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2010年8月27日 (金)

ハンス.H.ホーフシュテッター『象徴主義と世紀末芸術』(2)

 暑い夏の日には、冷房の効いた部屋でアイスコーヒーを飲みながら読書するなんて最高ですね。私には、それ以上の快楽は思いつきません。ところが、今年の夏ときたら、クーラーをきかせてもなかなか涼しくならないし、廊下に出ると熱気に襲われ、外出すると頭がふらふらになります。 こういう時は、厚く彩色された絵画を鑑賞する気分になれず、たとえば、アルフレート・レーテル(1816-1859)の木版画「絞殺人としての死」などを見ながら、ひとしきり考えに耽るのです。

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  これはまさに戦慄すべき版画ではありませんか。1831年にパリの仮面舞踏会で起こったペストによるパニックを描いたこの画の中心に君臨するのは中世以来の「死の舞踏」で知られる骸骨です。彼は二本の骨を巧みに使ってヴァイオリンを奏でています。歯をむきだして笑っている表情が、さらにその恐怖を倍加します。すでに舞踏会の床は仮面をつけたままの死者で覆われています。しかも、死神は一人でなくこの会場のいたるところにいるようなのです。画面の奥には王のように威厳を持った二番目の死神も座っています。必死に逃げ出そうとする楽団員の眼差しの先には別の死神も映っているのでしょう。祝祭の中の恐怖、歓楽の突然の沈黙、逃れられない凶暴な死、ここには運命の多様なこだまが聞こえてくるようです。ホーフシュテッターは、すでにこのレーテルの版画には中世の「死の舞踏」の持つアレゴリーを超えて象徴に至るものがあると言っています。ホルバインの「死の舞踏」は、ただ人々に「メメント・モリ」(死を忘れるな)と伝えるだけの此岸的なものでした。しかし、レーテルの版画は、死がすでに一つの仮面として長い間人々のところにとどまっていて、そしてある日突然に仮面をかなぐり捨てて人々を拉致さってしまうのだと教えているのです。中央の骸骨は、左腕につい先ほどまでつけていた仮面をぶらさげているではありませんか!

 アルフレート・レーテルは、アーヘンに生まれ、デュッセルドルフ、フランクフルトで画を学び、二度イタリアへ遊学した後、35歳で結婚しました。しかし、36歳で精神病を発症し、43歳でデュッセルドルフで亡くなりました。「絞殺人としての死」を含む木版画の連作「死の舞踏もまた」の最後の何葉かは、画家が精神の闇に落ち込む2年前に成立しています。

 アルフレート・レーテルを継いで、19世紀後半のドイツ版画を代表するのはマックス・クリンガー(1857-1920)です。彼の「死について」の銅版画連作から「鉄路の上の死」(1889)を見てみましょう。

Death

 山岳地帯の深い谷底にそって鉄道線路が急カーブで走っています。線路の上に、骸骨が足を組んでのびのびと寝そべっています。汽車はもう間近に迫っているに相違ありません、というのも骸骨は口笛を吹くように口に二本の指をくわえているからです。その楽しそうな表情から、この骸骨は鉄道による死者ではなく、死者を冥府に運ぶ死神だということがわかります。19世紀末にはすでに鉄道網はヨーロッパのほとんどの場所を覆っていました。それまではこのような人里離れた場所で命を落とす人はまれでしたが、今では労せずして死者の魂を手にすることができます。周縁の装飾枠の中には、鉄道事故で死んだ人たちの顔がまるで幽鬼のように浮かんでいます。下には、線路が生命を持った植物のごとくはびこっています。それはまるで、死の舞踏が、新たに加えた富を誇っているかのようです。

 クリンガーは、この連作「死について」に、次のようなモットーを付与しています。

 「われわれは死の形態を逃れるので、死そのものを逃れるのではない。なぜならわれわれの至高の願望の目標は死だからだ。」

 ロマン主義の残滓が感じられるものの、この言葉は真実そのものです。

 マックス・クリンガーは、ライプツィヒに生まれ、レーテルと同じく、ドイツ・アカデミズムの正統を歩んできました。そして、あらゆる技法を身につけた後には、ヨーロッパ中を渡り歩いて研鑽し、ドイツ・美術アカデミー教授、ドイツ美術連盟副議長などを歴任し、死の一年前に結婚し、63歳で卒中の発作で亡くなりました。

