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2009年5月17日 (日)

A.W.クロスビー『史上最悪のインフルエンザ』(2)

 スペイン風邪については、いまだ解明されていない(おそらく永遠に解明されない)ことがあまりに多いのですが、その名称の由来すら定かではありません。おそらく、当時は第一次大戦のさなかで、どの国も将兵の罹患者数は軍の機密だったので、大戦不参加国であったスペインのメディアが主にこのインフルエンザのニュースをとりあげたゆえに、その国名が冠されたのだろうと思われます。

犠牲者の数も、4000万人というのはきわめて大雑把です。比較的正確な数字が残されているアメリカの場合について見てみましょう。まず、どれだけの人間が罹ったのか? アメリカ公衆衛生局は1919年、国内11の都市や町を詳細に調べ上げ、それらの都市ではパンデミックの期間に1000人あたり280人がインフルエンザに罹っていたことを見出しています。もし、合衆国全体がこの比率になっていたとするなら、少なくとも四分の一以上、2500万人あるいはそれ以上がインフルエンザに罹っていたことになります。死者の数はもう少し正確に出て(死というのはたいへん印象的なことなので)アメリカ全体で675000人の死亡者が出ました。罹患した場合の死亡率は2.7%となります。

 

 <スパニッシュ・インフルエンザの特徴>

 第一波(1918年春夏)では比較的軽い症状だったのですが、変異をくり返して後、1918年秋の第二波では最悪の致死性をもったインフルエンザにかわりました。実は、このインフルエンザは例外的な二つの特徴を持っていたのです。ひとつは、インフルエンザにしては致死率が高いことで、わずか数ヶ月でこれほど多くの人命を奪った病気は人類史上類を見ません。致死率の高さは感染力の強さと、肺炎を誘発する割合の高さによります。第二波で凶暴化したインフルエンザ・ウイルスは人の気管に付着するや否や、一気に肺の繊毛をもった粘膜上皮細胞をそっくり刈り取ってしまうのです。呼吸器の最初の防波堤ともいうべき上皮細胞組織が攻撃された後に、肺炎を引き起こす桿菌や球菌がわがもの顔に暴れまわったというわけです。

 

 スパニッシュ・インフルエンザのもうひとつの特徴は、犠牲者が20代で最も多く、次に30代40代が続いて、合衆国の統計では死者の平均年齢は33歳であったということです。普通のインフルエンザの死者は、幼児と高齢者のU字型の年齢分布のグラフを描くのですが、スパニッシュ・インフルエンザは世界のどの地域でも、不気味なW字のグラフとなっています。

 つまり、このインフルエンザは、好んで弱者より強者を冒していったのです。若くて元気溌剌とし、身体的発育も栄養状態も申し分ない人間をとくに狙って襲っていたのです。死ぬどころか、カゼひとつ引いたことのないような青年ほど確実に罹り、そして死んでいきました。詩人で医師であったウィリアム・カルロス・ウィリアムズは「彼らは、たった一日で病気になり、そのままつぎの段階に進み、生きているだけで目いっぱいの状態になり、死んでいった」と書いています。作家でフランス遠征軍に加わったジョン・ドス・パソスは『三人の兵隊』の中で、オラフという兵士を登場させています。オラフは片手で180パウンドを持ち上げることができ、マティーニ25杯を飲み干し、たちどころに湖を泳ぎ渡ることのできる男でしたが、フランスへの航海途中でインフルエンザに倒れました。「彼らはアゾレス諸島が見えた頃、オラフの遺体を海に投げ入れた」(ドス・パソス自身もインフルエンザに罹りましたが、病院に行かず、フランスのポン引きから買ったラム酒一本を飲んで治しました。病院に連れて行かれた同僚はみな帰って来なかった、と書いています)

 

 スパニッシュ・インフルエンザは、人生最良の時期にあった人々の、しかもその中でも最高の状態の見本のような人々の命を奪っていきました。この理由については、現在ではサイトカイン・ストーム(免疫過剰反応による多臓器不全)によるものだとされているようです。免疫の過剰反応について説得力ある仮説を立てたのは、1960年にノーベル医学賞を受賞したオーストラリアのマックファーレン・バーネット卿です。彼はつぎのように説明しています。

