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2010年3月27日 (土)

メアリー・ボイス『ゾロアスター教』

 卒業式のシーズンですが、列席していて苦しいのは、むろん、校長や学長、来賓などの祝辞を聞くことです。耳に栓をすることもできないので、その真面目くさった話から、祝辞をのべる本人の精神的内実を想像してしまうのですが、T.W. アドルノによれば、このような人間たちの生涯は破廉恥行為の連続と思って間違いないということです。よほどの馬鹿でないかぎり、大勢の人たちに訓戒をたれ、励ましの言葉を送るというのは、あるニヒリズムを伴うもので、それは、うまいことをした自分の側には責任はなく、不運な連中にはそれなりの理由があったと完全に自分を納得させることはやはり難しいからです。

ところで、ゾロアスター教徒であれば、話は簡単で、個人の救済は、その地位や富に関係なく、生涯の総量としての彼の言葉や行為に関わるので、神でさえ、その総量を変えることはできません。人生のどの瞬間においても親切で寛大であったか、辛抱強く、楽天的で、仲間の人々の役に立ち、無知、貧困、病、社会的不平等といった悪に常に立ち向かったか、それは自分自身が一番よく知っており、自分自身が責任をとるべきものなのです。

 

ゾロアスターによれば、人が死ぬと、彼は、チンワトの橋、すなわち選別者の橋を渡らねばなりません。生涯に行った善の総量が悪のそれを上回った人間は、彼の魂の化身である美しい処女に導かれて広々した橋を渡り、天の楽土に到着します。反対に、悪が勝った人間は、しだいに剃刀のように細くなる橋を進み、その上で待つ恐ろしい魔女に手をつかまれて地獄に落ちていきます。

経済学者のシュムペーターは(彼自身はゾロアスター教徒でもなんでもないのですが)、毎晩、その日の自分の行動を顧みて、立派に努力したならプラス1を、努力が足らなかったらマイナス1を、どちらでもなかったら0を記していたそうです。これはまさにゾロアスター教徒的といってよいでしょう。

 

預言者ザラシュトラ(ゾロアスターのアヴェスタ語形)は、紀元前1200年ごろ(おそらく1000年から1500年の間)に生存したとされますが、定かではありません。彼は、幼い頃から祭司としての修行を積みました。メアリー・ボイスによれば、その時代は「英雄時代」であり、他民族の領地を侵略し、近隣の部族を略奪する、法よりも力が支配する時代でした。勝利者の名声は、弱者や保護されていないものの苦痛と血によって贖われました。ゾロアスターは、この地上に生まれ、死んでいくものたちの苦しみに満ちた日々の目的の啓示を求めて長い間放浪したということです。彼は、秩序と平和が行き渡り、強い者と弱い者とが分け隔てなく、誰もが公正に平和に善い人生を送れることを希望していた、とメアリー・ボイスは書いていますが、それが本当なら、たいへん立派な人間ではありませんか!

そして、30歳の時、春の祭りのための水を汲もうと朝の河に入り、そして岸に戻ろうとした時、岸辺にアフラ・マズダーの光り輝く姿を見ました。これは啓示であり、ザラシュトラが放浪の年月に考え続けていたことがある一貫性を持って立ち現れた瞬間でした。

 

ゾロアスターによれば、宇宙には、はじめに唯一の慈愛深い神、アフラ・マズダーが存在していました。この神は完全に賢明であり、他の慈愛深い神々はすべて彼から発しているのです。しかし、宇宙には、もうひとつの強力な霊、悪意に満ちたアングラ・マインユも存在していました。肝要な点は、これら二つの霊は(それぞれの固有の性質に従っているとはいえ)自発的に、一方は善を、一方は悪を選択したということです。この行動は、人もまた、この人生において同様の選択をしなければならないことをあらかじめ示しているのですが、このことによって、人間は神の同盟者として、悪に対する勝利のために戦うのです。(この啓示は、人間にある尊厳を与えています。イスラム教徒が神の前にひざまずいて祈るのと対照的に、ゾロアスター教徒は立ったまま祈ります)

