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2010年3月27日 (土)

メアリー・ボイス『ゾロアスター教』

 卒業式のシーズンですが、列席していて苦しいのは、むろん、校長や学長、来賓などの祝辞を聞くことです。耳に栓をすることもできないので、その真面目くさった話から、祝辞をのべる本人の精神的内実を想像してしまうのですが、T.W. アドルノによれば、このような人間たちの生涯は破廉恥行為の連続と思って間違いないということです。よほどの馬鹿でないかぎり、大勢の人たちに訓戒をたれ、励ましの言葉を送るというのは、あるニヒリズムを伴うもので、それは、うまいことをした自分の側には責任はなく、不運な連中にはそれなりの理由があったと完全に自分を納得させることはやはり難しいからです。

ところで、ゾロアスター教徒であれば、話は簡単で、個人の救済は、その地位や富に関係なく、生涯の総量としての彼の言葉や行為に関わるので、神でさえ、その総量を変えることはできません。人生のどの瞬間においても親切で寛大であったか、辛抱強く、楽天的で、仲間の人々の役に立ち、無知、貧困、病、社会的不平等といった悪に常に立ち向かったか、それは自分自身が一番よく知っており、自分自身が責任をとるべきものなのです。

 

ゾロアスターによれば、人が死ぬと、彼は、チンワトの橋、すなわち選別者の橋を渡らねばなりません。生涯に行った善の総量が悪のそれを上回った人間は、彼の魂の化身である美しい処女に導かれて広々した橋を渡り、天の楽土に到着します。反対に、悪が勝った人間は、しだいに剃刀のように細くなる橋を進み、その上で待つ恐ろしい魔女に手をつかまれて地獄に落ちていきます。

経済学者のシュムペーターは(彼自身はゾロアスター教徒でもなんでもないのですが)、毎晩、その日の自分の行動を顧みて、立派に努力したならプラス1を、努力が足らなかったらマイナス1を、どちらでもなかったら0を記していたそうです。これはまさにゾロアスター教徒的といってよいでしょう。

 

預言者ザラシュトラ(ゾロアスターのアヴェスタ語形)は、紀元前1200年ごろ(おそらく1000年から1500年の間)に生存したとされますが、定かではありません。彼は、幼い頃から祭司としての修行を積みました。メアリー・ボイスによれば、その時代は「英雄時代」であり、他民族の領地を侵略し、近隣の部族を略奪する、法よりも力が支配する時代でした。勝利者の名声は、弱者や保護されていないものの苦痛と血によって贖われました。ゾロアスターは、この地上に生まれ、死んでいくものたちの苦しみに満ちた日々の目的の啓示を求めて長い間放浪したということです。彼は、秩序と平和が行き渡り、強い者と弱い者とが分け隔てなく、誰もが公正に平和に善い人生を送れることを希望していた、とメアリー・ボイスは書いていますが、それが本当なら、たいへん立派な人間ではありませんか!

そして、30歳の時、春の祭りのための水を汲もうと朝の河に入り、そして岸に戻ろうとした時、岸辺にアフラ・マズダーの光り輝く姿を見ました。これは啓示であり、ザラシュトラが放浪の年月に考え続けていたことがある一貫性を持って立ち現れた瞬間でした。

 

ゾロアスターによれば、宇宙には、はじめに唯一の慈愛深い神、アフラ・マズダーが存在していました。この神は完全に賢明であり、他の慈愛深い神々はすべて彼から発しているのです。しかし、宇宙には、もうひとつの強力な霊、悪意に満ちたアングラ・マインユも存在していました。肝要な点は、これら二つの霊は(それぞれの固有の性質に従っているとはいえ)自発的に、一方は善を、一方は悪を選択したということです。この行動は、人もまた、この人生において同様の選択をしなければならないことをあらかじめ示しているのですが、このことによって、人間は神の同盟者として、悪に対する勝利のために戦うのです。(この啓示は、人間にある尊厳を与えています。イスラム教徒が神の前にひざまずいて祈るのと対照的に、ゾロアスター教徒は立ったまま祈ります)

ゾロアスターがいかにしてこのような高邁な考えを抱いたのかはわかりません。メアリー・ボイスによれば、預言者は、その苛酷な体験を通して、叡智と正義と善が、本来、邪悪さや残酷さとは完全に別のものだと確信するに至ったのではないか、ということです。

 

