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2010年10月21日 (木)

ウイリアム・J・ブースマ『ギョーム・ポステル』

 記録的な今夏の猛暑のさ中に一冊の本が法政大出版局から刊行されました。叢書ウニベルシタスの白い背表紙の上に書かれたその名は知る人のみぞ知る偉大なルネサンス人、ギョーム・ポステルです。同じ16世紀人としては、マキャべリやエラスムスやルターのように後世まで名を轟かせた思想家とは違い、ポステルは生前からすでに忘れ去られていました。晩年の18年間を狂人としてサン・マルタン修道院に幽閉され、そこで静かに71歳の生涯を閉じたのです。その人間同様、その思想も忘却の淵に沈み、わずかに『十二ヶ国語入門』などの比較言語学的興味でしか思い出されず、サイードが『オリエンタリズム』でその名に触れた時も、誰がそれに気づいたでしょうか。

 ラテン語、ギリシア語は言うに及ばず、ヘブライ語、アラビア語に精通し、遠い地方への謎めいた旅、持ち帰った膨大な書籍と該博な知識、その時代随一のカバラ研究者、そして理解不能な狂おしい神秘主義の唱道者、ポステルの名は16世紀の最もミステリアスな思想家として異彩を放っています。ウイリアム・J・ブースマ『ギョーム・ポステル 異貌のルネサンス人の生涯と思想』(長谷川光明訳・法政大学出版局)は、原著は50年前に出版された本ですが、ポステルについての唯一の包括的な研究書で、現在はスクレ(Francois Secret)の業績などかなり研究が進展されているもののその価値は少しも損なわれていません。アメリカの研究者らしく文章は非常に明晰でわかりやすい。スチュアート・ヒューズやマーチン・ジェイの読みやすく、鋭い思想史の本を思い出します。訳語も丁寧でこなれており、ポステルへの訳者の愛着が偲ばれるようです。

 さて、まずその生涯です。1510年、フランス、ノルマンディーで生誕。8歳の時、両親が疫病で死亡。その後、どう扶養されたのか不明ですが、かなり早熟だったらしく、13歳で村の教師として雇われました。そこで資金を蓄えると、勉強のためパリに出ますが、パリで仲良くなったゴロツキに寝ている間に所持金と衣服を盗まれてしまいます。無一文のうえに病気になり、パリの病院に18ヶ月入院します。回復すると、また勉強資金を貯めるために、南部ボース地方に農夫として働きに行きました。稼いだ資金をもとに、パリのサント・バルブ学寮の教師の従僕として働き始めますが、主人の奉仕に忙しくて授業には出られず、ほとんど独習で学業を身に着けます。ギリシア語を独習でマスターし、スペイン語・ポルトガル語は学友からわずか数ヶ月で聞き覚えました。近所にユダヤ人がいると聞くと、行って文字を教わり、一冊の文法書と詩篇を教材にヘブライ語を独習しました。語学のみならず、ポステルは数学や哲学にも熟達し、20歳で文学修士となります。このサント・バルブ学寮で特筆すべきは、そこがイエズス会の中核メンバーが集まる場所であったということです。イエズス会の宣教精神は生涯にわたってポステルに影響を与えることになりました。

 上に見られるとおり、ポステルの特長は、その途方もない語学力です。その能力を買われて、26歳の時に、コンスタンチノープルに赴くジャン・ド・ラ・フォーレ使節団の同行者に選ばれました。途中、アフリカ大陸に滞在した後、ついに彼は初めて東洋の地を踏みます。彼はコンスタンチノープルに到着するやただちにアラビア語を学ぼうとして教師を探しました。ようやく探し当てたトルコ人は、実はキリスト教徒で、アラビア系諸言語で書かれた福音書を待ち望んでいる人たちの一人でした。この男に出会ったことが、東方にキリスト教を広めるというポステルの生涯の事業のきっかけとなったのです。彼は、それまで、ギリシア文芸にかぶれていた一書生にすぎませんでした。

 ポステルは、コンスタンチノープルで、アラビアの哲学・医学・数学・宗教についての本を大量に買い込みました。帰途、ヴェネツィアに立ち寄り、ヘブライ語文献を出版している著名な出版社ボンベルグの知己を得、シリア語版新約聖書を実現させるよう励まされます。ポステルは、ヴェネツィアでさらに資料を収集し、帰国後、処女作『文字の異なる十二言語概論』を出版します。さらに二冊の本(言語と文明のユダヤ起源についてと、古典アラビア語の文法書)を立て続けに刊行し、才気あふれる若き東洋学者としての名声を得ることになります。

