« パリ再訪(7)カルチェ・ラタン | トップページ | アンリ・マスペロ『道教』 »

2009年7月 2日 (木)

パリ再訪(8)帰国の日

55()

 帰国の日。しかし、パリ発は夜なので、チェックアウト後、トランクをフロントに預かってもらいました。身軽な格好で、まずサン・セヴラン教会へ。ホテルのすぐそばの教会なので、パリを発つ前に一度は行きたかった教会です。入口はまだ鉄扉が閉ざされ、すでに観光客が何人か開くのを待っています。やがて、黒人男性が出てきて扉を開けてくれました。サン・セヴラン教会は左岸を代表する教会です。フランボワイアン様式のファサード、典型的なフライング・パッドレスが見られ、内部は高い天井に明るい陽射しがとおり、実に多彩なステンドグラスを輝かしています。堂内を歩いていくと、壁に大きなプレートがかけられ、第一次大戦で死んだ教区の若者たちの名前が千人を越える数で刻まれています。右手の礼拝堂に入ってみると、なぜか円形の壁にぐるりとジョルジュ・ルオーのリトグラフ『ミゼレーレ』のうち10枚が飾られています。ベルヴィルで生まれたルオーがステンドグラス職人の見習いとして最初に手がけたのが、このサン・セヴラン教会のステンドグラスの修復だったことと関係しているのでしょうか。

 

 サン・セヴラン教会からセーヌ川に出て東に歩くとすぐに貧民救済博物館Musee de L’Assistance Publique –Hopitaux de Parisがあります。建物は王室建築家フランソワ・マンサールによって17世紀に建てられたミラミヨン館という立派なもので、向かいにノートルダム寺院を見る絶好の位置にあります。受付には眼鏡をかけた冷たい感じの女性が一人座っています。ここで一人4ユーロ払い、パンフレットをもらって二階に上がります。展示室に入ると、看護学校生とみられる少女たちがたくさん来ていました。熱心にメモを取っている少女もいましたが、大半は休憩用のソファに座っておしゃべりをしています。彼女たちを除くと、見学の人は私たち以外誰もいません。

 この館は中世からのフランスにおける貧民、捨て子の救護医療の歴史が展示されています。また、かつての手術用具や、医療器具などもあり、それに関した絵画や彫刻が多数展示されています。しかし、もっとも多く展示されているのは、文書、手紙の類で、それらが収められているケースには黒い布が被せてあって、読んだらまた覆っておかねばなりません。むろんフランス語の文章ばかりで、読んでいくのはとても疲れます。全体的に地味な展示で、これで4ユーロは高いような気がしますが、無料にしてもほとんど見学客は来ないでしょう。メルシェの『十八世紀パリ生活誌』によると、18世紀までのパリの衛生・施療事情は最悪で、フランスの地方都市の水準にも達していなかったようです。瀕死の病人が運び込まれるオテル・デュー(市立病院)は、風通しが悪く、空気は淀んでおり、病人はただ寝かされ、死ぬのを待つだけだったとも云われています。当時のイスラム世界の明るく清潔な医療施設とは比べものになりません。17世紀の聖ヴァンサン・ド・ポールは、貧しい人たち、捨てられた子供たちの救護のために力を尽くしましたが、それはまた、上流社会の要請でもありました。自分を養えない貧民の増加は、社会全般のモラルの低下を招くと考えられていたからです。聖ヴァンサン・ド・ポールの訴えに賛同して、自らの館を貧しい人や病人のために開放したのが裕福な未亡人Madame de Miramiyonでした。これが、このミラミヨン館の起こりです。

気になった展示を二つ。どれも捨て子に関するものですが、まずLe Tour(塔)といわれる捨て子を置く装置です。17世紀頃、子供を育てられない親は、殺してしまうか、宿屋や教会の前に赤ん坊を置き去りにしていました。そのような危険な捨て方から赤ん坊を救うためにLe Tourは発明されたのです。扉を開けて四角い置き場所に赤ん坊を置き、回転させると裏側の病院内部の部屋に赤ん坊が送られるのです。それが立体の動く模型で作られていて、母親が赤ん坊を置くと、180度回転して、今度は聖ヴァンサン・ド・ポール病院の看護婦がその赤ん坊を取上げているのです。こうして、親は顔を見られずに子供を捨てることができるのですが、しかし、生活のためとはいえ、わが子を捨てざるをえない親の気持ちはいかばかりであったでしょうか。もう一つの展示は、その捨て子の足に結び付けられていた、金属、布、手紙の類です。一枚の手紙は、ギザギザに切り取られており、いつか、生活に余裕ができたら子供を迎えに来ようともう半分をidentificationのため切り取ってあるのです。