ところで、ゾロアスターの教えでは、望ましい王国は、アフラ・マズダーを筆頭とする七つの神によって統治されます。ウォフ・マナは牛に代表される善い動物を表し、アシャは太陽を通じて世界を統率する火を、フシャスラは天を、アールマイテイは大地を、ハウルワタートは健康を意味する水を、そしてアムルタートは長寿と不死を意味する植物を表しています。頂点に位置するアフラ・マズダーの担当は人間であり、人間は他の六つの創造物を見守るばかりでなく、自分の周囲の世界に対する深い責任を自覚し、なおかつ自分自身の道徳的、肉体的健全さに配慮して、他の人々を世話する義務を負わねばなりません。

 

ゾロアスター教は、それ自身の終末論を有しています。人は死後に、チンワトの橋で選別されると、先に書きましたが、それで終わりになるわけではなく、楽土に行った魂もそれで完全な至福を享受できるわけではありません。やがて、大審判の時がやってきて、人々は(楽土にいる者も地獄にいる者も)復活し、最後の試みを迎えねばなりません。山々から金属が溶け出してきて、その煮えたぎった流れを渡らねばならないのです。正しきものは温かいミルクの河のように容易に渡ることができるのですが、邪悪なものは溶融し消滅してしまうのです。ここに至って、アフラ・マズダーと他の六つの神々は、最後の儀式を行い、復活した人々に不死性を授与します。

「そして、その後、人間は老いず病まず堕落せず、地上の神の王国で永遠の喜びに満ちるだろう。なぜなら、ゾロアスターによれば、遠くの形のない楽土ではなく、完璧な姿に復されたこのなつかしく愛すべき地上においてこそ、永遠が至福となるのであるから。」

 

「ゾロアスターはこのように、個々の審判、天国と地獄、肉体のよみがえり、最後の大審判、再結合された魂と肉体の永遠の生ということを初めて説いた人であった。これらの教義は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に採り入れられて、人類の宗教の多くにおいてなじみある項目となった。しかし、これらのことが、十分に論理的一貫性をもっているのは、ゾロアスター教においてだけである。」

「というのも、ゾロアスターは、肉体を含む物質的な創造が善であることと、神の正義のゆるぎない公平さをあわせて主張したからである。彼によれば、個人の救済は、その人の考えや言葉や行動の総量によるもので、いかなる神も、同情や悪意によってこれを変えるよう介入することはできない。そのような教義の上に『審判の日』があると信じることは、充分に畏怖すべき意義をもち、各人は自分の魂の運命について責任をとるだけでなく、世界の運命についての責任も分かたなければならないとされた。ゾロアスターの福音は、このように高尚で努力を要するものであり、受け入れようとする人々に、勇気と覚悟を要求するものであった。」

 

以上が、開祖である預言者ゾロアスターの唱えた教えです。まことに立派な、尊敬すべき教えではありませんか。少なくとも、人間はみな罪人であると決めつけるような宗教、神の前で人間を不完全な弱い存在と見下すような宗教に比べれば、理性的な人間を納得させるものを十二分に持っています。

しかし、ゾロアスターの教えは、当時の人々を怒らせ、惑わせるものがありました。ゾロアスターに従って正義を求めるものはすべて天国に行くという思想は、下層民を死後地獄に行くことを定めた従来の貴族や祭司たちの伝統を断ち切るものでした。たとえ権力者であっても、不正な行いをすれば、地獄へ行き、究極的には消滅するという思想は彼らにとって恐怖というほかはなかったでしょう。さらに、多神教になじんだ人々にとって、唯一神といってよいアフラ・マズダーや、二元論、道徳的な努力を続けることを要求する宇宙的大闘争というような壮大な観念を理解することは難しいことだったに違いありません。

 

自分の知っている人間が、いきなり神からの啓示を受けたと主張しても、普通は誰も信用しないでしょう。「預言者は故郷に入れられず」は、いついかなる時においても真実です。ゾロアスターは10年にもいたる説教の末に、従兄のマイドヨーイマンハ一人しか改宗させることができなかった、ということです。故郷を去ったゾロアスターは、異郷の地で信奉者を見つけました。ウィーシュタースパの王と王妃で、ゾロアスターはこの国で、信者を拡大し、教団としての礎を築くことができました。

 

