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2010年3月 1日 (月)

ロマン・ロラン『どこから見ても美しい顔』

1月は、秋の旅行のための貯金をしようと思って働きすぎたようで、2月に入ってすぐに体調を大きく崩してしまいました。直接的には、妻に誘われて映画『アバター』を観にいって、その後すぐに気分が悪くなったのですが、どうも3Dの眼鏡をかけて2時間半も座っていたのが苦しかったようです。翌日から仕事に出る以外は家でほぼ寝たきりの毎日を送ることになりましたが、あれこれと考えることは、悲観的な、先行きの暗いことばかりで、インターネットにも全く興味を失い、元気な時にもっと真剣に生きていればよかった、などの後悔もする始末です。ところが、2月後半から急に暖かくなると、体力は劇的に回復し、嘘のように元気になりました。 ほっぽっておいたブログも、そろそろ更新しなければと思うのですが、一冊の本を丁寧に読み込む気力はまだありません。されば、ブログを始めた頃のように、あてずっぽに書き始めてみようと思います。

 

 モンテーニュ『エセー』第二巻十七章は「自惚れについて」と題されていますが、話題はいつしか人間の外面的な美しさに移っていきます。「美は人間の交際にきわめて重要な特質である」として、アリストテレスの「エチオピア人やインド人は王様や長官を選ぶのに美貌と背丈の高さを重視した」という言葉を引用します。「プラトンも彼の国家の統治者には節制と勇気とともに美貌をも要求した。」そして、モンテーニュにはきわめて珍しく、聖書から「主は人の子らよりも美しい」(詩篇45-3)という言葉も引用しています。彼自身については、「私はいたるところで美の神々に見捨てられる」と書き、「私は背丈が普通よりも少し低い。この欠点はみっともないばかりでなく、公職にあって命令を下すものにとって特に都合が悪い。なぜなら、立派な風采と堂々とした体格からくる権威に欠けるからである」と嘆きます。確かに、「自然の私に対する扱いは不公平で不親切だ。」それは、女性が自分に対してとる態度を見てもわかります。第三巻五章では、ついに抑えていた不満が噴出します。

 「私は、しばしばわれわれが彼女らの肉体の美しさに免じて彼女らの精神の弱さを許したのを見たが、彼女らのほうでわれわれの精神がいかに賢明で成熟していようとも、その美しさに免じて、少しでも衰えかけた肉体に好意を示そうとしたのを一度も見たことがない。」

 

 しかし、大事なのはユーモアをもって人生に対処することです。ギリシアの偉大な将軍フィロポイメンは、自分の部隊よりも先に予定の宿に着いてしまったのですが、彼と面識がなく、相当に醜男の彼を見た宿の内儀から、いま女たちが水を汲んだり火をおこしたりしてフィロポイメンをもてなす用意をしているから、手伝いをするように、と命じられました。お供の戦士たちが到着して、この結構な仕事にたずさわっている将軍を見て(彼は忠実に言いつけられたとおりしていました)、いったい何をしておいでかとたずねると、フィロポイメンは「醜男の罰金を払っているところだ」と答えました。

 

 1966年、パリで、ロマン・ロラン生誕100年を記念して編まれた書簡集の編集者は、その表題に、ロマン・ロランのメモから発見されたモンテーニュの数語を採りました。Une ame a la vieille marque ,une ame pleine et qui monterait un beau visage a tout sens.(Une Essais de Michel de Montaigne 2-17)「古代人の面影を残しているその魂、まことに充実しどこから見ても美しい顔を示すその魂」(第二巻十七章)これはモンテーニュの親友、31歳で死んだエチエンヌ・ド・ラ・ボエシについて語ったものですが、書簡集の編集者たちは、60年にわたる書簡を通じて浮かび上がるロマン・ロランの姿が、このモンテーニュ描くラ・ボエシの肖像に相似していると思ったわけでしょう。

 

