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2011年2月26日 (土)

パリのクリスマス(8)帰国・旅の終わり

 1228日(火)

 昨夜はパリ最後の夜をワインを飲んで過ごしました。ワインとパンとペリエが安いのがフランスのよいところです。それから私の好きなクレマンチーヌという小さな蜜柑、妻の好きな木苺、歩き疲れて入るカフェ、心が和む小さな本屋。フランスの書店では同じ古典でもさまざまな意匠で出版されており、同じ著作でもまた買いたくなります。ところで、飲みすぎてしまって、喉が渇いて明け方に目が覚めました。ベッドから降りようとしたら右足が痛くて、足を地につけません。見たら、たいへんに腫れています。これでは一歩も動けず、空港まで無事に行けるのかどうか心配になりました。とりあえず腰痛の予防のために持参してきた湿布を張りました。動けないのでまた横になりましたが、これは痛風発作に違いありません。帰りの飛行機の中でジントニックを飲むのを楽しみにしていたのにもうしばらくアルコールは飲めません。私の場合冬に発病することはないので、油断していましたが、空気が乾燥して尿の出が少なかったのでしょう。また酒や肉や糖分を食べ過ぎたのも原因の一つで、パリに来てすぐに私の好きなオランジーナという炭酸ジュースを1,5リットルも飲んでしまったのも迂闊でした。

 いろいろ後悔しているうちにまた寝込んでしまい、妻に起こされた時は、うれしいことに痛みがやや和らいでいました。しかし、杖がなければ歩くのはほぼ不可能です。もはやライオンの頭を彫ったステッキなどという贅沢はいっておられず、妻に頼んでホテルからいちばん近いステッキのお店をネットで探してもらいました。リュクサンブール近くのサン・ミッシェル通りにあることがわかって一安心、飛行機も何とか飛びそうで、軽い朝食を済ませると直ちに帰国の準備にとりかかりました。思い出にバルコニーに出て写真を撮ろうとして、窓を開けると、なんとまた雪が降り出しているではありませんか。道路凍結で渋滞が予想されるので早めに出なければなりません。バルコニーから外を見ていた妻が、最後に目の前のパンテオンに入りたいと言い出しました。実は、昔一緒にパンテオンに入ったことがあるのに完全に忘れているらしいのです。私は「シャヴァンヌの壁画しか見るものはないし、だいたい墓しかないから面白くも何ともないよ」と言いましたが、事実は足を引きずりながら見学するのが嫌だったのです。しかし、よく考えると、文人や科学者や政治家をこんなところに祀ってどんな得があるのでしょうか。彼らにとっても居心地がよいとはとても思えません。パンテオンは、その当初の計画通り、五世紀にフン族の手からパリを救った聖ジュヌヴィエーヴを祀るべきではなかったでしょうか。

 支度をし、馴染んだ部屋と別れて、キャリアケースを引っ張って一階のロビーへ。妻が精算している間、ロビーのソファで休んでいると、レセプションの奥から髭を生やした支配人が現れて私の方へ向ってきます。「ムッシュー、、、」と私の名前を呼んで英語で話しかけてきました。足が痛くてぐったりしていたので、よく注意していず、どうせ最後の挨拶だろうと思い、「メルシー、ムッシュー」とだけ答えておきました。それから、そこにいたレセプショニスト全員が立ち上がって私たちを送り出してくれました。雪の降るパンテオン広場。おそらく二度と訪れる機会はないであろうこの広場を、ぐるりと私たちは見渡しました。初めて二人でここを訪れた時に、妻に語ったことを思い出しました。「ここは昔、サント・ジュヌヴィエーヴの丘と呼ばれていて、あのアベラールもここで演説したんだ。あのサント・ジュヌヴィエーヴ図書館の裏にはまだサント・バルブ学寮が残っているが、ソルボンヌができる前は学生はみなそこで勉強していたんだ。ユゴーの遺体がここに運ばれてきた時の群衆の熱狂は今でも語り継がれている。1871年のパリ・コミューンの時には、そのスフロ通りに最大のバリケードができてコミューン軍が頑張ったのだが、横道から殺到してきた政府軍に壊滅させられた。ほら、そこの階段でコミューン軍の兵士がたくさん銃殺されたんだよ」というと、妻は血の跡を探すようにパンテオンの階段に目を落としたのでした。

