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2010年5月15日 (土)

ピアーズ・ビゾニー『ATOM 原子の正体に迫った伝説の科学者たち』(3)

 ポール・ディラック(1902-1984)ほど不幸な少年時代を送った物理学者もまれなのではないでしょうか。彼の父、チャールズ・ディラックは専制的な父親で、ブリストルの中学校でフランス語を教えていましたが、友人はほとんどおらず、学校よりも大きな社会には興味もありませんでした。夕方、仕事から帰ると、玄関の鍵を閉め、外の世界を遮断しました。家族全員は、父の専制支配のもとに生きることを余儀なくされていました。たとえば夕飯の席では全員がフランス語しか話してはいけないことになっていました。ポールは懸命に努力して食堂のテーブルにつくことを許されましたが、母と兄と妹はキッチンで食事しなければなりませんでした。ポールが病的なほど内気で、まったく口がきけないほど無口に育ったのも無理はありません。兄のレジナルドは24歳で自殺しますが、ポールはケンブリッジに逃げ込み、そこで理論物理学に慰めを見出しました。彼は新しい量子理論の抽象的な数学にすっかり夢中になりましたが、外の人間社会の恐ろしさからは巧みに距離を置いていました。

 理論物理学者は、アイデアを話し合い、持論を展開し、反対意見をやりこめたいというタイプの人間が多かったのですが、ポールは人を寄せ付けず、ほとんど一人で閉じこもって研究していました。生涯にわたって書き上げた250あまりの論文のうち、共著となっているものはほんのわずかです。人と話をすることはもとより、そういう場面に出くわすことも恐れていました。人間関係をどのように築いていったらよいかわからなかったのです。話さねばならないときは、熟考して、言葉をよく選び、簡略にしかも正確に答えるのみでした。ある学生が、彼の講義中に、よく理解できなかったところを質問すると、ディラックは前と同じことを正確にゆっくり繰り返したということです。彼の講義をもとにした書物『量子力学』は、その完璧さのゆえに現在も名著として読まれ続けています。ドストエフスキーの『罪と罰』についての彼の評は次のようなものです。「これは良い本だが、著者はある章で過ちを犯している。同じ日に太陽が二度昇っていたのだ」。

 信じられないことですが、ディラックは、大学生活がやっと一年過ぎた頃にすでに量子力学の最先端の研究を始めています。その頃、30ページほどの論文をハイゼンベルクに送ったところ、彼から賛嘆の返事が送られてきました。ハイゼンベルクからその論文を見せられたマックス・ボルンは「ディラックという名は聞いたことがなかった。しかし、この著者はまだ若いようだが、すべてが完璧で賞賛すべきものだ」と言っています。ディラックは、1925年から1928年の間に、つまり23歳から26歳までに理論物理学史に特筆される研究を次々と発表していきました。シュレーディンガーとハイゼンベルクが、電子の「同じ」行動について説明していると看破したのは、ディラックのすばらしいひらめきでした。ただ一方は抽象的な代数系に頼り、一方はある種の波をイメージしているだけなのです。彼はそれらを数学でつなぎ、用語を簡略化し、かつての古典力学のテクニックを復活させました。そこにはアインシュタインの相対論も組み入れられ、むろんハイゼンベルクの行列も、シュレーディンガーの微分方程式も含まれています。

 ディラック方程式には二つの解があり、一つは電子の動きを説明し、もう一つは逆の電荷を持つ反電子、陽電子を生み出すことを説明しています。奇妙なのは、この反物質として知られる粒子は、マイナスのエネルギーとマイナスの質量を持っていることでした。1932年、アメリカの物理学者カール・アンダーソンが、宇宙線の中からその陽電子を見つけ出しました(今では、この反電子は先端医療にも使われています)。ディラックは、物質の構成要素には必ず反世界の対照的な物質が存在することを示したのですが、もしかしたら、ビッグ・バンの際に、物質と同じ量の反物質ができたのかも知れません。反物質が一億個でき、物質が一億一個できたとしたら、その一個から宇宙が生成したかも知れないのです。

 

 理論物理学に対してのポール・ディラックの態度はほとんど宗教といってもよいものでした。食べ物や娯楽には興味がなく、アルコールも煙草もいっさい手を出しませんでした。1933年にシュレーディンガーと連名でノーベル物理学賞を受賞したとき、有名になるのが怖くて受賞を辞退しようとしたら、ラザフォードに、辞退などしたらしたらよけい有名になるよ、と諭されたということです。彼はストックホルムへは母親だけを連れていき、絶縁状態だった父親へは招待状さえ出しませんでした。1936年に父親が死んだとき、「より自由になったように感じる」と告白しています。ディラックの唯一の趣味が散歩と登山(むろん一人で)というのも納得できるでしょう。コペンハーゲンでともに研究したニールス・ボーアは、ディラックについて、「あらゆる物理学者の中でもっとも純粋な心を持った人間」と評しています。