 彼はアルノルト・ベックリン(1827-1901)から強い影響を受けましたが、その本質はカント、ゲーテの流れをくむ市民的ヒューマニズムの完成の理念にありました。このイデアリズムが、当時のドイツのアカデミーの実証主義的自然・風俗画に飽き足らず、彼をドイツ象徴主義の大家、そして後のユーゲントシュティールの先駆者としたのです。代表作である10枚の連作「手袋拾得についての解釈」では、夢と現実、理念と表現が不意打ちのように交錯します。最初の二枚で、スケート場で女性を見かけ、その手袋を拾うという写実的な描写が見られますが、三枚目からは、手袋が夢の中に入り込み、解釈不可能な場面が連続します。他の男と去って行く女性が落とした手袋を拾う、という事実が、男を果てしない妄想に駆り立てます。夢が現実の中に忍び入るように、現実も夢の中に踏み込んできます。一見、ばからしいほど荒唐無稽なこの連作は、実は人間行動のありのままの姿なのです。私たちは、常に、現実と夢がないまぜになるように行動し、次第にはっきりしてくる合理的現実によって止揚され、裏切られるのです。

 クリンガーも創世紀について考え、アダムとイヴの堕落の観念に立ち戻りました。そして、人間の不幸と悲惨はことごとく愛から起こるという思想に逢着したのですが、その「出口のない苦悩」は連作「イヴと未来」にあざやかに描かれています。楽園の小川のほとりにすわって長い髪を梳かすイヴはまだ汚れを知りません。しかし、徐々に肉体の兆しが現れ、突然、画面いっぱいに官能の象徴である虎が出現します。やがて、彼女は悪魔の鏡に自分を映しながら虚栄心の泥沼に落ちて行きます。ついで、楽園からの追放、そしてイヴの最後の未来として「道路舗装工」の姿をした死神が続きます。「未来はその後裔たちにとって、一門の血統者の頭蓋骨が塵芥になるまでつぎつぎに粉々に粉砕する、道路舗装工のごときものであろう。」とクリンガーは書いています。これもまた戦慄せずにはいられない版画です。ここには、ブルジョア的経済ー進歩のオプティミズムへの徹底的な反感がある、とホーフシュテッターは言っています。

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 ところで、ドイツ19世紀の美術史というと、ベックリン(彼はスイス出身ですが)とクリンガーの他に、ミュンヘンで大変な人気を博したフランス・フォン・シュトゥック(1863-1928)がいます。貧しい粉屋の小僧から貴族まで成り上がったシュトゥックは、ほとんど無一文の修行時代を送りました。アカデミーの美術学校へ通うこともできず、生活のために、家紋や挿絵やグラフィックの仕事などにも手を染めながら独学で技法を習得していきました。それが、ベックリンやクリンガーの洗練された感覚と違って、何か画布の裏側から顔を出しているような人間味を感じさせます。一世を風靡した彼の名作「罪」を見てみましょう。

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 イヴとその体にからみつく巨大な蛇は、むろん誘惑と罪の象徴で、官能と悪徳が女の姿のうちに人格化されているのです。しかし、ここで罪は断罪されてもいれば、ひそかに渇望されてもいることに気づかねばなりません。誘惑は断固避けるべきだが、それを味わってもみたいのです。この画は訓戒を与えると同時に、刺激を亢進することを望む社会の意識の見事な象徴なのです。

 実は、シュトゥックのこのような作品こそ、19世紀後半のヨーロッパ象徴主義の秘密を集約しているものなのです。以下に述べるホーフシュテッターの解説はいささか図式的だが、本質を突いています。

  「サンボリスム芸術とは、根底において、分析がまったく不可能であるようなひとつの複合体なのである。」 ほとんど後期ロマン主義と重なり、ユーゲントシュテールや表現主義とも重複します。あえて、概念規定を試みるならば、「19世紀初頭に大革命の申し子として、ブルジョア芸術と同時に、しかもその敵対行動として成立した芸術。すなわち、誇張された、攻撃的なアンチ・ブルジョア芸術として、あまつさえときには背徳芸術として成立した芸術である。」さらに要約していえば、「19世紀全体、とくに世紀末に顕著な反社会的芸術のすべて」とすればあまりに強引過ぎるでしょうか。

