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2009年7月26日 (日)

アンリ・マスペロ『道教』

 

 宮崎市定『中国に学ぶ』(中公文庫)は、気の抜けたビールのような雑文を集めた本で失望してしまうのですが、その中で、宮崎が1936-1937年の間、パリに留学してコレージュ・ド・フランスでアンリ・マスペロ(1883-1945)の講義を聴いたことが書かれてあります。実は、アンリ・マスペロの父親で著名なエジプト学者のガストン・マスペロ(俗に大マスペロと呼ばれる)もコレージュ・ド・フランスの教授でした。コレージュ・ド・フランスの教授はフランス最高の俸給が約束され、講義回数もスタイルも自由で、聴講は万人に許され、従ってテストも採点もなく、その権威のため質問はいっさい受け付けないという楽なものですが、一つ条件があって、それは最先端の独創的な講義題目でなければならず、その講義は必ず公刊されねばならないということです。アンリ・マスペロの講義を受講してから20年後、宮崎は、今度は特別講師として、コレージュ・ド・フランスの古びたルネサンス様式のファサードをくぐります。入口を入った広間の壁に新しい大理石の板が嵌め込まれてあって、そこに刻まれたレジスタンスでたおれた数名の教授の名前の中にアンリ・マスペロの名がありました。

 バンジャマン・コンスタンを祖先の一人にもつこの碩学は、1944年、レジスタンスの息子を匿った罪で逮捕され、ブッヘンヴァルトの収容所に送られ、戦争終結一ヶ月前に亡くなりました。自宅に残された厖大な遺稿の中から中国の宗教についての三巻の書物が編まれましたが、その第二巻Le Taoisme にあたるものがこの訳書であるということです。(川勝義雄訳・平凡社東洋文庫後に平凡社ライブラリーに収録)

 

 道教とは、不死を約束し、それによって人々を救済に導く宗教である、といってよいでしょう。中国人が不死に執着するのは、西洋人のように霊魂の不死を信ずることができないからです。中国人にとって、肉体が滅びれば、そこに内在していたたくさんの霊魂は四散してしまいます。彼らにとって肉体こそすべてなのです。ところで、人々を不死にするのであれば、その方法(食餌法、呼吸法、導引法など)を教えれば済む話で、そこに宗教の入る余地はありません。しかし現実は、もっとも熱心な道士といえども不死どころか若死にする場合だってあるのです。そして、ここに宗教が介在する理由があります。あらゆる努力にもかかわらず不死や長生が得られないのは、神々の好意を得られていないからではないか、自分たちの行いが天や道に反するからではないか。ここから、絶対的なものに帰依し、自らを捧げて、長命の確信を得ようという願望が生まれます。その第一歩は、まず身を清め、善行を積むことであり、散逸せずに残った道教の文献には、終生善行に生きて、神仙の境地に達した何人もの道士の話が描かれています。彼らは、孤児を育てたり、橋を架けたり、道路を修理しました。財産を親類全員に分け与えたり、地方の貧民に分配し、災害時には自前の穀物を差し出して人々の救出に努めました。しかも、このような行為は紀元初頭の道教徒には一般に見られる普通のことであったということです。

 

 「徳を実践し、罪を避けること、自己の過ちを告白し、悔い改めること、飢えた人に食を与え、裸の人々に着物を与え、病人を救うこと、しかも、こっそりとそれを行って、自慢しないようにすること、これはわれわれがよく知っているし、またわれわれには身近なことがらである。しかし漢代の中国では、これはかなり新しいことがらであった。つまり、人間は社会全体の単なる歯車でしかないとする儒教にたいして、道教は真の個人的な道徳を中国人が行なえる形で創造したのである。儒教道徳の諸規則を実行するためには、少なくとも権力の一部を保持しなければならない。しかし、道教の道徳はどんな人にでも向けられ、誰でもそれを実践することができた」

 

 道教がいかに人々の心をとらえていたかは、西暦184年の太平道による黄巾の乱に如実にあらわれています。東方黄巾の首領である張角は中国の東北と中央の八州全部(中国国土のほぼ四分の三)を支配し、36万の武装する帰依者を持ち、あわや漢帝国を滅亡させるかというところまで行きました。しかも、張角はわずか10年でこれらの人々を帰依者にすることができたのです。これほどの急速な拡大は、人々を一から改宗したということではなく、すでに道教の信者だった人々をこの新しい宗派に引きつけたからだ、とマスペロは書いています。

 それほど道教は、中国民衆の間に広まっていたのですが、太平道独特のその熱心な帰依はいったいどこから来たのでしょうか。主宰者張角は、支配する地域を36の「方」に分け、それぞれに道士を置いて、緊密な組織を作り上げました。注目すべきは、この組織は政治的でありながら、さらにそれより遥かに宗教的であったことです。道士は、人々を励まして宗教的に前進するよう促しました。道士たち自身は「館」で共同生活を送り、不死への必要条件たる潔斎に努めていました。彼らは道民たちの病気を治し、苦情を一つ一つ親身になって処理して行きました。道民たちは、道士のように永生への道を歩むことはできないまでも、誰しもの望み、健康、長生、幸福、子孫に恵まれるという見込みは持つことができました。呼吸法の実践や穀物を絶つ食事は病気を治し、善行は幸福をもたらし、性の健康法は若さを保ち、丈夫な子孫を約束します。しかし、それらが中国人の希望に適うとしても、なお熱烈な武装集団に転身する理由には十分ではありません。

