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2009年6月21日 (日)

パリ再訪(7)カルチェ・ラタン

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 帰国前日の今日は予備日として何の予定も入っていませんでした。適当に散策することにして、まず、セーヌ川をはさんですぐ向かいのオテル・ドゥ・ヴィル(パリ市庁舎)で催されているプチ・二コラ展へ行ってみることにしました。この市庁舎はなかなか立派な建物です。入口に、屈強な黒人のガードマンがいて、入場制限をしているので待て、といわれました。どうも冗談の通じるような相手でないので、向かい合ったまま黙って外の舗道で立っていました。さて、入ってみると、子供ばっかり、どうやらクラス全部で見学に来たようです。展示会場の奥に大きなテーブルがあって、そこに色鉛筆、ソフトペン、画用紙などが置いてあって、誰でも勝手に絵が描けるようになっています。もちろん、子供たちはプチ・二コラの絵を描いているのですが、それが何とも面白い。私も描いてみましたが、やはりどうもうまく描けません。片隅に作者ルネ・ゴシニの使ったタイプライターとぼろぼろになったラルースの辞書が置かれていました。ル・プチ・ニコラはルネ・ゴシニと作画担当のジャン=ジャック・サンペとのまさに奇跡的なコラボレーションによって成り立った傑作シリーズで、フランス語学習の初期には誰でも読んだことがあるでしょう。

 

 オテル・ド・ヴィルを出てから真向かいのB.H.B(ベー・アッシュ・ベー)という百貨店へ。東急ハンズをややお洒落にしたようなデパートでそれほどの新味はありません。その後、マレ地区までぶらぶら歩き、フランス歴史博物館(ズービーズ館)へ。3ユーロ払って見学したものの、退屈してすぐ出てきました。それから歩いてサン・ジャック塔(これも大したことはありません)を見て、サン・ミッシェル橋を渡って、再びホテルの近くまで帰ってきました。橋のたもとにあった楽譜屋をのぞいてみましたが、昼食休憩ということで閉めだされ、サン・ミッシェル広場横のジベール・ジュンヌのエゾテリスム専門書店へ向いました。若い頃、この本屋でルネ・ゲノンの『ダンテのエゾテリスム』を買ったのですが、その頃は入ってすぐ右側にゲノンの著作が他を圧するようにずらり並んでいました。ところが、今はゲノンの本は奥の狭く暗い通路に数冊あるだけで(隣にエリアーデが数冊)、大半は怪しげなオカルト本です。おまけに仏像が飾ってあったり、お経のような音楽が流れていたり、香が焚かれていたりで、いたたまれなくなってすぐ出てきました。 

 

 ホテルには寄らず、お腹が空いたので、オデオンの四辻(Carrefour de l’Odeon)に食事に行きました。ここはいつも活気があって、人通りが絶えません。この四辻に立つと、オデオン通り7番地にあったアドリエンヌ・モニエの有名な貸本屋「本の友の家」のことを思い出します。20世紀初頭、そこはパリの、いやパリ以外のどこにもありそうもない、文学的出会いの場でした。ヴァレリー、ジッド、パウンド、ジョイス、ヘミングウェイ、ヴァレリー・ラルボー、ベンヤミン等々がオデオン通りのモニエの店を訪れたのです。その頃、ベンヤミンはカルチェ・ラタンやサン・ジェルマン・デ・プレのホテルを渡り歩きながら、乏しい原稿料に頼る不安定な生活をしていました。彼は、モニエへの最後の手紙の中で、「私たちが出会い、話したあのオデオンの四辻ばかりでなく、私たちの中の思い出の四辻の一つ一つで」あなたを思い出すだろう、と書いています。

 さて、オデオン通りの入口にあるカフェ、レ・ゼデゥトュールへ。「出版社」という名の通り、店内の四隅にはずらりと書棚が並んでいます。非常に繁盛する店で、昼時ということもあり、インテリっぽい男性女性でいっぱいです。若いギャルソンが忙しそうに動き回り、ひっきりなしの会話、食器の音、それらが反響して、書棚の書物をゆっくり検分する雰囲気ではありません。私たちははサラダとパンとデザートを食べ、食後に私はたくさん置かれた新聞棚からフィガロ紙ををとって読み始めました。パリの新聞はいろいろ読んでみましたが、フィガロ紙が私にはいちばん読みやすく簡明で頭に入るようです。

 

 オデオンからサン・ジェルマン大通りを東に向って進み、サン・ミッシェル大通り、サン・ジャック通りを過ぎました。この辺は古本屋が多く、私はカーディナル・ルモワーヌの古書店でバーゲン本を見てみました。フランス語の古書は、妻に頼むと、すぐアマゾンなどで安いのを探して注文してくれるので、パリでわざわざ高いのを買う気になれません。店頭の箱から、マルセル・シュオッブ『モネルの書』(3ユーロ)、サント・ブーヴ『婦人たちの肖像』(5ユーロ)を見つけ出しましたが、ペーパーバックでビニールにしっかり包まれているので中身が確認できず買うのを諦めました(サント・ブーヴの本は後で後悔しました)。そこからメトロのジュシーまで歩くと、駅の近くの古書店で「エゾテリスム本80%OFF」の張り紙が。ところが店内に入ってみると、低俗なオカルト本ばかりです。今やパリではエゾテリスム(秘教主義)というと、この手の本ばかりなのでしょうか。

 帰り道、カーディナル・ルモワーヌの交差点際のカフェでエスプレッソを飲みました。オデオン、クリュニュー、モベール・ミューチュアリティ、カーディナル・ルモワーヌと、つまり6区のサン・ジェルマン・デ・プレから5区のカルチェ・ラタンに至る地域はもっともパリらしい、私の気に入りの地域です。ここには本屋とおもちゃ屋がたくさんあります。モベールの近くで、チェス用具専門店を見つけました。入ってみると、店内はチェス・セットが天井まで並べられています。これほどたくさんのチェス盤と駒を見たのは初めてでした。長らくチェス・セットを買いたがっていた妻は熱心に物色していましたが、やはり高く、ミニチュアサイズのものでも20ユーロ以上します。

 

