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2010年1月 1日 (金)

V.ローザノフ『ドストエフスキイ研究』(3)

 小料理屋の衝立の奥で、24歳と20歳の二人の兄弟が、はじめて打ち解けて話し合います。子供の時に別れて、そして四ヶ月前に再会してから、早くも永遠に会えぬかも知れない旅立ちの前に、二人が相対するこの場面は、世界文学史上もっとも忘れがたい場面の一つでしょう。この数ヶ月、アリョーシャは、高い教養と強い信念を持つ兄イワンを、非常な好奇心を懐いて観察してきました。兄の方も、また、この期待に満ちた注視に気づいていたのです。

 「魚のスープか何かを注文しようかね。まさか、お前だってお茶だけで生きているわけじゃあるまいからね。」

 「魚のスープを下さい、そのあとでお茶もいただきますよ、ちょうど腹ペコなんです。」とアリョーシャは愉快そうに言った。

 「さくらんぼのジャムはどうかな? ここにはあるぜ。覚えてるかい、お前は小さい時分ポレーノフの家にいたころさくらんぼのジャムが大好きだったじゃないか?」

 「そんなことをよく覚えてますね? ジャムもいただきましょうか、いまでも大好きなんですよ」

 イワンはボーイを呼んで魚のスープと、お茶とジャムを注文した。

 

 誰しも、このような兄弟を持ち、このような心にしみる会話をしたいと思わないでしょうか。二人の話題は、生活の雑事や日々の心労のことなどでは全くなく、まっすぐに神の問題、永遠の問題に進みます。

 「何からはじめようか、神からにしようか?」とイワンが訊ねます。「前世紀に一人の年取った破戒者が、もし神が無ければ創り出す必要があると言ったのだよ。本当に神が存在するということは不思議でもなく、驚くにもあたらないが、このような思想、つまり神が必要なりという考えが人間のように野蛮で、意地の悪い動物の頭に浮んだということが驚嘆に価するのだ。それほどこの考えは神聖であり、それほど感銘すべきものであり、それほど賢明であり、それほど人間の名誉となるものなのだ。」

 

 話の冒頭にさらっと置かれたこの文章は、ドストエフスキーの思想の根底をなすものであり、その態度の独自性は世界文学においても類を見ないものです。すなわち、人間の腐敗と、宗教の神聖です。人生はいかさまポーカーで配られた札である、という観念をドストエフスキーは終生払いきることはできませんでした。「われわれの遊星全体が虚偽であり、虚偽と愚かしい嘲笑の上に立っているのだ。この遊星の法則そのものが虚偽で、悪魔のボードビルなのだ。いったい何のために生きるのだ。仮にも君が人間なら返答してみろ」(『悪霊』)。

 人間の腐敗に対して、鮮やかな対照を示すのが宗教の高貴さです。そこで、人間にとって、この宗教の世界観の中にすんなり入っていくことができれば、必ずや幸福を感ずることが出来るはずです。しかし、普通の人間知性にとっては、神の存在如何がそのための障碍になるでしょう。神など存在しないし、その証拠もないという考えはあまりにも当然のようにも見えます。ところが、ドストエフスキーは、すべて相対的である人間思惟の世界では(すでに非ユークリッド幾何学は知られていました)、神の存在など証明できないし、する必要もない、大切なのは神という概念そのものを思いついたことなのだ、と断言するのです。

 「僕はあっさり白状するが」とイワンは語ります。「僕にはこんな問題を解決する力はひとつもない。僕の知性はユークリッド的なものだ、地上的なものだ。だからこの世のものならぬことをどうして僕が解くことができるかい。だからお前に忠告しておくが、決してこんなことを考えちゃならないんだよ。神はありやなしやなんてことをね。こんな問題は三次元の世界の観念だけで創られた知力じゃ、てんから歯が立たないんだよ。だからぼくは神を承認する。喜んで承認するばかりでなく、神の叡智も、その目的も承認する。」

 