 

 マスペロは、その爆発的な帰依の理由を集団的熱狂(オルギア)によるものとしています。張角の教団は定期的に「斎」あるいは「会」と呼ばれる集団的儀式を催していきました。参加者は、そこで、告白と懺悔を行い、罪の結果としての病気を避けようとしました。その儀式はしばしば狂宴に至り、宗教的昂奮を呼び起こします。そうした儀式の一つである「塗炭祭」を見てみましょう。参加者は、読経と香と灯明の中を、顔に炭を塗りたくって登場します。太鼓が細かいリズムで徐々に昂奮を誘う中、参加者の一人一人の姓名、道徳的罪科が読み上げられます。顔に塗られた炭は彼らの罪を表す表徴であり、次第に会場のあちこちから悔い改めのすすり泣き、叫び声が起こってきます。太鼓の音が激しさを増すにつれて、昂奮した信者たちは地面の泥の中を転げまわり、その狂気は次々に伝染して、参加者の全員が泥の中に転げはじめると、外で取り巻く群衆もその熱気に感染して信者の中に加わるのです。

 塗炭祭に限らず、道教のすべての祭りは、参加者の気を高め、宗教的昂奮に導くよう周到に計算されていました。後の仏教徒たちの眉をひそめさせた「合気」あるいは「和合」と呼ばれた性的狂宴も例外ではありません。否むしろ、宗教的な悔い改めの儀式の中の荘厳さと猥雑さの混合こそ、その時代の道教教団のエネルギーそのものなのです。

 

 「西暦初頭の数世紀間に、道教が信じられないほどの成功を収めたのは、この祭りのためであったと私は思う。中国人は概して平静で均衡のとれた精神を持ち、宗教的情熱にはほとんど動かされないのに、それが、抵抗しがたい熱狂にとらえられ、自己を忘れて昂奮することを無上の喜びとしたのである。中国人を官僚生活や文人生活の単調さと、国家宗教の無味乾燥から救ったものは、一種の精神錯乱であり、神聖な陶酔であった」

 

 マスペロのこの指摘とは裏腹に、中国人は一般に、宗教的なものと政治的なものを混交し、強力なリーダーが存在する場合は、一つの熱狂的な運動を繰り広げる恐れが多分にあるようです。しかも、ブタ・インフルエンザのように、一気に集団感染に似た熱狂が襲った場合、その人口の多さと国土の広大さから無難な終息は難しいでしょう。勇猛な将軍たちの功で東方黄巾は完全に平定されましたが、遅れて起こった西方の五斗米道(東方黄巾の真似をしたといわれる非常に酷似した運動)は、指導者が権力側に組み込まれた後も何世紀もその影響力を持ち続けました。近くは太平天国の乱と文化大革命の熱狂があります。中国の指導部はこれらの経験から、天安門事件や新興宗教の広まりや辺境の少数民族の反乱にも、時を逸せず対処していますが、その根本姿勢は泥臭いまでに実戦的、合理的であり、社会主義国としての原理と理想はもはや窺うべくもなく、史上稀に見るエゴイスティックな国家になっています。

 

 ところで、中国における西暦初頭の道教の爆発的広がりは、同時に仏教の中国社会への浸透も促しました。仏教は、中国人が人間の運命と不死の探求に没頭するまさにその紀元2世紀に中国人の心を捉えたのです。中国仏教史は仏典翻訳史でもあります。翻訳は道教関係者の尽力で行われたのですが、それゆえに道教信者が理解しやすい仏典が選ばれました。しかも、訳語は道教の用語を用い、意味が十分に伝わらない時は訳者は道教の教えに沿うよう勝手に意訳したとも考えられます。そのため、当初は仏教もまた人々の長命、健康、幸福、さらに永遠の命まで約束する宗教と考えられていました。もし、高僧たちがインドから次々と布教に現れなかったら、仏教は道教の中に溶解してしまったことでしょう。時代が経つにつれ、仏教はその独自の思想を貫徹していき、ついに人間とは死すべきものであり、老と病と苦から解放されるためには再び生まれないことなのだと主張するようになります。しかし、根本的な違いよりも、類似点の方が重要です。不死は涅槃(ニルヴァーナ)と同一視され、老子はその慈悲心から西方に出向いて仏陀として人々を教化したのだとまことしやかに語られました。それはともかく、仏教の道徳的、瞑想的な不死探求法が、人々を道教の神秘主義たる老子・荘子との親近性を思わせたのです。「仏教が西暦紀元のはじめ中国に入ったとき、それが遭遇した中国固有の形而上学、物の深奥にまで到達しようと試みた学説は、ただ一つ道家哲学しかなかった」(ポール・ぺリオ)

 こうして、道教の考察はそのエゾテリスムともいえる老荘の哲学に至るのです。

 