 これほどの秀才を放っておくはずがありません。ソルボンヌに対抗するものとしてギョーム・ビュデの提言によって創設された機関(コレージュ・ド・フランスの前身)の教授に任命され、さらに1538年から1542年まで、国王フランソワ一世に数学と言語学を進講するまでになりました。彼には輝かしい学者としての人生が展けているように思われました。しかし、ポステルはここで最初の挫折を味わいます。宮廷内の陰謀に巻き込まれ、進講役を解任されてしまうのです。深く失望したものの、ポステルはそこに神の摂理を感じ、平穏な学者の道ではなく、厳しい伝道師の道を歩むことを決意します。霊感に打たれたように、彼は主著『世界和合論』をインクも凍るような寒い冬の二ヶ月で書き上げ、バーゼルのオポリヌス書店から出版します。この書は、各地に宣教に赴くカトリックの宣教師のためのマニュアルとして書かれました。理論は仕上がりましたが、後はそれを実現できる人材を探さねばなりません。ポステルは、イエズス会に白羽の矢を立て、徒歩でローマまで行って、イエズス会本部に入会の意思を示しました。かくも優秀で高名な人士が膝を屈して入会したことに、イエズス会は感激し、諸手をあげて彼を受け入れます。しかし、入会するとまもなく、ポステルは、故国フランスを中心としたキリスト教国家という彼の年来の思想を主張して、本部の基幹の考え、教皇への絶対服従を条件とした世界布教という考えと衝突します。そして、ついに代表のイグナチウスは逡巡の末に1545年、ポステルをイエズス会から追放するのですが、これは波乱万丈の彼の人生の一こまに過ぎなかったのです。

 イエズス会から離れたものの、ローマ滞在はポステルに決定的な余禄をもたらしました。知的刺激に満ちた交友の中で、彼は東方の魔術とユダヤ神秘主義、なかんずくカバラについての学識を深めました。その後、ヴェネツィアに移動し、聖ヨハネ・パウロ施療院の司祭として働きながら、最も重要なカバラ文献である『ゾーハル』の綿密な研究に着手して、ついには翻訳するに至ります。しかし、ヴェネツィア滞在の最大の収穫は、ある女性と知り合ったことでした。施療院で献身的に貧民や病人の世話をする50近い女性、他の者たちからは嘲笑されていたこの文盲の女性に、ポステルは深い感銘を受けます。そして彼女を「世界の母」「新しいエバ」と呼ぶのですが、彼女はポステルに『ゾーハル』の玄義のすべてを完璧に説明することができたということです。これが奇跡と言わずして何でしょうか。1547年以降の自分の著述の一切は世界中にヴェネツィアの童貞女に生じた奇跡を知らしめるためにだけ書かれた、と彼は後にフェルディナント国王宛ての書簡で言明しています。

 1549年の夏、ポステルは聖地に向ってヴェネツィアを船で発ち、エルサレム、コンスタンチノープル、および中東の各地を一年半に渡って巡ります。そこで多くの知識を蓄え、著述のための大量の本を買って再びヨーロッパに帰還すると、ポステルの盛名は再度ヨーロッパ中に鳴り響くまでになっていました。アンリ二世の妹、マルグリット・ド・フランスや年老いたロレーヌ枢機卿に寵愛され、今一度快適で名誉ある地位を手に入れたかに思えました。ところが、ここで彼の生涯の中盤を激烈に彩る発作が起きるのです。肉体的、精神的な極度の苦しみの中で、2年前に死んだヴェネツィアの童貞女が彼の精神にとりついて、激しい神秘主義的恍惚の中、自分こそ千年王国の選ばれた預言者であるという思いに支配されるのです。短期間におびただしい著作を発表し、あらゆる公的機関、教会、宮廷に手紙を書いて自分の思想を説きまくり、ヨーロッパ中を巡りまわって、精力的に運動しました。1556年に終末がくるという予言を立てて、その年に間に合うよう急いでいたのです。この頃から、すでに、ポステルは狂人の疑いをかけられましたが、反面、熱烈な追随者も現れ、その著作はいたるところで読まれました。

