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2009年5月15日 (金)

A.W.クロスビー『史上最悪のインフルエンザ』(1)

 アルフレッド・W・クロスビーの『史上最悪のインフルエンザ』(みすず書房・西村秀一訳 原著は1976年刊)は19181919年に全世界で4000万人近い犠牲者を出したスパニッシュ・インフルエンザ(スペイン風邪)についてのおそらく最良の書物です。ここに報告されているパンデミックの実態は、今なお再現可能であり、事実再現されつつあるかも知れないのです。

 著者は2003年の日本語版に寄せた序文で、ウイルスの危険は1918年以来ますます危険になっており、「人も水鳥もブタも世界中で最大の数を有する中国からは1918年以降インフルエンザの新しい株が数多く出現してきており、また新型肺炎のような、たぶん我々を驚かす知らせがいくつも出番を待っていることだろう」と警告した上で、さらにつぎのように不気味な予言をしています。

 「巨大都市における公衆衛生問題は、このところことさら我々人類の重い負担になってきている。メキシコシティひとつとってみても、公式統計だけで1900万人、実際にはそれ以上が暮らしており、これは見方を変えればノルウェーとスウェーデンとデンマークの人口をすべて合わせたよりもずっと多い数なのである。そのようなメガロポリスは世界各地で急成長を遂げており、そのほとんどは病気をコントロールするために最も効果的な手段をとろうにも明らかに設備と資金が不十分な地域に存在している」

 

 スパニッシュ・インフルエンザの第一波は、1918年の3月にアメリカでひっそりと始まったようです。デトロイトの自動車工場で1000人以上の労働者がインフルエンザに感染しました。ほかに刑務所や新兵のキャンプで小規模のインフルエンザ感染が見られましたが、アメリカはまったく危機感を抱くことはありませんでした。というのも1918年はまさに激動の年だったからです。1月にアメリカ大統領ウィルソンの史上有名な十四か条の演説があり、3月にはボルシェヴィキが電撃的にドイツと和平してしまいます。これにより、第一次大戦からロシアが撤退し、ドイツは全力を西部戦線に差し向けることができるようになりました。こう着状態であった西部戦線のバランスは崩れ、今やドイツの大攻勢が目に見えていました。協商国側はアメリカに火急の援軍を要請し、こうして、大戦末期の半年で160万の米軍兵士が大西洋を渡ることになります。戦時国債のキャンペーンと若い新兵の移動で明け暮れるアメリカ大陸にはインフルエンザの恐怖など感じられなかったわけです。

その後、インフルエンザの第一波はヨーロッパ、アフリカ、アジアをとおり、再びアメリカに戻ってきます。すでにこの春夏の第一波で、スパニッシュ・インフルエンザの主要な特徴の一つ、成人男女に異常に罹患率が高い、という事実が顕著に現れていました。そして、4ヶ月かけて地球を一周したあとでは、このウイルスは変異を繰りかえした挙句、凶暴な肺炎を引き起こしやすい桿菌や球菌というハイエナを引き連れたライオンに変わっていたのです。

 

1918年秋の第二波は、シェラ・レオネのフリータウン、フランスのブレスト、そしてアメリカのボストンで同時に出現しました。フリータウンは西アフリカ最良の港を有し、ヨーロッパ、アフリカ、極東をつなぐ燃料補給基地として知られていました。この港で、英海軍アフリカ号の乗組員779名のうち75%がインフルエンザにやられ、51名が亡くなっています。さらに、シェラ・レオネの住民の3分の2がインフルエンザに罹り、全人口の3%が一ヶ月も経たずに亡くなっています。フランスのブレストは屈指の深さを誇る良港で、アメリカ遠征軍の500隻の船が常時停泊していました。ここで、わずか3週間のうちに1350人の兵隊が入院し、そのうち370人が死亡しています。

アメリカのボストンではインフルエンザがさらに猛威をふるいました。ボストンはニューヨークに次ぐ多くの新兵を抱えたキャンプ地で、そこで急造の兵舎に押し込められた新兵は抗うことなく次々にインフルエンザで倒れていったのです。そのキャンプ地の一つキャンプ・デーヴンスで起こったことを見てみましょう。