ここで、ゾロアスター教徒に課せられた義務を紹介しましょう。常に心に留めておかねばならないのは、善い考え、善い言葉、善い行動、という三つの義務で、これがこの宗教の看板となっています。信者は、クスティーと呼ばれる羊毛の紐を白い下着の上に結び、その結び目を祈りの時に解いたり結んだりします。日に五回の祈りが課せられ、その祈りの度ごとに、信者はアフラ・マズダーとともに悪の権化アングラ・マインユと闘うことを誓います。さらに、信者には、年に七回の大祭を祝うことが厳格に決められています。これらの祭りでは、信者は、祭式を済ました後に、集会で祝福された食物を全員で食べるのですが、ここでは貧富の差なく、善意が全体に行き渡るように、争いごとが仲裁され、友情が新たに深められるように、十分に楽しく行われます。

 

大祭をこのように楽しむことは、この宗教の特質をよく表しています。というのも、憂鬱や厭世はアングラ・マインユの勝利を意味するのですから、できるだけ幸福であること、楽しいことを表現して、アフラ・マズダーの最終的勝利を先取りしなければなりません。後に、イランを制圧することになるイスラム教とは大違いです。ゾロアスター教徒にとっては、豚肉を食べなかったり、飲酒を禁じたり、女性にヴェールを被せるような宗教はとうてい堪えられないものでした。

ここで、サーサーン朝初期に現れたマニ教との違いを書いておきましょう。宗祖マーニは、天国と地獄、神と悪魔、最後の審判、善の窮極の勝利などゾロアスターの教えの多くを取り入れたのですが、なぜか現世をすべて邪悪であるとみなし、個々人にとって最上の道は、この世を否定し、穏やかな修行生活に入り、独身のまま死ぬことだと語りました。そうすれば、その人の魂は天国へ行くだろうし、地上でのみじめな存在を永続させることもなくなる、というのです。この教えが、シャーブフル一世に暖かく迎えられて、その治世(240-272年頃)の間、保護されていたのは驚くべきことです。マニ教の魅力は、知性の優位にあります。ゾロアスター教の中に仏教の智慧と認識、キリスト教の受難と禁欲を溶け込ませて、壮大なグノーシス的思想を作り上げました。それがアウグスティヌスのような精神と肉体のバランスに苦しむ青年を惑わせたのです。

このような悲観主義はゾロアスター教徒には無縁のことです。ゾロアスター教は、禁欲や苦行も否定し、したがって、聖人という言葉もこの宗教には馴染みません。

 

ゾロアスター教が世界宗教にならず、イランの民族宗教となってしまったのは、メアリー・ボイスによれば、アケメネス朝からサーサーン朝までに、権力者の庇護のもとにあったからです。安定した政治的基盤のもとでは、宗教は祭式や慣習の煩雑さを増し、信者にとっては、宗教の内実が薄められる度合いに比例して祭司への様々な謝礼への経済的重荷がのしかかります。かつての簡素で心のこもった宗教に立ち帰ろうとする運動も、実を結ばないまま、アラブのイスラム教徒に制圧されてしまいます。イスラム教徒の下で、ゾロアスター教徒は改宗させられたり、仕事や生活全般において差別をうけ、あるときは集団的迫害・虐殺も経験しました。しかし、カリフの勢力から遠いイランのこの地では、イスラム教自体がペルシアの民族宗教、なかんずくゾロアスター教を取り入れて、やがて来るべき救世主や悪との宇宙的闘争などの観念に強く影響を受けていきます。それがシーア派で、彼らはペルシアの王女との結婚などで血筋的にも色濃くペルシア化されてしまいました

 

この時期にゾロアスター教は、イランに残った者も、インドのムンバイ近くに移住したものも、少数者として結束し、苦しい時期を生き抜いてきました。裏切り者に対して長老たちが下した厳しい裁決にたいして、メアリー・ボイスは、「穏やかとされるイランやインドのゾロアスター教徒が、もしその性格に石のように堅固なところを持っていなかったならば、あらゆる差別を受けながら、宗教や生活を守ることはできなかっただろう」と書いています。

ゾロアスター教は現在でも全世界で十数万人がその宗教を守っているといわれますが、勤勉で、俗的成功を求めることを躊躇せず、その富を仲間ばかりでなく公的な幸福に寄与しようとする態度を保っています。信者数が増えないのは、原則として両親(最低限でも父親)がゾロアスター教徒でないと入信できないからで、もし、この厳しい条件を続けていくなら、消滅するか、近親結婚で衰退していくでしょう。

 

