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2010年5月31日 (月)

ロジャ・ダブ『香水の歴史』

 「ゲランで働いていたころ、私は1929年の名作『リュ(Liu)』の復刻を担当したことがある」と、ロジャ・ダブは書いています。「わずか300本の限定復刻版だった。運よくその1本を手に入れたご婦人(東欧系の方だった)は、ひとこと『リュ』とつぶやいて目を閉じた。聞けばその昔、もらったばかりの『リュ』を結婚初夜につけようとしたとき、ボトルは震える彼女の指から滑り落ち、貴重な香水はじゅうたんに吸い込まれてしまった。以来50年、復刻版の『リュ』をスプレーした途端に、すべての記憶がよみがえったという。あのときの部屋のインテリアも、あのときの気温も。香りが記憶の扉を開き、素敵な思い出が彼女を包んだのである。」

 「写真は冷たい二次元の紙で、時がたてば色褪せてゆく。しかし香りが呼び戻してくれる記憶は天然色で、いつまでも生き生きとよみがえる。わずか一滴で、香水は現実から離れ、めくるめく幻想の世界へ逃避させてくれる。」

 そして、彼はマルセル・プルーストを引用するのです。

 「長い時が流れ、人が死に事物が壊れ散り果てて何ひとつ残らなくなっても、味と香りだけは残る。それは何よりもはかないのに何よりも私たちの心に残り、何よりもつかみどころがないのに何よりも忘れがたく、けっして私たちを裏切らない。それは魂のように、すべてが朽ち果てた後も記憶に残り、私たちを待っている。味や香りのエッセンスのほんの小さな一滴からも、記憶の壮大な建造物が浮かび上がってくる」(『失われた時を求めて』)

 

 ロジャ・ダブの『香水の歴史』(新間美也監修・原書房、原題はEssence of Perfume)は、原料、抽出法、その歴史、伝説の名香、香水瓶の意匠まで、過不足なく、しかも非常に興味深く語られています。数多く載せられた写真も美しい。ロジャ・ダブはイギリス人で、幼い頃から香水の魅力にとりつかれ、21歳でパリ・シャンゼリゼのゲランのブティックを訪れたとき、ただちに、ここで働こうと決めたそうです。彼は、ゲラン社を質問攻めにして、業を煮やしたロベール・ゲランは、この若者を黙らせるより、その熱意を社内で役立てようと、彼を正式採用します。6年後、ロジャ・ダブは、ゲラン一族以外でははじめての特別権限を与えられ、香水製造のすべての過程に精通することになります。ゲランを去った後、世界中のブランドを渡り歩いて、ついに自らの香水を発表しますが、すべてを貫くのは香水への強い情熱です。何かひとつのことを、これだけ好きになり、打ち込んでいけるというのは、やはり特別な才能というほかはありません。

 香水の歴史について語る前に、その原料について紹介しましょう。動物性香料は、次の四つしかありません。どれも芳醇強烈で、かつて疫病で死臭がたちこめた時にその威力を発揮しました。香水のベースになる貴重な原料ですが、現在はその希少性や動物保護のため合成香料に代わられています。

 <アンバーグリス(竜涎香)> マッコウクジラの体内でできる結石。マッコウクジラが甲イカを飲み込むと、固く尖った嘴が気道や腸内を刺激します。すると蝋状の分泌物がそれを覆い、まるで貝が真珠を形成するように、結石を作り出します。結石がある程度の大きさになると、猫が毛玉を吐くようにマッコウクジラから排出されます。そして海面を浮遊する間、海水の塩分と日光にさらされて比類ない独特の香りを生じるのです。

 <カストリウム(海狸香)> カナダに生息するビーバーの肛門に近い香嚢から採取します。レザーとタールの香りで、その持続性に優れています。

 <シベット(霊猫香)> 麝香猫という名のエチオピアに生息するネコ科の小動物の体内にある分泌線から採取します。伝統的な手法は麝香猫を檻に入れ、檻を叩いたりして怒らせ、そのとき分泌されるワックスをスプーンで採りました。非常に重要な香料だが、糞の匂いが強いため扱いが難しく、それに成功すれば斬新な香りを作り出します。

 <ムスク(麝香)> 別格の香料。チベットやネパールに生息するジャコウジカの下腹部の香嚢から採取します。催淫作用のあるこの香料を合成しようと、一世紀にわたって化学者が研究してきましたが、1939年レオポルト・ルジチカが成功してノーベル賞を受賞しました。

 植物香料は多彩ですが、重要なものだけ挙げましょう。

 <ジャスミン> 欠かせない香料の一つ。インドールという成分が含まれ、これが力強い官能性を生み出します。とくに南仏グラース産のジャスミンは高い割合でインドールを含み、比較できないほどの官能的な刺激を有しています。1kgのジャスミン・アブソリュート(オイル)を得るために必要なジャスミンの花は500万個といわれ、今日この高価なグラース産ジャスミンを使用するのは、ジャン・パトゥ、シャネル、ゲランだけだといわれています。

 <ローズ> 古代エジプトで使われ、ホメロスにも登場するローズは、その落ち着いた清涼感が官能的質感を鎮めるために使用されます。アラビアの調香師たちによって精製術が究められ、現在はグラースでもっとも洗練されたオイルが作られます。バラの花は日が昇る前に摘み取らねばならず、ブルガリアには古くから「バラが最高に芳しいのはペチコートが朝露に濡れるとき」という格言があります。

 <ベルガモット> シトラス系の中ではもっとも性能がよく、citrus aurantium の果実から採取します。ほかのシトラス系と同じく、揮発しやすく長持ちしないので、トップノート(香水の最初の香り)の役割を果たします。レモンやグレープフルーツと違って、ベルガモットは厚みと新鮮な酸味があります。

 <ぺチパー> インディアングラスの細い根。女性用香水の4割に含まれる理由は、他の香りの持続性を高め、香水全体のバックボーン(背骨)の役割を果たすからです。香りはドライで、土臭く、スモーキーでもあります。

 <バニラ> 熱帯に生育するラン科の植物 vanilla planifolia の種子から採取します。緑色の莢から香りを採りだすまでに24ヶ月を要します。香りは力強く、温かみがあり、オリエンタル調の香水には絶対に欠かせません。バニラの香りは性的快楽を高める媚薬ともいえ、サフランと並んでもっとも高価なスパイスです。

 <サンダルウッド(白檀)> オリエンタルノートには欠かせません。最高品質の白檀はインドに生育する樹齢30年以上のもので、伐採は政府によって厳しく規制されています。この原料は、一瞬香っていたはずなのにいつのまにか消えている、というように嗅覚を「だます」ため非常に使用が難しいとされています。

 <オークモス> オークやトウヒの樹木、果樹に生える地衣類から採取します。フローラルな香りとは正反対の、土臭く湿った、レザーに似た香り。ゲランの名作「ミツコ」は、ベルガモットのトップから、ジャスミン、ローズへ移り、ベースにこのオークモスが使われています。

 以上の天然香料は、深みがあり複雑ですが、現在はきわめて高価となっています。近代的な香水ができるためには、合成香料の研究と普及が不可欠でした。合成香料は単純で深みに欠けるのですが、「粗野」な天然香料を洗練させ、そのよさをいっそう引き立たせる役割があります。代表的なのは、クマリン、バニリン、インドールなどですが、何よりもアルデヒドが重要です。

 

