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2010年5月 8日 (土)

ピアーズ・ビゾニー『ATOM 原子の正体に迫った伝説の科学者たち』(2)

 原子がいかに小さいかを説明することは難しいかもしれません。こう考えてみましょう。コップ一杯の海水をすくうと、その中の原子の数は、世界中の海水をすくうために必要なコップの数と同じくらいです。 それでも、やはりそれは想像に絶します。しかし、小さいというのは、とらえどころのない原子の性質のほんの一部にすぎません。

 マンチェスターで、ラザフォードとマーズデンが原子核を発見したのと同じ年(1911)に、26歳のデンマーク人が、ケンブリッジのJ.J.トムソンの研究室にやって来ました。彼、ニールス・ボーアは、尊敬するトムソンの目にとまるよう必死に努力していましたが、トムソンは彼に話しかけるどころか、彼の論文も読んでくれていないようです。もともとコミュニケーション能力に不足しているボーアは、ケンブリッジで実り少ない一年を過ごした後、父の友人の紹介で知り合ったラザフォードのいるマンチェスターに移ることにしました。彼は、もっと自分の話を聞いてくれる人たちと、もっと雰囲気のよい職場を求めていたのです。そして、ここマンチェスターで、ボーアの才能が全開することになるのです。

 ラザフォードは、自身の研究に余念がない中でも、若い研究者の話を忍耐強く聞き、心を常に開き、見込みのあるアイデアを実現するよう助言しました。ケンブリッジ流の権威やもったいぶった態度は彼にはまったく無縁のことでした。大声で怒鳴ることも多かったが、同時に繊細な神経を持ち、私的なことに関しては決して口を挟むことはありませんでした。彼は、「人の名前を傷つけることのできる人物は、たった一人、つまり本人しかいないよ」とよく言っていた、とボーアはその回想の中で書いています。

 ラザフォードは、たちどころに、この青年の天才を見抜きました。「私が出会った中でもっとも秀でた知性を持つ若者」とボーアを評し、彼を励まして、懸案だったその論文を完成するよう促しました。これは、ボーアにとっては願ってもないことで、というのも、彼は人と話しながらでないと考えをまとめることができないからです。ボーアは、話を要約したり、文章を整えたりすることが絶望的に不得手で、ただ、相手に向かって自分の考えをまくしたてながら、問い質されると、すぐに自分の考えを検証して、いわばスイッチバックを繰り返しながら結論に近づいていくのでした。ですから、ラザフォードほどの寛い心と深い学識がなければ、複雑でややこしい彼の話についていくことはできなかったでしょう。あの無口で内気なポール・ディラックでさえ、ボーアに向かってこう言いました。「話を始めるまえに、それをどうやってしめくくるか、何らかの計画を考えておかなければいけないと、学校で習わなかったのですか?」 コペンハーゲンでボーアの話し相手を務めたベルギーの物理学者ローレンフェストは、英語、フランス語、ドイツ語、オランダ語、デンマーク語のほかに「ボーア語」も話せたといわれています。

 さて、ラザフォードは、彼のシンプルな実験結果から、原子は中央に極小の原子核があり、その周りを電子が回転運動していると考えました。なぜ、ただちに電子はエネルギーを失って核の中に落ちて行かないのか。ボーアは、古典的な力学理論には囚われず、電子のふるまいのあるルールを考えてみました。電子は、ある軌道上にある間はエネルギーを失わず永久に回転する、しかし、外からエネルギーを受け取ると、別のより高い軌道に飛び乗り、そして、下に落ちながらそのエネルギーを光として吐き出す、すべては原子と外部の世界との間のやりとりに過ぎません。炉の中で熱せられ、赤く光る鉄の棒を想像してみましょう。鉄原子の電子は、何段階か上の軌道へ飛ばされ、それがもう一度、落ちてくるとき低エネルギーの赤い光を出します。棒をさらに激しく熱すると、青白く光りはじめますが、それは電子がさらに高い軌道へ上がって、前よりも長い距離を落ちていくときに高エネルギーの光子を流出するからです。ボーアによれば、この「ステップ」は不連続にしかもある量のかたまりとして起こり中間状態というものはありません。彼はさらに深遠で重要なことも言っており、電子が別の軌道に飛び移るタイミングは前もって決まっておらず、それは確率的な偶然に過ぎないということです。

