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2009年5月30日 (土)

パリ再訪(3)ランス

430日(木)

 朝早く起きて、食堂に一番乗りしました。エレベーターは直ったのですが、旧式で狭く、扉を開けて乗り込むと、大人が二人やっと入れる窮屈さです。昨日は、下痢で体力を消耗したので、食堂に積んであったバナナやオレンジを食べてビタミンを補給しました。

 サン・ミッシェル駅からメトロ4番線で行くと、東駅(Gare de l’Est)までは、あっという間です。857分発のランス(Reims)行きTGVは、まだ入線もしていません。別にランスに用事があるわけではなく、フランス三大聖堂の所在地であるアミアンかシャルトルかランスのどれかに行こうと思っていたら、妻がTGVに乗りたいというので、TGVの走っているランスにしたのです。切符はあらかじめSNCF(フランス国鉄)のサイトで一番安い(出発日、時間で運賃が変わります)ものを買いました。二等で片道一人12ユーロ(1500円)です。出発20分前になって、やっと電光掲示板に私たちの乗る列車が表示されました。27番ホームというので、駅の端まで歩きました。二等は列車の先頭なので、さらにホームの先っぽまでひたすら歩きます。二等車の中は、非常に明るく軽快で、マクドナルドの店内を連想させました。しかし、乗り心地は悪くなく、長時間でなければ快適に過ごせそうです。出発直前に、男二人と女一人の機関銃装備の警備隊が乗り込んできて、私たちの前のボックスに陣取りました。「あの人たちがいると安心ね」と妻は言いますが、私は目が合うたびにテロリストに間違われているのかと思って落ち着きません。

 

 パリ郊外の住宅地が窓外に去ると、フランス特有の農村風景が広がります。なだらかな小麦畑が続き、山はまったく見えません。ノンストップ、一時間足らずでランス駅へ到着しました。ランス駅は、日本の地方都市の駅とよく似た感じで、駅前はまったく何もありません。しばらく歩いても、朝早いからか、人気はなく、ただカフェの店員が通りに椅子を並べているのが見えるだけです。旅行案内所で地図をもらって、たぶんこっちの方角だろうと適当に歩いていくと、いきなりランスの大聖堂(Cathedral Notre-Dame)が姿を現しました。

 私たちは二人とも、まさに息をのんで大聖堂を見上げました。まるで異世界から舞い降りたように、巨大であって繊細、古色を帯びながら輝いています。妻もしばらくの間ぼう然として見つめています。それから双眼鏡を出して、これまた見事な彫刻群を一つ一つ嘆賞していきました。有名な諸王のギャラリーや今やle sourire de L’Europeとして統一ヨーロッパのシンボルの一つともなっている微笑の天使の像もあります。パリのノートルダムが建築とすれば、ランスの大聖堂は彫刻ともいってよいでしょう。恐ろしいガーゴイル、それを踏みつける諸聖人、牛や猪などの動物の像もあります。

 内陣に入ってみましょう。エミール・マールが言うように、大聖堂は人々にとって聖書そのものです。きらびやかなステンドグラスが語りかけるものは幼い時に両親から聞いた旧約の物語、そしてマリアやイエスのお話です。高い天蓋、オルガンの厳かな調べ、燭台の上の蝋燭、ここに差し込んでくる光はどこか別世界から降りてくるような色合いを持っています。内陣を奥に進んでいくと、剣を垂直に持ったジャンヌ・ダルクの像があります。彼女は苦難を克服して、ここランスでシャルル七世の戴冠を実現したのです。真ん中の奥には、シャガールのステンドグラスが異彩を放っています。妻はこれをたいへん気に入って、堂内の土産物屋で、ステンドグラスの絵葉書を買っていました。

 

 大聖堂を見ただけで疲れてしまいました。お腹がすいたので、とりあえず昼食をとることにしましたが、レストランが林立していて、どこにするか迷います。あれこれ見て、一番安い日替わり定食(Plat du Jour)の店にしましたが、何と定食は牛のレバーで、これは妻の苦手なメニューです。店頭の黒板で読んでいたのですが、あれこれ店を物色しているうちに勘違いしてしまったようです。二人とも、相手に頼って、しっかり考えないからで、こんな旅行初心者のする間違いをしてしまって、お互いにショックでした。もうパリに帰りたくなりましたが、まだ帰りの列車にはかなり時間があります。一キロほど離れた世界遺産のサン・レミ大聖堂に行くことにして、午後の熱い陽射しの中を歩き始めました。中心部を離れるにつれて、フランス地方都市のけだるさが漂います。眠そうな静けさ。歩いている人は誰もいません。車さえ走っていません。古い街並みもありますが、パリと違って、一日で退屈しそうな風景です。やはり、パリの活き活きした街頭、歴史と新しさ、知的であり軽薄であり、何もかもが混在している街が私たちは好きなんだろうと思いました。

 サン・レミ大聖堂(Basilique Saint-Remi)は、すばらしく大きな聖堂で、フランスで最も古いステンドグラスもあります。しかし、ランスの大聖堂を堪能した後では、気の抜けたシャンパンを飲んだようで感激がありません。そういえば、ランスといえば「大聖堂とシャンパンの町」といわれるようにたくさんのカーブがありますが、私がお腹をこわしてアルコールを控えているので、カーブの見学はしませんでした。ワインの試飲はいつもひどく酔っ払うのです。

 

 また、とぼとぼとランスの中心街まで戻ってきました。どうやって時間をつぶそうかと案内所でもらった地図を見ていると、大聖堂の近くに、ヴェルグ―ル館(Hotel le Vergeur)という博物館らしきものがあるようです。行ってみると、かなり古そうな大きな館で、入り口は何の変哲もない鉄の扉です。入ろうかどうか迷っていると、昼食休憩から戻ってきた女性の館員が、「どうぞどうぞ」と扉を開けて入れてくれました。入ってみると、すぐ受付で、入館料はガイド・ツアー付で4ユーロということでした。私がお金を払うと、先ほど扉を開けてくれた若い館員が、ピチッと直立して、「これからガイド・ツアーをはじめます」と宣言しました。後ろを振り向いても誰もいません。ツアーは私たち二人だけのようで、まず、古い建物に囲まれた中庭に案内されました。

 最初に、フランス語と英語のどちらで話せばよいかと尋ねられたので、妻は、「メランジェ(両方混ぜて)で」などと答えています。「オーケー」と館員は答えたものの、英語はそれだけで、あとは最初から最後までフランス語の解説が続きました。さて、中庭はそんなに広くないのですが、古色を帯びた建物と、木々と、壊された防壁が残っています。まず、建物の柱の説明から入りました。コリント式やイオニア式などの柱頭の様式は、旅行前にあらかじめ勉強してきたので、下から上へと変化していくセオリーはよくわかりました。ただ、ルーブル宮のようにセオリー通りでないのは、このヴェルグール館が長い時代(12世紀から)の間につぎはぎだらけの修復と付け足しがなされたからだそうです。庭の中には、戦争で爆撃された礼拝堂の廃墟も残っており、これはわざと修復せずに残してあるということでした。

 若い館員の説明はたいへん熱心で、身ぶり手振りを交え、感情をこめて話します。時々、こちらに質問してくるので、聞き逃さないよう妻も私も必死です。しかし、熱が入ると早口になるので、何を言っているのかわかりません。庭の奥にある由緒あるレバノン杉についての説明ははじめから終わりまで全く理解不能でした(地面を大量の毛虫がはっていたので気を取られて)。

 

 中庭の説明が終わったのでほっとして入り口に戻ると、フランスの老婦人らしい二人の観光客が待っていて、館内のツアーは四人となりました。まず、階段を上って二階へ行きます。踊り場や廊下に、各時代の所有者たちが集めた絵画や彫刻のコレクションが並んでいます。ランスの有志が寄贈したデューラーの版画「ヨハネの黙示録」もあります。「ルイ十五世の間」や「ナポレオン三世の間」などはとびきり上等の調度品で飾られていました。聞き手が四人に増えたので、館員の説明はさらに熱を帯びてきました。注目すべきは二人の老婦人の相槌の絶妙さです。「アー、セ・ヴレ」とか「ウイ、セ・サ」ばかりでなく、「そういえば、私の町にも、、」とか「○○宮殿にもあったわ」とか、「まあ、あの王妃の」などと、タイミングよく話し手を鼓舞するのです。館員も、もっぱら、話しがいのある二人に向けて話し始めたので、私たちは少し緊張感がほぐれました。ところが、Krafftという20世紀初頭にこの屋敷の所有者だった商人が、日本から持ち帰った刀や人形や掛け軸を展示してある部屋に入ると、いっせいに私たちに質問が集中しました。