 そして、ついにポステルはヴェネツィアの審問にかけられ、狂気(amens)とみなされて4年間の獄中生活を強いられます。刑を終えて出てきたポステルは、まだ諦めずに各地を訪れて自らの思想の普及につとめ、パリに姿を現したとき、パリ高等法院は人心を惑わすこの男をやむなく査問にかけざるをえませんでした。法院は、ヴェネツィアの審問官同様、彼を狂人と断定し、パリから離れたサン・マルタン修道院に幽閉する処置を決定します。以来、死ぬまで18年間、ポステルはその修道院で過ごしました。最初こそ監視されたものの次第に規制は緩やかになり、友人を見舞いにパリに出たり、講義の席を設けたり、聖地巡礼を果たした人間が行列する祭りには必ず参加したりしました。彼は、人々の愛と尊敬にかこまれて余生を送ったようです。人々は、この途轍もない博学な老人が話す東方の土地と人間について目を輝かして聞き入ったことでしょう。

 

 その生涯同様、ポステルの思想も複雑に入り組んでいます。「幻視者にして扇動家、旅行家にして文献学者、預言者にして理性至上主義者、ナショナリストにしてコスモポリタン、自然宗教論者にしてキリスト中心主義者、地理学者にして歴史学者、キリスト教カバリストにして反ユダヤ主義者、東洋学者にして十字軍の提唱者、イエズス会士にしてアンチ教皇、教会統一論者にして比較宗教学者、地図製作者にして活字製作者、世界和合論者にして終末論者、碩学にして狂人、、、。ギョーム・ポステルは、ルネサンスという時代が否応なく突きつけてきたほとんどすべての諸問題に生真面目に対峙した、、、。彼が体現している矛盾はこの時代の矛盾でもある。ポステルという多面体は、その鋭敏な知性と感性によって万華鏡のように多彩で多様な側面を持つルネサンスのほとんどすべてを映し出している。」(訳者あとがき)

 なんとも複雑な人物ではありませんか。しかし、ウイリアム・J・ブースマは、ポステルの重層的で多彩な思想のほとんどが、孤立したものではなく、その先行者が存在したことを細かく跡付けています。その読書の量と範囲が並ではなかったのです。ヴェネティアの異端審問官がポステルを狂人と判断したのも、当時の人々にはほとんど馴染みのなかったユダヤ神秘主義とイラン・イスマーイール派の神秘思想が特別に異様に思えたからでしょう。

 16世紀の西欧世界を覆っていた気分、それは神と人間との絶対的乖離でした。これは中世以来、人々が抱いていた大いなる懸念で、神に見捨てられ、悪の跳梁する世界は、対外的にはイスラムの脅威、対内的には教会の堕落に象徴されていました。「遠ざかる神」という意識がクザーヌスの「無知の知」を生み出し、神の不可知性を信ずる唯名論者は信仰の基盤を知性よりも意志におき、アヴェロエス主義者は信仰と理性を分離し、プロテスタント改革派は神と人間の仲立ちをする既存の機関は不十分であると考えました。

 ポステルも、この問題を誰よりも執拗に考えました。そして、世界が崩落に向っているという切迫感が、彼を奇矯で熱狂的な行動に駆り立てたのです。人間性の堕落を信じていながら、しかし、彼は決して将来に絶望していませんでした。ニコラウス・クザーヌスやルフェーブル・デタープルのように、すさまじい懲罰を予告しながら、キリストの究極の勝利に希望を抱いていました。そして、ヨアキム派(13世紀のフィオーレのヨアキムの後継者たち)が信じていたように、キリスト教世界の腐敗を新しい時代の確かな兆候ととらえたのです。ポステルの生涯には、この悲観主義と楽観主義が混在しているのですが、その絶妙なバランスが彼を行動の人間にさせていたのでしょう。

 実は、ポステルの思想にはひとつのバイアスがあって、それは真理は永遠なり、という固い信念でした。したがって、真理は最初の人間に明示されていたはずであり、また世界中のあらゆる人間に明示されているはずです。ただし、アダム以降は、真理は聖なる言語に隠されて、アダムからエノクに口伝で伝えられ、そして最終的にノアに伝達されたということです。これこそカバラ(伝承という意味)の拠って立つ所以なのです。この信念は、ポステルに、秘教的真理は存続し、至高の宗教的真理は最もありそうにないところにも途絶えることなく保たれてきた、という確信をもたらしました。これがあってこそ、ポステルの異民族に対する敬意の意味がわかるのです。エラスムスは、トルコ人を単なる野蛮人としか見ませんでしたが、ポステルは真理というものに到達するためには、そのような偏見を打破しなければならないと主張しました。彼は、トルコ人の尊敬すべき文明、高利貸しの禁止、喜捨、高度な手芸品、優れた裁判制度、簡素な衣服、丁重で愛想のよい会話、子供の教育への配慮などを力説します。宗教的資質において、女性が男性より優れているように、東方の知力は西方よりも勝っている、とポステルは書きました。東方旅行記の熱心な愛読者であったポステルは、フランシスコ・ザビエルの通信から、日本を自然理性の一種のユートピアとして描き、「日本人は、もしキリスト教徒になれば、世界で一番完全な人間となるだろう」とも書いています。