 サン・ティティエンヌ・デュ・モン教会にも、アンリ四世校にも別れを告げて、スフロ通りをリュクサンブール公園に向けて降りていきます。サン・ミッシェル大通りを渡ってすぐのところに Parapluies Simon という看板が見えました。小さな店ですが、すでに先客が何人かいます。狭い店の中は、色とりどりの傘やステッキでいっぱいです。ステッキの修理に来た客と、傘を買いに来た客がいたので、私たちの順番がくる間、店内に並べられたステッキを見ていきました。値段は20200ユーロと非常に手頃です。鳥の頭、犬の頭、髑髏の形、といろいろ試してみましたが、どうもしっくり馴染めません。やはり実用を考えて、握りやすいように美しい曲線をしたヘッドを持つ木製のステッキに決めました。価格は22ユーロ(2400円)ですが、銀座のデパートで買えば2,3万は下らないと断言します。中年の婦人が実に丁寧に説明してくれて、私に合う最適の長さにノコギリで切ってくれました。最後にゴムの石突を先に差し込むのですが、その時その婦人の説明していることが私たちには理解できませんでした。店を出てから辞書で調べると embout アンブ(石突)という単語です。「つまり」と妻が説明してくれました。「embout を差し込むとその分ステッキcanne の長さが長くなるがそれでもいいのか、と聞いていたんじゃない?」確かにその通りで、細部の正確さにこだわるいかにもフランス人らしい心遣いです。

 ステッキはたいへん使いやすく、歩きやすい。しかし、雪がだんだん激しく降ってきたので、私は右手にステッキ、左手に傘で妻が濡れないようにし、その結果、妻が荷物全部を引っ張ることになりましたが、「けっきょく、こうなると思った」と私の痛風発作を予見していたような口ぶりです。歩いていくとすぐ右手にドーム教会が見えますが、それがソルボンヌの教会で、その前が感じのよい Place de Sorbonne ソルボンヌ広場です。広場は古書店やカフェ、レストランに囲まれていて、私たちは一番奥にあった Cafe L'Ecritoire に入りました。「文箱」というしゃれた店名ですが、午前中から結構人が座っています。教師や学生とおぼしき連中が仕事か勉強をしているようです。妻は雪が降ると必ず飲むショコラ・ショーを、私はコーヒーを飲みました。片方の壁いっぱいが本棚になっていて何やら重厚そうな本が並んでいます。私は、蟻が砂糖に吸い寄せられるようにステッキをついて本棚に近づき、端から端まで本を見ていきました。知らない本ばかりですが、外見が重厚なだけで特に価値ある本とも思えません。「学生が使い終わった本と、古本屋が廃棄したような本ばかりだ。面白い本はなかったよ」と妻に言いました。しかし、このカフェはたいへん居心地がよく、時間があればここで何時間でも本を読んでいたい気分でした。家の近くにこんなカフェがあったらどんなにいいでしょうか。(ホームページによると、この店はもともと本屋で、ボードレールが『悪の華』を最初に発表したところだということです)