 三階には、地方の上流階級の生活がありのままに残されている部屋が続いています。トイレに使われた狭い部屋、大勢が会食できる食堂、さらに驚くのは食堂に続く調理場です。多くの鍋やフライパンがずらりと磨かれて壁にかかっています。寒い時に調理場でスカートの下から暖める小さな暖房具もあります。すごいのは、大きな棚を開いてずらりと出てくる皿、ポット、茶碗などの豪華さです。同じ紋章がついてこれだけ揃って残されているのはフランス全土でもここしかないということでした。ツアーが終わって出口から帰るとき、私が館員に感謝の言葉を述べると、その言葉があまりに大袈裟だったのか、彼女はぱっと明るい顔をして口を開けて笑いました。

 

 かなり疲れて駅にたどりつきました。パリ行きの列車まで、少し時間があったので、自動販売機でOranginaという炭酸入りジュースを買って飲みました(おいしかったので、パリでも何度か飲みました)。最近、メトロの駅でもボトルの自動販売機が設置されていますが、一本2ユーロ(260円)は少し高いようです。

 帰りのTGVは一等で一人17ユーロ(2200円)です。この前後の時間のTGVは、なぜか24ユーロに跳ね上がっていました。座席は日本の新幹線のグリーン車とよく似ていて、すっぽり体が漬かるグレーのシートです。二人とも疲れていたので、すぐ寝ようと思いましたが、前の座席の二人の幼児がうるさくてなかなか眠れません。やっと眠りかけたら車掌が検札に来ました。日本でプリントアウトした切符を渡すと、パスポートを見せろと言ってきます。シャツの下から出すのに手間取って、すっかり眠気も覚めてしまいました。

 

 ホテルに帰ってもすぐ休んだわけではありません。シャワーを浴びて、こざっぱりしてから、ホテルのすぐ近くにあるはずのシェイクスピア・アンド・カンパニー書店に行ってみることにしました。探すのに手間取ったのは、書店のあるビュシェリー通りが小さな公園で分断されていたからで、見つけてみると、なんとセーヌ川に面して、ノートルダム寺院の向かいにありました。ここは、シルヴィア・ビーチの有名な同名の書店とは何の関係もないようですが、なぜか観光スポットになっています。私たちが行ったときも中国人家族が見学に来ていたので驚きました。主に、英米の文学書がいかにもスノッブに並べられています。妻は奥に入っていろいろ探していましたが、私は外に出ているバーゲンの棚をあまり興味を持たず物色することにしました。フォークナー、ヘミングウェイ以下有名どころが並び、カポーティやオースターなどのペーパーバックもあります。『ヘンリー・アダムスの教育』の縮刷版を5ユーロで見つけたので買おうかどうか迷いました。汚れていたので買わずに帰りましたが、後日また行ってみると、なぜかすでに失くなっていました。

Vergeur2

ヴェルグール館の正面。左下が入口の扉。館内は撮影禁止でした。


Vergeur1

中庭で熱心に説明してくれる館員の女性。妻にとっては格好のフランス語個人授業となりました。

 

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2009年5月26日 (火)

パリ再訪(2)パッシーのピアノ工房

429日(水)

 一番、気がかりだったことは、むろんメキシコで発生したブタ・インフルエンザです。出発の時点では、メキシコとアメリカ、カナダにしか患者は出ていず、ただメキシコでの致死率が高いことから現在よりかえって不気味であり、どのように変異していくかわからない不安もありました。ヨーロッパでの大発生も考えられ、旅行の中止も考えてみました。ホテルはキャンセル可ですが、航空運賃は前払いしてあり、キャンセル料が発生します。他にオペラ、バレー、列車のチケットはもはやキャンセルできません。この時期を逃がすと来年のGWまで待たねばならず、予定通り、決行することにしました。結果的には、イギリス、スペインでは患者が発生したものの、フランスでは帰国の日にパリで二人患者が出ただけで無事に帰ることができました。526日現在のフィガロ紙にはgrippe(インフルエンザ)の文字は一面から完全に姿を消しています。予防としては、成田空港とシャルル・ドゴール空港ではマスクをしましたが、パリ滞在中はマスクはしませんでした。結果がよかったからよいというわけではなく、中止の選択肢もあり得たと思いますが、しかし、このぐらいのリスクは海外旅行にはつきものでしょう。

 

ぐっすり寝たら二人とも旅の疲れはどこかに飛んでしまいました。シャワーを浴びて(予算的にバスはついていません)朝食を食べにホテルの食堂に行きました。まだ、エレベーターは止まっているので、螺旋階段をぐるぐる降りてくると、途中の階段のカーペットの上に、こげ茶の子猫がすわっています。「待って、カメラを取ってくる」といって、妻は部屋に戻っていきました。子猫はおとなしく、クリクリした目で私を見ています。写真を写してから、妻はそっと猫の背中を撫でました。むろん、家に残してきたルーミーのことを思い出したのです。身内に世話してもらっているので安心とはいえ、淋しがりやの猫なので胸が痛みます。

 食堂は一階にあって、もう外人観光客が半分ほどテーブルを埋めています。私たちがキョロキョロしていると、家族で来ていたドイツ人の男性が、引き出しの中にフォークとナイフがあるよ、と教えてくれました。その男性の娘らしい金髪の小さな女の子は、食堂の床に寝そべって、おそらくクリュニュー中世美術館で買ってもらったお姫様と騎士の人形で遊んでいます。

 私たちが卵とハムを食べていると、黒人の女性がコーヒーとパンを持ってきてくれました。朝のコーヒーは実はそのホテルの内実を表すものですが、このコーヒーは格別のうまさでした。ホテルを選ぶのは、いつも妻の役割で、今回もホテル紹介のサイトで、世界中から寄せられている口コミ情報を分析してここを決めたとのことです。今はグーグルのストリートビューで付近の映像も見えるので、まず当て外れということもありません。

 食堂の壁には、古いホテルの写真がたくさん飾ってあって、パリ解放の日の写真ではホテルの前に戦車が止まりアメリカ軍の兵士と街の人たちが笑って写っています。私は、古いパリの写真を見るのがとても好きなので、食堂へ降りてくるたびにこれらの古い写真を見て飽きませんでした。ホテルの近くの、サン・セヴラン教会やサン・ニコラ・デ・シャルドネ教会、川向こうに見えるノートルダム大聖堂、サン・ジャック通りの人通り、セーヌ川にかかるサン・ミッシェル橋など、モノクロの写真はすべて味があります。

 

 さて、もう一度部屋に戻ってから身支度を整え、いよいよ朝のパリの街に繰り出しました。今日の行き先はパッシーのピアノ工房です。すぐ近くのクリュニュー・ラ・ソルボンヌ駅からメトロ10番線でミッシェル・アンジュ・オートゥイユ駅へ、そこで9番線に乗り換えて、ラ・ミュエットで降りました。ここは16区の高級住宅地です。駅を出るとすぐそこはパッシー通りで、華やかで活気のある商店街が続いています。約束の10時半までまだ少し時間があったので、パッシー・プラザというショッピング・ビルに入って時間を潰すことにしました。そこには、ZARAH&MGAPの出店があります。妻が、H&Mで髪飾りを買っているうちに時間になったので、私たちはパッシー・プラザのすぐ横を入ったところにあるピアノ工房を訪れました。

 

 バルロン・ピアノ修復工房(Pianos Balleron)は女性ばかり三人で古いピアノの修復をしています。その一人、日本人のOさんは、翌日の日本への休暇帰国を控えて、忙しい中、わざわざ私たちのために時間を割いてくれました。日本人の夫とパリ郊外で暮らすOさんは、日本での調律・修復の修業を経て、いまここパリで、古いピアノの魅力に囚われながら仕事をしています。とても控えめながら熱心に仕事の説明や古いピアノの良さを教えてくれて、工房の部屋をすべて案内してくれた後で、自らピアノを弾いてその美しい音色を聞かせてくれました。「ちょっと片付けなければいけない仕事が残っていますので、よかったらピアノをお好きなように弾いてみて下さい」といって、作業場に戻ったので、妻は歴史の中から蘇ったプレイエルやガヴォーを存分に弾くことができました。

 ここで、Oさんからきいた話を要約してみます。修復しているピアノは、主に、1885年から1940年にかけてのフランスのピアノメーカー(プレイエルPleyel、ガヴォーGaveau、エラールErard)のもの。年代を限っている理由は、1885年以前は近代ピアノの構造が確立していず、1940年以降では戦後の大量生産でピアノ全体の質が落ちているからだそうです。戦前のピアノ製作者たちは情熱を傾けてピアノを作り、それぞれ個性的な名品を世に出していた。しかし、大量生産、大量消費の時代には、欠点のない、どれも似たり寄ったりのピアノができ上がる。ガヴォー、エラールはすでに会社自体がなくなっていて、プレイエルもドイツ企業の傘下に入った。しかし、そのプレイエルももはや戦前のプレイエルの音質とは違っている。ここに、ピアノの修復工房の存立理由がある。フランス全土の旧家には、まだ古いピアノが眠っているところが多く、修復の価値あるものを買い上げて修復すると驚くような美しい音のピアノに生まれ変わる。その価値は、もはや決して再び作ることのできない文化遺産を蘇らせる作業に他ならない。