 『どこから見ても美しい顔』Une beau visage a tous sens, Choix de letteres de Romain Rolland 1886-1944(宮本正清訳・ロマン・ロラン全集36)には、208通の書簡が収められ、母(5通)、妹(3通)、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークと前妻クロチルド(2通)宛て以外は、一人一通ずつに限られています。高等師範の学生であった20歳の時に、ルナン、トルストイなどに送った手紙から始まり、78歳の死の直前まで書かれた手紙は、その半分以上は世界中の無名の人々に向けて送られたものです。

 

 この書簡集に寄せた序文で、アンドレ・シャンソンは次のように書いています。

 「ヌヴェールやブルゴーニュで過ごした幼少時代からブルゴーニュの住民およびヌヴェール人に再び迎えいれられる最後の数年まで、これらの手紙は、ロマン・ロランの長い人生の道中に提出された問題のいくつかをわれわれのために蘇らせた。若い彼が世の中に入ったときに垣間みた最初のいくつかの問題をここに再び発見しよう。そしてまさにこの世界から離れて行こうとしている者が、音を弱めて演奏する最後のオルガン曲まで彼の生涯について行こう。これらの最後の手紙は大きな出来事の悲哀に満ちているが、しかしそれらの手紙を通じて、死の数日前に、『私たち信仰者でないもの』が、信仰という言葉によって何を言いえたかを定義しようと試みたのち、『私は信頼している・・・』と書くことができた者の不思議な悦びがある」

 

 1887年、高等師範の学生であったロマン・ロランは、当時60歳のトルストイに手紙を書きました。トルストイの芸術論、とくに芸術を悪の華として労働よりも下位におく考えに対して、自分はただ芸術によってのみ矮小な自分の人格を打ち破り、無懊悩の、死さえも越える境地に至るのだが、そのような芸術さえも否定するのか、と問い詰めたのです。「先生、私が間違っているかどうか、どうして間違っているかおっしゃって下さい」という悲痛な調子の手紙に対して、トルストイは見事なフランス語の筆跡で返事を返してきました。彼は、芸術にも許容できるものがあるが、それは真の芸術だけであって、その見分け方は、その芸術家が、地上の幸福を犠牲にして、貧窮、孤独、懐疑、一般の無理解などの試練を経ているかどうかにある、と言明したのです。

 

 ロマン・ロランの生涯の基調は、いわばこのトルストイの言葉によって形づけられたといってよいでしょう。その理想主義的な国際平和論、その楽天的な人間への信頼、言葉の端に染み出る民衆への軽蔑、寛容さの裏に隠された異質なものへの強い嫌悪、などにもかかわらず、彼の一貫した禁欲さ、自分を何かの犠牲にしようとする努力は否定しようもありません。彼は自分や自国の利害を優先して考える人間を嫌いました。「私は魂においては国際主義者です。諸国民というのは、芸術家にとっては、存在でもなく、魂でもなく、政治的諸形態にすぎません」(エルンスト・ローベルト・クルティウス宛1921年) 「私は国家や人種の垣を全く認めません。人間の多様性というのは、私にとっては、お互いに補い合って、両面の豊かさをなすニュアンスに過ぎません」(キン・ユー・ユー宛1924年) よって、国家的利害が衝突する戦争に彼が反対したのも当然です。第一次大戦で、ロマン・ロランは、ジュネーブの国際赤十字の下で戦争捕虜の身元照会のために奔走しました。1916年に手に入れたノーベル文学賞の賞金の全額をこれらの社会奉仕のために捧げたことはやはり信念がなければできないことでしょう。しかし、そのために、フランス国内では、彼の本は禁書となり、非愛国者として糾弾されることとなりました。

 