 しばしば、老荘の哲学は、漢の時代以来の道教の諸要素、不死の探求や錬金術や呼吸法や導引法とまったく無縁のものであるとか、あるいは、老荘の哲学は、時代を下るにつれて腐敗堕落して道教に変形していったとかという説が語られるのですが、マスペロはそれらは皮相な見方であると言っています。道教とはその当初から「永生を探求する宗教」であったので、老荘の思想はその神秘主義的側面を代表するにすぎないのです。もともと、道教の世界は奥が深く、各地で活躍する道士たちはそれぞれ個性的な術や知識で人々を惹きつけていたに違いありません。あるものは独特な呼吸法で、あるものは薬草で、錬丹で、導引(ヨーガに似た身体鍛錬法)で、願わくば不死を、そうでなくとも長命と健康を祈る人々の思いに答えようとしていました。『荘子』には、ある人が老子のもとを訪れて、いろいろ教えを受けるが少しもわからず、じれったくなって、「私は生命を守る方法を学びたい。ただそれだけなのです」と言う場面が描かれています。これを記した荘子にとっては、弟子が不死になる方法をたずねてくるということ、そして道家の師がそれを教えてやるものだということは、全くあたりまえのことでした。

 

 老子・荘子の方法は、他の一般の道士たちの実践的方法とかなり違っていました。実は、老子・や荘子や列子などは、呼吸法や錬丹術などに飽き足らない高度な知識人のサークルを代表していたのです。むろん、『老子』『荘子』などの極めてすぐれた書物を残せるサークルに属する知識人はごくわずかです。彼らは、鄙俗な要素の多い道教の教えを、哲学的・神秘主義的に改変していきました。そして、孔子その他の哲学諸派の教えをよく理解し、易経以来の中国の正統的伝統を自らの思想のうちに取り入れていきました。それが、怪しげな方術を駆使する道士たちに不満を持っていた教養ある人士に共感を持って受け入れられたのです。

 

 彼らは、呼吸術など肉体的実践を軽視して、瞑想による「道」との合一、つまり冥合によって不死に至ろうとしました。他の諸派のくだくだしい実践などしないですませる近道を、彼らは忘我(恍惚)に見出したのです。しかし、それは近道どころか、実際は、厳しい自己省察と回心を必要とする茨の道でした。そして、いつしか手段は目的となり、神秘的合一それ自身が目指すものであり、それが達成されれば、死と不死はとるに足らぬ違いにすぎないと思わせたのです。『列子』には、何年もの自己修練のすえに「無為」に達する人々が、弓や弦の名人などの姿でたくさん描かれています。「道」を会得した人間にとって、生も死も、美も醜も、富も貧も、人間界のあらゆる差異は消滅します。列子は、富貴であるが夢で毎晩貧乏な生活を送る者と、貧乏であるが夢で毎晩富貴な生活を送る人間のどちらが幸福であるかをたずねます。無為自然、すべてを運命にゆだねること、その境地に至るまでの感動の記録が『荘子』であり、『列子』なのです。

 

 話は易経にまでさかのぼります。中国最初にして最大の思想書である易経は、64の卦を集めたものですが、そこに望見されるのは、太古の智慧、この宇宙の実在そのもの、聖なる秩序そのものです。「占いにこのような重要な意味が与えられることは、何ら驚くにあたらない。なぜなら、それは人間をもっとも直接に神的なものと関係させる宗教的行為だからである。一定の問いに対して答えが与えられるとき、そこには神との無媒介な交渉があり、人間は事物の聖なる相、ないしその聖なる秩序を洞見する。それは実在そのものであって、人間の目にうつる事物の姿、すなわちその世俗的な外見とは全く異なったものである」

 万物の真の原理であり、根源であるこの実在は、「太極」またはまれに「道」という名で呼ばれました。それは、二つの相、「陰」と「陽」において顕現し、それらが次々に卦をつくり、そこから変容によって、物質界と精神界を含む全自然が生じたのです。かくて、その「卦」を深く極めることによって絶対の実在を知り、それに働きかけることによって全自然界を意のままに統御し、支配することができると思われました。

 この易経学派の形而上学的な理論は、中国においては普遍的に受け入れられたようです。孔子の学派は、易経を彼らの師の作としたほどでした。道家も、この説をそっくり受け入れましたが、ただし占トの卦に直接関係あるものは切り捨て、その理論を彼ら独自の神秘主義的実践に結び付けました。易経学派がそれによって達成されると信じていた占いを、道家の人々は徹底的に排斥しました。すなわち、知識も哲理に関する議論も、ともに「大妙」に導くには十分でなく、むしろ分別智そのものが直感的認識を曇らせるため捨て去らねばならないというのです。『荘子』には、知識や学問によっては「道」を得ることができないということが繰り返し説かれています。孔子の弟子の冉求(ぜんきゅう)が、孔子に、昨日よくわかった師の言葉が今日になったらわからなくなったと言ったところ、孔子は「それは、昨日は、おまえは私の言葉を直感で理解し、今日は直感によらずに理解しようとするからだ」と答えました。

 