 さて、香水の原料となる香料は約3000種類にも及びます。調香師(「ネne」と呼ばれる)を志す人間は、まずそれらすべてを覚えねばなりません。一日10種類ずつ、ノートに克明に特徴を書いて(しばしば、子供時代の思い出の香りに連想づけます)、完璧に暗記していきます。この連想ノートを調香師は生涯にわたって書き続けることが必要です。香料の次には調合(ブレンド)を覚えねばなりません。基本的な香りの組み合わせの修業の後、いくつもの自分独自の香りのパレットを生み出していきます。そして、いよいよ香水を作り出すとき、彼らは何を目指すのでしょうか。えもいわれぬ芳しい香りでしょうか。朝の冷気のようなさわやかで凛とした香りでしょうか。官能を呼び覚ます甘い香りでしょうか。いや、そのような簡単な表現で言い表すことのできるのはせいぜい安物のオーデコロンです。真の調香師が目指すものは、言ってみれば、のけぞるような香り、期待を裏切り、まったくそれまでに嗅いだことのないような香りです。人々が良い香りと思うものは、限定された思い出の心地よさを連想させるに過ぎず、それゆえに平板で飽きられやすいのです。香水とは、調香師の独自のパレットから生まれ、それ自身で新しい世界と美を創り出すものです。しかし、現実には妥協を強いられ、万人向けのパレットから当たり障りのない「良質な」香りを作らざるをえないこともあるでしょう。現代では販売のプロによる宣伝によって、薬のような合成香料に満ちた香水が作られています。そのようなものは、記憶の意外な喚起や、繊細な人々の感性に働きかけてくることはほとんどないでしょう。しかし、どんな時代でも、本物を求める情熱は底流のように時代の傍らを流れ続けます。再び偉大な職人たちの時代が訪れるであろう、とロジャ・ダブは書いています。

 

 「名香」がそう呼ばれるのはなぜか、それを理解するには目を閉じて、これまで嗅いだことのない香りを想像してみるとよいでしょう。無から新しい何かを創造するとは困難なことこの上もありません。ここに、古典と呼ばれる香水の存在意義があり、またその偉大さもあるのです。一般に近代香水は、1882年のウビガンの「フジェール・ロワイヤル」と1889年のゲランの「ジッキー」からはじまるとされています。それまで、香水といえば、単純な花の香りをもとにして、樹脂、木材、それに動物の匂いを混ぜ合わせたものでした。ウビガンの調香師ポール・パルケは、新しく開発された溶剤抽出法により、有香分子クマリンをさまざまな香料と混ぜ合わせ、濃厚で安定した幻想的な香りを創り出しました。この処方は、それまで家内工業であった香水産業を数百万ドル規模の芸術にまで発展させる基をつくったのです。

 しかし、香水の世界を本当に変革したのは「ジッキー」です。フランス革命からちょうど100年後、パリ万国博を記念してエッフェル塔が建てられた年にこの香水は登場しました。まさに革命的な代物で、さわやかで甘いフローラルの香りしか知らなかった人々に衝撃をもたらしました。ベースになるシベットの量は半端でなく、上流社会の女性は誰一人として、あえてこれを身にまとおうとはしませんでした。向こう見ずな男性だけが危険を冒したのですが、女性たちが受け入れたのは何年も経ってからでした。トップノートはラベンダー、ベルガモット、ローズマリー、バジル、ローリエ、奇妙にもハートノートがほとんど欠落し、ベースノートはシベット、サンダルウッド、シナモン、それにバニラで、これにより初めて香水が、レモンやペチュニアの花束という具象から離れて、観念的でセクシーなものになったとロジャ・ダブは書いています。

 「ジッキー」は、また、初めて伝説に彩られた香水でもあります。1844年にパリ、オペラ座前のラ・ぺ通りに、ピエール・フランソワ・パスカル・ゲランが香水店を開きました。息子のエメ・ゲランは医学を学ぶためイギリスに渡りましたが、その地でジャクリーンという女性に出会い、結婚を申し込みます。ジャクリーンは受け入れたが、家族は許さず、エメは失意のうちにパリへ戻ってきました。彼は一途に恋人を思い、生涯独身を貫きましたが、55歳のときに「ジッキー」という斬新な香水を創り出しました。その名は、かつてエメがジャクリーンにつけたニックネームでした。なぜこの逸話に意味があるのでしょうか。もし彼が恋人と結婚して平穏に暮らしていたなら、これほどめざましい香りをつくり上げることは決してなかったでしょう。それは失われた幸福の思い出に捧げられているのです。ウビガンの「フジェール・ロワイヤル」はすでに廃番となりましたが、ゲランの「ジッキー」は120年の時を越えて今もなお売られ続けています。時代の変化に合わせ、より穏やかになりましたが、まだジッキーの新しいボトルを開けるたびに同じ興奮を味わう、とロジャ・ダブは書いています。「現在、ジッキーは変わったにもかかわらず、その香りは深い悲しみを帯び、さまざまな影響を受けて短命になりうる友情のはかなさを思い起こさせる」と。

 <1910年代> タイタニック号沈没、第一次世界大戦、ロシア革命の起こった1910年代は、また女性解放の時代でもありました。彼女たちは胸をしめつけるコルセットや、「女性らしさ」を強調するねばつく甘い香りを拒否しようとしていました。シャネルがトレードマークとなるシャツウエストのドレスをデザインした1917年に、天才フランソワ・コティが、シプレ調というコンポジションの基となった傑作ルシープルを発表します。ドライなモス(苔)、ウッド、ゴム樹脂、動物香料の確信的なブレンド、一般にこうした香料は男性用と見られていたのですが、コティはそれをオリス、クマリン、バニリンのほんのわずかの調合で包み、ソフトで奥深いものに仕上げました。ルシープルは今はもう生産されていませんが、その存在は、ゲランのミツコ、ディオールのオーソヴァージュ、グレのカボシャールなどの中に生きています。

 「ジッキー」を世に送ったエメ・ゲランの最大の功績は、甥であるジャック・ゲランの才能を見出し、名調香師に育てたことであると言われています。ジャック・ゲランは数々の名香を生み出し、「歴史上、最も偉大な調香師」であるとロジャ・ダブは書いています。ジャック・ゲランの最初の傑作が「ルールブルー L'heure Bleue」(1912)で、ゲラン家に伝わる逸話によれば、ジャックがある夕刻、セーヌ河畔を散歩していたとき、日は落ちたもののまだ闇が訪れていない絶妙な瞬間の美しさに感動し、この魅惑の静けさを香りに凝縮したいという思いにとらわれた、ということです。「私は何か強烈な感覚を覚えると、香水で表現するしかできなかった」とは彼の有名な言葉です。さわやかなトップノートがほとんどないので、現代の女性には理解しがたいだろうが、とロジャ・ダブは前置きして、次のように語っています。「ルールブルーは痛ましいほどの感動を呼び起こす。ベルベットに包まれたハーモニーで心を揺さぶり、魂を奪われるようだ。これほど人の心を強く動かすことのできた調香師はいなかったし、いまだに存在しない。第一次世界大戦前につくられた最後の偉大な香りであり、ベルエポックの柔らかい女性らしさを、官能的でふくよかな胸にも似たやさしいパウダリーな香調に封じ込めた」と。

 大戦が終わった1919年に、ジャック・ゲランはゲランの歴史を代表する香水を発表します。「ミツコ Mitsouko 」は、クロード・ファレルの小説の登場人物である日本人女性ミツコにインスパイアされた香水ですが、その精神は、心の奥に秘めた恋、深い官能と情熱にとらわれながら決して媚びることのない愛です。ジャックは、コティのシプレ調を完成にまで高め、これ以上ないシンプルで完璧にバランスの取れた香水を創り出しました。チャップリンやディアギレフに愛用されたこの香水は、1932年、女優のジーン・ハーロウと結婚したポール・バーンの悲劇を思い起こさせます。2人の結婚生活は2ヵ月後に終わりを迎えました。その夜、夫は裸になると全身にミツコをふりかけ、妻の香りに包まれたまま、浴槽でピストル自殺したのです。