 まだ夕方の時間でしたが、私が疲れたので、サンドイッチを買ってホテルに帰りました。昨日の強行軍の疲れが出たのか貧血気味で、シャワーを浴び、下着を変えてベッドに入りました。昨日と打って変わって元気な妻は、一人で夕食を買いに外出しました。目が覚めると、妻がテレビでなにやら恋愛映画を見ています。ベッドの上に、パンやヨーグルト、チーズ、イチゴなどを広げてテレビを見ながらゆっくり食べました。今回見たテレビ番組では、「クイズ・ミリオネア」がいちばん面白かったようです。形式はほとんど日本のものと同じですが、司会の男性が秀逸です。
明日はいよいよ帰国、体調を調えねばならず、夜は外出せずにそのまま寝てしまいました。

Pnicola

ル・プチ・二コラ展の入口。実写版の映画も会場で上映されていましたが、ぜんぜん面白くありません。やはり、サンペの画なしではプチ・二コラといえないのです。

Monge

カーディナル・ルモワーヌの交差点際のカフェからモンジュ通りを見渡す。有名なカフェよりも街角の平凡なカフェにすわってぼんやりするのが最上です。森有正によると、この辺りは、ユイスマンスが繰り返し描いている地域だとのこと。

 

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2009年6月20日 (土)

パリ再訪(6)クリュニュー、ギメ、バスチーユのオペラ、ポンピドゥー

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 今日は第一日曜日、主だった美術館はほとんど入場無料となる日です。まずホテルのすぐそばにあるクリュニュー中世美術館へ。ここは妻がもっとも気に入っている美術館です。午前十時、私たちが一番乗りで、古い木製の扉を開けて美術館に入りました。受付の係員はもったいぶった態度で、今日が第一日曜で、それゆえに入場料は免除されると話して、チケットを切ってくれました。しかし、無料であるにもかかわらず、見学の人はごくわずかです。私たちは、まず、入口横のグッズを売るショップに入りました。いろいろ買いたいものはありましたが、私は妻に「一角獣と貴婦人」のタペストリーをあしらった蓋付きコーヒーカップ(9ユーロ)を買ってあげました。妻は、なぜか、「猫の歴史」なる本を買っています。

 もはや、馴染みになった部屋から部屋へ巡り歩いて、最後に例の一角獣のタペストリーをじっくり鑑賞しました。「こういう美術館が、家のすぐ近くにあればいいのに」と妻は言いますが、パリの面白いところは、このような古色蒼然とした中世の建物と中世の宝物が、サン・ミッシェル界隈の雑踏のすぐ傍らにあって、しかも少しも超然としていず、日常の生活の中に完全に溶け込んで息づいていることでしょう。

 

 メトロで16区、パレ・ド・トーキョーの近くのイエナ駅へ。地上に出て、すぐ前にあるのが特徴ある丸い建物のギメ東洋美術館です。ここを訪れるのも妻のかねてからの希望でした。クリュニューと比べて、内装はたいへん新しくて明るい。アジアの、地味で重い宝物・図画・骨董の展示ながら、全館を流れる雰囲気は軽さと親しみやすさです。まさにフランス的であり、その館の大きさ、展示物の量も私の好みにぴったり適合しました。

 まず、インド美術。ひきしまった体、豊満な胸、誘惑に満ちたポーズに私も妻も圧倒されました。紀元1世紀から17世紀あたりまでのヒンドゥーの神々の魅惑的な像、色鮮やかな絵画もあります。すべてを貫いているのは深い宗教性で、この中では仏陀の禁欲的な像もやや偽善的にさえ思えてきます。

 カンボジア、タイ、ビルマなどのこれまた興味深い像をみながら、いよいよ中国美術の展示室に入ります。紀元前5世紀から20世紀の清王朝まで、時代のスパンの長さもさることながら、北の匈奴から南の長江流域に至る広範な工芸美術の数々は他に類を見ません。私が嘆賞したのはすばらしい中国陶器の数々です。日本の陶器に比べ、ダイナミックで華麗、しかも瀟洒、小粋な小物の陶器、磁器、漆器も見ていて飽きません。私は脇村義太郎の『趣味の価値』(岩波新書)に書かれているロックフェラー二世のことを思い出しました。ロックフェラー二世は、金融業の故モルガン一世の蒐集品が売りに出されたとき、その中の中国古陶器のコレクションにすっかり魅了されました。しかし、100万ドルという金がどうにも工面できず、思い余って、父親のロックフェラー一世に手紙を書きました。自分は、ヨットや競馬や車のような道楽には興味がない、しかし、この中国古陶器のコレクションはどうしても欲しいから100万ドル貸してくれないか、と。すると、ロックフェラー一世の返事が来て、中国の壷なんかを買うために100万ドルも貸してはやれない、しかしお前がそんなに欲しいなら私が買っておまえに贈ってやろう、と。こうして、一代の蒐集家ロックフェラー二世のコレクションが始まったのです。「ひとつでいいから欲しいんだが、、、」とまた私が願望をつぶやくと、妻はもはや相手にしてくれません。

最後に日本の展示室へ。妻が、日本の煙草箱や印籠を見ていると、白人の男性が香木入れのようなものを指して、「これは何でできているのか」と英語で尋ねてきました。妻が私に答えを聞いてきたので、適当に「木だよ」と答えると、男性は「やっぱり」といった顔でうなずきました。妻は自分が日本人と思われたことにうれしいようです(パリではいつも中国人に間違われるので)。

 

ギメ東洋美術館を出ると、爽やかな五月の風が吹いています。日曜なので人通りがなく、イエナのあたりはたいへん静かです。エッフェル塔がすぐ近くに見え、歩けばほどなく凱旋門にぶつかりそうです。しかし、ぶらぶらしている暇はなく、2時半からのバスチーユでのオペラに行かねばなりません。メトロを乗り継いでバスチーユへ。観劇前に昼食を済ませようと、バスチーユ広場前のカフェをいくつか見て歩きました。ボーマルシュ大通りに入ってすぐ右にあったLe Genieという小さな店を見つけました。夜はバーになるらしく、すでに昼からビールを飲んでいる人もいます。前掛けをした初老の男性二人がカウンターの近くにいて、お客はほとんどここの常連のようです。私たちは、鉄板で焼いた大きなピザトーストのようなものとレンズ豆とオリーブのサラダを食べました。いかにもパリらしい標準以上のおいしさです。これと500mlのワインで20ユーロとは安いものです。

