« 2009年2月 | トップページ | 2009年4月 »

2009年3月21日 (土)

渡辺修三『渡辺修三著作集』

 瑣事に身をとられて時間のない日々、生活のこと、あれやかれやのことで、頭がパニックになりそうです。そんな折、書庫代わりの狭い一室の窓を開けると、春の初めにしては暖かい風が入ってきました。春の匂いをかぐように、猫が鼻を小さく動かしながら欄干の端に前足をのせて外を見ています。ああ、南国の乾いた爽やかな風が懐かしい。そんな時に、『渡辺修三著作集』(鉱脈社・全五巻別巻一)をぱらぱらとめくります。各巻の表紙には三頭の牛がほのかに浮き出ています。「わたしは牛が好きだ」と渡辺修三は書いています。「まるで岩のように静かで、温和で、そして悲しげな目をしている牛。あの目にはいつも涙をためているような気がする」と。私も地方都市で数年暮らしていた時、日曜日に郊外の牧場に行って、放牧された牛を見るのが好きでした。この著作集に収められた詩やエッセイのほとんどを、修三は、ぶんぶん機械の鳴る茶工場の外の木の机で、子供がいたずらをする山林の小屋の中で、パイプをふかしながら、あるいは茶園の収支計算をしながら書いたのです。著作集から心に残ったことをとりとめもなく抜きだしてみましょう。

 

 『ヨハネ福音書』八章に、姦淫の女をとらえてきて、群集がイエスに、これをどう処理するか問う場面があります。「イエス身をかがめ指にて地にもの書き給う。彼問いてやまざれば、イエス身を起こして、汝らのうち罪なきものまず石をなげうてと言い、また身をかがめて地にものを書き給う」

 ところで、イエスはこの時、地面に何を書いていたのでしょうか。祈りの文句か、娼婦の名前か、それとも単なる落書きか、それは誰にもわかっていません。渡辺修三は1968年に宮崎日日新聞に発表した『詩精神について』(著作集第四巻収録)の中で「キリストは、あふれてくる涙を人に見せまいとして身をかがめたのに違いない」と書いています。「そのとき、キリストの目が涙にうるんでいるのを知っているのは娼婦マリヤだけだった。それゆえに、磔刑の日、キリストの足に口づけして、声をおさえて泣いていたのは彼女だったのである」と。そして、渡辺修三は、純粋な詩精神はここにあり、詩人とは人間悲傷の根源に迫る者だと書いています。

 

 これを書いたとき、渡辺修三(1903-1978)はすでに65歳で、両親、二人の兄弟、長男を失い、戦禍に遭い、半身が麻痺し、積年の苦労の後で、詩人としての資質の到達しうる果て近くまで歩んでいました。詩集『ヱスタの町』で昭和モダニズムの旗手の一人として詩壇に颯爽と姿を現したのは25歳の時だったのですが、そこに漂う粋な軽さはもはや修三には残っていませんでした。

 

 エッヘル塔の上に春の雲。わたしの大好きな手袋よ。天文台のある町。マロニエの花が咲きました。

(「絵葉書」『ヱスタの町』所収)

 

 ピストルの銃口から

 煙硝のにほゐをかいでゐる男・・

                (「海」同)

 

 菜の花が咲いてゐる

 俺の心臓はぬれた一枚の新聞紙より

 薄っぺらだ!

                (「眺望」同)

 

 渡辺修三は旧制延岡中学を出て、早稲田の英文科に入学(後に中退)。実家は代々庄屋で、広い山林を持ち、最初は酒造業を営んでいましたが、後に茶園を経営することになります。父親は地方の読書人で徳富蘆花との交友も厚く、家には二万巻の書物があったということです。修三は幼いころからこれらの書物に親しんできました。「彼はイタリア製の高価なハンチングの陰に、いつも憧憬的な澄んだ瞳をもって彼の人生を遠景的に眺めていた」と友人の詩人潮田武雄は書いています。修三は東京遊学の途中も度々帰省して、自然の中で読書,詩作に励むのですが、『エスタの町』を出した翌年、ついに実家の業を引き継ぐために帰郷を決意します。修三には兄と弟がいたのですが、兄は哲学的・思索的な人間で世事に疎く、弟は画業に打ち込んで、共に病弱で若死にすることになります。詩人であった次男の修三がもっとも俗的で強靭な精神を持っていたわけです。

 

 延岡の山林の中で、修三は結婚し、子供に恵まれ、茶園を経営しながら、詩集『ペリカン島』『農場』を出版していきました。193911 日の日記に彼はこう書いています。

 「一人の女房と呼ぶ女と二人の男の子供とこの四人の親子が何をしようと此処に存在し、何の未来へ向って輝く希望を持っているのであろう。子供はしかし、それ自体輝かしい存在であるらしい。これは人間の真の姿で、いちばん神に近い存在だ。この子供の生長と俺の精神に明滅する別の生長とは自ら違ったものだ。