 

 この話を聞いて、私はパリの街で見かける車のことを思い出しました。昔は、シトロエンやルノーやプジョーは遠くからでもすぐにわかりました。彼らのポリシー、センスが車の外観にはっきり表れていたからです。しかし、今は近寄ってエンブレムを確かめないと、区別するのはとても困難です。どれも皆、パソコンのマウスのような醜悪な形をしているのです。Oさんと話していて、去年暮れからの世界的不況に話が及ぶと、Oさんの顔が曇りました。すでに昔のピアノを買う人は少なく、さらに不況で、安い電子ピアノやYAMAHAの新品を望む人が多い。この工房もいつまで存続できるか疑問だ、オーナーも働く人も、古いピアノへの情熱で経営を支えているのだが。それを聞いて、妻も表情を曇らせました。妻がここを訪れたかったのも、いつかはプレイエル、それも戦前の本物のプレイエルを欲しいという思いと、日本で買う外国中古ピアノの値段の余りの高さにありました。ここで直接買うと、日本への輸送費35004000ユーロ(約45万から50万)を上乗せしても、小型グランドピアノでも200万、アップライトなら高くても150万円です。むろん、それでも私たちには高くて買えないのですが、夢のまた夢という値段ではありません。妻は、工房の地下で1953年製プレイエルの修復済みアップライトピアノを見つけた時は一瞬真剣な表情になりました。サイドボードのように折りたためるピアノで、輸送費入れても100万でおつりがきます。ただ、音質的にはそれほど優れていない、ありふれたピアノだと説明されて、買うのをあきらめました。

 

 私たちは、貴重な話を伺えたOさんにお礼を言ってそのピアノ工房を後にしました。パッシーから直行したのは、マドレーヌ寺院脇にあるチケット売り場で、ここでは当日券が半額で買えるのです。雨が降ってきたのに、売り場には行列ができています。妻は日本で買えなかったマクベスの当日券を買いたかったのですが、オペラの券は売っていないとのこと。今回のパリ滞在は失敗が多かったのですが、これもその一つです。急いで、オペラ・ガルニエに歩いていくと、120ユーロの席しか残っていません。二人で三万円はちょっと高すぎます。すでに53日の「仮面舞踏会」を買ってあるので、「マクベス」はあきらめました。少し気を落とした妻ですが、お腹がすいたといって、オペラ座近くの行列ができているパティスリーに入りました。ここでコーヒーと妻の好物のイチゴのタルト(3.9ユーロ)を食べたのですが、下の生地と苺を結びつけるクリームが絶妙のおいしさです。

 その後、楽譜屋に行きたいという妻の願いでオペラ座から近いサン・ラザール駅横を通るローマ通りへ。ここは楽譜店が集中しているのです。ローマ通りといえば、その72番地のアパートの四階はマラルメの「火曜会」が行われた場所で、ついでに見ておくのもいいかなと思いました。ローマ通りは、サン・ラザール駅に沿って長い坂になっています。上がっていくと、すぐに左に一軒の楽譜屋があって、妻は店頭に並べられているバーゲンの楽譜を夢中になって物色し始めました。私は楽譜には無縁ですが、フォーレの小品集でもないかと、楽譜の入れられた箱に手をつけようとしたとき、急な便意が襲ってきました。楽譜屋の横で、我慢しながら身をくねらせていると、さすがに妻が気づいて、「大丈夫」と心配そうな顔です。近くにトイレはないかと思案していると、すぐ近くにサン・ラザール駅の一番裏手の小さな鉄の門があります。その門を開けて下に降りていくと一番端のホームの最先端にでました。パリの駅(北駅、東駅、サン・ラザール駅、モンパルナス駅)はすべて終点であり始発駅で、丸山真男『日本の思想』で有名な「ササラ型とタコツボ型」のササラ型に当たる構造になっています。 ホームにいた駅員にトイレの場所を聞くと、正面にある、というので、ササラ型の根元まで早足で歩きました。トイレの入り口に黒人の男性がいて、そこで0.5ユーロ払うとジュトンというコインを渡されます。それを改札口のようなところに入れるとバーが上がってトイレに入れるのです。

 トイレの左右にはずらりと個室が並んでいますが、どうもすべて使用中の様子です。左側の一番奥の個室が空いているようなので戸を開けてみると、パイプがつまっているのか、汚物があふれています。右側の奥の個室がかろうじて空いていたので、入ってみると鍵がうまくかかりません。しかたなく押さえながら用を足していると、白人が強引に入ろうとしてきました。「セ・パ・リーブル!」とか思いついた言葉を言って戸を必死に押さえました。

 

 何とか落ち着いたので、駅のベンチにすわって休んだ後、ここから歩いて行けるアリ・シェフェールのロマン主義博物館に行くことにしました。サン・トリニテ教会の横の道をどんどん上がるとモンマルトルの街並みの外れにその博物館はあります。入り口でだらしない身なりの老人が切符を渡しています(無料の美術館でも必ず切符をくれます)。ロマン主義博物館といっても、もともとロマン派の肖像画家アリ・シェフェールの住居とアトリエと庭だけなのですが、ここにジョルジュ・サンドの孫娘が国家に寄贈したサンド関連の200点近いコレクションが集められて、19世紀の雰囲気を色濃く残す博物館となったのです。

 私たちが入った時は、幼稚園や老人の団体が見学に来ていて、狭い館内は歩くのもやっとでした。サンドは私の好きな作家の一人ですが、それでも灰色の髪の毛などが残されているのには思わず身を引いてしまいます。彼女の描いた画、すばらしい調度などもたくさん展示してありますが、見るべきはドラクロアの水彩画とデッサンでしょう。ショパンの弾いたプレイエルは特別展の展示のために見ることができませんでした。この博物館の眼目は、しかし、個々の展示ではなく、ロマン主義最盛期の雰囲気を体感させることにあります。当時、この辺りは「ヌーベル・アテネ」と呼ばれるほど、芸術家や作家や政治家が集結し、茶を飲み、論争を行ったところなのです。この博物館の庭はニセアカシアの木立に囲まれた静かなサロン・ド・テになっていて、傍らには小さな美しい温室(serre)もあります。天気の良い日には、リスト、ベルリオーズ、ロッシーニ、ドラクロア、ショパンらがこの木陰の椅子にすわり、コーヒーを飲んでいたことでしょう。まさに解説書に書かれているとおり、conserve le palfum romantique d’antan(昔日のロマン主義の香りを閉じ込めた)場所なのです。

 

 私が庭でその心地よい空間に身をゆだねていると、冷たいスチールの椅子に座っていたためか、鋭い便意が突き上げてきました。収まるまで待ってから、サン・ジョルジュの駅まで歩いて、メトロでホテルの近くのサンジェルマン・デ・プレまで帰りました。そこのシャンピオンで、ミネラルウォーター、果物、ヨーグルトなどを買って、途中のポールでバゲットとパン・オ・ショコラを買ったのですが、サン・ミッシェル広場の近くにくると、店頭に古本を大量に並べているお店があります。値段は何と一冊0.2ユーロ(約25円)です。その瞬間、また強烈な便意を催しましたが、何とか我慢して、トイレで読める軽い本はないかと探してみると、すべて屑のような本ばかり(ハウ・ツーもの、料理・趣味・旅行・育児など)です。がっかりして、奥の1ユーロ均一の箱を見ると、ここにも買いたい本はありません。かろうじて、ブレヒトの『ガリレオの生涯』の仏語訳を見つけましたが、すでに我慢は限界を越え、冷や汗が全身から出てきました。しかたなく何も買わず、妻に助けられてすぐそばのホテルに帰りました。

 

Pianosballeron

ピアノ工房の玄関。通りの喧騒がうそのような静けさ。

Piano

修復済みのピアノが置かれている部屋。妻が弾いているのがプレイエルの小型グランド。右にあるのがガヴォーのアップライト。

 

 

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2009年5月23日 (土)

パリ再訪(1)

 428日(火)

雨、雨、雨、横なぐりの風、傘をさしてもコートはぐしょぬれです。夜の8時半すぎですが、まだ外は明るい。サン・ミッシェル広場の近くにあるホテルに疲れた顔でたどり着くと、フロントにいたアラブ人は申し訳なさそうな顔で、部屋は六階(日本の七階)だが、エレベーターは故障中だ、と言うのです。重いキャリアケースを抱え、狭い螺旋階段を一番上まで上がると、妻は疲れきってシャワーも浴びずにベッドに倒れました。長旅の後で頭痛がおこるのは妻のいつものことです。私は、着替えてから、妻が薬を飲むためのミネラルウォーターを買いに外に出ていきました。