この道は神秘主義への道であり、「中国では老子と荘子の学派が、はじめてその路をたどり、そのすべての段階を記述したのである」とマスペロは書いています。彼らが選びとったこの道は、しかし、途方もない道だったのです。ある日、尹生という男が列子に弟子入りしました。が、数ヶ月経っても師から何も教えてもらえないので文句をいうと、列子はつぎのように答えました。「私が師匠の老商氏に弟子入りした時、三年経って、どうやら心の是非を考えず、口に利害を説かなくなった。その時はじめて師匠はちらっと一目見て下さった。五年後には、今度はごく自然に是非を考え、利害を説くようになった。すると、その時はじめて老商氏先生はニコッとお笑いになった。また七年後には、心の思うがままにまかせても、ぜんぜん是非を考えなくなり、さらさら利害を説かなくなった。すると先生ははじめて私を部屋に入れて同席させてくださるようになった。さらに九年後には、心は何を考えても、口では何を言っても、それが自分にとって、是が非か、得か損かも意識しなくなったばかりか、先生が自分の師であるとか、また内とか外とか、自分とか他人とかという差別もなくなっていった。そうなってはじめて、この身は宇宙と一体となり、心は自由自在となるのだ。それをおまえは、まだ三ヶ月も経たないのに私に文句を言ってきているのだ」と。

 

「道家にとっては、人間そのものが幻としてのこの世の一部である」と、アンリ・マスペロは書いています。したがって、虚であることを自覚することが列子の理想となります。「死と生とは一つの往きと帰りである。だから、ここで死んでいることが、あちらで生きていることでないとどうして分かるだろうか」

『荘子』は見事な比喩で生と死を語ります。

「天地の間にある人間の生は、白馬が凹地をパッと通りすぎて、たちまち見えなくなるようなものである。突如としてそれは来たり、静かに帰ってゆく。ある変容によってそれは生まれ、ある変容によって死ぬ」

『荘子』の死についての考察はあまりに有名です

「死がまた生の初めでないと誰がいえよう。麗姫(りき)は辺境を守る防守の娘であった。晋侯がこの娘を後宮に入れようとしたとき、彼女は故郷を離れるのを悲しんで涕泣しながら袖をしぼった。しかし、一旦、王と牀を同じゅうし、共に美食を食うに至って、昔日の涙を悔いたのである。誰か死者もまた然らずと断定し得るか」

 

神秘主義の道はかなりきわどく、それが達成される見込みもきわめて難しい。老子はそのような憂鬱な神秘主義者としての自画像を次のように描いています。

「他の人々は、あたかも饗宴に列席しているかのごとく、あるいは春、塔にのぼっているかのごとく喜んでいる。が私だけは平静で、わが欲望はあらわれない、、、私は悲しく打ちひしがれて、難を避ける場所もないかのようだ。他の人々はみなありあまっている。が私だけはすべてを失ったように見える。私の心は愚か者の心だ。何という混沌! 他の人々は賢そうに見える。が私だけは馬鹿者のようだ。他の人々は分別ありげに見える。が私だけは間が抜けている。、、、私だけが食母(道)を貴ぶ点で、人と異なっているのだ」(『老子』20章)

 

ある者はすべてを捨てて、隠遁の生活を選びます。回心後の孔子の生活を見てみましょう。

「孔子は知人を捨て、弟子たちを帰して、大きな沼地に隠れた。彼は皮と毛の衣を着て、トチの実と栗の実を常食とした。彼が野獣のあいだを通っても、その群れを乱さず、鳥の中を通っても、その往来を乱さなかった」(『荘子』山木篇)

 

しかし、「虚」を会得したものは、再び俗塵の中へ立ち帰ります。

「列子は家に帰った。三年のあいだ彼は外へ出なかった。彼は妻のために炊事をし、人に食を給するのと同じように豚を養った。そしていかなることにも参加せず、不自然な虚飾を避けて、全く自然の素朴に帰った。彼は一塊の土に同じくなり、無心の中に専一となって、生涯を終わるまでかくのごとくであった」(『荘子』応帝王篇)

 

アンリ・マスペロは、老子の「道は無為にして為さざるなきものである」と荘子の「無為の態度をとれ。そうすれば、物はおのずから変化するであろう」を引用して、次のように書いています。

「働きかけることは、不変なる道と異なるがゆえによろしくない。したがって、世界を礼によって正そうとする儒家の学派は、善をめざすがゆえに間違っている。善は悪と同様に悪いのである。なぜなら、それはいずれも無心なる道から離れているからである」

 

以上がマスペロ『道教』の拙い要約です。ところで、『列子』『荘子』『抱朴子』などは私にとって長年の愛読の書です。とくに『列子』は読むたびに感嘆し、ほとんど人生の救いの書であるかのごとく思ってきました。若いときに柔道をしていた私は、「強は弱に勝つが、強はさらに強い強に負ける。しかし、柔はよく強を打ち負かすことができる」という真理をたいへん深いものに感じました。その根幹にあるものは、精神は必ず肉体を制御しうるし、肉体は必ず脆いものだという事実です。かんたんに言えば、人生は心の持ちようで如何様にもなりうるということだったでしょうか。

しかし、私は『論語』も好きで、儒家とくに朱熹の生涯などはいつも立派なものだと思ってきました。『抱朴子』の葛洪は、その無気力・消極的なるゆえに荘子を嫌いましたが、その気持ちもわかるような気がします。葛洪の態度は儒家的で、与えられた状況で目いっぱい頑張ろうとする潔さには共感せざるをえません。

 

ここで、ロバート・ファン・ヒューリックの推理小説『雷鳴の夜』(ハヤカワ・ミステリ)を思い出してみましょう。この小説は山中のある道観(道教の寺院のこと。なお、ニーダム『中国の科学と文明』によれば、道観の観という字は老荘の哲学の内観に通じるそうです)で起こる殺人事件を描いていますが、ヒューリックの小説では道教の人間はたいてい犯人か悪人です。主人公のディー判事はむろん高級官僚ですし、作者のヒューリックもオランダの外交官でした。彼らは、職分を尽くし、立派に生きるということがいかに困難なことであるかを体感しています。ディー判事は道士を逮捕してから、家来のタオガンに向って次のように言います。