ゾロアスターがいかにしてこのような高邁な考えを抱いたのかはわかりません。メアリー・ボイスによれば、預言者は、その苛酷な体験を通して、叡智と正義と善が、本来、邪悪さや残酷さとは完全に別のものだと確信するに至ったのではないか、ということです。

 

ところで、ゾロアスターの教えでは、望ましい王国は、アフラ・マズダーを筆頭とする七つの神によって統治されます。ウォフ・マナは牛に代表される善い動物を表し、アシャは太陽を通じて世界を統率する火を、フシャスラは天を、アールマイテイは大地を、ハウルワタートは健康を意味する水を、そしてアムルタートは長寿と不死を意味する植物を表しています。頂点に位置するアフラ・マズダーの担当は人間であり、人間は他の六つの創造物を見守るばかりでなく、自分の周囲の世界に対する深い責任を自覚し、なおかつ自分自身の道徳的、肉体的健全さに配慮して、他の人々を世話する義務を負わねばなりません。

 

ゾロアスター教は、それ自身の終末論を有しています。人は死後に、チンワトの橋で選別されると、先に書きましたが、それで終わりになるわけではなく、楽土に行った魂もそれで完全な至福を享受できるわけではありません。やがて、大審判の時がやってきて、人々は(楽土にいる者も地獄にいる者も)復活し、最後の試みを迎えねばなりません。山々から金属が溶け出してきて、その煮えたぎった流れを渡らねばならないのです。正しきものは温かいミルクの河のように容易に渡ることができるのですが、邪悪なものは溶融し消滅してしまうのです。ここに至って、アフラ・マズダーと他の六つの神々は、最後の儀式を行い、復活した人々に不死性を授与します。

「そして、その後、人間は老いず病まず堕落せず、地上の神の王国で永遠の喜びに満ちるだろう。なぜなら、ゾロアスターによれば、遠くの形のない楽土ではなく、完璧な姿に復されたこのなつかしく愛すべき地上においてこそ、永遠が至福となるのであるから。」

 

「ゾロアスターはこのように、個々の審判、天国と地獄、肉体のよみがえり、最後の大審判、再結合された魂と肉体の永遠の生ということを初めて説いた人であった。これらの教義は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に採り入れられて、人類の宗教の多くにおいてなじみある項目となった。しかし、これらのことが、十分に論理的一貫性をもっているのは、ゾロアスター教においてだけである。」

「というのも、ゾロアスターは、肉体を含む物質的な創造が善であることと、神の正義のゆるぎない公平さをあわせて主張したからである。彼によれば、個人の救済は、その人の考えや言葉や行動の総量によるもので、いかなる神も、同情や悪意によってこれを変えるよう介入することはできない。そのような教義の上に『審判の日』があると信じることは、充分に畏怖すべき意義をもち、各人は自分の魂の運命について責任をとるだけでなく、世界の運命についての責任も分かたなければならないとされた。ゾロアスターの福音は、このように高尚で努力を要するものであり、受け入れようとする人々に、勇気と覚悟を要求するものであった。」

 

以上が、開祖である預言者ゾロアスターの唱えた教えです。まことに立派な、尊敬すべき教えではありませんか。少なくとも、人間はみな罪人であると決めつけるような宗教、神の前で人間を不完全な弱い存在と見下すような宗教に比べれば、理性的な人間を納得させるものを十二分に持っています。

しかし、ゾロアスターの教えは、当時の人々を怒らせ、惑わせるものがありました。ゾロアスターに従って正義を求めるものはすべて天国に行くという思想は、下層民を死後地獄に行くことを定めた従来の貴族や祭司たちの伝統を断ち切るものでした。たとえ権力者であっても、不正な行いをすれば、地獄へ行き、究極的には消滅するという思想は彼らにとって恐怖というほかはなかったでしょう。さらに、多神教になじんだ人々にとって、唯一神といってよいアフラ・マズダーや、二元論、道徳的な努力を続けることを要求する宇宙的大闘争というような壮大な観念を理解することは難しいことだったに違いありません。

