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2010年4月27日 (火)

ピアーズ・ビゾニー『ATOM 原子の正体に迫った伝説の科学者たち』(1)

 地球規模の大災害が襲って、60億の人類の大部分が死滅し、コンピューターのすべてのデータも灰燼に帰し、わずか数千人しか生き残らなかったとします。このようなことを予測して、人類の知恵を伝え残すために、耐爆性のスチールで作られた小さな板に、数カ国語でメッセージを書き残しておくことにしました。いわば、未来の人類のためのロゼッタ・ストーンともいえるものですが、偉大な物理学者のリチャード・ファインマンによれば、次の簡単なひとことで、人類は物質界について知るべきことをほぼすべて取り戻せるということです。

「すべての物質は原子からできている。それは永久運動を行っている極小の粒子で、少し離れているときはお互いに引き寄せあうが、押し付けられると反発する。」

 

 ピアーズ・ビゾニー『ATOM 原子の正体に迫った伝説の科学者たち』(渡会圭子訳・近代科学社)は、とくに20世紀初頭に、原子という謎の「物質」にとりつかれた人間たちのドラマを追って最後までまったく飽きさせません。著者は科学ジャーナリストで、したがってこの本は「通俗科学読物」に分類されるのですが、この種の本を懲りずに読んできた私にもたいへん面白く読めました(たいていは難しくて退屈になり途中で投げ出してしまうのですが)。高校物理で赤点をとった劣等生の私が言うのだから間違いなく、実際に、いつも読む気力を失わせる物理の数式も、あまりに有名なE=mc² だけしか登場しません。

 

 さて、何から始めましょうか。16世紀初頭に、現在のドイツとチェコの国境付近のヨアヒムスタールという小さな町で貴金属が発見されました。「シルバー・ラッシュ」が起り、あっという間にその町の人口は二万人にふくれ上がりました。そこで採れた銀は硬貨に鋳造され、それはヨアヒムスタール銀貨、のちにターレル銀貨と呼ばれ、世界中で使われるようになりました。その銀貨は、むろん、今はもう流通していませんが、名前は少し形を変えて残っています。現在の名前は「ダラー」です。

 

 やがて、銀は枯渇し、鉱山は廃鉱となり、ヨアヒムスタールはゴーストタウンとなりましたが、その以前からそこには不気味な噂が立ち始めていました。鉱山労働者が原因不明の病気になることが多かったのです。その鉱山からは、銀のほかに、黒っぽく光る鉱物が出ることがありましたが、彼らはそれをドイツ語で「不運な鉱物」ペクブレンデ(英語読みするとピッチブレンド)と呼んでいました。1789年、ドイツ人のマルティン・クラブロスは、その鉱物の中に見慣れない半金属があるのに気づき、天王星(ウラノス)にちなんだ名を付けました。当時、天王星は最後の惑星と考えられていたのです。 

 

 それから1世紀の間に、ウランはヨーロッパの各地で発見されるようになりました。ウラン塩やウラン酸化物の放つ鮮やかな色は、ガラスや陶磁器を色づけるのに使われました。その美しい輝きの中に、目に見えない危険が潜んでいることなど誰も考えませんでした。1896年、フランス人のアンリ・ベクレルは、ウランから出た目に見えない放射線が、写真乾板を感光させるのに気づきました。そのほんの数ヶ月前にドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲンが、熱せられた金属から出た放射線が黒い紙を透かすのを発見していました。スクリーンの前に手をかざすと、手の骨の影が映し出されたのです。科学史上、もっともよく知られた夫婦が登場する舞台はこのように調えられていきました。

 

 マリア・スクウォドフスカは1867年にワルシャワで生まれました。中学校で優等賞を獲得したマリアは、パリのソルボンヌ大学に留学するのが夢でした。ソルボンヌは、その当時、女性に門戸を開いていた数少ない大学のひとつだったのです。ところが、父親の投資計画の失敗で一家は無一文に転落し、マリアはガバネス(子守兼家庭教師)として働かねばならなくなったのです。その間、マリアは反ロシアの過激な政治組織に加盟したりしていましたが、さらにもうひとつの危険もありました。ガバネスとして働いていた家の息子と恋に落ちたのです。二人は熱烈に愛し合いましたが、息子の親は貧乏な家庭教師との結婚を許さず、マリアはその家を出て行かざるをえませんでした。1891年、24歳で彼女は念願のパリに行くことができました。昼間はソルボンヌの数学や物理の授業に出て、夜はカルチェ・ラタンの質素な学生寮に戻りました。食べるものといえばバターつきのパンがせいぜいで、紅茶より高いものは飲んだことがありませんでした。

