« 2011年1月 | トップページ | 2011年5月 »

2011年2月26日 (土)

パリのクリスマス(8)帰国・旅の終わり

 1228日(火)

 昨夜はパリ最後の夜をワインを飲んで過ごしました。ワインとパンとペリエが安いのがフランスのよいところです。それから私の好きなクレマンチーヌという小さな蜜柑、妻の好きな木苺、歩き疲れて入るカフェ、心が和む小さな本屋。フランスの書店では同じ古典でもさまざまな意匠で出版されており、同じ著作でもまた買いたくなります。ところで、飲みすぎてしまって、喉が渇いて明け方に目が覚めました。ベッドから降りようとしたら右足が痛くて、足を地につけません。見たら、たいへんに腫れています。これでは一歩も動けず、空港まで無事に行けるのかどうか心配になりました。とりあえず腰痛の予防のために持参してきた湿布を張りました。動けないのでまた横になりましたが、これは痛風発作に違いありません。帰りの飛行機の中でジントニックを飲むのを楽しみにしていたのにもうしばらくアルコールは飲めません。私の場合冬に発病することはないので、油断していましたが、空気が乾燥して尿の出が少なかったのでしょう。また酒や肉や糖分を食べ過ぎたのも原因の一つで、パリに来てすぐに私の好きなオランジーナという炭酸ジュースを1,5リットルも飲んでしまったのも迂闊でした。

 いろいろ後悔しているうちにまた寝込んでしまい、妻に起こされた時は、うれしいことに痛みがやや和らいでいました。しかし、杖がなければ歩くのはほぼ不可能です。もはやライオンの頭を彫ったステッキなどという贅沢はいっておられず、妻に頼んでホテルからいちばん近いステッキのお店をネットで探してもらいました。リュクサンブール近くのサン・ミッシェル通りにあることがわかって一安心、飛行機も何とか飛びそうで、軽い朝食を済ませると直ちに帰国の準備にとりかかりました。思い出にバルコニーに出て写真を撮ろうとして、窓を開けると、なんとまた雪が降り出しているではありませんか。道路凍結で渋滞が予想されるので早めに出なければなりません。バルコニーから外を見ていた妻が、最後に目の前のパンテオンに入りたいと言い出しました。実は、昔一緒にパンテオンに入ったことがあるのに完全に忘れているらしいのです。私は「シャヴァンヌの壁画しか見るものはないし、だいたい墓しかないから面白くも何ともないよ」と言いましたが、事実は足を引きずりながら見学するのが嫌だったのです。しかし、よく考えると、文人や科学者や政治家をこんなところに祀ってどんな得があるのでしょうか。彼らにとっても居心地がよいとはとても思えません。パンテオンは、その当初の計画通り、五世紀にフン族の手からパリを救った聖ジュヌヴィエーヴを祀るべきではなかったでしょうか。

 支度をし、馴染んだ部屋と別れて、キャリアケースを引っ張って一階のロビーへ。妻が精算している間、ロビーのソファで休んでいると、レセプションの奥から髭を生やした支配人が現れて私の方へ向ってきます。「ムッシュー、、、」と私の名前を呼んで英語で話しかけてきました。足が痛くてぐったりしていたので、よく注意していず、どうせ最後の挨拶だろうと思い、「メルシー、ムッシュー」とだけ答えておきました。それから、そこにいたレセプショニスト全員が立ち上がって私たちを送り出してくれました。雪の降るパンテオン広場。おそらく二度と訪れる機会はないであろうこの広場を、ぐるりと私たちは見渡しました。初めて二人でここを訪れた時に、妻に語ったことを思い出しました。「ここは昔、サント・ジュヌヴィエーヴの丘と呼ばれていて、あのアベラールもここで演説したんだ。あのサント・ジュヌヴィエーヴ図書館の裏にはまだサント・バルブ学寮が残っているが、ソルボンヌができる前は学生はみなそこで勉強していたんだ。ユゴーの遺体がここに運ばれてきた時の群衆の熱狂は今でも語り継がれている。1871年のパリ・コミューンの時には、そのスフロ通りに最大のバリケードができてコミューン軍が頑張ったのだが、横道から殺到してきた政府軍に壊滅させられた。ほら、そこの階段でコミューン軍の兵士がたくさん銃殺されたんだよ」というと、妻は血の跡を探すようにパンテオンの階段に目を落としたのでした。

 サン・ティティエンヌ・デュ・モン教会にも、アンリ四世校にも別れを告げて、スフロ通りをリュクサンブール公園に向けて降りていきます。サン・ミッシェル大通りを渡ってすぐのところに Parapluies Simon という看板が見えました。小さな店ですが、すでに先客が何人かいます。狭い店の中は、色とりどりの傘やステッキでいっぱいです。ステッキの修理に来た客と、傘を買いに来た客がいたので、私たちの順番がくる間、店内に並べられたステッキを見ていきました。値段は20200ユーロと非常に手頃です。鳥の頭、犬の頭、髑髏の形、といろいろ試してみましたが、どうもしっくり馴染めません。やはり実用を考えて、握りやすいように美しい曲線をしたヘッドを持つ木製のステッキに決めました。価格は22ユーロ(2400円)ですが、銀座のデパートで買えば2,3万は下らないと断言します。中年の婦人が実に丁寧に説明してくれて、私に合う最適の長さにノコギリで切ってくれました。最後にゴムの石突を先に差し込むのですが、その時その婦人の説明していることが私たちには理解できませんでした。店を出てから辞書で調べると embout アンブ(石突)という単語です。「つまり」と妻が説明してくれました。「embout を差し込むとその分ステッキcanne の長さが長くなるがそれでもいいのか、と聞いていたんじゃない?」確かにその通りで、細部の正確さにこだわるいかにもフランス人らしい心遣いです。

 ステッキはたいへん使いやすく、歩きやすい。しかし、雪がだんだん激しく降ってきたので、私は右手にステッキ、左手に傘で妻が濡れないようにし、その結果、妻が荷物全部を引っ張ることになりましたが、「けっきょく、こうなると思った」と私の痛風発作を予見していたような口ぶりです。歩いていくとすぐ右手にドーム教会が見えますが、それがソルボンヌの教会で、その前が感じのよい Place de Sorbonne ソルボンヌ広場です。広場は古書店やカフェ、レストランに囲まれていて、私たちは一番奥にあった Cafe L'Ecritoire に入りました。「文箱」というしゃれた店名ですが、午前中から結構人が座っています。教師や学生とおぼしき連中が仕事か勉強をしているようです。妻は雪が降ると必ず飲むショコラ・ショーを、私はコーヒーを飲みました。片方の壁いっぱいが本棚になっていて何やら重厚そうな本が並んでいます。私は、蟻が砂糖に吸い寄せられるようにステッキをついて本棚に近づき、端から端まで本を見ていきました。知らない本ばかりですが、外見が重厚なだけで特に価値ある本とも思えません。「学生が使い終わった本と、古本屋が廃棄したような本ばかりだ。面白い本はなかったよ」と妻に言いました。しかし、このカフェはたいへん居心地がよく、時間があればここで何時間でも本を読んでいたい気分でした。家の近くにこんなカフェがあったらどんなにいいでしょうか。(ホームページによると、この店はもともと本屋で、ボードレールが『悪の華』を最初に発表したところだということです)

