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2010年7月11日 (日)

清水克行『日本神判史』

 穂積陳重の『法窓夜話』(岩波文庫)の中で忘れがたい話があります。「死の骰子」と題されたその章は、ドイツの帝室博物館に展示されてあるという二つの骰子にまつわる物語が語られています。話は17世紀半ばにさかのぼります。一人の美少女が何者かに殺害され、嫌疑は日頃から少女と交際していた二人の兵士に懸けられました。一人はラルフといい、他の一人はアルフレッドといいました。しかし、二人とも身の潔白を固く主張して、拷問までしてみても、どうしても白状を得ることができません。そこで、フリードリッヒ・ウィルヘルム公は、この二人に骰子を振らせて、その敗者を犯人と認めるといういわゆる神意裁判を行おうと決心しました。

 荘厳なる儀式をもって、公は自らこの神意裁判を主宰されました。ラルフがまず骰子を投じました。転々また転々、二つの骰子はともに6を示しました。合せて12点、得らるべき最高点です。ラルフは思わず歓喜の声を上げました。彼の無実はもはや証明されたも同然でした。

 一方、アルフレッドは今や絶体絶命、彼は地にひざまずいて切なる祈りを神に捧げました。「おお神様、神様は私が罪なきことをよく知っていらっしゃいます。どうか、どうか、私に加護を与えてくださいませ」。思いの丈をすべて両手に集めて、彼は骰子を地に投げ打ちました。すると、見よ、転々した骰子の一つは6を示し、もう一つはその骰子に当たって高い音を上げ、真っ二つに裂け、一片は1を上にし、もう一片は6を示しているではありませんか。合せて13、彼は不可能な勝利を手にしたのです。満堂、この奇異に一人として声を発するものはいません。

 さすがのラルフも、神意の空恐ろしさに肝を冷やして、たちまち自分が下手人であることを白状しました。「これ実に神の判決なり」。公はかく叫んで、直ちに死刑の宣告を下しとということです。

 私は子どもに「確率」を教えるとき、よくこの話を枕に使うのですが、6が2つ出るのは36分の1でしかないということは、アルフレッドの身に自分をおいた場合、実に戦慄すべき状況であると実感できるはずです。

 

 松原秀一『フランスことば事典』(講談社学術文庫)は、「猫」や「じゃがいも」や「手帳」など、ありふれたフランス語の単語について、その起源・変遷などを記した本ですが、周到な資料調査と好感の持てる筆致は類書に見られぬもので、私の日々の愛読書のひとつとなっています。「さくらんぼ」の項には、あのセヴィニェ夫人 Marquise de Sevigne がラ・フォンテーヌの『寓話』について語った「さくらんぼの籠のようです。見事なものをと選んでゆくと籠が空になってしまいます」 C'est un panier de cerises : on veut choisir les plus belles et le panier reste vide. という言葉が引用されています。また、アメリカの音楽家のスウィングル夫妻の話。夫妻はある日、シャンソンのレコードを聞いているうち、二人とも涙がとめどもなく流れ、一晩で決心して一切の家財道具を売り払い、フランスに渡り、米軍基地のピアノの先生になりました。松原秀一が夫妻の庭を訪れると、みごとなcerisiers の木が数本あって、小学生の2人のお嬢さんが、柄ごと切ったさくらんぼを耳にかけて耳飾りとして遊んでいました。それを見て、ジャン・バチスト・クレマンが、1866年に作り、今も歌い継がれている「さくらんぼの季節」 Le Temps des cerises という有名な歌の中の一句 des pendants de corail の意味がわかったというのです。

  Mais il est bien court le temps des cerises

  Pendants de corail qu'on cueille en revant

  しかし、さくらんぼの季節は短い

  夢見ながら摘むサンゴの耳飾り

 話が横道にそれましたが、『フランスことば事典』の中の「樽」Le tonneau の項に、神明裁判 Jugement de Dieuの話が書かれています。これは1370年の「モンタルジスの忠犬」というよく知られた話だそうです。騎士オーブリーは犬をつれて森を歩いている途中、マケールという男に暗殺されてしまいます。マケールはアリバイを主張して、この殺人事件は一応迷宮入りとなるのですが、この犬がマケールを見るたびに激しい敵意を示すので、とうとう黒白を決するために決闘 duel judiciaire が犬と人間との間で行われることになりました。これは神明裁判のひとつで、正しいほうは神の助力によって必ず勝つと信じられていたのです。マケールには棍棒が、犬には底を抜いた樽が与えられました。この中に避難できるようにとの配慮でした。決闘は長く続き、ついにマケールは負けて罪を認め、絞首台 gibet に上ります。この話はたいへん有名になって、数多くの版画や絵の題材となりました。