ホテルのある狭いアルプ通りはレストランがひしめき合っています。雨が止んだからか、通りは観光客であふれんばかり、この通りと、隣のサン・セヴラン通りとユシェット通りは安いギリシア料理屋などが軒を連ねていて、原宿の竹下通りや鎌倉の小町通りを思い起こさせる混雑です。長い鉄の串に肉や野菜を刺して店の前で焼いています。どの店も、髭を生やした店員が大声でお客を呼び込んでいます。中近東の食べ物ファラフェルを売っているお店には行列ができています。軒を並べる土産物屋の店先には低俗なTシャツや帽子が積まれています。何というにぎやかさでしょう。この狭い一角にパリ中の観光客が集結したかのようです。

食料品店が見当たらなかったので、ホテルに戻ろうとすると、ホテルのすぐ向いにチュニジアのお菓子を売っているお店を見つけました。そこでミネラルウォーターを買ったのですが、その店のウィンドウを見ると、いままで見たこともないたくさんのお菓子が並んでいます。カステラのようなもの、羊羹のようなもの、べっこう飴のようなもの、いったいどんな未知の味がこれらのお菓子に隠されているのでしょうか。私は、札に記されている菓子の不思議な名前と、見知らぬ菓子の形を一つ一つ見ていきました。アメリカ人らしい老夫婦が店の中に入ってきて、菓子を一つずつ買いました。それにつられたわけではないのですが、私も、アーモンドが上に載った茶色のケーキ(1.5ユーロ)を買ってみました。パティシェの白衣を着た髭の生えた主人が、紙に包んでくれて、歩きながら食べられるように小さなフォークを添えてくれました。

階段を上って部屋に戻ると、妻はもう寝込んでいます。起こして、薬を飲ませ、菓子を食べるかと聞くと、チラッと私が買ってきた菓子を見て、明日食べる、といってまた寝込んでしまいました。私は、飛行機の中でもらった小瓶のワインを飲みながら、チュニジアのケーキを一口食べました。何という甘さ、しかもケーキではなく、粟粒を蜂蜜で固めたような食感です。イスラームの涼しい家の中で、けだるい午後に、ミントティーを飲みながら食べるような強烈な甘さ。二口は食べられず、そのまま私はベッドに倒れて寝てしまいました。

 

一年半ぶりのパリ。前回は、ユーロ高(1ユーロが170円もした)と大規模なストライキで交通機関が麻痺したのに加え、身内の不幸で出発直前まで落ち着かなかったので、妻はかなり不満足でした。しかし、また仕事を休むわけにもいかず、ゴールデン・ウィークの長い休みを利用して再びパリ行きを計画したのです。五月といえば、毎年私は体を壊すのですが、今年は三月頃から健康に留意してアルコールも控えました。ところが、出発前に下痢をして体が弱り、妻も仕事を前日まで目一杯こなしていたので、二人とも疲れきってエール・フランスの朝の便に乗り込みました。

ところで、私にとって、パリ旅行の最大の苦しみは12時間半におよぶ飛行機の旅です。エコノミークラスは足が伸ばせないし、料理はお世辞にもおいしいとはいえません。ビジネスクラスなら良いのですが、この時期、安くても片道45万というのは私たちのような片隅の夫婦には無理なことです。機内では音がうるさいので、映画も読書も楽しめず、むろんゆっくり眠ることもできません。唯一の娯楽はゲームですが、座席に備え付けのゲームは幼稚すぎて楽しめません(チェスはこの時代にあるまじき弱さです)。「今度の旅はパソコンを持っていくから退屈しないわよ」と妻が言っていたのですが、妻のモバイル・パソコンは、どんどん電力を消耗していき、「東大将棋」の秒読みの声よりも電源の消耗度のカウントに気をとられて、たった1局しか遊べませんでした。

思えば、この苦しみの大本は、気圧を調整された密室に長時間閉じ込められるという閉塞感にあるのです。出発後7,8時間すると、苦痛は極限に達し、退屈と息苦しさで耐えられなくなります。機内はとても歩き回れる雰囲気ではなく、異常に狭いトイレは考えただけで憂鬱になります。しかし、到着まで2時間を切ると、やっと心が晴れてきます。窓から見える雲の形がさまざまに変わり、千切れたり、消えていったり、黒いかたまりになったりするのを楽しむ余裕も出てきます。こんな雲の様子を家で留守番するルーミー(猫の名)に見せたら、きっと目を丸くするに違いない、そよ風や葉のそよぎにさえ驚く猫だから、などと考えたりもします。

予算にまったく余裕のない私たち夫婦ですが、それでも固執していることがあって、それは必ず直行便を利用することと、便利で安全な地域にホテルをとるということです。空港を走り回るトランジットのあわただしさ、二度ボディーチェックを受ける面倒さと余計な離発着による事故の危険を考えると、直行便のメリットは計り知れません。そして、パリで宿をとるなら、ルーブル宮から歩いて帰れるほどの距離にすべきでしょう。パリ周辺部は極端に人気が少なくなるし、オペラなどの夜遅くの帰還や、ホテル周辺の散歩、食べ物の買出しなど不便さはお金に代えられません。

 

飛行機は定刻より早くシャルル・ドゴール空港に到着しました。妻はほんとうに疲れた様子です。とりあえず、エール・フランスのリムジンバスの乗り場に行って、ホテルに一番近いと思われるモンパルナスまでのお金を払いました。しかし、これが失敗で、バスは市街地に入ってから渋滞でぐずぐずし、特にリヨン駅からオーステルリッツ橋を渡ってモンパルナスまではなかなか進まず、その間に妻は今にも吐きそうなほど気分が悪くなってきました。「あと、どのくらい?」と何度も私に聞きます。私自身も疲れと眠気で、今バスがどこを走っているのか定かではありません。どうやら、モンパルナス墓地の裏側を走っているようです。モンパルナス墓地といえば、ボードレール、サルトルとボーヴォワール、ベケットなどが眠っていますが、2004年に新顔が加わりました。息子のディヴィッド・リーフが書いた『死の海を泳いでースーザン・ソンタグ最後の日々』によれば、ケネディ空港を発ったソンタグの遺体は、ヴォルヴォの霊柩車に乗ってパリに入り、オペラ座からマドレーヌ寺院、コンコルド広場を通ってセーヌ川を渡り、24歳で初めてパリに来てから第二の故郷のように愛した街、サンジェルマン・デ・プレに挨拶して、ラスパイユ通りからエドガー・キネ通りに入りました。モンパルナス墓地の正門はこの通りに面しているのです。ニューヨークの醜悪な墓地を嫌って、パリを選んだ息子の心と頭には、ソンタグがもっていたスノビズムが拡大遺伝して伝わっているようですが、それを笑うことは誰にもできないでしょう。パリこそスノビズムの永遠の都だからです。

 

ようやく、バスが停車しましたが、折からの突風と雨でとても歩けません。妻が、吐きそうで、乗り物に乗れないというので、雨宿りをしてからホテルまで歩いていくことにしました。レンヌ通りからヴォジラール通りに入り、最短距離でクリュニュー中世美術館を目指します。ホテルはその前のアルプ通りをサン・ミッシェル橋のほうに入ったところにあるのです。なぜ、いつも疲れ切ってホテルにたどり着くのでしょうか。それよりも、もう二度とパリに来ることはないだろうと思って帰るのに、つねに再びパリに来てしまうのはなぜなのでしょうか。

Okasi
チュニジアの菓子。すべて一個200円くらい。一番下のファンタの缶の右側のケーキを食べてみました。

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2009年5月17日 (日)

A.W.クロスビー『史上最悪のインフルエンザ』(2)

 スペイン風邪については、いまだ解明されていない(おそらく永遠に解明されない)ことがあまりに多いのですが、その名称の由来すら定かではありません。おそらく、当時は第一次大戦のさなかで、どの国も将兵の罹患者数は軍の機密だったので、大戦不参加国であったスペインのメディアが主にこのインフルエンザのニュースをとりあげたゆえに、その国名が冠されたのだろうと思われます。

犠牲者の数も、4000万人というのはきわめて大雑把です。比較的正確な数字が残されているアメリカの場合について見てみましょう。まず、どれだけの人間が罹ったのか? アメリカ公衆衛生局は1919年、国内11の都市や町を詳細に調べ上げ、それらの都市ではパンデミックの期間に1000人あたり280人がインフルエンザに罹っていたことを見出しています。もし、合衆国全体がこの比率になっていたとするなら、少なくとも四分の一以上、2500万人あるいはそれ以上がインフルエンザに罹っていたことになります。死者の数はもう少し正確に出て(死というのはたいへん印象的なことなので)アメリカ全体で675000人の死亡者が出ました。罹患した場合の死亡率は2.7%となります。

 

 <スパニッシュ・インフルエンザの特徴>

 第一波(1918年春夏)では比較的軽い症状だったのですが、変異をくり返して後、1918年秋の第二波では最悪の致死性をもったインフルエンザにかわりました。実は、このインフルエンザは例外的な二つの特徴を持っていたのです。ひとつは、インフルエンザにしては致死率が高いことで、わずか数ヶ月でこれほど多くの人命を奪った病気は人類史上類を見ません。致死率の高さは感染力の強さと、肺炎を誘発する割合の高さによります。第二波で凶暴化したインフルエンザ・ウイルスは人の気管に付着するや否や、一気に肺の繊毛をもった粘膜上皮細胞をそっくり刈り取ってしまうのです。呼吸器の最初の防波堤ともいうべき上皮細胞組織が攻撃された後に、肺炎を引き起こす桿菌や球菌がわがもの顔に暴れまわったというわけです。

