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2009年9月21日 (月)

アドルノ『アドルノ 文学ノート1』

 『アドルノ 文学ノート1』(みすず書房・三光長治他訳)の全訳(2は九月下旬発刊)がついに刊行されました。「1」の目次をぱらぱら見てみると、「抒情詩と社会」「ハイネという傷」「アイヒェンドルフの思い出のために」などの魅力的な題名の論文が並んでいます。どこから読み始めようか、迷い箸は行儀が悪いですが、しかし、浅草寺に参るのに新仲見世や言問通りから入るのは邪道で、やはり雷門から仲見世を貫通して本殿に参詣すべきでしょう。よって、劈頭を飾る圧巻の論文「形式としてのエッセー」から順に『文学ノート』という神殿に踏み入っていきたいと思います。

 

 エッセーはドイツでは評判が悪い、とアドルノは書いています。なぜか。それは、まず、ドイツでは形式として厳密なものしか受け入れられず、普遍的なもの、根源的なものが優遇されるからですが、しかし、それ以上の理由があるのだ、とアドルノは言います。それは、ドイツでは、ライプニッツの頃から不十分のまま終わった啓蒙が挫折し、ふたたび権威に服従することを本望だと考える国民性が、エッセーという自由な形式を警戒し憎むからだというのです。

 

 ドイツ人が厳密な学問めいたものを好むのは確かで、カント以来のドイツ観念論は、アドルノもその功績を認めているように世界無二のものです。ところが、エッセーときたら、決して始原にさかのぼらず、概念の説明もせず、物事の究極に向っていく素振りも見せません。そもそもエッセーはデカルト『方法序説』のなかの第二の準則、「物事をできるだけ小部分に分割すること」、第三の準則「できるだけ単純なものから出発すること」などをまったく無視しています。エッセーは好きなものから語り始め、だいたい複雑なものから出発し、強いて結論に至ろうとはしないのです。

 そして、この自由で奔放な振舞いがドイツ人の気に入らないところでもあるのですが、それはまた彼らの偽善的な従順さを逆撫でするのです。ドイツでは啓蒙主義がフランスほど徹底できなかった。それはスピノザを受け入れられなかったライプニッツに由来するのですが、ハイネはその啓蒙を徹底することによってドイツ人から白い目で見られたのです(「ハイネという傷」)。その個人主義、その商業主義の身ぶりはドイツ人がもっとも憎むもので、まさにその全部がエッセーという文学形式の中に具現されてしまっているのです。

 

 ところで、エッセーとは何でしょうか。アドルノがそれについて語っているエッセーは、日本で随筆という名で呼ばれている「折にふれて」書かれた雑文とは全く違っているようです。それは芸術作品についての小論ともいうべきもので、アドルノによればサント=ブーヴあたりから始まったとされています。つまり、それはまず偏愛から出発し、愛するものの好ましいところに執着しながら、しかし、その謎を深刻めかした顔で解読したりはしません。優れたエッセーは、ものを考えるのでなく、むしろ、精神的経験を解きほぐすことなく自らを挙げてその場と化します。無常なるものの中に永遠を探り出すのでなく、無常なるものの永遠化を目指すのです。

エッセーは、うつろいゆくもの、滅びやすいものを対象としながら、哲学がついに取り込めなかったものを実現します。すべてを同一性のもとに還元する哲学にたいして、それは根源を問題にしないし、いかなる客観性もよりどころにはしません。むしろ、エッセーの客観性は、その主観性そのものに根拠を持っています。ある意味でエッセーの集積といってよいプルーストの作品は、人間とその社会的連関についてのとりとめのない探求といってよいものですが、その客観性の保証は希望と幻滅のうちに凝集した個々人の経験にあるのです。