 

オペラ・バスチーユに入るのは初めてです。ここは1990年に開業した新オペラ座で、ガラス張りの丸い現代的な建物です。席は一階の真ん中の一番後ろで50ユーロ(6500円)の席、椅子はゆったりしていて、オペラ・ガルニエとは大違い。やや遠いが、非常に見やすい席でした。私の左隣りに挙動不審の背の高い白人男性が座りました。開演すると、別に面白くないところで笑ったり、突然根拠なく拍手したりします。向う隣りの女性に厳しく注意されると、しばらく頭を抱えてしょんぼりしていましたが、すぐに回復してまた熱心に観はじめました。幕間の休憩時間に、気が付くと、オペラ座の無料の絵葉書を全種類もらって楽しそうに一枚一枚見ています。私もまったく同じに全種類の絵葉書をもらって見ていたので、この男性に何か親近感を覚えました。「あの人は自閉症かも知れないけれど」と後で私は妻に言いました。「オペラが好きで、いつも一人で見に来ているんだろう。いかにもパリらしくて羨ましいじゃないか」

さて、肝心の舞台は、ヴェルディ中期の傑作『仮面舞踏会』です。私は、すでにDVDで見てあらすじを熟知していたので、舞台上の電光掲示板に出るフランス語訳をあまり気にせずにすみました。なかなかの熱演で、クライマックスの仮面舞踏会の場面は非常に盛り上がりました。劇場は音響も雰囲気も申し分なく、オペラ・ガルニエよりも好感が持てるようです。私と妻は、幕間にロビーで3ユーロのエスプレッソを飲みましたが、サービスの男性従業員はそろって水際立った美青年です。

観劇が終わって、妻がトイレで行列しているのを玄関のロビーで待っていると、向かいのソファーに老人がすわっています。しきりと二階に続く階段のほうを気にしているのはトイレに行っている奥さんを待っていたのでしょう。やがて、老婦人が階段を降りてきて、二人寄り添いながらオペラ座の外に出て行きました。パリでオペラを見ると、幸せそうな老夫婦の姿を多く目にします。いや夫婦ばかりでなく、レストランやカフェで一人でゆっくりと食事している幸せそうな老人の姿も目立ちます。トイレから戻ってきた妻にコートを渡すと、周りにはもう係員の姿しか見えません。何と最後の客となって、私たちの後ろでゆっくりオペラ・バスチーユの扉が閉じて行きました。

 

まだ6時過ぎなので、メトロ1番線でLes Hallesへ。1番線は観光路線といわれ、バスチーユ、レ・アル、ルーヴル,シャンゼリゼ、凱旋門など右岸の観光スポットを巡っていきます。ストになってもこの路線が止まることはめったになく、いつも混んでいて、車両は軽快な最新型の自動ドアです。しかし、私は、6番線や10番線の車両のようなゴムのタイヤが露出された古い緑色の車両がたまらなく好きで、それに乗ると、パリに来たことを実感するのです。

 さて、レ・アルにあるポンピドゥーセンターの中の国立近代美術館は20世紀の現代絵画を中心に展示していて、実は妻も私も訪れるのは初めてでした。入場料無料の日だからでしょうか、透明のチューブでできたエスカレーターには行列ができています。そこに並ぼうかと思っていると、向こう側に教会の尖塔が見えます。サン・トゥスタッシュ教会に違いなく、51日に忘れた帽子を取り戻しに行くよい機会だと思って、明るいうちに行ってみることにしました。ところが、近くにくると、もう重い鉄の扉は閉ざされています。妻が、確か入口はこっちだったというので裏のほうへ回ると、どうもサン・トゥスタッシュ教会にしては古すぎます。上を見上げると、細い路地に突き出た黒く古色を帯びた恐ろしいガーゴイルたちが見えます。はっと気づいて鞄の中からミシュランの地図を取り出して確かめると、やはり、サン・トゥスタッシュではなく、サン・メリー教会でした。パリでもっとも古い鐘楼を持つ教会、また古式に則った祭式を今でも残している教会でもあります。それにしてもこの教会はすべてが焼け爛れたように古い。昔、ここは娼婦たちが出没する路地が集まっていました。今でも、暗くじめじめした路地は残っています。雨が降ると、道に突き出たガーゴイルの口から雨水がシャワーのように道に降り注ぎ、悪人の盗人の罪あるすべての人々の頭に降り注ぎ汚れた身と心を清めるのです(この教会についてはユイスマンスが詳しく書いています)。ところで、このサン・メリー教会やホテルの近くのサン・セヴラン教会やサン・二コラ・デュ・シャルドネ教会のような古い教会には常に心を揺さぶられる何かがあります。反対に、サン・タントワーヌ聖堂やマドレーヌ寺院やサクレ・クール寺院など、19世紀以降にできた教会には何かこけおどしに似た空虚さがつきまとうのです。

 

 いよいよポンピドゥーの近代美術館の中へ。この美術館はポンピドゥー・センターの4階と5階を占めています。まず、ほとんどの現代絵画が展示されている5階へ上りました。しかし、何という人の多さでしょう。大半は若い人々で、今度の滞在ではあまり見かけなかった日本人も多く見られます。マチス、ボナール、モンドリアン、ピカソ、ダリといった有名な画家の絵を見てまわります。ルオーの「秋」を描いた一連の画には妻も私も感嘆しました。すべての絵が、まわりを枠どるように幼稚な模様で飾られているのです。私自身はマチスに少し驚きましたが、見てまわるうちに妻の具合が悪くなって、ベンチで休んでいました。後で聞くと、シュルレアリスムの作品を見ているうちに気分が悪くなったということでした。確かに、クリュニューやギメの美術品が好きな彼女にとってはエルンストやマグリットは我慢ならなかったのでしょう。妻がベンチにすわっている間、私は妻が唯一見たいといっていたフランシス・ベーコンの絵を探しにいきました。ところが5階中のどこを探してもなく、係員に聞いてもわからないということです。それでは4階にあるだろうと妻と4階に下りてみましたが、ここは写真が主で、絵画は端のほうにあるだけでした。その端の部分にもなく、あきらめてエスカレーターで降りて帰ろうとしたとき、私の視界の端になにやら大きなおぞましい絵が入ってきました。しかし、そこは階段の裏側で、誰も通らないところです。半信半疑でそばに行ってみると、確かにそれはベーコンの絵画でした。画題や作者名を示す一枚のプレートも貼られていません。「何でこんなところに、、、」と私たちは唖然としてその絵を見つめました。