 ディラックは、1937年に、思いがけず、同僚の物理学者ウィグナーの妹マージットと結婚しました。彼女は前の結婚で子供が二人いました。ポールは彼女に、自分の惨めな子供時代のことを、そしてマージットは彼に、以前の不幸な結婚生活のことを語りました。二人の間に子供が二人生まれて、ディラックはある程度の幸せを得たように思われましたが、悲惨な過去から逃れられたわけではなく、実の子供に対しても心から打ち解けた態度をとることはできませんでした。ディラックは、1984年に82歳で死にましたが、死の一年前、アメリカの物理学者が、フロリダ大学に来て何か話をしてくれるよう彼に頼みました。ディラックは、首を振って、「いや、何も話すことはない、私の人生は失敗だった」と答えました。

 

 ジェームズ・チャドウィック(1891-1974)は貧しい家庭に育ち、1908年にマンチェスター大学に入学を許可されましたが、毎日家から6.4キロの道を歩いて大学に通っていたので、大学の仲間同士の集まりや、課外活動に参加することは不可能になりました。おまけに、彼はあまりに内気すぎたので、大学の事務手続きの間違いで、彼が申し込んだ数学ではなく、物理学のコースに入れられても指摘することができませんでした。しかし、物理学は彼と相性がよかったらしく、彼はハンス・ガイガーと研究するためベルリンに旅立ちました。しかし、そこで第一次大戦が勃発し、チャドウィックは敵性外国人として捕虜収容所に入れられました。収容所での生活はかなり厳しく、馬小屋同然の部屋で、食料もほとんどなく、冬の寒さで死にかけたこともありました。それでも手に入れられるだけの本と道具をかき集めて簡単な実験を行っていました。戦争が終わると、ラザフォードは彼にマンチェスター大学の職を与え、ラザフォードがケンブリッジのキャベンディッシュ研究所の所長になるとき、チャドウィックを副所長として迎えました。

 この頃、チャドウィックとラザフォードは、陽子と同じほどの質量を持つ何かが原子核の中にあることに気づいていました。チャドウィックの実験では、放射線が標的にぶつかったとき、アルファ線ともベータ線とも違う得体の知れぬ放射線が出てくるのです。「その放射線が陽子と同じくらいの質量をもつ粒子でできているとしたら、衝突に関わる難問はすべて消えてしまう」と、彼は書いています。チャドウィックは、この問題を解決するため、必死にもがき苦しみました。「口にできない馬鹿な実験をいくつもやった」と彼は書いています。1932年3月、彼はベリリウムの標的にアルファ粒子をぶつけて出る放射線を調べることができました。その放射線は電荷を持たず、質量は陽子と同じほどで、信じられないことに、鉛まで貫通するほどの透過力を持っているのです。彼はついに中性子を発見したのです。

 同じ頃、キャベンディッシュで研究員だった、C.P.スノーは、「彼は三週間ほど昼夜を問わず研究していた」と書いています。チャドウィックは、同僚たちに発見の報告をすると、「すまないがクロロフォルムをかがせて二週間ほど眠らせてくれ」と頼んだということです。

 

 チャドウィックは、中性子の発見により、1935年度のノーベル物理学賞を授与されました。原子にまつわる次のドラマの主役は中性子となったのです。悲劇ともいえる男女の物語はもう幕を開けていました。それは、1938年、核分裂の発見と分析という偉業を成し遂げた二人の男女の親密さと裏切りの物語です。