 ソルボンヌ広場からサン・ミッシェル広場のほうへ歩きます。サン・ミッシェル広場は、いつもは観光客や待ち合わせの人間でいっぱいなのですが、この雪、この寒さで、あまり人がいません。サン・ジェルマン大通りに出て、オデオンに向って歩きます。オデオン広場のレストラン Le Comptoireの隣に、フィガロ紙でパリ一番のサンドイッチと認定された店があるのです。そこでハムのサンドイッチを買って歩きながら食べましたが、妻は「こんなおいしいハムは食べたことがない」といって、フランスパンからあふれ出るようなハムを夢中で食べていました。そうこうするうちにサン・ジェルマン・デ・プレに出てしまいましたが、これからどうしようか私は少し思案に暮れました。雪が降っている上に、帰りの荷物を引っ張っているので、妻はあからさまに不満の意を顔に表しています。明らかに、早く空港へ行ってゆっくりしたいとだけ考えているようです。しかし、まだたっぷり時間はあるし、私にはサン・ジェルマン・デ・プレを去り難い気持ちがありました。パリに来ることはたいへんなことで、再び訪れることができるかはわかりません。雪の降るサン・ジェルマン・デ・プレで佇みながら、そして古ぼけてくすんだサン・ジェルマン・デ・プレの教会の尖塔を見ながら、もう少しここに留まる手立てはないだろうかと考えました。妻はサンドイッチを食べてお腹いっぱいのようで、もうどこにも寄るつもりはないようです。私は、すぐ横にあったカフェ・フロールを指差しました。「ここほど人間や思想がくるくる集まっては通りすぎたカフェはないよ。お腹がすいてないならコーヒーでも飲もうか」と妻にききました。19世紀後半にはユイスマンスなどの頽廃派の拠点となり、その後、バレス、バンヴィルら反ドレフュス派の司令部となり、その流れからシャルル・モーラスのアクション・フランセーズの溜まり場、戦後すぐはサルトルの仕事場兼事務所で、その二階はゲイの出会いの場となり、現在はその歴史的興味から観光客専門のカフェになっています。パリに住み、あるいはパリを訪れた文学者・思想家で、このカフェを訪れたことのない人間はほとんどいないだろうことを考えるとその文化史的興味は相当なものですが、しかし、それは過去の話で、今は観光客に混じって往時の亡霊がさまよい出るのを待っている他はありません。ちょうど昼時で、店内は満席で、荷物を持って奥へ入る気もしません。カフェ・フロールはあきらめて、かつて何度か訪れたカフェ・ボナパルトに行こうかとも思いましたが、目と鼻の先にあるその場所にも行く気力がなくなりました。雪の中に立っていて、足がさらに痛くなったのです。もう、空港まで行こう、と仕方なく苦渋の決断をしました。ぐずぐずせずにパリを離れることにしたのです。

 リムジンバスの発着所であるシャルル・ドゴール広場まで行くため、ちょうど2枚残っていた切符を使ってメトロに乗りました。シャルル・ドゴール広場は、一般にエトワールEtoile と呼ばれています。凱旋門を中心に星型に道が伸びているからで、オスマン男爵のパリ大改造以来、ここがパリのシンボルとなりました。しかし、実際は凱旋門の上にのるのでなければメトロの乗り換え以外では訪れない場所です。雪の降る冬の凱旋門近辺はものさびしく、リムジンバスの発着所だけが大きな荷物を抱えた人々で混雑しています。私たちは、往復で買ってあったチケット(一人24ユーロ)を見せてバスに乗り込みました。白く凍りそうなパリの街をバスが通り過ぎていくとき、さまざまな不定形な思いが私の頭の中をよぎります。

 今回のパリ旅行はどうだったでしょうか。まずユーロ安、以前一時期170円の時にパリに来たことを考えれば、1ユーロ109円は信じられない安さです。一方、例年にはない寒波が行動に大きく影響しました。雪やみぞれや冷たい雨の中を歩き回るのはたいへんなことでした。せっかくカメラを一台ずつ持参したのに、寒くて億劫なので少ししか撮影できませんでした。しかし、オフ・シーズンのこの時期ゆえに飛行機代もホテル代も割安で、観光客も少なく、スリや盗難の気苦労もあまりしませんでした。私自身は、腰痛や痔が心配で、薬を多量に持ってきたのですが、そちらは全く杞憂に終わった反面、後半に痛風が出たのは意外でした。パリの乾燥した空気は想像以上で、飴は絶対に必要ですし、常に水分を補給しなければなりません。