 

 もう夜の九時近くですが、まだ十分明るいのには驚きます。セーヌ川を渡るとすぐにホテルなので歩いて帰ることにしました。サン・メリー教会の近くに、日曜でも開けているスーパーがあったので、ワインとケーキを買いました。妻はまだ食欲が出てこないようです。オテル・ド・ヴィル(市庁舎)の前を通ってアルコール橋をシテ島に渡ります。すると左側にノートルダム大聖堂が見えてきました。薄暮になりかかっていますが、まだ観光客の姿がちらほらしています。ドゥーブル橋を渡って、シテ島から左岸へ行く時、橋の下をおそらく今日最後の遊覧船がゆっくり通り過ぎていきました。観光客はそれでも20名ほど、みな陽気で、私たちに手を振っています。セーヌ川のたもとでは、居酒屋の舟が赤い提灯をつけて夜の商売の準備に余念がありません。

Cluny

福音書によると、イエスは子供のロバにのってエルサレムに入城しました。この可愛らしい像では、イエスよりも凛々しいロバのほうに作者の愛情がこめられているようです。(クリュニュー中世美術館にて)

F_bacon   

一つだけあったフランシス・ベーコンの絵。なぜかプレートは貼られていません。

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2009年6月13日 (土)

パリ再訪(5)ルーヴル、オペラ座のバレエ

5月2日(土)

 朝起きると寝汗をかいています。しかも頭が重く、起き上がると軽く目まいがしました。下痢の後は体全体がおかしくなるので、それと連日の疲労が重なって、かなり体力的に消耗しているのは間違いがありません。妻が仕事のメールをチェックしている間、顔も洗わずに横になっていました。少し落ち着いたところで、朝食をとりに食堂に降りました。いつもはコーヒーを飲むのですが、今朝は紅茶を頼みました。幼い頃のことですが、歯痛や頭痛やお腹が痛かった時など、母に背負われて家の外をしばらく歩くと、不思議なことにコロッと治ってしまうのです。大きくなってからは、具合の悪い時に、紅茶を飲むとなぜか急激に気持ちが納まってくるようになりました。食堂で紅茶を飲みながら、好物の杏のジャムをクロワッサンにつけて食べると、幼年期以来の私の体のあらゆる防衛機構が動き出したように、いつもの朝の気力が蘇ってくるように感じました。

 

 今日はルーヴル美術館の後、オペラ座にバレエを見に行く予定でしたが、その前に土曜日に市を出すモベール・ミューチュアリティの朝市を見ておくことにしました。メトロのモベール・ミューチュアリティの駅までは歩いてすぐです。昨日コンサートを聴きに行ったサン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会の横の道からダンテ通りを横切ると、すぐにモベールの市が立っていました。この辺りはパリでももっとも古い街路の残っている地区で、かつてこの地区に住んでいたと思われるダンテも、おそらくサン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会を訪ね、モベールの朝市でリンゴやパンを買って歩きながら齧っていたことでしょう。

 妻は、朝市でロースト・チキンを買ってホテルに置いておこうとしたのですが、残念ながら鶏肉の出店はありませんでした。市場としても規模が小さく、あっという間に見終わってしまいましたが、市場の前の鶏肉屋でおいしそうなロースト・チキンを焼いているのをみつけました。ルーヴルを見終わった後、買って帰ろうと考えながらモンジュ通りをカーディナル・ルモワールに向けて歩いていくと、右側にパン屋のカイザーの本店があります。落ち着いた小さな店ですが、パンを買う人の行列ができています。店頭の両側に物乞いの人が座っています。今回のパリ旅行で気づいたことは、ほとんどの物乞いの人が犬を連れているということでした。中には犬といっしょに寝ている物乞いもいて、その犬の可愛らしさがまた哀れを誘います。

 カイザー本店の向かいには、サン・二コラ・デュ・シャルドネ教会の古い尖塔がそびえています。よく知られた教会ですが、もう時間がなくなっていたので、大急ぎで堂内を見ることにしました。入口には、ミニスカート、タンクトップ、半ズボンでの入場お断りの張り紙が。私はパリ旅行ではいつも着古したスーツを着ていくことにしています。教会やオペラやレストランに入るのに便利ですし、古いスーツなら古本屋で本を漁って汚してもベンチでアイス・クリームをこぼしても気になりません。ところで、若い頃、都心の高層ホテルでアルバイトをしていたことがあるのですが、その時アメリカでホテル実務を勉強してきた女性の主任にこんなことを教えられました。あなたがたは、ホテルに滞在する外国人が擦り切れた下着やパジャマを持って来ているのを見て軽蔑するかも知れない、しかし、彼らは合理的なので、古い下着やパジャマを持ってきて、帰るときにはそれを捨てていき、トランクの空いたスペースに土産を入れて帰るのだ、と。私も古い服は捨てて帰りたいといつも思うのですが、貧乏性か、いつも全部持って帰ってしまいます。

 

 いよいよルーヴルへ。今回は、エジプト、ギリシア美術を見る予定でした。ところが、カルーゼルのギャラリーからルーヴルへ入ろうとしたところ、とんでもない行列が。セキュリティ・チェックのためですが、何とかそこを通過しても、今度はチケットを買う行列です。何という人の多さ、しかし無理もありません、パリを訪れる観光客のほとんどがルーヴルを訪れるのですから。

 やっと入れたのですが、私はそこでもう疲れて椅子に座って休んでいました。汗がふき出てきて、持参したミネラルウォーターの瓶はもう空っぽです。やはり、体調がおもわしくなく、ホテルに帰って休みたくなるほどでした。妻は、あらかじめ、ルーヴルの見取り図と見るべき部屋をコピーして持参していたので、私はただ妻の後について歩くことにしました。それにしても、ルーヴルは広すぎて、歩く距離が半端ではありません。私たちは、半地下の中世のルーヴルの遺跡から始めて、シュリー翼1階と2階のエジプト美術を見ていきました。私は、ルーヴルは何度来ても完全に迷うのですが、妻は実にその構造を理解していて、的確に案内してくれます。