 ソルボンヌ広場からサン・ミッシェル広場のほうへ歩きます。サン・ミッシェル広場は、いつもは観光客や待ち合わせの人間でいっぱいなのですが、この雪、この寒さで、あまり人がいません。サン・ジェルマン大通りに出て、オデオンに向って歩きます。オデオン広場のレストラン Le Comptoireの隣に、フィガロ紙でパリ一番のサンドイッチと認定された店があるのです。そこでハムのサンドイッチを買って歩きながら食べましたが、妻は「こんなおいしいハムは食べたことがない」といって、フランスパンからあふれ出るようなハムを夢中で食べていました。そうこうするうちにサン・ジェルマン・デ・プレに出てしまいましたが、これからどうしようか私は少し思案に暮れました。雪が降っている上に、帰りの荷物を引っ張っているので、妻はあからさまに不満の意を顔に表しています。明らかに、早く空港へ行ってゆっくりしたいとだけ考えているようです。しかし、まだたっぷり時間はあるし、私にはサン・ジェルマン・デ・プレを去り難い気持ちがありました。パリに来ることはたいへんなことで、再び訪れることができるかはわかりません。雪の降るサン・ジェルマン・デ・プレで佇みながら、そして古ぼけてくすんだサン・ジェルマン・デ・プレの教会の尖塔を見ながら、もう少しここに留まる手立てはないだろうかと考えました。妻はサンドイッチを食べてお腹いっぱいのようで、もうどこにも寄るつもりはないようです。私は、すぐ横にあったカフェ・フロールを指差しました。「ここほど人間や思想がくるくる集まっては通りすぎたカフェはないよ。お腹がすいてないならコーヒーでも飲もうか」と妻にききました。19世紀後半にはユイスマンスなどの頽廃派の拠点となり、その後、バレス、バンヴィルら反ドレフュス派の司令部となり、その流れからシャルル・モーラスのアクション・フランセーズの溜まり場、戦後すぐはサルトルの仕事場兼事務所で、その二階はゲイの出会いの場となり、現在はその歴史的興味から観光客専門のカフェになっています。パリに住み、あるいはパリを訪れた文学者・思想家で、このカフェを訪れたことのない人間はほとんどいないだろうことを考えるとその文化史的興味は相当なものですが、しかし、それは過去の話で、今は観光客に混じって往時の亡霊がさまよい出るのを待っている他はありません。ちょうど昼時で、店内は満席で、荷物を持って奥へ入る気もしません。カフェ・フロールはあきらめて、かつて何度か訪れたカフェ・ボナパルトに行こうかとも思いましたが、目と鼻の先にあるその場所にも行く気力がなくなりました。雪の中に立っていて、足がさらに痛くなったのです。もう、空港まで行こう、と仕方なく苦渋の決断をしました。ぐずぐずせずにパリを離れることにしたのです。

 リムジンバスの発着所であるシャルル・ドゴール広場まで行くため、ちょうど2枚残っていた切符を使ってメトロに乗りました。シャルル・ドゴール広場は、一般にエトワールEtoile と呼ばれています。凱旋門を中心に星型に道が伸びているからで、オスマン男爵のパリ大改造以来、ここがパリのシンボルとなりました。しかし、実際は凱旋門の上にのるのでなければメトロの乗り換え以外では訪れない場所です。雪の降る冬の凱旋門近辺はものさびしく、リムジンバスの発着所だけが大きな荷物を抱えた人々で混雑しています。私たちは、往復で買ってあったチケット(一人24ユーロ)を見せてバスに乗り込みました。白く凍りそうなパリの街をバスが通り過ぎていくとき、さまざまな不定形な思いが私の頭の中をよぎります。

 今回のパリ旅行はどうだったでしょうか。まずユーロ安、以前一時期170円の時にパリに来たことを考えれば、1ユーロ109円は信じられない安さです。一方、例年にはない寒波が行動に大きく影響しました。雪やみぞれや冷たい雨の中を歩き回るのはたいへんなことでした。せっかくカメラを一台ずつ持参したのに、寒くて億劫なので少ししか撮影できませんでした。しかし、オフ・シーズンのこの時期ゆえに飛行機代もホテル代も割安で、観光客も少なく、スリや盗難の気苦労もあまりしませんでした。私自身は、腰痛や痔が心配で、薬を多量に持ってきたのですが、そちらは全く杞憂に終わった反面、後半に痛風が出たのは意外でした。パリの乾燥した空気は想像以上で、飴は絶対に必要ですし、常に水分を補給しなければなりません。

 クリスマスと週末が途中に続いたので、旅行の計画は立てにくかったのですが、運良くバレエ、オペラ、芝居を組み込めたのは成功でした。今回は、ルーヴル、オルセー、クリュニュー、ギメなどの美術館を訪れないことにしたのですが、しかし、これだけ寒かったならば美術館の中にいたほうがよかったかも知れません。教会は、サン・メダールしか行きませんでした。パリにはまだ入ってない教会がいくつかあるのですが、教会は寒い上に、時節柄ミサが多く、途中で出入りするのが嫌なので足が遠のきました(妻はサン・シュルピスを再訪したかったと言っていましたが)。また、そのことについてはカトリックに対する私の心の迷いもあるのです。カトリック哲学者ジャック・マリタンの妻ライサ・マリタンは、ある時、ジュリアン・グリーンに次のように語っています。イエス・キリストが地上に現れてからまだ2000年しか経っていない。神にとって2000年がなんだろう。救済の試みはまだ始まったばかりなのだ、と。グリーンはこれに同意して、福音書の記述には今に至るも理解不能な箇所がいくつもある、キリスト降誕ということは非常に大きな出来事でその意味が理解される時機はまだ先ではなかろうか、と答えています。私には、このような議論はまったく理解できません。私にとっては、神は現前しており、それはクリュニュー中世美術館の木彫りのキリスト像の中に、あるいはギメ東洋美術館のヒンドゥーの石の神々の中に、いやサン・メダール教会の素朴なステンドグラスの中にさえ存在するのです。神はそれを求める私たちの心の中にしか存在しないように、私には思え、それゆえに、「すべては神の栄光のために!」というイエズス会のモットーを見ると身を引いてしまうのです。