余人の追随を許さぬエッセーの大家、ベンヤミンの作品を見てみましょう。『親和力論』が名作中の名作ですが、むしろ彼のエッセーの本領は『都市の肖像』(晶文社)などに収録された断片に近い小品にあります。彼のエッセーは、対象との絶妙な距離によって際立っています。対象はすべて中心から等距離に置かれているのですが、その中心(根源)とはすべての事物に魔力をおよぼす原理といってよいもので、自然支配によって打ち立てられた文化そのものです。根源にさかのぼらず、ひたすらその表層をなぞるエッセーは、文化にとっては自らの刻印を帯びていないゆえに我慢のならないものとなります。ベンヤミンが自然なるもの、人間にとって直接的なるものについて語らなかったのは、そうすることが自然への、直接なるものへの唯一の敬意だからに他なりません。エッセーは、派生したもの、人間の手で作られたものに固執することで、文化を通して自然に行き着くという幻想を打ち破ります。絶滅種の動物や残された原生林への喚起は、まだ人間にとって手つかずの自然が残されているという欺瞞を隠すための文化の振舞いの一つに過ぎません。(エコロジーや病的な禁煙という社会の自己欺瞞については言うまでもないことです)

 

ベンヤミンのエッセーに見られるごとく、思索は始原から結論まで一意邁進するのでなく、思索の諸要素は絨毯状に交織されます。この交織の密度に思考の稔りの豊かさがかけられているのですが、読者が衝撃を受けるのもまさにその点なのです。概念の定義から始めるのでなく、精神的経験こそが範例を形作るのです。アドルノはこのことを次のような比喩で説明しています。異国にあっていやでもその国の言葉をしゃべらざるをえない破目にあった人を想像してみよう。彼は文法どおりの言葉を四苦八苦してつなぎあわせたりはしないだろう。また辞書を引かずに看板や雑誌の字を読んで見るだろう。こうして彼は、その度ごとにちがった関連で同じ単語を30ぺんも見かけるなら辞書を引くよりもずっと確実にその語を会得するはずだ。というのも、辞書は意味の羅列を与えるだけだが、単語とはさまざまな文脈の中でとりちがえようのないニュアンスをあらわすただ一つの意味しか持っていないからだ。

 

こうしてエッセーは哲学が関わらなかった幸福と遊びをその出発点にするのですが、その偽りの深刻さに対する不信は容易に手慣れた皮相に逆転しないとも限りません。アドルノによれば、初期にはきめのこまかいエッセーをあらわしたシュテファン・ツヴァイクは後年のバルザック論において創造的人間の心理学を唱えるところまで堕ちてしまったとのことです。「理解心理学の残り屑が、教養俗物の世界観をあらわした人格とか非合理なものに混ぜ合わされた」とは厳しい言葉です。

 「団栗」などのすぐれた随筆を書いた寺田寅彦は、時おりその随筆の最後の場面で人間社会全般に適用するような一般論を展開することがあって興を削がれますが、考えてみればあの慧眼に満ちた『徒然草』も最後の一行で言わずもがなと思うことが多いのです。(その点では、『枕草子』は洗練された随筆というほかはありません。好みに徹しながら、それゆえに中世世界の普遍を先取りしています。)

 

 第二論文「叙事文学の素朴さ」では、エッセーという近代の所産にたいして、ホメロス以来の叙事詩に基づいて、言語と表現の関係が壮大に語られていきます。

 まず、『オデュッセイア』の最後の一つ手前の箇所が引用されます。

「海原をわたる頑丈な船を/疾風と、高なる波の力で、ポセイドンに砕かれた/男たちに、泳ぎ着く大地が喜ばしいものであるように/彼らがいまや、破滅を逃れて、喜ばしげに大地を踏むように/そのように彼女も、夫の姿を喜び/百合の腕で、ひしと彼に取りすがる」

 この第二十三歌の部分をアドルノは次のように説明します。

「これらの詩句に、すなわち、再会した夫婦の幸福を描く比喩に、『オデュッセイア』の本質を見て、この比喩はたんに挿入されたメタファーなのではなく、この物語の真のあり方が最後になってあらわになったものだと考えるならば、『オデュッセイア』は、海岸の岩にいつも新たに打ち寄せる波の音にじっと耳を傾けるこころみに他ならず、波が岩礁を洗い、ざわざわと引いていき、不動の岩が濡れて輝くさまを、辛抱強く記録するこころみに他ならない。このざわざわという音こそは叙事的な語りの音であり、一義的な不動のものが多義的な流れるものとぶつかりあい、そしてすぐにそれから離れる音である」

 