 ロマン・ロランについて、もう一つ特徴的なのは、(そして、これがまた彼をフランス人から引き離すのですが)その独特の宗教観です。「私は世界でただ一つのことを愛します。『信仰』です。しかし私は、この信仰という名称のもとに、たんに宗教的感情のみならず、魂の永遠の生命全体、生命の奥底において不滅であり、神的とあると私が感じるいっさいをさし示しているのです。なぜかというと、私は実際の不滅性を、むしろ一つの永遠性を信じるからです」(オーギュスト・ブレアル宛1898年) 「宗教に関するあなたの分析は正当です。しかし私にとって、はるかに好ましいのは、自発的な宗教感情、あるいはもっと正確に言うなら、いわゆる宗教とは全くちがった、はるかに永続的な宗教感覚について分析をなさることです。私が言いたいのはーいっさいの教義、いっさいの信条、いっさいの教会組織、いっさいの聖書、死後の個人の永世へのいっさいの希望から全く独立してー『永遠的なるもの』の感覚という(全く永久的でないかもしれないが、ただ大洋のように知覚しうる限界をもたない)単純で、直接な事実のことです」(ジークムント・フロイト宛1927年)

 

 彼のこの感情は、おそらく最も共感されにくかったものではないでしょうか。普通は、曖昧な宗教感情で共感されるものが、ロマン・ロランの場合はきわめて強い感覚であり、戦争への憎しみと同様、ある意味では闘争に近い宗教感情だからです。宇宙的ともいえるこの感情の、地上における顕現は彼の英雄賛歌によく表れています。苦悩を通しての歓喜、地の苦しみの後の荘厳な感情、それは、この世のあらゆる不正にもかかわらずその情熱で人々を救うのです。ベートーヴェンやトルストイやミケランジェロは、ロマン・ロランにとって崇拝の対象であると同時に乗り越えられない境でした。ところで、ロベスピエールへの彼の共感は、等身大の、それゆえその生涯への愛惜に満ちています。「ロベスピエールがそうであったように、フランスの田舎の立派な中産階級の者で、きちょうめんな、規則正しい生活と知性的習慣の中で成長した男、穏健な聡明な精神を持った人のことを考えてごらんなさい」(アンナ・マリーア・クルティウス宛1927年) ロベスピエールは「ミラボーを荒廃させたあの恐るべき情熱に苦しめられることもなく、真にきわめて高い、きわめて純潔な(なんの偽善もない)道徳的感情を有し、その時代の風俗や言語がもっていた、信じがたいほどの厚顔無恥を生まれつき嫌いました。そして元来宗教的で、いっさいの教会の諸形式から離脱していました。忘れてならないのは、ロベスピエールはフランス革命がヨーロッパに対して戦争をしたことに、もっとも断固たる反対者だったことです。」(同) これはまさにロマン・ロランの精神そのものです。

 

 書簡集の最後の数ページを占めるのは、死を前にして、隠棲しているヴェズレーの地から発せられた幾通かの手紙です。ドイツ軍の占拠にもかかわらず、ロランはヴェズレーで奇跡的に生き延び、死の二ヶ月前に解放されたパリを訪れることができました。「この美しいパリを見ることができ、この美しさが危うく消滅するところだったと思いますと、いかばかり感動したことでありましょう。ペギーがいたら、聖女ジュヌヴィエーヴ(パリの守護聖人)の奇跡が再現したと言ったことでしょう」(ベルギーのエリザベト女王宛1944) 生前に出版された最後の本『ペギー』で、彼はこの戦場に仆れた親友について長々と語っています。

 「友よ、私が死んだら墓に柳を植えておくれ」というミュッセの有名な一節を引用して、ロランは、しかし自分が死んだら、その墓の傍らには日の照る一本のオリーヴの木がほしい、と書きました。「私はつねにもち続けていました、一生、私の二十歳の頃のイタリアへの郷愁を」(ヘルマン・ヘッセ宛1936年) イタリアは彼の永遠の恋人、美しいソフィーアに出会った地であり、「ローマ人」と名付けられた彼の心の故郷だったのです。

 

