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2010年9月11日 (土)

ハンス.H.ホーフシュテッター『象徴主義と世紀末芸術』(3)

 死の一年半前に、ヴァン・ゴッホは、弟テオやゴーガンへの手紙の中で、「揺り籠を見守る女」について書いています。両側面を向日葵の絵でかこんだ、三幅対祭壇画形式のスケッチと、画家が手紙に書いた発言が証言しているところによると、これは事実たんなる肖像画ではなくて、象徴画だったのです。

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 「揺り籠を見守る女」は、椅子に腰をかけて手に揺り籠を揺らす縄をにぎっている一人の女を描いていますが、ルーラン夫人をモデルにしたこの画は、ゴッホによれば、ブルターニュ地方の伝承による伝説の人物らしいのです。「夜、海で、漁夫たちは船の行手にまぼろしの女を見る。それは子供がむずかるときに紐を引いて揺すってくれた乳母の姿だから、彼等はちっとも驚かない。彼女はつらい生活になぐさめと安静を与えてくれる子守唄ー船底の歌ーをうたいに戻って来たのだ。」(『ゴッホの手紙』岩波文庫) そして、彼はこの三幅対の画を、アイスランドかどこかの漁船の中か、あるいはマルセイユやサント・マリーの船員が利用する宿屋の壁にかけてほしいと書いています。ゴッホが、若い頃、炭鉱労働者や貧しい人々に福音を説いてまわる俗人牧師であったことを思い出して下さい。ゴッホの晩年の多くの絵のようにこの画は悲痛な人生を送る人々への慰めのために描かれたのです。それは、母親の内部に庇護されている状態への郷愁のイマージュとして描かれ、左右の側面の向日葵は、ゴッホの絵では常に太陽と同じく宇宙の象徴であり、その黄色は神性と愛の光を表しているのです。「このような意味においてこそ、「揺り籠を見守る女」は十分に理解されるであろう」と、ホーフシュテッターは書いています。

 三幅対祭壇画形式のこのスケッチが描かれたのは、ゴッホが自分の耳を切り落とした事件の後、自分からすすんで精神病院に入っていた頃でした。つまり1889年のことです。この頃、ゴッホは、ますます逼迫してくる生活に喘いでいました。彼の画は、まったく売れず、クズとしてまとめて燃やしてしまう画商さえいたのです。楽しみにしていたゴーガンとの共同生活の破綻も彼には打撃だったでしょう。画家仲間から信頼され、互いに切磋琢磨できることが彼の願いだったからです。そして、なによりゴッホを苦しめたのは、その病気でした。手紙に見られる彼は、知的であり、平常な神経を持っています。しかし、いったん発作を起こすと、自分を忘れてしまうのです。精神病院に入ったのも、ゴッホの奇行を心配した近所の人たちの役所への訴えがあったからとのことです。そういうことは、たぶん、ゴッホの心に重くのしかかったはずです。精神病院で彼は、突然大声で叫ぶ人間や、四六時中黙ってうずくまっている人間を見ました。「そういう人たちを見ると、発作への恐怖が薄らぐ」と彼は書いていますが、その時のゴッホの強烈な願いは、この病気が治ること、発作が徐々に揺るやかに、そして完全におさまってくれることだったでしょう。彼は、画に集中している時だけ、発作の恐怖から遠ざかり、心が平静でいられたようです。ゴッホについてもっとも良い文章を書いたアントナン・アルトーとローベルト・ヴァルザーが、ともに精神病院の入院患者だったことを思い出しましょう。とくに『ヴァルザーの詩と小品』(みすず書房)に収められている「ヴァン・ゴッホの絵」というエッセイは、一語一語が深く身にしみます。

 1890年7月27日、ゴッホは滞在していたオーヴェールの旅館を出て、野原で胸にピストルの弾を撃ち込みました。恐らく発作に襲われて、狂おしい自己嫌悪の果てに、苦しみから脱却すべく引金を引いたのでしょう。彼の病はそれほど重かったのです。何という悲しい定め、何という残酷なむなしい最期でしょう。彼は、いつか自分の画が、それに費やした絵具以上の価値がでるか自問していました。もう少しの自信、もう少しの愛情、もう少しのお金さえあれば!

 ジェイムズ・アンソールやエドゥアルト・ムンクは、精神病院から正常の世界に帰還できましたが、ゴッホはその闘いの途上で倒れました。ホーフシュテッターはつぎのように書いています。

 「世紀転回期の三人の大芸術家がほとんど狂気すれすれのところに立って、夢と現実と幻想の境界に生き、これを絵画の世界になんとか押しこもうとする。三人の芸術家とは、ヴァン・ゴッホ、アンソール、ムンクである。第一の画家は彼が見た幻についに圧服されたが、他の二人は深刻な危機のあとふたたび現実にたちもどっている。だが同時に、幻視的眺望は彼らの眼には閉ざされてしまったのだ。三人とも、主観的前提に根ざして他の人間にはほとんど追体験されない原本的ヴィジョンをその画面に造型したが、これらのヴィジョンの意味は、しかし、今日ではだれにもおぼろげながら感じられている。」