 リーゼ・マイトナー(1878-1968)はユダヤ教徒であった両親の元にオーストリアで生を受けました。ウィーン大学で物理と数学で学位をとったリーゼは、マックス・プランクのいるベルリン大学でさらに原子物理学を研究する決意を固めました。保守的なプロイセンでは女子の大学入学を認めていませんでしたが、プランクは彼女の熱意と性格の良さに魅了されて、彼女を仲間の一人に加えました。その頃、ベルリン大学にオットー・ハーンという化学者がいて、すぐれた実験技術を持ちながら理論的奥行きと分析力が不足していたために、まだ世間を驚かす成果を出せずにいました。ハーンにとって理論物理の才能にあふれたリーゼは願ってもないパートナーに思えました。彼女も、この同年でハンサムで愛想のよい化学者に好感以上のものを抱いたようです。こうして、科学史上もっとも理想的なカップルは生まれました。ハーンが鉱物から純粋な放射性元素を取り出すために必要な化学的分離を行い、マイトナーがそれを分析するのです。二人の研究成果が次々に発表されると、マイトナーの名は物理学者の世界で徐々に高まっていきました。当時、パリのジュリオ・キュリー、ケンブリッジのジェームズ・チャドウィック、ローマのエンリコ・フェルミ、、それに同じドイツのライバルチームたちとしのぎを削る争いが行われていました。中性子の発見の一番手はチャドウィックに譲ったものの、マイトナーは中性子の持つ本当の力を探っていました。

 しかし、ここにヒトラーが台頭し、二人の運命は大きく変わります。ユダヤ人科学者を排斥する運動はベルリン大学にも広まり、マイトナーにも非難の手が伸びようとしていました。「ユダヤ人が研究所を危険にさらしている」という話が伝えられ、ライバルたちはマイトナーに露骨に嫌がらせをするようになります。恐怖を感じたマイトナーはハーンに助けを求めます。ハーンは彼女を守ることを約束してくれますが、研究所の上層部を集めた会合でマイトナー追放に賛成してしまうのです。ハーンは考えられうる最悪のところでマイトナーを裏切ったのです。ハーンの性格について、ディビッド・ボタニスはつぎのように書いています。「ハーンはたしかに魅力的な人物だったが、魅力的というのは、反射的に周囲の人々を安心させるような振る舞いをできるということにすぎない。深い道徳的基準を持っているというわけではない」。

 マイトナーは驚き、恐れて、ストックホルムへ脱出します。期限切れのパスポートを使って、幸運なことにドイツ国境をすり抜けました。だが、不思議なことに、その後もハーンに対するマイトナーの態度は寛大でした。あの状況では仕方がなかった、と自分に言い聞かせていたのかも知れません。ストックホルムから、マイトナーは詳しいアイデアをハーンに送り、ハーンが実験に成功すると、マイトナーがそれを分析していきました。

 ハーンは、ベルリンでストラスマンを助手として、ウランに中性子をゆっくりぶつける実験をしていました。中性子は電荷を持っていないので、陽電荷を持つ原子核に容易に入り込むことができるのです。彼らの予想では、ウラン原子に余分な中性子を入れると、もっと重い同位体に変わるはずでした。しかし、結果は半分ほどの重さのバリウムができたのです! 1938年のクリスマスの数日前に、ハーンは戸惑いと興奮の入り混じった気持ちでマイトナーに手紙を書き、これはどういうことなのかを尋ねました。「もし発表すべきことがあれば、それは私たち三人の業績だ。これを解決する術を見つけてくれれば、君は私たちに対して大きな功徳を施すことになるだろう」と。

 マイトナーはその手紙を読んで、何かとてつもなく恐ろしいことが起きているのを感じました。スピードの遅い中性子は、じわじわとウランの原子核の中に入り込み破壊したのです。しかし、中性子を加えたことで、なぜそれほど激しい分裂が起きるのか、そのとてつもないエネルギーはどこからくるのでしょうか。

 マイトナーの甥のオットー・フリッシュもすぐれた物理学者で、コペンハーゲンのボーア研究所にいたのですが、休暇の時には、ストックホルムに叔母を訪ねてくるようになっていました。ストックホルムの雪原を、フリッシュはスキーで、マイトナーはその後ろから歩いて散歩していました。二人は海岸近くの美しい自然に囲まれたコテージで、原子を分裂させる意味について話し合いました。「ウランの原子核は不安定な水滴に似ていて、わずかな刺激(たとえば一個の中性子がぶつかった衝撃)で分裂する」とフリッシュは書いています。ウラン原子は分裂して、大きさのほぼ等しい二つの原子核に分かれますが、そのとき、2,3の中性子が残り、ゆっくりと動いて近くのウラン原子の中に入りこみ、その内部のバランスを崩す、というより連鎖反応を起こします。フリッシュは、それを、細胞分裂をするバクテリアに例えました。