 

息が詰まるような貧民救済博物館を出て、私たちはセーヌ川を西に歩いて、ポン・ヌフの手前で左に曲がり、サン・ジェルマン・デ・プレに向いました。妻が、パリを発つ前にドゥー・マゴで食事がしたいというのです。サン・ジェルマン・デ・プレ教会のすぐ前にあるカフェ・ドゥー・マゴはパリでもっともよく知られたカフェの一つですが、私たちのような貧民にはやや敷居の高い料金表が貼ってあります。思い切って入ってみると、店内は思ったよりも明るく、活気に満ちています。昼時で混雑していますが、観光客でしょうか、女性の客が多いのが目につきます。私たちは、ここでビールと軽食とコーヒーをとりました。コーヒーにはチョコレートがついてきます。ギャルソンはたいへん感じがよい。向かいの席の中国人の家族はあわただしく食事をして、あわただしく出ていきました。

 

レンヌ通りを歩いて左に曲がり、サン・シュルピス寺院に向います。途中にあったチョコレートの店、ピエール・エルメに入ってみると何とさきほどの中国人の家族が何箱も買っているのに驚きました。サン・シュルピス教会の左塔とヴィスコンティ作の噴水は前回の滞在では工事中で見ることができなかったのですが、今回はゆっくり見ることができました。妻は、教会内部にあるドラクロアの画をたくさん写真に撮っています。私は、この壮大な教会の椅子に座って、ステンドグラスから降り注ぐ七色の光を浴びながら、物思いにふけっていました。何を考えていたか、むろん、家で待つルーミーのことですが、今回のパリ旅行では何度か具合が悪くなって、無事に日本に帰ることができるのか心配になったこともありました。パリの街を歩くのは心慰められることだが、家の畳の上で、猫と昼寝をすることもそれに勝る安らぎがあります。

 

サン・シュルピス寺院からフェルー通りをリュクサンブール公園に下っていきます。途中にL’Age d’Hommeという出版社があって、その一階が本の倉庫と自社の本の売場になっているようです。ウインドウに並べられた本をぼんやり見ていると、トマス・ウルフ『時と河Le Temps et Le Fleuve』がありました。ほかにも、レベッカ・ウエスト、G.K.チェスタートン、などが並んでいます。店の中に入ろうとして、扉を開けようとするが開きません。奥から女性が出てきて、壊れているから強く押してくれとのこと。店内は、本が書棚に倉庫のようにきれいに並べられています。妻は、梯子に乗って、厚い二巻本のレオン・ブロアの『未刊の日記』を手にとって考えています。その隣りにはジュール・ラフォルグの最初の完全版の三巻全集があります。ここは、ときおり詩の朗読会なども開かれているということです。私たちが本を見ていると、いつのまにか客が何人か入ってきて、店の人に質問したりしています。カタログを見てみると、ジョヴァンニ・パピーニ『キリストの話』、アーナンダ・クマーラスワミー『芸術における自然の変転』、ヴァシリー・ローザノフ『我らの時代の黙示録』、オクターヴ・ミルボー『書簡集』などもあります。プレイヤッド文庫に似ているDossier Hという一人一巻本の叢書には、ジョセフ・ド・メーストルやルネ・ゲノン、マックス・シュティルナーなどの名も並んでいます。このL’Age d’Homme書店は、ユーゴスラヴィアから逃れてきたウラジミール・ディミトリェヴィッチが1966年にスイスのローザンヌで始め、後にパリに拠点を移したものです。当初は、ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフに収斂されかねないスラブ文学の中に、アンドレイ・ベールイやアレクサンドル・ブローク、ニコライ・レスコフなどを紹介する目的を持っていましたが、次第にスイス関連の作家、そして世界的規模での文学、エッセイ、詩、宗教思想などの本を出版していきました。ディミトリェヴィッチが祖国を脱出するとき、肌身離さず持っていたのはトマス・ウルフの本で、その追放された天使(Ange exile)というイマージュは、彼の出版物の根底に貼り付けられているようです。

 

