソンは、その一階のサロンでカミユが『異邦人』を書き上げたことで有名です。しばらく待ってからすぐにバスは走り出しましたが、オデオン、クリュニューを越して、あっという間にモベール・ミューチュアリテに到着しました。坂を上ってホテルに入り、薬を飲んですぐに妻は休みましたが、妻によると、どうも昨夜私がいつにもなく不機嫌だったのでストレスで胃が痛くなったということです。確かに、サル・リシュリューの帰りに私のステッキを買いにルーヴルのショッピング街へ行ったのに、妻の買い物に引っ張りまわされたのは心外でした。それから、帰りのモンジュ駅で外に上がったとき、道に迷って、早速地図を出して調べようと(道に迷って地図を見ることが好きなので)していたら、妻がもう老人から教えてもらっていたのでがっかりしたこともありました。しかし、こんなことで不機嫌になるのは人間ができていない証拠で、悪いことをしたと謝ると、足が痛かったら誰でも不機嫌になるんだから気にするなと逆に慰められる始末です。

  妻が休んでいる間、私は椅子に座って昨日キオスクで買ったル・モンド(1227日)を読んでいました。普段はこんな硬い新聞は読まないのですが、パリのキオスクで新聞を買うと、ついル・モンドを買ってしまうのです。私にはル・モンドを開くとある感慨があります。フランス語を学び始めた頃、小説を2,3冊読んだ後で意気込んで丸善でル・モンドを買い、喫茶店で読み始めた途端、ガーンと頭を殴られた感じがしました。知らない単語ばかりでまったく読めないのです。語学の難しさに絶望的になりましたが、そこで諦めず、辞書を2冊引き倒し、部屋中を単語ノートと単語カードでいっぱいにして何とか読めるようになりました。それは非才でも努力すれば物になるという自分への励みでもあります。ところで1227日 付のそのル・モンドに懐かしやフランス五月革命の主導者ダニエル・コーン=バンディがゴダール生誕80周年によせて Godard, mon ami という文を寄稿しています。コーン=バンディが、その後、緑の党に入って、現在ヨーロッパ議会の代議員になっていることはどこかで読んでいましたが、かつての無政府主義者も居心地よい椅子に座ったものです。コーン=バンディにもゴダールにも興味はないのですが、この文は、コーン=バンディのゴダールへの偏愛が表れていて面白い。注目は、むろん、「ゴダール・ソシアリスム」などに見られるゴダールの「反ユダヤ主義」に対して、ドイツ系ユダヤ人であるコーン=バンディがどういうスタンスをとるかです。コーン=バンディによれば、パレスティナに対するイスラエルの非道はユダヤ人に対するヒトラーの非道に等しいというゴダールの主張はパレスティナ側に扇動されたのでなければやはり反ユダヤ主義と言わざるを得ない。しかし、それは暴力的な明確な反ユダヤ主義ではない。ただ、同じ毛沢東主義者であったサルトルにとってユダヤ人が常に迫害の象徴であったのに対して、ゴダールがそうでないというに過ぎない。ゴダールの先入観は、ナチからユダヤ人を守るべきだったのに守れなかった我々は、今こそイスラエルからパレスティナを守らねばならないと信じていることだ。つまり、彼は、セリーヌのような、リヒャルト・ヴァーグナーのような、反ユダヤ主義でありながら人間についての深い貢献をした人々を思い起こさせる。彼の「勝手にしやがれ」 A bout de souffle はあらゆる時代を通じて最高の映画である、、、。それに対してゴダールは、「勝手にしやがれ」は最低の映画で、もし金があれば世界中からコピーを買い取ってしまいたいぐらいだ、と答え、スイス、レ・マン湖のゴダール邸を訪ね、その膨大なフィルムコレクションをもとにゴダール・ミュージアムを設立してはどうかというコーン=バンディの提案に対し、「絶対、イヤだ」 Jamais de la vie! とゴダールが拒否するところでこの文章は終わっています。

 それにしても、このホテルの椅子はとても座り心地がよいので驚きました。しかも肘宛の先にライオンの頭が彫ってあって、それを撫で回していると次々に良いアイデアが浮かんできそうな気がします。2時間ほどで妻が起き出して、もうすっかり元気になったと言って、先ほど買ったツナサンドをぺロリと食べてしまいました。そして急に、以前NHKの「世界街歩き」で放送していたパサージュ・ジュフロアのステッキ専門店に行ってみようと言い出しました。妻がインターネットで調べてみると、100800ユーロの価格のステッキが揃えてあるそうです。少し高いが、どうしてもライオンの頭の彫刻のあるステッキが欲しくなったので行ってみることにしました。むろん、放送で紹介していた短刀の隠された仕込杖は空港で引っかかってしまうでしょうが。