  もう一つ、フランス・カトリックについてはクルティウスが「不純なる神秘主義」と表現しているものが気になります。フランスでは神と国家がしばしば神秘的に混同、ないしは融合されてしまうのです。ジャンヌ・ダルクは神にとって聖女なのか、それともフランスにとって聖女なのでしょうか。モーリス・バレスの「土と死者」に対する敬意はナショナリズムというにはあまりに宗教的です。アクション・フランセーズとカトリックの間には妥協ばかりでなく、親密な関係がありそうです(フィリッポ・アリエスの『日曜歴史家』や『死と歴史』など参照)。ド・メーストルの賛美は神によりもより多くフランスに捧げているように思われます。カトリック・フランスという言葉はナショナリズムにもカトリシズムにとっても何か不純な響きがあるのです。

 ちなみに、私の政治的立場は、スタンダールと同じく自由主義的ロマン主義です(反権威主義的個人主義ともいえましょう)。このような立場がどんな意味を持ち、どんな人々の共感を得るか、よくわからないのですが、しかし、一度限りの人生、つまらぬ妥協や忍従で中途半端な生き方はしたくないものです。宗教もまた、私には個人的にのみ意味を持ちます。党派や宗派は私の中で価値を持たず、信仰はただ、プラス・モンジュの近くで帰り道を教えてくれたミサへ行く途中の老人や、ムフタール通りで物乞いの老婦人に自分のマフラーを与えた婦人や、毎月、死んだ子供のために大師詣でを続けた私の母のような無数の人々の思いの中にしかないように思えます。

 さて、バスは渋滞もなくシャルル・ドゴール空港に到着しました。すでにチェックインしてあるので、荷物を預け、出国審査の列に並ぼうとしました。見ると、右奥の Far East (極東)行きの列には、日本人らしき人たちで長蛇の列です。実は、入国審査の時にも日本人の列の中でかなり待たされたので、またか、と憂鬱な気になりました。ところが、黒人の空港係員が私のところに近づいて、私と妻とをほとんど誰もいない欧州 Europe 行きの列に行くよう指示してきたのです。杖を使っていたので障害者と思われたからでしょうが、そのおかげですぐに出国審査を通過できました。次はセキュリティー・チェックですが、私はこれが苦手で、いつも簡単には通過できないのです。が、今回は私はすっきり通過できたものの、いつも大丈夫な妻が金属探知機を鳴らしてしまい、女性係員に徹底的にボディ・チェックされることになりました。結局、原因物体がわからず妻は解放されましたが、後で気づくと、どうもイアリングが反応したようです。

 ところで、シャルル・ドゴール空港の出発ロビーは昨年全面改装されたとのことですが、これにはかなり失望しました。ブランドの店はかなりありますが、実用的な店は少なく、何よりもきちんとしたレストランがありません。セルフサーヴィスのフードコートは両端にあって、その長い距離を移動するのはたいへんですし、とても料理といえるものではなく、日本のコンビニの方がずっと気が利いています。ひとつだけ便利な店があって、それはパリの美術館のグッズを売っているお店です。私はここでルーヴルのカバのキー・ホルダーを買いました。例によって余った小銭で本を買おうと、雑誌やお菓子を売っている店で、ラ・ファイエット夫人の La princess de Montpensier を買いました。

 帰りの機内、エールフランスとJALの共同運航ですが、ほとんどエールフランスのサーヴィスなのであまり期待できません。往路はやはり共同運航でしたが事実上JALの機材、人員を使っていたので、エコノミーでも料理はまずまずでサーヴィスもきめ細やかで、いつもエールフランスばかり使っている身としては感動さえしました。しかし、帰りは何でも我慢できるものです。妻のチェックインの素早さのおかげで、わずかしかない二人用の席がとれたこともありますが、旅の疲れからか、ぐったりと半ば眠ったような状態で過ごせました。パリを後にして後ろ髪引かれる思いもありますが、それは反面、家で待っている猫と再会できることでもあります。ヨーロッパに出かける時にいつも二の足を踏ませるもの、それはむろんまず費用ですが、その次には飼い猫を違った状況におくことへの逡巡です。毎回、すぐ近くに住む息子が日に二回訪れて、食事と水を補給し、一緒に遊んでくれるのですが(息子は大の猫好きです)、それでも私たちに強い愛着を持つ猫が、急に二人の姿が見えなくなって寂しくないか、また夜は一人で眠れるか、心配は底をつきません。毎日パリから電話して、猫の安否を確認したのは言うまでもないことです。

 成田について、すぐに京成電車に乗りましたが、車内のきれいなことにびっくり。紙くず一つ落ちていません。パリの地下鉄の汚さが懐かしくなりました。そして、人間の均質さ。パリではあらゆる人種が普通に混交しています。京成の駅で降りて、夕方の通りを歩くと、灯りのついた家並みに、ほっとした気持ちがこみ上げてきます。このような安心感を築き上げるために、日本民族が培ってきた気質と努力は相当なものでしょう。それと同じように,パリの街の美しさは数世紀におよぶフランス人の気質と努力の賜物なのです。頑固なまでの保守主義と規律ではなく秩序を尊ぶ精神、それが都市の美的景観への執拗な情熱につながっています。荷物を引っ張って、やっと玄関の扉をあけました。いつも玄関で待っているのに、今日は猫の姿が見えません。奥の部屋に隠れていて、私たちだと気づくと、ミャアと捨て猫のような哀れな泣き声を出しました。私が抱き上げると、何という軽さ、いつもずっしりと重く感じるのに、半分ほどの体重になっています。妻と代る代る抱いていると、ようやく表情に落ち着きが出て私の指をかみ始めました。部屋に荷物を下ろし、途中で買った弁当を食べ、さて旅の疲れを落とそうと私が湯船につかっていると、さっそくおもちゃをくわえてルーミー(猫の名)が風呂場に入ってきました。

(パリのクリスマス・完)

Photo

最後の日にバルコニーへ出てパンテオンと記念撮影。右に見えるのがリセ・アンリ四世校です。季節がよければバルコニーでワインも飲めたのですが。

Photo_2

パンテオン広場の左側。手前に立っているのが偉大な劇作家コルネイユの像。中央がサン・テティエンヌ・デュ・モン教会。右に見えるのが六世紀初頭にできたクローヴィスの塔。もともとはサント・ジュヌヴィエーヴ教会の一部でしたが、現在はアンリ四世校の敷地に立っています。

