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2011年1月30日 (日)

パリのクリスマス(5)クリスマスのオペラ・ガルニエ

 1225日(土)

 今日はフランスは祝日(クリスマス)で、たいていのお店は閉まっています。昨日の雪が収まって、朝からめずらしく良い天気の予感がしました。思い切ってバルコニーに出てみると、しかし、すごく寒い。パジャマのままだと体の芯まで冷たくなるようです。パンテオンも今日は閉館日なのに次から次へ見物客が来て、そして閉館と知って、がっかりして帰って行く人、それでも記念に並んで写真を撮っていく人などもいます。双眼鏡で久しぶりに雪の降らない空を見てみると、遠くになんと北駅近くの聖ヴァンサン・ド・ポール寺院の二つの塔が見えました。観光客を除いては、クリスマスのパリは静まり返っています。そういえば、パリの街を歩いてもクリスマス・ソングなど一切聞こえず、サンタ・クロースの姿も見かけません。フランス人にとってクリスマスは、日本人にとっての正月のようなもので、友人同士で楽しむのではなく、一年に一回、親類が集まってプレゼントを交換し合い、無事を確認しあう日なのでしょうか。テレビをつけると、雪のためシャルル・ドゴール空港でイヴを過ごした人(200人ほどに減っています)の様子が映し出されていました。驚いたことに、泊り込みの人たちにシャンパン、海老、ハム、ソーセージ、サラダなどの料理、子供たちには素敵なおもちゃセットが配られています。あーあ、空港に泊り込んでいればよかった、とつぶやくと、妻はあきれています。

 メトロでミロメニルへ。今日は妻の希望でジャックマール・アンドレ美術館へ行く予定をたてました。地下鉄から上へ上がると、ペルシエール通りは全く人気がありません。まっすぐ行ってオスマン大通りを左に行くとまもなく美術館の旗が見えました。入口から中庭に抜けてぐるっと回ると、たいへん立派な玄関のある建物です。10ユーロを払って中に入ると、見物客が大勢いました。日本人も多いようです。この日は他の美術館や観光スポットがほとんど休みなので、年中無休のこの美術館に観光客が集まってくるようです。さて、中に入ると、さっそく華やかな天井画やシャンデリアが目を引きます。うろうろしていると、ドイツ人っぽい中年婦人が近寄ってきて、音声ガイドがありますよ、と英語で教えてくれました。一人できた見物客らしいのですが、私たちはその親切にたいへん感謝しました。入口に戻って探すと無料の音声ガイドがあって、各部屋を日本語で詳しく説明してくれます。ここは19世紀の大ブルジョアの邸宅ですが、金融業で得た資産をイタリア・フランスの美術品に費やし、かつそれらを所蔵・陳列するために豪奢な部屋部屋を作り上げたとのことです。趣味は私の好みではないし、所蔵品も最高というわけではありません。しかし、この邸宅は(カルナヴァレなどの貴族の邸宅と比べると)重々しさがなく軽快で住みやすそうな感じがしました。窓からの採光の感じ、温室の明るさなど19世紀の合理性の良いところが出ています。

 見終った後で、一階のタペストリーと天井画で飾られた食堂でランチを食べました。妻は好物のほうれん草のキッシュ、私は昨日の食事が腹にもたれているのでサラダを注文しました。妻はキッシュが大きすぎて食べられず、私も山のように盛られた野菜をだいぶ残してしまいました。外に出ると、オスマン大通りは車も少なく、日本の元旦のように静まり返っています。店という店はすべて閉まっています。メトロの駅まで歩こうとして、Boulevard Houssmann という表示を見ていたら、突然プルーストの住んでいた家へ行ってみようと思い立ちました。手帳で調べてみるとオスマン大通り102番地です。歩き始めたが、なかなか102番地にたどり着きません。あまりの寒さで歩調も怪しくなったので、妻が先に行って探してくると言いました。132番地の六叉路の彫像の下で待っていましたが、ふと銘を読むとオスマン男爵の彫像ではありませんか。G.E.HAUSSMANN1809-1891)はナポレオン三世の下、セーヌ県知事としてパリ大改造計画を実行した人物ですが、17年にわたる改造でパリの街路は一変しました。中心部の狭い街路や貧乏人の集まる通りは一掃され、今あるオスマン大通り、サン・ジェルマン大通り、オペラ大通り、エトワールから延びる街路などが造られました。これは古いパリの破壊、暴動とバリケードの街、パリの大改造でした。輸送や衛生や何より「美的」見地から概ねこの改造は肯定的に評価されています。道幅によって高さをそろえた美しい街並み、市民の憩うさまざまな大きな公園、威容と華やかさを備えた建築群など、近代のパリの美しさの根本がこの改造によって成し遂げられたというのです。これについての異論をクルティウスは『フランス文化論』でこう書いています。パリの近代化は必要なことであったが、そのために失われたことも多かった。すべての道が広場に集中し、そこから放射状に広がる構造は事故と渋滞を引き起こしやすくした。曲がりくねった小道を廃して直線的な大きな街路を造ったことは、都市景観の単調化をもたらした。モンジュ通りの長く続く単調さに感心する者は一人もいまい。(このことは、全くそのとおりで、リヴォリ通りやオペラ大通りを歩いても何の感動もありません。裏通りこそ、かつてのパリの面影をしのばせます。)パリを訪れる旅行者は近代的な大通りにばかり心を奪われ、ごく近くにある古きパリの美を見落としがちである。「パリ賛美者と称する幾万の人々のうちで、14世紀以来ほとんど全く変わっていないようなブリーズ=ミッシュ街や、また王后カトリーヌ・ド・メヂシスとその宮廷占星家リュグジェーリが天文台に使用した昔のオテル・ド・ソワソンの、カバラ秘教の文字で飾った大円柱を、知っているものが何人いるだろうか。」(『フランス文化論』みすず書房・大野俊一訳)

 さて、先に行っていた妻が遠くから手を振っています。オスマン大通りの広い歩道には人っ子ひとり歩いていないので、妻の赤いコートがよく見えました。急いで行ってみると、確かにオスマン大通り102番地で、今は一階に旅行会社のテナントが入っているのですが、玄関横に大きなプレートが掲げられていました。プルーストはこの建物の二階で紅茶に浸したマドレーヌの体験をしたのです(実際はトーストを紅茶に浸したらしいのですが)。一瞬にして、舞台はコンブレーの大叔母の家と古い教会と記憶の細い細い道をたどってオスマン通り102番地のコルク張りの部屋に帰ってきます。彼はこの部屋で『失われた時を求めて』の大部分を書き上げました。

 寒いので、すぐに近くのメトロのサン・トーギュスタン駅からホテルに向いました。カルチェラタンの辺りの店もほとんどすべて閉まっていました。前日ムフタール通りでお菓子や食べ物を買っておいたので、ホテルでテレビを見ながら食べました。クリスマスだからでしょうか、テレビではカトリックの司祭と知識人が「宗教は人間を幸せにするか」などの題で討論していました。フランスのいわゆるライシテ(脱宗教性)は、数年前以来のイスラム女性の教育現場でのスカーフ着用問題で一躍世人の注目をあびましたが、ライシテの原理そのものはフランス国内ではだいたい合意ができているようです。というのも、ライシテは宗教を排除するのではなく、公共の場から締め出すことによって、宗教本来の務め、個人の精神的自由を保証するからで、これによって宗教相互の自由と平等が成り立つわけです。とはいえ、このライシテの原理そのものが宗教といってもよいので、かつては子息にカトリックの堅信礼を受けさせた公務員の名前を公表するという暴挙まで行われたのですが、そこにはフランス革命以来の強固な信念があります。アメリカ独立宣言(1776)が、人間は創造主によって自由と平等に創られたと言明しているのに対し、フランス人権宣言(1789)は、ただ人間は自由と平等なものとして生まれたと書いてあるだけです。クルティウスは、このフランスの心性を短く的確に言い切っています。すなわち、「人間理性は自己のみにて充分であり、他のものを必要としないという信念」。反宗教的な啓蒙思潮が根付いたのは唯一フランスだけであった、というのも頷けるでしょう。このことは、教育に対するフランス人の取り組みにも現れます。人間は理性を涵養し、自在に使うことによって何者にもなれる、またならなければならない、という考えです。無料、無宗教、義務教育(幼稚園から)というフランス教育の三大原則がここから出ています。