 しかし、かつての真理は、今や閉ざされかかっていることに間違いはありません。完全であるべきものに綻びが生じたのです。この理由をポステルは、イエス・キリストの御業は、人間の天上的な部分(男性原理、アニムス・ムンディ)のみを救ったので、人間の地上的な部分(女性原理、アニマ・ムンディ)は、救われずにそのまま残ったからである、と説明します。よって、第二のエバ、第二のエリアによって再び調和が回復されぬ限り、人類はこの闇の中にいるであろうと。これは、オリゲネスの万物復元の思想を思い起こさせます。

 しかし、ここで大事なことは、ポステルにあっては、女性原理、アニマ・ムンディが決して下位のものとして規定されてはいないことです。地上は天上より低い位階ではありません。女性はその宗教的資質においてむしろ男性より優るのです。中世以来、弱さの根源とされた女性は、それゆえに宗教的救いに敏感であり、優れているのだとポステルは言いました。彼が、中世・ルネサンスの予言運動において女性が傑出していること(カタリナ、ヒルデガルト、メヒティルト、ビルギッタ、フォリーニョのアンジェラ等)を詳説するとき、そこには古来の女預言者シビュラの伝統への畏敬があるのです。

 「神は世界を、下の層が上の層を正確に映し出すよう創造した」とポステルは書いています。否むしろ、神は下の層にこそ反映されると言わねばなりません。世界は万物照応の壮大な体系であり、どんな些細な個物も全体を反映し、あらゆる対象が宇宙全体を含み持つ意味の象徴となりうるのです。神を知ることは人間には不可能かも知れない、人間は可感的な事物しか認識できないかも知れない、しかし人間はそのような可感的な事物(自然)を通してしか神を知り得ないがゆえに、自然こそ神なのです。「女性原理とは、人間経験に参入する神の現前である」という『ゾーハル』の言葉の意味はここにあるのです。

 そして、これがキリストが人間の霊的次元(つまり魂)しか救えなかった理由となるのです。男性原理(アニムス・ムンディ)は知性の領域に限定されるために、一般的イデアとしてしか関われません。例えば、キリストが一般の不死を保証するものであっても、個々人の不死を可能にするのは女性原理によるのです。ですから人間と宇宙、人間と神との調和を取り戻すためには、女性的なものの介入がどうしても必要となってくるのですが、これはもうカバラの世界そのものです。

 カバラとはユダヤ教の秘教的側面の一種で、離散ユダヤ人の知的折衷主義を背景に生まれました。ピュタゴラス主義、新プラトン主義、グノーシス主義、さらにはゾロアスター教といった魅力ある思想が混交され、それは中世に入って、南フランスやスペインのユダヤ人によって徐々にまとまった文書の形をとり始めました。最も有名な文献は、中世前期に作成された『セーフェル・イェツィラー』すなわち『創造の書』、12世紀のプロヴァンスに現れた『セーフェル・ハッ・バーヒール』すなわち『光明の書』、そして13世紀後半のカスティーリア人カバリスト、モーシェ・デ・レオンによって書かれた『ゾーハル』すなわち『光輝の書』です。

 ポステルは、この三書ともに精通しており、『セーフェル・イェツィラー』は最初のラテン語訳を詳細な注釈つきで出版し、『ゾーハル』のかなりの部分を翻訳しました。カバラに影響を受けた中で最も有名なルネサンス人といえばピコですが、彼の知識は主に『ゾーハル』の凡庸な注釈に負っており、その後継者と言えるキリスト教カバリスト、ロイヒリンの情報源は『ゾーハル』以前の文献でした。これに対して、ポステルは、カバラの重要文献のみならず、より重要度の低い文献にも精通しており、さらにカバラ以外の様々なラビ聖書も渉猟していました。ポステルこそ、西欧ルネサンスの折り紙つきのカバラ研究者といえるでしょう。