 

 勉強に没頭した三年間が過ぎて、マリー(彼女はパリで名前をフランス風に変えました)は数学と物理の試験を優秀な成績で合格しました。その頃、35歳の研究者ピエール・キュリーと出会います。この真面目で世渡りの下手な男性は、マリーに研究の援助だけでなく愛をも捧げてくれました。18957月、素朴な結婚式を挙げたあと、二人は、ベクレルが発見していた目に見えない放射線についての研究に本腰を入れて取り組み始めました。

 二人の研究室は使われなくなった解剖室で、冬は寒く、夏は死ぬほど暑く、屋根からは雨漏りのする古い部屋でした。ここを訪れた化学者のオストワルトは「馬小屋とジャガイモ倉庫を合わせたような代物だった」と記しています。この部屋で、二人はくる日もくる日も同じことを繰りかえしていました。ヨアヒムスタールの廃坑から大量のピッチブレンドが送られてきました。マリーが大きな塊から泥や松葉や草を落とします。その後、細かなパウダー状に潰し、火にかけて液体にし、さらにそれを濾して純化します。そして、それを電気分解するのですが、そうやって数ヶ月かけてわずか数グラムの純粋なウランが採れるのです。

 

 「一日中、煮立っている釜を、自分と同じくらいの大きさの重い鉄の棒でかきまぜていることもあった。一日の終わりには疲労困憊だった」とマリーは書いています。それでも毎日新しい発見があり、傍らにはいつもピエールがいました。「あのみすぼらしく古い小屋で、私は人生で最も幸福な日々を過ごした。」

 不思議なのは、純粋なウランよりもピッチブレンドのほうに強い放射性が感じられたことで、ピエールとマリーは、未発見の放射性物質が含まれている可能性に気づき、ついにポロニウムときわめて強力なラジウムを発見しました。1903年、放射性物質発見により、ベクレルとピエールとマリーの三人にノーベル物理学賞が与えられました。しかし、1906年ピエールは、どしゃぶりの雨の中、通りを横切ろうとして、軍需物質を満載した馬車に轢かれて死んでしまうのです。すでに彼の体は放射能に蝕まれていたのですが、(アンリ・ベクレルもその2年後放射能傷害で56歳で急死します)それにしても、マリーにとって衝撃は大きく、その悲しみは想像するに余りあります。しかし、彼女は研究を続け、1911年には再びノーベル賞(今度は化学賞)を授与されますが、ピエールの同僚の科学者ランジュバンとの恋で世間を騒がせます。妻子あるランジュバンとの同棲は、ポーランド女性への差別とも重なって世論の糾弾するところとなりました。マリー・キュリーは、66歳で白血病で亡くなりましたが、放射能による罹患とはいえ、その年齢は当時としては決して若死ではありません。そこに彼女のしぶとさ、迫害にも、性差別にも屈せず、思うところを語り、望むところを行った強靭な精神が見えるのです。

 

(なお、キュリー夫妻は、英国心霊主義協会の作家コナン・ドイルや物理学者ウイリアム・クルックスらと、しばしば降霊術の会に参加していたようです。クルックスは陰極線の実験器具クルックス管で知られていますが、その中の十字型の羽根車は彼が何らかの精神的つながりを持つ聖ヨハネ修道会(あるいはマルタ修道会)の十字架に由来するといわれています)

 