 暗くなってきたので、オペラを観に行くためにホテルを出ました。今日の行く先はオペラ・ガルニエです。プラス・モンジュからメトロ7番線に乗って乗り換えなしでオペラへ。上へ上がるとオペラ広場の真ん中、正面にライトアップされたオペラ・ガルニエが見えます。天気が良いと、このオペラ座の階段やマドレーヌ広場の階段などは観光客で鈴なりになっているのですが、さすがにこの寒さ、座っている人は一人もいません。すぐに開場したので、鞄からチケットを取り出しました。このオペラ・ガルニエの係員は愛想が悪いのでいつも嫌な感じを受けます。前回、前々回、10ユーロと20ユーロのチケットを見せて席の場所を聞いたときは「上」と一言いってそっぽを向いてしまいました。しかし、今回は私たちの BAIGNOIRES 15 no1,no2 というチケットを見ると、他の客は無視して、変に丁寧に行く先を指し示してくれるではありませんか。私たちが言われたとおり左側の廊下の端まで歩いていくと、廊下の一番奥に立っていたハンサムで背の高い男性が駆け寄ってきて、チケットを確認し、15と記された扉を開けてくれました。この扉は係員以外は外側から開けられないようになっているのです。中に入ると、手前にコートを掛けられる小部屋があり、奥に椅子が前四席、後ろ四席ありました。係員は私たちに前の右端の席が12だと教えてくれました。この席は何と115ユーロです。7時半の開演までまだ時間があったので、私たちはコートや帽子を置いて、ガルニエの中を散歩しました。シャンデリアのきらめく有名なグラン・フォワイエで写真をとったり、バー・カウンターでミネラルウォーターとサンドイッチを買ったりしました。席に戻ってみると、小部屋は一席を除いて埋まっています。私たちのすぐ左no.3 の席には太った白人の男性、その隣には一人で来たらしい中年の日本女性、その後ろはやはり一人で来たらしい若い日本人女性、そして私たちのすぐ後ろの席には若いフランス人のカップルが座っていました。この小部屋は舞台の左手横で、舞台全体を見るには体をやや斜めにしなければなりません。それでも窮屈な席がほとんどのガルニエ(観客にとっては最悪です)では最上の席の一つです。

 ところで、今晩の演目はチェコ国民歌劇の傑作といわれるスメタナの『売られた花嫁』La Fiancee vendue 1866) です。あまり期待できないが、しかし、せっかくのクリスマス、ほかにもっとましな演目ができなかったものでしょうか。それでも序曲の快い音楽が流れると、場内はオペラ独特の高潮した予感に包まれてきます。この『売られた花嫁』は、チェコの農村を舞台にした喜劇で、大農場主の息子が、ヒロインの美しい田舎娘に結婚を迫るところから話は始まります。ところが娘には出身の不明な恋人がいて、金持ちの息子の申し出には頑として応じません。そこで息子の仲人はその恋人にお金を与えて、娘がその農場主の息子以外とは結婚しないという誓約書にサインさせてしまいます。恋人に裏切られたと思った娘は激しく嘆き悲しみますが、しかし、その恋人は実は昔行方が知れなくなった正妻の息子だったことがわかり、無事二人はハッピーエンドを迎えます。他愛ない筋ですが、見所はチェコの農村の素朴な祭りと娘たちの愛らしい踊りのはずでした、、、ところが、なんと演出は、場所を20世紀初頭のアメリカとおぼしき田舎に設定して、冒頭いきなりオールドファッションな自動車がゆっくりと舞台に姿を現します。そして、衣装も舞台装置も思い切り簡略化され、何よりヒロインの可愛らしさが全く前面に出てきません。しかも、決定的に納得できないのは、台詞がチェコ語なので、話の筋がよくわからない点です。舞台の上に電光掲示でフランス語に翻訳されるのですが、小さくてよく見えない上に、読み終わらないうちに終わってしまうことが多いのです。私たちの隣に座っていた白人男性はオペラの常連らしく、いい場面でブラボーを連発し、劇場を盛り上げていたのですが、幕間の休憩の時に帰ってしまいました。客席でもうとうとする人が何人か見られ、妻によると鼾(いびき)も聞こえてきたということです。話が単純で盛り上がりに欠けるし、良い意味の緊張感が感じられないからかもしれません。私はむろん半分ほど寝てしまいました。

 しかし、オペラの楽しみは幕間にもあります。各階にあるバー・カウンターを中心に華やかな廊下を人々が楽しそうにすれ違い、シャンパンの栓が抜かれ、語らいの輪が作られます。ガラ公演や大晦日の特別公演ほどではないが、人々の装いは相当にお洒落で、中には振り返らずにはいられないエレガントな人もいます。ところで、妻は、風邪を引くからやめろという私の再三の説得にもかかわらず、この寒い日に袖なしのドレスで幕間の廊下を歩いていました。そんな恰好が違和感ないのもオペラ・ガルニエであり、この第二帝政期のごたまぜの折衷主義のきらびやかさの代表といえる建物がかもし出す魔術なのでしょう。

 夜10時半頃オペラが終わりました。期待はずれで、高額な席をとったことにたいへん後悔しましたが、それでもオペラ観劇の持つうきうきした気分で私たちは正面の階段を下りました。ガルニエの階段の下でライトアップされた建物を見ていると、スペインから新婚旅行で来たという夫婦に写真を撮ってくれるよう頼まれました。画面には、はじけるような二人の笑顔が映ります。ガルニエでオペラを観るということは、その内容がどうあれ、いつまでも無数のシャンデリアの煌きとともに記憶に残ることでしょう。

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ジャックマール・アンドレ美術館の入口。民間人の邸宅とは思えぬ豪華さです。

 

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オスマン大通り102番地に貼られたプレート。プルーストはこの二階で喘息の発作と闘いながら20世紀最高の小説の一つを書き続けました。

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オスマン大通り。右手前がプルーストの住んでいた建物。街路樹が窓に当たってうるさいので、彼は友人のすすめで部屋の壁にコルクを張り、厚いカーテンを引いて、夜昼逆転の生活を送りました。

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オペラ・ガルニエのグラン・フォワイエ(大広間)。向こうの端にクリスマス・ツリーが見えます。

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幕間の観客席。私たちのすぐ前の一階の席が137ユーロ。その後ろの席がもっとも高額(Optima)で180ユーロ。横のバルコニーはやや観にくいが、値段にしてはゆったりできます。

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オペラが終了した後、大階段を下りて帰る人々。次はどんな出し物を観にくることができるでしょうか。



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2011年1月22日 (土)

パリのクリスマス(4)ムフタール通りとバレエ『白鳥の湖』

 1224日(金)

 雪のクリスマス・イヴ。バルコニーの窓を開けると、朝の薄明るい陽の中に、まだ雪が舞っています。テレビニュースによると、シャルル・ドゴール空港では依然として多数の人が出発を待って夜明かし、炊き出しのサンドイッチや飲み物が配られています。氷を溶かす薬剤の備蓄を怠っていた空港当局への非難も出始めました。私たちはコーヒーとヨーグルトとりんごを食べ、九時半頃ホテルを出ました。実は、昨日食べたシェ・ジャヌーの肉がお腹に重くて、二人とも昨夜から食欲が出ないのです。夫婦ともに小食で、これほどの量の肉を普段たべることはまずありません。パンテオンは雪でひっそりと、さらに荘厳さを増しているようです。入り口には10時の開門を待つ観光客の小さな列ができています。私たちはアンリ四世校の脇を通って、ムフタール通りのほうへ降りていきました。