Photo_3

スフロ通りからパンテオンを望みます。パンテオンのあるサント・ジュヌヴィエーヴの丘は左岸でもっとも標高の高いところで、反対方向にエッフェル塔を見ることができます。

Photo_4

ソルボンヌの教会。建物も美しいが、その前の広場が何ともいえぬ素晴らしい雰囲気です。右の灯りのついた店がカフェ・エクリトワール。この時は雪が降っていてカメラを持つ手がかじかみました。

| | コメント (0)

2011年2月15日 (火)

パリのクリスマス(7)サン・ジェルマン・デ・プレ

 1227日(月)

 ここ2,3日は天気がよく、シャルル・ド・ゴール空港もすっかり平常に戻っているようで安心しました。明日の帰国便も予定通り出発しそうです。今日は予備日なのでとくに予定はありません。妻の行きたいところをすべて行ったら、私の好きなところへ行こうと思っていたのですが、足の具合が心配なのでホテルから歩いていけるサン・ジェルマン・デ・プレを散歩することにしました。リュクサンブール公園から右に曲がってサン・シュルピスの横を通り抜けてオデオンに出ようと思ったら、セーヌ通りの左に惣菜店のジェラール・ミュロがありました。中に入ってみると、ケーキやパンや高級そうな惣菜が並んでいます。午前中ですが、店は人でいっぱいで、行列ができています。不思議なことに、このような店が好きなはずの妻があまり興味なさそうにぼんやり立っています。私はハムの、妻はツナのサンドイッチを買いましたが、店を出て早速サンドイッチをほおばる私と対照的に妻はまったく食欲がないようです。

 サン・ジェルマン・デ・プレはパリでもっともスノッブな街といえるでしょう。実存主義とジャズはここでは反体制の同義語でした。カルチェ・ラタンの知的さとモンパルナスの狂宴を併せ持ったようなこの街は、今やアルマーニのビルが中心に建つ観光と高級ブランドの街になり、割高なホテルやレストランが軒をつらねます。訪れるたびに変わりつつある街ですが、私はサン・ジェルマン・デ・プレからオデオンを通ってサン・ミッシェルまでの雑踏が好きです。観光客とパリジャンたちがうまく入り混じったこの通りは、ひとたび横道に入ると中世から続く裏通りが縦横に行き交い、ここに住んだ文人たちの面影をしのばせます。そういえばコメディ・フランセーズが生まれたのもこの界隈でした(その通りの名も Rue de L'Ancienne-Comedie となっています)。

 ところで、サン・ジェルマン・デ・プレといえばスノッブな本屋がいくつもあるので、見て回るだけで楽しいです。私の好みの書店は私の知能指数プラス5 ぐらいの書物を並べてあるところで、そういうところは知的刺激が快く、いつまでいても飽きません。カフェ・ドゥ・マゴやカフェ・フロールの並びの書店に入ってみましたが、すぐ手前に新刊書が平積みとなっています。目に付くのは、ペーパーバックで出たばかりのクロード・ランズマンの思想的自伝Le lievre de Patagonie (パタゴニアの野うさぎ)です。10ユーロですが、かなり厚い。表紙の写真もよいが、その書名がすばらしいではありませんか。レジスタンス、サルトルやボーヴォアールとの出会い、雑誌の編集、ドキュメンタリーの制作などが書かれてあるのでしょうが、実は映画『ショアー』を見ていないので、シオニストといわれる彼の思想についてはよくわからないのです。でも面白そうだから買おうかと思いましたが、分厚い本は妻が文句をいうだろうと心配しだした途端、妻の姿が見えないことに気づきました。店内を探すと、二階に上がる階段の横に身をもたせて苦しそうな顔をしています。聞くと、急性胃炎らしい、ホテルの部屋に置いてある薬を飲めば治る、というので直ちにホテルに帰ることにしました。

 サン・ジェルマン大通りに出ましたが、歩いていくにはやや遠いし、タクシーを使うには近すぎるし、メトロの階段を降りるのも面倒です。通りの向こうを見ると、ホテル・マディソンの前のバスの停車場にちょうど86番のバスが停まっていました。サン・ジェルマン・デ・プレ始発のバスでモベール・ミューチュアリテを通ってセーヌ川を渡るバスです。ポケットからメトロの切符を出して急いでそのバスに乗りました。窓から見えるホテル・マディソンは、その一階のサロンでカミユが『異邦人』を書き上げたことで有名です。しばらく待ってからすぐにバスは走り出しましたが、オデオン、クリュニューを越して、あっという間にモベール・ミューチュアリテに到着しました。坂を上ってホテルに入り、薬を飲んですぐに妻は休みましたが、妻によると、どうも昨夜私がいつにもなく不機嫌だったのでストレスで胃が痛くなったということです。確かに、サル・リシュリューの帰りに私のステッキを買いにルーヴルのショッピング街へ行ったのに、妻の買い物に引っ張りまわされたのは心外でした。それから、帰りのモンジュ駅で外に上がったとき、道に迷って、早速地図を出して調べようと(道に迷って地図を見ることが好きなので)していたら、妻がもう老人から教えてもらっていたのでがっかりしたこともありました。しかし、こんなことで不機嫌になるのは人間ができていない証拠で、悪いことをしたと謝ると、足が痛かったら誰でも不機嫌になるんだから気にするなと逆に慰められる始末です。

  妻が休んでいる間、私は椅子に座って昨日キオスクで買ったル・モンド(1227日)を読んでいました。普段はこんな硬い新聞は読まないのですが、パリのキオスクで新聞を買うと、ついル・モンドを買ってしまうのです。私にはル・モンドを開くとある感慨があります。フランス語を学び始めた頃、小説を2,3冊読んだ後で意気込んで丸善でル・モンドを買い、喫茶店で読み始めた途端、ガーンと頭を殴られた感じがしました。知らない単語ばかりでまったく読めないのです。語学の難しさに絶望的になりましたが、そこで諦めず、辞書を2冊引き倒し、部屋中を単語ノートと単語カードでいっぱいにして何とか読めるようになりました。それは非才でも努力すれば物になるという自分への励みでもあります。ところで1227日 付のそのル・モンドに懐かしやフランス五月革命の主導者ダニエル・コーン=バンディがゴダール生誕80周年によせて Godard, mon ami という文を寄稿しています。コーン=バンディが、その後、緑の党に入って、現在ヨーロッパ議会の代議員になっていることはどこかで読んでいましたが、かつての無政府主義者も居心地よい椅子に座ったものです。コーン=バンディにもゴダールにも興味はないのですが、この文は、コーン=バンディのゴダールへの偏愛が表れていて面白い。注目は、むろん、「ゴダール・ソシアリスム」などに見られるゴダールの「反ユダヤ主義」に対して、ドイツ系ユダヤ人であるコーン=バンディがどういうスタンスをとるかです。コーン=バンディによれば、パレスティナに対するイスラエルの非道はユダヤ人に対するヒトラーの非道に等しいというゴダールの主張はパレスティナ側に扇動されたのでなければやはり反ユダヤ主義と言わざるを得ない。しかし、それは暴力的な明確な反ユダヤ主義ではない。ただ、同じ毛沢東主義者であったサルトルにとってユダヤ人が常に迫害の象徴であったのに対して、ゴダールがそうでないというに過ぎない。ゴダールの先入観は、ナチからユダヤ人を守るべきだったのに守れなかった我々は、今こそイスラエルからパレスティナを守らねばならないと信じていることだ。つまり、彼は、セリーヌのような、リヒャルト・ヴァーグナーのような、反ユダヤ主義でありながら人間についての深い貢献をした人々を思い起こさせる。彼の「勝手にしやがれ」 A bout de souffle はあらゆる時代を通じて最高の映画である、、、。それに対してゴダールは、「勝手にしやがれ」は最低の映画で、もし金があれば世界中からコピーを買い取ってしまいたいぐらいだ、と答え、スイス、レ・マン湖のゴダール邸を訪ね、その膨大なフィルムコレクションをもとにゴダール・ミュージアムを設立してはどうかというコーン=バンディの提案に対し、「絶対、イヤだ」 Jamais de la vie! とゴダールが拒否するところでこの文章は終わっています。