 

自分の知っている人間が、いきなり神からの啓示を受けたと主張しても、普通は誰も信用しないでしょう。「預言者は故郷に入れられず」は、いついかなる時においても真実です。ゾロアスターは10年にもいたる説教の末に、従兄のマイドヨーイマンハ一人しか改宗させることができなかった、ということです。故郷を去ったゾロアスターは、異郷の地で信奉者を見つけました。ウィーシュタースパの王と王妃で、ゾロアスターはこの国で、信者を拡大し、教団としての礎を築くことができました。

 

ここで、ゾロアスター教徒に課せられた義務を紹介しましょう。常に心に留めておかねばならないのは、善い考え、善い言葉、善い行動、という三つの義務で、これがこの宗教の看板となっています。信者は、クスティーと呼ばれる羊毛の紐を白い下着の上に結び、その結び目を祈りの時に解いたり結んだりします。日に五回の祈りが課せられ、その祈りの度ごとに、信者はアフラ・マズダーとともに悪の権化アングラ・マインユと闘うことを誓います。さらに、信者には、年に七回の大祭を祝うことが厳格に決められています。これらの祭りでは、信者は、祭式を済ました後に、集会で祝福された食物を全員で食べるのですが、ここでは貧富の差なく、善意が全体に行き渡るように、争いごとが仲裁され、友情が新たに深められるように、十分に楽しく行われます。

 

大祭をこのように楽しむことは、この宗教の特質をよく表しています。というのも、憂鬱や厭世はアングラ・マインユの勝利を意味するのですから、できるだけ幸福であること、楽しいことを表現して、アフラ・マズダーの最終的勝利を先取りしなければなりません。後に、イランを制圧することになるイスラム教とは大違いです。ゾロアスター教徒にとっては、豚肉を食べなかったり、飲酒を禁じたり、女性にヴェールを被せるような宗教はとうてい堪えられないものでした。

ここで、サーサーン朝初期に現れたマニ教との違いを書いておきましょう。宗祖マーニは、天国と地獄、神と悪魔、最後の審判、善の窮極の勝利などゾロアスターの教えの多くを取り入れたのですが、なぜか現世をすべて邪悪であるとみなし、個々人にとって最上の道は、この世を否定し、穏やかな修行生活に入り、独身のまま死ぬことだと語りました。そうすれば、その人の魂は天国へ行くだろうし、地上でのみじめな存在を永続させることもなくなる、というのです。この教えが、シャーブフル一世に暖かく迎えられて、その治世(240-272年頃)の間、保護されていたのは驚くべきことです。マニ教の魅力は、知性の優位にあります。ゾロアスター教の中に仏教の智慧と認識、キリスト教の受難と禁欲を溶け込ませて、壮大なグノーシス的思想を作り上げました。それがアウグスティヌスのような精神と肉体のバランスに苦しむ青年を惑わせたのです。

このような悲観主義はゾロアスター教徒には無縁のことです。ゾロアスター教は、禁欲や苦行も否定し、したがって、聖人という言葉もこの宗教には馴染みません。

 

ゾロアスター教が世界宗教にならず、イランの民族宗教となってしまったのは、メアリー・ボイスによれば、アケメネス朝からサーサーン朝までに、権力者の庇護のもとにあったからです。安定した政治的基盤のもとでは、宗教は祭式や慣習の煩雑さを増し、信者にとっては、宗教の内実が薄められる度合いに比例して祭司への様々な謝礼への経済的重荷がのしかかります。かつての簡素で心のこもった宗教に立ち帰ろうとする運動も、実を結ばないまま、アラブのイスラム教徒に制圧されてしまいます。イスラム教徒の下で、ゾロアスター教徒は改宗させられたり、仕事や生活全般において差別をうけ、あるときは集団的迫害・虐殺も経験しました。しかし、カリフの勢力から遠いイランのこの地では、イスラム教自体がペルシアの民族宗教、なかんずくゾロアスター教を取り入れて、やがて来るべき救世主や悪との宇宙的闘争などの観念に強く影響を受けていきます。それがシーア派で、彼らはペルシアの王女との結婚などで血筋的にも色濃くペルシア化されてしまいました