叙事詩の語り手は、彼がそこに籍を置いている共同体のミュトスの伝統にしばられながら、にもかかわらず、一回きりの出来事、彼が語らねば永遠に歴史の彼方に消えてしまう出来事を語り始めます。ミュトスの論理は共同体の論理であり、語り手の思考や言語形態の枠を形成し、それゆえにそこから逃れることの難しいものでもあります。しかし、語り手は、報告する価値のあるもの、あらゆる他のものと等しくないもの、交換できないもの、非同一なもの、伝承される価値のあるものをミュトスの論理を借りて伝えようとします。打ち寄せる波は《いつも同じもの》ミュトスであり、洗われる岩は異なったもの、つまり叙事詩の対象となるものです。

叙事詩を読むとき、私たちがいつも感じるような違和感、テンポの乱れ、余分な挿入、不必要な繰り返し、突然の脱線などは、物語作者のこの矛盾に充ちた態度に由来するのです。語り手は、物語る対象を凝視し、その具体性を、怖れを伴った新しさを正面から見据え、共同体の言葉、つまりミュトスによってそれを捉えようとします。しかし、それは不可能な企てであり、素朴さとは彼がそれに支払う代償に他なりません。そして、この素朴さは、ある意味で存在するものの魔力を打ち破るものであり、ミュトスの支配を逃れる契機ともなるのです。「一回的なものとは、思考のもつ包括的な普遍性に対するたんに頑固な立ち遅れなのではなく、思考のもっとも内的な憧憬でもあり、社会的な支配とそれに追随する分類的な思考に包摂されない現実的なものをとらえる論理的形式なのである」。

そして、アドルノはつぎのように続けます。

「叙事文学の素朴さには市民的理性に対する批判が生きている。叙事文学の素朴さは経験の一つの可能性をー市民的な理性が基礎づけるようなふりをしながら、実は破壊してしまったあの経験の可能性をー失わずに持っている。一つの対象を記述するという限界性は、あらゆる思考のもつ限界性を、すなわち、思考が対象の本来のあり方を認識しようとせず、概念的な操作をすることによって対象を忘れ、対象を概念に包摂しようとするときの限界性を、訂正するものになっている」

この従来の言葉では伝えきれない心の様々な色合い、対象の様々なニュアンスに充ちた在りようが「ざわざわという音」であり、このざわめくrauschen音こそ、ある者には騒音に、ある者には音楽に、ある者には言葉に聞こえる「聴覚の内空間でしか聞こえないような」音であり、主体がその存在を賭けて奏でる「媒介」の音なのです。

 

「アイヒェンドルフの思い出のために」では、この「ざわめき」が、ロマン派の全時代を生き抜いたアイヒェンドルフの「死んだものを呼び覚まそうとする」言葉の努力、後期市民社会には失われた無為の幸福を呼び戻す符牒として説明されています。「そして僕も、向こうの流れのあの波のように、/誰にも聞かれずに、春の入口をざわめき流れてゆく」(「他国の恋」)とアイヒェンドルフは歌いました。

ざわめきは音が消えることによって永続します。「ざわめき(rauschen)とはアイヒェンドルフの好きな言葉であり、ほとんど定式でさえある」そして、アドルノは、ボルヒャルトの「僕にはざわめきしかない」という言葉を引用して、この言葉はアイヒェンドルフのすべての作品のモットーとして掲げられる、と言っています。「言語はざわめきや、孤独な自然を模倣し、そのことによって言語は疎外を表現する」。つまり、言語を使って表現するためには、社会がその言語に課した概念の枠組みで思考を組み立て、感情を形作らねば成らないのですが、偉大な詩人は、そして偉大な叙事詩作者はそれを呪縛と感じながらその呪縛を模倣し、自らつむぎ出していかざるを得ないゆえに、その「凍結された葛藤」はざわめきという「言葉」であらわれるというのです。

 

なお、『三つのヘーゲル研究』(ちくま学芸文庫)でアドルノは、「ヘーゲルの哲学はざわざわとざわめいている」と言って、彼の好きなルドルフ・ボルヒャルトの詩の一節「ただざわめいているだけでいいんだよ」を引用していますが、その訳注に訳されている『休止』という詩は次のようなものです。

「深い記憶の蔭に時が癒着している。昔の道はひと気がなく広かったが、今は人間でごったがえしている。/ああ、ぼくの心の奥底に今も聞こえる木の葉のざわめきよ。お前は、ぼくが好きだったあの音を今ももっているだろうか。ちっともぼくの邪魔にならなかった音調は、今もお前のなかにあるだろうか?/ただザワザワとざわめいているだけでいいんだよ。はっきりした音をお前から聞きたいなんて、思っていないのさ。耳を澄ましたりすれば、きっとお前も痛いだろうから。」(渡辺祐邦訳)