 <1920年代> フィッツジェラルドが『グレートギャツビー』を書き、リンドバーグが大西洋横断をした1920年代は、アメリカで女性に参政権が与えられ、避妊の大切さを教えたメアリー・ストーブスの運動により女性に肉体からの開放がもたらされた時代でもありました。第一次大戦の惨禍の爪痕は、人々の心に深い悲哀を残し、1929年の株式市場の大暴落は、貧しい人々だけでなく、富裕な人々の生活も再生できないほどに変貌させました。この時代に数多くの忘れがたい香水の名作が生まれたのは、むなしさの中から生まれた若さと新しさへの憧れだったのでしょうか。

  ガブリエル・シャネルは、その生涯はどうあれ、強い気性と先見の明を持っていました。1921年に発表された香水「№5」は、そのシンプルな命名と形からして彼女のセンスの良さを示しています。それまでの香水の名前は感傷的すぎるし、ボトルはあまりに古くさく、あまりにベルエポックすぎると感じていたのです。ココ・シャネルは、ロシア宮廷最後の調香師エルネスト・ボーに依頼して、手に入る最高級の原料で香水製作を依頼しました。この香水についての伝説は、半ば秘密の裡にあります。一説では、短気なシャネルはわずかの製作期間しかくれなかったので、ボーは10種類の試作品のひとつに大量のアルデヒドを入れました。シャネルはそれ以外の中から選ぶだろうと思ったのですが、彼女が選んだのは五番目のまさにその瓶でした。グラース産の高価なローズ・ド・メ(五月のバラ)やジャスミンが、大量のアルデヒドによって拡散し、にわか雪の合間に輝く太陽のごとく、フラワーノートをすっかり変容させたのです。トップノートはアルデヒドとベルガモットがはじけるように輝き、ジャスミン、ローズ、スズラン、気品あるイランイランが華を添え、バイオレットが顔を出します。これが、ぺチパー、シダーウッド、サンダルウッドに支えられ、シベット、ムスク、バニラ、アンバーグリスの官能的ベースに乗っています。これぞまさにシャネルが求めていたものでした。「女性は女性ならではの香りを漂わせなくてはなりません。バラの香りではなく」と、シャネルは言っています。

 シャネルに対抗意識を持っていたジャンヌ・ランバンは、「5番」にインスパイアされながら、どんなに費用がかかってもいいから、さらに高品質のものをつくるよう調香師アンドレ・フレイスに依頼しました。1927年に出た「アルページュ Arpege 」は、より純化されたアルデヒドによって、熱いアイロンの底面のようにメタリックで、夜空の黒いベールにまたたく星のように成分を輝かせます。

 「世界屈指の香水」アルページュはただの香水ではありません。ジャンヌ・ランバンが溺愛する娘マリー・ブランシュの誕生日に贈るため特別に作らせたものでした。伝説の黒いボトルには、ジャンヌ・ランバンが幼い娘を抱き寄せる金の図柄が描かれていて、それがそのままブランドのシンボルになっています。ジャンヌ・ランバンが最初に手がけたのはシャネルと同じ帽子作りでした。こつこつ働いて貯めた資金(なかには1枚のルイ金貨もあった)を元手に自分の店を持ったのは1885年でした。やがて服もデザインし始め、いつしかパリでも指折りの洗練されたクチュリエとなりました。ジャンヌは15世紀の画家フラ・アンジェリコの絵に見られる青を愛し、その色をたくさんの作品に用いました。ジャンヌ・ランバンが死んだとき、娘のマリー・ブランシュは母の棺にかがみこみ、遺体の手にあのルイ金貨を握らせてあげたということです。

 350年前、ムガル帝国最後の皇帝ジャハーンは、ムタージ・マハルと出会い、すっかり心を奪われました。伝説によると、皇帝はあまりに激しく恋したために熱病に浮かされたようになったということです。結婚が決まると、彼女のために特別な庭園を作るよう命令を出しました。庭園ができると、皇帝は「シャリマー」と名づけました。サンスクリット語で愛の殿堂という意味です。庭園シャリマーは、二人だけの愛の世界であり、しばしばここに来ては、星空の下で愛を確かめ合いました。しかし、マハルは男子を出産すると世を去ってしまいます。ひどく落ち込んだジャハーンはインド中からすぐれた彫刻家や職工を呼び寄せ、13年の年月をかけて妻の霊廟を建てさせました。この驚異の建造物タージマハルについて、詩人タゴールは「それは時間という頬の上に留まる一粒の涙のごとくたたずむ」と書いています。

 20世紀初頭のヨーロッパで、鮮やかなシルク、ターバン、真珠や宝石を身にまとった王子がどんなにエキゾティックに映ったか、また若き日のジャック・ゲランが、王子の熱い愛情のほとばしりを伝える恋物語にどんなに心を奪われたか想像に難くありません。ジャックはあまりに魅了されたため、いまだかつてない情熱的な、官能をかきたてる香水をつくり上げました。その香水の名は「シャリマー Shalimar」です。調合の30%をベルガモットがしめ、ベースノートには4種のアニマリックノートが使われています。別の調香師なら失敗するであろう大胆な配合をジャック・ゲランは天才の一振りでみごとに完成させました。ロジャ・ダブがこう書いています。「ルールブルーで黄昏の香りを表現しえた男ジャック・ゲランは、シャリマーで女性すべてに敬意を表す香水をつくり出すことに成功した。心を奪われた男の女性へのオマージュである。きっと、これをまとう女性に出会えば男はふと立ち止まって声をかけずにはいられないはずだ」。

 

 本書は、さらに30年代、40年代、そして21世紀へと香水の歴史が描かれるのですが、私自身は30年代以降はほとんど興味がありませんし、もはや馴染みのない名前ばかりが並んでいます。このブログを書くために、家にあった妻のささやかな香水コレクションを覗いて見ました。エルメスの Eau d'Orange Verte を嗅ぐと、それは花屋で一面の花に囲まれた瞬間に立ち上る香りではなく、土の中からかよわげに伸びる一輪の小さな花、明るい土手に咲く花ではなく、小学校の校舎の裏に咲く小さな白い花を思い起こさせました。

 ロジャ・ダブはこう書いています。「においの分子は忍び足で脳に伝わり、各人の記憶や思い出と結びつく。そうして再び同じ香りを嗅いだとき、甘い記憶や苦い思い出をよみがえらせる。よい思い出と結びついた香りはかけがえのない喜びとなり、個性の一部ともなる。もしもその人にとって好ましい香りをすべて集めてひとつの香水に閉じこめたなら、それは個性の象徴だけでなく、その人を最も幸せにする香水となるだろう」

 「残念ながら、現在、市場に出回っている香水の多くは万人向けが多く、複雑で洗練された香りの鍵のほんの一部しか使っていない。私たちの鼻腔の鍵穴の多くは閉ざされたままである。しかし、今も過去につくられたすばらしい香水が残っている、、、」

Jicky

ジッキー(1889) ボトルには薬の瓶が使われていました。

Shalimarposter

シャリマー(1925)のポスター。

Photo

 

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2010年5月15日 (土)

ピアーズ・ビゾニー『ATOM 原子の正体に迫った伝説の科学者たち』(3)

 ポール・ディラック(1902-1984)ほど不幸な少年時代を送った物理学者もまれなのではないでしょうか。彼の父、チャールズ・ディラックは専制的な父親で、ブリストルの中学校でフランス語を教えていましたが、友人はほとんどおらず、学校よりも大きな社会には興味もありませんでした。夕方、仕事から帰ると、玄関の鍵を閉め、外の世界を遮断しました。家族全員は、父の専制支配のもとに生きることを余儀なくされていました。たとえば夕飯の席では全員がフランス語しか話してはいけないことになっていました。ポールは懸命に努力して食堂のテーブルにつくことを許されましたが、母と兄と妹はキッチンで食事しなければなりませんでした。ポールが病的なほど内気で、まったく口がきけないほど無口に育ったのも無理はありません。兄のレジナルドは24歳で自殺しますが、ポールはケンブリッジに逃げ込み、そこで理論物理学に慰めを見出しました。彼は新しい量子理論の抽象的な数学にすっかり夢中になりましたが、外の人間社会の恐ろしさからは巧みに距離を置いていました。