 

 スパニッシュ・インフルエンザのもうひとつの特徴は、犠牲者が20代で最も多く、次に30代40代が続いて、合衆国の統計では死者の平均年齢は33歳であったということです。普通のインフルエンザの死者は、幼児と高齢者のU字型の年齢分布のグラフを描くのですが、スパニッシュ・インフルエンザは世界のどの地域でも、不気味なW字のグラフとなっています。

 つまり、このインフルエンザは、好んで弱者より強者を冒していったのです。若くて元気溌剌とし、身体的発育も栄養状態も申し分ない人間をとくに狙って襲っていたのです。死ぬどころか、カゼひとつ引いたことのないような青年ほど確実に罹り、そして死んでいきました。詩人で医師であったウィリアム・カルロス・ウィリアムズは「彼らは、たった一日で病気になり、そのままつぎの段階に進み、生きているだけで目いっぱいの状態になり、死んでいった」と書いています。作家でフランス遠征軍に加わったジョン・ドス・パソスは『三人の兵隊』の中で、オラフという兵士を登場させています。オラフは片手で180パウンドを持ち上げることができ、マティーニ25杯を飲み干し、たちどころに湖を泳ぎ渡ることのできる男でしたが、フランスへの航海途中でインフルエンザに倒れました。「彼らはアゾレス諸島が見えた頃、オラフの遺体を海に投げ入れた」(ドス・パソス自身もインフルエンザに罹りましたが、病院に行かず、フランスのポン引きから買ったラム酒一本を飲んで治しました。病院に連れて行かれた同僚はみな帰って来なかった、と書いています)

 

 スパニッシュ・インフルエンザは、人生最良の時期にあった人々の、しかもその中でも最高の状態の見本のような人々の命を奪っていきました。この理由については、現在ではサイトカイン・ストーム(免疫過剰反応による多臓器不全)によるものだとされているようです。免疫の過剰反応について説得力ある仮説を立てたのは、1960年にノーベル医学賞を受賞したオーストラリアのマックファーレン・バーネット卿です。彼はつぎのように説明しています。

 子供は、どうしたら立派な大人になれるかを学習するが、これは免疫についてもいえる。おたふくかぜ、はしか、水ぼうそうといった病気は、いわば免疫の学校で、子供はこのような病気を通じて感染症への対処の仕方を学ぶ。そして、ヒトの体は成人に達する頃までにあらゆる感染症を経験し、その免疫を獲得していくのだが、成人になった今では、全身性の傷害ではなく、骨折や靭帯断裂や創傷のような局所性の傷害に強い炎症反応を示すようになる。このことは、地球上に人類が生存してきたほとんどすべての時間を通じて、成人に課せられた役割とも関連している。

 しかし、スパニッシュ・インフルエンザのウイルスのように、瞬間的に気管から肺全体に侵食されるような時には、強い局所性の炎症が強烈な全身性の炎症に燃え上がっていく。肺は多量の滲出液を出し、その液体で自ら溺死することになる。40歳を過ぎる頃から、この極端な炎症反応の能力は減退し、局所的傷害に持ちこたえて生きのびる能力は低下するが、それと引き換えに全身的感染から生きのびる可能性が増してくる。以上のことは、たとえば、はしかや水ぼうそうという病気を成人になってから経験すると重篤化することが多いという事実、あるいはある土地にはじめてある病気がもたらされた時、最初に発症するのはたいてい若年成人である、ということからもわかる。以上がバーネット卿の説明です。

 

 次に、スパニッシュ・インフルエンザが、なぜ第二波において猛毒性のものに変異したかについてのリチャード・E・ショープの研究を紹介しましょう。ブタ・インフルエンザの存在は、1918年までまったく知られていませんでした。ブタのインフルエンザの存在をはじめて指摘したのは、連邦家畜産業局のJS・コーエンでしたが、このことは養豚業者や精肉業者の反発を買ったのです。1928年、コーエンと同じアイオワ出身のショープがふたたびコーエンの研究をとりあげました。アイオワは他州の2倍以上のブタを有し、毎年伝染病で多量のブタが死んでいます。ショープは死んだブタを集め、そこから肺炎を引き起こすファイファー桿菌を分離しました。ところが、その桿菌を他のブタに寄生させてもインフルエンザは発生しなかったのです。次にショープは、病気のブタの組織をろ過して、そのろ液を健康なブタに接種してみると軽いインフルエンザの症状が見られました。これこそインフルエンザ・ウイルスで、ショープはブタ・インフルエンザがウイルスによって引き起こされることを証明したのです。さらに、彼はファイファー桿菌とインフルエンザ・ウイルスを同時に接種すると、ついにそのブタは典型的なインフルエンザの症状を呈し、病気になったのです。

 重篤なインフルエンザがインフルエンザ・ウイルスとファイファー桿菌によって引き起こされることがわかったとして、次の事実はまだ謎でした。つまり、ヒトのインフルエンザは、カレンダー通りとはいかず、いつでも始まりうるのに、ブタのインフルエンザはきまって秋に起こることです。さらに、ヒトのインフルエンザはほぼ同心円状に拡大していくのに、ブタの場合はある地域全域で同時に大量に発生するのです。

 ショープは、20年の歳月をかけた研究で次のような理論を打ち立てました。ウイルスは自分にぴったりの宿主細胞を見つけると、外套を脱ぎ捨て自らの遺伝子である核酸を細胞の中に注入する。そしてそこで何かを待ちながらかなりの期間(数週間、数年間、ことによると永遠に)宿主に何のトラブルも起こさずにじっとしている。ブタにとりついたウイルスは、しばしばファイファー桿菌と同宿するが何らかの刺激を受けるまでは宿主細胞を破壊することはない。ショープは、健康なブタにウイルスとファイファー桿菌を接種したのちに冷たい水を浴びせました。その結果、何頭かが典型的インフルエンザ症状を呈しました。冷たい水は、アイオワの秋の寒く湿った気候に相当し、この環境操作でインフルエンザ発生のスイッチが入ったのです。

 このショープの説は、ブタ・インフルエンザのすべての謎を説明するものでした。ブタ・インフルエンザの流行が秋と冬だけに起こるのはその気候が引金になっているからで、また流行が中西部一帯で爆発的に起こるのは、この病気がブタからブタに漸次広がっていく必要がないからです。ウイルスはすでにブタの中で潜伏状態にあり、あとは単にそれを活性化する刺激を必要とするだけだったのです。

 このことからショープは、スパニッシュ・インフルエンザの第一波と第二波の違いを以下のように説明しました。すなわち、第一波においては単にインフルエンザ・ウイルスの種まきがなされただけであり、次に秋になり、涼しい気候とファイファー桿菌の蔓延が引金となってあのようなパンデミックを起こしたのである、と。むろん、この説も決定的な真実とはいえず、多くの反論を受けています。

 

 <忘れられたパンデミック>

クロスビーのこの本の原題はAmerica’s Forgotten Pandemic で、実は著者の主眼もここにあるのです。

アメリカにおいて、20世紀のすべての戦争の犠牲者よりも多くの死者を、たった一年で出したスパニッシュ・インフルエンザ、しかし、その最悪の日々が過ぎ去ってしまうと、アメリカ国民は急速にそれを忘れていきました。いや、過ぎ去ってからでもなく、その最中においてさえも、インフルエンザがアメリカの最高の恐怖として恐れられてはいなかったのです。そして、信じられないことに、アーサー・シュレジンジャー・ジュニアやリチャード・ホフシュテッターやサミュエル・エリオット・モリソン等といった歴史家の米国史のなかにそのインフルエンザについての記述を探しても、ただベイリーの『The American Pageant』のなかのわずか一文しかない、という有様です。

 

この理由はいくつか考えられます。

まず、一番大きな理由は、時期として、第一次大戦の末期とすっかり重なってしまったことです。しかも、犠牲者の多くが、戦争の死者とほぼ同じ年齢であったことが、このパンデミックを戦争の一部として見させる一助ともなっているのです。(インフルエンザの流行が、部隊の激しい移動によって助成されたこともむろんあります)。戦争中は死そのものが日常のこととなっているので、伝染病の死もそれほどのインパクトを残さなかった、という説もあります。