 

さて、アドルノは「抒情詩と社会」で、叙情詩が社会と調子を合わせず、何一つ伝達しないという表現を貫徹することで、そのもっとも内奥で社会と媒介し、社会をあぶりだすと書いています。『文学ノート1』には、他に、晩年のルカーチについて書いた「無理強いされた和解」、アドルノの偏愛を示すベケット論、ヴァレリ-論、プルースト論などがありますが、さすがに疲れてきました。なお、『文学ノート2』には、カール・クラウス、ジークフリート・クラカウワー、ルドルフ・ボルヒャルトなどを論じた文の他に、後期ヘルダーリンについて書かれた問題の論文「パラタクシス」も収められています。

 

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2009年9月 6日 (日)

内田魯庵『貘の舌』

  「ウェッジ文庫」から八月に出た新刊は、はっとする書名、内田魯庵『貘の舌』です。実は前回紹介した『近代日本文藝讀本』で、芥川は樋口一葉からは日記を、永井荷風からは浮世絵論をと、切れ味のよい選択をしていましたが、魯庵からは『獏の舌』の一節「切支丹迫害」を選んでいました。芥川が、中学生の読者に読んでもらいたかったのは、この史上特筆すべき迫害と殉教のドキュメントだったのです。魯庵は、『貘の舌』の最後近くで、世界史上の有名な虐殺事件をとりあげ、とりわけ、ロシアとアメリカを東西の代表的虐殺国家として紹介しています。そこで、ロシアのポグロム(ユダヤ人虐殺)、アメリカの黒人へのリンチについて身の毛のよだつ記述をしていますが、日本人もそれを非難する義理はないとして300年前の切支丹迫害について書き起こすのです。

 

 キリシタンの資料は明治の御一新まで江戸幕府によって完全に差し止められていました。むろん宗門の根絶を目指したがためですが、魯庵は、あまりに残虐な拷問の事実を後世に残すのを当該者も望まなかったためだろうと書いています。実際、火責め、水責め、穴つり、そぎ落とし、膾切りなど、これでもかといわんばかりの拷問の連続で、日本人がこれほど無慈悲になれることに驚くのですが、魯庵は、その反面、また日本人の美しい殉教者精神が発揮されたのもこの迫害によってである、と言っています。老人、子供、男女を問わず、無知な庶民たちが信仰のために、晴れ晴れした顔で恐ろしい拷問と処刑に身を晒したのですが、魯庵は「楠正成よりも大石良雄よりも私は無知なる切支丹宗徒の火に焚かれ、水に漬けられ、肉を寸断され骨をひしがれても毅然として少しも屈しなかった殉教者精神をヨリ偉大なりと信ずる」と断言します。

 

 (ところで、魯庵のこの記述の根拠は、明治以後に翻訳されたクラッセイの『日本西教史』や公教会発行の『鮮血遺書』や『公共会の復活』などを参考にしているらしいのですが、それらは、もちろん護教的な考えから、殉教者たちを聖者として、豊臣・徳川政権を迫害者として描いています。現在は、高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』(1977岩波書店)などに見られるごとく、キリスト教布教をスペイン・ポルトガルの両リベリア王国の植民地獲得政策の一環として捉え、もし中央政権が少しでも軟弱であれば、キリシタン大名を使って九州なり山口なりをゴアやマカオのように武力で制圧して、中国侵略の先兵にしようという目論見が多くの宣教師の意志にあったとされています。その考えでいくと、秀吉や家光の「迫害」は国家意志の当然のあらわれに過ぎないことになるのでしょう。)

 

 さて、『貘の舌』ですが、これは讀賣新聞に大正九年(1920)五月から六月にかけてちょうど一ヶ月毎日連載されたもので、毎回の分量は1700字ほどで、内容は時事問題から趣味の問題まで多岐にわたっています。「貘の舌」というタイトルは内田家の飼犬パクから採ったもので、この愛犬の痛ましい死については『病臥六旬』(1926・講談社文芸文庫『魯庵の明治』所収)で詳しく述べられています。