 理論物理学者は、アイデアを話し合い、持論を展開し、反対意見をやりこめたいというタイプの人間が多かったのですが、ポールは人を寄せ付けず、ほとんど一人で閉じこもって研究していました。生涯にわたって書き上げた250あまりの論文のうち、共著となっているものはほんのわずかです。人と話をすることはもとより、そういう場面に出くわすことも恐れていました。人間関係をどのように築いていったらよいかわからなかったのです。話さねばならないときは、熟考して、言葉をよく選び、簡略にしかも正確に答えるのみでした。ある学生が、彼の講義中に、よく理解できなかったところを質問すると、ディラックは前と同じことを正確にゆっくり繰り返したということです。彼の講義をもとにした書物『量子力学』は、その完璧さのゆえに現在も名著として読まれ続けています。ドストエフスキーの『罪と罰』についての彼の評は次のようなものです。「これは良い本だが、著者はある章で過ちを犯している。同じ日に太陽が二度昇っていたのだ」。

 信じられないことですが、ディラックは、大学生活がやっと一年過ぎた頃にすでに量子力学の最先端の研究を始めています。その頃、30ページほどの論文をハイゼンベルクに送ったところ、彼から賛嘆の返事が送られてきました。ハイゼンベルクからその論文を見せられたマックス・ボルンは「ディラックという名は聞いたことがなかった。しかし、この著者はまだ若いようだが、すべてが完璧で賞賛すべきものだ」と言っています。ディラックは、1925年から1928年の間に、つまり23歳から26歳までに理論物理学史に特筆される研究を次々と発表していきました。シュレーディンガーとハイゼンベルクが、電子の「同じ」行動について説明していると看破したのは、ディラックのすばらしいひらめきでした。ただ一方は抽象的な代数系に頼り、一方はある種の波をイメージしているだけなのです。彼はそれらを数学でつなぎ、用語を簡略化し、かつての古典力学のテクニックを復活させました。そこにはアインシュタインの相対論も組み入れられ、むろんハイゼンベルクの行列も、シュレーディンガーの微分方程式も含まれています。

 ディラック方程式には二つの解があり、一つは電子の動きを説明し、もう一つは逆の電荷を持つ反電子、陽電子を生み出すことを説明しています。奇妙なのは、この反物質として知られる粒子は、マイナスのエネルギーとマイナスの質量を持っていることでした。1932年、アメリカの物理学者カール・アンダーソンが、宇宙線の中からその陽電子を見つけ出しました(今では、この反電子は先端医療にも使われています)。ディラックは、物質の構成要素には必ず反世界の対照的な物質が存在することを示したのですが、もしかしたら、ビッグ・バンの際に、物質と同じ量の反物質ができたのかも知れません。反物質が一億個でき、物質が一億一個できたとしたら、その一個から宇宙が生成したかも知れないのです。

 

 理論物理学に対してのポール・ディラックの態度はほとんど宗教といってもよいものでした。食べ物や娯楽には興味がなく、アルコールも煙草もいっさい手を出しませんでした。1933年にシュレーディンガーと連名でノーベル物理学賞を受賞したとき、有名になるのが怖くて受賞を辞退しようとしたら、ラザフォードに、辞退などしたらしたらよけい有名になるよ、と諭されたということです。彼はストックホルムへは母親だけを連れていき、絶縁状態だった父親へは招待状さえ出しませんでした。1936年に父親が死んだとき、「より自由になったように感じる」と告白しています。ディラックの唯一の趣味が散歩と登山(むろん一人で)というのも納得できるでしょう。コペンハーゲンでともに研究したニールス・ボーアは、ディラックについて、「あらゆる物理学者の中でもっとも純粋な心を持った人間」と評しています。

 ディラックは、1937年に、思いがけず、同僚の物理学者ウィグナーの妹マージットと結婚しました。彼女は前の結婚で子供が二人いました。ポールは彼女に、自分の惨めな子供時代のことを、そしてマージットは彼に、以前の不幸な結婚生活のことを語りました。二人の間に子供が二人生まれて、ディラックはある程度の幸せを得たように思われましたが、悲惨な過去から逃れられたわけではなく、実の子供に対しても心から打ち解けた態度をとることはできませんでした。ディラックは、1984年に82歳で死にましたが、死の一年前、アメリカの物理学者が、フロリダ大学に来て何か話をしてくれるよう彼に頼みました。ディラックは、首を振って、「いや、何も話すことはない、私の人生は失敗だった」と答えました。

 

 ジェームズ・チャドウィック(1891-1974)は貧しい家庭に育ち、1908年にマンチェスター大学に入学を許可されましたが、毎日家から6.4キロの道を歩いて大学に通っていたので、大学の仲間同士の集まりや、課外活動に参加することは不可能になりました。おまけに、彼はあまりに内気すぎたので、大学の事務手続きの間違いで、彼が申し込んだ数学ではなく、物理学のコースに入れられても指摘することができませんでした。しかし、物理学は彼と相性がよかったらしく、彼はハンス・ガイガーと研究するためベルリンに旅立ちました。しかし、そこで第一次大戦が勃発し、チャドウィックは敵性外国人として捕虜収容所に入れられました。収容所での生活はかなり厳しく、馬小屋同然の部屋で、食料もほとんどなく、冬の寒さで死にかけたこともありました。それでも手に入れられるだけの本と道具をかき集めて簡単な実験を行っていました。戦争が終わると、ラザフォードは彼にマンチェスター大学の職を与え、ラザフォードがケンブリッジのキャベンディッシュ研究所の所長になるとき、チャドウィックを副所長として迎えました。

 この頃、チャドウィックとラザフォードは、陽子と同じほどの質量を持つ何かが原子核の中にあることに気づいていました。チャドウィックの実験では、放射線が標的にぶつかったとき、アルファ線ともベータ線とも違う得体の知れぬ放射線が出てくるのです。「その放射線が陽子と同じくらいの質量をもつ粒子でできているとしたら、衝突に関わる難問はすべて消えてしまう」と、彼は書いています。チャドウィックは、この問題を解決するため、必死にもがき苦しみました。「口にできない馬鹿な実験をいくつもやった」と彼は書いています。1932年3月、彼はベリリウムの標的にアルファ粒子をぶつけて出る放射線を調べることができました。その放射線は電荷を持たず、質量は陽子と同じほどで、信じられないことに、鉛まで貫通するほどの透過力を持っているのです。彼はついに中性子を発見したのです。

 同じ頃、キャベンディッシュで研究員だった、C.P.スノーは、「彼は三週間ほど昼夜を問わず研究していた」と書いています。チャドウィックは、同僚たちに発見の報告をすると、「すまないがクロロフォルムをかがせて二週間ほど眠らせてくれ」と頼んだということです。

 

 チャドウィックは、中性子の発見により、1935年度のノーベル物理学賞を授与されました。原子にまつわる次のドラマの主役は中性子となったのです。悲劇ともいえる男女の物語はもう幕を開けていました。それは、1938年、核分裂の発見と分析という偉業を成し遂げた二人の男女の親密さと裏切りの物語です。