「道教は生死の謎を深く掘り下げる。だが、その深遠な知識ゆえに人を人とも思わぬ邪(よこしま)な誇りが生じ、冷酷無残な悪人に変貌しかねない。さらに陰陽相補うその深遠な哲学は、言うもおぞましい淫儀に堕落しかねない。ここで問わねばならぬのは、タオガンよ、われわれは生命の神秘を見出すつもりなのか、またその発見によって幸せになれるかどうかだ。道教にはまことに高尚な考えが多々あり、善には善を、またさらには悪にも善をもって酬いよと教える。しかしながら、悪にも善をもって酬いよと教えても、われわれの時代では通用しないのだ。タオガン! よりよき未来の夢、美しい夢だー夢は夢だが。同じ知恵でも、友人知己や社会への素朴な日々のつとめを教え、善には善を、悪には裁きをもって臨めという孔子のほうがよほど地に足がついているな!」(和爾桃子訳)

 

確かに、神秘主義はモームの長編にあるように「かみそりの刃」であり、その上を素足で歩くようなものです。少しの油断、わずかな気の緩みで一気に股から頭まで両断されてしまう危険をはらんでいます。私自身は道教に強く惹かれながら、実は『荘子』や『列子』の中に描かれた孔子の肖像に深い愛着を覚えるのです。それらの中で、孔子は、あるときは道士として、あるときは儒家の頭として登場します。したり顔で、蝉取りの老人の妙技をほめる孔子に老人は言います。「お前さんは、だぶだぶの大袖の服をきた儒者の仲間じゃないか。何も知らんくせにそんなことを口にする資格などあろうか。まずお前さんの修めた学問を取り除いてくることだ。しかる後に、それ以上の道をわしが教えてあげよう」(小林勝人訳)

また、あるとき、孔子が部屋で憂鬱な顔でふさいでいると、顔回が入ってきます。孔子は顔回に、なぜお前はそんなに楽しそうな顔をしているのだと問います。顔回は「先生から、天道を守り、天命に従えば心に憂いはない、と教えられたので心に屈託がないのです」と答えます。すると孔子は「自分はたしかにそう言った。しかし、今の自分はそれは間違っていると思う」と言って、次のように語ります。「自分がかつて詩書を整え礼楽を正したのは、魯の一国のためばかりでなく、広く世界を、また後世に価値あろうとして行ったのだ。ところが、仁義道徳は日々衰え、人間の心はますます軽薄になっていく。魯の一国さえ教化できないでは、天下後世などいかんともしがたいわけだ。さればといって、これに代わる良策も浮かばない。これがすなわち、天道を楽しみ天命を知るものの抱く憂いなのだ。しかし、今わたしはわかった。楽しむことを忘れ、知ることを忘れた無意識の境地こそが古人のいわゆる真の楽しみであることが。このように悟ってみると、もはや詩書礼楽の教えなど無理に放擲する必要もなければ革新する必要もないわけだ」

 

この孔子の迷える心性、アンビヴァレンツの感情は、孔子の時代から漢代、六朝を通じて知識人の共通の感情であったように思われます。若いときは儒教に反発し、道教の広々した宇宙を愛しながら、しかし、現実は儒教の教えにからめとられ、生涯道教にルサンチマンに似た感情を抱く知識人。それは、中国思想の奥行きの深さと、人生の謎めいた様相をともにあらわすものなのでしよう。

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2009年7月 2日 (木)

パリ再訪(8)帰国の日

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 帰国の日。しかし、パリ発は夜なので、チェックアウト後、トランクをフロントに預かってもらいました。身軽な格好で、まずサン・セヴラン教会へ。ホテルのすぐそばの教会なので、パリを発つ前に一度は行きたかった教会です。入口はまだ鉄扉が閉ざされ、すでに観光客が何人か開くのを待っています。やがて、黒人男性が出てきて扉を開けてくれました。サン・セヴラン教会は左岸を代表する教会です。フランボワイアン様式のファサード、典型的なフライング・パッドレスが見られ、内部は高い天井に明るい陽射しがとおり、実に多彩なステンドグラスを輝かしています。堂内を歩いていくと、壁に大きなプレートがかけられ、第一次大戦で死んだ教区の若者たちの名前が千人を越える数で刻まれています。右手の礼拝堂に入ってみると、なぜか円形の壁にぐるりとジョルジュ・ルオーのリトグラフ『ミゼレーレ』のうち10枚が飾られています。ベルヴィルで生まれたルオーがステンドグラス職人の見習いとして最初に手がけたのが、このサン・セヴラン教会のステンドグラスの修復だったことと関係しているのでしょうか。

 