 

 ある展示室に入った瞬間に共感の混じった快い感じを抱くことが誰にでもあるでしょう。ルーヴルのエジプト室もそのように私を迎えてくれました。ここに造形された王や王妃や人々の像は、あらゆる時代、地域を通じてもっとも美しいように私には思えます。しかも、それらは信じられないほど古いのです(5000年前のものさえあります)。エジプト人が動物を崇め、神の顔を動物で象ったことはギリシア人を深く驚かせました。しかし、これは何の不思議でもありません。古代エジプト人は、悪しき人間中心主義に陥ることなく、身の回りの多様な世界に神を見たのです。ハゲタカの凛々しさ、猫の気品ある敏捷さ、河馬の豊饒な多産さ、切り取ってもまた生えてくるトカゲの再生力、彼らはこのようなものに神を見たのです。スフィンクスの謎めいた永遠の魅力はその動物の下半身にあるのです。

 すばらしい装飾品の数々を見ていくと、これらのほとんどが墓跡で発見されたことを忘れるのですが、墓と死の世界は古代エジプト人には日常そのものでした。おそらく、ナイル川の年毎の氾濫、太陽と月の規則的な変化という無限に続く自然の営みが、人間もまた死を超えて再生しうるという観念をもたらしたのでしょう。死後の世界をつきつめていく志向は、また生身の生の中への死の際限ない侵食をもたらします。彼らの相貌がみな「永遠の相のもとに見られた」感じを与えるのはそのためでしょう。

 

 つぎに同じシュリー翼のクラシック・ギリシアの展示室へ。彫刻のすばらしいことはもちろんですが、エジプト美術を見た後では、ミロのヴィーナスさえやや見劣りするようです。じっくり見たのは、ギリシア陶器のすばらしいコレクションです。ほんの小さな盃、大きな盃、さまざまな形、そこに描かれる動的で劇的な図柄は見ていてまったく飽きません。そして、最後に、葬祭用の白地レキュトスを含む大小の壺がずらりと並ぶ部屋では、遠いアッティカの人々の暮らしを想像してみることもできました。「一つでいいから欲しいんだが」というと妻は呆れた顔をしています。

 

 体は、もう限界を越えていたので、すぐにメトロでモベール・ミューチュアリティに戻りました。鶏肉屋に行くと、もうロースト・チキンは売り切れていたので、骨付きのローストを二つ買いました。それから、カイザー本店に寄りましたが、ここもほとんど売り切れています。サンドイッチとパン・オ・ショコラを買ってホテルに戻りました。私は、食事を終えると、汗でぐっしょり濡れた下着を取り替えてベッドで眠ることにしました。その間、妻がホテルの近くで買物に行ってくるというので、簡単な地図を描いて渡しました。サン・ミッシェル大通りとサン・ジャック通り、スーパーのフランプリなどの場所を教えて、「ホテルの場所がわからなくなったら、ノートルダム大聖堂の鐘楼に向って歩いてくるんだよ」と言いました。

 

 一眠りしてみると、妻はもう帰っていました。夕方からのオペラ座のバレエへの準備をしなければなりませんが、疲労感が抜けず、なかなかベッドから起き上がれません。妻は「私一人で行ってくるから、ホテルで休んでいたら」と言ってくれますが、終演が夜遅くになるので、帰りが心配です。シャワーを浴びて、身支度を整えると次第に気持ちがしっかりしてきました。ところで、この部屋はバスが付いていず、シャワーだけ(une chambre avec douche)ですが、これは少し後悔しました。ホテルの場所を優先させたので、できるだけ安い部屋にしたのですが、旅行中の疲れはやはり湯船につからないととれません。それに、このシャワーはかなり高い位置にあって、取り外し不可能、下肢のほうまで湯があたりません。また、お湯が出るまで時間がかかり、湯量の調節つまみも実にいい加減です。

 

 さて、開演30分前にオペラ・ガルニエに到着しました。ここでの観劇は二度目ですが、以前は10ユーロの右端のかなり上の席でした。今度は16ユーロ(2000円)のamphitheatre(階段桟敷)という席で、正面の何と一番上です。その席まで上ってみると、横浜球場のアルプススタンドを思わせる高さで、もし前のめりになって椅子から滑ったら、そのまま弾んでバルコニーを越え、一階の観客席の上に落ちてしまいそうです。それを防ぐためか、椅子の座る面はv字型に傾斜しており、さらにひどく浅いので、まともに座るのは普通の大人では無理です。また、足元の余裕もまったく無く、奥に座った人が出るためには列の皆が立たねばなりません。ただし、眺望はすばらしく、オペラグラスがあれば演者の顔の表情もはっきりわかります。

 私たちが席に着いたときは誰もいなかったのに、開演時間になると満席となっています(遅れてくる人もたくさんいます)。席がいっぱいになってくると、前の席の観客の背中と私の足が当たらないようにするのが難しく、絶えず体を入れかえていなければなりません。

 ところで、肝心の演目はというと、これがまったく馴染みのない現代バレエで、三つの独立した舞台から成っています。最初がHark!というバレエで、ただ集団が踊っているだけのもの、二番目がWhite Darknessという題で、どうも麻薬中毒の人間の幻想を描いたらしいもの、最後がceci est mon corpsというもので、解説によるとマルコ福音書からインスパイアーされたもののようです。ダンサーの完璧に近い体、基本が叩き込まれた無駄のない動き、優雅で先鋭な身のこなし、、、などはすばらしいと思えるものの、踊りの意味がまるでわからないのですぐに退屈してきました。ところが、一つの踊りが終わるごとに場内はたいへんな拍手、私の前に座っていた三人連れの若い女性などはダンサーの名前を熟知していて賞賛の言葉を交わしています。まわりの観客もよくバレエを知っている人が多いらしく、ダンサーが紹介されるごとに熱狂的な拍手が鳴ります。「ぼくにはまったくわからないのだが」と私は妻に言いました。「このような難しい踊りを味わい、かつ楽しむことのできる文化的素養というのはぼくらが思っている以上に深いのかも知れないね」。クラシック・バレエの好きな妻でもこの現代バレエは理解不能で途中で退屈したということでした。

