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2009年5月26日 (火)

パリ再訪(2)パッシーのピアノ工房

429日(水)

 一番、気がかりだったことは、むろんメキシコで発生したブタ・インフルエンザです。出発の時点では、メキシコとアメリカ、カナダにしか患者は出ていず、ただメキシコでの致死率が高いことから現在よりかえって不気味であり、どのように変異していくかわからない不安もありました。ヨーロッパでの大発生も考えられ、旅行の中止も考えてみました。ホテルはキャンセル可ですが、航空運賃は前払いしてあり、キャンセル料が発生します。他にオペラ、バレー、列車のチケットはもはやキャンセルできません。この時期を逃がすと来年のGWまで待たねばならず、予定通り、決行することにしました。結果的には、イギリス、スペインでは患者が発生したものの、フランスでは帰国の日にパリで二人患者が出ただけで無事に帰ることができました。526日現在のフィガロ紙にはgrippe(インフルエンザ)の文字は一面から完全に姿を消しています。予防としては、成田空港とシャルル・ドゴール空港ではマスクをしましたが、パリ滞在中はマスクはしませんでした。結果がよかったからよいというわけではなく、中止の選択肢もあり得たと思いますが、しかし、このぐらいのリスクは海外旅行にはつきものでしょう。

 

ぐっすり寝たら二人とも旅の疲れはどこかに飛んでしまいました。シャワーを浴びて(予算的にバスはついていません)朝食を食べにホテルの食堂に行きました。まだ、エレベーターは止まっているので、螺旋階段をぐるぐる降りてくると、途中の階段のカーペットの上に、こげ茶の子猫がすわっています。「待って、カメラを取ってくる」といって、妻は部屋に戻っていきました。子猫はおとなしく、クリクリした目で私を見ています。写真を写してから、妻はそっと猫の背中を撫でました。むろん、家に残してきたルーミーのことを思い出したのです。身内に世話してもらっているので安心とはいえ、淋しがりやの猫なので胸が痛みます。

 食堂は一階にあって、もう外人観光客が半分ほどテーブルを埋めています。私たちがキョロキョロしていると、家族で来ていたドイツ人の男性が、引き出しの中にフォークとナイフがあるよ、と教えてくれました。その男性の娘らしい金髪の小さな女の子は、食堂の床に寝そべって、おそらくクリュニュー中世美術館で買ってもらったお姫様と騎士の人形で遊んでいます。

 私たちが卵とハムを食べていると、黒人の女性がコーヒーとパンを持ってきてくれました。朝のコーヒーは実はそのホテルの内実を表すものですが、このコーヒーは格別のうまさでした。ホテルを選ぶのは、いつも妻の役割で、今回もホテル紹介のサイトで、世界中から寄せられている口コミ情報を分析してここを決めたとのことです。今はグーグルのストリートビューで付近の映像も見えるので、まず当て外れということもありません。

 食堂の壁には、古いホテルの写真がたくさん飾ってあって、パリ解放の日の写真ではホテルの前に戦車が止まりアメリカ軍の兵士と街の人たちが笑って写っています。私は、古いパリの写真を見るのがとても好きなので、食堂へ降りてくるたびにこれらの古い写真を見て飽きませんでした。ホテルの近くの、サン・セヴラン教会やサン・ニコラ・デ・シャルドネ教会、川向こうに見えるノートルダム大聖堂、サン・ジャック通りの人通り、セーヌ川にかかるサン・ミッシェル橋など、モノクロの写真はすべて味があります。

 

 さて、もう一度部屋に戻ってから身支度を整え、いよいよ朝のパリの街に繰り出しました。今日の行き先はパッシーのピアノ工房です。すぐ近くのクリュニュー・ラ・ソルボンヌ駅からメトロ10番線でミッシェル・アンジュ・オートゥイユ駅へ、そこで9番線に乗り換えて、ラ・ミュエットで降りました。ここは16区の高級住宅地です。駅を出るとすぐそこはパッシー通りで、華やかで活気のある商店街が続いています。約束の10時半までまだ少し時間があったので、パッシー・プラザというショッピング・ビルに入って時間を潰すことにしました。そこには、ZARAH&MGAPの出店があります。妻が、H&Mで髪飾りを買っているうちに時間になったので、私たちはパッシー・プラザのすぐ横を入ったところにあるピアノ工房を訪れました。

 

