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2009年12月23日 (水)

V.ローザノフ『ドストエフスキイ研究』(2)

 それは大変な時代でした。19世紀後半のロシアは、無政府主義者たちの陰謀、政府の動揺、新聞の喧々囂々の声、いましも新社会への願望が成就されそうになっていたその時に、二人の作家が、一切のものに逆らって高々と自らの声をあげたのです。表面的な革新勢力の最高潮期に、生活と人間についての一切の内面的なもの、宗教的なもの、神秘的なものなどが、無条件に否定されていたその時に、この二作家はあらゆる表面的なものに一顧の価値も認めず、内面的なもの、宗教的なものへ進んだのです。最初のうちは、社会も二人の言葉に驚愕もし、憤激もしたのですが、ついにはこれに魅せられて、先ず個々に、次には群れとなって、これまでとは反対の方向に引きずられていったのです。

 

 小説『アンナ・カレーニナ』で、レフ・トルストイは、悲哀感、生活への憎悪、人間の宿命への憐憫を描きました。そこでは人間が設けたのではない道を一たび踏み外した人間は、どのようにもがいてみても恐ろしい滅亡は避けられないと教えているのですが、それはトルストイにとって晩年の苦悩への序詞にすぎなかったのです。彼は疑惑から信仰へ、また信仰から疑惑へと再転しながら、自らの懐疑説の否定を求めていました。

 一方、ドストエフスキーは、『カラマーゾフの兄弟』で、死に瀕した人々の間に生まれる新生活の神秘の誕生を描こうとしました。老カラマーゾフは、死と腐敗の象徴であり、当時のロシア社会そのものを表していたのです。精神的規範の欠如、その結果として、一切のものに対するあくなき貪婪、相手が誰であろうと忠言をもってのぞむ者に対しては容赦なく浴びせる不遜きわまる嘲笑。腐敗しかかった屍から漂う悪臭の中から彼の一族が生まれ出ます。三人の息子と一人の庶子には、対立法則に伴う内部的連関を見ることができます。長子ドミートリィと末子アリョーシャは肯定と生命を代表し、イワンとスメルジャコフは否定と死を体現しています。ドミートリィがアリョーシャに惹かれると同様に、イワンとスメルジャコフの間には切り離せないものがあります。

 

 長男ドミートリィは、全編中もっとも興味深い人物です。一人の女性をめぐって父親と争い、彼女を得るためにぼろぼろになって奔走する姿は強く胸を打ちます。ローザノフは、カラマーゾフの登場人物はすべて過去のドストエフスキー作品に例があるが、ドミートリィだけは新しい人物である、と書いています。ドストエフスキーが、なぜ、生涯の最後に、この粗野であるが高貴なスタンダール的な情熱家を創造したのか、その理由はわかりません。死を決意していたドミートリィは、苦しみを経て、純化され、生命に立ち戻ります。苦しみを一身に引き受けようと覚悟をきめるや忽ち彼は、自分のうちに「新しい人間」を感じ、酷寒のシベリヤへ赴いて、鉱山の地底から「神への頌歌」をうたう決意をするのです。

 ローザノフによれば、ここにこそ作者の強いメッセージがこめられているのです。ドストエフスキーは、たとえ苦しみを嘗めさせても、彼を立派な者にしようという渇望に駆られたが、そこには押さえ難い悪に対する善の優位が、わずかではあるが、まだ人間の心の中に保たれていることの確信があった、というのです。『カラマーゾフの兄弟』を前半とする予定された大長編は、この人間のかすかな再生の希望の端緒を物語る試みに他なりません。

 しかし、腐朽した土地から豊かな芽が生い茂るように、再生への道を描くためには、死と腐敗について考えねばなりません。ドストエフスキーが、イワンとその形骸であるスメルジャコフに託したのは、死と否定と悪の力でした。スメルジャコフは「地上に堕ちて実を結ぶに至らなかった穀粒」なのですが、「人間の本性に宿る悪というものは、もっぱら畸形の中でのみ表現できるというような生やさしいものでないことはいうまでもない。そこには力がある、魅力がある。そしてこれらのものがイワンのうちに集中しているのである。」イワンが、女性から愛されない不幸なドミートリィと違って、カテリーナやリーズの愛をいとも容易に手中にできるのは、この悪の魅力のおかげなのです。