ゾロアスター教徒というと、もう一つ、鳥葬、あるいは風葬という慣習を忘れることはできません。水、火、土はゾロアスター教徒にとって、天や植物や動物とともに神聖なものです。汚れを水で洗ったり、ゴミを火で焼いたり、土に埋めることは、水や火や土に対しての冒涜になります。死はアングラ・マインユの勝利として、もっとも忌むべきもので、遺体はそれに触れることも避けるべきことであり、よって、死者を土葬したり、火葬したりすることは最大の罪の一つとされます。

街中に住むゾロアスター教徒は、風葬の場所がないので、天井を大きく開けた石造りの塔を建てて、そこに遺体を安置します。それでも、ハゲタカに遺体を食べさせるとは、野蛮な風習であることに変わりはなく、さすがに、現代のゾロアスター教徒は、(ハゲタカも少なくなったので)この風習を存続させてはいないでしょう。

 

さて、この宗教が私たちの人生にもつ意味はどのようなものでしょうか。「善教」と言われるとおり、ある意味で非常に感動的な宗教であると思います。ゾロアスター教にとっては、この世における被造物の苦しみは、絶対者のもたらしたものではなく、対立霊による災害であると規定しているのですが、悪を、誰のせいでもなく、(むろん原罪などでは全くなく)、克服すべき、そして克服できる対象としてみなしていることは特筆すべきです。

ニーチェのツアラトゥストラは、まさにゾロアスターの観点から下した近代の病の診断と処方とみなすこともできるでしょう。

 

メアリー・ボイスの『ゾロアスター教』(山本由美子訳・筑摩書房1983は、なかなか入手しづらい本でしたが、なんと講談社学術文庫から再刊されました。この宗教については、日本人のすぐれた研究もたくさんありますが、書物としてはボイスの本が最も読みやすく理解しやすいと思います。ところで、私は最近、ディケンズやドストエフスキーのように、制度や政治をいくら変えても人間社会はよくならないのではないかと思うときが時折あります。どんな政治制度の下においても、うまい汁を吸うのは卑劣な人間であるように思われます。毎日、テレビに映る政治家連中の卑しい顔を見ると、その卑しさが地方都市の議員たちや校長たちの厚顔無恥な顔と重なるのですが、実際、彼らには生きることの含羞のようなものが欠けています。といって人間は変わることができないとしたら、救いは理性よりも宗教の方にあるのではないでしょうか。それはむろん、人々を不幸にする宗教ではなく、他のどんな宗教ともちがう宗教なのですが、、、。

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2010年3月 1日 (月)

ロマン・ロラン『どこから見ても美しい顔』

1月は、秋の旅行のための貯金をしようと思って働きすぎたようで、2月に入ってすぐに体調を大きく崩してしまいました。直接的には、妻に誘われて映画『アバター』を観にいって、その後すぐに気分が悪くなったのですが、どうも3Dの眼鏡をかけて2時間半も座っていたのが苦しかったようです。翌日から仕事に出る以外は家でほぼ寝たきりの毎日を送ることになりましたが、あれこれと考えることは、悲観的な、先行きの暗いことばかりで、インターネットにも全く興味を失い、元気な時にもっと真剣に生きていればよかった、などの後悔もする始末です。ところが、2月後半から急に暖かくなると、体力は劇的に回復し、嘘のように元気になりました。 ほっぽっておいたブログも、そろそろ更新しなければと思うのですが、一冊の本を丁寧に読み込む気力はまだありません。されば、ブログを始めた頃のように、あてずっぽに書き始めてみようと思います。

 

 モンテーニュ『エセー』第二巻十七章は「自惚れについて」と題されていますが、話題はいつしか人間の外面的な美しさに移っていきます。「美は人間の交際にきわめて重要な特質である」として、アリストテレスの「エチオピア人やインド人は王様や長官を選ぶのに美貌と背丈の高さを重視した」という言葉を引用します。「プラトンも彼の国家の統治者には節制と勇気とともに美貌をも要求した。」そして、モンテーニュにはきわめて珍しく、聖書から「主は人の子らよりも美しい」(詩篇45-3)という言葉も引用しています。彼自身については、「私はいたるところで美の神々に見捨てられる」と書き、「私は背丈が普通よりも少し低い。この欠点はみっともないばかりでなく、公職にあって命令を下すものにとって特に都合が悪い。なぜなら、立派な風采と堂々とした体格からくる権威に欠けるからである」と嘆きます。確かに、「自然の私に対する扱いは不公平で不親切だ。」それは、女性が自分に対してとる態度を見てもわかります。第三巻五章では、ついに抑えていた不満が噴出します。