 クリスマスと週末が途中に続いたので、旅行の計画は立てにくかったのですが、運良くバレエ、オペラ、芝居を組み込めたのは成功でした。今回は、ルーヴル、オルセー、クリュニュー、ギメなどの美術館を訪れないことにしたのですが、しかし、これだけ寒かったならば美術館の中にいたほうがよかったかも知れません。教会は、サン・メダールしか行きませんでした。パリにはまだ入ってない教会がいくつかあるのですが、教会は寒い上に、時節柄ミサが多く、途中で出入りするのが嫌なので足が遠のきました(妻はサン・シュルピスを再訪したかったと言っていましたが)。また、そのことについてはカトリックに対する私の心の迷いもあるのです。カトリック哲学者ジャック・マリタンの妻ライサ・マリタンは、ある時、ジュリアン・グリーンに次のように語っています。イエス・キリストが地上に現れてからまだ2000年しか経っていない。神にとって2000年がなんだろう。救済の試みはまだ始まったばかりなのだ、と。グリーンはこれに同意して、福音書の記述には今に至るも理解不能な箇所がいくつもある、キリスト降誕ということは非常に大きな出来事でその意味が理解される時機はまだ先ではなかろうか、と答えています。私には、このような議論はまったく理解できません。私にとっては、神は現前しており、それはクリュニュー中世美術館の木彫りのキリスト像の中に、あるいはギメ東洋美術館のヒンドゥーの石の神々の中に、いやサン・メダール教会の素朴なステンドグラスの中にさえ存在するのです。神はそれを求める私たちの心の中にしか存在しないように、私には思え、それゆえに、「すべては神の栄光のために!」というイエズス会のモットーを見ると身を引いてしまうのです。

  もう一つ、フランス・カトリックについてはクルティウスが「不純なる神秘主義」と表現しているものが気になります。フランスでは神と国家がしばしば神秘的に混同、ないしは融合されてしまうのです。ジャンヌ・ダルクは神にとって聖女なのか、それともフランスにとって聖女なのでしょうか。モーリス・バレスの「土と死者」に対する敬意はナショナリズムというにはあまりに宗教的です。アクション・フランセーズとカトリックの間には妥協ばかりでなく、親密な関係がありそうです(フィリッポ・アリエスの『日曜歴史家』や『死と歴史』など参照)。ド・メーストルの賛美は神によりもより多くフランスに捧げているように思われます。カトリック・フランスという言葉はナショナリズムにもカトリシズムにとっても何か不純な響きがあるのです。

 ちなみに、私の政治的立場は、スタンダールと同じく自由主義的ロマン主義です(反権威主義的個人主義ともいえましょう)。このような立場がどんな意味を持ち、どんな人々の共感を得るか、よくわからないのですが、しかし、一度限りの人生、つまらぬ妥協や忍従で中途半端な生き方はしたくないものです。宗教もまた、私には個人的にのみ意味を持ちます。党派や宗派は私の中で価値を持たず、信仰はただ、プラス・モンジュの近くで帰り道を教えてくれたミサへ行く途中の老人や、ムフタール通りで物乞いの老婦人に自分のマフラーを与えた婦人や、毎月、死んだ子供のために大師詣でを続けた私の母のような無数の人々の思いの中にしかないように思えます。

 さて、バスは渋滞もなくシャルル・ドゴール空港に到着しました。すでにチェックインしてあるので、荷物を預け、出国審査の列に並ぼうとしました。見ると、右奥の Far East (極東)行きの列には、日本人らしき人たちで長蛇の列です。実は、入国審査の時にも日本人の列の中でかなり待たされたので、またか、と憂鬱な気になりました。ところが、黒人の空港係員が私のところに近づいて、私と妻とをほとんど誰もいない欧州 Europe 行きの列に行くよう指示してきたのです。杖を使っていたので障害者と思われたからでしょうが、そのおかげですぐに出国審査を通過できました。次はセキュリティー・チェックですが、私はこれが苦手で、いつも簡単には通過できないのです。が、今回は私はすっきり通過できたものの、いつも大丈夫な妻が金属探知機を鳴らしてしまい、女性係員に徹底的にボディ・チェックされることになりました。結局、原因物体がわからず妻は解放されましたが、後で気づくと、どうもイアリングが反応したようです。