 内容は、脈絡のないように見えて微妙につながっています。まず、直近の1920年の総選挙で、不況の世相にもかかわらず与党が勝利したことを受けて、そこに人々の変革へのエネルギーの乏しさを読み取ります。そこから、維新後半世紀を経て、役人天国、資本家の横暴、表現・出版の取り締まりの厳格さなどが人々を無気力に陥れる時代閉塞の現状をあぶりだします。そこで、50年前の明治初頭が思い出され、意外や、その時代は今よりも自由であったことが説明されるのです。考えれば当然のことで、史上かつてない変革の時代は思い切った自由の時代でもあったのです。当時改革を実行したのは24,5歳の経験も人脈も爵位も金力もない青年たちで、無人島でも耕すように、書生放論をそのまま断行してしまいました。特殊の国情も固有の美徳もあったものではなく、理想に背くものは草でも抜くようにどんどん破壊したので、大名の領地奉還、家禄召上げ、帯刀、丁髷の禁止、儒仏を足蹴にし、聖堂仏像の破壊、あわや興福寺の五重塔まで焚きつけようとしたのです。これは庶民の間でもそうだったので、およそ封建的、旧弊の残滓とされたものは、仏典だろうと蒔絵だろうと燃やされましたが、これぐらいの気概がなくては社会の変革などというものはできっこないのだ、と魯庵は言っています。翻って今日の世相を見ると、あれほど憤怒を投げかけた封建の因習が復活し、あれよという間に流動性を失った「犬も喰わない出来損ないの文明」に成り下がってしまったと嘆きます。

 

 次ぎに魯庵は、明治維新がいかに進歩的で自由な言論があったかを例証します。たとえば、ローマ字国字論は日本字を全廃して詔勅法律まで全部ローマ字にしろという案、キリスト教国教論は神儒仏を廃して一挙に日本を西洋化しようという案、なかにはメートル法採用論など先見の明が光るのもありました。田島象二の『書林之庫』などは、国家は人民の国家であり、官吏は政府の官吏でなく人民の官吏だ、などとその後の時代なら禁錮確実の論を展開していました。

 こういう時代のエネルギーは必ず変てこな現象を引き起こすので、魯庵は明治初頭の漢語の流行を指摘します。当時の田舎出の官吏はろくに漢文の素養がなかったので、おそらく自分を偉く見せるために俄かの漢語仕込みのための塾通いが流行り、それが民衆の間にも広まったというのです。倫敦(ロンドン)、牛津(オックスフォード)、華盛頓(ワシントン)などの珍粉漢語が出てきたのもこの風潮の表れとのことでした。

 

 魯庵はつぎに6回にわたって、今は忘れ去られた思想家佐田介石のことを紹介していきます。介石は最後の鎖国論者で、西欧のものはすべて否定する徹底的な排外主義者でした。彼は洛外の閑居に閉じこもり、集中心を切らさぬため昼間から雨戸を閉め思索に没頭しました。生計は故郷の老母が貧しい中から仕送りし、その貧寒骨を刺す十数年の苦学の末、ついに西欧の天動説を打ち破る彼独自の地動説を作り上げ、その証明のための「視実等象儀」なる器械を考案しました。それだけの苦辛をするならもっと世間を裨益する大研究ができたろう、というのは小人物の料簡にすぎない、と魯庵は言っています。介石は、他にもランプ、写真、汽車、汽船、織機など舶来のものをすべて弾劾していますが、彼が多量に世に出したパンフレットや書物が、彼が排斥する印刷機械で印刷されたことは、文明の大勢が如何ともしがたいことを表しているのでしょう。

 

 介石は自ら路頭に立って辻説法し、その思想の宣伝普及に努めました。『貘の舌』は介石を紹介した後、引き続いて、ポスター宣伝について書いています。実はこれが魯庵の真骨頂で、文芸批評家として名を成した人間で広告宣伝について自前の考えを述べるような者は彼以外皆無でしょう。宣伝についての考察は、『貘の舌』の好評を受けて讀賣新聞に連載された『バクダン』にさらに詳しく、さらに興味深く書かれています。なお、『バクダン』は魯庵の筆がさらに冴え渡った傑作ですが、惜しいかな現在は全集でしか読むことはできません。

 