 「・・・・・ところが僕は神の世界を認めないのだ。」とイワンは付け加えました。「それが存在してることは知っていても、それを絶対に認容しないのだ。僕は神を認めないというのじゃない、それはわかってもらいたいな。僕は神の創造した世界を、神の世界なるものを認めないのだ、どうしてもそれを認めるわけにはいかないんだ。、、、僕はまるで子供のように、こんなことを信じているんだ、いつかはこの悩みもいやされ、苦しみもやわらぎ、人間的矛盾のありとあらゆる腹立たしい喜劇も、哀れな蜃気楼のように、無力で小さな人間の醜悪な作りごと、人間のユークリッド的頭脳の一原子として跡形もなく消え去り、ついには世界の終局、永遠の調和の瞬間において、なにかすばらしい価値のある現象が出現するが、それはすべての人びとの胸にしみわたり、あらゆる怒りの心をやわらげ、人間のありとあらゆる悪行、彼らの流し合った血という血をつぐなってあまりあるものなのだ。、、、かりに、かりにすべてがこのとおりになるにしてもだ、僕はこれを認容しない、認容しようと思わないのだ!」

 

 「兄さんはなぜ、この世界を認容しないのか、そのわけを説明してくれるでしょうね?」とアリョーシャが言いました。「もちろんだ」とイワンが答えます。その答えが、ローザノフによれば、原罪と贖罪と永遠の応報を根幹とするキリスト教弁証論の第一部(旧約聖書)に対する批判であり、引き続き展開される大審問官伝説が、人間の愛と自由を謳うキリスト教弁証論の第二部(新約聖書)に対する批判となるのです。

 

 「お前に告白しなければならないことが一つあるのだが」とイワンは話しはじめます。「なぜ己れに近きものを愛することが出来るのかさっぱりわからない。僕に言わせれば、近きものであればこそ、これを愛することが出来ないので、遠いものこそ愛することが出来るのだ。」

 これは、愛の不可能性についての率直な告白です。これに対してアリョーシャは、外側から感ずる人間というのはしばしば愛の障碍となるが、しかし人間性の中にはキリストの愛にひとしいものさえ含まれているというゾシマ長老の言葉を引用します。

 「ところが、この僕はいまのところはまだそんなものにお眼にかかったことはないし、そんなことがあると理解することもできないんだ」とイワンが反論します。「そして数え切れないぐらいの大多数の人間も僕と同じさ。つまり問題は、人間の悪い性質のためそんなことになるのか、それとももともと人間の本性がそんなふうに出来ているためなのかということなんだ。キリストの人間に対する愛なるものは、この地上にありうべからざる一種の奇跡だよ。」

 

 そして、イワンは、「僕は一般人類の苦悩について話すつもりだったんだが、それよりもいっそう単に子供の苦悩のことだけを話そう」と言って、聞くも無残な子供の苦悶の情景を繰り広げるのです。「人間の残忍な行為を野獣のようだと言う人がいるが、これは野獣にとっておそろしく不公平であり、また侮辱でもある。野獣は噛んだり、引き裂いたりはするが、人間のように残忍な真似は出来はしない。人間は自己の残忍さを楽しむ密かな嗜好性を持っているのだ。この特徴は、民族、教養、また未開人、また宗教の如何にかかわらず、すべての人間に免れない。これは人間にとって、永遠に避けられないものである。トルコ人や回教徒や野蛮人は、暴動を起こした際、寸暇を盗んで、他人の苦痛を無限に楽しむ人間最大の享楽を味わおうとするのだが、彼らは小屋に侵入し、乳飲み子を抱いて狼狽している母親を探し出す。彼らはあやしたり笑ったりして見せて、赤ん坊を笑わせようとする。そしてそれがうまくいって赤ん坊が笑い出すと、トルコ人はピストルで赤ん坊をねらう。赤ん坊が嬉しそうにキャっキャっと笑ってピストルを取ろうと手を伸ばすと、その瞬間、トルコ人は引金を引いて赤ん坊の頭を打ち砕いてしまうのだ。、、、話をロシアに限ってみよう。教養ある紳士とその妻君がやっと七つになったばかりの自分の娘を鞭でひっ叩いている。父親は節のある杖を選んで「この方がよく利くだろう」というのだ。子供の泣き声は激しく血を沸き立たせる。一分間打ち、五分間打つと子供は「お父ちゃん、お父ちゃん」と喘いで泣き叫ぶのだ。別の事件では、名誉も教養もある官吏夫婦が、どうしたことかやっと五つになる幼児を憎んで、これを叩き、足蹴にし、挙句の果ては寒い季節に一晩中便所の中に閉じ込めるまでになった。それもこの娘が大便を知らせなかったというにすぎない。(天使のようにすやすや眠っている五つやそこらの子供が大便を知らせることができるとでも考えているのであろうか)そのためその娘は顔に大便を塗られ、無理やりに大便を食べさせられたのだ。そのうえ母親は穢い場所に夜中じゅうとじこめられた哀れな娘の呻き声を聞きながら寝ていたんだ。」