 

ウイリアム・ヘンリー・ウェルチは、20世紀初頭のアメリカにおける医学界の大物で、その名声はフランクリン以来とまで言われた人物でした。彼は、ウィルソン大統領の「すべての戦争という戦争をこの世から永遠になくすための闘いに加わろう」というよびかけに賛同して、大学の地位を捨てて軍籍に就きました。彼の任務は、広く軍の医学・衛生面での問題に対処することで、時まさにインフルエンザのパンデミックの報を受け、ボストンの南30マイルにあるキャンプ・デーヴンスに赴いたのです。

1918923日に、45000人が滞留するそのキャンプに着いて、ウェルチは愕然としました。着いた日に64人、翌日は90人と新兵が死んでいるのです。冷たい雨の中を濡れた毛布にくるまって診療を待つ青白い顔の兵隊たちの列、その傍らには死体が積み重ねられています。こんなことが信じられるでしょうか。アメリカの20代の若者といえば、人類史上最も強健な集団であるはずでした。それが、かくも簡単に倒れ、死んでいくのです。このインフルエンザは、健康そのものであった者がほとんど動けなくなるのに発症からほんの1,2時間ほどしかかかりませんでした。体温は38,3~40,6度まで跳ね上がり、体中の筋肉や関節、そして背中や頭にひどい痛みを訴えるのです。みな、まるで「こん棒に打たれた」ような感じと表現しています。たいていの患者の場合、これらの症状は数日続き、その後衰弱から回復していくのですが、5~10%は重篤で肺全体に広がる肺炎に見舞われ、その半数近くが死んでいくのです。

 

ウェルチが調査した結果、ぞっとする数字が現れてきました。第十三大隊の29.6%、第四十二歩兵連隊の17.3%、憲兵隊の25%が活動不能に陥っており、300名の看護婦のうち90名がダウンしているのです。彼は病棟を巡り、何かヒントになるものを見出そうとしました。ベッドを覆う麻のシーツは多くは血にまみれていました。血痰や突然起こる鼻出血はスパニッシュ・インフルエンザに特有の症状でした。顔色がまるで青インクのようになってしまった兵士たちにとって死は時間の問題でした。ウェルチは石盤のように灰色をした死体が、薪のように積まれた横を通って剖検室にたどり着きました。病理学者としてのキャリアにおいて彼の右に出る者などいないウェルチでしたが、遺体の胸部を開けてみて、震えを覚えずにはいられませんでした。普通、肺は人間の臓器で最も軽いもので、75000万個の肺胞が石鹸の泡と変わらないほどの薄さでひしめき合っているのです。ところが、スパニッシュ・インフルエンザの犠牲者の肺は、青みがかり腫れあがって重く、血液混じりの泡立った液体に満たされた二つの袋となっていたのです。

 

ウェルチにできることは、兵員をこれ以上増強させないこと、他のキャンプへの集団移送をやめること、一人当たり五平方メートルの空間を確保すること、医師や看護婦を増やすことだけでした。実際、なす術がなかったのです。抗生物質もなかったために、病人にとっては看護婦のほうが医師よりも大切な存在でした。温かな食事、暖かな毛布、新鮮な空気、そして看護婦自身が皮肉をこめてTLCと呼んでいた「優しく愛情に満ちた看護 Tender Loving Care」が、患者の命をつなぎとめ、この病気が過ぎ去るまでのあいだ持ちこたえさせたのです。それこそが1918年当時における奇跡の妙薬でした。

 

この点に関して、陸軍二等兵ロバート・ジェイムズ・ウォーレスがフランス航路で兵員輸送船ブリトン号上で体験したことは、洋上でインフルエンザに苦しめられた兵隊たちにとってたぶん共通に近い経験だったでしょう。