 それにしても、このホテルの椅子はとても座り心地がよいので驚きました。しかも肘宛の先にライオンの頭が彫ってあって、それを撫で回していると次々に良いアイデアが浮かんできそうな気がします。2時間ほどで妻が起き出して、もうすっかり元気になったと言って、先ほど買ったツナサンドをぺロリと食べてしまいました。そして急に、以前NHKの「世界街歩き」で放送していたパサージュ・ジュフロアのステッキ専門店に行ってみようと言い出しました。妻がインターネットで調べてみると、100800ユーロの価格のステッキが揃えてあるそうです。少し高いが、どうしてもライオンの頭の彫刻のあるステッキが欲しくなったので行ってみることにしました。むろん、放送で紹介していた短刀の隠された仕込杖は空港で引っかかってしまうでしょうが。

 2時ごろホテルを出て、サン・テティエンヌ・デュ・モン教会からクローヴィス通りの坂をカーディナル・ルモワーヌの駅へ向けて降りはじめました。すぐ左の本屋がめずらしく店を開けていたので覗いてみることにしました。老婦人が二人で暇そうに店番をしている小さな本屋で、棚には新刊書と古本が分けて並べられています。古本は値段付けがやや高めなので新刊の Imaginaire Gallimard 叢書の一冊、ローベルト・ヴァルザーの Le Promenade 5ユーロ)を買うことにしました。レジでお札を渡し、おつりをもらって、さて老婦人が本を袋に入れようとしたらその本が見当たりません。何ともう一人の婦人が夢中になって読んでいるではありませんか。なんとものんびりした話で、はっと気が付いてきまり悪そうに彼女は本を差し出しました。

 クローヴィス通りを下っていくと、男の人が何やら写真をとっています。何をとっているのかよくわからなかったのですが、どうも崩れかけた壁のようです。近づいてみると、有名な12世紀の遺跡、フィリップ・オーギュストの城壁ではありませんか。私もカメラをとりだして写真を撮り、城壁の石を撫でてみました。クローヴィス通りからカーディナル・ルモワーヌ通りに入ると、ヴァレリー・ラルボーの持っていた大きなアパートがあるはずでしたが、番地を忘れたので見つけられませんでした(実は71番地)。裕福なラルボーは、このアパートを緑内障に苦しみながら『ユリシーズ』を書き続けていたジェイムズ・ジョイスに貸してあげるのです。ジョイスは子だくさんの狭いアパートから解放されて、1921年にここで大作を完成させました。

 メトロのカーディナル・ルモワーヌから地下鉄を乗り継いでグラン・ブルバール駅へ。外へ出ると、寒いのにたいへんな行列ができています。その行列の先をたどってみると、マダム・クレヴァンのろう人形館でした。面白いことに、これだけの長い列にもかかわらず日本人が一人も並んでいないことで、人形大国日本に暮らしているとろう人形なぞ馬鹿馬鹿しくて見れないのでしょうか。ところで、そのクレヴァンのろう人形館も入っているパサージュ・ジュフロアに入ると、ここも観光客でけっこう混んでいます。目当てのステッキ専門店に行くと、な、なんと今日(27日)から年末の休みに入ったという張り紙がしてありました。ホームページで調べたのなら休みも確認しておけばいいのに、と思ったのですが、ぐっとこらえて妻には何も言いませんでした。仕方なくウインドーに並べられているステッキを眺めると、鷲や犬や蛇や馬はあるのにライオンのステッキはありません。せっかく来たのでパサージュを散歩しようということになり、ミニチュアのおもちゃで知られるパン・デピスやぬいぐるみや家具や本屋や骨董品店を覗きました。続いて、通りを越して連続しているようなパサージュ・ヴェロドーにも入りました。しかし退屈な店が多く、グランジュ・バトゥリエール通りに出ると、小学生か中学生らしい女の子三人が大きな地図を広げて私のほうに近づいてきました。すぐに噂のジプシーのスリに違いないと感づき、急いで離れましたが、その後物陰に隠れて様子を見ていました。白人の男性が歩いてくると、また女の子たちが地図を持って近づいていきましたが、男性は丁寧に道を教えています。少女たちも礼を言って去っていきました。どうもジプシーのスリではなかったようです。

 喉が渇いたのでカフェに入ろうと思ってモンマルトル通りに出て、グランジュ・バトゥリエール通りとモンマルトル通りの角にあるカフェに入りました。店の前に張られている値段表を見るとコーヒーは1,8ユーロと格安です。店内のカウンターにはスキンヘッドの男とか明らかに商売女と見られるミニスカートの厚化粧の女とか危なそうな人たちが酒を飲んでいます。私たちは窓際の明るい席に座りましたが、なかなか注文をとりに来ません。やっとカウンターから出てきたマダムに私たちはコーヒーとパスティス51を注文しました。パスティスはアニスの風味のする酒で水で薄めると白濁します。妻は一口飲んで顔をしかめましたが、この酒は飲みなれると無性に飲みたくなります。痛風だとしたら酒は厳禁ですが、一杯飲んだら止められなくなってもう一杯飲みました。勘定しようとマダムを呼んでもなかなか来ません。小銭をぴったり置いて外に出ましたが、この店にはモンマルトルの下町にあるような怪しい雰囲気がありました。