 ムフタール通りは、北のコントルスカルプ広場から南のサン・メダール教会まで、およそ500メートルほど続く昔ながらの商店街で、月曜以外は常設の市場が店を出しています。コントルスカルプ広場からしばらくは学生向けの飲食店、書店、雑貨店などが続きます。その後、チーズ、ワイン、豚肉、鶏肉、魚屋、パン、お菓子などのお店があり、最後は八百屋の集まる広場に至ります。私たちは途中の L'Arbre du Voyageur という新刊書店に入りました。まだ朝なのに何人か客がいます。ここは主にフランス文学関係の書店で、私はいくつか目当ての本を探しましたがすぐには見つかりません。すると、奥で本を見ていた妻が、「この本を買いたい」とシオランの De l'inconvenient d'etre ne 5.6ユーロ)を持ってきました。アフォリズムだし、シオランはフランス語が母語ではないから語彙も少なく帰りの飛行機の中でも読めるだろう、と買うことにしました。

 本屋から出てムフタール通りをぶらぶら歩くと、クリスマスの買出しをする人でにぎやかになってきました。チーズ専門店では店の前にクリスマス用の10-18ユーロのチーズの詰め合わせを並べています。鶏肉やパンの店はもう行列ができていますし、チョコレートのお店はプレゼントを買う人でいっぱいです。ワインの店では、樽の上にグラスを並べて早くも試飲して頬を赤めている人もいます。クリスマス・イヴだからでしょうか、珍しくもシャンパンの瓶があけられていました。雪は、時に激しくムフタール通りを吹き抜けます。子供を連れて、ブッシュ・ド・ノエルの大きな箱を提げてケーキ店から出てくる人もいます。軒下に、寒さのため真っ赤にした顔をタオルで巻いてうつむいたまま座っている老婦人がいました。前に置いた紙コップは雪と泥で汚れています。すると、通りかかった中年婦人が自分のピンクのマフラーを外して、その老婦人の首に巻きつけながら優しく言葉をかけていました。老婦人は皺だらけの紅潮した頬を下に向けて黙っています。その片目から涙の粒が出たように私には思われました。

 ムフタール通りはサン・メダール教会のあるメダール広場で終わります。サン・メダール教会は地味な教会で、左岸ではサン・ジェルマン・デ・プレやサン・シュルピス、サン・セヴラン、サン・ニコラ・デュ・シャルドネなどの立派な教会に比べて観光客の姿もあまり見かけません。しかし、17世紀にさかのぼるこの教会の歴史はいくつかのフランス教会史の重要な舞台となりました。一貫してパリ南東部の貧しい人たちの精神的支柱であり続けたこの教会はユゴーの『レ・ミゼラブル』にも登場します。刑事ジャヴェールの執拗な追及を逃れてジャン・ヴァルジャンは、サン・メダール教会近くのサン・マルセル街に養女コゼットと隠れて住んでいます。浮浪者の身なりをしたジャン・ヴァルジャンは、その深い信仰心から、サン・メダール教会のミサの後に教会前の広場で物乞いする乞食たちに毎回お金を与えていました。「乞食に施しをする乞食がいる」という奇妙な情報を得た刑事ジャヴェールはその鋭い嗅覚でジャン・ヴァルジャンではないかと感づきます。日曜の夕方、ジャヴェールは浮浪者の変装をしてサン・メダール教会の前に座っています。いつものようにミサに出席したジャン・ヴァルジャンが帰り際に教会の前にたむろする乞食たちにお金を与えていき、変装したジャヴェールの掌にも銅貨を置きました。一瞬、目を合わせたジャヴェールはそこにジャン・ヴァルジャンの不敵な瞳を見つけます。一方、ジャン・ヴァルジャンは、19年の獄中生活で培われた動物的な勘で見知らぬ乞食の鋭い眼差しに危険の兆しを感じとります。何気なく家路を急いで、ジャン・ヴァルジャンは、すぐに荷物をまとめ、コゼットを抱えて、夜の闇の中へ逃げ出します。気が付くと、三つの黒影が彼らの後を尾けてきました。ジャン・ヴァルジャンはムフタール通りからパンテオン広場に入り、サント・ジュヌヴィエーブ図書館の周りをめぐって追い手を惑わし、東の方向に戻って、オーステルリッツ橋にたどり着きます。橋守に駄賃を払ってジャン・ヴァルジャンが渡ろうとすると、ジャヴェールら三人の男がすぐそこまで迫ってきました。コゼットを抱え、右岸に渡るとすぐジャン・ヴァルジャンは物陰に潜み追っ手をまくことに成功します、、、

 帽子をとって教会の中に入ると、何人かの人が熱心に祈りを捧げていました。外側から見るよりもはるかに大きい立派な教会です。妻は1ユーロのろうそくを買って、灯をつけ、礼拝堂の前に置きました。教会の中は外にもまして寒さが身にしみます。あまり長居せず、冷えた体を温めるため、私たちは教会前のcafe Saint Medard に入ってコーヒーを飲みました。今日の昼食は、このすぐ近くにあるレストラン Le Tourbillon でとるつもりでしたが、まだ12時には間があります。近くのポール・ロワイヤル通りにあるヴァル・ド・グラースに行ってみることにしました。そこは陸軍病院で、軍事医療の博物館とドーム教会があります。博物館は今日は休みですが、教会の中を見たかったので、寒いけれど歩いていきました。ところが入り口までくると、軍関係の人しか入れないらしく厳重に警護しています。見ると教会はずっと向こうにあって、地図で見ると大きく回り道をしなければなりません。それで、パンテオンに似たドームを遠くから見るだけで満足することにしました。ここの陸軍病院は、第一次大戦の時、医者の卵であったアンドレ・ブルトンとルイ・アラゴンがともに看護士として派遣された場所でもあります。二人は顔を知っていたものの互いを深く知り合うのはこの病院が初めてでした。面白いことに、同じ頃、やはり医者となるセリーヌが傷病兵として送り込まれたのもこのヴァル・ド・グラースだったということです。

 時間が余ってしまったので、私たちはぶらぶらとクロード・ベルナール通りを歩きました。ここはカルチェ・ラタンのいちばん南の外れです。妻が不動産屋のウインドーで物件を見ていたので私も覗いていると寒くなってくしゃみが出てしまいました。それで、隣にあった画材屋に入って温まることにしましたが、画材屋に入れば漫画の得意な妻の買いたいものが山ほどあります。フランスの水鉛筆が欲しかった妻は女主人や店員と何やら話をして、品物を次々に見せてもらっています。若い男の店員は真っ白な紙に水鉛筆できれいな樹の絵をさらっと描き上げて使い方を説明してくれました。結局、数本の水鉛筆を買って店の外に出ると、もう12時を回っています。急いで、同じクロード・ベルナール通りのLe Tourbillon に行くと、すでに老夫婦が一組食事していました。予約はむろんしていなかったのですが、私たちは狭い店の居心地のよい端の席に案内されました。16,5ユーロ(1800円)の定食は一種類のみで、前菜と主菜あるいは主菜とデザートを選べます。二人とも主菜とデザートを頼むと、すぐにラスクとツナペーストのアミューズが運ばれてきました。ツナをのせたラスクはおいしいので何枚も食べてしまいました。主菜はサーモン、茸、米などをパイ生地で包んで焼いたものに泡立てたソースがからめてあります。手間のかかった見事な料理で、味も複雑でそのおいしさは捉えどころがありません。量は多かったが、小食の妻も五分の四ほども食べてしまい、もったいないのでその残りを私がきれいに食べました。すでにその時点でお腹いっぱいだったのですが、デザートは二本のチョコレートケーキで、クリスマス・イヴらしく雪のように白い粉が散らしてあります。これも結構な量で、妻は半分も食べられません。私は白ワインといっしょに妻の分も何とかお腹に入れました。妻は炭酸水、私はコーヒーを食後に飲むと、すでに狭い店内は客でいっぱいになっています。勘定を頼むと請求書と一緒に Paris Best Restaurant という小さな箱入りのカタログが添えられていました。むろん Le Tourbillon もそこに載っています。