アメリカを経って数日後の朝、ウォーレスは目を覚ますと「ものすごく体がつらく」、朝食をとることもできずに軍医の診察を待つ長い列に加わりました。その頃の兵員輸送船は、患者の鼻から滴り落ちた血でできた血だまりがそこかしこに散らばり、床は吐瀉物と排泄物で汚れ、夜は恐怖でかられた人間のうめき声でまさに地獄に近い有様でした。医師は、39.4度の体温を見ると、ウォーレス二等兵に、毛布を持って上甲板で待機しろと命じました。もはや病人に許される場所はすべていっぱいだったからです。ウォーレス二等兵はしかたなく強い風の吹く上甲板に出て毛布を広げ、オーバーコートを着こんで寝込みました。彼が高熱で錯乱し、幻想と現実のあいだをさまよっている時、嵐が船を襲ってきました。ウォーレスの目前には、自分を苦痛から解き放ち平和と静寂の世界に引きずりこんでくれる誘惑が現れてきました。だが、「絶対にそちらの世界に行ってはならなかった」。そうしているあいだも、大波が甲板を洗い、デッキにしぶきを振りまきます。彼は自分の食事道具一式(それがないと食事をもらえない)がガラガラ音をたてながらどこかへ永遠に飛び去っていくのを耳にしました。気がつくと、自分の革ゲートルや帽子もどこかに流されなくなってしまっています。

翌朝、衛生兵が巡回し、夜のうちに死亡した者を運び出していたのですが、まだ息のあるウォーレスを拾い上げ、下の、サロンとして使われていた部屋に運んでいきました。たぶん、誰かが亡くなって、一人分のスペースが空いたのでしょう。まだベッドには入れないが、ウォーレスはともかく波しぶきのかからないところに横になれたわけです。ある夜、看護婦がウォーレスのところにやってきて、英国訛りで、何かつらいことや不便なことはないかと尋ねました。ウォーレスが飲み物がほしいと答えると、彼女はしばらくして飲み物と温かなお湯の入った盥(たらい)を持ってきました。「足を洗ってあげましょう」というと、彼女はウォーレスの軍隊ズボンの脚部の紐をとき、発熱で濡れて今は乾いて彼の足にへばりついている重い靴下を剥ぎ取りました。「いったいどれくらいこの靴下をはいていたの」「たぶん12日間ずっと、、」「まあ、かわいそうに、、」と彼女は言いました。それから半世紀もの時間が過ぎ去ったが、ウォーレスはそのときの看護婦のことを「人のかたちをした奇跡」として思い出すのです。「彼女の柔らかな、石けんのついた手が、私の足をやさしく洗ってくれたあのときのことは、私の心に刻みこまれており、私が天に召される時には、そのことを天国でしっかりと記録するのが私の務めなのです」

 

<フィラデルフィア>

ボストン近郊の軍キャンプその他から爆発したインフルエンザ第二波は、アメリカ全土を恐るべきスピードで覆っていきました。その中で、最悪の経験をした都市のひとつ、当時人口170万人(軍人などをふくめると200万近い)のフィラデルフィアを見てみましょう。

フィラデルフィアの市当局は夏から欧州におけるインフルエンザについての情報をいち早く入手していたのですが、なぜかインフルエンザを届出伝染病に指定することはありませんでした。フィラデルフィアが危険を察知すると同時にその準備をしていれば、ほとんどダメージを受けとることなくパンデミックをやり過ごせたかもしれません。何よりも強力なリーダーシップが必要なのに、コネや癒着のはびこる市役所はまったくその任を果たせませんでした。

9月の初め、フィラデルフィア市民は模範的な健康状態にありました。911,15,17,日にそれぞれフィラデルフィア周辺の軍事キャンプでインフルエンザの患者が発生しました。918日、市の保険局はやっと重い腰を上げ、インフルエンザについての警告を発し、人前で咳やくしゃみをしたり、痰や唾をはいたりしないように呼びかけました。しかし、その翌日、600名の水兵が市内の病院に入院し、市民の中からも入院患者が出始めました。921日、保険局は遅まきながらインフルエンザを届出伝染病に指定しました。しかし、それでも市の保健福祉部長と保健局長は市民に対し、このインフルエンザは一般市民のあいだで流行することはまずないだろうし、万一流行しても必ず阻止できると明言していました。保健関係の役人はパンデミックに懐疑的で、すすんで新しい情報を集めようともしませんでした。928日、市内23ブロックで戦時公債の宣伝のパレードが行われました。その翌日からフィラデルフィアではインフルエンザの爆発的流行が始まりました。103日、市当局は大勢の市民が集まる施設をすべて閉鎖することを決定しましたが、時すでに遅く、10月第一週で700人、第二週で2600人、第三週には4500人以上がインフルエンザと肺炎で亡くなりました。