 

 もう夜遅いのに、オペラ・ガルニエの外に出ると薄暮のように明るさが残っています。私たちは、クリュニュー・ソルボンヌまで地下鉄で帰り、まだ開いている食料品店を見つけてぺリエやお菓子を買い込んでホテルに帰りました。私の気分はかなりよくなってきています。


Neko

ルーヴルのエジプト展示室に飾られた猫の像。猫は友人であると同時に崇拝の対象でもありました。猫の額の上に付けられた青いスカラベは彼らが神であることを表しています。

Opera

オペラ・ガルニエでの休憩時間。妻が立っているところは三階の階段横のバルコニー。

 

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2009年6月 3日 (水)

パリ再訪(4)ベルヴィル

51日(金)

 花、花、すずらんの白い花、51日、パリでは愛する人にすずらん(muguet)を贈る日です。どこの街角でも、少女や婦人や年寄りや中年の男性まで、卓を出し、あるいは花束を抱えて、道行く人々にすずらんを売っています。5ユーロから10ユーロで、人々はすずらんを買って贈ります。女性は手で持ったり、胸に着けたり、男性は帽子につけたり、耳にはさんだり、胸ポケットに差し込んだりしています。 

 ベルヴィルには私一人で行くつもりでした。妻はおそらく一人で買物にでも行くだろうと思ったのです。しかし、やはり一緒に行くことになって、私の中には一抹の不安がよぎります。というのも、一昨日、パッシーを訪れた時、裕福な人々が住むその華やかな通りを妻がたいへん気に入っていたからです。華やかな中にも生活の匂いがして、人々が活き活きと行き交い、子供さえもすまして化粧しています。そんな西の街パッシーに対して、東のベルヴィルはその正反対の移民と低所得労働者の町です。妻がこんな町を気に入るわけがありません。

 

 シャトレ駅でメトロ11番線に乗り換えてベルヴィル駅へ。地上に出ると、そこはベルヴィルの交差点で、ちょうど10,11,19,20区の交わるところにあるのです。西のベルヴィル通り(Rue de Belleville)はベルヴィル墓地を通ってポルト・デ・リラまで続き、南に伸びるベルヴィル大通り(Boulevard de Belleville)はペール・ラシェーズ墓地にぶつかります。

 今日は金曜日でベルヴィル大通りには市が立っています。何と人の多いことでしょう。皆、食料品や日用品の買出しに来ています。白人、アラブ人、黒人、アジア人、彼らは皆庶民の顔をしています。観光客など一人も見えません。地下鉄出口のすぐ横から市場は始まっています。野菜、果物、魚、肉、パンなどの食料品、しかし、ここではラスパイユやグルネルの市場のようには整然と並べられてはいません。雑然と積み上げられているのも多く、値段も安い、そして、売り手の男たちの高い声が響きあってうるさいほどです。歩くのもたいへんで、正月の浅草仲見世のごとく押し合いしながら前へ進みます。面白いのは、時計やベルトや洋服や小道具・おもちゃなどを売っている店で、かなりいかがわしいものが並んでいて、思わず手にとってみずにはいられません。背の低い老人が私のバッグの開いたポケットを指差して、「気をつけないと盗まれちゃうよ、ムッシュー」と親切にも注意してくれました。

 私は、東京の下町の縁日の人込みや商店街の雑踏に慣れて育ったので、ベルヴィルの市場のような気取らない、騒々しい、怪しげな露店を見て歩くのが好きなのです。市場の外れまでゆっくり見て歩きたかったのですが、妻は明らかにこの雰囲気に圧倒されて早く市場から抜け出したがっているようです。しかたなく、ベルヴィル大通りの歩道に出て、1ユーロ均一の店が立ち並ぶ通りを見て歩きました。

 

 やはり、一人でくればよかったかなと思いながら、ベルヴィル大通りから東に曲がり、すぐ近くのベルヴィル公園を目指します。静かな坂道を上っていくと、中国人の親子がふざけながら坂を下りてきました。母親と二人の子供、パリでこんな楽しそうな中国人を見たのははじめてです。そういえば、このあたりは中国系の住人が多そうなのが、窓から干してある洗濯物でわかります(パリでは外に干してはいけないのですが)。ベルヴィル公園の入口に来ました。この広くない公園は、ひたすら階段で上へ上へと登ります。頂上に展望台らしきものがあって、そこからパリの景色を一望できます。やや霞んだ空の中に、エッフェル塔、モンパルナス・タワー、サクレ・クール寺院などがそびえるように立っています。ベルヴィルは、その昔、ポワトロンヴィルという村でした。しかし、その頃から、みな、ここをベルヴィルと呼んでいたのです。Belle Villeとは美しい町という意味ですが、実はBelle Villeとはパリのことなのです。かつて、ここはパリ市ではなく、市外のさびしい村でした。東から来た旅人が、この丘からはじめてパリの市内を遠望したとき、Belle Ville!「なんて美しい町だろう!」と叫んだことが町の名の由来のようです。

 

 ベルヴィル公園を出て、北へ向って歩きベルヴィル通りへ降りて行きます。この近くのヴィレット通りでは、ベルヴィルの生んだ二人の天才の一人、画家のジョルジュ・ルオーが生まれています(もう一人はエディット・ピアフ)。ルオーの父親は、プレイエルの工場でピアノの塗付けの仕事をしていました。ルオーは、この父親から職人の仕事にたいする敬意を受け継いだのです。家族は、近くのサン・ジャン・バプティスト教会に通う熱心なカトリック教徒でした。少年ルオーはサン・ミッシェル広場近くのサン・セブラン教会のステンドグラスの修復をすることでそのキャリアをはじめています。