 さて、ロマン・ロランといえば、『ジャン・クリストフ』ですが、このような青年の成長物語(広い意味で教養小説とよべるところの)は、なかなか現代では素直に読み込むことはできないでしょう。主人公が、さまざまな経験を通じて自分を鍛えていくという構図は、人間が成長していくということ、いつかは高みに達するのだという楽観と傲慢に裏打ちされているともいえます。この小説はペギーの『半月手帖』に順次発表されたのですが、小説自体も、読者が一巻ずつ発表されるごとに読んでいくことで、作者と主人公の弱さ、分別のなさ、などに許容的態度で臨むことができるようになっています。だから、プルーストが、もし『ジャン・クリストフ』が全巻まとめて発表されたら誰も読めないだろう、と言ったのはある意味で正しいのです。また、20世紀の小説にしては、トルストイ的な、人物を作者の観念の一部のように動かしていく方法が古くさくも感じられます。ロマン・ロランがプルーストを嫌ったのも、あらゆる出来事も主人公を社会に開かせず、最後にはコルク部屋にこもってしまうような小説を退嬰的(ロランのもっとも憎みそうな言葉です)とみなしたからでしょう。

 しかし、R.M. アルベレスが書いているように、感動を生み出すことより、感動から出発することこそ作家の誠実さを表すのですから、たとえコルク部屋に引きこもることが作家の運命であるにしても、プルーストの数ページの方が『ジャン・クリストフ』全巻に増して心に迫るように思われます。

 

 ロマン・ロランほどのスケールの作家は、さまざまな面を読者の前に提示することができます。みすず書房から刊行された42巻の全集から私の好みの作品を紹介しましょう。まず、『ラーマクリシュナの生涯』(第十五巻)です。信仰の天才ともいえるラーマクリシュナの生涯については多くの本が出ていますが、ロマン・ロランのこの書がもっとも正統的なものでしょう。圧巻は、師トタプリの教えに従って、三昧の境に入ろうとすると、少年時代の彼の瞑想と憧れの対象であるカーリー女神の姿が、生きた実在のように邪魔をする場面です。「とても駄目です! 私は無条件の状態に自分の精神を高め、アートマンと向かい合うことはできません・・・」「何、できない? そうするんだ」 師トタプリは、あたりを見回し、ガラスの破片を見つけて、それをとり、その尖端をラーマクリシュナの眉間に突き立てます。「この尖端に精神を集中しろ。」 その瞬間、ラーマクリシュナは主観も客観も消滅する無分別三昧に落ち入り、三日間屍のように眠るのです。

 

 ロランの小説の傑作は、間違いなく『コラ・ブルニョン』(第五巻)でしょう。ブルゴーニュ人である祖父をモデルにしたこの小説は、ロラン自身の解説によれば、「世界を変形させるとか、それを解釈するとかいううぬぼれをもたないで、政治もなく、形而上学もなく、人生をいいものと思うがゆえに、また自分が健康であるがゆえに人生を笑う」一人のブルゴーニュ人を描いています。彼、コラ・ブルニョンは、彼を襲う幾多の災厄にもめげず、底抜けに明るく、楽天的に世の中を生きていきます。「ペスト」と題された章を紹介しましょう。

 