 ムフタール通りはまだ雪が降り続いていました。お昼過ぎで、買出しの人々の数はぐんと増えています。イヴの日は早めに店が閉まってしまうことが多いので、どの店も人でいっぱいです。孫を連れてチーズやチキンや果物を腕いっぱい抱えて歩く老人もいます。パン屋や肉屋は店の外まで行列ができていました。帰りにパティスリーでブッシュ・ド・ノエルを買ってホテルで食べようとしたのですが、お腹いっぱいで何も入りません。それでもシャルキュトゥリー(豚肉店)に並べられたおいしそうな惣菜を見るとどうしても買いたくなります。人が多くてあきらめましたが、店の外の雪が吹き込む軒下で、買ったばかりのシュークルートのような惣菜を立ったまま食べている若い日本人カップルがいました。縁日で焼きそばを食べるような、どこか懐かしい光景です。しかし、何でも買ってみて食べてみるということは大事なことです。裕福な旅行のできる人は少ないでしょうが、星付きレストランで食事をしてブランドショップで買い物を楽しみ、ヴェルサイユやルーブルを巡っても心に残るものはほんのわずかです。それよりもクリスマスに雪の降るムフタール通りで、背中を丸めながら二人で、買ったばかりのシュークルートを分け合いながら食べるほうがどれほど思い出に残ることでしょうか。

 とりあえずホテルで休もうと部屋に戻ってみたらまだ掃除がされていません。1階に戻って、掃除するようお願いして、ロビーで新聞や雑誌を読んでいました。このホテルのロビーは洗練されすぎていて落ち着きません。やはり、ふかふかとした大きなソファーとけだるい雰囲気がホテルには似合います。パンフレットによると、このホテルは第一帝政様式に内装されているとのことですが、第一帝政とはナポレオン一世の時代のことで、彼の好みを反映して、ギリシア・ローマの古典に範をとったいわゆる擬古典主義が席捲した時期でした(マドレーヌ寺院やブルボン宮などが有名です)。そう言われてみると、ロビーにはアウグストゥスやブルータスの肖像画が飾られています。部屋にもギリシア彫刻を模した壁の装飾があり、王家の象徴であるライオンが描かれています(数えたら50匹以上)。椅子の肘当てにもライオンの彫刻がありました。そこまで徹底したら風呂の蛇口もライオンにしてもらいたいのですが、そういう頽廃さをこの様式はもっとも嫌います。

 さて、部屋に戻って昼寝をしてしまいました。目覚めたらもう夕方の外は真っ暗です(日没は4時半です)。まだお腹がいっぱいで苦しいくらいでしたが、夜7時半からのバレエを観るために支度しなければなりません。昨日に続いてメトロでバスチーユ広場まで行きました。駅前のオペラ・バスチーユには開場前なのにたくさんの人が集まっています。すぐに入場が開始され、列を作って劇場内に入りました。日本人、それも10代前半の娘を連れた家族が多いのには驚きました。みなクリスマスらしい華やかな装いです。クリスマスにパリで『白鳥の湖』を観るとは、子供時代の何とすばらしい体験でしょうか。日本人ばかりでなく、この特別な日に、客はそれぞれ気取った格好をしています。女性たちはもちろんですが、粋な身だしなみの老人たちもまた多い。このような劇場では観客もまた登場人物の一人です。友人と出会って抱き合う人、あたりの華やかさに戸惑う若い二人連れ、開場したばかりなのに、シャンパンを買って飲んでいる人もいます。私たちは入場するとすぐクロークルーム vestiaire にコート、マフラー、帽子を預け、二階の Premier Balcon に座りました。料金は34ユーロ(3700円)です。パリ・オペラ座の会員カード CARTE OPERAを持っている妻は、あっという間に売り切れたこのチケットを真っ先に確保していました。この劇場は、どの席からもよく観れるよう工夫されていますが、この席がもっともコスト・パフォーマンスが高いように思われます。

 さて、バレエが始まりました。私の音楽の趣味は俗っぽくて浅薄ですが、若い時期のほんの数年クラシックに凝ったことがあり、確かベームか誰かの『白鳥の湖』のモノラル盤を何度も聴いていました。また旅行前にボリショイ・バレエ団のDVDも見ておいたのですが、実際に目の前で見た『白鳥の湖』は予想を遥かにこえる素晴らしいものでした。これがなぜオペラ・ガルニエでなくオペラ・バスチーユで行われたかよくわかります。この世と天上が交差する幻想的な仕掛けはバスチーユの広い舞台でしか成功しません。開幕冒頭から憂鬱な王子ジークフリートは運命の暗い予感に胸塞がれています。侍女やお付きの騎士たちの励ましや慰めにも気が晴れず、狩に出た湖で白鳥の群れの中に美しい王女オデットを見つけます。しかし、圧巻は第三幕の舞踏会のシーンです。悪魔ロットバルトの娘オディールがオデットに化けて舞踏会に現れるのですが、そのブラックスワンの美しい舞いにジークフリートは抗いがたく引き寄せられ、結婚を誓ってしまいます。絶望したオデットは身を投げて死にますが、この単純な物語には様々な解釈が可能です。邪悪さの伴わない美しさはないのですから、オディールのブラックスワンこそ王子を憧れの極に誘ったのではないか、王子は破滅の予感とともにその愛の陶酔に飛び込んでいったのではないか、とも思われます。いずれにしても、最後の絶望的な場面まで一瞬の緩みのない演出です。特筆すべきは王子の家庭教師役とロットバルト役の一人二役を演じたステファン・ブリヨンで、その存在感はすばらしい。オデットとオディールを演じたエミリー・コゼットは映画『パリ・オペラ座のすべて』に出演したエトワールです。妻は、最後の幕では鳥肌が立ったと言っていました。10時半に幕が下りて、ホールは興奮冷めやらぬ、しかし家路に着こうとする観客でいっぱいとなりました。外は寒いが、私たちは満足した気持ちで地下鉄に乗りました。パリでバレエを観ずに帰るのはもったいない、とは本当にその通りです。

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パンテオン広場の朝。雪で白く覆われています。左の電飾されたツリーのところがホテルの玄関。

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Cafe Saint Medard から見た雪のサン・メダール教会。

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教会の中に置かれたクレシュ Creche (キリスト生誕時の群像模型)。

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ル・トゥールビロンの鮭のパイ包み。お腹いっぱいになりました。

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オペラ・バスチーユの全景。旧オペラ座(ガルニエ)に比べて、観やすさ、椅子の座り心地など格段に優れています。私たちのもっとも気に入った劇場の一つ。

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オペラ・バスチーユのロビー。右にバー・カウンター。遠くにクリスマス・ツリーが見えます。

 

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2011年1月15日 (土)

パリのクリスマス(3)ユゴーの家からモロー美術館へ

 1223日(木)

 家にいるときと同じように、朝7時に目が覚めてしまいました。むろん、外は暗い。日の出は840分頃の予定です。バルコニーから外を見ると細かい雪が降り止まず、パンテオン広場は白一色に覆われています。テレビのニュースは真っ先にドゴール空港の雪解け作業を伝えていますが、依然として閉鎖に近い状態のようです。お湯を沸かし、紅茶を飲みながら、昨日買っておいたカイザーのクロワッサンを食べました。モンジュのクロワッサンと比べると非常に軽い。どちらもとてもおいしく優劣はつけられません。