 ベルヴィル通りを上っていきます。小さなクレープ屋やコインランドリーや狭い食料品店が並びます。パリのどこにでもある活気ある洒落たカフェーなどはなかなか見つかりません。小さなカウンターとスチールの椅子がある薄暗いカフェーで、人々は朝からビールを飲んだり、ハムや野菜をはさんだパンを食べています。通りのそこかしこに場末の匂いが漂います。おそらく、ベルヴィルのもっとも賑やかな時代はもう終わってしまったのでしょう。 20世紀の初頭、ここには製靴工場や織物工場などが並び、女子工員があふれ、それを狙った男たちがカフェーやレストランにたむろし、週末には映画館、ダンスホールが満員になったのです。また、近くのサン・マルタン運河やサン・ドニ運河で荷揚げをする労働者たちも集まってきました。低所得者たちの小住宅や集合住宅がならび、子供たちがそこかしこで遊び、広場には何と観覧車も回っていたのです。そして、ベルヴィル名物の急坂を登るために、今モンマルトルにあるようなケーブルカー(funiculair)が、レピュブリック広場からサン・ジャン・バプティスト教会を結んでいました。

 

 しかし、ベルヴィルはまもなく移民の波にのみ込まれます。とくにアジア人、ユダヤ人(マレ地区のユダヤ人がスペイン系なのに対してベルヴィルのユダヤ人は東欧系)、アラブ、アフリカの人たちが集まり、ベルヴィルの様相は変わっていくのです。

 ベルヴィルが、いわば根無し草のような労働者の町になり、今、移民の町になっている理由は、おそらく、パリという町の閉鎖性にあるのでしょう。パリというとボヘミアンたちの町という側面が強調されますが、パリには、生まれた地域で育ち生涯そこから離れない人がたくさんいます。なぜか?パリ以上の町など世界中どこにもないからです。そして、地方からパリに流入してきた人々はそれぞれの地域のコミュニュティで強固な連帯の絆を作り上げます。たとえば、私たちが前回滞在したモット・ピケ・グルネルのある15区はブルターニュ出身者の作り上げたコミュニュティが根幹になっているといわれますが、黒人やアラブ人が極端に少ないのはそのためでしょう。実は、ベルヴィルにも古い住民がいて、その特徴は反政府的ということです。共産党のもっとも活動的な支部はベルヴィルにあったし、1870年のパリ・コミューンでは激しい戦いがベルヴィルとその隣の町メニルモンタンで戦われました。(敗れた国民軍の兵士はペール・ラシェーズの塀の前で銃殺されました)このベルヴィルのインターナショナルな性格が、他の町と比べて、移民や工場労働者を受け入れやすかったのかもしれません。

 

 ベルヴィル通りからシモン・ボリヴァル通りに入って、ビュット・ショーモン公園を目指します。私たちの前を、乳母車を押しながら子供を二人連れている白人の男性が歩いていました。おそらく、祭日なので、子供たちをビュット・ショーモン公園で遊ばせようとしているのでしょう。私たちが、後をついていくと、案の定、公園の入口までやってきました。

 ここは、間違いなくパリでもっとも美しい公園です。もともとは、浄水場とゴミ捨て場だった広大な土地を1867年、ナポレオン三世が、気鋭の造園家バリレ・デシャンと建築家ダヴュー、そしてベルグラード出身のエンジニア、ジャン・シャルル・アルファンに命じて見事な公園に変身させたのです。彼らは自然の起伏をうまく利用して、山あり谷ありの道を作り、運河から水を引いて大きな池を作り、小島を作り、滝を落とし、大木をめぐらせ、小鳥や水鳥が集う楽園に作り上げました。完璧に計算された公園でありながら、自然をそのまま残したような素朴さと興趣に満ちています。

 祭日なので、広い公園のあちこちに人の姿が見えます。ダンスをしたり、大道芸の練習をしたり、寝そべったり、私たちの前を歩いていた親子も、芝生の上でお弁当を広げて食べ始めました。人々の顔は何と楽しげな明るい顔に輝いているのでしょう。子供たちは思う存分走りまわり、親たちは人生の束の間の休息を楽しんでいます。ベルヴィルの坂を何とか上ってきた妻も、この解放的な自然の明るい気分にすっかり魅惑されたようです。

 

 ビュット・ショーモン駅からメトロでレ・アルまで。モントルグイユの市で食物を買おうとしたのですが、もう市は店じまいした様子です。ここもサン・ミッシェル界隈と同じくレストランが乱立していて観光客がいっぱいです。通りのそこかしこにすずらんの花を売る人が立っています。私たちは、パリ最古のパティスリーとして知られるストレールで、ほうれん草のキッシュとチョコレート・エクレアを買いました。とても暑いので、近くのサン・トゥスタッシュ教会に入って椅子にすわり涼んでいたのですが、何と私はそこの椅子に帽子を忘れてしまいました。ホテルに帰る地下鉄の中で気づいた時はすでに遅く、取りに帰る気力もありません。「パリで帽子を買って帰ろうよ」と妻は慰めてくれましたが、私がトランクから予備の帽子を取り出すのを見て驚きました。

 ホテルで、ストレールで買ったキッシュとエクレアを食べました。キッシュはまあまあですが、エクレアは繊細すぎて物足りません(私はエクレアにはいつも過大なものを要求します)。着替えてから、金曜9時半まで開いているルーブル美術館に行こうとホテルを出ました。天気が良いので、ブキニストをひやかしながら、セーヌ河畔をルーブルまで歩いていくことにしました。夕方のさわやかな風が吹いています。セーヌ河畔は、恋人同士、若者同士、観光客の群れでいっぱいでした。今回の滞在ではなぜか日本人とほとんどすれ違いません。セーヌ川をゆっくり走るバトー・パリジャンはいつものように観光客で鈴なりです。こんな光景を見ると、世界がインフルエンザの蔓延に緊張していることが嘘のようです。

 