 さて、『貘の舌』は次ぎに、納札(寺院や神社に巡拝者が張る札)の起源、現在、改良、またその蒐集について四回にわたって書いています。かなり専門的で、興味のない読者は異様な感じさえ受けるでしょう。それが魯庵のねらいで、次ぎに人間の趣味の中心たる蒐集に話を持っていくのです。そこで魯庵は日本と世界の蒐集と蒐集家について語り、その徹底性とコスモポリタン性を賛嘆します。この辺が魯庵が日本のベンヤミンと言われたりする由縁でしょう。最後は自由主義者魯庵の叫びがこだまして、世界の虐殺事件を詳述しますが、最後の最後に、親友二葉亭四迷と猫の挿話を語って筆を置きます。豊富な知識と寛い心、『貘の舌』にはそのような魯庵の姿が躍動しているのです。

 

 内田魯庵(1868-1929)は江戸下谷の幕府の下級御家人の家に生まれました。父親の放蕩や転勤により、学校をすべて中退して、ほぼ独学で教養を身に着けました。しかし、その英語力は抜群で、それが雑多で新鮮な情報を英語圏の新聞雑誌から収集できる強みとなって表れたようです。

 私はいつも、バンジャマン・コンスタンの「人間は、これすべて性格である」という言葉を真実であると思い起こすのですが、魯庵という文人にはなおさらそれが真実であるように思われます。まず、好奇心と飽くなき知識欲、向上心、それが厖大な読書量となって表れました。偏見や極端な意見を避けながら、そのようなものへの偏愛も隠しません。人間に対する問題で決して独断に陥ることなく、従って一つの思想・宗教にこだわらない広い心、それはまた人間も含めた生命への愛情でもあります。ゆるぎない反骨精神は卑劣さを嫌い、その倫理は透明で開かれています。魯庵は、二葉亭や逍遥や、ある意味では漱石も含めた一派、すなわち文学を人生の秘密を解明する道であると考えた一派の一人でした。魯庵が文学に開眼したのは、英語で読んだドストエフスキーの『罪と罰』の衝撃でした。それが、彼を長谷川二葉亭に近づけ、明治文学でほとんど例のない二人の友情を生み出したのです。

 

 しかし、二葉亭がやや狂おしく人生を生きようとしたのに反して、魯庵は傍観者的に、そして恐らくは謙虚に人生に対しました。二葉亭の死後、文学全集の一巻に二葉亭と魯庵が合わさって入ることが提案されたとき、魯庵は家計が苦しいにもかかわらず、四迷と名前が並べられるのは分に過ぎるとその申し出を断りました。

 実は、魯庵の興味の範囲は二葉亭よりも遥かに広く、それが魯庵のもう一人の友であり師であった淡島寒月に彼を近づけたのです。西鶴に入れ込み、明治文学に西鶴の魅力をはじめて教えた寒月は、また時代を超えた趣味人でもありました。恒産のおかげで趣味に没頭し、権威など歯牙にもかけない寒月は魯庵の理想の人間だったのです。魯庵がはじめて寒月のもとを訪れたとき、彼は初対面の青年魯庵に、当時表紙を見ることも難しかった西鶴の本を気軽に貸してくれました。その人間性の大きさは尋常ではありません。寒月の蒐集癖、書籍や、玩具や、あらゆるものへの興味は、人間への驚きと興味に発しているのです。寒月はキリスト教の教会に通い、熱心に布教活動を手伝い、感激した神父が彼の家を訪れるとその部屋には仏像がたくさん置かれてあった、つまり宗教も彼にとっては趣味のひとつだったのです。魯庵もキリスト教への理解を示しながら決して信者にはなりえない人間でした。人間を断定してしまうことの拒否、理性を手放してしまうことへの恐れ、常に目覚めていたいという欲望、それは彼の強みであると同時に、文学者としては大成できなかった由縁でもあったのでしょう。

 晩年の魯庵は丸善の嘱託として収入もやや安定し、得意の雑文を書き続ける生活を送ることができました(彼はついに金持ちになれず、生涯借家住まいでしたが)。その興味の広さ深さはむろん当代随一ですが、その興味の中心は人間に向けられていました。近代文学を代表する回想記である『新編思い出す人々』(紅野敏郎編・岩波文庫)を読む人は、そこに描き出された四迷や緑雨や美妙よりも何よりも魯庵の無二の人間性に出会うのです。

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