 

この時期にゾロアスター教は、イランに残った者も、インドのムンバイ近くに移住したものも、少数者として結束し、苦しい時期を生き抜いてきました。裏切り者に対して長老たちが下した厳しい裁決にたいして、メアリー・ボイスは、「穏やかとされるイランやインドのゾロアスター教徒が、もしその性格に石のように堅固なところを持っていなかったならば、あらゆる差別を受けながら、宗教や生活を守ることはできなかっただろう」と書いています。

ゾロアスター教は現在でも全世界で十数万人がその宗教を守っているといわれますが、勤勉で、俗的成功を求めることを躊躇せず、その富を仲間ばかりでなく公的な幸福に寄与しようとする態度を保っています。信者数が増えないのは、原則として両親(最低限でも父親)がゾロアスター教徒でないと入信できないからで、もし、この厳しい条件を続けていくなら、消滅するか、近親結婚で衰退していくでしょう。

 

ゾロアスター教徒というと、もう一つ、鳥葬、あるいは風葬という慣習を忘れることはできません。水、火、土はゾロアスター教徒にとって、天や植物や動物とともに神聖なものです。汚れを水で洗ったり、ゴミを火で焼いたり、土に埋めることは、水や火や土に対しての冒涜になります。死はアングラ・マインユの勝利として、もっとも忌むべきもので、遺体はそれに触れることも避けるべきことであり、よって、死者を土葬したり、火葬したりすることは最大の罪の一つとされます。

街中に住むゾロアスター教徒は、風葬の場所がないので、天井を大きく開けた石造りの塔を建てて、そこに遺体を安置します。それでも、ハゲタカに遺体を食べさせるとは、野蛮な風習であることに変わりはなく、さすがに、現代のゾロアスター教徒は、(ハゲタカも少なくなったので)この風習を存続させてはいないでしょう。

 

さて、この宗教が私たちの人生にもつ意味はどのようなものでしょうか。「善教」と言われるとおり、ある意味で非常に感動的な宗教であると思います。ゾロアスター教にとっては、この世における被造物の苦しみは、絶対者のもたらしたものではなく、対立霊による災害であると規定しているのですが、悪を、誰のせいでもなく、(むろん原罪などでは全くなく)、克服すべき、そして克服できる対象としてみなしていることは特筆すべきです。

ニーチェのツアラトゥストラは、まさにゾロアスターの観点から下した近代の病の診断と処方とみなすこともできるでしょう。

 

メアリー・ボイスの『ゾロアスター教』(山本由美子訳・筑摩書房1983は、なかなか入手しづらい本でしたが、なんと講談社学術文庫から再刊されました。この宗教については、日本人のすぐれた研究もたくさんありますが、書物としてはボイスの本が最も読みやすく理解しやすいと思います。ところで、私は最近、ディケンズやドストエフスキーのように、制度や政治をいくら変えても人間社会はよくならないのではないかと思うときが時折あります。どんな政治制度の下においても、うまい汁を吸うのは卑劣な人間であるように思われます。毎日、テレビに映る政治家連中の卑しい顔を見ると、その卑しさが地方都市の議員たちや校長たちの厚顔無恥な顔と重なるのですが、実際、彼らには生きることの含羞のようなものが欠けています。といって人間は変わることができないとしたら、救いは理性よりも宗教の方にあるのではないでしょうか。それはむろん、人々を不幸にする宗教ではなく、他のどんな宗教ともちがう宗教なのですが、、、。