 以上はボーアの考えた原子のルールに過ぎず、原子の仕組みを説明したり、その実体を解明するものではありません。ボーアは、自分のルールが抽象的なものであり、科学者でさえ直感的に理解することは難しいだろうと思っていました。「原子を、もはや、古典的な概念で説明することはできない。私たちはそのような言語を持っていない」とボーアは語っています。これは人類の歴史における重要な瞬間で、それまで科学者は人間にとって意味ある言語で自然を説明できると思ってきたのです。

 ニールス・ボーア(1885-1962)は、理想的ともいえる家庭に育ちました。父親は強力な人脈を持つ生理学者でありコペンハーゲン大学の学長、母親は裕福なユダヤ人銀行家の娘でした。とくに弟のハラルとボーアは仲がよく、いつも一緒で、ともにデンマーク代表のサッカー選手としてオリンピックに出場しました(ハラルは正選手でボーアは控え)。ハラルは後に著名な数学者となりました。

 マンチェスターで大活躍したボーアは期待の星としてデンマークに戻りました。そこで、彼は公的機関や民間有志の援助でコペンハーゲンに理論物理学研究所を設立し、家族とともにそこに起居し、世界中から優秀な研究者を集めました。世に言う「コペンハーゲン学派」の成立です。

 「人類と原子の関係において、非の打ちどころのない純粋で喜びに満ちた時期があったとすれば、それは間違いなく1920年代のコペンハーゲンだろう」とビゾニーは書いています。これはひとえにボーアの性格によっています。ボーアのような立場なら、横柄になってもおかしくはなかったのですが、彼は原子物理学初期の王国の独裁者にはならず、個人的欲求もつつましいものでした。ドイツ流の権威を嫌い、研究者たちと分け隔てなく話し合い、希望と熱意に満ちた科学者たちには誰にも門戸を開きました。おそらくボーアの頭のうちには、ラザフォードが作り出していたマンチェスターの研究所の雰囲気が刷り込まれていたのでしょう。毎日激しい議論が交わされましたが、それが個人的な悪意におとしめられることが決してなかったのも、ボーアの性格のゆえだったのでしょう。生き生きとした会話、温かい家庭的雰囲気につつまれたこの「偉大なデンマーク人の城」に集まった研究者たちは、昼は研究をし、夜はどんちゃん騒ぎに明け暮れながら、科学の未来を大きく変えようとしていたのです。

 そのコペンハーゲンの研究所を訪れた中で、折紙つきの天才が三人いました。1900年生まれのヴォルフガング・パウリ、1901年生まれのヴェルナー・ハイゼンベルグ、そして1902年生まれのポール・ディラックです。

 パウリの父親はウイーン大学の生化学の教授でユダヤ人でした。パウリが27歳のとき、この父親は浮気して、そのために母親が自殺します。しかも父はすぐ再婚し、継母とそりが合わなかったパウリはスイスに出奔し、そこでケーテ・デプナーという踊り子と結婚しますが、彼女はある化学者と駆け落ちしてしまいました。その頃からパウリは、著名な精神分析医のC.G.ユングのもとに通うようになり、以後親密な交際を結ぶことになります。ユングは、パウリの論争好きは自己憎悪の反映であると指摘しました。彼の女性との関係は、自ら引き受けた母の悲しみ、そして父の恋人への怒りに影響を受けているというのです。パウリの生い立ちを見れば、誰にでも指摘できそうなことですが、パウリにとっては、ユングの言葉は天啓でした。晩年、パウリは、実在とは精神的でも物質的でもなく、どちらでもあるし、どちらでもないということになるであろう、と原子物理学に身をささげた人間らしい告白をしています。

 ボーアは、電子が原子核の周りを回る際に、ある軌道(準位)をとり、その軌道上では電子の数は決まっていると考えました。しかし、彼は、炭素の6個の電子が、窒素の7個の電子が、酸素の8個の電子が、自分の考えたモデル上でどのように並んでいるかわかりませんでした。パウリは、その有名な「排他原理」の中で、同じ軌道には条件の同じ電子は1個しか入らないことを示しました。2個入るとしたら、その電子はお互いに逆方向のスピンを持っていなければなりません。3個は不可能です。よって、電子を2個持つ安定したヘリウム原子が、もうひとつ電子が増えると、活発なリチウム原子になるのは、その三つ目の電子がもっとも外の軌道に不安定のまま取り残されるからです。よって、原子同士の結びつきはその最外殻の電子によって決まるのですが、化学がこれほどわかりやすい原理によって説明されるとは誰が考えたでしょうか。また、それは、原子が、つまり私たちの世界が、なにゆえに安定しているかという理由になるのです。