 19世紀は革命とともに始まります。それは、たんに、政治的緒力の対立であるばかりでなく、精神の交代でもありました。新たに創立された人権という政治的基盤の上に啓蒙主義とブルジョア精神が相携えて闊歩してゆくのです。主導的な政治権力となったブルジョアジーは、その立場を強化するために、人権を発見するよすがとなった緒公準、すなわち政治的平等のみならず精神の平等もという理念を利用するのです。「大多数の人によろこばれるものが美しい」というアントン・ラファエル・メングスが、すでに1763年に言った言葉を敷衍して、ディドロは、さらに、芸術が社会的目的に従属することを納得させようとし、芸術に教化的な、道徳向上の使命を授けました。美徳が愛すべきものであるように、悪徳が嫌悪すべきものであるように、芸術家はこの社会の大原則に奉仕しなければならないのです。これが、まっすぐに1791年のダヴィッドの公式「芸術は、たんに眼をたのしませるだけでなく、民衆のたましいを鼓舞させねばならない」に結びつきます。ここから、国庫補助でまかなわれる美術学校の設立ー芸術を教育体系に編入することーがはじまるのです。

 こうした、ブルジョア的合理主義、レアリスム、実証主義、自然主義、科学主義に根ざした「わかりやすい芸術」という19世紀の概念は、実は21世紀の現在に至ってもその力を奮っているのです。さらに、その諸公準を支えるブルジョア道徳の根幹は、自由と民主主義をたてまえとする現代社会の道徳の中にも密かに生きているのです。「世紀末の信憑すべき証人」エドウァルト・フックスは、その『風俗の歴史』に次のように書いています。

 「個人の性愛は、すべての階級において、またすべての階級によって、結婚という唯一の合法的な基盤として促進された。人間対人間の連帯が万人にとっての紐帯であり、くびきとなるべきであった。近代のブルジョア国家は、家族や国家や共同体における総体の歴史的展開を完成させようとし、したがってまたあきらかに、真に美俗的な世界秩序の即位式を体現しようとした。性愛衝動の充足はしたがってたんに快楽行為を意味するばかりでなくて、子供を生むという願望を通じて聖化され、目的意識化されるべき性質のものであった。子供が婚姻の目的となる。同時にしかし、ひとは子供を財産や家名の相続者としてばかりでなく、人間性という概念の継承者として、人間性の枠と各人の奉仕のうちに位置づけようとする。」そのため、結婚は必然的に打算結婚となります。「ひとびとは出世街道を確実に、できるだけ脳髄の疲労をさけながら前進しようとする。計算が合えば、その他のことは全部合う。こうして選ばれた女性とは美人であり、よき主婦であり、要するに世人の要望そのものである。夫はといえば、これは手堅い人物、衆に抜きん出た実業家、堂々たる風采などである。かくして道徳の乳くり合いは、みずから作った幻想のなかで救護されるのである。」

 19世紀全体を通じて、このような「健康なブルジョア的良風美俗」に対する疑問がさまざまに現れていました。「お行儀のよい主婦と子供たちの母」に対して、サロメやメッサリーナやクレオパトラのような大娼婦が対置されました。剛直な、秩序制定者たる男性は、妖艶な魔女、魅力的な吸血鬼に身も魂も吸われていきます。オーブリー・ビアズレーやフェリシアン・ロップスが仮借ない筆致によって性的にいやらしいものを繰り返し描いたのは、ブルジョア的偽善の徹底的な仮面剥奪のためだったのです。

 反ブルジョアの芸術家たちは、次のような点において、ブルジョア美学とブルジョア的世界体系に対して戦いました。

 第一に、芸術は明白に規定しうる諸規則を規準とし、かかるものにしたがって教育できるという概念に

 第二に、世界や人間を実証主義的・自然科学的に理解することに

 第三に、その結果として、人間のもっとも自然な諸衝動の抑圧を隠しているブルジョア道徳に

 しかし、忘れてはならないことは、彼らが、こうしてアカデミックな規範から解き放された様式フォルムを用いて、ブルジョア的価値体系にがんじがらめにされている日常の背後で活動している事物を現実の明るみに出したところで、彼ら自身はやはりブルジョアジーの諸問題に、その創作において密接に結びついていたことです。無神論者がキリスト教世界に結びついているのと同じように、ボヘミアンがブルジョアの社会秩序に結びついているのと同じように、彼らはブルジョワの世界に結びついているのです。彼らは、彼ら自身が反対する世界観に、彼ら自身も繰り込まれているという二律背反を苦悩のうちに体験せずにはおかなかったのですが、それでも、彼らには二つの突破口がありました。ひとつは、美学的絵画的に規格化されたブルジョア的価値基準を解体ないし破壊することであり、もうひとつは、此岸の背後にひそむ第二の現実の多少とも構成的な観念構築のうちにあります。