 子供は、どうしたら立派な大人になれるかを学習するが、これは免疫についてもいえる。おたふくかぜ、はしか、水ぼうそうといった病気は、いわば免疫の学校で、子供はこのような病気を通じて感染症への対処の仕方を学ぶ。そして、ヒトの体は成人に達する頃までにあらゆる感染症を経験し、その免疫を獲得していくのだが、成人になった今では、全身性の傷害ではなく、骨折や靭帯断裂や創傷のような局所性の傷害に強い炎症反応を示すようになる。このことは、地球上に人類が生存してきたほとんどすべての時間を通じて、成人に課せられた役割とも関連している。

 しかし、スパニッシュ・インフルエンザのウイルスのように、瞬間的に気管から肺全体に侵食されるような時には、強い局所性の炎症が強烈な全身性の炎症に燃え上がっていく。肺は多量の滲出液を出し、その液体で自ら溺死することになる。40歳を過ぎる頃から、この極端な炎症反応の能力は減退し、局所的傷害に持ちこたえて生きのびる能力は低下するが、それと引き換えに全身的感染から生きのびる可能性が増してくる。以上のことは、たとえば、はしかや水ぼうそうという病気を成人になってから経験すると重篤化することが多いという事実、あるいはある土地にはじめてある病気がもたらされた時、最初に発症するのはたいてい若年成人である、ということからもわかる。以上がバーネット卿の説明です。

 

 次に、スパニッシュ・インフルエンザが、なぜ第二波において猛毒性のものに変異したかについてのリチャード・E・ショープの研究を紹介しましょう。ブタ・インフルエンザの存在は、1918年までまったく知られていませんでした。ブタのインフルエンザの存在をはじめて指摘したのは、連邦家畜産業局のJS・コーエンでしたが、このことは養豚業者や精肉業者の反発を買ったのです。1928年、コーエンと同じアイオワ出身のショープがふたたびコーエンの研究をとりあげました。アイオワは他州の2倍以上のブタを有し、毎年伝染病で多量のブタが死んでいます。ショープは死んだブタを集め、そこから肺炎を引き起こすファイファー桿菌を分離しました。ところが、その桿菌を他のブタに寄生させてもインフルエンザは発生しなかったのです。次にショープは、病気のブタの組織をろ過して、そのろ液を健康なブタに接種してみると軽いインフルエンザの症状が見られました。これこそインフルエンザ・ウイルスで、ショープはブタ・インフルエンザがウイルスによって引き起こされることを証明したのです。さらに、彼はファイファー桿菌とインフルエンザ・ウイルスを同時に接種すると、ついにそのブタは典型的なインフルエンザの症状を呈し、病気になったのです。

 重篤なインフルエンザがインフルエンザ・ウイルスとファイファー桿菌によって引き起こされることがわかったとして、次の事実はまだ謎でした。つまり、ヒトのインフルエンザは、カレンダー通りとはいかず、いつでも始まりうるのに、ブタのインフルエンザはきまって秋に起こることです。さらに、ヒトのインフルエンザはほぼ同心円状に拡大していくのに、ブタの場合はある地域全域で同時に大量に発生するのです。

 ショープは、20年の歳月をかけた研究で次のような理論を打ち立てました。ウイルスは自分にぴったりの宿主細胞を見つけると、外套を脱ぎ捨て自らの遺伝子である核酸を細胞の中に注入する。そしてそこで何かを待ちながらかなりの期間(数週間、数年間、ことによると永遠に)宿主に何のトラブルも起こさずにじっとしている。ブタにとりついたウイルスは、しばしばファイファー桿菌と同宿するが何らかの刺激を受けるまでは宿主細胞を破壊することはない。ショープは、健康なブタにウイルスとファイファー桿菌を接種したのちに冷たい水を浴びせました。その結果、何頭かが典型的インフルエンザ症状を呈しました。冷たい水は、アイオワの秋の寒く湿った気候に相当し、この環境操作でインフルエンザ発生のスイッチが入ったのです。

 このショープの説は、ブタ・インフルエンザのすべての謎を説明するものでした。ブタ・インフルエンザの流行が秋と冬だけに起こるのはその気候が引金になっているからで、また流行が中西部一帯で爆発的に起こるのは、この病気がブタからブタに漸次広がっていく必要がないからです。ウイルスはすでにブタの中で潜伏状態にあり、あとは単にそれを活性化する刺激を必要とするだけだったのです。