 

 「これがわかるかい? 自分の身にどんなことが起っているかということさえ理解できないがんぜない子が、真っ暗で寒い不浄な場所で、小っちゃな拳を固めて、弱りきった胸を叩いて、悪気のない素朴な涙を流して、『神ちゃま』に助けを求めているんだよ。お前はこの馬鹿げた話がわかるかい? わが友よ、弟よ、お前は神のおとなしい聴聞者だ。こんな馬鹿なことが何のために創られたのかわかるかい? こんなことがなければ善悪の識別ができないので、人間は地上に生きて行けないのだという人もいるが、いったい何のため善とか悪とかいうつまらないものを識別しなけりゃならんのだ、それだけの値打ちがあるというのか? よしんばそれだけの値打ちがあるにしたところが、認識の全世界を賭けても、子供が『神ちゃま』にささげた涙ほどの値打ちもありゃしないのだ。」

 

 そしてイワンは結論を語ります。「いいかい、僕は最もはっきりさせるために子供のことだけを例に挙げた。この地上の表皮から核心まで潤しているその他の人間の涙というものについて僕はもう一言も語らない。僕は南京虫みたいな人間だから、何のためにすべてのものがこんな具合になっているのか少しも理解できない。苦痛はあるが罪人はいない、すべては直接簡単に次から次へ移り、一切のものは流れて平衡に保って行くということを知るにすぎない。、、、こんな妄言に従って生きて行くことは僕にはできない。、、、僕に必要なのは応報だ。しかもその応報が無限の中でいつかは何処かで与えられるというのでなく、この地上で、僕自身の見るところで与えられなくちゃならないのだ。もしその時、僕が死んでいたのなら、僕を復活させてもらうのだ。僕が苦しんだのは、自分自身の体や僕の悪行や苦悶を肥料にして、どこの誰とも知れぬ奴のために未来の調和を培うためじゃないんだ。鹿とライオンが仲良く横たわっているところや、切り殺された奴が復活して、自分を殺した奴を抱擁するところを僕はこの眼で見たいのだ。すべてのものがどうしてそうなったかを皆の者が急に知る時、僕はその場に居合わせたいのだ。地上の一切の宗教はこの希望に依存しているのだ。」

 

 「すべての人間が苦しまねばならないのは、苦しむため、つまり苦痛をもって永遠の調和を贖うためであるとしたら、なんのため子供までそこへ引っぱり出さなければならないのだ。お願いだから教えてくれ! 何のため子供たちまで苦しまなければならないのだ? 何のために彼らまでが材料になって、その身を肥料にして、誰とも知れぬ奴のために将来の調和を培わねばならないのだ? だから高い調和なんて、臭い小屋の中で自分の胸を小っちゃな拳で叩きながら、贖われることのない涙を流して、『神ちゃま』に祈りをささげた哀れな子の涙の一滴ほどの値打ちもないのだ。それほどの値打ちもないのだ。というのは、この子の涙は永久に贖われることなく打ち棄てられたからだ。この涙は贖われなければならないのだ。でなければ調和なんてものはあるはずはない。しかし、何をもってそれを贖うのだ? それが果たして可能であろうか? 復讐によって贖うべしだろうか? しかし復讐など何で必要なんだ。迫害者にとって地獄が何だというのだ。すでに苦しめられた者がいるのに地獄が何の役にたつというのだ? 地獄があるところに何の調和があるというのだ。僕は赦したいのだ、抱擁したいのだ。人がこれ以上苦しむのは真っ平だ。それに、もしも子供の苦痛が真理の贖いに必要な苦痛の量を補充するために使われるのだとするなら、一切の真理もそれだけの値打ちはないのだと、僕は前もって断言しておく。調和というものに、そんなに高い値がつけられているので、そんな高い金を払って入場することは僕の懐具合がゆるさない。だから僕は入場券を至急にお返しするよ。ねえアリョーシャ、僕は神様を認めないわけじゃないのだ。僕は謹んで入場券を神様にお返しするだけなのだ。」 

 

 「それは謀反です、とアリョーシャが眼を伏せて、小さな声で言った。」

 ローザノフは、「これは一人の人間が一生の間に漏らした最も苦しい言葉である」と書いています。「神を否定はしないが、その顔を神からそむけているのである。これほど貴重なものが彼のうちで顚覆し、これほど聖なるものが汚辱されるのである。」