 メトロに乗って再びサン・ジェルマン・デ・プレへ向いました。まずサン・ミッシェルの方からケ・グラン・ゾーギュスタンをセーヌ川に沿って歩きました。今度のパリ訪問でセーヌ川を見るのは今日が初めてです。夕闇がもう少しで訪れる微妙な時、セーヌ川の上には重たい雲がかかっています。この寒さの中でも川岸のブキニスト(古本屋)は店を開けていました。しばらく歩いて、左に曲がり、グラン・ゾーギュスタン通りに入ります。その25番地のアパートにプレートが張られていて、ここに17世紀のモラリスト、ラ・ブリュイエールが住んだと書いてあります。彼の著『カラクテール』は私たち夫婦の共通の愛読書でもありました。また、この25番地はハインリヒ・ハイネが妻のマチルドと結婚生活をすごしていた建物でもあります。ドイツから亡命してきて10年目、42歳のハイネはパレ・ロワイヤルの手袋店で働いていた21歳のマチルドと結婚します。彼女は美しかったが、知的能力に劣っており、ドイツ語を覚えられないためハイネの詩を読むこともできませんでした。この結婚はジョルジョ・サンドや他の文学仲間から猛反対されましたが、すでに梅毒の第二期症状が出始め、病気と貧困に喘いでいたハイネを助け、忠実に尽くしたのは彼女だったのです。マチルドは「詩人としてではなく人間として」自分を愛してくれたとハイネは友人に語っています。

 サン・タンドレ・デ・ザール通りに出てサン・ジェルマン・デ・プレ教会の方へ進み、セーヌ通りに出て右に曲がります。この辺はにぎやかな店が並び、ビストロやバーの明かりが瞬きます。もう真っ暗に日が暮れてきました。セーヌ通りがセーヌ河に出る一つ手前のボー・ザール通りを左に曲がりました。この通りのL'Hotel というホテルで軽く何かを食べようとしたのです。実は妻はこのホテルに泊まりたいと言っていたのですが、オフシーズンの割引がないので私たちの予算ではとても無理でした。L'Hotel はパリ随一の文学ホテルで、かのオスカー・ワイルドが死んだ場所でもあります。またボルヘスの定宿でもあり、妻はこのホテルの丸い幾何学的な吹き抜けの下で上を見上げるボルヘスの写真と同じポーズで写真を撮りたいと言っていました。しかし、L'Hotelはわずか20室の小さなホテルで、ふらっと入るわけにはいきません。それでレストランで一品ずつ頼んでその文学的雰囲気を楽しもうと思ったのですが、今日は不運続きでホテルの玄関に張られた紙を読むと今日(27日)までクリスマス休みでレストランは閉めるというのです。がっかりしてボナパルト通りをサン・ジェルマン大通りに向って歩きました。夜のボナパルト通りは観光客でいっぱいです。ラデュレのサン・ジェルマン・デ・プレ店は外まで人があふれていました。しかし、通りに並ぶ小さな店はそれぞれ面白い。自筆原稿や手紙を商う店のウインドーには妻の欲しがるドラクロワの書簡も飾ってありました。私たちはサン・ジェルマン大通りの交差点にあるモノプリで、うっぷんを晴らすようにたくさん食べ物やワインを買ってホテルに帰りました。ところで、オスカー・ワイルドは青春の一時期に私の憧れの作家でした。『ウインダム卿夫人の扇』や『嘘の効用』に出てくる警句をよく引用して友人たちに「またか」と煙たがれたものです。一番好きな作品は『わがままな大男』ですが、いやワイルドの作品はみんな好きです。ボルヘスは「ワイルドの言ったことはすべて正しい」と書いています。

1b

私がたいへん気に入ったホテルの椅子。肘当てにライオンの頭が彫られています。

2b

12世紀にパリを囲んでいたフィリップ・オーギュストの城壁。何度もここを通ったのに気づきませんでした。

3b

まさに暮れなんとする時間のセーヌの河岸。凍るような寒さなのに古本屋が店を開けています。右奥にノートル・ダム大聖堂の二つの塔が見えます。

4b

グラン・ゾーギュスタン通り。パリでもっとも古い通りの一つ。左のこげ茶の入口の建物がラ・ブリュイエールが住み、後にハイネが結婚生活を送った25番地のアパート。

5

L'Hotel の正面。もともとはマルゴ王妃の別邸で、ベル・エポックの女神ミスタンゲットも愛したホテル。その16号室でオスカー・ワイルドは生涯を終えました。

6

L'Hotel の玄関の左に飾られたワイルドのレリーフ。扉の右にはホルヘ・ルイス・ボルヘスを記念するプレートが張られています。

 

| | コメント (0)

2011年2月 6日 (日)

パリのクリスマス(6)コメディ・フランセーズの『三人姉妹』

 1226日(日)

 クリスマス明けの日曜日。まだパリは深く眠っているように物音一つしません。私たちも、昨夜の観劇の疲れからか、陽が上がってから目が覚めました。もう10時近くなっています。リセ・アンリ四世校の横を通ってコントルスカルプ広場まで行く途中に、いつもと違う道を歩くと、よくピアノのコンサートが開かれるサン・テフレム教会がありました。日曜のミサが行われているようで、扉は半分開いていましたが、18世紀に建てられた狭い小さな教会で、ミサの途中に入るのはさすがに憚られます。坂をさらに下ると、辺りの建物とは少し違った建物がありました。なんと、エコール・ノルマル(高等師範)の物理学研究所で、入口横のプレートにはこの研究所出身のノーベル賞受賞者の名が記されていました。冬休みで閉館しているようで、人の気配はしませんでした。ここはカルチェラタンの奥まった小道が錯綜しているところで、どの道を行っても、コントルスカルプ広場かムフタール通りに出てしまいそうです。

 ところで、カルチェ・ラタンQuartier-latin とは、ヨーロッパ共通語のラテン語が普通に使われる街区ということで、考えようによってはたいへん鼻持ちならない場所といえます。語尾変化の複雑なラテン語を習得できる時間と能力に恵まれた人間はほんの一部の人間たちですが、そのような人種がパンテオン広場(かつてのサント・ジュヌヴィエーヴの丘)のサント・バルブ学寮やサン・ミッシェルやダンテ通りの学寮に住み込んで学問と論争に明け暮れていたわけです。ヨーロッパ中から我こそはという若者やインテリが集まってくるので、当然そこには学問以外に酒や賭博や女がからんできて、夜遅くまで喧騒の絶え間もなかったでしょう。当時のメイン・ストリートであるサン・ジャック通りには夕方になると娼婦が出没したそうです。また、夢破れて酒に身を持ち崩す者、愛欲に溺れて学問の意欲をなくし、失意のうちに郷里に帰るものもいたことでしょう。その中で、後世まで名を残す人間はやはり偉大で、その中には、ピエール・アベラールやアルベルトゥス・マグヌス、トマス・アキナスなどの名が燦然と輝いています。