 バルロン・ピアノ修復工房(Pianos Balleron)は女性ばかり三人で古いピアノの修復をしています。その一人、日本人のOさんは、翌日の日本への休暇帰国を控えて、忙しい中、わざわざ私たちのために時間を割いてくれました。日本人の夫とパリ郊外で暮らすOさんは、日本での調律・修復の修業を経て、いまここパリで、古いピアノの魅力に囚われながら仕事をしています。とても控えめながら熱心に仕事の説明や古いピアノの良さを教えてくれて、工房の部屋をすべて案内してくれた後で、自らピアノを弾いてその美しい音色を聞かせてくれました。「ちょっと片付けなければいけない仕事が残っていますので、よかったらピアノをお好きなように弾いてみて下さい」といって、作業場に戻ったので、妻は歴史の中から蘇ったプレイエルやガヴォーを存分に弾くことができました。

 ここで、Oさんからきいた話を要約してみます。修復しているピアノは、主に、1885年から1940年にかけてのフランスのピアノメーカー(プレイエルPleyel、ガヴォーGaveau、エラールErard)のもの。年代を限っている理由は、1885年以前は近代ピアノの構造が確立していず、1940年以降では戦後の大量生産でピアノ全体の質が落ちているからだそうです。戦前のピアノ製作者たちは情熱を傾けてピアノを作り、それぞれ個性的な名品を世に出していた。しかし、大量生産、大量消費の時代には、欠点のない、どれも似たり寄ったりのピアノができ上がる。ガヴォー、エラールはすでに会社自体がなくなっていて、プレイエルもドイツ企業の傘下に入った。しかし、そのプレイエルももはや戦前のプレイエルの音質とは違っている。ここに、ピアノの修復工房の存立理由がある。フランス全土の旧家には、まだ古いピアノが眠っているところが多く、修復の価値あるものを買い上げて修復すると驚くような美しい音のピアノに生まれ変わる。その価値は、もはや決して再び作ることのできない文化遺産を蘇らせる作業に他ならない。

 

 この話を聞いて、私はパリの街で見かける車のことを思い出しました。昔は、シトロエンやルノーやプジョーは遠くからでもすぐにわかりました。彼らのポリシー、センスが車の外観にはっきり表れていたからです。しかし、今は近寄ってエンブレムを確かめないと、区別するのはとても困難です。どれも皆、パソコンのマウスのような醜悪な形をしているのです。Oさんと話していて、去年暮れからの世界的不況に話が及ぶと、Oさんの顔が曇りました。すでに昔のピアノを買う人は少なく、さらに不況で、安い電子ピアノやYAMAHAの新品を望む人が多い。この工房もいつまで存続できるか疑問だ、オーナーも働く人も、古いピアノへの情熱で経営を支えているのだが。それを聞いて、妻も表情を曇らせました。妻がここを訪れたかったのも、いつかはプレイエル、それも戦前の本物のプレイエルを欲しいという思いと、日本で買う外国中古ピアノの値段の余りの高さにありました。ここで直接買うと、日本への輸送費35004000ユーロ(約45万から50万)を上乗せしても、小型グランドピアノでも200万、アップライトなら高くても150万円です。むろん、それでも私たちには高くて買えないのですが、夢のまた夢という値段ではありません。妻は、工房の地下で1953年製プレイエルの修復済みアップライトピアノを見つけた時は一瞬真剣な表情になりました。サイドボードのように折りたためるピアノで、輸送費入れても100万でおつりがきます。ただ、音質的にはそれほど優れていない、ありふれたピアノだと説明されて、買うのをあきらめました。

 

 私たちは、貴重な話を伺えたOさんにお礼を言ってそのピアノ工房を後にしました。パッシーから直行したのは、マドレーヌ寺院脇にあるチケット売り場で、ここでは当日券が半額で買えるのです。雨が降ってきたのに、売り場には行列ができています。妻は日本で買えなかったマクベスの当日券を買いたかったのですが、オペラの券は売っていないとのこと。今回のパリ滞在は失敗が多かったのですが、これもその一つです。急いで、オペラ・ガルニエに歩いていくと、120ユーロの席しか残っていません。二人で三万円はちょっと高すぎます。すでに53日の「仮面舞踏会」を買ってあるので、「マクベス」はあきらめました。少し気を落とした妻ですが、お腹がすいたといって、オペラ座近くの行列ができているパティスリーに入りました。ここでコーヒーと妻の好物のイチゴのタルト(3.9ユーロ)を食べたのですが、下の生地と苺を結びつけるクリームが絶妙のおいしさです。