もう一つの理由は、この病気の狡猾な性質そのものにあります。すばやく来て、それと知らずに去っていく、死者だけ残して、という筋書きはあまり劇的とはいえません。家族や友人がともにその闘病を何年も見守る苦悩の時期さえ、この病気は与えてくれないのです。また、このインフルエンザが、もし、一命をとりとめた人間に、疱瘡やポリオのような目に見える瘢痕を残すことがあれば、社会はその苦悩をいつまでも目に焼き付けずにはおかないでしょう。しかし、死ななかった人間は、カゼが治ったぐらいの後味しか残らないのです。そしてそれは、病気にたいする私たちの偏見にも多く由来しています。めったに罹らないが、感染すれば死の危険の強い狂犬病のような伝染病と、多くの人が罹るが、めったに死なないインフルエンザと、どちらが私たちに恐怖を起こさせるでしょうか。それは前者であり、スーザン・ソンタグが書いていたように、必ず死に至る病気は何か恐れ多いものを感じさせるのです。

 

このことは、文学作品に、スパニッシュ・インフルエンザがほとんど現れない、という事実を説明してくれるでしょう。それは、劇的で苦悩に満ちた人生の一こまにしてはあまりにあっけなさすぎるのです。1918年当時もっとも感受性豊かであったはずの「失われた世代」の作家たちを見てみましょう。(この命名者であるガートルード・スタインも、このパンデミックのとき、フランスで救急車の運転手として働いていました)

自らを時代の記録者とみなしたフィッツジェラルドも、自らの部隊の四分の一が感染したフォークナーも、看護婦の恋人がインフルエンザとの闘いのため彼を捨てていったヘミングウェイも、自らの作品にはほとんどまったくこの病気のことを書いていません。

 

しかし、忘れていたのは社会という巨大な織物であって、個人のレベルではこのパンデミックは決して忘れることのできない痕跡を残したはずです。当時の無名の人たちの手紙や日記、権力の側にいなかった人たちの自伝の中には、亡くした家族への思い、パンデミックを生き抜いた悲痛な思いが現れている、とクロスビーは書いています。その後の人生を全く狂わせられた無数の人々の苦悩については想像するしかありません。

メアリー・マッカーシーは、その当時六歳だったのですが、一家でミネアポリスへの旅に出るため汽車に乗った時、家族全員(両親、兄弟たちも)がインフルエンザに罹っていました。そして一週間後に両親が亡くなったのです。もし、そのとき両親が死ななかったら、おそらく彼女は典型的なカトリックの中流家庭の中で心地よい子供時代を過ごし、誰もが予想するような人生を送ったかもしれません。「私には、アイルランド系の弁護士と結婚して、ゴルフやトランプに興じ、時々家に引きこもったり、カトリックブッククラブの購読者になったりする自分が手に取るようにわかるのです」(『Memories of a Catholic Girlhood』)しかし、彼女は作家になり、辛らつな社会批評家となったのです、、、。

 

アメリカ文学で、インフルエンザが大きな痕跡を残した例をクロスビーは二つ挙げています。一つはトマス・ウルフがその『天使よ故郷を見よ』で描いた最愛の兄、ベンジャミン・ハリソン・ウルフの死でした。トマス・ウルフがノース・カロライナ大学の学生だった頃、兄のベンはスパニッシュ・インフルエンザで倒れ、急いで帰郷したトマスに看取られて亡くなりました。トマス・ウルフは、愛する者がもうこの世にはいないという事実、この宇宙のすべての力を持ってしても彼を生き返らせることはできない、という事実を受け入れる瞬間を感動的に描いています。

「しかし息をこらした家族の間に、驚嘆の思いが募っていった。彼らは風のように来て風のように去った淋しいベンの生涯を、忘れていたくさぐさの振舞いや瞬間を、今更のように思い出したーそしてどこかこの世のものならぬ奇妙さが、終始ベンにまといついていたことを思い浮かべた。ベンがこの家の生活を影法師のようにすりぬけて歩いていたのは、この瞬間の予兆だったのだろうかーなきがらを見てひしひしとそれを感ずると、忘れていた呪文を思い起こす人のように、あるいは神を永久に失うということを初めて理解した人々のように、彼らは血の気の失せ切ったベンをながめた」

 

もう一人は、キャサリン・アン・ポーターです。1918年の秋、彼女は、コロラドのロッキー・マウンテン・ニューズ社で新聞記者として働いている時にインフルエンザに罹りました。当時の恋人であった若い陸軍の工兵少尉は病院に彼女を置いたまま、泣く泣く任地へと赴きます。彼女は、高熱のため頭髪は真っ白になって抜け落ち、その死はもはや時間の問題と思われ、新聞社は死亡記事を準備していました。しかし、彼女は奇跡的に回復し、たまった手紙類に目を通せるほど意識がはっきりしてきた時、その中に恋人の友人からの手紙で、彼女の少尉が兵営でインフルエンザで亡くなったことを知るのです。「パンデミックは私の人生を、何のためらいもなく、あのように真っ二つにしてしまった」と彼女は後に書いています。

キャサリン・アン・ポーターにとって、この経験はあまりに強く刻み込まれたので、長い間、彼女はそれを語ることさえできませんでした。彼女が経験した死の淵での長い語らいの記憶、失われた幸福な日々の約束は、20年間彼女の心の中でゆっくりと醸成され、20世紀アメリカ最高の短編の一つとされる『幻の馬 幻の騎手』(Pale Horse, Pale Rider 1939)となって結実するのです。

物語は、彼女の分身であるミランダという娘の目を通して、ひたすら主観的に描かれます。明るい日差しの下での恋人との語らい、戦時公債のキャンペーンの執拗さと、ひっきりなしに行きかう葬儀の車、ボストンで細菌がまかれたという噂、ドイツ軍への際限ない憎しみ、インフルエンザの始まりである頭痛と吐き気、しかし、それらはすべて現実の世界からすこしずれた夢のようなただミランダの意識の反映として叙述されていきます。そして、このスタイルがこの作品を深い文学の秘密の中へ引き寄せていくのです。なぜなら、死は徹底的に個人的なことであり、死の悲しみとはすべての人間関係から切り離される悲しみに他ならないからです。生のいちばん底まで降りていって、死の淵を巡って、ただ一粒の命の熱い微粒子になり、はじめてミランダは自分を取り巻いていた世界の深奥に触れるのです。「アダム」と死から蘇った彼女は亡くなった恋人の名を呼びます。「あなたはもう死ぬ必要がなくなったわ」と。その瞬間、すべては止まり、空しさと生への希望だけが残ります。この物語の最後の文章は、忘れられた疫病とそれによって愛するものを失った人々の決して癒されぬ心への鎮魂となっているのです。

「もはや戦争もなければ疫病もなく、あるのはただ、重砲のなりやんだあとの、茫然とした静寂だけ。鎧戸を下ろしたひっそりした家々と、人気のない通りと、死んでいるような冷たいあしたの光だけだった。今やそこには、あらゆるものにとって時間だけが存在しているようだった」

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2009年5月15日 (金)

A.W.クロスビー『史上最悪のインフルエンザ』(1)

 アルフレッド・W・クロスビーの『史上最悪のインフルエンザ』(みすず書房・西村秀一訳 原著は1976年刊)は19181919年に全世界で4000万人近い犠牲者を出したスパニッシュ・インフルエンザ(スペイン風邪)についてのおそらく最良の書物です。ここに報告されているパンデミックの実態は、今なお再現可能であり、事実再現されつつあるかも知れないのです。

 著者は2003年の日本語版に寄せた序文で、ウイルスの危険は1918年以来ますます危険になっており、「人も水鳥もブタも世界中で最大の数を有する中国からは1918年以降インフルエンザの新しい株が数多く出現してきており、また新型肺炎のような、たぶん我々を驚かす知らせがいくつも出番を待っていることだろう」と警告した上で、さらにつぎのように不気味な予言をしています。

 「巨大都市における公衆衛生問題は、このところことさら我々人類の重い負担になってきている。メキシコシティひとつとってみても、公式統計だけで1900万人、実際にはそれ以上が暮らしており、これは見方を変えればノルウェーとスウェーデンとデンマークの人口をすべて合わせたよりもずっと多い数なのである。そのようなメガロポリスは世界各地で急成長を遂げており、そのほとんどは病気をコントロールするために最も効果的な手段をとろうにも明らかに設備と資金が不十分な地域に存在している」

 

 スパニッシュ・インフルエンザの第一波は、1918年の3月にアメリカでひっそりと始まったようです。デトロイトの自動車工場で1000人以上の労働者がインフルエンザに感染しました。ほかに刑務所や新兵のキャンプで小規模のインフルエンザ感染が見られましたが、アメリカはまったく危機感を抱くことはありませんでした。というのも1918年はまさに激動の年だったからです。1月にアメリカ大統領ウィルソンの史上有名な十四か条の演説があり、3月にはボルシェヴィキが電撃的にドイツと和平してしまいます。これにより、第一次大戦からロシアが撤退し、ドイツは全力を西部戦線に差し向けることができるようになりました。こう着状態であった西部戦線のバランスは崩れ、今やドイツの大攻勢が目に見えていました。協商国側はアメリカに火急の援軍を要請し、こうして、大戦末期の半年で160万の米軍兵士が大西洋を渡ることになります。戦時国債のキャンペーンと若い新兵の移動で明け暮れるアメリカ大陸にはインフルエンザの恐怖など感じられなかったわけです。