 ホーフシュテッターは、この文章で、三つのことを明らかにしています。まず、ヴァン・ゴッホやアンソールやムンクが描くことができた幻視的眺望(象徴)は、ある時期から彼らには閉ざされてしまったということです。ゴッホはむろん自殺することによって。アンソールの場合、25歳から32歳頃までに想像の力はほぼ尽き果ててしまったようです。それ以降89歳で死ぬまで彼はほぼ凡人として生きました。ムンクは、二人よりその能力を持続したものの、40歳すぎにはすでにその最も深い特質は失われています。これらのことは何を示しているのでしょうか。それは、他の人の見えないものを見るという力は天恵であり、わずかの緩み、驕り、また疲労で容易に失われてしまうものだということです。おそらく、それは神秘主義に酷似しています。例えていえば、高い建物の間に張り渡したロープの上を渡るのに似ているでしょう。それを渡るためには、自らから余分なものを取り去って、一歩一歩に魂を集中して、なおかつ精神のバランスを保たねばなりません。しかし、ほとんどの自称神秘主義者は、最初の一歩で転落してしまうのです。

 つぎに、ホーフシュテッターが指摘しているのは、彼ら三人とも、主観的前提に根ざしたヴィジョンを持っていたということです。ゴッホやアンソールやムンクの作品に感情移入していくということは、少なくとも彼らの伝記的事実のいくつかを知らなくてはなりません。というのも彼らが辿りついた象徴形式は、その出生、生い立ち、環境に深く影響されているからです。それが、不労所得をあてにできたフェリシアン・ロップスやギュスターヴ・モローと違うところです。この二人は、いかなる圧力にも邪魔されず、意図したものを創造していくことができました。また、それはアルノルト・ベックリンやマックス・クリンガーとの違いでもあります。ベックマンやクリンガーは、自分たちの鋭い理性と感性が生み出したものを、当時のもっとも洗練された形式で描くことができました。それは、いわば職人の手仕事といってよいのです。また、オディロン・ルドン(彼はアンソールやムンクより20歳以上も年長ですが)の作り出した死の象徴は、伝記的な源泉というよりはるかに文学的なものです。

 最後に、この三人の描き出したヴィジョンは、今日に至って、はじめて人々におぼろげに感じ取られるようになった、とホーフシュテッターは言っています。苦しみでねじれるような糸杉、仮面で埋めつくされた肖像画、橋の上で叫ぶ人間など、かつては異貌と思われていたヴィジョンも、人生と世界の恐るべき写像のひとつと思われるようになりました。むろん、そこには、全体主義の恐怖や大量虐殺や核兵器の凄惨さの経験があります。

 ジェームズ・アンソール(1860-1949)はベルギーのオステンドに生まれました。父親は無職でアル中、よって家族からは疎外されており、家の実権は母親と姉と叔母に握られていました。この女たちが、屋根裏部屋で無用の画ばかり書くジェームズを冷たい眼で見ていたことは間違いありません。彼の画は全く売れず、やっと訪れた肖像画の注文もできあがった画が注文主から突き返されるに及んで女たちの彼への非難は頂点に達しました。27歳の時、唯一の理解者だった父親が死んで、彼はますます孤独の世界に浸りこんでいきました。生涯の恋人である女性との結婚も家族の反対であきらめました。40歳を越して、ようやく名声が高まり、マネやセザンヌ並みの賞賛を受けるようになると、家族はすでに創造力の枯渇した彼にむりやり仕事を続けさせようとしました。アンソールは30歳過ぎにはもはや画家としてのピークを通り越していたのです。母と叔母が死んで、彼が本当に自由になったのは60歳近くなってからでした。美術批評家の久保貞次郎は、「狂気の人と呼ばれたロートレアモン、ラフォルグ、ゴッホ、ランボーらがこうむったと同じように、アンソールは中産階級の実利主義の攻撃をうけ、地面にたたきのめされたのである。」と書いています。

 アンソールの母親は、オステンドの海水浴場で土産物屋をやっていました。そこにはオステンド名物のボール紙で作った仮面も売っていました。毎年の謝肉祭には、町の人々はこの仮面を被って仮面舞踏会に興じるのです。その土俗的な原色のグロテスクな仮面は子供のアンソールに深い印象を残しました。彼は、幼い頃から幻想が内面に入り込んでくる体質で、一人で過ごす屋根裏部屋でさまざまな妄想に耽ったようです。ある夜、明かりにさそわれた大きな海鳥が窓から入ってきて揺籃を突き動かしました。この恐怖と魅惑は大人になっても忘れられることはなく、幻想的なことが現実を侵食して、彼はその魅力に打ち倒され、それを十全に味わいつくし、それと遊ぼうとさえするのです。仮面と骸骨の幻想的・戦慄的な彼の画はこうして生まれました。