 しかし、その分析には何かが欠けていました。フリッシュは後に語っています。「叔母は分裂によって生じた二個の原子核が、陽子の質量の五分の一くらい、もとの原子核より軽いことをつきとめた」。陽子の質量の五分の一とは、非常に小さい数字に思えます。しかし、リーゼ・マイトナーは、そのとき、1907年のアインシュタインの驚くべき予言を思い出していたのです。その予言とは、物質は基本的に極度に圧縮されたエネルギーで、そのエネルギーは、もとの物質の量から考えると驚愕するほど大きいように思える、というのでした。E=mc2という公式を思い出してみましょう。物質は凝縮された形のエネルギーであり、圧縮因子は光速(c)の二乗です。質量(m)がほんの少しはがれ落ちただけで、莫大な量のエネルギーを放出します。マイトナーは持っていたメモ帳に急いで計算していきました。とてつもない発見です。核分裂という言葉が人類の歴史ではじめて使われた瞬間でした。

 マイトナーはハーンに返事をし、ハーンは急いで結果を発表しましたが、そこにはマイトナーの名はありませんでした。当時の世相を考えると、彼女がこの研究に関わっていることが発表されると、ハーンの身の安全は保証されない心配がありました。しかし、1944年に、「重い原子核の分裂の発見」で、ハーン一人がノーベル賞を受けた時にもマイトナーには一言も言及されず、、またその後何年もの間、その功績がまったく自分ひとりのものであると主張したのは信じ難いことです。30年に及ぶ二人の共同関係を完全に無視し、マイトナーの名を科学史から葬り去ろうとしたのは人間として卑劣としか言いようがありません。『人物で語る物理入門(下)』(岩波新書)で著者の米沢富美子は、大略次のようなことを言っています。ハーンは内心びくびくしていたので、マイトナーが自分の権利を主張すればあっさり認めていたかもしれない、マリー・キュリーのような強い女性ならそうしたろうが、マイトナーが強く抗議をしなかったのは、おそらくその強い自尊心・美意識(そして育ちのよさも)にあったのだろう、彼女は自伝も書かず、存命中は伝記の執筆の許可も与えなかったのだから。

 マイトナーは、女性差別、人種差別、政治、時代などの不運から、当然受けるに値するノーベル賞に恵まれませんでした。(値すると思われながら受賞できなかった例は、人数制限から、ファインマン、シュウィンガー、朝永という大物三人にはじき飛ばされた1965年のフリーマン・ダイソンを思い出します)。しかし、彼女は、それ以外の多くの栄誉に飾られて90歳の長寿を全うしました。リーゼ・マイトナーとオットー・ハーンの物語が、当時もそして現在もそれほど重要に思われなかったのは、彼らの発見し成し遂げたものが、ある意味で人類にとって「負」の偉業であったからです。発表当時は、その恐ろしい意味についてはっきりと理解できる人間はまれでした。しかし、イタリアからアメリカに亡命してきたエンリコ・フェルミが、その卓抜な仕事(彼こそ核分裂のすべての過程におけるエキスパートです)により、一気に現実の恐怖を実感することになったのです。核分裂が一都市を破壊するほどの爆裂を引き起こす可能性がわかったとき、マイトナーは耳を傾けてくれる人にこう語りました、「私は爆弾製造には決して関わりません」と。実際、連合国側の著名な物理学者で原爆製造に関わらなかった人物は彼女一人だけでした。

 原子のおぼろげな構造が何とかわかり始めてから未だ半世紀も経たないうちに、人類は物質を安定して閉じ込めていたパンドラの箱を開けてしまったのです。この後、「完璧な物理学者」エンリコ・フェルミ、ウクライナの天才ジョージ・ガモフ、優れた才能と立派な人格が融合した朝永振一郎などなど、書きたいことはあるものの、それではいつ終わるかもわかりません。最後に、冒頭に引用したファインマンについて書いて締めくくりましょう。

 

 リチャード・ファインマン(1918-1988)は、ニューヨークの本当のはずれにあるファー・ロッカウェイという海に近い町で生まれましたが、彼は生涯、その下町の労働者風な話し方を変えることはありませんでした。父のメルヴィルは進取の精神を持つ販売員で、息子にこの世界の生き生きとした知識を与えてくれました。リチャードは、学校では、ものごとの仕組みや、何が正しくて間違いなのか、ある問題がなぜ重要なのかについて、人から教わりたがりませんでした。自分の力で解いたとき、初めてその問題が理解できるからです。M.I.Tに進んでからも、その勉強のやり方は変わらず、最新の理論や論文をまともに読まず、最初から最後まで読んだのはポール・ディラックの有名な論文だけだった、ということです。M.I.Tを終えた後、プリンストンに進もうとしましたが、ユダヤ人であることが障害となりました。しかし、M..I.Tの物理学部長ジョン・スレーターの強い推薦で彼は1939年にプリンストン大学院への進学を許されました。最初にしなければならなかったのは、大学院の院長の妻が主催する退屈なティー・パーティーへの出席でした。ファインマンが部屋に入るとすぐ、彼女が尋ねました。「紅茶にはミルクとレモンのどちらを入れましょうか、ファインマンさん?」 そんなおかしな質問をされたのは初めてで(彼はコーヒー党だった)、ぼんやりしたまま彼は答えました、「両方いただきます」。「まあ、ご冗談でしょう、ファインマンさん」