 

 病院は患者であふれましたが、戦時のため医師や看護婦はいつもより不足していました。患者の増加に対応してやみくもに臨時の病院を各所に設置したため、さらにスタッフは不足し、インフルエンザにさらされた病院従事者、医師やコックや運転手まで感染して倒れていきました。インフルエンザはまたたくまに市民生活に深刻な打撃を与えていきました。483名の警察官が出勤できなくなり、欠勤率は消防士、ゴミ収集人その他の公共サービスでも高く、ベル電信電話会社では107日だけで850人の社員が欠勤して、事実上緊急以外は電話が使用不要となりました。両親が重症となった子供たちで児童収容施設はあふれ、ほとんどの家族は病人を抱えて動きがとれず、あるソーシャルワーカーが訪ねた家では家族六人が全員インフルエンザで倒れ、みなの面倒を見ていたのは比較的軽症だった八歳の男の子だった、という話もありました。

 

何より深刻だったのは増え続ける遺体の埋葬でした。棺も足りず、墓堀人も足らず、遺体は家の中や遺体収容所に何日も放置されていました。このことは、まず遺体の腐敗による二次的伝染病を発生させる恐れと、さらに遺体が多くの人にさらされることで、人々の士気を削ぎ、地域全体の気力を失わせる心配を生じさせるのです。市内の目抜き通りにあった身元不明の遺体収容所では数百体の遺体が三、四段に積み重ねられて並べられ、ひどい臭気のため戸もすべて開け放たれていたので子供でも中をのぞくことができたということです。

 

行政機関がほとんど役立たなくなっていたとき、そういうほとんど絶望的状況から市民のボランティアが立ち上がってきました。中心となったのは民間防衛組織である国防委員会で、24時間の電話サービスによってボランティアが現場に急行しました。その他、フィラデルフィア自動車会社、やフィラデルフィア自動車クラブも救急車両を提供しました。タクシー会社も協力し、しばしば動けないほど弱った患者を病院に運ぶ時も一度も乗車拒否はなかった、ということです。

看護婦の不足から、まだ免許のない看護生、引退した医療関係者、さらにまったく専門的バックグラウンドのない素人がボランティアで病人を献身的に看護しました。これらの人々は、自らも致死的病気に冒される危険を承知で、日に15~20時間も働いたのです。フィラデルフィアのすべての組織、キリスト教、ユダヤ教、経済的、政治的組織はこぞってこの運動に参加しました。商店街や会社の人たちは自主的に店や事務所を閉め、食料の配給や病人の運搬に活躍しました。特筆すべきは、全くなんでもない人たちの犠牲的精神です。(素人ボランティアは女性が多かったのですが)彼女たちは、食糧配給所の炊き出しに、緊急電話の受付に、病人の家庭の掃除に、半狂乱になった人を鎮めたり、あとに残された人を慰めたり、亡くなった人の目を閉じることさえしたのです。

11月に入って、やっとフィラデルフィアはインフルエンザとの闘いの最後の場面を迎えました。この1ヶ月で12162名のフィラデルフィア市民がインフルエンザとその合併症である肺炎で亡くなりました。統計学者はフィラデルフィアにおいても死者には三つのピークが、つまり5歳以下の幼児と65歳以上の高齢者の低いピークと、それに25~35歳の高いピーク、俗に「恐怖のW」といわれる年齢分布があった、と指摘しています。生命保険会社がフィラデルフィア市の人的損失は当時のお金で六千万ドルにあたる、という試算を発表しました。しかし、「いまだかって人の悲しみというものを測ったものはいない。それゆえ、悲しみについては読者の想像力に任すほかはない」とクロスビーは書いています。

 