ブルゴーニュにペストが蔓延して、コラの村の人びとも戦々恐々となってきました。コラ・ブルニョンは、家の女や子供たちを遠い親類の家に疎開させると、独りになってさっぱりし、ペストなど怖くないと豪語しています。村に残った連中は家の戸を閉めて閉じこもっているのに、コラは彼らをあざわらうかのように毎晩村の居酒屋で酒をあおり、放談しています。ある夜、懇意であるグラットパン爺さんと居酒屋で出会い、すっかり意気投合してしまいました。グラットパン爺さんはコラに輪をかけて自惚れで、病気を茶化し、ペストで死ぬやつは病気で死ぬのでなく恐怖で死ぬのだ、などといっています。二人は一時間ほど息を掛けあいながらおしゃべりし、爺さんはいつもの癖で話し相手の手を握ったり、脚をこすったりしていました。翌日、昼過ぎにコラが目覚めると、村の人が来て、グラットパン爺さんがペストで死んだと知らせてくれました。背中がぞっとして、もう何も手がつきません。医者に行こうかと考えたが、銭をとられてペスト患者の隔離部屋に入れられるだけだと思い、「医者にかからなくても死ぬまで生きるだろう」と考えて家にいることにしました。しかし、夕方になって、いよいよ腹や頭が痛くなると、意を決して、荷物をまとめ、葡萄畑の端にある小屋に退去します。家にいると建てたばかりの家が焼き払われてしまうと思ったのです。夜になってさらに苦痛は増し、明け方を迎えるともう床から立つことはできません。寝たまま窓から助けを呼びますが、村人は遠巻きにコラの小屋を囲むだけで、ペストを恐れて誰も近寄ってきません。すると貧しい身なりの捨て子が「ブルニョンさん、何か用があるの?」と窓のところにやってきました。この子は、先日コラの家のサクランボをつまんでいるところをコラに見つかったのですが、コラは怒らずに、「ついでにわしの分もとってくれ」とやさしく声を掛けていたのです。コラは、この子に、遺言を認めてもらう公証人と司祭を呼んできてくれるように頼みました。遺言をつくり、最後の告白が終わると、コラ・ブルニョンは静かに眼を閉じました。サン・マルタン寺院の鐘がなり、瞼の奥には多くの星が強烈な光を放ち始めました。その星を見よう、その星を捉えようと、コラは必死にわめきました。

白ぶどうの種よ、

行っちゃだめだよ!

コラよ、しっかり!

コラがお前をとらえるよ。

ハレルヤ!

村人の話によると、コラの小屋からは一晩中わめくような歌声が聞こえたということです。翌朝、コラはすっかり元気になっていました・・・。私はこの話を読んだ時、ジャック・ロンドンがアメリカを放浪していた時の話を思い出しました。ロンドンは結核を病んでいたのですが、疾走する貨車の上で大きな口を開けて突風を飲み込んでいました。それで結核が治ったのです!

 

さて、ロマン・ロランの最後はやはり、この男ベートヴェンについての書物です。『第九交響曲』(第二十五巻)の中で、ロランは、晩年のベートーヴェンが世界史の研究に関心を抱いていた、と書いています。ベートーヴェンはミュラーの大著『人類世界史』やシュトールベルクの『キリスト教史』を読み、人間史の終末目的という大問題に没頭していたそうです。「彼はシラーとともに、むだなものとなったあらゆる国家の廃絶の方向へー諸世紀をよぎるあゆみのなかで、人間性の運命的な終局たる理性の支配の方向へ国家を前進させるというフィヒテの信仰と希望をわけもっていた。ある日、理性が支配するにいたるとすれば、それは現在からすでに人類をみちびき、教育しなくてはならない。」 そして、ベートーヴェンがその助けにしたのが『サモトラケの神性について』のシェリングでした。インドの神智論についてノートをいっぱいにしていたベートーヴェンが、シェリングのこの書物に深く打たれたことはありそうなことでした。シェリングは、その本の中で、ひとつの秘密教義を明かしています。「その教義は、その深い暗闇から啓示された光への生のたえまない進化を象徴する、重なり合った、あるいは継続しあった四つの神性においてあらわれる。」

すなわち、もっとも深みには、獰猛なケーレス(冥府の下位女神)、貧しくはずかしめられた闇が、ついで、官能の幻影たる冥府の女王プロセルピーナ。三番目にディオニソス、あるいはオシリス、精霊たちの王、慰める者が続き、最後にヘルメス、神を見つめ、下界の諸存在に神を啓示する『歓喜への頌歌』の大天使ケルビムがあらわれます。この四つの象徴が第九交響曲の四つの楽章に照応するというのです。

 「それを信じるためには、まさにそのことを信じようと願わなくてはならない。そしてわれわれにとっては、それは精神の賭けである」 とロランは結んでいます。

 

(ドストエフスキーが未完になっていますが、後に書き継ぎます。)