その後、インフルエンザの第一波はヨーロッパ、アフリカ、アジアをとおり、再びアメリカに戻ってきます。すでにこの春夏の第一波で、スパニッシュ・インフルエンザの主要な特徴の一つ、成人男女に異常に罹患率が高い、という事実が顕著に現れていました。そして、4ヶ月かけて地球を一周したあとでは、このウイルスは変異を繰りかえした挙句、凶暴な肺炎を引き起こしやすい桿菌や球菌というハイエナを引き連れたライオンに変わっていたのです。

 

1918年秋の第二波は、シェラ・レオネのフリータウン、フランスのブレスト、そしてアメリカのボストンで同時に出現しました。フリータウンは西アフリカ最良の港を有し、ヨーロッパ、アフリカ、極東をつなぐ燃料補給基地として知られていました。この港で、英海軍アフリカ号の乗組員779名のうち75%がインフルエンザにやられ、51名が亡くなっています。さらに、シェラ・レオネの住民の3分の2がインフルエンザに罹り、全人口の3%が一ヶ月も経たずに亡くなっています。フランスのブレストは屈指の深さを誇る良港で、アメリカ遠征軍の500隻の船が常時停泊していました。ここで、わずか3週間のうちに1350人の兵隊が入院し、そのうち370人が死亡しています。

アメリカのボストンではインフルエンザがさらに猛威をふるいました。ボストンはニューヨークに次ぐ多くの新兵を抱えたキャンプ地で、そこで急造の兵舎に押し込められた新兵は抗うことなく次々にインフルエンザで倒れていったのです。そのキャンプ地の一つキャンプ・デーヴンスで起こったことを見てみましょう。

 

ウイリアム・ヘンリー・ウェルチは、20世紀初頭のアメリカにおける医学界の大物で、その名声はフランクリン以来とまで言われた人物でした。彼は、ウィルソン大統領の「すべての戦争という戦争をこの世から永遠になくすための闘いに加わろう」というよびかけに賛同して、大学の地位を捨てて軍籍に就きました。彼の任務は、広く軍の医学・衛生面での問題に対処することで、時まさにインフルエンザのパンデミックの報を受け、ボストンの南30マイルにあるキャンプ・デーヴンスに赴いたのです。

1918923日に、45000人が滞留するそのキャンプに着いて、ウェルチは愕然としました。着いた日に64人、翌日は90人と新兵が死んでいるのです。冷たい雨の中を濡れた毛布にくるまって診療を待つ青白い顔の兵隊たちの列、その傍らには死体が積み重ねられています。こんなことが信じられるでしょうか。アメリカの20代の若者といえば、人類史上最も強健な集団であるはずでした。それが、かくも簡単に倒れ、死んでいくのです。このインフルエンザは、健康そのものであった者がほとんど動けなくなるのに発症からほんの1,2時間ほどしかかかりませんでした。体温は38,3~40,6度まで跳ね上がり、体中の筋肉や関節、そして背中や頭にひどい痛みを訴えるのです。みな、まるで「こん棒に打たれた」ような感じと表現しています。たいていの患者の場合、これらの症状は数日続き、その後衰弱から回復していくのですが、5~10%は重篤で肺全体に広がる肺炎に見舞われ、その半数近くが死んでいくのです。

 

ウェルチが調査した結果、ぞっとする数字が現れてきました。第十三大隊の29.6%、第四十二歩兵連隊の17.3%、憲兵隊の25%が活動不能に陥っており、300名の看護婦のうち90名がダウンしているのです。彼は病棟を巡り、何かヒントになるものを見出そうとしました。ベッドを覆う麻のシーツは多くは血にまみれていました。血痰や突然起こる鼻出血はスパニッシュ・インフルエンザに特有の症状でした。顔色がまるで青インクのようになってしまった兵士たちにとって死は時間の問題でした。ウェルチは石盤のように灰色をした死体が、薪のように積まれた横を通って剖検室にたどり着きました。病理学者としてのキャリアにおいて彼の右に出る者などいないウェルチでしたが、遺体の胸部を開けてみて、震えを覚えずにはいられませんでした。普通、肺は人間の臓器で最も軽いもので、75000万個の肺胞が石鹸の泡と変わらないほどの薄さでひしめき合っているのです。ところが、スパニッシュ・インフルエンザの犠牲者の肺は、青みがかり腫れあがって重く、血液混じりの泡立った液体に満たされた二つの袋となっていたのです。

 

ウェルチにできることは、兵員をこれ以上増強させないこと、他のキャンプへの集団移送をやめること、一人当たり五平方メートルの空間を確保すること、医師や看護婦を増やすことだけでした。実際、なす術がなかったのです。抗生物質もなかったために、病人にとっては看護婦のほうが医師よりも大切な存在でした。温かな食事、暖かな毛布、新鮮な空気、そして看護婦自身が皮肉をこめてTLCと呼んでいた「優しく愛情に満ちた看護 Tender Loving Care」が、患者の命をつなぎとめ、この病気が過ぎ去るまでのあいだ持ちこたえさせたのです。それこそが1918年当時における奇跡の妙薬でした。

 

この点に関して、陸軍二等兵ロバート・ジェイムズ・ウォーレスがフランス航路で兵員輸送船ブリトン号上で体験したことは、洋上でインフルエンザに苦しめられた兵隊たちにとってたぶん共通に近い経験だったでしょう。

アメリカを経って数日後の朝、ウォーレスは目を覚ますと「ものすごく体がつらく」、朝食をとることもできずに軍医の診察を待つ長い列に加わりました。その頃の兵員輸送船は、患者の鼻から滴り落ちた血でできた血だまりがそこかしこに散らばり、床は吐瀉物と排泄物で汚れ、夜は恐怖でかられた人間のうめき声でまさに地獄に近い有様でした。医師は、39.4度の体温を見ると、ウォーレス二等兵に、毛布を持って上甲板で待機しろと命じました。もはや病人に許される場所はすべていっぱいだったからです。ウォーレス二等兵はしかたなく強い風の吹く上甲板に出て毛布を広げ、オーバーコートを着こんで寝込みました。彼が高熱で錯乱し、幻想と現実のあいだをさまよっている時、嵐が船を襲ってきました。ウォーレスの目前には、自分を苦痛から解き放ち平和と静寂の世界に引きずりこんでくれる誘惑が現れてきました。だが、「絶対にそちらの世界に行ってはならなかった」。そうしているあいだも、大波が甲板を洗い、デッキにしぶきを振りまきます。彼は自分の食事道具一式(それがないと食事をもらえない)がガラガラ音をたてながらどこかへ永遠に飛び去っていくのを耳にしました。気がつくと、自分の革ゲートルや帽子もどこかに流されなくなってしまっています。

翌朝、衛生兵が巡回し、夜のうちに死亡した者を運び出していたのですが、まだ息のあるウォーレスを拾い上げ、下の、サロンとして使われていた部屋に運んでいきました。たぶん、誰かが亡くなって、一人分のスペースが空いたのでしょう。まだベッドには入れないが、ウォーレスはともかく波しぶきのかからないところに横になれたわけです。ある夜、看護婦がウォーレスのところにやってきて、英国訛りで、何かつらいことや不便なことはないかと尋ねました。ウォーレスが飲み物がほしいと答えると、彼女はしばらくして飲み物と温かなお湯の入った盥(たらい)を持ってきました。「足を洗ってあげましょう」というと、彼女はウォーレスの軍隊ズボンの脚部の紐をとき、発熱で濡れて今は乾いて彼の足にへばりついている重い靴下を剥ぎ取りました。「いったいどれくらいこの靴下をはいていたの」「たぶん12日間ずっと、、」「まあ、かわいそうに、、」と彼女は言いました。それから半世紀もの時間が過ぎ去ったが、ウォーレスはそのときの看護婦のことを「人のかたちをした奇跡」として思い出すのです。「彼女の柔らかな、石けんのついた手が、私の足をやさしく洗ってくれたあのときのことは、私の心に刻みこまれており、私が天に召される時には、そのことを天国でしっかりと記録するのが私の務めなのです」

 

<フィラデルフィア>

ボストン近郊の軍キャンプその他から爆発したインフルエンザ第二波は、アメリカ全土を恐るべきスピードで覆っていきました。その中で、最悪の経験をした都市のひとつ、当時人口170万人(軍人などをふくめると200万近い)のフィラデルフィアを見てみましょう。

フィラデルフィアの市当局は夏から欧州におけるインフルエンザについての情報をいち早く入手していたのですが、なぜかインフルエンザを届出伝染病に指定することはありませんでした。フィラデルフィアが危険を察知すると同時にその準備をしていれば、ほとんどダメージを受けとることなくパンデミックをやり過ごせたかもしれません。何よりも強力なリーダーシップが必要なのに、コネや癒着のはびこる市役所はまったくその任を果たせませんでした。