 「私は、しばしばわれわれが彼女らの肉体の美しさに免じて彼女らの精神の弱さを許したのを見たが、彼女らのほうでわれわれの精神がいかに賢明で成熟していようとも、その美しさに免じて、少しでも衰えかけた肉体に好意を示そうとしたのを一度も見たことがない。」

 

 しかし、大事なのはユーモアをもって人生に対処することです。ギリシアの偉大な将軍フィロポイメンは、自分の部隊よりも先に予定の宿に着いてしまったのですが、彼と面識がなく、相当に醜男の彼を見た宿の内儀から、いま女たちが水を汲んだり火をおこしたりしてフィロポイメンをもてなす用意をしているから、手伝いをするように、と命じられました。お供の戦士たちが到着して、この結構な仕事にたずさわっている将軍を見て(彼は忠実に言いつけられたとおりしていました)、いったい何をしておいでかとたずねると、フィロポイメンは「醜男の罰金を払っているところだ」と答えました。

 

 1966年、パリで、ロマン・ロラン生誕100年を記念して編まれた書簡集の編集者は、その表題に、ロマン・ロランのメモから発見されたモンテーニュの数語を採りました。Une ame a la vieille marque ,une ame pleine et qui monterait un beau visage a tout sens.(Une Essais de Michel de Montaigne 2-17)「古代人の面影を残しているその魂、まことに充実しどこから見ても美しい顔を示すその魂」(第二巻十七章)これはモンテーニュの親友、31歳で死んだエチエンヌ・ド・ラ・ボエシについて語ったものですが、書簡集の編集者たちは、60年にわたる書簡を通じて浮かび上がるロマン・ロランの姿が、このモンテーニュ描くラ・ボエシの肖像に相似していると思ったわけでしょう。

 

 『どこから見ても美しい顔』Une beau visage a tous sens, Choix de letteres de Romain Rolland 1886-1944(宮本正清訳・ロマン・ロラン全集36)には、208通の書簡が収められ、母(5通)、妹(3通)、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークと前妻クロチルド(2通)宛て以外は、一人一通ずつに限られています。高等師範の学生であった20歳の時に、ルナン、トルストイなどに送った手紙から始まり、78歳の死の直前まで書かれた手紙は、その半分以上は世界中の無名の人々に向けて送られたものです。

 

 この書簡集に寄せた序文で、アンドレ・シャンソンは次のように書いています。

 「ヌヴェールやブルゴーニュで過ごした幼少時代からブルゴーニュの住民およびヌヴェール人に再び迎えいれられる最後の数年まで、これらの手紙は、ロマン・ロランの長い人生の道中に提出された問題のいくつかをわれわれのために蘇らせた。若い彼が世の中に入ったときに垣間みた最初のいくつかの問題をここに再び発見しよう。そしてまさにこの世界から離れて行こうとしている者が、音を弱めて演奏する最後のオルガン曲まで彼の生涯について行こう。これらの最後の手紙は大きな出来事の悲哀に満ちているが、しかしそれらの手紙を通じて、死の数日前に、『私たち信仰者でないもの』が、信仰という言葉によって何を言いえたかを定義しようと試みたのち、『私は信頼している・・・』と書くことができた者の不思議な悦びがある」

 

 1887年、高等師範の学生であったロマン・ロランは、当時60歳のトルストイに手紙を書きました。トルストイの芸術論、とくに芸術を悪の華として労働よりも下位におく考えに対して、自分はただ芸術によってのみ矮小な自分の人格を打ち破り、無懊悩の、死さえも越える境地に至るのだが、そのような芸術さえも否定するのか、と問い詰めたのです。「先生、私が間違っているかどうか、どうして間違っているかおっしゃって下さい」という悲痛な調子の手紙に対して、トルストイは見事なフランス語の筆跡で返事を返してきました。彼は、芸術にも許容できるものがあるが、それは真の芸術だけであって、その見分け方は、その芸術家が、地上の幸福を犠牲にして、貧窮、孤独、懐疑、一般の無理解などの試練を経ているかどうかにある、と言明したのです。

 