 

 前振りが長くなってしまいましたが、実は不養生が祟って、痛風の発作が起きてしまい、歩くと片足が痛いので、トイレ以外は立てなくなりました。ツルゲーネフの晩年の不機嫌な調子は、この病気の影響を抜きにしては考えられません。私の場合、憂鬱ではあるが、朝食の用意や洗濯や猫の食事などの雑事をすべて妻に任せて、久々に読書三昧の毎日を送ることができました。こんな時に絶好の軽い新書本を何冊か読んでいったのですが、清水克行『日本神判史』(中公新書)は、まさか一冊の本になって世に出るとは思えなかった神意裁判、あるいは神明裁判ついて書かれていますが、実地の調査を重ね、先行研究を丹念に拾って仕上げた好著です。書名は大仰ですが、(というのも、中世後期から近世初期までのわずかの時期に過ぎないので)、その結論めいたものは、多くの人を十分納得させるもののように思われます。

 

 「日本書紀」には3件の盟神探湯が記されていますが、その後700年間、神判は鳴りをひそめ、鎌倉時代に参籠起請として復活します。鎌倉幕府は、裁判で有罪か無罪か判断しかねる案件や、双方の主張が対立してどちらが真実であるか容易にわからない場合、彼らに自身の主張に偽りがない旨の起請文を書かせ、宣誓者を一定期間(通常は7日)神社の社殿に参籠(お籠り)させ、その間に彼ら自身や家族に異変が現れないかどうか観察しました。これが「参籠起請」で、宣誓文の内容に違犯している者には神罰が当たり、必ず自身や家族への異変(これを失という)が生ずるはずだと考え、それを判決の拠りどころにしようとしたのです。

 <参籠起請の例> 『吾妻鏡』によると、寛元二年(1244)、鎌倉幕府の法廷に、御家人市川高光の妻の不倫疑惑に関する訴状が提出されました。この二人の離婚はすでに成立していて、高光は、妻が結婚中に落合泰宗という侍と不倫関係にあったと訴えたのです。鎌倉幕府は、元妻と落合を参籠起請にかけることを決定し、二人は身の潔白を誓う宣誓文を書かされて、7日間鎌倉の荏柄神社に参籠させられました。この参籠起請に対し、幕府は平寂阿と鎌田西仏という二人の御家人を監視役として派遣し、少しの「失」も見逃さないよう厳戒体制を敷きました。結果は、77夜の監視にもかかわらず目に見える変調が確認できなかったために、二人は身の潔白が証明されたとして勝訴となりました。しかし、この訴えには裏があって、実は市川とその妻の間には、離婚の際には土地(信濃国ほか三箇所)を妻に譲り渡すという誓約が交わされていたのです。恐らく、市川は、いざ離婚となって、その土地が妻の土地に渡るのを惜しんで、突如として不倫疑惑をでっち上げたのではないか、と考えられるのです。

 ところで、黒白をつける根拠となる「失」とは、具体的にどのようなものでしょうか。鎌倉幕府が文書として残した「失」とは次のようなものです。

 鼻血が出る。

 下血する(痔、月経による失血はのぞく)

 食事中に咽ぶ(人が背中をたたくほどの)

 参籠中に父子の罪科が出来(しゅったい)する

 起請文を書いた後に病にかかる(本の病はのぞく)

 鼠に衣服を喰われる 

 等々、かなり恣意的な判断が可能で、この後に続く湯起請や鉄火起請も、結局は検者の判定に委ねられるわけで、情実やインチキが介入する余地は十分あります。

 

 参籠起請は室町時代に入ると、湯起請に取って代わられました。おそらく、スピードと変化の室町期の人々にとっては、7日間の検証期間というのはまだるっこかったのでしょう。湯起請というのは、盟神探湯と同じく、熱湯に手を入れ(普通はその中の石をとる)、火傷を確認できたら有罪とするもので、1404年から1570年ころまで確認できるだけで87件ありました。このうち、提訴されて、実際に実施されたものは32件、火傷(有罪)となった割合はちょうど50パーセントになります。半分の人間が火傷しなかったということは驚きですが、おそらく厳密な状況での実施ばかりではなかったからでしょう。