 2時ごろホテルを出て、サン・テティエンヌ・デュ・モン教会からクローヴィス通りの坂をカーディナル・ルモワーヌの駅へ向けて降りはじめました。すぐ左の本屋がめずらしく店を開けていたので覗いてみることにしました。老婦人が二人で暇そうに店番をしている小さな本屋で、棚には新刊書と古本が分けて並べられています。古本は値段付けがやや高めなので新刊の Imaginaire Gallimard 叢書の一冊、ローベルト・ヴァルザーの Le Promenade 5ユーロ)を買うことにしました。レジでお札を渡し、おつりをもらって、さて老婦人が本を袋に入れようとしたらその本が見当たりません。何ともう一人の婦人が夢中になって読んでいるではありませんか。なんとものんびりした話で、はっと気が付いてきまり悪そうに彼女は本を差し出しました。

 クローヴィス通りを下っていくと、男の人が何やら写真をとっています。何をとっているのかよくわからなかったのですが、どうも崩れかけた壁のようです。近づいてみると、有名な12世紀の遺跡、フィリップ・オーギュストの城壁ではありませんか。私もカメラをとりだして写真を撮り、城壁の石を撫でてみました。クローヴィス通りからカーディナル・ルモワーヌ通りに入ると、ヴァレリー・ラルボーの持っていた大きなアパートがあるはずでしたが、番地を忘れたので見つけられませんでした(実は71番地)。裕福なラルボーは、このアパートを緑内障に苦しみながら『ユリシーズ』を書き続けていたジェイムズ・ジョイスに貸してあげるのです。ジョイスは子だくさんの狭いアパートから解放されて、1921年にここで大作を完成させました。

 メトロのカーディナル・ルモワーヌから地下鉄を乗り継いでグラン・ブルバール駅へ。外へ出ると、寒いのにたいへんな行列ができています。その行列の先をたどってみると、マダム・クレヴァンのろう人形館でした。面白いことに、これだけの長い列にもかかわらず日本人が一人も並んでいないことで、人形大国日本に暮らしているとろう人形なぞ馬鹿馬鹿しくて見れないのでしょうか。ところで、そのクレヴァンのろう人形館も入っているパサージュ・ジュフロアに入ると、ここも観光客でけっこう混んでいます。目当てのステッキ専門店に行くと、な、なんと今日(27日)から年末の休みに入ったという張り紙がしてありました。ホームページで調べたのなら休みも確認しておけばいいのに、と思ったのですが、ぐっとこらえて妻には何も言いませんでした。仕方なくウインドーに並べられているステッキを眺めると、鷲や犬や蛇や馬はあるのにライオンのステッキはありません。せっかく来たのでパサージュを散歩しようということになり、ミニチュアのおもちゃで知られるパン・デピスやぬいぐるみや家具や本屋や骨董品店を覗きました。続いて、通りを越して連続しているようなパサージュ・ヴェロドーにも入りました。しかし退屈な店が多く、グランジュ・バトゥリエール通りに出ると、小学生か中学生らしい女の子三人が大きな地図を広げて私のほうに近づいてきました。すぐに噂のジプシーのスリに違いないと感づき、急いで離れましたが、その後物陰に隠れて様子を見ていました。白人の男性が歩いてくると、また女の子たちが地図を持って近づいていきましたが、男性は丁寧に道を教えています。少女たちも礼を言って去っていきました。どうもジプシーのスリではなかったようです。

 喉が渇いたのでカフェに入ろうと思ってモンマルトル通りに出て、グランジュ・バトゥリエール通りとモンマルトル通りの角にあるカフェに入りました。店の前に張られている値段表を見るとコーヒーは1,8ユーロと格安です。店内のカウンターにはスキンヘッドの男とか明らかに商売女と見られるミニスカートの厚化粧の女とか危なそうな人たちが酒を飲んでいます。私たちは窓際の明るい席に座りましたが、なかなか注文をとりに来ません。やっとカウンターから出てきたマダムに私たちはコーヒーとパスティス51を注文しました。パスティスはアニスの風味のする酒で水で薄めると白濁します。妻は一口飲んで顔をしかめましたが、この酒は飲みなれると無性に飲みたくなります。痛風だとしたら酒は厳禁ですが、一杯飲んだら止められなくなってもう一杯飲みました。勘定しようとマダムを呼んでもなかなか来ません。小銭をぴったり置いて外に出ましたが、この店にはモンマルトルの下町にあるような怪しい雰囲気がありました。