 ロマン・ロランの生涯の基調は、いわばこのトルストイの言葉によって形づけられたといってよいでしょう。その理想主義的な国際平和論、その楽天的な人間への信頼、言葉の端に染み出る民衆への軽蔑、寛容さの裏に隠された異質なものへの強い嫌悪、などにもかかわらず、彼の一貫した禁欲さ、自分を何かの犠牲にしようとする努力は否定しようもありません。彼は自分や自国の利害を優先して考える人間を嫌いました。「私は魂においては国際主義者です。諸国民というのは、芸術家にとっては、存在でもなく、魂でもなく、政治的諸形態にすぎません」(エルンスト・ローベルト・クルティウス宛1921年) 「私は国家や人種の垣を全く認めません。人間の多様性というのは、私にとっては、お互いに補い合って、両面の豊かさをなすニュアンスに過ぎません」(キン・ユー・ユー宛1924年) よって、国家的利害が衝突する戦争に彼が反対したのも当然です。第一次大戦で、ロマン・ロランは、ジュネーブの国際赤十字の下で戦争捕虜の身元照会のために奔走しました。1916年に手に入れたノーベル文学賞の賞金の全額をこれらの社会奉仕のために捧げたことはやはり信念がなければできないことでしょう。しかし、そのために、フランス国内では、彼の本は禁書となり、非愛国者として糾弾されることとなりました。

 

 ロマン・ロランについて、もう一つ特徴的なのは、(そして、これがまた彼をフランス人から引き離すのですが)その独特の宗教観です。「私は世界でただ一つのことを愛します。『信仰』です。しかし私は、この信仰という名称のもとに、たんに宗教的感情のみならず、魂の永遠の生命全体、生命の奥底において不滅であり、神的とあると私が感じるいっさいをさし示しているのです。なぜかというと、私は実際の不滅性を、むしろ一つの永遠性を信じるからです」(オーギュスト・ブレアル宛1898年) 「宗教に関するあなたの分析は正当です。しかし私にとって、はるかに好ましいのは、自発的な宗教感情、あるいはもっと正確に言うなら、いわゆる宗教とは全くちがった、はるかに永続的な宗教感覚について分析をなさることです。私が言いたいのはーいっさいの教義、いっさいの信条、いっさいの教会組織、いっさいの聖書、死後の個人の永世へのいっさいの希望から全く独立してー『永遠的なるもの』の感覚という(全く永久的でないかもしれないが、ただ大洋のように知覚しうる限界をもたない)単純で、直接な事実のことです」(ジークムント・フロイト宛1927年)

 

 彼のこの感情は、おそらく最も共感されにくかったものではないでしょうか。普通は、曖昧な宗教感情で共感されるものが、ロマン・ロランの場合はきわめて強い感覚であり、戦争への憎しみと同様、ある意味では闘争に近い宗教感情だからです。宇宙的ともいえるこの感情の、地上における顕現は彼の英雄賛歌によく表れています。苦悩を通しての歓喜、地の苦しみの後の荘厳な感情、それは、この世のあらゆる不正にもかかわらずその情熱で人々を救うのです。ベートーヴェンやトルストイやミケランジェロは、ロマン・ロランにとって崇拝の対象であると同時に乗り越えられない境でした。ところで、ロベスピエールへの彼の共感は、等身大の、それゆえその生涯への愛惜に満ちています。「ロベスピエールがそうであったように、フランスの田舎の立派な中産階級の者で、きちょうめんな、規則正しい生活と知性的習慣の中で成長した男、穏健な聡明な精神を持った人のことを考えてごらんなさい」(アンナ・マリーア・クルティウス宛1927年) ロベスピエールは「ミラボーを荒廃させたあの恐るべき情熱に苦しめられることもなく、真にきわめて高い、きわめて純潔な(なんの偽善もない)道徳的感情を有し、その時代の風俗や言語がもっていた、信じがたいほどの厚顔無恥を生まれつき嫌いました。そして元来宗教的で、いっさいの教会の諸形式から離脱していました。忘れてならないのは、ロベスピエールはフランス革命がヨーロッパに対して戦争をしたことに、もっとも断固たる反対者だったことです。」(同) これはまさにロマン・ロランの精神そのものです。

 

 書簡集の最後の数ページを占めるのは、死を前にして、隠棲しているヴェズレーの地から発せられた幾通かの手紙です。ドイツ軍の占拠にもかかわらず、ロランはヴェズレーで奇跡的に生き延び、死の二ヶ月前に解放されたパリを訪れることができました。「この美しいパリを見ることができ、この美しさが危うく消滅するところだったと思いますと、いかばかり感動したことでありましょう。ペギーがいたら、聖女ジュヌヴィエーヴ(パリの守護聖人)の奇跡が再現したと言ったことでしょう」(ベルギーのエリザベト女王宛1944) 生前に出版された最後の本『ペギー』で、彼はこの戦場に仆れた親友について長々と語っています。