 啓蒙主義のいや増す前進において、理性に対立する反世界、愚行、不条理、狂気、そして何よりも迷信が徹底的に弾劾されました。そして啓蒙主義によって武装された王政復古ブルジョアジーの道徳法則は、理性のこの夜の側を呪縛しようとする傾向をあからさまに見せていました。しかし、抑圧された夜の仲間たち、迷信や狂気は、姿を消したわけではなく、むしろ理性の影でその巨大な牙を磨いていたのです。いや、影に潜んでいるというより、理性への野放図な信頼こそ野蛮そのもの、非理性そのものなのです。

 人間は、結局は、獰猛な非理性に翻弄され、制圧され、没落していくのだというペシミズムは、芸術家たちを、この人間の生の姿を徹底して暴き出すという情熱に駆り立てます。彼らは、こうした情熱が、ショーペンハウエルによって裏書されたと感じていました。「ショーペンハウエルこそは、ニーチェの『反時代的考察』第三部において、あらゆるイルュージュンと生の欺瞞とを容赦なく破壊しながら、自由意志による真実の生を引き受け、自然と人間生活とをあるがままの姿において、すなわちその苦悩、その恐怖、その悪魔性においてながめようとする人間として記述されているのである。」

 このような世界観に表現を与える象徴的絵画表現とは、「失われた楽園」であり、地獄として表された世界の光景であり、この世界の悪の化身としての女であり、仮面として個性を剥奪された人間、仮装行列としての人生、また、根こそぎにされ追放された存在の象徴としての娼婦でした。

 ペシミスティックな態度がある一方で、その対立物としてではなく双子の片割れとして、此岸の悲しい現実の背後に非合理な諸価値を予感し、この予感をいわばヴィジョンとして形象化しようとするオプチミスティックな理想主義的態度も存在します。自然の中に神を感じ、神と交流するロマン主義の救済願望がもてはやされるのです。「自然は人間の中におのれを認識し、人間は自然の中におのれを認識する」(シェリング)、「汝の全存在は浄化と淳化を体験し、汝の自我は消失し、汝は無となり、神がすべてとなる。」(カール・グスタフ・カールス) 神話的深層への降下、それによる人間性の失われた神話的根源の回復というロマン主義的解決は全19世紀を貫徹しています。

 そして、芸術家の取り出してくるさまざまな象徴像には、彼らの自我の深層から湧き出してきた怪物であふれています。サタン、カイン、アダムとイヴ、吸血鬼、スフィンクス、サロメなどがたっぷり感情移入されて登場します。このような堕落した形態への執着、あるいは堕落以前の状態への回帰願望などは、19世紀の反ブルジョア芸術家に共通したものでした。

 ところで、彼ら19世紀の反社会的芸術家は、当然のこととして、昼の世界から締め出され、忌避されないまでも、何ら現実世界に影響力を持たない存在でした。しかし、彼らが棲みつく夜の世界、忌まわしい、魅惑的な世界は、実はブルジョアたちの現実逃避のための避難場でもありました。彼らにとって、芸術家が作り出す夜の世界は、危険なく逸脱できるユートピアであったのです。この現実逃避の行き着く先は、えてして過去であり、歴史や伝説の世界であり、とりわけ道徳的な思慮分別を知らない神話の美的世界でした。そういう変装をこらせば女が一糸まとわぬ姿をしていても差支えなかったのです。エロスへの願望ばかりでなく、現実逃避はまた、ユートピアと童話(メルヘン)の世界への幼児退行の、物質世界を離れた自然崇拝への領域にも通じていました。