 次の登場人物は、マックス・プランク(1858-1947)です。20世紀初頭のドイツという国の印象は、第一次大戦の敗北とナチスの勃興で大きく歪まされ、本来誰からも賞賛されるはずのドイツ的価値観は忘れられようとしていました。たとえば、正しいことをする、口に出したことを守る、自分より恵まれない人々を守る、法によるルールを厳守する、といったことです。多少、腹が立つことや、愛想が悪いことがあっても、人間は、このようなきちんとした国民を尊敬するものです。マックス・プランクは、曲がったことが嫌いなドイツ人の中のドイツ人であり、平和な社会こそ人類への恵みだという信念は、個々の人間を尊ぶという感覚、そして科学への高い希望と完全に一致しました。父親が法律学教授であったプランクの家は、秩序と義務感にあふれ、保守的なプロシアのもっとも尊敬すべき価値観を保持していたのです。マックス・プランクは、長男の戦死、次男の(ヒトラー暗殺計画に加担した)処刑、双子の娘の死、爆撃による家やノートや日記の消失、そして愛する国の精神的荒廃という恐ろしい経験の後でも決してその品位を失うことはありませんでした。

 

 彼は、ニュートン以来の物理学が、量子力学という全く新しいパラダイムシフトに移行するその分水嶺に立つ人物です。空港などで、通過する旅客の体温を計測する器械などは人間が発する電磁波を感知して作動します(赤外線カメラも同じ構造です)。熱せられたものは、そのように電磁波を発生させるのですが、そのエネルギー総量は電磁波の周波数に関係します。マックス・プランクは、そのエネルギー量が常にとびとびの値をとることに気づきました。つまり、エネルギーは、量子として、かたまりとして計測されるのです。それは、自然の物理変化はすべての値をとりながらなめらかに変化するという古典力学に背馳することでした。プランクは、根っからの古典主義者で、ニュートンが発見した神の国の秩序を覆そうとは少しも思わなかったのですが、同時に自分の作り出した量子仮説が、それまでの物理学を根本から変えてしまうだろうことも実感していました。

 

 「澄んだ良心」「魂の高潔さ」などプランクに与えられた賛辞は、人間がどれだけ高い水準で自らを維持できうるかを示しています。プロになろうとさえ思ったというピアノの腕もこの人間には場違いでなく相応しい感じさえします。プランクは、家族と一緒にいる時がもっとも幸福である、と書いていますが、次ぎに述べるアインシュタインは、全く正反対で、彼は子供の時は妹に暴力をふるい、結婚しては妻に暴力をふるい、自分の子供には無関心、女性関係は当たり構わずというとんでもない男でした。

 アルバート・アインシュタイン(1879-1955)は、1905年、25歳の時に革命的な三つの論文を発表しました。一つは相対性理論、二つ目は花粉がジグザグに動くブラウン運動を水分子の衝突によるものと推測した論文、そして三つ目が(これによってノーベル賞を受けた)光電効果についての論文です。彼は、金属板に光を当てると電流が流れることから、光が実際はエネルギーのかたまりでできていて、それが粒子のように動くと考えるしかないと言いました。それは、ヤングやフレネル以来の光を波とする考えと矛盾するものでした。光は電磁波なのですから、電磁波は粒子である、いやそれは逆で粒子が波からできているのでしょうか。ある不確かな霧のようなものが物理学の世界を覆います。そして、今度は、一人のニュージーランド人が、「物質の基本的構成要素」であると崇められてきた原子が、ほとんど空であることを発見するのです。

 

 アーネスト・ラザフォード(1871-1937)は大英帝国の最も端にある植民地、ニュージーランドのさらに北の端、人口5000人のネルソンで生まれました。アメリカの移民が冒険精神に富んだ人間たちであるのに対して、ニュージーランドに渡った人々は教養のある勤勉な人々でした。それが、たぶんアメリカと違って、先住民であるマオリたちとの軋轢や闘争を起こさなかった理由でしょう。開拓が進むにつれて、アメリカでは酒場が作られていきましたが、ニュージーランドでは学校が建てられていったといわれています。

 父親は亜麻農場をはじめたので、一家は湿地の近くへ引越し、アーネストは野山を駆け回って一日を過ごしていました。しかし、すぐに頭の良さが現れて、両親は山を越えたところにあるカレッジに少年を送りました。アーネストはすべての科目で主席をとり、家は貧乏でしたが奨学金でカンタベリーのユニヴァーシティ・カレッジに入学します。そこでも物理と数学で最優秀をとると、ニュージーランドではもうその上の学校はありません。二年ごとに一人の留学生を送る奨学金に応募しますが、落選してしまいます。彼は失望して、故郷の農場に帰り、父の仕事の手伝いをしていると、当選者が辞退して彼のところにその権利が譲られたという知らせがもたらされました。こうして、アーネスト・ラザフォードは、イギリス本国に渡り、J.J.トムソンが率いるケンブリッジのキャベンディッシュ研究所の一員となることになりました。