 さて、カバラ文献の中で最も著名で、ポステルも多く依拠しているのが、『ゾーハル』です。彼は、自分の縷説した種々の著作はすべて『ゾーハル』の補遺にすぎないとさえ言っています。『ゾーハル』の作者モーシェ・デ・レオンは、青年時代にマイモニデスを研究していましたが、その知的合理主義に不満を持ち、自らの神秘主義的教説を織り込んだ一種の哲学的小説を創り上げました。それが『ゾーハル』にほかなりません。空想的なパレスチナを背景にミシュナ(トーラーの註解)の高名な教師ラビ・シムオーン・バル・ヨーハイが、息子エレアザル、友人や弟子とともに遍歴しながら、彼らとともに人や神に関わるすべてについて議論します。カバラの決定版にふさわしく、そこにはそれまでのカバラの主題がすべて再説され、カバラによって残された多くの古来の伝承が書き留められています。

 ところで、カバラの魅力とはいったい何でしょうか。旧約聖書が一方的な神の専制支配の物語であるのに対して、カバラは神と人間をつなぐもの、人間の素朴な問いかけと、その巧緻極まりない返答です。20世紀における最高のカバラ研究者ゲルショム・ショーレムはつぎのように書いています。

 「カバラ神学の体系に特徴的なのは、何かしら神話的なものが再び息を吹き返した世界を構築し、記述しようと試みている点である、、、。神秘家も哲学者もどちらもいわば思考の貴族である。とはいえカバラ主義こそ、万人の精神で働くある根源的衝動を、自らの世界と関連させることに成功した。カバラ主義は人間生活の原始的側面に背を向けなかった。すなわち人間が生を案じ、死を恐れるあの肝心要の領域、合理的哲学からは貧弱な知恵しか引き出せなかったあの領域に背を向けなかったのである。哲学は、人間が神話を織り上げる糸にするこれらの不安を無視し、人間の実存の原始的側面に背を向けたために、人間との接触も一切失うという高い代価を支払うことになった、、、。カバリストは自らの奮闘と、迷信とも呼ばれうる民間信仰の核心的関心、そしてこれらの不安が表現される場である日常生活での具体的現象の一切をはからずも関連付けたのである。」(『ユダヤ神秘主義』)

 カバラの本質を実に的確に説明しています。なお、グスタフ・マイリンクの小説『ゴーレム』には、カバラについての重要な示唆が各所に隠されていますが、というよりこの小説全体がひとつのカバラ解釈となっているのです。

 さて、カバラの著述家たちは、永遠、無限、不易、不動である神が、どのようにして世界を創造したかを考えました。神が、たとえばダンゴムシのような卑小なものを手ずから設計製作したなどと考えることは不可能です。必ずや仲保者がいたに相違ありません。カバラは超越神の有限な働きについて、それをセフィロートと呼ばれる10の等級にわけることで一つの解釈を与えました。セフィロートは順位が下るにつれて、人間が経験的に近づきうるものとなります。第一セフィロートはエン=ソフで、究極の超越、無限、否定によってのみ定義できる神です。しかし、エン=ソフが自らの深遠に退却すると、そこから一連の創造の衝撃が発し、ひとつがもうひとつを連鎖的に誕生させ、10のセフィロートの体系が完成します。セフィロートは、神が人事に介入する手段であり、神の自己顕示の方法なのですが、それは同時に、人間が究極の真理を理解し、神との一致へと至る上昇の経路でもあるのです。

 ポステルは、とくに第10のセフィロートである「シェキナー」に注目しました。セフィロートの最後、最も下位に位置するシェキナーは、創造世界で直接働く神格の様相であり、人間からすれば、神との交わりの入り口です。ポステルは、シェキナーの現前が地上の女性原理によって現されると考えました。つまりポステルにとって女性原理は、神が物質世界に関わる手段、永遠の存在と時間に限定された存在が出会う場なのです。この知識なくして、「完全に不動の神がいかに摂理の個別的働きをなすのか、無限と有限はいかなる関係もないのに、無限の神性と有限の人間がキリストにおいて一致することがいかに可能となるのか、誰も教えられない」とポステルは断定します。