 さて、ムフタール通りに入ると、すぐ右側に Student Bar なる店がありました。何かすごく安そうで、午後五時からはハッピータイムでさらに安くなるそうです。左側には、9ユーロで前菜・主菜・デザートが食べられるレストラン、さらに朝からワインを飲んでいるスタンド、ごちゃごちゃした土産物屋もあります。今朝の目的は、別になく、またモンジュ Le Boulanger de Monge でパンを買いに来たのです。前回もらったカタログを見て、いろいろ買うのを考えていたのですが、まだ朝なので種類は少なく(売り切れていたかも)、再びクロワッサン(0,9ユーロ)2個、バゲットの半分(0,6ユーロ)、エスカルゴ(アーモンド1,3ユーロ)とパン・オ・ショコラ(1,2ユーロ)を買いました。サン・メダール教会の一つ横の道を歩いていると、有名なパティスリー、カール・マルレッティがありました。小さな店ですが、外側からも高級そうな雰囲気が見てとれます。せっかくなので入ってみることにしましたが、心の準備ができていず、またケーキの名前もよく知らないので、どれにしようか迷いました。ショーケースには、天国のテーブルにはこんな物が並んでいるに違いないと思わせるような色とりどりの輝くばかりのケーキが並んでいます。客は私たちだけですが、三人いた店員はすべてモデルかと思う美形で男も女も黒一色のスーツを着ています。二つしか買わなかったのですが、応対は非常に丁寧でした。というか丁寧すぎて堅苦しく、ムフタールの市場の八百屋で買い物するほうがずっと楽しいと妻は言っていました。

 帰りにムフタール通りで、果物や飲み物などを買って、ホテルで朝昼兼用の食事をとりました。モンジュのクロワッサンはやはりおいしく、これで0,9ユーロとは驚きです。バターをたっぷり使っているが、べたべたせず後味がよい。ぼろぼろ皮がこぼれるカイザーのクロワッサンも捨て難いが、、、と考えていると、あの小食のプルーストが好物のクロワッサンを毎日欠かさず食べたことを思い出しました。その後、気合を入れてカール・マルレッティのケーキを食べましたが、悲しいことに味を忘れてしまいました、、、。

 12時にホテルを出て、昨日と同じメトロのプラス・モンジュから7番線に乗り、パレ・ロワイヤル・ミュゼ・デ・ルーヴルで降りました。駅前の広場に面して建っているのが、サル・リシュリーです。芝居の開演の2時までずいぶん間があったので、リシュリュー通りを散歩することにしました。といっても物凄く寒いので早足になります。日曜なので店はすべて閉じられていて、歩く人も全くいません。このリシュリュー通りに並行して続くパレ・ロワイヤルに沿うモンパンシェ通りにはコクトーの住んでいたアパートがありますが、私たちの目当てはリシュリュー通りに三ヶ所あるスタンダールの住んだ建物です。45, 61, 69 番地がそうで、69番の建物にはプレートが掲げられていました。ここまで来ると、パリ国立文書館はすぐそこです。

 サル・リシュリューにもどって、受付ロビーに入りました。実は、コメディ・フランセーズのチケット料金を払いこんでいたのにチケットが届かないので妻がメールで問い合わせたところ、当日開演30分前に受付に来てくれという返事がきました。行ってみると、私たちのチケットがすでに準備されていました。コートと帽子とマフラーを預けて、二階のpremier balcon 26ユーロ)へ。扉のところに立っていたタキシードの係員が私たちを席に案内し、今日の芝居のパンフレットを渡してくれました。サル・リシュリューの料金は三段階で、39ユーロ、26ユーロ、12ユーロです(開演1時間前には、それぞれ24,18,9 ユーロになります。ただし、売れ残っているのは3階席が多いようです)。館内はオペラ・ガルニエよりはかなり狭く、それが親しみを感じさせます。コメディ・フランセーズの劇場はサル・リシュリュー(862席)の他に、左岸のヴュー・コロンビエ座(300席)、ルーヴルのステュディオ・テアトル(136席)があります。

 今日の出し物はチェーホフの『三人姉妹』 Les Trois Soeursです。このチケットを買ってから、家にあった古い岩波文庫の湯浅芳子訳『三人姉妹』を読み始めたのですが、訳文が鈍重でなかなか話の中に入っていけません。半分ほど読んだところで妻が図書館で英訳本を借りてきたので、そっちを読んでみると、すらすら頭に入ります。英訳は透明感、スピード感、めりはりがあって、夢中になって最後まで読みました。湯浅訳は会話が不自然でぎごちなく、とてもロシアの家庭の雰囲気を想像できません。台詞を覚えるために英訳本を二度読んでから、光文社の古典新訳文庫の浦雅春訳も読んでみました。大分読みやすいが、まだ女性の会話に不自然な感じがあるようです。そうこうするうちにフランス語訳が届きましたが、台詞をほとんど覚えていたので楽に読めました。これほど準備をして芝居に臨んだのですが、何と開始早々眠ってしまいました。妻に何度も腕を揺すられ起こされましたが、実は昨夜あまり眠れなかったのです。というのも、ホテルでは空調を30度ほどにして毛布一枚で寝るのですが、暖房のおかげで乾燥して喉がくっつくように渇くので、レセプションから毛布をもう一枚出してもらって、温度を低くして眠りました。しかし、今度は暑くて汗をかいて目が覚めてしまいました。浴室でシャツを洗って、冷蔵庫の上の暖かい場所で乾かしながらワインやコーヒーを飲んでいたら目がさえて、やっと夜明け頃寝付きました。そういうわけで第一幕、第二幕は眠ったり起きたりでぼーとしていました。二幕と三幕の間に休憩があって、一階の廊下にあるバー・カウンターの周りはいっぱいになりましたが、雰囲気はバスチーユやガルニエとずいぶん違います。まず、ほとんどが白人で黄色人種は私たちのほかは若い女性が一人いただけでした。また、一見してインテリっぽい人が多く、学生らしいグループもよく目につきました。フランスの地方から来たような主婦仲間や芝居好きの中年夫婦も目にしました。オペラに比べると全体的に落ち着いていて、廊下にはボーマルシェやマリヴォーなどの劇作家の彫像が並んでいます。