 サンボリストたちが作り出す表象世界は、規格の中で生きているブルジョアの本然の欲望のはけ口となったのですが、同時にその世界はブルジョア道徳を根底から脅かすものでした。時代の抑圧された願望は、そのような表象を通じて、謎めいたものから不気味なものへ、夢から狂気へ、子供っぽい無垢性から無責任への憧憬へ、英雄精神から反逆へ、美の崇拝からポルノグラフィーへと逃避して行ったのです。ヴェデキントの『パンドラの筺』のなかのアルヴァはルルの肖像を前にして、次のような言葉を発しますが、これこそその時代のブルジョアが、というより人々全部が抱いていた危惧なのです。「このポートレートを見ていると、ぼくはいまふたたび自尊心が湧いてくる。これはぼくに、ぼくの宿命をはっきりと解らせてくれるのだ。この花咲くような、ふくらんだ唇、この黒い、無垢そのものの子供の眼、この薔薇色がかった白い肌のはちきれそうな肉体を見て、自分のブルジョア的地位が安泰だと感じる者、そういう男ははじめに石を投げるがいい、、、、」

 このような意味で、フランツ・フォン・シュトゥックの「罪」は世紀の傑作と呼べるのです。

 

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2010年8月15日 (日)

ハンス.H.ホーフシュテッター『象徴主義と世紀末芸術』(1)

 いや今年の夏は暑いですね。どこか涼しい美術館でも行って、ゆったり絵画を鑑賞しようと妻と話していたのですが、この時期、どの美術展も混雑しているそうなので、家で静かに画の本を読むことにしました。ハンス・H・ホーフシュテッター『象徴主義と世紀末芸術』(種村季弘訳・美術出版社1987年新装版)は、19世紀後半の象徴主義美術についての最高の評論です。まず、その概念規定からはじまり、その技法、そしてその表象世界まで、包括的、かつ徹底的に論評していきますが、最初のページから順に紹介して行くのはたいへんです。それで、私の好みの画家たちについて書きながら、象徴主義の要諦を考えていくことにしましょう。

 まず、スイス人の画家、ヨハン・ハインリッヒ・フュッスリ(1742-1825)です。彼は19世紀というより、18世紀末に活躍した画家ですが、同時代のフランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828)やウィリアム・ブレイク(1757-1827)と同様に、象徴主義の先駆といってよいのです。彼の代表作「夢魔」(1781)を見てみましょう。

 

Muma

 美しい婦人は、完全に自己抑制を失って、深い眠りの中に落ち込んでいます。胸の上には、中世以来おなじみの奇形の獣人グルリットがうずくまっています。これは恐ろしい悪鬼ではなく、卑小で、動物的な、欲望に満ちた、彼女の心の深層から湧き上がってくる怪物なのです。幕間から顔をのぞかせている雌馬は獣的発情の象徴像に他なりません。すると、この画は、ゴヤの「理性の眠りは怪物をはらむ」(1797)と同じ趣向から描かれたのでしょうか。理性に委ねられた世界への懐疑は、ゴヤの終生のテーマでした。祖国での政治体験は、彼を、理性と没理性は覚醒状態と眠りのように同一の現実の両面であり、理性の眠りこそが怪物をはらむのだという生々しい認識に導いたのです。フュッスリの眠る女性も、理性に押さえつけられた人生に対する不純な反抗が、無防備な眠りのうちに奇怪な一対の動物の姿をとって具現化したと見ればよいのでしょうか。

 しかし、フュッスリの「夢魔」には、もうひとつの解釈があります。1983年に国立西洋美術館で開催されたフュッスリ展に寄せたゲルト・シッフの解説によれば、実は、20世紀後半に入って、この画が裏張りされていたもう一枚のカンヴァスから剥がされたとき、表側の眠る女にきわめてよく似た女性の魅力的な肖像画が現れてきたのです。この事実はH.W.ジャンセンにこの画の構想と、その苦悩を与えるほどの強烈さをともに説明できるひとつの解釈を思いつかせました。37歳のとき、フュッスリは、ようやく獲得した画家としての名声を手に8年ぶりに故郷のチューリッヒに帰ってきました。わずか6ヶ月の滞在でしたが、彼はそこで親友である観相学者ラヴァーターの姪にあたるアンナ・ランドルフという少女と出会い運命的な恋に落ちるのです。しかし、この熱烈な恋はアンナの両親の拒絶するところとなりました。ロンドンに戻ってまもなく、アンナが婚約したことを知ったフュッスリは、抑えがたい嫉妬の業火に焼かれて途方もない妄想に耽りました。1779616日にラヴァーターに宛てた手紙につぎのように書いています。「昨夜、私は彼女とベッドをともにし、夜具を滅茶苦茶にはね飛ばし、私の精と息と力を彼女に注ぎ込みました。、、、彼女は私のものであり、私は彼女のものです。いかなる神も、誰も、二人を引き離すことはできません。」