 ルーブルに着き、先っぽのライオン門から入ろうとしたら、何と51日は休館日でした。ガクっと膝から崩れ、疲れがどっと出たようで、今日これからどうしようか途方に暮れました。ゆっくりとレストランで夕食をたべようかと思いましたが、キッシュが腹にもたれて食欲が湧きません。そのとき、妻が、ホテルの近くで見たチラシのことを思い出しました。実は、今朝、ベルヴィルに行くためホテルを出ると、すぐ横の壁に教会でのコンサートのチラシが貼ってあったのです。サン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会はホテルのすぐ近くにあって、そこで夜8時半から「アヴェ・マリア」と題して歌とピアノ演奏があるのです。料金は18ユーロと23ユーロで、決して安くはないので、どうしようか迷っていると、浮浪者のような身なりの中年男性が汚い手押しのカートを引いてきて、その中から「Ce Soir!(いよいよ今夜!)」と書いた紙を取り出し、チラシの上に貼りました。私たちがチラシを見て考えていると、「今夜だよ、とてもいいからぜひ来なさい」というのです。妻が丁寧に「ジュ、レフレシーレ(考えてみます)」というと、チラシの電話番号を指差し、「電話すれば確実に席がとれるよ」と教えてくれました。今、そのことを思い出して、ルーブルが閉まっているのなら、そこに行こうと私たちは決めました。しかし、まだ席は残っているでしょうか。私たちは急いで地下鉄でサン・ミッシェルまで帰り、ホテルに寄らず、まっすぐサン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会に行ってみました。教会の前で神父がチケットを売っていたので、私たちは安いほうの18ユーロ(2350円)の券を2枚買いました。神父の話では18ユーロの席は側廊で23ユーロの席は真ん中だそうです。

 

 まだ時間があったので、いったんホテルに帰り、着替えてから開演30分前にホテルを出ました。サン・ミッシェル界隈の雑踏を抜けて、サン・ジャック通りを渡るとそこにサン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会(Eglise Saint-Julien-le-Pauvre)があります。おそらく、私がパリで見たもっとも小さな教会でしょう。ロマネスク様式の低い愛らしい建物です。中に入ってみると、受付に、今朝チラシを貼っていた中年のおじさんがいて、今夜のプログラムを売っていました。私たちの顔を覚えていて、「ボンソワール」と笑いながら挨拶してくれました。私が3ユーロのプログラムを買うと、おじさんは私が渡した18ユーロのチケットを見て、いたずらっ子のように目くばせしながら、23ユーロの席を指差しました。おそらく、遠い日本から来た観光客だと思ってサービスしてくれたのでしょう。私たちは小さな声でメルシーと言って、好意を素直に受け、真ん中の席にすわってしまいました。

 

プログラムによると、この教会は12世紀に出来たパリ最古の教会だそうです。そういえば、かなり古く、どこかロシア正教の雰囲気もあって、スペインの古い小さな教会を思わせます。教会の名の由来は304年にローマで殉教した聖ジュリアンと、中世の「貧者Pauvre」といわれた聖ジュリアンSaint Julien l’Hospitalierに由来するそうです。後者の聖ジュリアンは、あのフロベールの『三つの物語』の中の「聖ジュリアン伝」の主人公その人です。領主の子でありながら、逃れられない忌まわしい罪を犯したジュリアンは、その罪ゆえに、人々に蔑まれ、遠ざけられ、唾を吐かれながら、各地を放浪していきます。あるとき、ジュリアンは渡し守のいない川にぶつかりました。彼は、朽ちていた舟を修理し、川辺にみすぼらしい家を建て、人々のために無償で渡し守の苦役をつとめます。嵐の夜に、彼が小屋で休んでいると、闇の奥から誰かが自分の名を呼んでいるのに気づきます。外に出ると、向こう岸に船を待つ男の姿が見えました。ジュリアンが対岸に着いてみると、その男は全身らい病に覆われ、かさぶたからは膿が吹き出ています。ジュリアンはその男を舟に乗せて渡し、小屋に入れて焚火にあたらせます。「寒くてたまらないから、お前の体でわたしを暖めてくれ」と男は言いました。ジュリアンは着物を脱ぐと、裸の胸を男の膿だらけの胸に重ね、病で崩れた顔をしっかりと抱きしめ、爛れた唇に唇を押し当てます。瞬間、小屋は光に満たされ、男は輝くイエス・キリストに変身し、ジュリアンをやさしく抱き返すのです、、。

 

祭壇の前にはスタインウェイのグランドピアノが置かれています。時間になって、歌手と演奏者が登場しました。黒いドレスを着て登場したのは、オペラ座以下フランスの各劇場で活躍しているソプラノのエドヴィジェ・ブルディー、ピアニストはフィリップ・アレグレという人で、二人はともにトゥールーズ音楽院を卒業しています。

まず、ペルゴレージのSe tu m’amiからはじまって、アヴェ・マリアを含むシューベルトの曲が三つ、さらにグノー、カッシーニのアヴェ・マリア、ヘンデルのヨシアなどが歌われました。とくに、シューベルトはすばらしく、そのセレナーデには深く感動しました。その後、ショパンの嬰ハ単調のノクターンが弾かれ第一部が終了しました。妻は狭い教会堂の中に響き渡る美しい歌声にすっかり魅了されていました。パリでは、このような教会コンサートがほぼ毎日どこかで開催されているのです。

第二部は、アメイジング・グレイスなどの黒人霊歌やイタリア・オペレッタの歌が続き、夜10時頃終演しました。終わりの挨拶に出てきたのは、何と私たちを23ユーロの席にすわらせてくれた受付のおじさんで、彼がこのコンサートの主催者のようです。妻も私も満足して教会を後にしました。今日は失敗が続いたけれど、最後は気持ちよく眠りにつけそうです。

夜のサン・ミッシェル界隈は混雑をきわめていました。レストランで食べるほどお腹は空いていないので、チュニジアの菓子店でクレープを買うことにしました(私はこの菓子店が気に入ってしまったのです)。髭を生やした菓子店の主人は白衣を着ているのですが、パティシェというより肉屋に見えるのがおかしいのです。チーズ・クレープを頼んだのですが、フランスのクレープは日本のよりも厚く、しかもチーズをこれでもかというほど大量に挟みます。ホテルに帰って、ペリエを飲みながら二人で半分ずつ食べて、それでお腹いっぱいになりました。

 

Bellevillemetro
メトロのベルヴィル駅を出たところ。すぐ右から市場がはじまっています。向かいの建物群は古き良きベルヴィルをしのばせる雰囲気があります。

8ahuit
ビュット・ショーモン公園の前ですずらんの花を売る子供。私がもしベルヴィルに生まれていたら、やはり小遣い稼ぎに花売りの手伝いをしたでしょう。

 

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