9月の初め、フィラデルフィア市民は模範的な健康状態にありました。911,15,17,日にそれぞれフィラデルフィア周辺の軍事キャンプでインフルエンザの患者が発生しました。918日、市の保険局はやっと重い腰を上げ、インフルエンザについての警告を発し、人前で咳やくしゃみをしたり、痰や唾をはいたりしないように呼びかけました。しかし、その翌日、600名の水兵が市内の病院に入院し、市民の中からも入院患者が出始めました。921日、保険局は遅まきながらインフルエンザを届出伝染病に指定しました。しかし、それでも市の保健福祉部長と保健局長は市民に対し、このインフルエンザは一般市民のあいだで流行することはまずないだろうし、万一流行しても必ず阻止できると明言していました。保健関係の役人はパンデミックに懐疑的で、すすんで新しい情報を集めようともしませんでした。928日、市内23ブロックで戦時公債の宣伝のパレードが行われました。その翌日からフィラデルフィアではインフルエンザの爆発的流行が始まりました。103日、市当局は大勢の市民が集まる施設をすべて閉鎖することを決定しましたが、時すでに遅く、10月第一週で700人、第二週で2600人、第三週には4500人以上がインフルエンザと肺炎で亡くなりました。

 

 病院は患者であふれましたが、戦時のため医師や看護婦はいつもより不足していました。患者の増加に対応してやみくもに臨時の病院を各所に設置したため、さらにスタッフは不足し、インフルエンザにさらされた病院従事者、医師やコックや運転手まで感染して倒れていきました。インフルエンザはまたたくまに市民生活に深刻な打撃を与えていきました。483名の警察官が出勤できなくなり、欠勤率は消防士、ゴミ収集人その他の公共サービスでも高く、ベル電信電話会社では107日だけで850人の社員が欠勤して、事実上緊急以外は電話が使用不要となりました。両親が重症となった子供たちで児童収容施設はあふれ、ほとんどの家族は病人を抱えて動きがとれず、あるソーシャルワーカーが訪ねた家では家族六人が全員インフルエンザで倒れ、みなの面倒を見ていたのは比較的軽症だった八歳の男の子だった、という話もありました。

 

何より深刻だったのは増え続ける遺体の埋葬でした。棺も足りず、墓堀人も足らず、遺体は家の中や遺体収容所に何日も放置されていました。このことは、まず遺体の腐敗による二次的伝染病を発生させる恐れと、さらに遺体が多くの人にさらされることで、人々の士気を削ぎ、地域全体の気力を失わせる心配を生じさせるのです。市内の目抜き通りにあった身元不明の遺体収容所では数百体の遺体が三、四段に積み重ねられて並べられ、ひどい臭気のため戸もすべて開け放たれていたので子供でも中をのぞくことができたということです。

 

行政機関がほとんど役立たなくなっていたとき、そういうほとんど絶望的状況から市民のボランティアが立ち上がってきました。中心となったのは民間防衛組織である国防委員会で、24時間の電話サービスによってボランティアが現場に急行しました。その他、フィラデルフィア自動車会社、やフィラデルフィア自動車クラブも救急車両を提供しました。タクシー会社も協力し、しばしば動けないほど弱った患者を病院に運ぶ時も一度も乗車拒否はなかった、ということです。

看護婦の不足から、まだ免許のない看護生、引退した医療関係者、さらにまったく専門的バックグラウンドのない素人がボランティアで病人を献身的に看護しました。これらの人々は、自らも致死的病気に冒される危険を承知で、日に15~20時間も働いたのです。フィラデルフィアのすべての組織、キリスト教、ユダヤ教、経済的、政治的組織はこぞってこの運動に参加しました。商店街や会社の人たちは自主的に店や事務所を閉め、食料の配給や病人の運搬に活躍しました。特筆すべきは、全くなんでもない人たちの犠牲的精神です。(素人ボランティアは女性が多かったのですが)彼女たちは、食糧配給所の炊き出しに、緊急電話の受付に、病人の家庭の掃除に、半狂乱になった人を鎮めたり、あとに残された人を慰めたり、亡くなった人の目を閉じることさえしたのです。

11月に入って、やっとフィラデルフィアはインフルエンザとの闘いの最後の場面を迎えました。この1ヶ月で12162名のフィラデルフィア市民がインフルエンザとその合併症である肺炎で亡くなりました。統計学者はフィラデルフィアにおいても死者には三つのピークが、つまり5歳以下の幼児と65歳以上の高齢者の低いピークと、それに25~35歳の高いピーク、俗に「恐怖のW」といわれる年齢分布があった、と指摘しています。生命保険会社がフィラデルフィア市の人的損失は当時のお金で六千万ドルにあたる、という試算を発表しました。しかし、「いまだかって人の悲しみというものを測ったものはいない。それゆえ、悲しみについては読者の想像力に任すほかはない」とクロスビーは書いています。

 

<二つのサモア>

インフルエンザは、もちろん全世界を襲いました。おそらくインドの1700万人の死者が最も多い犠牲者でしょうが、死者不祥の中国でもかなりの数の人が死んだはずです。ここで、南太平洋サモアを見てみましょう。これはクロスビーが「防疫上の幸運は、それを懸命に追い求める者たちの方に転がってくるものなのだ」という事実の例証になっているのです。

サモアは第一次大戦でドイツが撤退してから、西サモアとアメリカン・サモアの二つに分かれていました。インフルエンザに対する戦いは、この二つのサモアで対照的であり、結果として、アメリカン・サモアでは無傷でインフルエンザを切り抜け、西サモアでは住民の五分の一が命を失うことになったのです。

西サモアを統治するニュージーランド軍中佐ローガンは、あきらかにインフルエンザにたいして何らの危惧も抱いていませんでした。パンデミックの情報は当然入手ずみなのに、それが、まさか南太平洋の自分の島にやってこようとは思えなかったのです。1918年11月7日、ニュージーランドのオークランドからインフルエンザの感染者をのせてタルーン号が西サモアの港アピアに入ってきました。船長も、検疫医務官も、むろんローガンも、そのことに対して具体的処置をまったくとらなかったということは驚くべきことです。そして、それから二ヶ月も満たないうちに総人口38302人の西サモアはその20%にあたる7542人をインフルエンザとそれに続く肺炎で失ったのです。西サモアが最悪の状況を呈しているころ、アメリカン・サモアの知事はローガンに「もし我々にできることがあったら知らせてほしい」という電報を打ちました。しかし、ローガンは何とこの電報を無視したのです。彼はアメリカン・サモアが検疫を理由に西サモアからの郵便物を留め置いていることに腹を立てていたのです。

 

一方、アメリカン・サモアの知事、ジョン・M・ボイヤー海軍中佐は、毎日送られてくる「電信ニュース」を見ながら、パンデミックにたいする準備を周到に行っていました。西サモアのアピア港にタルーン号がやってくる4日前に、サンフランシスコからホノルルを経由して、蒸気船サモア号がアメリカン・サモアの港パゴパゴに到着しました。このサモア号ではインフルエンザ患者が14名出て1名が亡くなっていました。ボイヤーは船を隔離し、パゴパゴの街に向う乗客は検査のため五日間港に留め置かれ、所持品は燻蒸消毒され、毎日体温をとられ、間違いなく健康であることが確認されてはじめて解放されました。これ以降、ボイヤーはサンフランシスコからやってくるすべての船にサンフランシスコ出航時の全乗員、乗客の体温測定結果を記す書類の提出を要求しました。さらにボイヤーは、すべての郵便物を二時間燻蒸消毒させ、船上や船着場で荷を扱う全員のマスク着用を義務づけ、何らかの作業に携った港湾労働者は全員検診を受けさせました。

しかし、本当に危険だったのは、港にやってくる大型の船ではありません。病気が蔓延する西サモアとアメリカン・サモアとは40マイルしか離れていず、両方の住民がボートで往来するのは日常茶飯のことでした。パンデミックから逃れようとして西サモアの住民が日中アメリカン・サモアに渡ってくれば直ちに隔離することもできます。だが、夜中に、さんご礁の上を潮にのってやってきて、どこかに上陸するとしたら、それを防ぐ手立てはあるでしょうか? ボイヤーはアメリカン・サモアの首都ツツイラに全部族の長を呼び出し、西サモアからやってくるいかなるボートの着岸も許さぬ24時間の監視を指示しました。サモアのリーダーたちはこれに全面協力し、後にボイヤーはリーダーたちのうち三名の表彰メダルの授与をウィルソン大統領に願い出ています。

19196月、任期が終わり、ボイヤーが17発の礼砲とともに任地を去る時、住民たちは自分や自分たちの子供を救ってくれたこの善良な知事への感謝の気持ちを包まず表しました。「もし、かつて帝国主義がほんの少しでも正当化されることがあったのなら、1918-19年のアメリカン・サモアがまさにそれである」とクロスビーは書いています。アメリカン・サモアは、ただ単にパンデミックの波を被らずにすんだだけでなく、そのおかげで島の唯一の輸出品であるコプラに史上最高の値がつけられたのです。

(2)に続きます。

 

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