 <湯起請の例> 永享三年(1431)山城国伏見荘では盗難事件が頻発し、犯人としてかねて素行不良の内本兵庫という人物の名が取りざたされていました。そこで領主の伏見宮貞成は兵庫を捕縛し事情聴取を行うのですが、意外や兵庫は、自分は絶対無実なので、疑うならぜひ湯起請を実施してほしい、そこで失があれば切腹すると啖呵をきりました。かくして、陰陽師の立会いの下、伏見荘の鎮守御香宮において湯起請が実施されるのですが、大方の予想に反して、兵庫には失は見出されず、そのため兵庫は社殿に三日間閉じ込められて経過を観察(水ぶくれが出ないか等)されるのですが、やはり異変はなく、兵庫の無実が確定してしまうのです。その後、怪しいと思われた別の三人の容疑者が湯起請にかけられたのですが、三人とも火傷が確認され、三人そろって有罪とされてしまいます。ところで、もっとも怪しいと思われながらまんまと湯起請を切り抜けた兵庫は、その後、他村で盗みを働き、現場を押さえられて切り殺されてしまいました。

 こう見ると、やはり真犯人は兵庫で、彼が湯起請に訴えたのも、追い詰められた状況で一発逆転を狙ったものと考えられます。そして、湯起請を持ち出した以上、十分な準備と自信があったに違いありません。そのからくりは不明ですが、素朴に神意を信ずるより、現実的に対処して方法を案じた人間が切り抜ける確率はきわめて高かったと思われます。

 さて、湯起請というものが持つ歴史的意味はいかなるものであったでしょうか。著者は、いくつかの側面から考察していますが、まず、ムラ社会の中の湯起請のあり方を説明します。室町時代は、しばしば「一揆の時代」や「衆議の時代」といわれるように、人々の間で、ヨコの連帯が大きな意味を持った時代でした。まだ戦国大名のようなカリスマをもった支配者は現れていず、タテ軸の支配は社会に貫徹していませんでした。茶や連歌の本質は身分差を越えた参加者の平等性にあります。経済面では頼母子や無尽のような互助金融が発達しました。村では寄合いによって独自に意思決定し、外的勢力に対して、特定の独裁者に頼るより、集団的な連帯強化で生き残る方策を選択していきます。

 このように、共同体が自らの結束を強化しようとするとき、湯起請はその手段の一つとしてしばしば選ばれたのだといわれます。共同体で犯罪が行われ、その犯人が検挙できないとき、その結束に大きな亀裂が生じます。そのとき、ムラは「落書」(匿名で犯人を名指しするもの)にもとづいて、容疑者を湯起請にかけるのですが、このとき、しばしば落書は普段から共同体の和を乱す人間を名指しすることがあります。その湯起請の結果がどうあれ、「犯人」を特定してムラの和を取り戻し、かつ異分子を排除することができるわけです。(「失」がなくとも、犯人が共同体の外の人間であるとわかればそれでよいので、また無罪とされても異分子はムラにはとどまり難いのです)

 なぜ、湯起請でなければならないか、それについて著者は次のように書いています。「湯起請は、彼らが集団的に行っていた異端排除や治安の再確認作業を『俗』の次元から『聖』の次元に切り替えることで、あたかもそれが恣意的・専制的なものではないかのように見せる効果をもたらしたのである。これこそが共同体の連帯が重視される室町社会にあって、湯起請がもっていた機能のひとつであった。」

 さらに、湯起請を広めさせた当時の心性というものも考えなくてはなりません。中世は神仏の持つ拘束力がきわめて緩くなった時代、つまり人々が古代ほど神仏を信じられなくなった時代と言えるかもしれません。しかし、人々がまったく神仏を信じなくなったのならば、そもそも湯起請が行われるはずがありません。そこで、著者はこう推測します。「あえて、そこで湯起請が行われていた以上、人々はまだどこかで『神慮』を信じていたかったのだともいえる。そうした信心と不信心の微妙なバランスのなかで出現した湯起請は、あるいは起請文における血判や多くの神仏の名前と同様、薄らいでゆく神仏の持つ拘束力を肉体的な苦痛によって担保するべく創出されたものだったのではないだろうか。」

