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2009年6月 3日 (水)

パリ再訪(4)ベルヴィル

51日(金)

 花、花、すずらんの白い花、51日、パリでは愛する人にすずらん(muguet)を贈る日です。どこの街角でも、少女や婦人や年寄りや中年の男性まで、卓を出し、あるいは花束を抱えて、道行く人々にすずらんを売っています。5ユーロから10ユーロで、人々はすずらんを買って贈ります。女性は手で持ったり、胸に着けたり、男性は帽子につけたり、耳にはさんだり、胸ポケットに差し込んだりしています。 

 ベルヴィルには私一人で行くつもりでした。妻はおそらく一人で買物にでも行くだろうと思ったのです。しかし、やはり一緒に行くことになって、私の中には一抹の不安がよぎります。というのも、一昨日、パッシーを訪れた時、裕福な人々が住むその華やかな通りを妻がたいへん気に入っていたからです。華やかな中にも生活の匂いがして、人々が活き活きと行き交い、子供さえもすまして化粧しています。そんな西の街パッシーに対して、東のベルヴィルはその正反対の移民と低所得労働者の町です。妻がこんな町を気に入るわけがありません。

 

 シャトレ駅でメトロ11番線に乗り換えてベルヴィル駅へ。地上に出ると、そこはベルヴィルの交差点で、ちょうど10,11,19,20区の交わるところにあるのです。西のベルヴィル通り(Rue de Belleville)はベルヴィル墓地を通ってポルト・デ・リラまで続き、南に伸びるベルヴィル大通り(Boulevard de Belleville)はペール・ラシェーズ墓地にぶつかります。

 今日は金曜日でベルヴィル大通りには市が立っています。何と人の多いことでしょう。皆、食料品や日用品の買出しに来ています。白人、アラブ人、黒人、アジア人、彼らは皆庶民の顔をしています。観光客など一人も見えません。地下鉄出口のすぐ横から市場は始まっています。野菜、果物、魚、肉、パンなどの食料品、しかし、ここではラスパイユやグルネルの市場のようには整然と並べられてはいません。雑然と積み上げられているのも多く、値段も安い、そして、売り手の男たちの高い声が響きあってうるさいほどです。歩くのもたいへんで、正月の浅草仲見世のごとく押し合いしながら前へ進みます。面白いのは、時計やベルトや洋服や小道具・おもちゃなどを売っている店で、かなりいかがわしいものが並んでいて、思わず手にとってみずにはいられません。背の低い老人が私のバッグの開いたポケットを指差して、「気をつけないと盗まれちゃうよ、ムッシュー」と親切にも注意してくれました。

 私は、東京の下町の縁日の人込みや商店街の雑踏に慣れて育ったので、ベルヴィルの市場のような気取らない、騒々しい、怪しげな露店を見て歩くのが好きなのです。市場の外れまでゆっくり見て歩きたかったのですが、妻は明らかにこの雰囲気に圧倒されて早く市場から抜け出したがっているようです。しかたなく、ベルヴィル大通りの歩道に出て、1ユーロ均一の店が立ち並ぶ通りを見て歩きました。

 

 やはり、一人でくればよかったかなと思いながら、ベルヴィル大通りから東に曲がり、すぐ近くのベルヴィル公園を目指します。静かな坂道を上っていくと、中国人の親子がふざけながら坂を下りてきました。母親と二人の子供、パリでこんな楽しそうな中国人を見たのははじめてです。そういえば、このあたりは中国系の住人が多そうなのが、窓から干してある洗濯物でわかります(パリでは外に干してはいけないのですが)。ベルヴィル公園の入口に来ました。この広くない公園は、ひたすら階段で上へ上へと登ります。頂上に展望台らしきものがあって、そこからパリの景色を一望できます。やや霞んだ空の中に、エッフェル塔、モンパルナス・タワー、サクレ・クール寺院などがそびえるように立っています。ベルヴィルは、その昔、ポワトロンヴィルという村でした。しかし、その頃から、みな、ここをベルヴィルと呼んでいたのです。Belle Villeとは美しい町という意味ですが、実はBelle Villeとはパリのことなのです。かつて、ここはパリ市ではなく、市外のさびしい村でした。東から来た旅人が、この丘からはじめてパリの市内を遠望したとき、Belle Ville!「なんて美しい町だろう!」と叫んだことが町の名の由来のようです。

 