 

 このイワンとスメルジャコフとの驚くべき最後の数日は、両者の第一回、第二回、第三回の会談で伝えられています。「ドストエフスキーひとりがわきまえているあの特別な手法によって、又もや息もつまりそうな暗澹とした一種独特な心理的雰囲気に浸される。そして、まだ何も見ないうちに、まだ事実に突き当たらぬうちに、自然の掟に対する何らかの違背へ、ある罪へ、近づきつつあることから神秘的恐怖を覚え、期待のあまり身うちがぞくぞくしてくるのだ。」

 「何ごともゆるされている」という思想を自分に吹きこんだイワンを責めるスメルジャコフの憎悪の念、異常に暖められた部屋、「聖なる父イサク・シリーナ」という本の代わりに彼の枕元に置かれてあるフランス語の本、狼狽した女主人が語るスメルジャコフの発作ともいうべき狂乱状態。そこにどういう特別な意味があるのか、読者には謎のままです。それから、彼が靴下の間から取り出す札束、それを見てなぜかイワンは恐怖で身震いして壁のほうへ後退するのです。

 

 イワンが苦しんでいるのは幻覚への恐怖であり、おそらくスメルジャコフも同じものに苦しんだと類推できるのですが、ここではなぜかイワンの恐怖しか描かれていません。ローザノフはつぎのように説明しています。悪魔が訪れるのはイワンの部屋の中だが、スメルジャコフにとって、イワンの来訪こそ悪魔だったのだ、殺人を犯したあともあれほど冷静であったスメルジャコフが、イワンの来訪に連れて心理的に追い詰められていき、神の存在をにおわせながら最後にイワンに神の摂理を語るのも、苦しみからの脱却を望むからに他ならない。「われわれは訪問を期待する恐怖こそは、スメルジャコフをも譫妄の混乱に陥れ、彼を自殺に導いたのであるといわねばならない。世の常の人間と同じく比較的小さな苦しみの斜面で足を滑らせたのだ。彼にとって首を縊るという肉体的苦痛に堪える方が、彼を苦しめる幻覚の氷のような接触をいま一度感じるよりは楽であったに違いない。」

 

 二人が幻覚に苦しめられる理由は、彼らがある規を越えてしまったからです。彼らは、自分たちが自然の掟をこえたのだと思っており、それが息苦しくも暗い闇に彼らを誘い込むのです。ただし、ここで乱された自然の掟は『罪と罰』のそれよりははるかに深く、犯罪者を取り囲む雰囲気ははるかに緊迫しています。「だからラスコーリニコフは自殺しなかったのだ。彼にはまだ生きる余地があったし、数ヵ年の贖罪の後、彼はその雰囲気を脱して、光に、太陽に向かって進んだ。スメルジャコフには生きる余地がなかった。」

 

 ここで、ドストエフスキーの秘密を垣間見ることができます。彼はただ幻覚を描こうとしただけでしょうか。その口調には真の確信が秘められたのではないでしょうか。『罪と罰』でスビドリガイロフが語る「病的な状態においてその片鱗を見せてくれる別世界」についてのデリケートな想像はドストエフスキー自身の思想ではないでしょうか。ローザノフは、ここでゾシマ長老の口から語られる言葉を引用します。

 「この地上においては、人間から隠されているものはおびただしくあるが、その代わり、われわれはより高い他の世界と生きた連結関係をもっているという貴い神秘的な感覚を与えられている。そのうえわれわれの思想感情の根源は、この地になくて他の世界にある。だから事物の本質をこの世界で理解することは不可能である。神は種子を他の世界から取ってこの地上に播き、ご自分の園を作られたのである。かくて生長することの出来たものは悉く生長した。そして生長したものは現に生きているが、それは神秘な他の世界と接触しているという自己の感情によってのみ生きているからである。もしもお前の中にあるこの感情が衰えるか、全然ほろびてしまうかしたならば、お前の内部に生長したものも死滅する。そうなればお前は人生に対して冷淡になり、人生を憎むようにさえなる。」