 九時半頃、ホテルを出ました。吹雪のような天気。雨と雪が混じって降っています。こんな日はホテルでゆっくりしたいのですが、旅行者にはどんな一日でも貴重です。今日はアンリ四世校の左隣りのサン・テティエンヌ・デュ・モン教会の横からカーディナル・ルモワーヌまで降りようとしました。一陣の風が吹いて、私の中折れ帽が飛ばされ、映画『ミラーズ・クロッシング』の冒頭のようにくるくると回転しながら道を走っていきました。妻が追いかけるのですがなかなか追いつきません。ようやく教会の階段の下でつかまえました。このサン・テティエンヌ・デュ・モン教会にはパスカルとラシーヌの墓がありますが、見るべきはパスカルの墓で、棺桶から手がはみ出ています。

  今日はマレ地区に行くつもりなので、メトロを乗り継いでバスチーユの駅まで行きました。セーヌ川を渡ればバスチーユまでは歩いても行けるのですが、何よりこの吹雪です。メトロのバスチーユを降りると、目の前に広大なバスチーユ広場が広がっています。サン・タントワーヌ通りを進んでヴォージュ広場に入ろうとしたのですが、そのサン・タントワーヌ通りがどの道かわかりません。何しろバスチーユ広場からは13本の道路が延びているのです。しかもサン・タントワーヌ通りは広場を横切ってナシオンまで続いているので、どちらの方角か間違えると反対方向にも行きかねません。広場から放射状に広がるパリの道路はほとんど支離滅裂で、歩き回るには独特の勘がいります。方位磁石はかつては便利でしたが、携帯、デジカメなど電子機器を携える現代では故障の恐れがあって持ち歩けません。パリは一方通行の道が多いので、それに注意すれば道路の特定が容易にできる場合があります。また、双眼鏡があれば遠くに貼られた道路名のプレートを読み取ることができるでしょう。

 雪が降って手が凍えます。寒い中で、道を探すのは容易でなく、広いバスチーユ広場を半周してしまいました。妻はたいへん不満顔で、それが私をいっそう焦らせます。実は、妻はほとんど怒ったり、文句をいったりすることがなく、私が妻の大事にしている茶碗を割ったときも、妻のパソコンを壊したときもにこにこ笑うだけでした。ところが、パリで道を間違えたときだけは心底怒ったような顔をするのです。同じ道をまた戻ったり、迷ってうろうろするのが我慢できないらしいのです。やっとサン・タントワーヌ通りを見つけても「ほんとうにこの道でいいの?」と何度も聞いてきます。「絶対だいじょうぶ。まっすぐ行って適当なところを右に曲がるんだ」と答えましたが、信用できないという顔をします。実は、私は道に迷うのが好きなのです。パリで道に迷うというのは至福の瞬間で、あれこれ迷って彷徨った挙句、意外なモニュメントにぶつかるといったことは誰でもよくあるでしょう。その後、カフェでビールを飲みながらミシュランの地図で小さな街路の一つ一つをなぞっていくのも楽しいものです。ジュリアン・グリーンは『パリ』(パリ賛美者の祈祷書の一つ)のなかで、「通りから通りへと貴重な時間をたっぷり使った人間でなければ本当のパリはわからない」と書いています。

 雪と寒さ(マイナス6度!)の中、ヴォージュ広場に到着しました。陰気な四角い回廊の南東の角にユゴー記念館があります。常設のもの(ユゴーの寝室や食堂、原稿、写真など)は無料ですが、今は「作家の肖像展」を催しているので有料(7ユーロ)でした。グッズ売場の奥にチケットを販売するところがあるのですが、そこにいた三人の係員の一人が妻に同じことを念を押して三回も聞いていました。むろん妻も私も言っている言葉はわかるのですが、言葉の意味が解らずぽかんとしていました。なんと、24歳以下は4.5ユーロに割引されるというのです。我に帰った妻が必死で否定すると、場はひとしきり笑いに包まれました。しかし、これで何とか妻の機嫌が直ったようです。ユゴー関係の展示はマニアでないかぎり見るべきものはありませんが、特別展に展示されていた作家達の写真は圧巻でした。半分近くはどこかで見たものですが(犬と散歩しているジャック・プレヴェールが尼さんとすれ違う写真など)、はじめての写真も多く、たっぷり時間をかけて見る価値は十分にありました。気取って写真に写っている作家は何か精神の強靭さに欠けているように思います。ヴァレリーやコクトーは、嫌いではないのですが、写真では滑稽です。ボーヴォワールのカラー写真、スカートとネクタイを同柄にしてポーズをつけている写真はパリの女性とは思えぬ野暮ったさです(彼女の生き方も著作も嫌いではないのですが。『第二の性』はどのページを開いても深く鋭い文章に満ちています。なお、私達が前回宿泊したホテルは彼女が『黄金の腕を持つ男』の作者ネルソン・オルグレンと同棲していたセーヌ川際のアパートのすぐ近くでした)。写真からその作家の真実が伝わり、これこそ本物に違いないと思わせるものは、ジャン・ジュネ、ジャック・ケルアック、サミュエル・ベケットなどです。

 ユゴー記念館の外に出ると雪と風が降り止まず、日本から持参の折りたたみ傘はほとんど役に立ちません。そもそもパリの狭い歩道は傘をさしてすれ違うのが不可能です。私たちは、フラン・ブルジョア通りを西に向って歩きましたが、この辺は興味深い店が多いのに寄ってみる余裕がありません。妻が再訪を希望していたカルナバレ館もいつもまにか通り過ぎました。やっとのことで、フラン・ブルジョア通りのはずれにあるフラゴナールの店にたどり着きました。出発直前に、アロマを研究か勉強かしている妻の弟から妻にメールが来て、「おっ、パリか、いいね。マレのフラゴナールで練り香水でも買ってきてよ」と書いてあったのです。フラゴナールのマレ店は、今回のパリ訪問でもっとも感じのよい店のひとつでした。そこで練り香水(parfum solide)を買って、とにかく昼食を食べようと、マレ地区で予定していたレストラン Vins des Pyrennes に向いました。サン・タントワーヌ通りに出ると、雪が降っているにもかかわらずすごい活気です。パン屋、鶏肉屋、菓子屋、カフェ、スーパーなどが、みな客でいっぱいで、これこそクリスマス前の熱気でしょうか。ところで、rue Beautreillis にある目当ての店に行くと、看板に書かれた今日の定食は一種類で、なんとタルタルステーキが含まれています。旅行中に生肉を食べる勇気はないので、急いで手帳を出して、マレ地区の次の予定の店を探しました。すぐ近くのヴォージュ広場を越えた所に Chez Janou というビストロがあるので、そこに行ってみることにしました。雪の降りしきる狭い道でミシュランのぼろぼろになった地図帳を出して道を確認し、再びサン・タントワーヌ通りを横切り、ヴォージュ広場を通ってすぐのロジェ・ヴェルロム通りにその店を見つけました。寒くて体は凍えそうだがお腹も空いています。12時を過ぎたばかりなので、しかもこの天気、先客は一組だけで、私たちはがらんとした奥の席に案内されました。ここは前菜と主菜か主菜とデザートで13,5ユーロです。妻はmerlan(たらの一種)、私は牛肉のワイン煮、デザートは一種だけで梨のコンポートでした。ビストロらしく卓の上にはオリーブの一盛が楊枝を添えて置かれています。焼かれたたらは香草で味付けしたリゾットが大量に添えられていました。牛肉は大きな塊が三つあって、さらに人参が添えられています。魚と肉の皿を二人で何とかワインの力を借りて腹に押し込みました。食べているうちに客が増え、旅行者らしい集団が真ん中の丸いテーブルにつくと一気ににぎやかな雰囲気になりました。そう、この店はフランスの伝統的なビストロ、仲間がにぎやかに飲み食べ談笑する店なのです。入り口には気軽に飲めるようなカウンターがあり、壁には映画のポスター(プロヴァンス料理の店らしくマルセル・パニョルの映画『マルセルのお城』など)も貼ってあります。少しも気取っていず、料理も奇をてらわない素朴な味でした。