 さらに、ポステルにはカバラにも記された終末論があります。しかし、まずアウグスティヌスから話さねばなりません。アウグスティヌスは世界の終末が来ることも、終極の平和と正義が実現することも信じてはいなかったようです。彼は、ただ真の平和は各人の魂の中でだけ実現すると考えました。アウグスティヌスは、当時影響力を持っていた千年王国主義に断固反対し、キリスト教により現世での道徳が段階的に向上しうる可能性も否定しました。彼は救いは霊的次元で十分だと考えていたのです。恐らく、彼の時代にはまだ教会がその地上的役割を果たしうるという楽観があったのでしょう。しかし、13世紀のヨアキム派は、教会の堕落を批判し、教皇を反キリストと同一視することで、古い終末論に新たな息吹を吹き込みました。実は、ヨアキム主義の本質は、聖フランチェスコの目標を終末の時代の叙述に書き換えたところにあるのです。聖フランチェスコはアウグスティヌスの教えの生きた見本ともいってよいもので、その目標は魂の平安による世界の平和です。フランチェスコ自身は終末の訪れを信じず、アウグスティヌス同様、それは人間の魂の中だけで起こりうることだと思っていました。ところが、フランチェスカの衣鉢を継ぐ者たちのなかに、ヨアキム主義に傾倒する者が現れて、西欧中世精神史にヨアキム=フランチェスコの終末論の大きな流れが出てきたのです。ヨアキム派にとってはフランチェスコ自身が、新しいエリヤ、反キリストに対する第一の証人、新しい黄金時代の先駆者となりました。この黄金時代において、万人は直接的で霊的な理解に基づく共通の信仰において統合され、世界平和と正義が行き渡ります。こうして天の王国は地上で実現するのですが、ポステルがこの考えに深く影響されたことは間違いありません。

 長くなったので、最後にポステルのユマニスト的側面を紹介しておきましょう。彼は、カバリストであると同時に、なんと啓蒙思想の先駆者でもあるのです。人間とその理性を信頼し、神が創造したもので、無駄なものはないと考えていました。そして、ここがアウグスティヌスと違うところなのです。パウロを読んで回心したアウグスティヌスは、人間は原罪によって堕落し、救いは神の恩寵によると理解していたようです。ところが、ポステルは、パウロなど一顧だにせず、神の愛という概念も考慮の外でした。ポステルの好んだ人物はヨハネで、その黙示録(彼は黙示録なら、エチオピア版エノク書ほか何でも熟読していました)は彼の愛読書のひとつでした。また、原罪という思想もポステルは全く重きを置きませんでした。彼の考える人類の真の出発点はノアで、彼と彼の子孫から現代の世界は生まれてきた、と書いています。救いは恩寵にあるのでなく、神が蔵している原初の秩序を人間が理解しようとしないその無知にあると考えました。

 ポステルは無知こそ悪の根源、魂の不調和の根本的な原因と考えます。人間は生まれながらに罪を負っていると語るプロテスタントには、健全な心の持ち主であれば罪を犯すことはありえないと主張しました。彼はこう断言します。万人は本性的に善を欲し求める、もし善に到達することがかなわなかったとしても、その原因はたんに無知だからである、そして無知が原因で罪を犯したのならば、神に責められることは決してありえない。「なんとなれば、自分の子が無知だからといって責める親がどこにいるか」。これは魂を揺り動かすような訴えです。

 ポステルには、フランスが世俗の王国を統治すべきだというナショナリズムに似たものがありました。これは複雑な彼の思想の中でもとりわけ首をかしげるところです。後のジョセフ・ド・メーストルを思い出させますが、ポステルはメーステルほど冷ややかでも気取ってもいません。セセルなどの当時のフランス王党派と考えが非常に似ていますが、ポステルは政治的信念より宗教的信念がはるかに優っている(彼は懐疑派でも保守派でもありません)のが特徴的です。ギョーム・ポステルは、いずれにしても一筋縄では捉えきれない人物、ルネサンスの闇の中に潜む怪物そのものです。

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コメント

いつも愛読しております。今回のエントリーも広大な知のテラ・インコグニタを垣間見せられて、殆ど眩暈を覚えました。ギョーム・ポステルというのは、自分は知りませんでしたが、まことに興味深い人物ですね。神秘主義というのは今節では流行らないようですが、こういうものがなくなった知の世界というものは、決して健康なものではないでしょう。こんな幼稚なことをいうと笑われそうですが、彼に一種のヒロイズムすら感じるといいますか。早速ブースマの著書は、アマゾンで注文致しました。これからも御健筆を。それでは。

投稿: オベリスク | 2010年10月23日 (土) 00時44分

オベリスクさん、こんにちは。
コメントありがとうございます。日常生活でも、生と死に直面する時など、私たちは否応なく神秘主義的となりますね。精神生活においても、「自分を超えたもの」の余地を残しておくことは大切だと思います。ヴィトゲンシュタインとその亜流の違いはそんなところにあるのでしょう。それではまた。

投稿: saiki | 2010年10月23日 (土) 14時47分

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