 『ご冗談でしょう、ファインマンさん』(大貫晶子訳・岩波書店)以下のエッセイは、上品でマナーの行き届いたプリンストン大学の学生たちと対比されるような破天荒で好奇心旺盛なファインマンの言動が描かれていて興味がつきません。権威や虚飾や偽善や差別や偏見への侮蔑はもちろんですが、それが思わず微笑んでしまうユーモアに包まれています。彼にまつわる逸話は数え切れぬほどあるのですが、私のいちばん好きなものを紹介しましょう。ファインマンがプリンストンで著名な物理学者ジョン・ウィーラーの助手をしていたときのことです。ウィーラーは学生と議論をするとき、いつも懐中時計を取り出して机の上に置くのですが、それは、教授は限られた時間しか割けないという暗黙のメッセージであったのです。ウィーラーとの最初の会合でその仕草を知ったファインマンは(彼はもったいぶった態度が嫌いだったので)、次の話し合いのときに、自分も安物の時計を取り出してわざとウィーラーの時計の隣に置きました。沈黙の後で、二人は大笑いし、ただちに物理の難解な議論に入りました。

 ファインマンは、ウィーラーのもとで、古典的な物理学の概念、「最小作用の法則」を復活させました。ボールが建物の最上階にあるとき、ボールの位置エネルギーは最大で運動エネルギーはゼロです。ボールが落ちていくにしたがって運動エネルギーは増加し、位置エネルギーは低下します。彼には、ボールが落ちながら常にもっとも効率的なエネルギーのバランスを探しているように思えました。また、ボールが空の上で美しい放物線を描くとき、ボールはその微小時間ごとに、次に何をすべきか決断しているのではないかとも考えました。これを電子の動きにあてはめてみると、電子はその移動の始点と終点しか私たちに痕跡として残さないのですが、その間を電子が通る確率は、電子が通った可能性のある無数の経路について、それぞれの経路で作用が極小になるように電子が動いた「作用位相」を足し上げたものになるのではないか。その論文を読んだウィーラーは、「量子理論のすべてを、こんな簡単な方法で説明できると誰が考えただろうか」と絶賛しました。

 ファインマンは独創的な物理学者として頭角を現し始めましたが、彼の私生活は苦悩に満ちたものでした。高校時代からの彼の恋人であるアーリーン・グリーンバウムが肺結核の診断を受けていたのです。今では抗生物質で治癒可能ですが、1940年代に結核にかかるということは事実上の死の宣告でした。さらに、当時の結核には現在のHIV以上の偏見がつきまとっていました。1942年6月、リチャードとアーリーンは周囲の反対を押し切って結婚しました。母のルシール・ファインマンは息子に手紙を書きました。「あなたの今回の結婚は独善的で、喜ぶ人は一人しかいないと思えます。このような結婚が違法でないことが私には驚きです。違法であるべきです」。この手紙を受け取ったファインマンが、母を許すまでには長い時間がかかりました。

 早くからファインマンをロス・アラモスの原爆計画に引き入れたかったロバート・オッペンハイマーは、ロス・アラモスの近くにアーリーンが快適に過ごせるサナトリウムがあると言って彼を説得しました。軍事関係の仕事を嫌っていたファインマンですが、やむなくその説得に応じ、最年少(25歳)の班長に指名されました。アーリーンは1945年6月に亡くなりましたが、ファインマンは彼女の死を看取るとすぐに徹夜で車を転がし、研究所に着くと、「妻は死んだ。例のプログラムはどうなった?」と同僚に言ったそうです。

(本書と記事内で言及した本のほかに、パイス他『反物質はいかに発見されたか』(藤井昭彦訳・丸善)、ファインマン『困ります、ファインマンさん』(大貫晶子訳・岩波書店)、そしてクロッパーの『物理学天才列伝』下も再び参照しました)

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