 ところで、今回のパリ旅行のために、パリのビストロの評判をネットの口コミでいろいろ調べてみました。面白いことに、外国人(特にアングロ・サクソン)は、まず ambience (雰囲気)を第一に考えるようです。とりわけ、スタッフの態度、自分の遇され方には敏感で、悪い席に案内されたとか、注文をとりに来なかったなど徹底的にネットで糾弾します。一方、日本人は、わりと店の状況(忙しいからとかスタッフの数が足らないとか)も考えるのか雰囲気や客あしらいには寛容で、その代わり、料理の批評は微細にわたることが多いようです。

 降りしきる雪の中、すぐ近くのメトロの駅シュマン・ベールから8番線に乗ってオペラへ。にぎやかなオペラ大通りからオペラ・ガルニエをぐるりと回って、ギャラリー・ラファイエットとプランタンが並ぶオスマン大通りへ進みます。明日のクリスマス・イヴへ向けて買出しをする人々で道はいっぱいです。高級ブランドの大きな袋を提げている人、タオルで顔を包んで栗を焼いて売っている人、群衆の流れの真ん中で立ったまま手を差し出して物乞いする若い男性、中でも驚いたのは雪の降る軒下で赤ん坊を抱いて座っている男です。しかし、今回は乳幼児を抱いている物乞いの人に何人も出会いました。モガドール通りに沿ってサン・ラザール通りに出、サン・トリニテ寺院の右横の坂を上がっていきます。通りの喧騒がすぐに静まり、いつのまにかモンマルトルの古い街並みに変わってきました。次の目的地は、年来の望みだったギュスターヴ・モロー美術館です。

 静かなラ・ロシュフーコー通りに佇むモロー美術館は、彼の家をそのまま美術館にしたものですが、たいへん立派な建物です。寒さのためか鼻水がとまらず、吹きすさぶ雪とみぞれでコートもぐっしょりしています。扉を開けて入ると、意外にもセキュリティー・チェックがありました。モローの家がテロに襲われるなど考えることもできませんが、中年の係員は慎重に私たちのバッグの中を調べています。やっとチェックが終わって、私たちが階段を上りはじめると、「待って!」と係員が走ってきて私の折りたたみ傘を点検し始めたのには驚きました。二階はモローの書斎兼応接室で、大小の額に飾られた絵画で埋まっています。三階、四階と彼の広いアトリエが続き、これでもかというぐらいモロー芸術の世界が展開していきます。同じようなものばかり見ているとさすがに疲れてしまい、ソファーに座って休んでいました。この寒さ、この荒れた天候なので見学客は少ないですが、その半分は日本人でした。外人観光客がガイドブックやパンフレットを手に効率よく見学しているのに対し、日本人は思い入れたっぷりに作品に没頭している人が多いようです。

 モローに関しては、プルーストが『ギュスターヴ・モローの神秘的世界についての覚書』というすばらしい評論を書いていますが、それはまさにプルーストの本質についても決定的なことを私たちに教えてくれるようです。プルーストは、まず、私たちの住むこの世界はもっとも卑俗な世界であって、ほんとうの世界は別のところにある、と言います。モローの鳥や花や雲はそのような世界の予兆であり、彼の画ではその世界が幻のように私たちの前を通りすぎるのだ、これに比べれば「真実」の風景画は卑俗な、知性の欠落した画のようにしか見えない、と。ギュスターヴ・モローのような芸術家は、その制作の過程において、現実の世界のものを徐々に振り捨てていき、個人的なものの柵をくずして、ついには内的な魂の至りつく地点に到着する。彼の家がそのまま美術館になろうとしているのは象徴的だ。ある意味で彼の家は生前からすでに美術館であったのであり、ほんとうの世界の予感であった彼の画は、次第に彼の家をふさいでいき、最後には友人たちと過ごす部屋も寝室さえも奪ってしまった。こうしてモローの家は赤道や極のような観念上の諸地点、神秘的なものが出会う場所となり、彼はそれを導く司祭となった。ここで重要なことに思いあたる。というのも、実はこのことは私たち自身の内面で起こることの比喩でしかないのだ。ほんとうの世界に入り込める魂を持った人間には、この世は悲惨なものではないが陰鬱な卑俗なものにすぎない。この世の人知れぬ亡命者である彼らは、祖国の思い出をすっかり忘れ去っているのだが、昆虫の帰巣本能のように、ある予感につつまれて日々を送っている。そのような内的な魂は互いに求め合いながら、ある日、モローの絵の前でその陶酔に身をまかせながらその世界が現実に存在することを確信するのだ、、、

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ユゴーの家の食堂。私はユゴーの小説を愛読し、その筋に関係ない饒舌さえ好きなのですが、彼の家の趣味だけはいただけません。この部屋もあまりに陰気すぎます。

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シェ・ジャヌーの洋梨のデザート。子供の時に食べた焼きりんごに似た懐かしい味です。

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モローの寝室。その寝台の簡素さに驚きました。

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真ん中の大作がもっとも衝撃を受けたモローの『アルゴノートの帰還』です。

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アトリエの四階。すでに生前からモローの家は「神秘的世界の現前」である彼の作品で埋めつくされていました。



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2011年1月 8日 (土)

パリのクリスマス(2)リュクサンブールからシャンゼリゼへ

1222日(水)
 朝
7時、まだ真っ暗ですが、私たちはパンを買いにホテルの外へ出ました。このホテルのネットでの評価は高く、レビューはほぼみな満点ですが、朝食(10ユーロ)のみは芳しくなかったので、外で調達することにしました。パンテオンの裏側に、リセ・アンリ四世校があります。ジッド、シモーヌ・ヴェーユ、サルトルなどが出た名門校で、アランもここで教えていました。その学校の長い壁を右に沿って歩き、エストラパド通りを下って行くと、ほどなく噴水のある小さな広場に出ますが、この広場こそ中世から残る居酒屋横丁、コントルスカルプ広場です。もともとパリ城壁の際にあって、荷方馬方の労働者の安酒屋(tavern)が集まっていたところですが、フランソワ・ヴィヨンやラブレーが好んでここで酒を飲み、すぐ後にピエール・ロンサールらいわゆるプレイヤッド派の詩人の巣窟となりました。近くは、カーディナル・ルモワーヌの共同便所のある汚いアパートを嫌ってヘミングウェイが一人でこっそり酒を飲みに通った場所でもあります。

 コントルスカルプ広場から始まるムフタール通りをだらだら下っていきます。八百屋や魚屋などはまだ準備中で店を開けていません。サン・メダーユ教会からモンジュ通りに出て、パリで一番のクロワッサンを売る店 Boulangerie de Mongeを探しました。モンジュ通り123番地がなかなか見つからず、何とメトロのサンシェ・ドーバントンの近くにありました。朝早くでまだ客は一人しかいませんが、三人の若い女性の店員は目一杯メイクアップして準備は万全のようです。私たちは、そこで0.9ユーロ(100円)のクロワッサン2個、1.4ユーロのエスカルゴ(チョコとシトロン)2個を買いました。急いでホテルまで帰ると体はすっかり冷え切っています。珈琲を沸かして早速クロワッサンを食べてみました。まだほの温かいクロワッサンを一口食べて二人ともびっくり。こってりしたバタパンを食べているようで、こんなクロワッサンははじめてです。