 ブリュッセルの美術学校で3年間学んでのち、アンソールは印象主義的な画風でその画歴を始めますが、すぐに、この方法では現実を全く描ききれないと考えるようになります。彼は、カフカの『変身』と同じやり方で、つまり絵画を人生に突如訪れた威嚇と運命として描き始めます。しかし、彼の画は、当時ヨーロッパで最も前衛的な美術集団からも出品を拒否され、自ら発表した作品も批評家からぼろくそに酷評されてしまいます。そして、この苦難の20歳代に彼の代表作のほとんどが描かれだのでした。それでは、彼の銅版画「死が群衆を追う」(1886)を見てみましょう。

 

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 アルフレート・レーテルの「絞殺人としての死」では、驚き、恐れ、逃げ惑う大衆は、まだ人間の顔をしていました。ところが、アンソールの版画の中の狭い街路を混乱して殺到する群衆は一人一人が愚かでグロテスク、中には道化師の姿や仮面やぬいぐるみを着た人間もいます。彼らはパニックを引き起こしながら、その恐怖の実態がわからず、やみくもに破滅に向って突き進んでいます。アンソールが理解していた群衆とはこのような人たちで、そこには啓蒙主義が作り上げた「理性的人間」へのすさまじい憤怒があります。人間は病みやすい、脆い存在です。仮面を被るのはあれほど称揚された個人の自由と責任という重荷から逃れるためであり、その結果、グロテスクな内面が拡大されてあらわれるのです。画面中にたくさん跳梁する死神も、(レーテルの威厳に満ちた死神とは対照的に)滑稽で、人間たちを嘲るように遊んでいます。死神も人間も、これ以上救われることのないように堕落しています。秩序、福祉、公衆衛生など19世紀が理性的人間のために築き上げた幻想のこれほど無残な終焉はありません。

 この奇怪なヴィジョンの真実性は、群衆がまっすぐに前方上部に、つまり作者に向って押し寄せてくることの恐怖にあります。作者も、この仮面の中に呑み込まれ、この群衆の一部と化すのです。この絶望は、彼の代表作「キリストのブリュッセル入城」にも正確に再現されています。おびただしい群衆がブリュッセルに現れたキリストを先導して、画面前方に歩いてくるのですが、その全員は醜い仮面を被り、中には骸骨さえいます。キリストの神々しさに比べ、群衆の何と愚かなこと。すでに18世紀にドルバックが指摘しているように、群衆は、病気の人を治し、足の悪い人を歩けるようにしたこの立派な人間をすすんで磔にしたのです。

 エドゥアルト・ムンク(1863- 1944)は、主観的経験に根ざした象徴主義を代表する人物です。ムンクの作品は、忘れがたい出来事のまとわりつく記憶というわけではなく、何かをきっかけに突然よびおこされた記憶、決して忘れることのない根本的記憶に根ざしているのです。家族の病気と死、それによる孤独、これがムンクがたえず喚起させられるテーマです。母の死、姉の死、妹の精神病、それはムンクを自己崩壊一歩前まで追い込みました。「住みなれた秩序の中へ突然闖入してくるものとしての死、集団の運命ではなくて、個々の人間をそれ自身のうえへと投げ返す体験としての死」(ホーフシュテッター)なのです。これが、ムンクに、彼と似通った感性の持ち主、ベルギーの象徴主義画家フェルナン・クノップフの座右銘「頼れるのは自分しかない!」と酷似した人間のありようを体験させているのだ、とホーフシュテッターは書いています。

 ムンクは、この孤独を癒すために終わりのない愛欲の世界に浸ります。クリスチャンセン(現在のオスロ)きっての美男子といわれたムンクは81歳で死ぬ瞬間まで女性に囲まれていましたが、彼がそこに見出したものは、結局のところ同じ孤独でした。激しいあこがれに駆られて関係を繰り返した後に訪れるものは、幻滅と不信でしかなかったのです。どの女たちとも長続きせず、女たちはみな男を食い物にして生きている吸血鬼だという考えにとりつかれていました。しかし、ムンクは、彼女たちが男に献身する刹那の自己放棄を体験するたびに熱狂せざるをえませんでした。そして、事果てて後の興ざめな女に戻るとき、情熱は再び幻滅に終わるのです。

 ムンクはその苦しみに満ちた生涯の中頃に、画家としてのピークを迎えました。人生はすべて無益である。没落していく生のさ中で、無意味に燃えさかる愛とはいったい何か。それは、ひとつの性の他の性への避けがたい牽引としての愛である。彼は人生と和解しようとし、女性をその魅力と罪ゆえに愛そうと決意します。ユダヤ神秘主義の言葉で言えば、女性とは神が顕現する場所に他ならないのです。傑作「マドンナ、恋する女、受胎」を見てみましょう。

 

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 「恍惚たるオルガスムの状態にある一人の女が精子の群れに囲まれ、胎児の幻影を見ながら、生成と幻影の流れに結びこまれている。女の献身は、同時に、成就と定めを内包している。」とホーフシュテッターは書いています。「そこに聖なるものの存在を理解して、教会の中に入ったときのように脱帽すべきである」というムンク自身の言葉を付け加えることもできるでしょう。まさに、人生は、脆さのうちに、癒されぬ苦悩のうちに、無益な欲望のうちに聖化されるのです。

 

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