 このことからショープは、スパニッシュ・インフルエンザの第一波と第二波の違いを以下のように説明しました。すなわち、第一波においては単にインフルエンザ・ウイルスの種まきがなされただけであり、次に秋になり、涼しい気候とファイファー桿菌の蔓延が引金となってあのようなパンデミックを起こしたのである、と。むろん、この説も決定的な真実とはいえず、多くの反論を受けています。

 

 <忘れられたパンデミック>

クロスビーのこの本の原題はAmerica’s Forgotten Pandemic で、実は著者の主眼もここにあるのです。

アメリカにおいて、20世紀のすべての戦争の犠牲者よりも多くの死者を、たった一年で出したスパニッシュ・インフルエンザ、しかし、その最悪の日々が過ぎ去ってしまうと、アメリカ国民は急速にそれを忘れていきました。いや、過ぎ去ってからでもなく、その最中においてさえも、インフルエンザがアメリカの最高の恐怖として恐れられてはいなかったのです。そして、信じられないことに、アーサー・シュレジンジャー・ジュニアやリチャード・ホフシュテッターやサミュエル・エリオット・モリソン等といった歴史家の米国史のなかにそのインフルエンザについての記述を探しても、ただベイリーの『The American Pageant』のなかのわずか一文しかない、という有様です。

 

この理由はいくつか考えられます。

まず、一番大きな理由は、時期として、第一次大戦の末期とすっかり重なってしまったことです。しかも、犠牲者の多くが、戦争の死者とほぼ同じ年齢であったことが、このパンデミックを戦争の一部として見させる一助ともなっているのです。(インフルエンザの流行が、部隊の激しい移動によって助成されたこともむろんあります)。戦争中は死そのものが日常のこととなっているので、伝染病の死もそれほどのインパクトを残さなかった、という説もあります。

もう一つの理由は、この病気の狡猾な性質そのものにあります。すばやく来て、それと知らずに去っていく、死者だけ残して、という筋書きはあまり劇的とはいえません。家族や友人がともにその闘病を何年も見守る苦悩の時期さえ、この病気は与えてくれないのです。また、このインフルエンザが、もし、一命をとりとめた人間に、疱瘡やポリオのような目に見える瘢痕を残すことがあれば、社会はその苦悩をいつまでも目に焼き付けずにはおかないでしょう。しかし、死ななかった人間は、カゼが治ったぐらいの後味しか残らないのです。そしてそれは、病気にたいする私たちの偏見にも多く由来しています。めったに罹らないが、感染すれば死の危険の強い狂犬病のような伝染病と、多くの人が罹るが、めったに死なないインフルエンザと、どちらが私たちに恐怖を起こさせるでしょうか。それは前者であり、スーザン・ソンタグが書いていたように、必ず死に至る病気は何か恐れ多いものを感じさせるのです。

 

このことは、文学作品に、スパニッシュ・インフルエンザがほとんど現れない、という事実を説明してくれるでしょう。それは、劇的で苦悩に満ちた人生の一こまにしてはあまりにあっけなさすぎるのです。1918年当時もっとも感受性豊かであったはずの「失われた世代」の作家たちを見てみましょう。(この命名者であるガートルード・スタインも、このパンデミックのとき、フランスで救急車の運転手として働いていました)

自らを時代の記録者とみなしたフィッツジェラルドも、自らの部隊の四分の一が感染したフォークナーも、看護婦の恋人がインフルエンザとの闘いのため彼を捨てていったヘミングウェイも、自らの作品にはほとんどまったくこの病気のことを書いていません。

 

しかし、忘れていたのは社会という巨大な織物であって、個人のレベルではこのパンデミックは決して忘れることのできない痕跡を残したはずです。当時の無名の人たちの手紙や日記、権力の側にいなかった人たちの自伝の中には、亡くした家族への思い、パンデミックを生き抜いた悲痛な思いが現れている、とクロスビーは書いています。その後の人生を全く狂わせられた無数の人々の苦悩については想像するしかありません。

メアリー・マッカーシーは、その当時六歳だったのですが、一家でミネアポリスへの旅に出るため汽車に乗った時、家族全員(両親、兄弟たちも)がインフルエンザに罹っていました。そして一週間後に両親が亡くなったのです。もし、そのとき両親が死ななかったら、おそらく彼女は典型的なカトリックの中流家庭の中で心地よい子供時代を過ごし、誰もが予想するような人生を送ったかもしれません。「私には、アイルランド系の弁護士と結婚して、ゴルフやトランプに興じ、時々家に引きこもったり、カトリックブッククラブの購読者になったりする自分が手に取るようにわかるのです」(『Memories of a Catholic Girlhood』)しかし、彼女は作家になり、辛らつな社会批評家となったのです、、、。