 ところで、シャルル・ドゴール空港の出発ロビーは昨年全面改装されたとのことですが、これにはかなり失望しました。ブランドの店はかなりありますが、実用的な店は少なく、何よりもきちんとしたレストランがありません。セルフサーヴィスのフードコートは両端にあって、その長い距離を移動するのはたいへんですし、とても料理といえるものではなく、日本のコンビニの方がずっと気が利いています。ひとつだけ便利な店があって、それはパリの美術館のグッズを売っているお店です。私はここでルーヴルのカバのキー・ホルダーを買いました。例によって余った小銭で本を買おうと、雑誌やお菓子を売っている店で、ラ・ファイエット夫人の La princess de Montpensier を買いました。

 帰りの機内、エールフランスとJALの共同運航ですが、ほとんどエールフランスのサーヴィスなのであまり期待できません。往路はやはり共同運航でしたが事実上JALの機材、人員を使っていたので、エコノミーでも料理はまずまずでサーヴィスもきめ細やかで、いつもエールフランスばかり使っている身としては感動さえしました。しかし、帰りは何でも我慢できるものです。妻のチェックインの素早さのおかげで、わずかしかない二人用の席がとれたこともありますが、旅の疲れからか、ぐったりと半ば眠ったような状態で過ごせました。パリを後にして後ろ髪引かれる思いもありますが、それは反面、家で待っている猫と再会できることでもあります。ヨーロッパに出かける時にいつも二の足を踏ませるもの、それはむろんまず費用ですが、その次には飼い猫を違った状況におくことへの逡巡です。毎回、すぐ近くに住む息子が日に二回訪れて、食事と水を補給し、一緒に遊んでくれるのですが(息子は大の猫好きです)、それでも私たちに強い愛着を持つ猫が、急に二人の姿が見えなくなって寂しくないか、また夜は一人で眠れるか、心配は底をつきません。毎日パリから電話して、猫の安否を確認したのは言うまでもないことです。

 成田について、すぐに京成電車に乗りましたが、車内のきれいなことにびっくり。紙くず一つ落ちていません。パリの地下鉄の汚さが懐かしくなりました。そして、人間の均質さ。パリではあらゆる人種が普通に混交しています。京成の駅で降りて、夕方の通りを歩くと、灯りのついた家並みに、ほっとした気持ちがこみ上げてきます。このような安心感を築き上げるために、日本民族が培ってきた気質と努力は相当なものでしょう。それと同じように,パリの街の美しさは数世紀におよぶフランス人の気質と努力の賜物なのです。頑固なまでの保守主義と規律ではなく秩序を尊ぶ精神、それが都市の美的景観への執拗な情熱につながっています。荷物を引っ張って、やっと玄関の扉をあけました。いつも玄関で待っているのに、今日は猫の姿が見えません。奥の部屋に隠れていて、私たちだと気づくと、ミャアと捨て猫のような哀れな泣き声を出しました。私が抱き上げると、何という軽さ、いつもずっしりと重く感じるのに、半分ほどの体重になっています。妻と代る代る抱いていると、ようやく表情に落ち着きが出て私の指をかみ始めました。部屋に荷物を下ろし、途中で買った弁当を食べ、さて旅の疲れを落とそうと私が湯船につかっていると、さっそくおもちゃをくわえてルーミー(猫の名)が風呂場に入ってきました。

(パリのクリスマス・完)

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最後の日にバルコニーへ出てパンテオンと記念撮影。右に見えるのがリセ・アンリ四世校です。季節がよければバルコニーでワインも飲めたのですが。

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パンテオン広場の左側。手前に立っているのが偉大な劇作家コルネイユの像。中央がサン・テティエンヌ・デュ・モン教会。右に見えるのが六世紀初頭にできたクローヴィスの塔。もともとはサント・ジュヌヴィエーヴ教会の一部でしたが、現在はアンリ四世校の敷地に立っています。

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スフロ通りからパンテオンを望みます。パンテオンのあるサント・ジュヌヴィエーヴの丘は左岸でもっとも標高の高いところで、反対方向にエッフェル塔を見ることができます。

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ソルボンヌの教会。建物も美しいが、その前の広場が何ともいえぬ素晴らしい雰囲気です。右の灯りのついた店がカフェ・エクリトワール。この時は雪が降っていてカメラを持つ手がかじかみました。

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