 ベルヴィル公園を出て、北へ向って歩きベルヴィル通りへ降りて行きます。この近くのヴィレット通りでは、ベルヴィルの生んだ二人の天才の一人、画家のジョルジュ・ルオーが生まれています(もう一人はエディット・ピアフ)。ルオーの父親は、プレイエルの工場でピアノの塗付けの仕事をしていました。ルオーは、この父親から職人の仕事にたいする敬意を受け継いだのです。家族は、近くのサン・ジャン・バプティスト教会に通う熱心なカトリック教徒でした。少年ルオーはサン・ミッシェル広場近くのサン・セブラン教会のステンドグラスの修復をすることでそのキャリアをはじめています。

 ベルヴィル通りを上っていきます。小さなクレープ屋やコインランドリーや狭い食料品店が並びます。パリのどこにでもある活気ある洒落たカフェーなどはなかなか見つかりません。小さなカウンターとスチールの椅子がある薄暗いカフェーで、人々は朝からビールを飲んだり、ハムや野菜をはさんだパンを食べています。通りのそこかしこに場末の匂いが漂います。おそらく、ベルヴィルのもっとも賑やかな時代はもう終わってしまったのでしょう。 20世紀の初頭、ここには製靴工場や織物工場などが並び、女子工員があふれ、それを狙った男たちがカフェーやレストランにたむろし、週末には映画館、ダンスホールが満員になったのです。また、近くのサン・マルタン運河やサン・ドニ運河で荷揚げをする労働者たちも集まってきました。低所得者たちの小住宅や集合住宅がならび、子供たちがそこかしこで遊び、広場には何と観覧車も回っていたのです。そして、ベルヴィル名物の急坂を登るために、今モンマルトルにあるようなケーブルカー(funiculair)が、レピュブリック広場からサン・ジャン・バプティスト教会を結んでいました。

 

 しかし、ベルヴィルはまもなく移民の波にのみ込まれます。とくにアジア人、ユダヤ人(マレ地区のユダヤ人がスペイン系なのに対してベルヴィルのユダヤ人は東欧系)、アラブ、アフリカの人たちが集まり、ベルヴィルの様相は変わっていくのです。

 ベルヴィルが、いわば根無し草のような労働者の町になり、今、移民の町になっている理由は、おそらく、パリという町の閉鎖性にあるのでしょう。パリというとボヘミアンたちの町という側面が強調されますが、パリには、生まれた地域で育ち生涯そこから離れない人がたくさんいます。なぜか?パリ以上の町など世界中どこにもないからです。そして、地方からパリに流入してきた人々はそれぞれの地域のコミュニュティで強固な連帯の絆を作り上げます。たとえば、私たちが前回滞在したモット・ピケ・グルネルのある15区はブルターニュ出身者の作り上げたコミュニュティが根幹になっているといわれますが、黒人やアラブ人が極端に少ないのはそのためでしょう。実は、ベルヴィルにも古い住民がいて、その特徴は反政府的ということです。共産党のもっとも活動的な支部はベルヴィルにあったし、1870年のパリ・コミューンでは激しい戦いがベルヴィルとその隣の町メニルモンタンで戦われました。(敗れた国民軍の兵士はペール・ラシェーズの塀の前で銃殺されました)このベルヴィルのインターナショナルな性格が、他の町と比べて、移民や工場労働者を受け入れやすかったのかもしれません。

 

 ベルヴィル通りからシモン・ボリヴァル通りに入って、ビュット・ショーモン公園を目指します。私たちの前を、乳母車を押しながら子供を二人連れている白人の男性が歩いていました。おそらく、祭日なので、子供たちをビュット・ショーモン公園で遊ばせようとしているのでしょう。私たちが、後をついていくと、案の定、公園の入口までやってきました。

 ここは、間違いなくパリでもっとも美しい公園です。もともとは、浄水場とゴミ捨て場だった広大な土地を1867年、ナポレオン三世が、気鋭の造園家バリレ・デシャンと建築家ダヴュー、そしてベルグラード出身のエンジニア、ジャン・シャルル・アルファンに命じて見事な公園に変身させたのです。彼らは自然の起伏をうまく利用して、山あり谷ありの道を作り、運河から水を引いて大きな池を作り、小島を作り、滝を落とし、大木をめぐらせ、小鳥や水鳥が集う楽園に作り上げました。完璧に計算された公園でありながら、自然をそのまま残したような素朴さと興趣に満ちています。

 祭日なので、広い公園のあちこちに人の姿が見えます。ダンスをしたり、大道芸の練習をしたり、寝そべったり、私たちの前を歩いていた親子も、芝生の上でお弁当を広げて食べ始めました。人々の顔は何と楽しげな明るい顔に輝いているのでしょう。子供たちは思う存分走りまわり、親たちは人生の束の間の休息を楽しんでいます。ベルヴィルの坂を何とか上ってきた妻も、この解放的な自然の明るい気分にすっかり魅惑されたようです。

 