 

 しかし、背が高く、だみ声の、田舎育ちの青年は、ケンブリッジのトリニティ・カレッジで、根深い偏見と階級社会を目の当たりにします。この「未開社会」からきた青年は、広大なケンブリッジの学究社会の中で完全に見下された存在でした。彼は辛抱強く堪えましたが、婚約者への手紙では、「胸の上で、マオリの戦いの踊りを踊ってやりたい人間が一人いるんだ」などと書いています。

 ラザフォードは巧みな実験のアイデアと粘り強い努力で次々と新しい発見を積み重ねていきます。放射性物質であるトリウムを崩壊させて、別の原子を作ってしまう(現代の錬金術)、放射能の半減期の発見(これにより地球の年代が遅くとも5億年前にさかのぼり、聖書による年代推定を科学的に否定)などなどで、彼は1908年度のノーベル賞を受けますが、それが物理学でなく化学賞であったことが「それまで目にしてきた幾多の崩壊現象の中でも最大のもの」に思われました。というのも、化学者は「救いがたい馬鹿」であり、「科学は、物理学でなかったら切手収集にすぎない」と思っていたからで、自分は当然、J.J.トムソンと同じ物理学賞がもらえると信じていたのです。

 

1911年、マンチェスターの物理学研究所長であったとき、ラザフォードは、助手のハンス・ガイガーとアーネスト・マーズデンにアルファ粒子(ヘリウムの原子核)を薄い金箔にぶつけるという実験を行わせていました。マーズデンから示された実験結果を見て、ラザフォードは目を疑いました。金箔をすべて透過すると考えられたアルファ粒子の幾つかがまるで頑丈な壁にぶつかったようにはねかえっていたのです。「まるで15インチの砲弾が薄紙にはねかえされたようだ」とラザフォードは書いています。よほど固い核でなければ、強力なアルファ粒子をはねかえせません。そして、アルファ粒子のほとんどが箔を通過し、はねかえるのがほんの一部であるということに原子の秘密が隠されています。原子のほとんどは何もない空間なのだ、とラザフォードは考えました。トムソンのぶどうパンのような原子モデルは間違っていた、原子は、アルバートホールのような広い空間で、その中に一匹の蚊がとまっている、それが原子核だ、しかもその原子核はアルバートホール全体の数千倍の質量をもっているのだ、、、。机や鉄板のような固い物質も、ほぼ空洞の原子でできているとは驚きです。もし、原子がすべて潰れてしまえば、人間の体は塩粒ひとつほどの大きさになってしまうでしょう。

 

ラザフォードの輝かしい成功は、むろんその勤勉さと能力によるのですが、その強力な運と好ましい人間性にもよっています。彼は核物理学の草創期に生まれ合わせました。もし、彼の活躍がもう少し遅く、20年代だったら、数学能力の秀でた物理学者たちと伍していくのは大変だったでしょう。また、彼の性格、研究や実験を楽しみ、シンプルさを好み、決して押し潰されない明るくポジティブな性格も幸いしました。ラザフォードの母親は、いつも息子に、「必死に働くことが、その日の数多くの悪から救われる最上の方法だ」と教えていたそうです。彼は、天才と穏やかな人間性が共存するまれな例でした。彼は論争を嫌い、喧嘩別れした友人や知人は一人もいないとのことです。

ところで、原子が空洞で、そのまわりを電子が回っているとしたら、なぜ電子は古典力学の法則により、エネルギーを失って原子核の中へ落ちて(潰されて)いかないのでしょうか。一人のデンマーク人がその回答を提示して、原子の秘密の祭壇にさらに謎を付け加えるのです、、、。

 

(本書のほかに、クロッパー『物理学天才列伝・下』(水谷淳訳・講談社ブルーバックス)、米沢富美子『人物で語る物理入門・下』(岩波新書)、ハイルブロン『アーネスト・ラザフォード 原子の宇宙の核心へ』(梨本治男訳・大月書店)を参考にしました。)

 

 

 

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