 ローザノフによれば、人間の宗教的観念というものは、人間の運命を固定する三つの支点によって支えられています。すなわち、それは、原罪の行為、贖罪の行為、そして善悪に対する永遠の応報、つまり真理の最後の勝利という行為です。そして、これがキリスト教弁証論の第一部たる旧約聖書の根本思想であり、イワンの批判はその土台を揺るがせようとするものです。ローザノフの要約によれば、イワンの思想は、宗教にとっての表面的な根拠、原罪、贖罪、永劫の審判が存在しないがゆえに、実際に宗教が存在しないということ、宗教は絶対に不可能であることを表明しているのだそうです。

 

 しかし、ことは宗教に限ることではありません。出来事はすべて相応の原因があり、悲惨な結果も何かのためになるのだ、という言い訳は一般的なものです。だからこそ、人類は戦争、災害、飢餓、疫病、完全な国民性の破壊といった出来事に堪えられるのです。ローザノフが言うように、これらの事件に人類が堪えられるのは、こうしたものの中に人間の真の実体があるからです。人間は、こうした出来事を通じて共同体の共通認識を作り出していくのですが、それが物語的な存在としての人間の宿命なのです。そして、この基底を揺り動かそうとしたり、その規定を修正するようなものには本能的憎悪を抱いていくようです。史上行われた一切の宗教迫害はそのようにして説明できる、とローザノフは書いています。

 

 イワンの投げかけた問いと訴えは、その意味で画期的なものです。「ここには神によって導かれるこの道を人間が歩み続けることの不可能さが語られている。」そして、「ここでは、人間のうちなる神性、つまり人間の中にある真実と人間の価値に関する人間の自覚が神に立ち向かったのだと言うことができよう。」とローザノフは書いています。

 

 「それは謀反です。」と言ったアリョーシャの叫びに答えて、イワンが肺腑を抉るような声で語ります。

 「謀反だと? お前からそんな言葉を聞きたくはなかった。、、、きっぱりと言ってくれ、お前に要求するんだ。返事をしてくれ。まあ仮にお前自身がだね、窮極において人間を幸福にし、それから平和と安静を得る目的で人間の運命の建物を築くとして、そのためにはほんの小っぽけな生物、例えば、例の小っぽけな拳を固めて自分の胸を叩いたあの子でもよい。必ずこの子を苦しめなければならない、またこの子の贖われざる涙の上にでなければ、この建物を建てることが出来ないとしたら、お前はこの建物の建築技師になることを承諾するかい、さあ、本当の気持ちを言ってくれ!」

 「いいえ、承諾しません」と、アリョーシャは低い声で言った。

 「お前がその建物を建ててやった人々が、小っぽけな受難者の償われざる血潮の上に築かれた、自分の幸福をぬけぬけと受け取って、永久に幸福な生活を続けるというような観念を、許容することが出来るかい?」

 「いいえ、出来ません」

 

 この劇的な場面について、ローザノフは次のように解説します。返答に逡巡のあるはずはない。もし、「そうです。私は甘受する」と言うなら、たちどころに人類は転落する。否定の答えこそは、永劫の調和の拒否を肯定し、是認するものである。神そのものに対して反逆するという問題は、帰するところ、かくも偉大にして高貴な人間の良心の特徴であり、この特徴のみが、この特徴の所持者に、酷薄な本性を乗り越えさせ、慈悲深き神へ高めるのである。しかし、そのため、一切のものは混沌に陥る、と。

 

 アリョーシャは困惑したが、急に目を輝かせて、言い出しました。

 「兄さん、あなたは今、赦すという権利を持ったものがこの世にいるだろうかっておっしゃいましたね。ところが、そうした者がいるのです。その者は、すべてのことについて、すべての人を赦すことができるのです。というのは、その人はすべての人に代って、すべての事について、自分の無辜の血を流したからなんです。あなたはその人のことを忘れていたんです。ところがその人の上に、その建物は築かれているんです。」

 「ああ、それは罪なき唯一人の人とその血だろう」と言ってイワンは、答えの代りに、これらの問題を考えた際、彼の脳裡に描き出された一つの伝説を弟に話して聞かせようと言いました。アリョーシャが耳をそば立てたので、イワンは語り始めました。

 

(あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 ドストエフスキーの続きは気の向いたときに書くことにします。さすがに疲れてきました。)

 

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