 

アメリカ文学で、インフルエンザが大きな痕跡を残した例をクロスビーは二つ挙げています。一つはトマス・ウルフがその『天使よ故郷を見よ』で描いた最愛の兄、ベンジャミン・ハリソン・ウルフの死でした。トマス・ウルフがノース・カロライナ大学の学生だった頃、兄のベンはスパニッシュ・インフルエンザで倒れ、急いで帰郷したトマスに看取られて亡くなりました。トマス・ウルフは、愛する者がもうこの世にはいないという事実、この宇宙のすべての力を持ってしても彼を生き返らせることはできない、という事実を受け入れる瞬間を感動的に描いています。

「しかし息をこらした家族の間に、驚嘆の思いが募っていった。彼らは風のように来て風のように去った淋しいベンの生涯を、忘れていたくさぐさの振舞いや瞬間を、今更のように思い出したーそしてどこかこの世のものならぬ奇妙さが、終始ベンにまといついていたことを思い浮かべた。ベンがこの家の生活を影法師のようにすりぬけて歩いていたのは、この瞬間の予兆だったのだろうかーなきがらを見てひしひしとそれを感ずると、忘れていた呪文を思い起こす人のように、あるいは神を永久に失うということを初めて理解した人々のように、彼らは血の気の失せ切ったベンをながめた」

 

もう一人は、キャサリン・アン・ポーターです。1918年の秋、彼女は、コロラドのロッキー・マウンテン・ニューズ社で新聞記者として働いている時にインフルエンザに罹りました。当時の恋人であった若い陸軍の工兵少尉は病院に彼女を置いたまま、泣く泣く任地へと赴きます。彼女は、高熱のため頭髪は真っ白になって抜け落ち、その死はもはや時間の問題と思われ、新聞社は死亡記事を準備していました。しかし、彼女は奇跡的に回復し、たまった手紙類に目を通せるほど意識がはっきりしてきた時、その中に恋人の友人からの手紙で、彼女の少尉が兵営でインフルエンザで亡くなったことを知るのです。「パンデミックは私の人生を、何のためらいもなく、あのように真っ二つにしてしまった」と彼女は後に書いています。

キャサリン・アン・ポーターにとって、この経験はあまりに強く刻み込まれたので、長い間、彼女はそれを語ることさえできませんでした。彼女が経験した死の淵での長い語らいの記憶、失われた幸福な日々の約束は、20年間彼女の心の中でゆっくりと醸成され、20世紀アメリカ最高の短編の一つとされる『幻の馬 幻の騎手』(Pale Horse, Pale Rider 1939)となって結実するのです。

物語は、彼女の分身であるミランダという娘の目を通して、ひたすら主観的に描かれます。明るい日差しの下での恋人との語らい、戦時公債のキャンペーンの執拗さと、ひっきりなしに行きかう葬儀の車、ボストンで細菌がまかれたという噂、ドイツ軍への際限ない憎しみ、インフルエンザの始まりである頭痛と吐き気、しかし、それらはすべて現実の世界からすこしずれた夢のようなただミランダの意識の反映として叙述されていきます。そして、このスタイルがこの作品を深い文学の秘密の中へ引き寄せていくのです。なぜなら、死は徹底的に個人的なことであり、死の悲しみとはすべての人間関係から切り離される悲しみに他ならないからです。生のいちばん底まで降りていって、死の淵を巡って、ただ一粒の命の熱い微粒子になり、はじめてミランダは自分を取り巻いていた世界の深奥に触れるのです。「アダム」と死から蘇った彼女は亡くなった恋人の名を呼びます。「あなたはもう死ぬ必要がなくなったわ」と。その瞬間、すべては止まり、空しさと生への希望だけが残ります。この物語の最後の文章は、忘れられた疫病とそれによって愛するものを失った人々の決して癒されぬ心への鎮魂となっているのです。

「もはや戦争もなければ疫病もなく、あるのはただ、重砲のなりやんだあとの、茫然とした静寂だけ。鎧戸を下ろしたひっそりした家々と、人気のない通りと、死んでいるような冷たいあしたの光だけだった。今やそこには、あらゆるものにとって時間だけが存在しているようだった」

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