  さて、パウリといえば、寸鉄人を刺す批評で有名です。見所のない論文を持ってきた同僚に対して、一言「これは間違ってさえいない」とコメントしました。批評はしばしば悪態に近く、その欠点を徹底して突いてくるのです。ハイゼンベルグが自信のある研究について、うっかり、「あとは技術的な詳細だけだ」ともらしてしまったとき、すかさずパウリは紙に下手くそな四角を描いて、「これで私がティツィアーノと同じように絵が描けることがわかるだろう。あとは技術的な詳細だけだ」と返したということです。

 このような辛辣なパウリが、にもかかわらず忌避されるどころか歓迎されたのは、当時の濃密な議論の雰囲気を理解しなければなりません。きわめて高いレベルで競い合う研究者たちにとって、パウリの鋭い指摘は必要不可欠でした。どんな論文もパウリに見せなければ完成しない、とさえ言われたほどです。対話しながら結論に向かうボーアのような人間がパウリを有難がったのも当然で、彼はパウリが研究所に滞在していないときは必ず手紙で意見を聞いています。パウリの水も漏らさぬ完璧主義は自分自身にも向けられ、それが、アインシュタインに匹敵する天才といわれながら、それに相応しい成果を残せなかった理由ともいわれています。彼は、思い切ったアイデアを試し、間違える勇気をもつという理論物理学者に必要な才能に欠けていたのです。

 パウリの排他原理は理論的原則としてはうまくいっているように見えましたが、なぜそうなっているかを考えると、深いパラドックスに陥るように見えました。1923年に、フランスの貴族であるルイ・ド・ブロイは、光が粒子と波の性質を両方持つならば、電子も粒子であると同時に波でもあると考えられると言いました。これは重要なアイデアで、ボーアの原子モデルをよく説明するように思えましたが、それでも問題の核心には届きませんでした。そもそも、誰が原子を実在するものとして見ることができたでしょうか。あるいは物理的な実在物として目に見える形で表現できたでしょうか。そこに、目に見えるものなぞないと主張する男が出てきました。それがハイゼンベルクです。

 ヴェルナー・ハイゼンベルク(1901-1976)はヴュルツブルグに生まれ、ほどなく一家はミュンヘンに引っ越しました。父親は厳格な学校長で、一家の雰囲気は非常に権威主義的だったと思われます。ヴェルナーは父に愛されんがために双子の兄エルヴィンと椅子を投げあうほどの激しい兄弟げんかを起こしました。ニールス・ボーアの温かな家庭と比べると雲泥の差ですが、このような抑圧的な家庭に育ってよく不良少年にならなかったものです。

 彼は、まずミュンヘン大学のゾンマーフェルトの下で学びましたが、一年上に生涯の親友でありライヴァルとなったパウリも在学していました。それから、ゲッティンゲンで行われたボーアの講演会を聴いて、コペンハーゲンにボーアを訪ねます。ハイゼンベルクの最初の仕事は、ゲッティンゲンのマックス・ボルンの助手として始まりました。ボルンの助手の前任はパウリで、ボルンは皮肉屋のパウリと比べて、性格の良い、ピアノの上手な、この「短い金髪、澄んだ目、チャーミングな表情」をした若者の魅力にすっかり捉えられましたが、自分の下で学位をとらせようとしていたゾンマーフェルトから反発の手紙がボルンの下に届けられました。ボルンはすぐに、「あなたには、まだ、パウリがいるではありませんか!」という返事を送ったということです。パウリは、才能こそハイゼンベルクにひけをとりませんでしたが、背が低く小太りで不器用な青年(運転免許の試験に100回目にやっと合格した)でした。