 朝10時にホテルを出ました。ものすごく寒い(マイナス4度)ので、二人とも厚手のウールのコートにマフラー、手袋、帽子、使い捨てカイロなどで防備しています。パンテオン広場からスフロ通りをまっすぐ行って、サン・ジャック通り、サン・ミッシェル大通りを横切ると、リュクサンブール公園に至ります。エドモン・ロスタン広場から公園に沿って続く道には格式ある古書店が軒を連ねていますが、パリの古書は高いのでウインドーを見るだけに留めました。リュクサンブールからサン・シュルピス通りに至る道の一つトゥールノン通り rue Tournonに入ると、すぐ左側に、Cafe Tournon があります。15分ほど歩いただけで体が冷えてきたので、中に入って温かい飲み物をとることにしました。このCafe Tournon は、ある時期のヨーロッパでもっとも有名なカフェの一つといってよいでしょう。ここは、まずオーストリアの作家ヨーゼフ・ロート(1894-1939)が最後の数年を過ごしたカフェでもあります。ナチによってオーストリアを追われたロートは、このcafe Tournon の上のホテルに滞在していました。パリに住む亡命者にとってカフェがどのようなものであったか、ドイツの作家へルマン・ケステンは書いています。「亡命生活者にとってカフェはすべてだった。家であり、教会であり、議会であり、砂漠であり、戦場であり、幻想のゆりかごであり、そして墓場でさえあった。」(David Burke “Writers in Paris”) ロートは、ここで散文を書き、手紙を書き、『聖なる酔っぱらいの伝説』の主人公のように酔いつぶれていたのでしょう。1939年、ロートはこの店内で、やはり亡命作家のエルンスト・トラーの自殺の報を聞いた直後倒れ、近くのネッケル小児総合病院に運ばれましたが、そこで数日後亡くなります。

 カフェにはまだ客は少なく、カウンターの老婦人が一人で応対していました。私はカフェ・エスプレッソ(2.3ユーロ)、妻は chocolat viennoise JOSEPF ROTH (ウインナチョコレート・ヨーゼフ・ロート 5.6ユーロ) を注文しました。妻が、店内の写真をとってもよいかと尋ねると、老婦人は一瞬意味がわからないという顔をして、それから、いいですよとにっこり笑いました。ドゥ・マゴやカフェ・フロールのように俗化していないところが好感を持てました。

 Cafe Tournon は、第二次大戦後再び exile たちの溜まり場となります。リチャード・ライト、ジェイムズ・ボールドウインらAfrican American たちが、祖国の人種迫害、反共政策、性的ピューリタニズムを逃れて、自由で通貨の安いフランスに逃れ出てきたのです。彼らは、このCafe Tournon と後に Comptoir du Relais と名が変わるオデオン交差点のBar Monaco にたむろしていました。

 そのComptoir du Relaisで昼食を食べるべくオデオンに向って歩き始めましたが、まだお腹がすきません。そこで、サン・シュルピス寺院からレンヌ通りに出て、さらにセーブル通りまで歩いて、デパート、ボン・マルシェの食品館でバター、チーズを買いました(何と帰国の時にホテルの冷蔵庫に置き忘れてしまいました)。バターやチーズは品物も違いますが、値段も日本の半分以下です。さて、そろそろお腹がすいたので、Le Comptoir に足を向けました。一時半という中途半端な時間だったので、満席で、フランス人カップルが外で並んでいます。どのくらい待つか聞いてみると15分だというので、私たちも待つことにしました。この店はネオ・ビストロの草分けイヴ・カンデボルトが6年ほどまえに開いた店で、各種の雑誌に取り上げられ、夜は予約でいっぱいとのことです。このような話題の店は敬遠したいのですが、妻の強い希望で仕方なく入ってみることにしました。驚いたことに、この寒さにもかかわらず、外の10あまりのテラス席にも人が座って食事していることで、中には一人で食べている日本人女性も二人いました。

 ところで、ネオ・ビストロとは何でしょうか。簡単に言えば、「星付きレストランで修行した本格的な料理人が開店した低価格で高品質の料理を出す店」だということです。そこには、フランス料理のヒエラルキーを作り出してきたミシュランの星に対する真っ当な反発があるのです。確かに、高級レストランは私たちには高嶺の花だし、そこで働く料理人のストレスも相当なものです。手ごろな値段で新鮮な感動を与える料理を出せるレストランがあれば、作る人も食べる人も満足できるに違いありません、それがネオ・ビストロの目指すところです。

 順番が来て、私たちは店内のいちばん端の席に座りました。店内は狭く、テーブルとテーブルの間にはほとんど隙間がありません。妻はなぜか鴨を食べたいというので、22ユーロの鴨料理(料理名は失念してしまいました)、私はここ2,3日不足している野菜を補うために coeur de laitue 8ユーロ)というものを注文しました。「レタスの心臓」とはどんな料理だろうかと思っていたところ出てきたのは皿に山盛りになったレタスの芯でした。バルサミコに蜂蜜を加えたようなソースがかかっています。どんどん食べていきましたが、食べても食べてもなかなかなくなりません。おいしかったが、半年ぐらいはレタスは食べなくてもいいやと思いました。妻の頼んだ鴨料理は、鴨を輪切りにしたように見せかけて、鴨の皮で外側を作り、中を鴨の胸肉で埋めています。鴨の皮が厚すぎて噛み切れないのが残念でした。

 デザートは、妻はババを私はソルべ(シャーベット)を注文しました。妻が気を利かせて両方とも私の好物にしてくれたのです。ババは、卓に置かれてから目の前でラム酒がたっぷり注がれました。ソルべは私の好きなフランボワーズとシトロンです。これとグラスワイン2杯で合わせて50ユーロ弱でした。食後のコーヒーを飲まなかったのは大変混んでいたからで、隣のテーブルには連続して日本人のカップルが座っていました。店の外に出ると、雨が雪とみぞれに変わって物凄く寒い。それでも行列が前より増えています。雪が降り込む中でテラスで食事している人もたくさんいました。

 シャンゼリゼでマルシェ・ド・ノエルを見てみたいという妻の要望で、メトロでコンコルドへ。しかし、今回のパリ旅行でもっとも失望したのがこのマルシェ・ド・ノエルだと妻は言っていました。クリスマス用の素朴な飾り付けや人形やぬいぐるみが売られていると思っていたら、実際は観光客と子供向けのチープな小物(マフラーや手袋やアクセサリー)や安直な食べ物、飲み物で、いわば縁日の屋台のようなもので、それが通りの両側にいつまでも続いているのです。しかも、みぞれが激しくなって足元はぐちゃぐちゃ、風もあるので傘は役に立たず、おまけに観光客(ほとんどが子供)で混んでいてまともに歩けません。むろん何も買わず、メトロでまっすぐカーディナル・ルモワーヌまで帰ってきました。そこの交差点にある Petit Cardinal (小さな枢機卿)というカフェで、Le Comptoirで飲めなかったコーヒーを飲みました。このカフェはモンジュ通りの交差点を見渡せる絶好の場所にあります。外はみぞれが完全に雪に変わって夜の歩道がうっすら白く変わっています。この寒さで30分以上歩くのは不可能で体が芯まで冷え切ってしまうようです。ホテルに戻る前に、モンジュ通りのカイザーでクロワッサンとドミ・バゲット(半分のバゲット)を買い、スーパー・フランプリでぺリエ、みかん、紅茶、お菓子などを調達しました。

 部屋に戻ってテレビを点けると、シャルル・ドゴール空港は大雪で大変なことになっています。欠航続出で、2000人の泊り込み客のために大きなテントまで張り出されました。私たちも一日遅れたらどうなっていたかわからず、また帰りの日までに空港が復旧できるか心配になってきました。

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コントルスカルプ広場の朝。小さな広場を六、七軒の飲食店が囲んで、夜になるとたいへん cosy な場所になります。

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Cafe Tournon 。三階の壁面に、1937-1939 ここにヨーゼフ・ロートが住んだというプレートが張られています。

 

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Cafe Tournon の店内。たいへん感じのよい店。

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店内に張られた写真。ロートがここにすわって書いた詩がプレートに張られています。

 

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部屋に帰ると、なぜか妻宛にレセプショニスト全員の名前で手紙とウェルカム・ドリンクのワインが置かれていました。

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2011年1月 3日 (月)