 サン・セヴラン教会からセーヌ川に出て東に歩くとすぐに貧民救済博物館Musee de L’Assistance Publique –Hopitaux de Parisがあります。建物は王室建築家フランソワ・マンサールによって17世紀に建てられたミラミヨン館という立派なもので、向かいにノートルダム寺院を見る絶好の位置にあります。受付には眼鏡をかけた冷たい感じの女性が一人座っています。ここで一人4ユーロ払い、パンフレットをもらって二階に上がります。展示室に入ると、看護学校生とみられる少女たちがたくさん来ていました。熱心にメモを取っている少女もいましたが、大半は休憩用のソファに座っておしゃべりをしています。彼女たちを除くと、見学の人は私たち以外誰もいません。

 この館は中世からのフランスにおける貧民、捨て子の救護医療の歴史が展示されています。また、かつての手術用具や、医療器具などもあり、それに関した絵画や彫刻が多数展示されています。しかし、もっとも多く展示されているのは、文書、手紙の類で、それらが収められているケースには黒い布が被せてあって、読んだらまた覆っておかねばなりません。むろんフランス語の文章ばかりで、読んでいくのはとても疲れます。全体的に地味な展示で、これで4ユーロは高いような気がしますが、無料にしてもほとんど見学客は来ないでしょう。メルシェの『十八世紀パリ生活誌』によると、18世紀までのパリの衛生・施療事情は最悪で、フランスの地方都市の水準にも達していなかったようです。瀕死の病人が運び込まれるオテル・デュー(市立病院)は、風通しが悪く、空気は淀んでおり、病人はただ寝かされ、死ぬのを待つだけだったとも云われています。当時のイスラム世界の明るく清潔な医療施設とは比べものになりません。17世紀の聖ヴァンサン・ド・ポールは、貧しい人たち、捨てられた子供たちの救護のために力を尽くしましたが、それはまた、上流社会の要請でもありました。自分を養えない貧民の増加は、社会全般のモラルの低下を招くと考えられていたからです。聖ヴァンサン・ド・ポールの訴えに賛同して、自らの館を貧しい人や病人のために開放したのが裕福な未亡人Madame de Miramiyonでした。これが、このミラミヨン館の起こりです。

気になった展示を二つ。どれも捨て子に関するものですが、まずLe Tour(塔)といわれる捨て子を置く装置です。17世紀頃、子供を育てられない親は、殺してしまうか、宿屋や教会の前に赤ん坊を置き去りにしていました。そのような危険な捨て方から赤ん坊を救うためにLe Tourは発明されたのです。扉を開けて四角い置き場所に赤ん坊を置き、回転させると裏側の病院内部の部屋に赤ん坊が送られるのです。それが立体の動く模型で作られていて、母親が赤ん坊を置くと、180度回転して、今度は聖ヴァンサン・ド・ポール病院の看護婦がその赤ん坊を取上げているのです。こうして、親は顔を見られずに子供を捨てることができるのですが、しかし、生活のためとはいえ、わが子を捨てざるをえない親の気持ちはいかばかりであったでしょうか。もう一つの展示は、その捨て子の足に結び付けられていた、金属、布、手紙の類です。一枚の手紙は、ギザギザに切り取られており、いつか、生活に余裕ができたら子供を迎えに来ようともう半分をidentificationのため切り取ってあるのです。

 

息が詰まるような貧民救済博物館を出て、私たちはセーヌ川を西に歩いて、ポン・ヌフの手前で左に曲がり、サン・ジェルマン・デ・プレに向いました。妻が、パリを発つ前にドゥー・マゴで食事がしたいというのです。サン・ジェルマン・デ・プレ教会のすぐ前にあるカフェ・ドゥー・マゴはパリでもっともよく知られたカフェの一つですが、私たちのような貧民にはやや敷居の高い料金表が貼ってあります。思い切って入ってみると、店内は思ったよりも明るく、活気に満ちています。昼時で混雑していますが、観光客でしょうか、女性の客が多いのが目につきます。私たちは、ここでビールと軽食とコーヒーをとりました。コーヒーにはチョコレートがついてきます。ギャルソンはたいへん感じがよい。向かいの席の中国人の家族はあわただしく食事をして、あわただしく出ていきました。

 

レンヌ通りを歩いて左に曲がり、サン・シュルピス寺院に向います。途中にあったチョコレートの店、ピエール・エルメに入ってみると何とさきほどの中国人の家族が何箱も買っているのに驚きました。サン・シュルピス教会の左塔とヴィスコンティ作の噴水は前回の滞在では工事中で見ることができなかったのですが、今回はゆっくり見ることができました。妻は、教会内部にあるドラクロアの画をたくさん写真に撮っています。私は、この壮大な教会の椅子に座って、ステンドグラスから降り注ぐ七色の光を浴びながら、物思いにふけっていました。何を考えていたか、むろん、家で待つルーミーのことですが、今回のパリ旅行では何度か具合が悪くなって、無事に日本に帰ることができるのか心配になったこともありました。パリの街を歩くのは心慰められることだが、家の畳の上で、猫と昼寝をすることもそれに勝る安らぎがあります。

 