 「友よ、私が死んだら墓に柳を植えておくれ」というミュッセの有名な一節を引用して、ロランは、しかし自分が死んだら、その墓の傍らには日の照る一本のオリーヴの木がほしい、と書きました。「私はつねにもち続けていました、一生、私の二十歳の頃のイタリアへの郷愁を」(ヘルマン・ヘッセ宛1936年) イタリアは彼の永遠の恋人、美しいソフィーアに出会った地であり、「ローマ人」と名付けられた彼の心の故郷だったのです。

 

 さて、ロマン・ロランといえば、『ジャン・クリストフ』ですが、このような青年の成長物語(広い意味で教養小説とよべるところの)は、なかなか現代では素直に読み込むことはできないでしょう。主人公が、さまざまな経験を通じて自分を鍛えていくという構図は、人間が成長していくということ、いつかは高みに達するのだという楽観と傲慢に裏打ちされているともいえます。この小説はペギーの『半月手帖』に順次発表されたのですが、小説自体も、読者が一巻ずつ発表されるごとに読んでいくことで、作者と主人公の弱さ、分別のなさ、などに許容的態度で臨むことができるようになっています。だから、プルーストが、もし『ジャン・クリストフ』が全巻まとめて発表されたら誰も読めないだろう、と言ったのはある意味で正しいのです。また、20世紀の小説にしては、トルストイ的な、人物を作者の観念の一部のように動かしていく方法が古くさくも感じられます。ロマン・ロランがプルーストを嫌ったのも、あらゆる出来事も主人公を社会に開かせず、最後にはコルク部屋にこもってしまうような小説を退嬰的(ロランのもっとも憎みそうな言葉です)とみなしたからでしょう。

 しかし、R.M. アルベレスが書いているように、感動を生み出すことより、感動から出発することこそ作家の誠実さを表すのですから、たとえコルク部屋に引きこもることが作家の運命であるにしても、プルーストの数ページの方が『ジャン・クリストフ』全巻に増して心に迫るように思われます。

 

 ロマン・ロランほどのスケールの作家は、さまざまな面を読者の前に提示することができます。みすず書房から刊行された42巻の全集から私の好みの作品を紹介しましょう。まず、『ラーマクリシュナの生涯』(第十五巻)です。信仰の天才ともいえるラーマクリシュナの生涯については多くの本が出ていますが、ロマン・ロランのこの書がもっとも正統的なものでしょう。圧巻は、師トタプリの教えに従って、三昧の境に入ろうとすると、少年時代の彼の瞑想と憧れの対象であるカーリー女神の姿が、生きた実在のように邪魔をする場面です。「とても駄目です! 私は無条件の状態に自分の精神を高め、アートマンと向かい合うことはできません・・・」「何、できない? そうするんだ」 師トタプリは、あたりを見回し、ガラスの破片を見つけて、それをとり、その尖端をラーマクリシュナの眉間に突き立てます。「この尖端に精神を集中しろ。」 その瞬間、ラーマクリシュナは主観も客観も消滅する無分別三昧に落ち入り、三日間屍のように眠るのです。

 

 ロランの小説の傑作は、間違いなく『コラ・ブルニョン』(第五巻)でしょう。ブルゴーニュ人である祖父をモデルにしたこの小説は、ロラン自身の解説によれば、「世界を変形させるとか、それを解釈するとかいううぬぼれをもたないで、政治もなく、形而上学もなく、人生をいいものと思うがゆえに、また自分が健康であるがゆえに人生を笑う」一人のブルゴーニュ人を描いています。彼、コラ・ブルニョンは、彼を襲う幾多の災厄にもめげず、底抜けに明るく、楽天的に世の中を生きていきます。「ペスト」と題された章を紹介しましょう。

 