 リーゼ・マイトナー(1878-1968)はユダヤ教徒であった両親の元にオーストリアで生を受けました。ウィーン大学で物理と数学で学位をとったリーゼは、マックス・プランクのいるベルリン大学でさらに原子物理学を研究する決意を固めました。保守的なプロイセンでは女子の大学入学を認めていませんでしたが、プランクは彼女の熱意と性格の良さに魅了されて、彼女を仲間の一人に加えました。その頃、ベルリン大学にオットー・ハーンという化学者がいて、すぐれた実験技術を持ちながら理論的奥行きと分析力が不足していたために、まだ世間を驚かす成果を出せずにいました。ハーンにとって理論物理の才能にあふれたリーゼは願ってもないパートナーに思えました。彼女も、この同年でハンサムで愛想のよい化学者に好感以上のものを抱いたようです。こうして、科学史上もっとも理想的なカップルは生まれました。ハーンが鉱物から純粋な放射性元素を取り出すために必要な化学的分離を行い、マイトナーがそれを分析するのです。二人の研究成果が次々に発表されると、マイトナーの名は物理学者の世界で徐々に高まっていきました。当時、パリのジュリオ・キュリー、ケンブリッジのジェームズ・チャドウィック、ローマのエンリコ・フェルミ、、それに同じドイツのライバルチームたちとしのぎを削る争いが行われていました。中性子の発見の一番手はチャドウィックに譲ったものの、マイトナーは中性子の持つ本当の力を探っていました。

 しかし、ここにヒトラーが台頭し、二人の運命は大きく変わります。ユダヤ人科学者を排斥する運動はベルリン大学にも広まり、マイトナーにも非難の手が伸びようとしていました。「ユダヤ人が研究所を危険にさらしている」という話が伝えられ、ライバルたちはマイトナーに露骨に嫌がらせをするようになります。恐怖を感じたマイトナーはハーンに助けを求めます。ハーンは彼女を守ることを約束してくれますが、研究所の上層部を集めた会合でマイトナー追放に賛成してしまうのです。ハーンは考えられうる最悪のところでマイトナーを裏切ったのです。ハーンの性格について、ディビッド・ボタニスはつぎのように書いています。「ハーンはたしかに魅力的な人物だったが、魅力的というのは、反射的に周囲の人々を安心させるような振る舞いをできるということにすぎない。深い道徳的基準を持っているというわけではない」。

 マイトナーは驚き、恐れて、ストックホルムへ脱出します。期限切れのパスポートを使って、幸運なことにドイツ国境をすり抜けました。だが、不思議なことに、その後もハーンに対するマイトナーの態度は寛大でした。あの状況では仕方がなかった、と自分に言い聞かせていたのかも知れません。ストックホルムから、マイトナーは詳しいアイデアをハーンに送り、ハーンが実験に成功すると、マイトナーがそれを分析していきました。

 ハーンは、ベルリンでストラスマンを助手として、ウランに中性子をゆっくりぶつける実験をしていました。中性子は電荷を持っていないので、陽電荷を持つ原子核に容易に入り込むことができるのです。彼らの予想では、ウラン原子に余分な中性子を入れると、もっと重い同位体に変わるはずでした。しかし、結果は半分ほどの重さのバリウムができたのです! 1938年のクリスマスの数日前に、ハーンは戸惑いと興奮の入り混じった気持ちでマイトナーに手紙を書き、これはどういうことなのかを尋ねました。「もし発表すべきことがあれば、それは私たち三人の業績だ。これを解決する術を見つけてくれれば、君は私たちに対して大きな功徳を施すことになるだろう」と。

 マイトナーはその手紙を読んで、何かとてつもなく恐ろしいことが起きているのを感じました。スピードの遅い中性子は、じわじわとウランの原子核の中に入り込み破壊したのです。しかし、中性子を加えたことで、なぜそれほど激しい分裂が起きるのか、そのとてつもないエネルギーはどこからくるのでしょうか。

 マイトナーの甥のオットー・フリッシュもすぐれた物理学者で、コペンハーゲンのボーア研究所にいたのですが、休暇の時には、ストックホルムに叔母を訪ねてくるようになっていました。ストックホルムの雪原を、フリッシュはスキーで、マイトナーはその後ろから歩いて散歩していました。二人は海岸近くの美しい自然に囲まれたコテージで、原子を分裂させる意味について話し合いました。「ウランの原子核は不安定な水滴に似ていて、わずかな刺激(たとえば一個の中性子がぶつかった衝撃)で分裂する」とフリッシュは書いています。ウラン原子は分裂して、大きさのほぼ等しい二つの原子核に分かれますが、そのとき、2,3の中性子が残り、ゆっくりと動いて近くのウラン原子の中に入りこみ、その内部のバランスを崩す、というより連鎖反応を起こします。フリッシュは、それを、細胞分裂をするバクテリアに例えました。

 しかし、その分析には何かが欠けていました。フリッシュは後に語っています。「叔母は分裂によって生じた二個の原子核が、陽子の質量の五分の一くらい、もとの原子核より軽いことをつきとめた」。陽子の質量の五分の一とは、非常に小さい数字に思えます。しかし、リーゼ・マイトナーは、そのとき、1907年のアインシュタインの驚くべき予言を思い出していたのです。その予言とは、物質は基本的に極度に圧縮されたエネルギーで、そのエネルギーは、もとの物質の量から考えると驚愕するほど大きいように思える、というのでした。E=mc2という公式を思い出してみましょう。物質は凝縮された形のエネルギーであり、圧縮因子は光速(c)の二乗です。質量(m)がほんの少しはがれ落ちただけで、莫大な量のエネルギーを放出します。マイトナーは持っていたメモ帳に急いで計算していきました。とてつもない発見です。核分裂という言葉が人類の歴史ではじめて使われた瞬間でした。

 マイトナーはハーンに返事をし、ハーンは急いで結果を発表しましたが、そこにはマイトナーの名はありませんでした。当時の世相を考えると、彼女がこの研究に関わっていることが発表されると、ハーンの身の安全は保証されない心配がありました。しかし、1944年に、「重い原子核の分裂の発見」で、ハーン一人がノーベル賞を受けた時にもマイトナーには一言も言及されず、、またその後何年もの間、その功績がまったく自分ひとりのものであると主張したのは信じ難いことです。30年に及ぶ二人の共同関係を完全に無視し、マイトナーの名を科学史から葬り去ろうとしたのは人間として卑劣としか言いようがありません。『人物で語る物理入門(下)』(岩波新書)で著者の米沢富美子は、大略次のようなことを言っています。ハーンは内心びくびくしていたので、マイトナーが自分の権利を主張すればあっさり認めていたかもしれない、マリー・キュリーのような強い女性ならそうしたろうが、マイトナーが強く抗議をしなかったのは、おそらくその強い自尊心・美意識(そして育ちのよさも)にあったのだろう、彼女は自伝も書かず、存命中は伝記の執筆の許可も与えなかったのだから。

 マイトナーは、女性差別、人種差別、政治、時代などの不運から、当然受けるに値するノーベル賞に恵まれませんでした。(値すると思われながら受賞できなかった例は、人数制限から、ファインマン、シュウィンガー、朝永という大物三人にはじき飛ばされた1965年のフリーマン・ダイソンを思い出します)。しかし、彼女は、それ以外の多くの栄誉に飾られて90歳の長寿を全うしました。リーゼ・マイトナーとオットー・ハーンの物語が、当時もそして現在もそれほど重要に思われなかったのは、彼らの発見し成し遂げたものが、ある意味で人類にとって「負」の偉業であったからです。発表当時は、その恐ろしい意味についてはっきりと理解できる人間はまれでした。しかし、イタリアからアメリカに亡命してきたエンリコ・フェルミが、その卓抜な仕事(彼こそ核分裂のすべての過程におけるエキスパートです)により、一気に現実の恐怖を実感することになったのです。核分裂が一都市を破壊するほどの爆裂を引き起こす可能性がわかったとき、マイトナーは耳を傾けてくれる人にこう語りました、「私は爆弾製造には決して関わりません」と。実際、連合国側の著名な物理学者で原爆製造に関わらなかった人物は彼女一人だけでした。