 ジャンセンは、フュッスリが満たされない憧憬と嫉妬と怒りの化身として、夢魔を彼女に遣わしたのだと言っています。いわば、捨てられた恋人の代行として夢魔が彼女に復讐を果たしたのです。

 このことが、フュッスリのこの画を、19世紀の象徴主義に近づけるのです。象徴は、たんなるアレゴリーとははっきり区別されます。アレゴリーは、純粋に知的な伝達手段のひとつであり、抽象的な思考過程や意味のある関係をはっきりと頭にたたきこむために使用されます。ところが、象徴は近代になってアレゴリーと峻別され、現実では容易に説明できない幻想的、個性的内実を、現実の限られた手段を使って表現することを意味するようになります。いわば、19世紀の象徴概念とは、ロマン主義の象徴概念と同じなのです。たとえば、カスパール・ダヴィッド・フリードリヒやフィリップ・オットー・ルンゲの作品が現実をそのまま写し取ったのではなく、ひとつの象徴を表していることは容易に理解されるでしょう。しかし、その象徴を読み解くためには、十字架や、曙光や、夕闇といったものが表現するアレゴリーに頼ってもあまり効果はありません。そのためには、彼らの精神史の中へ、個人の生活史の中へ入って行かねばなりません。なぜなら、彼らはその個人的体験から彼ら独自の象徴を生み出してきたからです。フリードリヒはなぜ死と墓と廃墟ばかり描くのか、ルンゲの朝・昼・夜の三幅対はアレゴリーでないとしたら何を表現したいのか。それらを理解しようとするためには、まさに感情移入によって、見る者の精神にある覚醒が必要とされるのです。こうして、フリードリヒの中には、深い追憶の思いが、この世の虚しさに対する神の全能への確信があるのではないか、そして、ルンゲには、神の美しい宇宙的サイクルに溶け込もうとする思いがあるのではないか、と推測することさえできるのです。

 フュッスリは、その画歴の最初から、現実の古典的な描写には全く興味がありませんでした。というより、彼は裸体のデッサンや風景のスケッチにも興味がなく、自分にそのような才能もあるのだと気づいたのはロンドンの美術アカデミーで教えるようになってからでした。古典主義は、模範的なカノンの存在を信じ、それゆえに芸術は教育できるという信念にとり付かれています。フュッスリは、ロンドンのアカデミーを「芸術の悲惨のシンボル」と呼び、にもかかわらず、運命の皮肉として、この学校に油絵技法の教授として招聘されたとき、就任式に際して、自分もこんなところに入るくらいだからずいぶん下劣な人間だと思う、と言いました。そしてフュッスリは19世紀において、それまでアカデミー画家たちから芸術家とは見做されなかったレンブラントの天才をふたたび発掘した最初の人たちの中のひとりでした。彼は、自らの悪魔的ヴィジョン、幻想的画風を創り出すために、レンブラントの境界さだかならぬ、もやの中から立ちあらわれる光の技法を利用したのです。

 フュッスリは、174126日にチューリッヒに生まれました。父親は画家であり、美術品収集家でもありました。フュッスリの知的興味はチューリッヒの高等人文学校で大きく涵養されます。二人の教師、ヨハン・ヤーコプ・ブライティンガーとヨハン・ヤーコプ・ボドマーは当時のヨーロッパでもっとも進歩的で自由な精神を有していました。二人は、フュッスリに、古典学における完璧な基礎を与えました。そのおかげで、フュッスリは毎日三時間ギリシア語とラテン語の書物を読んでから画を描き始めるという習慣が身についたのです。古典学ばかりでなく、この二人の教師は、フュッスリに、『ニーベルンゲンの歌』、ダンテの『神曲』、シェークスピアの戯曲、ミルトンの『失楽園』などヨーロッパの財産ともいえる作品を読ませ、後にフュッスリは多くの霊感をこれらの作品から得ています。