サン・シュルピス寺院からフェルー通りをリュクサンブール公園に下っていきます。途中にL’Age d’Hommeという出版社があって、その一階が本の倉庫と自社の本の売場になっているようです。ウインドウに並べられた本をぼんやり見ていると、トマス・ウルフ『時と河Le Temps et Le Fleuve』がありました。ほかにも、レベッカ・ウエスト、G.K.チェスタートン、などが並んでいます。店の中に入ろうとして、扉を開けようとするが開きません。奥から女性が出てきて、壊れているから強く押してくれとのこと。店内は、本が書棚に倉庫のようにきれいに並べられています。妻は、梯子に乗って、厚い二巻本のレオン・ブロアの『未刊の日記』を手にとって考えています。その隣りにはジュール・ラフォルグの最初の完全版の三巻全集があります。ここは、ときおり詩の朗読会なども開かれているということです。私たちが本を見ていると、いつのまにか客が何人か入ってきて、店の人に質問したりしています。カタログを見てみると、ジョヴァンニ・パピーニ『キリストの話』、アーナンダ・クマーラスワミー『芸術における自然の変転』、ヴァシリー・ローザノフ『我らの時代の黙示録』、オクターヴ・ミルボー『書簡集』などもあります。プレイヤッド文庫に似ているDossier Hという一人一巻本の叢書には、ジョセフ・ド・メーストルやルネ・ゲノン、マックス・シュティルナーなどの名も並んでいます。このL’Age d’Homme書店は、ユーゴスラヴィアから逃れてきたウラジミール・ディミトリェヴィッチが1966年にスイスのローザンヌで始め、後にパリに拠点を移したものです。当初は、ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフに収斂されかねないスラブ文学の中に、アンドレイ・ベールイやアレクサンドル・ブローク、ニコライ・レスコフなどを紹介する目的を持っていましたが、次第にスイス関連の作家、そして世界的規模での文学、エッセイ、詩、宗教思想などの本を出版していきました。ディミトリェヴィッチが祖国を脱出するとき、肌身離さず持っていたのはトマス・ウルフの本で、その追放された天使(Ange exile)というイマージュは、彼の出版物の根底に貼り付けられているようです。

 

リュクサンブール公園へ。テニスコートの脇の東屋へ行くと、チェス盤が刻まれたテーブルがたくさん置かれて、どのテーブルでも人々がチェスを指しています。天気が良いので、東屋の外のテーブルでも、多くの人が自ら持ってきたチェス盤を広げて楽しんでいます。半数以上は持参のチェス・クロックで時間を計りながら指しています。ギャラリーの数も多く、終盤のぎりぎりの戦いではどこも異様な必死さが感じられてきます。学生、勤め人、老人、ユダヤ人、女性の姿も見えます。もっともギャラリーの多かったのは、車椅子にすわって指している脳性まひの男性の対戦でした。わけのわからない言葉を発しながら、それでも不自由な指で的確に指しています(チェス・クロックも器用に押しています)。中年男性と学生の対戦が始まったので見てみましたが、男性はナイトのオープニングから4手目で入城し、ビショップを犠牲にしてクイーンとナイトで電撃アタックをかけています。これは私の常用の(といってもチェスソフト相手ですが)作戦の一つで、てっきり私が発明したと思っていたので驚きました。結局、男性は無謀な攻撃がたたって終盤劣勢に追い込まれましたが、それでもしぶとく諦めません。頑張ったが、ついに時間切れで、「トンベ(針が落ちた)」といって席を立ちました。顔は興奮で真っ赤です。

 

公園を出る前にトイレに入ろうとして、リュクサンブール公園の公衆便所に行きました。なぜか便所の横に警官が一人立っています。入ろうとすると、白髪の男が顔を出して、よく見ると立て看板にcabinet 0.6ユーロと書いてあります。妻と二人分1.2ユーロを出そうとしましたが、あいにく小銭がありません。10ユーロ札を出すと、男は3.8ユーロしかおつりをくれません。片方の手には、あたかも今受けとったかのように5ユーロ札が握られています。私は「サンキューロ(5ユーロ)!」と言って男の手から5ユーロ札をむしりとりました。男はチェッとした顔をしています。辰野隆が初めてパリに着いた時、遣り手婆の悪態に、「espece de ,,,(このやろう)」と言い返したのを思い出して、何か一言投げつけたかったが、よく考えてやめました。

 ところで、日本のように駅ビルに無料の温水洗浄便座があるのが普通のような国にいると、パリのトイレ事情は何とも我慢ができません。アーセナルの監督であるフランス人アーセン・ベンゲルは、かつて、日本のように豊かな国が、なぜサッカースタジアムを造るとき、ついでにトラックを付設してしまうのか、と苦言を呈したことがありました。しかし、その伝でいけば、パリのように多くの宝物・価値ある文化財を有する豊かな都市にとっては、(ましてや世界一の観光都市であるのに)、街中の公園、広場、駅、街路に無料のトイレを設置して常に清掃しておくことなど簡単なことではないでしょうか。そうしないのは、やはり、中世以来の国民性、トイレなどに金を使うのは無駄だという心持によるのでしょうか。母はいつも、玄関と厠を見ればその家の程度がわかると言っていたので、母が生前にフランスを旅していたら、きっと非文化的国家とみなしていたでしょう。

 