 当時、原子の振る舞いについて、それを古典力学の定式のようにひとつの理論体系で表せないだろうかと、天才たちが競って考えていました。ハイゼンベルクが彼の理論体系の偉大な思考の着想を得るまでに数年かかりましたが、1925年についにその時がきました。彼は花粉症を発症し、ボルンから二週間の休暇をもらって、空気がきれいでさわやかな風の吹く北海の小さな島、ヘルゴランド島で過ごしていました。海を見て元気を回復したころ、突然、波と粒子を調和させようとしても無駄であることに気づいたのです。われわれが、波と思って見れば波のように見えるし、粒子と思って見れば粒子のように見える。だいたい、原子や電子を見た人間なぞ誰もいないではないか。トムソンは電子がなめらかに動くのを見たわけではない。ラザフォードもアルファ線が一つの場所から別の場所へと飛ぶところを見てはいない。スクリーンにぶつかった跡を調べるしかなかったのだ。ここで、いかにもドイツ人らしく、彼は厳格な実証主義に従います。意味があるのは、確実に証明できる事実とデータだけだ。真実とは実験室で観測し、計測できるものだけだ。原子が本当はどういうものなのかを想像したって意味はない。電子の軌道についても、それが観測できない以上、それは実在ではない。その説明すべてが、いいかげんな話であり、紙に書いた丸にすぎない。彼は、ここで、電子の軌道を視覚化しようとしたボーアから離れます。ハイゼンベルクは、原子の描像など考えずに、全く数学的に、原子の振る舞いの条件をデータとして、その諸要素を計算の中に組み入れていきました。かれは、この要素を掛け合わせたとき、2×33×2が違う結果をもたらすことに気がつきました。ボルンが彼に、それが「行列」の計算と酷似していることを教えました。こうして、ハイゼンベルクの行列力学が生まれたのですが、各要素の組み合わせは、それが特定の順番の時にしかうまくいかないというのは、古典力学の決定論(繰り返し、やり直し、結果の予想が可能)からの決別だったのです。

 ハイゼンベルクは、1927年のソルベイ会議で、さらに驚くべきことを言っています。粒子の位置を正確に知ろうとすれば、その運動量についての正確さも低下する。また運動量を計測しようとすれば、位置の正確さが損なわれる。ということは、われわれは粒子を決して正確に観測することはできないことになる。「私は粒子の古典経路を以下のように説明できると信じる」とハイゼンベルクは書いています。「その経路は、われわれが測定したときにのみ、存在することになるのだ」と。これは、ショッキングな主張で、それまでは物事は人間の行動とは関係なく起こっていると考えられてきました。ある出来事は、人間がそれに気づくこともあれば、それに気づかないこともあるのですが、どちらにしてもそれが起こっていることに変わりはありません。ハイゼンベルクは、原子内部の世界は、そのような仕組みで動いていないと主張したのです。人間が意識的に粒子を観測することで、そこで何が起こっているかが決まるのです。これは物理学の歴史の中で、もっとも奇妙な考えでしょう。

  ここで、オーストリアの理論物理学者エルヴィン・シュレーディンガー(1887-1961)について書いておきましょう。彼は、ウィーンの裕福な工場主の家に生まれ、幼い頃から数カ国の言語と、美術や植物などについての深い教養を身につけていました。ウィーン大学に入ってからは微分方程式を多用する解析力学に熟練したようです。これが彼の将来の理論的方法を決定したといえるでしょう。

 しかし、シュレーディンガーの本当の興味は美しい女性、それもきわめて若い女性にありました。「私は科学より美を優先します」と彼はマックス・ボルンにあてて書いています。「私たちは、いつも、隣人の妻や、決して手に入れられない完璧さを求めています」。彼を研究員として招聘したオックスフォード大学も、妻と妊娠している愛人を一緒に連れて赴任するという彼の条件には最初難色を示しました。妻のアンヌマリーは、そんな夫を愛し、「競走馬と暮らすことは、かごの中のカナリアと暮らすよりはるかに大変でしょう。しかし、私は競走馬と暮らしたいのです」と書いています。

 シュレーディンガーの有名な波動方程式の発見を促したのは、このような複雑な性生活でした。1925年のクリスマス休暇に、スイス・アルプスのリゾートホテルで若い女性と過ごしていた彼は、創造力が漲るのを感じ、ハイゼンベルクが粒子の振る舞いを計算したとは反対に、すべてを波と考えたらうまくいくのではないかと気づきました。ほとんどの偉大な物理学者が20代で大発見をしているのに、彼が38歳という遅い年齢に創造力の頂点に達したのは、情熱的な恋におちた時に発散される不思議な力によるとしか考えられません。

 シュレーディンガーの方程式は、物理学者の常用の微分方程式を使って書かれていたため、ハイゼンベルクの無機的な式よりもなじみやすく、また美しく感じられました。しかし、それにしても、全く正反対のアプローチによって「正しく」説明される原子とはどのようなものでしょう。次に、イギリス、ブリストル生まれの本当に偉大な物理学者ポール・ディラックがあらわれて、ハイゼンベルクとシュレーディンガーの方程式が結局は同じものであることを証明し、かつ「反物質」なるものの存在を私たちに示したのです。

 (本書のほかに、西尾成子『現代物理学の父ニールス・ボーア』(中公新書)、山本義隆編『ニールス・ボーア論文集2』(岩波文庫)、村上陽一郎『ハイゼンベルク』(講談社学術文庫)を参照しました)

 

 

 

 

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