 ビュット・ショーモン駅からメトロでレ・アルまで。モントルグイユの市で食物を買おうとしたのですが、もう市は店じまいした様子です。ここもサン・ミッシェル界隈と同じくレストランが乱立していて観光客がいっぱいです。通りのそこかしこにすずらんの花を売る人が立っています。私たちは、パリ最古のパティスリーとして知られるストレールで、ほうれん草のキッシュとチョコレート・エクレアを買いました。とても暑いので、近くのサン・トゥスタッシュ教会に入って椅子にすわり涼んでいたのですが、何と私はそこの椅子に帽子を忘れてしまいました。ホテルに帰る地下鉄の中で気づいた時はすでに遅く、取りに帰る気力もありません。「パリで帽子を買って帰ろうよ」と妻は慰めてくれましたが、私がトランクから予備の帽子を取り出すのを見て驚きました。

 ホテルで、ストレールで買ったキッシュとエクレアを食べました。キッシュはまあまあですが、エクレアは繊細すぎて物足りません(私はエクレアにはいつも過大なものを要求します)。着替えてから、金曜9時半まで開いているルーブル美術館に行こうとホテルを出ました。天気が良いので、ブキニストをひやかしながら、セーヌ河畔をルーブルまで歩いていくことにしました。夕方のさわやかな風が吹いています。セーヌ河畔は、恋人同士、若者同士、観光客の群れでいっぱいでした。今回の滞在ではなぜか日本人とほとんどすれ違いません。セーヌ川をゆっくり走るバトー・パリジャンはいつものように観光客で鈴なりです。こんな光景を見ると、世界がインフルエンザの蔓延に緊張していることが嘘のようです。

 

 ルーブルに着き、先っぽのライオン門から入ろうとしたら、何と51日は休館日でした。ガクっと膝から崩れ、疲れがどっと出たようで、今日これからどうしようか途方に暮れました。ゆっくりとレストランで夕食をたべようかと思いましたが、キッシュが腹にもたれて食欲が湧きません。そのとき、妻が、ホテルの近くで見たチラシのことを思い出しました。実は、今朝、ベルヴィルに行くためホテルを出ると、すぐ横の壁に教会でのコンサートのチラシが貼ってあったのです。サン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会はホテルのすぐ近くにあって、そこで夜8時半から「アヴェ・マリア」と題して歌とピアノ演奏があるのです。料金は18ユーロと23ユーロで、決して安くはないので、どうしようか迷っていると、浮浪者のような身なりの中年男性が汚い手押しのカートを引いてきて、その中から「Ce Soir!(いよいよ今夜!)」と書いた紙を取り出し、チラシの上に貼りました。私たちがチラシを見て考えていると、「今夜だよ、とてもいいからぜひ来なさい」というのです。妻が丁寧に「ジュ、レフレシーレ(考えてみます)」というと、チラシの電話番号を指差し、「電話すれば確実に席がとれるよ」と教えてくれました。今、そのことを思い出して、ルーブルが閉まっているのなら、そこに行こうと私たちは決めました。しかし、まだ席は残っているでしょうか。私たちは急いで地下鉄でサン・ミッシェルまで帰り、ホテルに寄らず、まっすぐサン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会に行ってみました。教会の前で神父がチケットを売っていたので、私たちは安いほうの18ユーロ(2350円)の券を2枚買いました。神父の話では18ユーロの席は側廊で23ユーロの席は真ん中だそうです。

 

 まだ時間があったので、いったんホテルに帰り、着替えてから開演30分前にホテルを出ました。サン・ミッシェル界隈の雑踏を抜けて、サン・ジャック通りを渡るとそこにサン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会(Eglise Saint-Julien-le-Pauvre)があります。おそらく、私がパリで見たもっとも小さな教会でしょう。ロマネスク様式の低い愛らしい建物です。中に入ってみると、受付に、今朝チラシを貼っていた中年のおじさんがいて、今夜のプログラムを売っていました。私たちの顔を覚えていて、「ボンソワール」と笑いながら挨拶してくれました。私が3ユーロのプログラムを買うと、おじさんは私が渡した18ユーロのチケットを見て、いたずらっ子のように目くばせしながら、23ユーロの席を指差しました。おそらく、遠い日本から来た観光客だと思ってサービスしてくれたのでしょう。私たちは小さな声でメルシーと言って、好意を素直に受け、真ん中の席にすわってしまいました。

 