ブルゴーニュにペストが蔓延して、コラの村の人びとも戦々恐々となってきました。コラ・ブルニョンは、家の女や子供たちを遠い親類の家に疎開させると、独りになってさっぱりし、ペストなど怖くないと豪語しています。村に残った連中は家の戸を閉めて閉じこもっているのに、コラは彼らをあざわらうかのように毎晩村の居酒屋で酒をあおり、放談しています。ある夜、懇意であるグラットパン爺さんと居酒屋で出会い、すっかり意気投合してしまいました。グラットパン爺さんはコラに輪をかけて自惚れで、病気を茶化し、ペストで死ぬやつは病気で死ぬのでなく恐怖で死ぬのだ、などといっています。二人は一時間ほど息を掛けあいながらおしゃべりし、爺さんはいつもの癖で話し相手の手を握ったり、脚をこすったりしていました。翌日、昼過ぎにコラが目覚めると、村の人が来て、グラットパン爺さんがペストで死んだと知らせてくれました。背中がぞっとして、もう何も手がつきません。医者に行こうかと考えたが、銭をとられてペスト患者の隔離部屋に入れられるだけだと思い、「医者にかからなくても死ぬまで生きるだろう」と考えて家にいることにしました。しかし、夕方になって、いよいよ腹や頭が痛くなると、意を決して、荷物をまとめ、葡萄畑の端にある小屋に退去します。家にいると建てたばかりの家が焼き払われてしまうと思ったのです。夜になってさらに苦痛は増し、明け方を迎えるともう床から立つことはできません。寝たまま窓から助けを呼びますが、村人は遠巻きにコラの小屋を囲むだけで、ペストを恐れて誰も近寄ってきません。すると貧しい身なりの捨て子が「ブルニョンさん、何か用があるの?」と窓のところにやってきました。この子は、先日コラの家のサクランボをつまんでいるところをコラに見つかったのですが、コラは怒らずに、「ついでにわしの分もとってくれ」とやさしく声を掛けていたのです。コラは、この子に、遺言を認めてもらう公証人と司祭を呼んできてくれるように頼みました。遺言をつくり、最後の告白が終わると、コラ・ブルニョンは静かに眼を閉じました。サン・マルタン寺院の鐘がなり、瞼の奥には多くの星が強烈な光を放ち始めました。その星を見よう、その星を捉えようと、コラは必死にわめきました。

白ぶどうの種よ、

行っちゃだめだよ!

コラよ、しっかり!

コラがお前をとらえるよ。

ハレルヤ!

村人の話によると、コラの小屋からは一晩中わめくような歌声が聞こえたということです。翌朝、コラはすっかり元気になっていました・・・。私はこの話を読んだ時、ジャック・ロンドンがアメリカを放浪していた時の話を思い出しました。ロンドンは結核を病んでいたのですが、疾走する貨車の上で大きな口を開けて突風を飲み込んでいました。それで結核が治ったのです!

 

さて、ロマン・ロランの最後はやはり、この男ベートヴェンについての書物です。『第九交響曲』(第二十五巻)の中で、ロランは、晩年のベートーヴェンが世界史の研究に関心を抱いていた、と書いています。ベートーヴェンはミュラーの大著『人類世界史』やシュトールベルクの『キリスト教史』を読み、人間史の終末目的という大問題に没頭していたそうです。「彼はシラーとともに、むだなものとなったあらゆる国家の廃絶の方向へー諸世紀をよぎるあゆみのなかで、人間性の運命的な終局たる理性の支配の方向へ国家を前進させるというフィヒテの信仰と希望をわけもっていた。ある日、理性が支配するにいたるとすれば、それは現在からすでに人類をみちびき、教育しなくてはならない。」 そして、ベートーヴェンがその助けにしたのが『サモトラケの神性について』のシェリングでした。インドの神智論についてノートをいっぱいにしていたベートーヴェンが、シェリングのこの書物に深く打たれたことはありそうなことでした。シェリングは、その本の中で、ひとつの秘密教義を明かしています。「その教義は、その深い暗闇から啓示された光への生のたえまない進化を象徴する、重なり合った、あるいは継続しあった四つの神性においてあらわれる。」

すなわち、もっとも深みには、獰猛なケーレス(冥府の下位女神)、貧しくはずかしめられた闇が、ついで、官能の幻影たる冥府の女王プロセルピーナ。三番目にディオニソス、あるいはオシリス、精霊たちの王、慰める者が続き、最後にヘルメス、神を見つめ、下界の諸存在に神を啓示する『歓喜への頌歌』の大天使ケルビムがあらわれます。この四つの象徴が第九交響曲の四つの楽章に照応するというのです。

 「それを信じるためには、まさにそのことを信じようと願わなくてはならない。そしてわれわれにとっては、それは精神の賭けである」 とロランは結んでいます。

 

(ドストエフスキーが未完になっていますが、後に書き継ぎます。)

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