 メトロに乗って再びサン・ジェルマン・デ・プレへ向いました。まずサン・ミッシェルの方からケ・グラン・ゾーギュスタンをセーヌ川に沿って歩きました。今度のパリ訪問でセーヌ川を見るのは今日が初めてです。夕闇がもう少しで訪れる微妙な時、セーヌ川の上には重たい雲がかかっています。この寒さの中でも川岸のブキニスト(古本屋)は店を開けていました。しばらく歩いて、左に曲がり、グラン・ゾーギュスタン通りに入ります。その25番地のアパートにプレートが張られていて、ここに17世紀のモラリスト、ラ・ブリュイエールが住んだと書いてあります。彼の著『カラクテール』は私たち夫婦の共通の愛読書でもありました。また、この25番地はハインリヒ・ハイネが妻のマチルドと結婚生活をすごしていた建物でもあります。ドイツから亡命してきて10年目、42歳のハイネはパレ・ロワイヤルの手袋店で働いていた21歳のマチルドと結婚します。彼女は美しかったが、知的能力に劣っており、ドイツ語を覚えられないためハイネの詩を読むこともできませんでした。この結婚はジョルジョ・サンドや他の文学仲間から猛反対されましたが、すでに梅毒の第二期症状が出始め、病気と貧困に喘いでいたハイネを助け、忠実に尽くしたのは彼女だったのです。マチルドは「詩人としてではなく人間として」自分を愛してくれたとハイネは友人に語っています。

 サン・タンドレ・デ・ザール通りに出てサン・ジェルマン・デ・プレ教会の方へ進み、セーヌ通りに出て右に曲がります。この辺はにぎやかな店が並び、ビストロやバーの明かりが瞬きます。もう真っ暗に日が暮れてきました。セーヌ通りがセーヌ河に出る一つ手前のボー・ザール通りを左に曲がりました。この通りのL'Hotel というホテルで軽く何かを食べようとしたのです。実は妻はこのホテルに泊まりたいと言っていたのですが、オフシーズンの割引がないので私たちの予算ではとても無理でした。L'Hotel はパリ随一の文学ホテルで、かのオスカー・ワイルドが死んだ場所でもあります。またボルヘスの定宿でもあり、妻はこのホテルの丸い幾何学的な吹き抜けの下で上を見上げるボルヘスの写真と同じポーズで写真を撮りたいと言っていました。しかし、L'Hotelはわずか20室の小さなホテルで、ふらっと入るわけにはいきません。それでレストランで一品ずつ頼んでその文学的雰囲気を楽しもうと思ったのですが、今日は不運続きでホテルの玄関に張られた紙を読むと今日(27日)までクリスマス休みでレストランは閉めるというのです。がっかりしてボナパルト通りをサン・ジェルマン大通りに向って歩きました。夜のボナパルト通りは観光客でいっぱいです。ラデュレのサン・ジェルマン・デ・プレ店は外まで人があふれていました。しかし、通りに並ぶ小さな店はそれぞれ面白い。自筆原稿や手紙を商う店のウインドーには妻の欲しがるドラクロワの書簡も飾ってありました。私たちはサン・ジェルマン大通りの交差点にあるモノプリで、うっぷんを晴らすようにたくさん食べ物やワインを買ってホテルに帰りました。ところで、オスカー・ワイルドは青春の一時期に私の憧れの作家でした。『ウインダム卿夫人の扇』や『嘘の効用』に出てくる警句をよく引用して友人たちに「またか」と煙たがれたものです。一番好きな作品は『わがままな大男』ですが、いやワイルドの作品はみんな好きです。ボルヘスは「ワイルドの言ったことはすべて正しい」と書いています。

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私がたいへん気に入ったホテルの椅子。肘当てにライオンの頭が彫られています。

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12世紀にパリを囲んでいたフィリップ・オーギュストの城壁。何度もここを通ったのに気づきませんでした。

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まさに暮れなんとする時間のセーヌの河岸。凍るような寒さなのに古本屋が店を開けています。右奥にノートル・ダム大聖堂の二つの塔が見えます。

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グラン・ゾーギュスタン通り。パリでもっとも古い通りの一つ。左のこげ茶の入口の建物がラ・ブリュイエールが住み、後にハイネが結婚生活を送った25番地のアパート。

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L'Hotel の正面。もともとはマルゴ王妃の別邸で、ベル・エポックの女神ミスタンゲットも愛したホテル。その16号室でオスカー・ワイルドは生涯を終えました。

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L'Hotel の玄関の左に飾られたワイルドのレリーフ。扉の右にはホルヘ・ルイス・ボルヘスを記念するプレートが張られています。

 

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