 普段は姿を現さない神仏も、極限的な状況を作り出し、熱湯に手を入れるという途方もない行為をしでかせば、きっと「神慮」を示してくれるはずだと室町の人々は考えたかもしれません。そして、そんなことをしても「神慮」は現れないのだと人々が達観してしまったところで、湯起請ははっきりと終焉を迎えたのだ、と著者は言っています。

 

 湯起請と入れ替わるように、戦国時代に、灼熱の鉄片を握るという鉄火起請が現れてきます。あまりに過激なためか、半世紀にもみたず(1590-1620頃)歴史上から姿を消しました。記録に残っているのは、45件で、そのうち半数近い21件が実施されています。著者によれば、横浜市と川崎市の市境も1607年の鉄火起請によって決定され、それを記念して石碑も建てられているそうです。

 実は、鉄火起請こそ、神判史の極北であり、その華といってよいのです。

 <鉄火起請の例> 1609年、現在の滋賀県蒲生郡日野町で、日野山の領有をめぐり、東郷九か村と西郷九か村の間で延々十年にわたって山争いが行われていました。この争論があまりに長引いて泥沼に陥ったため、西郷の方から「鉄火」によって決着をつけようという提案がなされました。西郷の角兵衛という男が提案し、自らすすんで鉄火の取り手になると名乗り出たのです。角兵衛は西郷で長い間扶助されてきた浪人であり、恩返しのために取り手を買って出たのです。この提案は西郷側の村役人によってただちに東郷に持ち込まれました。

 この提案は東郷の人たちを動揺させるに足るものでした。もし、この提案を拒否すれば、東郷が自分たちの主張が理に合わないゆえに神罰を恐れていると思われてしまいます。といって、村人の誰がこんな恐ろしい役目を引き受けるというのでしょうか。誰もが尻込みしていたところ、九郎左衛門という男が自ら買って出ました。ところが、その後、西郷との交渉役にあたっていた喜助という男が、西郷の者に臆病者となじられたのを契機に、みずから取り手に名乗りをあげ、結局、東郷の取り手は九郎左衛門でなく喜助と決まりました。

 かくして元和五年918日、江戸幕府の検使の立会いのもと、日野町の錦向神社で鉄火裁判が行われることとなりました。喜助と角兵衛の二人は白木綿の衣装に身を包み、神棚の前に立ちました。奥では炭がおこされ、斧の形に加工された二つの鉄片が真っ赤になるほど焼かれています。二人に課せられたことは、手のひらの上に折皮(「へぎかわ」おにぎりなどをつつむ薄い木の皮)を置き、その上に焼けた鉄片をのせて、九メートル離れた神棚まで運ぶというものでした。

 誰もが固唾をのんで見守る緊張の一瞬。喜助の老母は、息子が失敗したらその場で切り殺そうと長刀(なぎなた)を用意しています。そして、二人は鉄火をとりました。喜助は鉄火を受け取ると、さすがに熱かったのが、すぐさま神棚に三間(5.4メートル)ほど駆け込み、そのまま神棚に鉄火を投げ入れました。すると真っ赤に焼けた鉄火は、そのまま神棚の棚板を焼きぬき、煙を上げて落下したということです。一方、角兵衛は、鉄火を受け取ると、たちまち手のひらが焼け焦げ、とてものこと走ることすらできず、その場で鉄火を投げ落としてしまいました。たまらず、その場から逃げようとする角兵衛を幕府の役人が取り押さえ、翌日、角兵衛は市中引き回しの上、磔となりました。鉄火裁判の恐ろしいところは、このように敗者はほとんど死刑にされてしまうことですが、この時代何かを提訴することは死をもってする覚悟が必要だったからでしょう。

 どうせ磔になるぐらいなら頑張って鉄火を運べばよかったのに、と思うのですが、実はこの裁判には裏があって、後に伝えられるところによれば、提案した側の角兵衛は「奸智ある者」で、あらかじめ熱してもそれほど熱くならない鉄片を用意していたのですが、裁判の直前に、公平を期すために、双方の持ってきた鉄火を入れ替えられた、というのです。このことは、おそらく事実であったでしょう。というのも、鉄火起請を提案するからには、角兵衛にそれなりの準備と自信があったと見るべきで、直前に交換されるとは思ってもみなかったのでしょう。