 その後、楽譜屋に行きたいという妻の願いでオペラ座から近いサン・ラザール駅横を通るローマ通りへ。ここは楽譜店が集中しているのです。ローマ通りといえば、その72番地のアパートの四階はマラルメの「火曜会」が行われた場所で、ついでに見ておくのもいいかなと思いました。ローマ通りは、サン・ラザール駅に沿って長い坂になっています。上がっていくと、すぐに左に一軒の楽譜屋があって、妻は店頭に並べられているバーゲンの楽譜を夢中になって物色し始めました。私は楽譜には無縁ですが、フォーレの小品集でもないかと、楽譜の入れられた箱に手をつけようとしたとき、急な便意が襲ってきました。楽譜屋の横で、我慢しながら身をくねらせていると、さすがに妻が気づいて、「大丈夫」と心配そうな顔です。近くにトイレはないかと思案していると、すぐ近くにサン・ラザール駅の一番裏手の小さな鉄の門があります。その門を開けて下に降りていくと一番端のホームの最先端にでました。パリの駅(北駅、東駅、サン・ラザール駅、モンパルナス駅)はすべて終点であり始発駅で、丸山真男『日本の思想』で有名な「ササラ型とタコツボ型」のササラ型に当たる構造になっています。 ホームにいた駅員にトイレの場所を聞くと、正面にある、というので、ササラ型の根元まで早足で歩きました。トイレの入り口に黒人の男性がいて、そこで0.5ユーロ払うとジュトンというコインを渡されます。それを改札口のようなところに入れるとバーが上がってトイレに入れるのです。

 トイレの左右にはずらりと個室が並んでいますが、どうもすべて使用中の様子です。左側の一番奥の個室が空いているようなので戸を開けてみると、パイプがつまっているのか、汚物があふれています。右側の奥の個室がかろうじて空いていたので、入ってみると鍵がうまくかかりません。しかたなく押さえながら用を足していると、白人が強引に入ろうとしてきました。「セ・パ・リーブル!」とか思いついた言葉を言って戸を必死に押さえました。

 

 何とか落ち着いたので、駅のベンチにすわって休んだ後、ここから歩いて行けるアリ・シェフェールのロマン主義博物館に行くことにしました。サン・トリニテ教会の横の道をどんどん上がるとモンマルトルの街並みの外れにその博物館はあります。入り口でだらしない身なりの老人が切符を渡しています(無料の美術館でも必ず切符をくれます)。ロマン主義博物館といっても、もともとロマン派の肖像画家アリ・シェフェールの住居とアトリエと庭だけなのですが、ここにジョルジュ・サンドの孫娘が国家に寄贈したサンド関連の200点近いコレクションが集められて、19世紀の雰囲気を色濃く残す博物館となったのです。

 私たちが入った時は、幼稚園や老人の団体が見学に来ていて、狭い館内は歩くのもやっとでした。サンドは私の好きな作家の一人ですが、それでも灰色の髪の毛などが残されているのには思わず身を引いてしまいます。彼女の描いた画、すばらしい調度などもたくさん展示してありますが、見るべきはドラクロアの水彩画とデッサンでしょう。ショパンの弾いたプレイエルは特別展の展示のために見ることができませんでした。この博物館の眼目は、しかし、個々の展示ではなく、ロマン主義最盛期の雰囲気を体感させることにあります。当時、この辺りは「ヌーベル・アテネ」と呼ばれるほど、芸術家や作家や政治家が集結し、茶を飲み、論争を行ったところなのです。この博物館の庭はニセアカシアの木立に囲まれた静かなサロン・ド・テになっていて、傍らには小さな美しい温室(serre)もあります。天気の良い日には、リスト、ベルリオーズ、ロッシーニ、ドラクロア、ショパンらがこの木陰の椅子にすわり、コーヒーを飲んでいたことでしょう。まさに解説書に書かれているとおり、conserve le palfum romantique d’antan(昔日のロマン主義の香りを閉じ込めた)場所なのです。

 

 私が庭でその心地よい空間に身をゆだねていると、冷たいスチールの椅子に座っていたためか、鋭い便意が突き上げてきました。収まるまで待ってから、サン・ジョルジュの駅まで歩いて、メトロでホテルの近くのサンジェルマン・デ・プレまで帰りました。そこのシャンピオンで、ミネラルウォーター、果物、ヨーグルトなどを買って、途中のポールでバゲットとパン・オ・ショコラを買ったのですが、サン・ミッシェル広場の近くにくると、店頭に古本を大量に並べているお店があります。値段は何と一冊0.2ユーロ(約25円)です。その瞬間、また強烈な便意を催しましたが、何とか我慢して、トイレで読める軽い本はないかと探してみると、すべて屑のような本ばかり(ハウ・ツーもの、料理・趣味・旅行・育児など)です。がっかりして、奥の1ユーロ均一の箱を見ると、ここにも買いたい本はありません。かろうじて、ブレヒトの『ガリレオの生涯』の仏語訳を見つけましたが、すでに我慢は限界を越え、冷や汗が全身から出てきました。しかたなく何も買わず、妻に助けられてすぐそばのホテルに帰りました。

 

Pianosballeron

ピアノ工房の玄関。通りの喧騒がうそのような静けさ。

Piano

修復済みのピアノが置かれている部屋。妻が弾いているのがプレイエルの小型グランド。右にあるのがガヴォーのアップライト。

 

 

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