リュクサンブール公園へ。テニスコートの脇の東屋へ行くと、チェス盤が刻まれたテーブルがたくさん置かれて、どのテーブルでも人々がチェスを指しています。天気が良いので、東屋の外のテーブルでも、多くの人が自ら持ってきたチェス盤を広げて楽しんでいます。半数以上は持参のチェス・クロックで時間を計りながら指しています。ギャラリーの数も多く、終盤のぎりぎりの戦いではどこも異様な必死さが感じられてきます。学生、勤め人、老人、ユダヤ人、女性の姿も見えます。もっともギャラリーの多かったのは、車椅子にすわって指している脳性まひの男性の対戦でした。わけのわからない言葉を発しながら、それでも不自由な指で的確に指しています(チェス・クロックも器用に押しています)。中年男性と学生の対戦が始まったので見てみましたが、男性はナイトのオープニングから4手目で入城し、ビショップを犠牲にしてクイーンとナイトで電撃アタックをかけています。これは私の常用の(といってもチェスソフト相手ですが)作戦の一つで、てっきり私が発明したと思っていたので驚きました。結局、男性は無謀な攻撃がたたって終盤劣勢に追い込まれましたが、それでもしぶとく諦めません。頑張ったが、ついに時間切れで、「トンベ(針が落ちた)」といって席を立ちました。顔は興奮で真っ赤です。

 

公園を出る前にトイレに入ろうとして、リュクサンブール公園の公衆便所に行きました。なぜか便所の横に警官が一人立っています。入ろうとすると、白髪の男が顔を出して、よく見ると立て看板にcabinet 0.6ユーロと書いてあります。妻と二人分1.2ユーロを出そうとしましたが、あいにく小銭がありません。10ユーロ札を出すと、男は3.8ユーロしかおつりをくれません。片方の手には、あたかも今受けとったかのように5ユーロ札が握られています。私は「サンキューロ(5ユーロ)!」と言って男の手から5ユーロ札をむしりとりました。男はチェッとした顔をしています。辰野隆が初めてパリに着いた時、遣り手婆の悪態に、「espece de ,,,(このやろう)」と言い返したのを思い出して、何か一言投げつけたかったが、よく考えてやめました。

 ところで、日本のように駅ビルに無料の温水洗浄便座があるのが普通のような国にいると、パリのトイレ事情は何とも我慢ができません。アーセナルの監督であるフランス人アーセン・ベンゲルは、かつて、日本のように豊かな国が、なぜサッカースタジアムを造るとき、ついでにトラックを付設してしまうのか、と苦言を呈したことがありました。しかし、その伝でいけば、パリのように多くの宝物・価値ある文化財を有する豊かな都市にとっては、(ましてや世界一の観光都市であるのに)、街中の公園、広場、駅、街路に無料のトイレを設置して常に清掃しておくことなど簡単なことではないでしょうか。そうしないのは、やはり、中世以来の国民性、トイレなどに金を使うのは無駄だという心持によるのでしょうか。母はいつも、玄関と厠を見ればその家の程度がわかると言っていたので、母が生前にフランスを旅していたら、きっと非文化的国家とみなしていたでしょう。

 

 夕方になったので、預けてある荷物を取りにホテルに戻りました。メトロで、シャルル・ドゴール・エトワールへ。エール・フランスのリムジンバスで一路ロワッシーに向います。暮れ方のパリは、夜の歓楽の準備をするように、何かけだるい雰囲気がそこここに漂います。渋滞でやや時間がかかったが、何とか空港に着きました。すでにチェック・インは済ましてあるので、荷物を預ける前に、ラウンジでのんびりしていました。大きな土産物店があったので、妻に荷物を見張ってもらって、私一人で買いに行ってみると、新聞や雑誌や本も売っています。ユーロの硬貨がまだ残っていたので、何かいいものはないかと探すと、1.5ユーロ(200円)均一のPocket Classiquesなるペーパーバックのシリーズが売られていました。私はそこでフロベールの『三つのコント』を買って妻のところに戻ると、今度は妻が店に出向いてフィッツジェラルドの『ベンジャミン・バトン』を買ってきました。私は、まだ硬貨が使いきれてないので、また店に行って、妻は持っているが私は持っていないボードレールの『悪の華』を買いました。ポケット・クラシックは他にはメリメの『イルのヴィーナス』しか売っていなかったのですが、メリメのこの短編は彼にしては傑作とも思えないので買いませんでした。ページ裏の案内を見ると、このシリーズは、できるだけ安い価格で多くの人に手軽に古典を読んでもらうために始められたようで、テキストはほぼすべて全文が収録してあります。目ぼしいところを挙げると、コルネイユの『ル・シッド』、ディドロ『ブーガンヴィル航海記補遺』、マリヴォー『愛と偶然の戯れ』などですが、面白いのは『愛・関係・放蕩』と題して、ラクロの『危険な関係』からの393の引用で成り立っている巻です。