 この二人の教師とフュッスリは、その自由思想のゆえに偏狭なチューリッヒを追われて、ヨーロッパを放浪します。(彼らと、フュッスリの友人ラヴァーターは、ゲーテの『詩と真実』にも度々登場します。)象徴主義との関係では、このラヴァーターとの交際が非常に重要です。ラヴァーターは1775年から1778年にかけて大部の観相学研究を公にしていました。そこで、彼は、人間の性格他すべてはその顔の相に現れると述べているのですが、これはその後、カール・グスタフ・カールスの『人間形態の象徴学』(1853)を経て、ルードヴィッヒ・クラーゲスの筆跡学、クレッチュマーの精神病理学につながっていきます。この象徴概念は、象徴主義の画家たちに、ポートレートから自立して、人間の顔の中に特定の魂の状態や、特定の、彼が意図した心的構想を象徴することができることを教えました。その例は、ダンテ・ガブリエル・ロセッティやビアズレー、クノップフ、フランツ・フォン・シュトックなどに見ることができます。

 その後、フュッスリはロンドンに居を定め、彼を代表する傑作を次々と発表して行きます。ホメロスやヴェルギリウスに題材をとったもの、ニーベルンゲンの伝説、シェイクスピアの作品群の挿絵など、しかし、その中で、フュッスリの哲学を理解するうえで決定的に重要なのは、1790年から1800年にかけて遂行されたミルトン『失楽園』の絵画化でした。

 かんたんに『失楽園』のあらすじを紹介しましょう。サタンは神への謀反を試みたため地獄に追いやられます。再び神と闘いを挑むべきかどうか迷ったサタンは、神との直接的な闘いは避け、地上に住むアダムとイヴを利用して神に復讐を遂げようと決心します。蛇に姿を変えたサタンは、まずイヴに禁じられた木の実を食べるよう誘惑します。イヴは、果実をアダムのところへ持って行き、すべてを彼に語ります。イヴが神の命に背いたことを知ったアダムは、イヴを深く愛するがゆえに彼女とともに罪を犯す道を選び、果実を食べます。

 神は、罪を犯したアダムとイヴを楽園から追放するために大天使ミカエルを遣わします。ミカエルは、追放する前に、アダムを高い山に導き、人類の未来を映し出すいくつかの幻を見せます。病気で苦しんで死んで行く者や、大洪水で溺れ死んで行く者たちの幻を見せられたあとで、最後に、キリストの到来、その受肉、死、復活、昇天が述べられ、キリストの再臨までの教会の腐敗さえ予言されるのです。そして、打ちひしがれたアダムとイヴはミカエルによって楽園の外に導かれて行きます。

 「ミルトンと同じく、フュッスリは、悪は女を通じて世界に侵入してくる、という観念の虜になっている」とホーフシュテッターは書いています。すなわち、フュッスリが青春時代の終わりに味わったある愛の幻滅は、フュッスリの作品中に繰り返しあらわれる、虚栄心の強い、無責任な破壊者としての女の描写に通ずるはげしい女嫌い観を形成するに至ったというのです。フュッスリの人生で、愛が成就したという事実はありません。彼の唯一の心からの情熱、アンナ・ランドルフと結ばれるという情熱はついに実を結ぶことはありませんでした。彼は、50歳近くなって恐らく妥協から若く愛らしい女性と結婚したのですが、彼女が満足させることができたのは彼の肉体的欲求にすぎなかったはずです。「イヴと運命をともにする決心をしたアダム」という彼の画を見てみましょう。

 

Adam

 アダムは、神の掟に背くという行為にひそむ罪の重大さを完全に意識して、それゆえにまた致命的な結末をも意識しています。彼は、はっきりと眼を見開いてイヴの破滅的な行為にしたがうが、それは劫初の恩寵のうちにただ一人生きつづけるよりも、イヴとともに劫罰と死の世界で結ばれていることを望んだからです。「イヴと運命をともにする決心をしたアダム」はまさに感動的な画で、それは、フュッスリが、ブレイクやシェリーのようにサタンへの隠しようのない愛情を吐露したりせず、また無論、神への呪詛などもなく、すべての反抗は失敗する運命にあるという諦念とともに、それならば愚かな女と運命をともにすることこそ唯一の選択であると理解したことにあるのです。これこそ、象徴主義の傑作といってよいでしょう。

 

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