<二つのサモア>

インフルエンザは、もちろん全世界を襲いました。おそらくインドの1700万人の死者が最も多い犠牲者でしょうが、死者不祥の中国でもかなりの数の人が死んだはずです。ここで、南太平洋サモアを見てみましょう。これはクロスビーが「防疫上の幸運は、それを懸命に追い求める者たちの方に転がってくるものなのだ」という事実の例証になっているのです。

サモアは第一次大戦でドイツが撤退してから、西サモアとアメリカン・サモアの二つに分かれていました。インフルエンザに対する戦いは、この二つのサモアで対照的であり、結果として、アメリカン・サモアでは無傷でインフルエンザを切り抜け、西サモアでは住民の五分の一が命を失うことになったのです。

西サモアを統治するニュージーランド軍中佐ローガンは、あきらかにインフルエンザにたいして何らの危惧も抱いていませんでした。パンデミックの情報は当然入手ずみなのに、それが、まさか南太平洋の自分の島にやってこようとは思えなかったのです。1918年11月7日、ニュージーランドのオークランドからインフルエンザの感染者をのせてタルーン号が西サモアの港アピアに入ってきました。船長も、検疫医務官も、むろんローガンも、そのことに対して具体的処置をまったくとらなかったということは驚くべきことです。そして、それから二ヶ月も満たないうちに総人口38302人の西サモアはその20%にあたる7542人をインフルエンザとそれに続く肺炎で失ったのです。西サモアが最悪の状況を呈しているころ、アメリカン・サモアの知事はローガンに「もし我々にできることがあったら知らせてほしい」という電報を打ちました。しかし、ローガンは何とこの電報を無視したのです。彼はアメリカン・サモアが検疫を理由に西サモアからの郵便物を留め置いていることに腹を立てていたのです。

 

一方、アメリカン・サモアの知事、ジョン・M・ボイヤー海軍中佐は、毎日送られてくる「電信ニュース」を見ながら、パンデミックにたいする準備を周到に行っていました。西サモアのアピア港にタルーン号がやってくる4日前に、サンフランシスコからホノルルを経由して、蒸気船サモア号がアメリカン・サモアの港パゴパゴに到着しました。このサモア号ではインフルエンザ患者が14名出て1名が亡くなっていました。ボイヤーは船を隔離し、パゴパゴの街に向う乗客は検査のため五日間港に留め置かれ、所持品は燻蒸消毒され、毎日体温をとられ、間違いなく健康であることが確認されてはじめて解放されました。これ以降、ボイヤーはサンフランシスコからやってくるすべての船にサンフランシスコ出航時の全乗員、乗客の体温測定結果を記す書類の提出を要求しました。さらにボイヤーは、すべての郵便物を二時間燻蒸消毒させ、船上や船着場で荷を扱う全員のマスク着用を義務づけ、何らかの作業に携った港湾労働者は全員検診を受けさせました。

しかし、本当に危険だったのは、港にやってくる大型の船ではありません。病気が蔓延する西サモアとアメリカン・サモアとは40マイルしか離れていず、両方の住民がボートで往来するのは日常茶飯のことでした。パンデミックから逃れようとして西サモアの住民が日中アメリカン・サモアに渡ってくれば直ちに隔離することもできます。だが、夜中に、さんご礁の上を潮にのってやってきて、どこかに上陸するとしたら、それを防ぐ手立てはあるでしょうか? ボイヤーはアメリカン・サモアの首都ツツイラに全部族の長を呼び出し、西サモアからやってくるいかなるボートの着岸も許さぬ24時間の監視を指示しました。サモアのリーダーたちはこれに全面協力し、後にボイヤーはリーダーたちのうち三名の表彰メダルの授与をウィルソン大統領に願い出ています。

19196月、任期が終わり、ボイヤーが17発の礼砲とともに任地を去る時、住民たちは自分や自分たちの子供を救ってくれたこの善良な知事への感謝の気持ちを包まず表しました。「もし、かつて帝国主義がほんの少しでも正当化されることがあったのなら、1918-19年のアメリカン・サモアがまさにそれである」とクロスビーは書いています。アメリカン・サモアは、ただ単にパンデミックの波を被らずにすんだだけでなく、そのおかげで島の唯一の輸出品であるコプラに史上最高の値がつけられたのです。

(2)に続きます。

 

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