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コメント

「私は最近、ディケンズやドストエフスキーのように、制度や政治をいくら変えても人間社会はよくならないのではないかと思うときが時折あります。どんな政治制度の下においても、うまい汁を吸うのは卑劣な人間であるように思われます。」
同感です。いま流行りの社会学がいかに「アーキテクチャー」を語っても、それを運用するのが人間である以上、何でも大して変りはないでしょう。「アーキテクチャー」を変えれば社会がよくなるというのは、「個人」が変りさえすれば社会がよくなるというのと同じく、あまりにも無邪気な考えだと云えるかもしれません。

投稿: オベリスク | 2010年4月 3日 (土) 22時06分

オベリスクさん、コメントありがとうございます。ブログはいつも拝見しています。
伝統主義者たちは、人間は太古の真理から常に遠ざかりつつあると主張していて、私も共感する部分があるのですが、こと社会の知恵に関しては、アリストテレスの時代よりも人間はかなり進歩したのではないでしょうか。エリートが先導して公平な社会を作るという社会主義の実験は歴史の中でみごとに破綻しました。アランの言うように、人間は「御しがたい動物」で、制度をいくら変えても、その檻からするりと抜けてしまいます。大事なのは、欲望、生命、自己保存の欲求など人間本然の問題であって、スアレスやホッブズなど個人と社会の問題を根底から考えようとした思想家が注目されるのはその理由からでしょう。
それでは。

投稿: saiki | 2010年4月 4日 (日) 13時26分

何日もかけて 読ませていただきました。 冒頭の 式次第の
祝辞の阿呆らしさ は我が意を得たりです。 さて 本文のゾロアスター教について 何と意をつくし、解説してくださっていることでしょう。本当に3000年以上も前に このように思索していた預言者がいたとは 驚きです。 既存の宗教には 違和感がありましたが この考え方は 人生の道しるべになると思います。40年近く前にムンバイ(ボンベイの方が馴染み易いのですが)に滞在していたことがありました。その頃は まだ鳥葬の習慣があったようで そらおそろしく人々の口にのぼっていました。 あの頃に意外な接点があったのに 受け入れられない異様な風習としか見ていませんでした。 人間の多様さ 深さに 目を開かせてくださる一文でした。

投稿: fukuiku | 2010年4月13日 (火) 12時30分

hukuiku様、コメントありがとうございます。
そうですね、私も以前はゾロアスター教というと、白装束にマスクをして火の儀式を行う異様な宗教と思っていたんですが、鳥葬はともかく、普通に考えて、もっとも良識に適う宗教であると思うようになりました。このような宗教が3000年前に出現したことは確かに驚きですが、考えてみれば、史上初めて一神教を提示して愛と平和の王国を作ろうとしたアクエンアテンのアマルナ宗教改革も3500年ほど前ですし、日常生活の中の義務と愛情を高いレベルで説いた孔子集団が生きたのも2500年前でした。その中でもゾロアスター教は今に至るもその命脈を保っているのが奇跡でしょう。(超低価格自動車ナノを発売したインドのタタ財閥はよく知られています)
「この考え方は 人生の道しるべになると思います」 
確かにそうですが、私自身は今までにあまりに多くのマイナスを積み重ねてきてしまったように思われます。ゾロアスターの教えでは、人生に一発逆転はありえない、親鸞やジャンセニスムと違うところはそこで、ある意味とても厳しい宗教であると思います。こうなれば長生きして善行を積むしか道はないのでしょうか。
それでは。

投稿: saiki | 2010年4月14日 (水) 15時10分

saeki様 懇切なお返事有難うございます。 私にとっては
またいちだんと刺激的で 覚醒させられる内容でした。 無知が恥ずかしいです。 熟読玩味します。

投稿: fukuiku | 2010年4月14日 (水) 21時30分

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