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2009年5月23日 (土)

パリ再訪(1)

 428日(火)

雨、雨、雨、横なぐりの風、傘をさしてもコートはぐしょぬれです。夜の8時半すぎですが、まだ外は明るい。サン・ミッシェル広場の近くにあるホテルに疲れた顔でたどり着くと、フロントにいたアラブ人は申し訳なさそうな顔で、部屋は六階(日本の七階)だが、エレベーターは故障中だ、と言うのです。重いキャリアケースを抱え、狭い螺旋階段を一番上まで上がると、妻は疲れきってシャワーも浴びずにベッドに倒れました。長旅の後で頭痛がおこるのは妻のいつものことです。私は、着替えてから、妻が薬を飲むためのミネラルウォーターを買いに外に出ていきました。

ホテルのある狭いアルプ通りはレストランがひしめき合っています。雨が止んだからか、通りは観光客であふれんばかり、この通りと、隣のサン・セヴラン通りとユシェット通りは安いギリシア料理屋などが軒を連ねていて、原宿の竹下通りや鎌倉の小町通りを思い起こさせる混雑です。長い鉄の串に肉や野菜を刺して店の前で焼いています。どの店も、髭を生やした店員が大声でお客を呼び込んでいます。中近東の食べ物ファラフェルを売っているお店には行列ができています。軒を並べる土産物屋の店先には低俗なTシャツや帽子が積まれています。何というにぎやかさでしょう。この狭い一角にパリ中の観光客が集結したかのようです。

食料品店が見当たらなかったので、ホテルに戻ろうとすると、ホテルのすぐ向いにチュニジアのお菓子を売っているお店を見つけました。そこでミネラルウォーターを買ったのですが、その店のウィンドウを見ると、いままで見たこともないたくさんのお菓子が並んでいます。カステラのようなもの、羊羹のようなもの、べっこう飴のようなもの、いったいどんな未知の味がこれらのお菓子に隠されているのでしょうか。私は、札に記されている菓子の不思議な名前と、見知らぬ菓子の形を一つ一つ見ていきました。アメリカ人らしい老夫婦が店の中に入ってきて、菓子を一つずつ買いました。それにつられたわけではないのですが、私も、アーモンドが上に載った茶色のケーキ(1.5ユーロ)を買ってみました。パティシェの白衣を着た髭の生えた主人が、紙に包んでくれて、歩きながら食べられるように小さなフォークを添えてくれました。

階段を上って部屋に戻ると、妻はもう寝込んでいます。起こして、薬を飲ませ、菓子を食べるかと聞くと、チラッと私が買ってきた菓子を見て、明日食べる、といってまた寝込んでしまいました。私は、飛行機の中でもらった小瓶のワインを飲みながら、チュニジアのケーキを一口食べました。何という甘さ、しかもケーキではなく、粟粒を蜂蜜で固めたような食感です。イスラームの涼しい家の中で、けだるい午後に、ミントティーを飲みながら食べるような強烈な甘さ。二口は食べられず、そのまま私はベッドに倒れて寝てしまいました。

 

一年半ぶりのパリ。前回は、ユーロ高(1ユーロが170円もした)と大規模なストライキで交通機関が麻痺したのに加え、身内の不幸で出発直前まで落ち着かなかったので、妻はかなり不満足でした。しかし、また仕事を休むわけにもいかず、ゴールデン・ウィークの長い休みを利用して再びパリ行きを計画したのです。五月といえば、毎年私は体を壊すのですが、今年は三月頃から健康に留意してアルコールも控えました。ところが、出発前に下痢をして体が弱り、妻も仕事を前日まで目一杯こなしていたので、二人とも疲れきってエール・フランスの朝の便に乗り込みました。

ところで、私にとって、パリ旅行の最大の苦しみは12時間半におよぶ飛行機の旅です。エコノミークラスは足が伸ばせないし、料理はお世辞にもおいしいとはいえません。ビジネスクラスなら良いのですが、この時期、安くても片道45万というのは私たちのような片隅の夫婦には無理なことです。機内では音がうるさいので、映画も読書も楽しめず、むろんゆっくり眠ることもできません。唯一の娯楽はゲームですが、座席に備え付けのゲームは幼稚すぎて楽しめません(チェスはこの時代にあるまじき弱さです)。「今度の旅はパソコンを持っていくから退屈しないわよ」と妻が言っていたのですが、妻のモバイル・パソコンは、どんどん電力を消耗していき、「東大将棋」の秒読みの声よりも電源の消耗度のカウントに気をとられて、たった1局しか遊べませんでした。