 原子のおぼろげな構造が何とかわかり始めてから未だ半世紀も経たないうちに、人類は物質を安定して閉じ込めていたパンドラの箱を開けてしまったのです。この後、「完璧な物理学者」エンリコ・フェルミ、ウクライナの天才ジョージ・ガモフ、優れた才能と立派な人格が融合した朝永振一郎などなど、書きたいことはあるものの、それではいつ終わるかもわかりません。最後に、冒頭に引用したファインマンについて書いて締めくくりましょう。

 

 リチャード・ファインマン(1918-1988)は、ニューヨークの本当のはずれにあるファー・ロッカウェイという海に近い町で生まれましたが、彼は生涯、その下町の労働者風な話し方を変えることはありませんでした。父のメルヴィルは進取の精神を持つ販売員で、息子にこの世界の生き生きとした知識を与えてくれました。リチャードは、学校では、ものごとの仕組みや、何が正しくて間違いなのか、ある問題がなぜ重要なのかについて、人から教わりたがりませんでした。自分の力で解いたとき、初めてその問題が理解できるからです。M.I.Tに進んでからも、その勉強のやり方は変わらず、最新の理論や論文をまともに読まず、最初から最後まで読んだのはポール・ディラックの有名な論文だけだった、ということです。M.I.Tを終えた後、プリンストンに進もうとしましたが、ユダヤ人であることが障害となりました。しかし、M..I.Tの物理学部長ジョン・スレーターの強い推薦で彼は1939年にプリンストン大学院への進学を許されました。最初にしなければならなかったのは、大学院の院長の妻が主催する退屈なティー・パーティーへの出席でした。ファインマンが部屋に入るとすぐ、彼女が尋ねました。「紅茶にはミルクとレモンのどちらを入れましょうか、ファインマンさん?」 そんなおかしな質問をされたのは初めてで(彼はコーヒー党だった)、ぼんやりしたまま彼は答えました、「両方いただきます」。「まあ、ご冗談でしょう、ファインマンさん」

 『ご冗談でしょう、ファインマンさん』(大貫晶子訳・岩波書店)以下のエッセイは、上品でマナーの行き届いたプリンストン大学の学生たちと対比されるような破天荒で好奇心旺盛なファインマンの言動が描かれていて興味がつきません。権威や虚飾や偽善や差別や偏見への侮蔑はもちろんですが、それが思わず微笑んでしまうユーモアに包まれています。彼にまつわる逸話は数え切れぬほどあるのですが、私のいちばん好きなものを紹介しましょう。ファインマンがプリンストンで著名な物理学者ジョン・ウィーラーの助手をしていたときのことです。ウィーラーは学生と議論をするとき、いつも懐中時計を取り出して机の上に置くのですが、それは、教授は限られた時間しか割けないという暗黙のメッセージであったのです。ウィーラーとの最初の会合でその仕草を知ったファインマンは(彼はもったいぶった態度が嫌いだったので)、次の話し合いのときに、自分も安物の時計を取り出してわざとウィーラーの時計の隣に置きました。沈黙の後で、二人は大笑いし、ただちに物理の難解な議論に入りました。

 ファインマンは、ウィーラーのもとで、古典的な物理学の概念、「最小作用の法則」を復活させました。ボールが建物の最上階にあるとき、ボールの位置エネルギーは最大で運動エネルギーはゼロです。ボールが落ちていくにしたがって運動エネルギーは増加し、位置エネルギーは低下します。彼には、ボールが落ちながら常にもっとも効率的なエネルギーのバランスを探しているように思えました。また、ボールが空の上で美しい放物線を描くとき、ボールはその微小時間ごとに、次に何をすべきか決断しているのではないかとも考えました。これを電子の動きにあてはめてみると、電子はその移動の始点と終点しか私たちに痕跡として残さないのですが、その間を電子が通る確率は、電子が通った可能性のある無数の経路について、それぞれの経路で作用が極小になるように電子が動いた「作用位相」を足し上げたものになるのではないか。その論文を読んだウィーラーは、「量子理論のすべてを、こんな簡単な方法で説明できると誰が考えただろうか」と絶賛しました。

 ファインマンは独創的な物理学者として頭角を現し始めましたが、彼の私生活は苦悩に満ちたものでした。高校時代からの彼の恋人であるアーリーン・グリーンバウムが肺結核の診断を受けていたのです。今では抗生物質で治癒可能ですが、1940年代に結核にかかるということは事実上の死の宣告でした。さらに、当時の結核には現在のHIV以上の偏見がつきまとっていました。1942年6月、リチャードとアーリーンは周囲の反対を押し切って結婚しました。母のルシール・ファインマンは息子に手紙を書きました。「あなたの今回の結婚は独善的で、喜ぶ人は一人しかいないと思えます。このような結婚が違法でないことが私には驚きです。違法であるべきです」。この手紙を受け取ったファインマンが、母を許すまでには長い時間がかかりました。

 早くからファインマンをロス・アラモスの原爆計画に引き入れたかったロバート・オッペンハイマーは、ロス・アラモスの近くにアーリーンが快適に過ごせるサナトリウムがあると言って彼を説得しました。軍事関係の仕事を嫌っていたファインマンですが、やむなくその説得に応じ、最年少(25歳)の班長に指名されました。アーリーンは1945年6月に亡くなりましたが、ファインマンは彼女の死を看取るとすぐに徹夜で車を転がし、研究所に着くと、「妻は死んだ。例のプログラムはどうなった?」と同僚に言ったそうです。

(本書と記事内で言及した本のほかに、パイス他『反物質はいかに発見されたか』(藤井昭彦訳・丸善)、ファインマン『困ります、ファインマンさん』(大貫晶子訳・岩波書店)、そしてクロッパーの『物理学天才列伝』下も再び参照しました)

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2010年5月 8日 (土)

ピアーズ・ビゾニー『ATOM 原子の正体に迫った伝説の科学者たち』(2)

 原子がいかに小さいかを説明することは難しいかもしれません。こう考えてみましょう。コップ一杯の海水をすくうと、その中の原子の数は、世界中の海水をすくうために必要なコップの数と同じくらいです。 それでも、やはりそれは想像に絶します。しかし、小さいというのは、とらえどころのない原子の性質のほんの一部にすぎません。

 マンチェスターで、ラザフォードとマーズデンが原子核を発見したのと同じ年(1911)に、26歳のデンマーク人が、ケンブリッジのJ.J.トムソンの研究室にやって来ました。彼、ニールス・ボーアは、尊敬するトムソンの目にとまるよう必死に努力していましたが、トムソンは彼に話しかけるどころか、彼の論文も読んでくれていないようです。もともとコミュニケーション能力に不足しているボーアは、ケンブリッジで実り少ない一年を過ごした後、父の友人の紹介で知り合ったラザフォードのいるマンチェスターに移ることにしました。彼は、もっと自分の話を聞いてくれる人たちと、もっと雰囲気のよい職場を求めていたのです。そして、ここマンチェスターで、ボーアの才能が全開することになるのです。

 ラザフォードは、自身の研究に余念がない中でも、若い研究者の話を忍耐強く聞き、心を常に開き、見込みのあるアイデアを実現するよう助言しました。ケンブリッジ流の権威やもったいぶった態度は彼にはまったく無縁のことでした。大声で怒鳴ることも多かったが、同時に繊細な神経を持ち、私的なことに関しては決して口を挟むことはありませんでした。彼は、「人の名前を傷つけることのできる人物は、たった一人、つまり本人しかいないよ」とよく言っていた、とボーアはその回想の中で書いています。