 幕間に飲んだコーラのおかげで後半の第三幕、第四幕はしっかり観劇できました。台詞を次々に思い出して、次の言葉、場面が正確に予測できます。実はシナリオを読んでから芝居を観るという体験は初めてなのでいろいろ驚くことがありました。家で静かに戯曲を読んでいる時は、会話の意味内容に没入して、人物の声の大きさとか振舞いの強弱などにあまり注意を払わないのですが、現実の芝居では人物の動作が大きく、怒ったり憔悴したりの表現が過度に出るので先入観が修正されることがよくあります。妻によるとコメディ・フランセーズのフランス語はとても美しいらしいですが、確かに一語一語とてもわかりやすく、明確に発音されています。また、舞台の構成も秀逸で、よくあるような暗い背景で話者だけスポットライトを当てるようなことは全くなく、終始全体が明るく、舞台装置も斜めの動線で動きを立体的にしており飽きることがありません。とくに私たち二階席からは舞台全体が非常によく見えました。演技の良し悪しはよくわからないのですが、皆ベテランですべて堂に入っている感じです。最後の第四幕は、悲しみが覆って、劇場の観客と登場人物が境を越えて融合するような感覚にとらわれました。そして静謐なるラスト、なるほど人生とはこういうものだったのか、という感動に襲われます。

 『三人姉妹』は、田舎町に住む軍人家庭の三姉妹の夢と現実を描いています。多彩で興味深い登場人物の中から一組だけ紹介しましょう。二女のマーシャは18歳の時に年上の学校教師と結婚しますが、世界一賢いと思っていた夫は俗物だとわかり、楽しみのない結婚生活を送っています。その頃、モスクワから師団長として赴任してきたヴェルシーニンは、神経病の妻と二人の幼女のいる息の詰まりそうな家を逃れてマーシャの実家に度々お茶を飲みにやってきます。人生に失敗し、恐らく現世ではもはや取り返しのつかないであろうことを自覚した二人が、それゆえに秘めた愛の炎を燃やします。しかし、(チェーホフの話がたいていそうであるように)ヴェルシーニンは部隊の移動とともにマーシャのもとを離れていき、現実を覆すことは何も起こりません。最後の最後に長く長く抱き合う二人、影からそれを覗くマーシャの夫は実は妻の心が自分から離れていることを知っているのです、、、。

 幕が降りてから、下のグッズ売場をじっくり見ていきました。欲しいものがたくさんあったが、高いので買えず(コメディ・フランセーズ創立の年1680を印字した文鎮や万年筆、ともに24ユーロなど)、妻は思い出に鉛筆(0,75ユーロ)を一本だけ買っていました。チェーホフが描くように現実の人生はまさにそのようなものです。100円もしない品物なのに売場の人は丁寧にきれいな袋に入れてくれました。後でじっくり見ると鉛筆の側面に代表的な出し物がぎっしり書いてあります(ル・シッド、フィガロの結婚、シラノ・ド・ベルジュラックなど)。コメディ・フランセーズの歴史はかなり複雑で、別名「モリエールの家」と言われるようにモリエール抜きには語れないのですが、その歴史の曲折は彼の死後にあります。格調高い演技と演出によってフランス古典演劇の伝統を死守するという信念はもはや時代遅れでしょうが、ナポレオンが語ったように「コメディ・フランセーズはフランスの光栄だが、オペラ座はフランスの虚栄だ」という言葉には何がしかの真実があるように思われます。

 実は帰り際にサル・リシュリューの階段を下りているときに右足の甲が痛くなったのですが、痛風ではないだろうが、念のため杖を買っておこうと、すぐ目の前のカルーゼル・デュ・ルーヴルというルーヴル美術館の地下のショッピング街に寄りました。しかし、杖を売っているような店はなく、ただ、ロクシタンやフラゴナールで妻の買い物に付き添っただけに終わりました。お腹がすきましたが日曜でほとんどの店は休みなので、カルーゼル・デュ・ルーヴルのセルフサービスのフード・コートでタブレ(クスクスのサラダ)を食べました。隣のテーブルに非常に軽っぽい日本の女子大生らしきグループが座って食事をしながら馬鹿話をしていたのですが、帰るときにテーブルをパンくず一つなくきれいに片付けていったのには驚きました。

 足が痛いので、ただちにホテルに帰ることにして7番線でプラス・モンジュへ。ところが、メトロから上へ上がるときに、いつもの出口でない出口から出てしまいました。場所の方向感覚がわからなくなったので、ポケットから地図を出して調べようとしていたら、もうすでに妻が誰かに教えてもらっています。かなり老齢の男性で一緒に歩いてくれば分かると言っているようです。私は妻と老人が並んで歩いている少し後からついていきました。モンジュ通りを渡って、小さな泉のようなものがある階段を上がって、石畳のような細い道に入りました。おっと気が付いて暗い中で地図を見ると、以前から気になっていたrue Rollinです。この道はかなり古い歩行者専用道で、地図では点線で表されています。老人と妻が話しながら歩いているのですが、その話し声が聞こえてきます。老人は先ほどのモンジュ通りの裏のリュテス闘技場(ローマ時代の遺跡)のそばに住んでいると言っていました。リュテス闘技場を知らないらしい妻は生半可な返事をしています。老人は子供の頃からここに住んでいるらしく、この辺りのことを妻にいろいろ話をしていました。私たちのホテルをよく知っていて、その近道を教えてくれました。コントルスカルプ広場の手前で別れましたが、妻によるとミサのために教会へ行くと言っていたそうです。おそらくサン・テティエンヌ・デュ・モン教会へ行くのでしょう。

1

Carl Marletti のケーキ。パティシエが相応の尊敬を受けるのは、ここフランスにおいてだけでしょう。左が妻が選んだ Le Marie Antoinette(4,7ユーロ) マカロンの生地の間に妻の好物の木苺がぎっしり詰まっています。右が私の好きなチョコレート・エクレアを二つ重ねたReligieuse Chocolat (3,6ユーロ)。ルリジュース(修道女)がスカートを広げて歩く姿を思わせます。

2

日曜のリシュリュー通りを歩きます。寒かったが足取りは軽い。奥の右側に見えているのがパリ国立文書館。ベンヤミンは『パサージュ論』を書くため、毎日左岸のホテルからこの通りを通って国立文書館に出向いていたのでしょう。ここの資料がどうしても必要だったため彼のパリ脱出は遅れてしまいました。

3_2

モリエール通りがリシュリュー通りに合流する広場にあるモリエール像。一介の劇作家兼俳優のために、これほど立派な記念碑が建てられたことが、わが国にあったでしょうか。

4

リシュリュー通り61番地に張られたプレート。スタンダールはここと45,69番地で『ローマ散歩』と『赤と黒』を書きました。

5

69番地のアパートだけが今でも外見を変えずに残っています。

6

コメディー・フランセーズの本拠地サル・リシュリュー Salle Richelieu。パレ・ロワイヤルの一角、ルーヴル美術館の前という絶好の立地にあります。

7

サル・リシュリューの観客席。劇場も俳優も出し物もすべてが満足する内容でした。

 

| | コメント (0)

« 2011年1月 | トップページ | 2011年5月 »