プログラムによると、この教会は12世紀に出来たパリ最古の教会だそうです。そういえば、かなり古く、どこかロシア正教の雰囲気もあって、スペインの古い小さな教会を思わせます。教会の名の由来は304年にローマで殉教した聖ジュリアンと、中世の「貧者Pauvre」といわれた聖ジュリアンSaint Julien l’Hospitalierに由来するそうです。後者の聖ジュリアンは、あのフロベールの『三つの物語』の中の「聖ジュリアン伝」の主人公その人です。領主の子でありながら、逃れられない忌まわしい罪を犯したジュリアンは、その罪ゆえに、人々に蔑まれ、遠ざけられ、唾を吐かれながら、各地を放浪していきます。あるとき、ジュリアンは渡し守のいない川にぶつかりました。彼は、朽ちていた舟を修理し、川辺にみすぼらしい家を建て、人々のために無償で渡し守の苦役をつとめます。嵐の夜に、彼が小屋で休んでいると、闇の奥から誰かが自分の名を呼んでいるのに気づきます。外に出ると、向こう岸に船を待つ男の姿が見えました。ジュリアンが対岸に着いてみると、その男は全身らい病に覆われ、かさぶたからは膿が吹き出ています。ジュリアンはその男を舟に乗せて渡し、小屋に入れて焚火にあたらせます。「寒くてたまらないから、お前の体でわたしを暖めてくれ」と男は言いました。ジュリアンは着物を脱ぐと、裸の胸を男の膿だらけの胸に重ね、病で崩れた顔をしっかりと抱きしめ、爛れた唇に唇を押し当てます。瞬間、小屋は光に満たされ、男は輝くイエス・キリストに変身し、ジュリアンをやさしく抱き返すのです、、。

 

祭壇の前にはスタインウェイのグランドピアノが置かれています。時間になって、歌手と演奏者が登場しました。黒いドレスを着て登場したのは、オペラ座以下フランスの各劇場で活躍しているソプラノのエドヴィジェ・ブルディー、ピアニストはフィリップ・アレグレという人で、二人はともにトゥールーズ音楽院を卒業しています。

まず、ペルゴレージのSe tu m’amiからはじまって、アヴェ・マリアを含むシューベルトの曲が三つ、さらにグノー、カッシーニのアヴェ・マリア、ヘンデルのヨシアなどが歌われました。とくに、シューベルトはすばらしく、そのセレナーデには深く感動しました。その後、ショパンの嬰ハ単調のノクターンが弾かれ第一部が終了しました。妻は狭い教会堂の中に響き渡る美しい歌声にすっかり魅了されていました。パリでは、このような教会コンサートがほぼ毎日どこかで開催されているのです。

第二部は、アメイジング・グレイスなどの黒人霊歌やイタリア・オペレッタの歌が続き、夜10時頃終演しました。終わりの挨拶に出てきたのは、何と私たちを23ユーロの席にすわらせてくれた受付のおじさんで、彼がこのコンサートの主催者のようです。妻も私も満足して教会を後にしました。今日は失敗が続いたけれど、最後は気持ちよく眠りにつけそうです。

夜のサン・ミッシェル界隈は混雑をきわめていました。レストランで食べるほどお腹は空いていないので、チュニジアの菓子店でクレープを買うことにしました(私はこの菓子店が気に入ってしまったのです)。髭を生やした菓子店の主人は白衣を着ているのですが、パティシェというより肉屋に見えるのがおかしいのです。チーズ・クレープを頼んだのですが、フランスのクレープは日本のよりも厚く、しかもチーズをこれでもかというほど大量に挟みます。ホテルに帰って、ペリエを飲みながら二人で半分ずつ食べて、それでお腹いっぱいになりました。

 

Bellevillemetro
メトロのベルヴィル駅を出たところ。すぐ右から市場がはじまっています。向かいの建物群は古き良きベルヴィルをしのばせる雰囲気があります。

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ビュット・ショーモン公園の前ですずらんの花を売る子供。私がもしベルヴィルに生まれていたら、やはり小遣い稼ぎに花売りの手伝いをしたでしょう。

 

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コメント

ベルヴィルについてのブログ、楽しく拝見いたしました。その地に立って眺めたパリの街が”ベルヴイル”といった事、、、、いろいろ教わりました。ありがとうございます。

投稿: ワイン | 2012年3月16日 (金) 22時34分

ワインさん、コメントありがとうございます。
ベルヴィルのことはダビのFaubourg de Paris (パリの下町)という本から教えられました。モンマルトルに住んでいたダビは、子供の頃、休日になるとパリの外側を走る汽車に乗って、メニルモンタンに住む祖母の家に遊びにきていました。パリ・コミューンを経験していた祖母は、少年のダビに昔日のベルヴィルの姿を活き活きと話してくれました。この運河の街に対する愛情は名作『北ホテル』となって結実します。
それではまた。

投稿: saiki | 2012年3月18日 (日) 22時07分

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