 ラザフォードは、たちどころに、この青年の天才を見抜きました。「私が出会った中でもっとも秀でた知性を持つ若者」とボーアを評し、彼を励まして、懸案だったその論文を完成するよう促しました。これは、ボーアにとっては願ってもないことで、というのも、彼は人と話しながらでないと考えをまとめることができないからです。ボーアは、話を要約したり、文章を整えたりすることが絶望的に不得手で、ただ、相手に向かって自分の考えをまくしたてながら、問い質されると、すぐに自分の考えを検証して、いわばスイッチバックを繰り返しながら結論に近づいていくのでした。ですから、ラザフォードほどの寛い心と深い学識がなければ、複雑でややこしい彼の話についていくことはできなかったでしょう。あの無口で内気なポール・ディラックでさえ、ボーアに向かってこう言いました。「話を始めるまえに、それをどうやってしめくくるか、何らかの計画を考えておかなければいけないと、学校で習わなかったのですか?」 コペンハーゲンでボーアの話し相手を務めたベルギーの物理学者ローレンフェストは、英語、フランス語、ドイツ語、オランダ語、デンマーク語のほかに「ボーア語」も話せたといわれています。

 さて、ラザフォードは、彼のシンプルな実験結果から、原子は中央に極小の原子核があり、その周りを電子が回転運動していると考えました。なぜ、ただちに電子はエネルギーを失って核の中に落ちて行かないのか。ボーアは、古典的な力学理論には囚われず、電子のふるまいのあるルールを考えてみました。電子は、ある軌道上にある間はエネルギーを失わず永久に回転する、しかし、外からエネルギーを受け取ると、別のより高い軌道に飛び乗り、そして、下に落ちながらそのエネルギーを光として吐き出す、すべては原子と外部の世界との間のやりとりに過ぎません。炉の中で熱せられ、赤く光る鉄の棒を想像してみましょう。鉄原子の電子は、何段階か上の軌道へ飛ばされ、それがもう一度、落ちてくるとき低エネルギーの赤い光を出します。棒をさらに激しく熱すると、青白く光りはじめますが、それは電子がさらに高い軌道へ上がって、前よりも長い距離を落ちていくときに高エネルギーの光子を流出するからです。ボーアによれば、この「ステップ」は不連続にしかもある量のかたまりとして起こり中間状態というものはありません。彼はさらに深遠で重要なことも言っており、電子が別の軌道に飛び移るタイミングは前もって決まっておらず、それは確率的な偶然に過ぎないということです。

 以上はボーアの考えた原子のルールに過ぎず、原子の仕組みを説明したり、その実体を解明するものではありません。ボーアは、自分のルールが抽象的なものであり、科学者でさえ直感的に理解することは難しいだろうと思っていました。「原子を、もはや、古典的な概念で説明することはできない。私たちはそのような言語を持っていない」とボーアは語っています。これは人類の歴史における重要な瞬間で、それまで科学者は人間にとって意味ある言語で自然を説明できると思ってきたのです。

 ニールス・ボーア(1885-1962)は、理想的ともいえる家庭に育ちました。父親は強力な人脈を持つ生理学者でありコペンハーゲン大学の学長、母親は裕福なユダヤ人銀行家の娘でした。とくに弟のハラルとボーアは仲がよく、いつも一緒で、ともにデンマーク代表のサッカー選手としてオリンピックに出場しました(ハラルは正選手でボーアは控え)。ハラルは後に著名な数学者となりました。

 マンチェスターで大活躍したボーアは期待の星としてデンマークに戻りました。そこで、彼は公的機関や民間有志の援助でコペンハーゲンに理論物理学研究所を設立し、家族とともにそこに起居し、世界中から優秀な研究者を集めました。世に言う「コペンハーゲン学派」の成立です。

 「人類と原子の関係において、非の打ちどころのない純粋で喜びに満ちた時期があったとすれば、それは間違いなく1920年代のコペンハーゲンだろう」とビゾニーは書いています。これはひとえにボーアの性格によっています。ボーアのような立場なら、横柄になってもおかしくはなかったのですが、彼は原子物理学初期の王国の独裁者にはならず、個人的欲求もつつましいものでした。ドイツ流の権威を嫌い、研究者たちと分け隔てなく話し合い、希望と熱意に満ちた科学者たちには誰にも門戸を開きました。おそらくボーアの頭のうちには、ラザフォードが作り出していたマンチェスターの研究所の雰囲気が刷り込まれていたのでしょう。毎日激しい議論が交わされましたが、それが個人的な悪意におとしめられることが決してなかったのも、ボーアの性格のゆえだったのでしょう。生き生きとした会話、温かい家庭的雰囲気につつまれたこの「偉大なデンマーク人の城」に集まった研究者たちは、昼は研究をし、夜はどんちゃん騒ぎに明け暮れながら、科学の未来を大きく変えようとしていたのです。

 そのコペンハーゲンの研究所を訪れた中で、折紙つきの天才が三人いました。1900年生まれのヴォルフガング・パウリ、1901年生まれのヴェルナー・ハイゼンベルグ、そして1902年生まれのポール・ディラックです。

 パウリの父親はウイーン大学の生化学の教授でユダヤ人でした。パウリが27歳のとき、この父親は浮気して、そのために母親が自殺します。しかも父はすぐ再婚し、継母とそりが合わなかったパウリはスイスに出奔し、そこでケーテ・デプナーという踊り子と結婚しますが、彼女はある化学者と駆け落ちしてしまいました。その頃からパウリは、著名な精神分析医のC.G.ユングのもとに通うようになり、以後親密な交際を結ぶことになります。ユングは、パウリの論争好きは自己憎悪の反映であると指摘しました。彼の女性との関係は、自ら引き受けた母の悲しみ、そして父の恋人への怒りに影響を受けているというのです。パウリの生い立ちを見れば、誰にでも指摘できそうなことですが、パウリにとっては、ユングの言葉は天啓でした。晩年、パウリは、実在とは精神的でも物質的でもなく、どちらでもあるし、どちらでもないということになるであろう、と原子物理学に身をささげた人間らしい告白をしています。

 ボーアは、電子が原子核の周りを回る際に、ある軌道(準位)をとり、その軌道上では電子の数は決まっていると考えました。しかし、彼は、炭素の6個の電子が、窒素の7個の電子が、酸素の8個の電子が、自分の考えたモデル上でどのように並んでいるかわかりませんでした。パウリは、その有名な「排他原理」の中で、同じ軌道には条件の同じ電子は1個しか入らないことを示しました。2個入るとしたら、その電子はお互いに逆方向のスピンを持っていなければなりません。3個は不可能です。よって、電子を2個持つ安定したヘリウム原子が、もうひとつ電子が増えると、活発なリチウム原子になるのは、その三つ目の電子がもっとも外の軌道に不安定のまま取り残されるからです。よって、原子同士の結びつきはその最外殻の電子によって決まるのですが、化学がこれほどわかりやすい原理によって説明されるとは誰が考えたでしょうか。また、それは、原子が、つまり私たちの世界が、なにゆえに安定しているかという理由になるのです。

  さて、パウリといえば、寸鉄人を刺す批評で有名です。見所のない論文を持ってきた同僚に対して、一言「これは間違ってさえいない」とコメントしました。批評はしばしば悪態に近く、その欠点を徹底して突いてくるのです。ハイゼンベルグが自信のある研究について、うっかり、「あとは技術的な詳細だけだ」ともらしてしまったとき、すかさずパウリは紙に下手くそな四角を描いて、「これで私がティツィアーノと同じように絵が描けることがわかるだろう。あとは技術的な詳細だけだ」と返したということです。

 このような辛辣なパウリが、にもかかわらず忌避されるどころか歓迎されたのは、当時の濃密な議論の雰囲気を理解しなければなりません。きわめて高いレベルで競い合う研究者たちにとって、パウリの鋭い指摘は必要不可欠でした。どんな論文もパウリに見せなければ完成しない、とさえ言われたほどです。対話しながら結論に向かうボーアのような人間がパウリを有難がったのも当然で、彼はパウリが研究所に滞在していないときは必ず手紙で意見を聞いています。パウリの水も漏らさぬ完璧主義は自分自身にも向けられ、それが、アインシュタインに匹敵する天才といわれながら、それに相応しい成果を残せなかった理由ともいわれています。彼は、思い切ったアイデアを試し、間違える勇気をもつという理論物理学者に必要な才能に欠けていたのです。