 

 さて、荷物を預けて、エール・フランスの出発ラウンジへ。免税店で買物をしたら、レジの女性が「目的地は上海ですか?」と英語で聞いてきました。中国人に間違われたのは初めてで、かなり驚きました。 夜の出発というのは何か陰気な感じがします。ゲートの開くのを待って、ベンチには多くの日本人がすわっていますが、みな疲れた顔をしています。妻ははやくも眠そうな顔をしています。搭乗が始まって、みなが解放されたような、しかし、やや重苦しい足取りで飛行機に通ずる明るいトンネルの中に入っていきます。これが地獄への道だったとしても何の不思議もなかったでしょう。というのも、後はぎゅうぎゅうづめの客室に押し込まれ、椅子に縛りつけられ、顔も知らぬ操縦士に運命を任せて、12時間無事に着くことだけを願うしかないのですから。むろん、私は、61日のブラジル沖でのエール・フランス機の事故のことを考えています。機体も同じA330なら、運命の針の触れ具合に背筋が寒くなる思いがするのは当然でしょう。

 

 飛行機は定刻に、無事、シャルル・ドゴール・空港を飛び立ちました。私にとっては、また憂鬱な時間の始まりです。妻が本を読み出したので、私も買ったばかりの『三つのコント』を読み始めました。2万語を使って書いたといわれるフロベールの著作を辞書なしで読むなどできない相談ですが、私は常時電子辞書を携帯し、しかも辞書を引く苦労をまったく厭わない、むしろ好みなので、わからない単語が頻出しても意に介さないのです。しかし、わずか1ページ半読んだだけで疲れてしまい、ミネラル・ウォーターを飲みながら音楽を聴いていました。そのうちに食事になったのですが、エコノミー・クラスの食事はどうしてこんなにおいしくないのかわかりません。食後のコーヒーが終わると、早々と灯りは消されましたが、むろん眠ることなどできません。妻が、アイスクリームを食べたいというので、後ろの給湯室に出向きましたが、そこはすべてセルフサービスで人がいっぱいです。みな我先にアイスクリームやサンドイッチやカップめんや飲物に群がっています。一人が戸棚を開けて新しいアイスクリームの箱を見つけて取り出すと、いっせいに手が伸びて、あっという間に箱は空になりました。ハーゲンダッツを持って妻のところに戻ると、地獄から抜け出したようにほっとした気持ちになりました。

 いつのまにか、妻が眠りに落ち、話し相手がいなくなったので、珍しく映画でも見てみようかという気になりました。実は、毎週末は夫婦でDVDで映画を観るのが楽しみなので、機内の小さな液晶画面での(しかも吹替え)映画は見るつもりはなかったのですが、クリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』の誘惑には勝てませんでした。(ネタばれはありません)。悪条件での鑑賞ながら、ただちに映画の中に引っ張り込まれ、終わるまで夢中で観ました。ところで、この映画の秀逸さは、グラン・トリノという題名そのものです。フォード72年型グラン・トリノ。深緑のボディーはきわめて美しい。主人公が、日本車のディーラーである息子を軽蔑するのもよくわかります。エコ車など、何の魅力もありません。グラン・トリノという忘れられた車の中に、この映画のすべてが集約されています。

56日夕方4時に成田着。急いで家路につきます。扉を開けると、玄関で待っているはずのルーミーの姿が見えません。台所にも居間にもいません。ようやく、本を置いてある部屋の隅に隠れているのを発見しました。妻が抱き上げると、安心して、妻の頬をぺろぺろ舐めはじめました。8日ぶりの再会でした。(パリ再訪 了)

Stsevrin

ホテルのすぐ近くのサン・セヴラン教会。サン・ジャック通りからその後姿を写しました。正面のファサードは、ユトリロが印象深く描いています。

Agedhomme

サン・シュルピスからリュクサンブールに至るフェルー通りにある出版社L'Age d'Homme。ウインドーには私好みの本ばかり並んでいます。社名はミシェル・レリスの『成熟の年齢L'Age d'Homme』から採ったのでしょうか。





|

« パリ再訪(7)カルチェ・ラタン | トップページ | アンリ・マスペロ『道教』 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« パリ再訪(7)カルチェ・ラタン | トップページ | アンリ・マスペロ『道教』 »