思えば、この苦しみの大本は、気圧を調整された密室に長時間閉じ込められるという閉塞感にあるのです。出発後7,8時間すると、苦痛は極限に達し、退屈と息苦しさで耐えられなくなります。機内はとても歩き回れる雰囲気ではなく、異常に狭いトイレは考えただけで憂鬱になります。しかし、到着まで2時間を切ると、やっと心が晴れてきます。窓から見える雲の形がさまざまに変わり、千切れたり、消えていったり、黒いかたまりになったりするのを楽しむ余裕も出てきます。こんな雲の様子を家で留守番するルーミー(猫の名)に見せたら、きっと目を丸くするに違いない、そよ風や葉のそよぎにさえ驚く猫だから、などと考えたりもします。

予算にまったく余裕のない私たち夫婦ですが、それでも固執していることがあって、それは必ず直行便を利用することと、便利で安全な地域にホテルをとるということです。空港を走り回るトランジットのあわただしさ、二度ボディーチェックを受ける面倒さと余計な離発着による事故の危険を考えると、直行便のメリットは計り知れません。そして、パリで宿をとるなら、ルーブル宮から歩いて帰れるほどの距離にすべきでしょう。パリ周辺部は極端に人気が少なくなるし、オペラなどの夜遅くの帰還や、ホテル周辺の散歩、食べ物の買出しなど不便さはお金に代えられません。

 

飛行機は定刻より早くシャルル・ドゴール空港に到着しました。妻はほんとうに疲れた様子です。とりあえず、エール・フランスのリムジンバスの乗り場に行って、ホテルに一番近いと思われるモンパルナスまでのお金を払いました。しかし、これが失敗で、バスは市街地に入ってから渋滞でぐずぐずし、特にリヨン駅からオーステルリッツ橋を渡ってモンパルナスまではなかなか進まず、その間に妻は今にも吐きそうなほど気分が悪くなってきました。「あと、どのくらい?」と何度も私に聞きます。私自身も疲れと眠気で、今バスがどこを走っているのか定かではありません。どうやら、モンパルナス墓地の裏側を走っているようです。モンパルナス墓地といえば、ボードレール、サルトルとボーヴォワール、ベケットなどが眠っていますが、2004年に新顔が加わりました。息子のディヴィッド・リーフが書いた『死の海を泳いでースーザン・ソンタグ最後の日々』によれば、ケネディ空港を発ったソンタグの遺体は、ヴォルヴォの霊柩車に乗ってパリに入り、オペラ座からマドレーヌ寺院、コンコルド広場を通ってセーヌ川を渡り、24歳で初めてパリに来てから第二の故郷のように愛した街、サンジェルマン・デ・プレに挨拶して、ラスパイユ通りからエドガー・キネ通りに入りました。モンパルナス墓地の正門はこの通りに面しているのです。ニューヨークの醜悪な墓地を嫌って、パリを選んだ息子の心と頭には、ソンタグがもっていたスノビズムが拡大遺伝して伝わっているようですが、それを笑うことは誰にもできないでしょう。パリこそスノビズムの永遠の都だからです。

 

ようやく、バスが停車しましたが、折からの突風と雨でとても歩けません。妻が、吐きそうで、乗り物に乗れないというので、雨宿りをしてからホテルまで歩いていくことにしました。レンヌ通りからヴォジラール通りに入り、最短距離でクリュニュー中世美術館を目指します。ホテルはその前のアルプ通りをサン・ミッシェル橋のほうに入ったところにあるのです。なぜ、いつも疲れ切ってホテルにたどり着くのでしょうか。それよりも、もう二度とパリに来ることはないだろうと思って帰るのに、つねに再びパリに来てしまうのはなぜなのでしょうか。

Okasi
チュニジアの菓子。すべて一個200円くらい。一番下のファンタの缶の右側のケーキを食べてみました。

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