  裁判に勝った喜助には、東郷から褒美として砥石山という山林が与えられ、鉄火を取らなかったが最初に名乗り出た九郎左衛門にも三畝あまりの田地が与えられました。なお、喜助の子孫は、裁判の後400年の間、そして現在でも新暦にあたる裁判当日に神社で神事を行っており、地元には立派な顕彰碑まで建っています。鉄火裁判が、人々の心に決して忘れられないほどの衝撃を残したことがよくわかります。

 

 著者は最後に、世界の神判史を一瞥し、各国がいかにして神判を「卒業」していったかを語ります。ヨーロッパでは、神を試すことは罪にあたるとして早々と姿を消しました。法制のしっかりした中国では、古代の早い時期に「神判」を卒業しています。なぜ、日本では、突如として鎌倉時代に神判が復活し、近世初頭に姿を消したのでしょうか。著者は次のように説明しています。中世は、公、武、寺、など様々な権力構造が並列して存在した。それらの中から、より高次の秩序を模索していく段階で、神判は、反動的とも便宜的ともいえる役割を果たした。そして、日本の神判がヨーロッパのようにイデオロギーによってでなく、中国のように近代的な法制によってでなく、近世の出現とともに消滅していったのは、著者によれば、日本人の独特の現実主義であるというのです。

 実際には「衆議」の世から「専制」の世へと移っていく過渡期に、あるいは、口約束が重視された「音声主義」から、証文がもっとも強い証拠とされる「文書主義」へと移っていく時代に、「神判」は新しい社会構造に乗り切れなかった人間のとる様々な選択肢の一つとなりました。真実よりも、共同体の人間関係のバランスを尊ぶ精神、事実よりも、自身の不退転の覚悟を重しと見る精神、そうした心情から生まれたきわめて現実的な選択の一つであるというのです。結局、「神慮」などは方便にすぎず、共同体の維持修復に重きを置く日本人の頑強な心性が神判という形式を生み出したのかも知れません。

 また、著者は「あとがき」で、賭場をあらわす「鉄火場」という言葉は、鉄火起請に由来するのではないかと書いています。どちらも一瞬にすべてを懸ける一か八かの勝負であり、賭場の緊張した雰囲気は鉄火起請のそれとよく似ています。実は、この観点は、深遠なことがらを内包しており、それは(著者によれば)、裁判と賭博が兄弟ではないかと思われるからなので、というより、裁判と賭博という二つの要素を内包していたのが神判であったといえるのです。客観的な善悪を公明正大に明らかにしようとする方向性と、それとは反対に自然のままに偶然的な要素に身をゆだねて当事者に衡平に得失の機会を与えようとする方向性。一見、相容れない二つの方向性を、神慮の名の下に統合しようとする精神。それは、「公明正大」な裁判が必ずしも真実を告げるわけではないこと、またどんな裁判の結果も双方にしこりを残さざるを得ないこと、そのような「不合理」に対して人間社会を維持しようとする合理的な選択が神判だったというのです。

 

 さて、以下は勝手な付け足しです。湯起請や鉄火起請は公平さを装いながら、かなりの不正が可能であると思われます。ギブソン『奇跡と大魔法』に紹介されている秋山命澄『法術の正体』によれば、熱湯に手を入れるときに、手をあらかじめ冷やしておいたり、油や塩を塗っただけで熱は相当緩和されます。要は、いかに素早く、中の小石を拾うかで、これはほとんど練習量によるでしょう。また、熱さを強調するために湯を沸かしつつ行うのは、逆に不正をやりやすくするだけで、表面は沸騰しているように見えても、底の部分はぬるいので、内部をかき混ぜるように手を入れれば平均の温度はかなり下がってしまいます。しかも、拾うものが茶碗や小石のようなそれほど重くないものならば、熱せられてできる対流によって、必ず浮き上がってくるので、それを拾い上げるのはあまりに容易です。

 過酷と思われる鉄火起請も、実は、熱された鉄はきわめて熱いという恐怖感が被害を増幅させるので、赤熱した鉄に水をかけるとシュッとはじくように、熱い鉄は水分を反発するので、水分を含んだ手を直ちに火傷させることはないようです。修験道の行者が赤熱した鉄棒をしごいて人々を驚かすのも、勇気を持って素早く手を動かすことができればきわめて容易なパフォーマンスに過ぎないからでしょう。

(シャンソン「さくらんぼの季節」は、先日放映されたジブリの『紅の豚』でも使われていました)

 

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