 

 「そこに含蓄された意味の深さからも、心像の美しさからも、また信念の強さからも、驚嘆すべきこれらの言葉は、事物の潜在的真実に最も近く合致しているようである」とローザノフは書いています。ドストエフスキーが、この別世界への通り道を犯罪者の意識の中に求めたことは間違いありません。「罪を犯すと同時に、われわれの観念および感覚のこうした朦朧たる源の一つが明らかになり、忽ちにして、われわれの眼前に宇宙とその中の一切の精神を結ぶ精神的な糸が現れる。生と死の法則はそれを踏み越えた途端に彼に感得され、彼はこれらの糸の一つ一つが一ヶ所で断ち切れ、そして断ち切れるとともに不思議にも自分が亡びたことを感ずる。彼を亡ぼすもの、断ち切れた瞬間にはじめて感得されたものそれ自体が『彼の触れる別世界』である。」

 

 このことは次のような例で明らかになるでしょう。罪を犯すまでは虫けらのように震えていたスメルジャコフが、一たん罪を犯したとなると、さながら権力者か主人のようにイワンに話します。罪を犯す前には、多くの人間の中の一人だったラスコーリニコフが、犯罪の後ではそこら辺りの人間の水準をはるかに抜きんでてきます。スビドリガイロフがラスコーリニコフと対等に話すのは、彼もまた殺人者だからに他なりません。ここで、作者が『カラマーゾフの兄弟』の最初に掲げた題詞(ヨハネ書第十二章二十四節)「誠に実に汝に告げん、一粒の麦もし地に落ちて死なずば唯一つにてあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし」の意味がわかるのです。生を死から分離することはできず、死がなければ生は絶対に行われないということなのです。

 

 「堕落、死、腐朽、これらのものは、より優れた新生命への保証にほかならない。われわれは歴史をこのように見なければならない。われわれの周囲の生活に腐敗要素があるにかかわらず、この見解に従うべきである。この見解のみがわれわれを絶望から救い、一切の信仰の終焉が迫ると思われる瞬間に於いてさえ、強固な信仰を貫かせることが出来るのである。時の流れを導く真に強い力となるものはこれのみであって、弱々しく瞬くわれわれの智慧の光りや、われわれが歴史を埋めようとしたところで、いささかもそれを動かすことのできないわれわれの恐怖や憂慮なぞでは断じてないのである。」

 

 これが、曖昧さをかなぐり捨てたローザノフの結論です。この『ドストエフスキイ研究』について、「ローザノフの口を借りて、ドストエフスキー自身が語っているようだ」とベルジャーエフは書いているそうですが、それが真実なら、『カラマーゾフの兄弟』は真の信仰に立ち帰るためのドストエフスキー自身の信仰告白とも言えるかも知れません。もっとも、この「前編」では、もっぱら死と腐敗が描かれ、新しい生活への希望はただ表面的にしか描かれていません。とはいえ、この課題の入口に立つものが偉大な構想のもとに成し遂げられた「大審問官の伝説」なのです。

 

(補遺)イワンとスメルジャコフの対話については、ミハイル・バフチンが興味深く説明しています。この対話全体を支配する謎めいた雰囲気は、二人が明確に自分を知らないからで、イワンはスメルジャコフの言葉によって自分の深層構造に気づき、スメルジャコフはイワンに語ることで、本当の自分をさらけだしていきます。このようなことが説明できるのは、彼ら自身が内部で分裂し、内部で自分自身と闘っているからです。バフチンによれば、イワンの分裂は、父の殺害が、自分の意志の外で、しかも意志に逆らって起こることを欲していたことにあるので、それがスメルジャコフとの対話であらわになったというのです。

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