パリのクリスマス(1)到着、パンテオン広場のホテル

 1221日(火)
 エールフランスのリムジンバスは、クリスマス前の夕方の渋滞で、ポルト・マイヨーからシャルル・ドゴール・エトワールまでのわずかの距離を行くのに半時間もかかりました。バスを降りると、寒さと吐き気と腹痛で立っていることも苦しい有様です。とにかく、ホテルまでたどり着こうと、エトワールからメトロ6番線に乗りました。エトワールで折返し運転の6番線は、空っぽで、床には紙くずが散乱し、半分乾いた吐瀉物がへばりつき、靴底が運んだ泥と砂が床をざらざらにしています。私たちの後から乗ってきた大柄のフランス人女性は、床のごみ屑を蹴散らしながら大声で何か文句を言っています。走り始めた電車はがたがた揺れて、そのたびに吐き気が胸の上まで迫ってきます。おまけに冷たい席にお尻をのせていると耐え難い便意も催してきました。懐かしいモット・ピケ・グルネルで10番線に乗り換えましたが、途中のセーブル・バビロンでついに耐えがたくなり、ホームに降りて休みました。エチケット袋を出して吐こうとしましたが、なかなか吐けません。しかし、死にそうになってパリに着くのはいつものことなので、妻は心配してもいないようです。

 少し落ち着いたので、再び電車に乗りました。半分以上は黒人の乗客で、乳児を抱えた母親、勤め帰りの労働者、デパート・ボン・マルシェの袋を持った婦人もいます。マビヨンで乗ってきた貧乏そうな老人が、私のそばで直立して、いきなり歌うように話し始めました。はじめは酔っ払いの戯言かと思ったのですが、どうも格調のある愛国的な演説のようで、終わった後、その皺だらけの無骨に丸められた掌に何人もの人が小銭を入れていました。私はそれを聞くどころではなく、気持ち悪さが我慢できなくなって、目的地のカーディナル・ルモワーヌの二つ手前のクリュニー・ラ・ソルボンヌで電車を降り、もうそこからホテルまで歩いて行くことに決めました。

 地上に出ると、夜のパリはまさに身を切るような寒さ、冷たい小雨も降っています。けれど、その冷気を吸って体は一気に爽快さを取り戻したようです。むかむかした気分はどこかに飛んでいって、旅の高揚感が沸きあがってきました。しかも、メトロから出たその場所はクリュニー中世美術館の横で、私の馴染みの場所、パリでもっとも土地勘のある場所ではありませんか。「地図を見なくて大丈夫?」と聞く妻の手を引っ張るように私は先に立ってどんどん歩いて行きました。サン・ジェルマン大通りからサン・ジャック通りに曲がり、リュクサンブール公園の少し手前の小道を左に入りました。道に迷ったように見せかけて、いきなりパンテオンの壮大なドームを妻に見せたかったのです。ところが混み入った暗い小道に惑わされて方向感覚を失い、横道から歩いてきた学生らしき背の高い女性に道を聞くことになりました。「右に曲がってすぐですよ」と教えられて歩いて行くと、白い壁が端正に延びたサント・ジュヌヴィエーヴ図書館の入り口に突き当たりました。冬休み最後の勉強を終えた学生たちが三々五々外に出てきました。そして目を上げると、パンテオンの白亜のドームが立っています。その前に広がるパンテオン広場のまだ残る雪を踏んで、サント・ジュヌヴィエーヴ図書館と向かい合っているオテル・グランゾム Hotel Des Grands Hommes に、約束どおり8時にチェックインしました。

 2010年は年初から体調が悪く、どうも旅行はむりではないかと思われました。妻も夏に過労で長期に仕事を休み、秋の旅行は望み薄になりました。おまけに、いつも旅行中に猫の世話を頼んでいる近くに住む私の息子(前妻との子ですが)が、九月になるといきなり東京ー屋久島自転車一人旅に出てしまいました。放浪癖と動物好きのところは私によく似ています。今年の旅行は諦めようと思ったところ、妻が年末の英国航空(BA)パリ行きの特別割引を見つけたので、急遽フランス旅行が決まってしまいました。そうなると生活に目標と張りが出て、妻はすっかり元気になり、旅行に必要な洋服や小物をネットで探し始めました。

 ところが、私は夏に重い痛風を患って以来、次々と病魔に冒され、2ヶ月に及ぶ歯の治療、大出血による痔の手術、ヘルニア性腰痛の間歇的な発作等等、体を休める暇もありません。ようやく体が落ち着いた出発一ヶ月前に、妻がインフルエンザで寝込んでしまい、その後、夫婦で風邪も引きましたが、何とか持ちこたえたものの次の問題が。というのも英国航空最安値のパリ行きは、むろんヒースロー空港乗り継ぎですが、乗り継ぎ時間が90分しかありません。私も妻も、かつて何度かヒースローを利用していて、悪い印象は持っていず、妻はHarrod'sのお店でパディントンのぬいぐるみを買うのが、私は空港のパブで黒ビールを飲むのを楽しみにしていました。ところが、ヒースローは2008年に巨大なターミナル5が完成して、もっともセキュリティーが煩わしく、評判の悪い空港となっていました。しかも帰りは朝5時過ぎにホテルを出ねばならず、だからこそ割安航空券だったのですが、強行日程が無事実行できるか、考えると憂鬱になってきました。

 そこに100年に一度のロンドンの大雪が見舞って状況が大きく変わりました。出発前日の1220日(月)ヒースローは大混乱で発着便はキャンセルが続出しています。一方、エールフランス・パリ直行便も座席が埋まらず、直前に大幅に割引しています。キャンセル可能なこの時機を逃す理由はありません。妻は、まずBAの往復便をキャンセルし、リファンド(払い戻し)を確認した後、ただちにAFのサイトに入って予定通りの21日出発29日帰国のエールフランスパリ往復直行便のチケットを購入し、出発30時間を切っていたのでチェックインもすませて、二つ並んだ座席を確保しました。帰りの便は夜遅いのでゆっくり、しかも差額が17000円も浮いたのは望外でした。出発前日に、わずか一時間足らずで、混雑してなかなかつながらないインターネットと電話を駆使して、BAからAFに乗り換えた妻の手際にも感心してしまいました。

 さて、私たちが投宿したオテル・グランゾムは、31室しかない小さなホテルですが、18世紀に建てられた歴史あるホテルで、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』にその写真が載っています。ブルトンは、このホテルで1919年、フィリップ・スーポーと世に言う「自動記述」の試みを初めて行ったのでした。また、1924年に初めてパリの地を踏んだ画家佐伯祐三の定宿でもありました。レセプションでno51のキーをもらい、エレベーターで5階(日本の6階)まで上り、部屋に入ると、予想通りの狭さ、しかし、ここは世界一ホテル代の高いパリです。キャリアケースを置いて、カーテンを開けた妻が歓声を上げました。目の前にパンテオンの巨大な建物が聳えています。ルソー、ヴォルテール、デュマ、ユゴーらgrands hommesたちを目の前にして眠ることができる、とはホテルのパンフレットの言葉です。オフシーズンの割引なのでもっと安い部屋だと思っていたのですが、バルコニーの付いた立派な部屋でした。まだ、夜は浅いですが、私たちはたいへん疲れました。雨の中、歩いたので体も冷たくなっています。風呂に浸かって温まり、持参したポットで珈琲を沸かして飲むと気持ちも快適に緩んできました。

Pantheon

18世紀に完成したパンテオンは、もともとサント・ジュヌヴィエーヴ教会として建てられましたが、曲折を経て、今は偉人たちの眠る墓所となりました。壁面の窓はフランス革命のときにすべて壊され、その後塗りつぶされました。

Viewfromhotel

パンテオン前の広場。右がサント・ジュヌヴィエーヴ図書館、その左がパリ大学法学部、手前の電飾された建物は第五区の区役所。広場の真ん中に地味なクリスマスツリーが置かれています。

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ホテルの玄関に掲げられているプレート。シュルレアリスムの誕生を告げる『磁場』はここで書かれました。

 

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