 夕方になったので、預けてある荷物を取りにホテルに戻りました。メトロで、シャルル・ドゴール・エトワールへ。エール・フランスのリムジンバスで一路ロワッシーに向います。暮れ方のパリは、夜の歓楽の準備をするように、何かけだるい雰囲気がそこここに漂います。渋滞でやや時間がかかったが、何とか空港に着きました。すでにチェック・インは済ましてあるので、荷物を預ける前に、ラウンジでのんびりしていました。大きな土産物店があったので、妻に荷物を見張ってもらって、私一人で買いに行ってみると、新聞や雑誌や本も売っています。ユーロの硬貨がまだ残っていたので、何かいいものはないかと探すと、1.5ユーロ(200円)均一のPocket Classiquesなるペーパーバックのシリーズが売られていました。私はそこでフロベールの『三つのコント』を買って妻のところに戻ると、今度は妻が店に出向いてフィッツジェラルドの『ベンジャミン・バトン』を買ってきました。私は、まだ硬貨が使いきれてないので、また店に行って、妻は持っているが私は持っていないボードレールの『悪の華』を買いました。ポケット・クラシックは他にはメリメの『イルのヴィーナス』しか売っていなかったのですが、メリメのこの短編は彼にしては傑作とも思えないので買いませんでした。ページ裏の案内を見ると、このシリーズは、できるだけ安い価格で多くの人に手軽に古典を読んでもらうために始められたようで、テキストはほぼすべて全文が収録してあります。目ぼしいところを挙げると、コルネイユの『ル・シッド』、ディドロ『ブーガンヴィル航海記補遺』、マリヴォー『愛と偶然の戯れ』などですが、面白いのは『愛・関係・放蕩』と題して、ラクロの『危険な関係』からの393の引用で成り立っている巻です。

 

 さて、荷物を預けて、エール・フランスの出発ラウンジへ。免税店で買物をしたら、レジの女性が「目的地は上海ですか?」と英語で聞いてきました。中国人に間違われたのは初めてで、かなり驚きました。 夜の出発というのは何か陰気な感じがします。ゲートの開くのを待って、ベンチには多くの日本人がすわっていますが、みな疲れた顔をしています。妻ははやくも眠そうな顔をしています。搭乗が始まって、みなが解放されたような、しかし、やや重苦しい足取りで飛行機に通ずる明るいトンネルの中に入っていきます。これが地獄への道だったとしても何の不思議もなかったでしょう。というのも、後はぎゅうぎゅうづめの客室に押し込まれ、椅子に縛りつけられ、顔も知らぬ操縦士に運命を任せて、12時間無事に着くことだけを願うしかないのですから。むろん、私は、61日のブラジル沖でのエール・フランス機の事故のことを考えています。機体も同じA330なら、運命の針の触れ具合に背筋が寒くなる思いがするのは当然でしょう。

 

 飛行機は定刻に、無事、シャルル・ドゴール・空港を飛び立ちました。私にとっては、また憂鬱な時間の始まりです。妻が本を読み出したので、私も買ったばかりの『三つのコント』を読み始めました。2万語を使って書いたといわれるフロベールの著作を辞書なしで読むなどできない相談ですが、私は常時電子辞書を携帯し、しかも辞書を引く苦労をまったく厭わない、むしろ好みなので、わからない単語が頻出しても意に介さないのです。しかし、わずか1ページ半読んだだけで疲れてしまい、ミネラル・ウォーターを飲みながら音楽を聴いていました。そのうちに食事になったのですが、エコノミー・クラスの食事はどうしてこんなにおいしくないのかわかりません。食後のコーヒーが終わると、早々と灯りは消されましたが、むろん眠ることなどできません。妻が、アイスクリームを食べたいというので、後ろの給湯室に出向きましたが、そこはすべてセルフサービスで人がいっぱいです。みな我先にアイスクリームやサンドイッチやカップめんや飲物に群がっています。一人が戸棚を開けて新しいアイスクリームの箱を見つけて取り出すと、いっせいに手が伸びて、あっという間に箱は空になりました。ハーゲンダッツを持って妻のところに戻ると、地獄から抜け出したようにほっとした気持ちになりました。

 いつのまにか、妻が眠りに落ち、話し相手がいなくなったので、珍しく映画でも見てみようかという気になりました。実は、毎週末は夫婦でDVDで映画を観るのが楽しみなので、機内の小さな液晶画面での(しかも吹替え)映画は見るつもりはなかったのですが、クリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』の誘惑には勝てませんでした。(ネタばれはありません)。悪条件での鑑賞ながら、ただちに映画の中に引っ張り込まれ、終わるまで夢中で観ました。ところで、この映画の秀逸さは、グラン・トリノという題名そのものです。フォード72年型グラン・トリノ。深緑のボディーはきわめて美しい。主人公が、日本車のディーラーである息子を軽蔑するのもよくわかります。エコ車など、何の魅力もありません。グラン・トリノという忘れられた車の中に、この映画のすべてが集約されています。

56日夕方4時に成田着。急いで家路につきます。扉を開けると、玄関で待っているはずのルーミーの姿が見えません。台所にも居間にもいません。ようやく、本を置いてある部屋の隅に隠れているのを発見しました。妻が抱き上げると、安心して、妻の頬をぺろぺろ舐めはじめました。8日ぶりの再会でした。(パリ再訪 了)

Stsevrin

ホテルのすぐ近くのサン・セヴラン教会。サン・ジャック通りからその後姿を写しました。正面のファサードは、ユトリロが印象深く描いています。

Agedhomme

サン・シュルピスからリュクサンブールに至るフェルー通りにある出版社L'Age d'Homme。ウインドーには私好みの本ばかり並んでいます。社名はミシェル・レリスの『成熟の年齢L'Age d'Homme』から採ったのでしょうか。





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