 パウリの排他原理は理論的原則としてはうまくいっているように見えましたが、なぜそうなっているかを考えると、深いパラドックスに陥るように見えました。1923年に、フランスの貴族であるルイ・ド・ブロイは、光が粒子と波の性質を両方持つならば、電子も粒子であると同時に波でもあると考えられると言いました。これは重要なアイデアで、ボーアの原子モデルをよく説明するように思えましたが、それでも問題の核心には届きませんでした。そもそも、誰が原子を実在するものとして見ることができたでしょうか。あるいは物理的な実在物として目に見える形で表現できたでしょうか。そこに、目に見えるものなぞないと主張する男が出てきました。それがハイゼンベルクです。

 ヴェルナー・ハイゼンベルク(1901-1976)はヴュルツブルグに生まれ、ほどなく一家はミュンヘンに引っ越しました。父親は厳格な学校長で、一家の雰囲気は非常に権威主義的だったと思われます。ヴェルナーは父に愛されんがために双子の兄エルヴィンと椅子を投げあうほどの激しい兄弟げんかを起こしました。ニールス・ボーアの温かな家庭と比べると雲泥の差ですが、このような抑圧的な家庭に育ってよく不良少年にならなかったものです。

 彼は、まずミュンヘン大学のゾンマーフェルトの下で学びましたが、一年上に生涯の親友でありライヴァルとなったパウリも在学していました。それから、ゲッティンゲンで行われたボーアの講演会を聴いて、コペンハーゲンにボーアを訪ねます。ハイゼンベルクの最初の仕事は、ゲッティンゲンのマックス・ボルンの助手として始まりました。ボルンの助手の前任はパウリで、ボルンは皮肉屋のパウリと比べて、性格の良い、ピアノの上手な、この「短い金髪、澄んだ目、チャーミングな表情」をした若者の魅力にすっかり捉えられましたが、自分の下で学位をとらせようとしていたゾンマーフェルトから反発の手紙がボルンの下に届けられました。ボルンはすぐに、「あなたには、まだ、パウリがいるではありませんか!」という返事を送ったということです。パウリは、才能こそハイゼンベルクにひけをとりませんでしたが、背が低く小太りで不器用な青年(運転免許の試験に100回目にやっと合格した)でした。

 当時、原子の振る舞いについて、それを古典力学の定式のようにひとつの理論体系で表せないだろうかと、天才たちが競って考えていました。ハイゼンベルクが彼の理論体系の偉大な思考の着想を得るまでに数年かかりましたが、1925年についにその時がきました。彼は花粉症を発症し、ボルンから二週間の休暇をもらって、空気がきれいでさわやかな風の吹く北海の小さな島、ヘルゴランド島で過ごしていました。海を見て元気を回復したころ、突然、波と粒子を調和させようとしても無駄であることに気づいたのです。われわれが、波と思って見れば波のように見えるし、粒子と思って見れば粒子のように見える。だいたい、原子や電子を見た人間なぞ誰もいないではないか。トムソンは電子がなめらかに動くのを見たわけではない。ラザフォードもアルファ線が一つの場所から別の場所へと飛ぶところを見てはいない。スクリーンにぶつかった跡を調べるしかなかったのだ。ここで、いかにもドイツ人らしく、彼は厳格な実証主義に従います。意味があるのは、確実に証明できる事実とデータだけだ。真実とは実験室で観測し、計測できるものだけだ。原子が本当はどういうものなのかを想像したって意味はない。電子の軌道についても、それが観測できない以上、それは実在ではない。その説明すべてが、いいかげんな話であり、紙に書いた丸にすぎない。彼は、ここで、電子の軌道を視覚化しようとしたボーアから離れます。ハイゼンベルクは、原子の描像など考えずに、全く数学的に、原子の振る舞いの条件をデータとして、その諸要素を計算の中に組み入れていきました。かれは、この要素を掛け合わせたとき、2×33×2が違う結果をもたらすことに気がつきました。ボルンが彼に、それが「行列」の計算と酷似していることを教えました。こうして、ハイゼンベルクの行列力学が生まれたのですが、各要素の組み合わせは、それが特定の順番の時にしかうまくいかないというのは、古典力学の決定論(繰り返し、やり直し、結果の予想が可能)からの決別だったのです。

 ハイゼンベルクは、1927年のソルベイ会議で、さらに驚くべきことを言っています。粒子の位置を正確に知ろうとすれば、その運動量についての正確さも低下する。また運動量を計測しようとすれば、位置の正確さが損なわれる。ということは、われわれは粒子を決して正確に観測することはできないことになる。「私は粒子の古典経路を以下のように説明できると信じる」とハイゼンベルクは書いています。「その経路は、われわれが測定したときにのみ、存在することになるのだ」と。これは、ショッキングな主張で、それまでは物事は人間の行動とは関係なく起こっていると考えられてきました。ある出来事は、人間がそれに気づくこともあれば、それに気づかないこともあるのですが、どちらにしてもそれが起こっていることに変わりはありません。ハイゼンベルクは、原子内部の世界は、そのような仕組みで動いていないと主張したのです。人間が意識的に粒子を観測することで、そこで何が起こっているかが決まるのです。これは物理学の歴史の中で、もっとも奇妙な考えでしょう。

  ここで、オーストリアの理論物理学者エルヴィン・シュレーディンガー(1887-1961)について書いておきましょう。彼は、ウィーンの裕福な工場主の家に生まれ、幼い頃から数カ国の言語と、美術や植物などについての深い教養を身につけていました。ウィーン大学に入ってからは微分方程式を多用する解析力学に熟練したようです。これが彼の将来の理論的方法を決定したといえるでしょう。

 しかし、シュレーディンガーの本当の興味は美しい女性、それもきわめて若い女性にありました。「私は科学より美を優先します」と彼はマックス・ボルンにあてて書いています。「私たちは、いつも、隣人の妻や、決して手に入れられない完璧さを求めています」。彼を研究員として招聘したオックスフォード大学も、妻と妊娠している愛人を一緒に連れて赴任するという彼の条件には最初難色を示しました。妻のアンヌマリーは、そんな夫を愛し、「競走馬と暮らすことは、かごの中のカナリアと暮らすよりはるかに大変でしょう。しかし、私は競走馬と暮らしたいのです」と書いています。

 シュレーディンガーの有名な波動方程式の発見を促したのは、このような複雑な性生活でした。1925年のクリスマス休暇に、スイス・アルプスのリゾートホテルで若い女性と過ごしていた彼は、創造力が漲るのを感じ、ハイゼンベルクが粒子の振る舞いを計算したとは反対に、すべてを波と考えたらうまくいくのではないかと気づきました。ほとんどの偉大な物理学者が20代で大発見をしているのに、彼が38歳という遅い年齢に創造力の頂点に達したのは、情熱的な恋におちた時に発散される不思議な力によるとしか考えられません。

 シュレーディンガーの方程式は、物理学者の常用の微分方程式を使って書かれていたため、ハイゼンベルクの無機的な式よりもなじみやすく、また美しく感じられました。しかし、それにしても、全く正反対のアプローチによって「正しく」説明される原子とはどのようなものでしょう。次に、イギリス、ブリストル生まれの本当に偉大な物理学者ポール・ディラックがあらわれて、ハイゼンベルクとシュレーディンガーの方程式が結局は同じものであることを証明し、かつ「反物質」なるものの存在を私たちに示したのです。

 (本書のほかに、西尾成子『現代物理学の父ニールス・ボーア』(中公新書)、山本義隆編『ニールス・ボーア論文集2』(岩波文庫)、村上陽一郎『ハイゼンベルク』(講談社学術文庫)を参照しました)

 

 

 

 

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