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コメント

ロランの「ジャン・クリストフ」を47年ぶりに再読しつつある今、あなた様の文章に出会いました。以下、ご存命と信じて、綴ります。ただし、いつもの自分よりも短く!
 確かに、このベートーヴェン好きの私ですら「クリストフ」に「ロラン」に恥ずかしさを感じることなく読み進めることは出来ません。
 ただ、以下の部分には、現在の私にも大略、共感できるものです。安直ながら、コピペさせていただきますが-
「私にとって、はるかに好ましいのは、自発的な宗教感情、あるいはもっと正確に言うなら、いわゆる宗教とは全くちがった、はるかに永続的な宗教感覚について分析をなさることです。私が言いたいのはーいっさいの教義、いっさいの信条、いっさいの教会組織、いっさいの聖書、死後の個人の永世へのいっさいの希望から全く独立してー『永遠的なるもの』の感覚という(全く永久的でないかもしれないが、ただ大洋のように知覚しうる限界をもたない)単純で、直接な事実のことです」

 私は数年前に「不可知の何様」という言葉をネットで発表し(実際、直接に検索できることを今知ったところです)しております。その発端は、その言葉以前、私の中でその概念が明確になるまでの時間を入れればかなり昔のことに成りますが、「シ」(相対音でいうところの全音階第7音)の音階ロクリアン(=ロクリア旋法)へ私の頭と心が傾斜し始めた頃です。
 お説によればロランは「信じる」とか「信仰」を盛んに用いているようですが、私の場合は、とかく「狂信」につながりやすい「信」という言葉、概念には抵抗があります。少なくとも、自分が使うことには、です。
「不可知の何様」といえば、聞こえやこなれは悪いかもしれないけれど、私自身にはこれほど抵抗のない、謙虚さからしか出て来っこない概念は無いと思っております。もちろん、全体的概念ではありますが。
私の文章も、私の楽曲も、その大元や帰結するところは「不可知の何様」から外れないものでありたいと願っております。
もとより、この世の存在、存在事物から諸現象に至るまで、「不可知の何様」の外にあるものは何ら無いのでありますが、ただ、「それが実感されるメディアになっているかどうか?」ということになりますと、これは成っていないことがほとんどだと言わなければならないと、私は思います。なぜなら、それらは“部分”だからです。“全体”であるところの「不可知の何様」を締め出すものたち、物事達だからです。
私は別に象徴主義に拘ってはおりませんが、そのように思う次第です。 
 どうもありがとうございました。 2015.10.21 未明

投稿: ロクリアン正岡 | 2015年10月21日 (水) 04時23分

正岡さん、コメントありがとうございます。

恥ずかしながら、まだ何とか生きております。コメントの返事が遅れたのはいささか難解な課題に思えたからですが、私がロマン・ロランについて共感を持つのは、その深い宗教感情なのです。彼は既成宗教のその敷居まで行って、しかし、そこに入ることはありませんでした。それを簡単に越えてしまう人もたくさんいるのに。それを宗教と呼ぶのはロマン・ロランの敬虔な感情ゆえであり、我々の心を崇高な高みまで運ぶ一切のものを彼が指しているからに他なりません。芸術はむろん宗教であり、芸術家は預言者であり使徒でもあるのです。彼が晩年に至るまで、いや晩年になるほど、この崇高さが人類の唯一つの救いと信じるようになったのだと思います。あの構想され、完成されなかったベートーヴェンの第十交響曲、戦争と平和、憎悪と慈愛、生と死など対立するもののすべての調和を目指した第十交響曲は、まさに完成されなかったゆえにロランの希望の地への架橋となりました。
正岡さんの「不可知の何様」という言葉は、非宗教的とはいえ、ロランの思念に近く、私の考えでは神秘主義そのものです。私がそのような考えを忌避するどころか、警戒しつつ偏愛していることは他の記事を併せ読まれればお分かりになるだろうと思います。それでは、また。

投稿: saiki | 2015年10月25日 (日) 18時59分

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