 こんな生活は動物の生活でしかない」

                 (著作集別巻所収)

 

 剪枝鋏で手紙の封を切る

 枝々のあいだに鏡を立てゝ蜘蛛は化粧してゐる

 かヾやく樹液が僕の生活を新しくする間

 ナイフはいつもポケットに入れてある

                  (『ペリカン島』1933年)

 樹は影を

 神は鞭(しもと)を

 牧柵にそうて牛は草を追うてゐる

 かすかに声をひいて息絶へてゆくものがある。僕の胸の上にこの数々の重い死屍はなんであらう。

                  (『農場』1937年)

 

 修三にとって、詩は、研ぎすまされたナイフのように、あるいは胸にのしかかる死屍のように、生活から切り離された、あるいは生活と対峙する何ものかでした。それを根底的に変えていったのは戦争だったのです。

 1945年、42歳の修三は召集されて、佐世保の海兵団に入隊します。途中、敵機の激しい空襲を受け、山中に隠れながら妻の作ってくれた握り飯を食べます。同年八月終戦、日向の港から100キロの道を夜を徹して延岡まで歩きました。暗い道を歩いていると、並行して荷車を引いている男がいます。雨で濡れて重くなった背嚢を載せてくれないかと頼むと、死体を運んでいるから駄目だといわれました。よく見ると覆われた布の下から足がでています。何とか祝子川のほとりの家にたどりついたのですが、その数日後、前日まで元気で遊んでいた小学四年の長男が疫痢に伴う発熱で嵐の夜に急死してしまいます。夫婦は次第に冷たくなっていく子供の手を握りながら涙にくれました。子供の棺は小さな舟にのせられ、河を墓地まで下っていきました。それを柱に寄りかかって見送った修三はすでに廃人のようになっていました。その秋は、さらに激しい暴風雨が続き、田畑も洪水で河原となり、山は木が根こそぎなぎ倒されていました。打ち重なる不幸で、修三はものを考えることができなくなり、茫然と日々を送ります。

 「猟でもやったら気が晴れよう」という村の猟師のすすめで修三は鉄砲を持って山野を歩き始めました。野鴨や山鳩を獲り、背徳の精神をむしろ人間の至当の姿と見たのは、彼の死と傷心への怒り、絶望と逃避の思いからだったのです。

 

 翌1946年、戦後の荒廃、虚脱から立ち直るために、修三は有志と「黒岩地区文化懇話会」を作り、カライモの栽培を研究、生産を指導して、地域の祭りを催しました。そして、子供の通学のために、延岡の市街地に家を構えると、そこは地域の若い詩人たちのサロンとなりました。後にまた彼は山間にもどり、1960年『谷間の人』、1968年『亀裂のある風景』と彼を代表する詩集を出版していきます。

 

 わたしはひとひらの文字を書き残そうと

 怠惰と背徳の道をあるき

 人の嘲笑も意に介することなく

 自ら傷つき

 自らいのちをちじめ

 なおも蹌踉と杖にすがって歩いてゆく

 神は六日目に男を造り

 その塵の肋骨(あばら)より女を造った

 ロレンスがたたえた落日のような亀裂は

 劫初よりそれは生命であり

 また死でもあった

 誰もまだ行きつけない偉大なクレヴァス

 ハイマツの茂み

 人間と人間の戦い

 歴史がなんであろう

 酔っぱらいが何であろう

 ああ しかし

 無花果の茂みにかくれて泣いている者よ

 神はなぜこのようなあやまちを犯したのであろう

 何故このような罰を課したのであろう

 今宵また原罪の重みによろめくわたしの足よ

                (『亀裂のある風景』)

 

 亀裂のある風景とは女体のことで、詩人はここに至って、人間存在の秘密に突き当たり、それを逃れられぬ原罪という言葉であらわします。パスカルやシモーヌ・ヴェイユを想起させるこの観念は、しかし、修三にとって、死によって浄化され、救済されるのです。

 

 レダよ 眠るがよい

 このひっそりとした夜明けは

 人が死ぬのにいちばんいい時間だ

                  (『亀裂のある風景』)

 

 格調の高さ、人間の運命への潔さは、修三の詩に独特のものでしょう。しかし、その裏には、人に頭を下げずに生きることのできた人生(彼は一度も月給というものをもらったことがありません)を送ったものだけが持てる一種の尊大さもあるようです。神に対する非難も、そこには村人を代表してお上に訴え出る名主、といった風情さえ漂っています。

 私はモダニスト修三を愛するのですが、そのモダニズムの風合いは、彼の代表作とも言える「ついのすみか」(著作集第二巻所収)と題された詩の中にかすかに残っています。

 

 所詮、詩とは燃えあがる

 おのれの志をのぶるものだから

 だから冷静に対処すべきであろう

 白いあいくちのひらめきに

 驚くことはない

 むしろ白刃など滑稽でしかない

 じっと眼をすえて見ていると

 またも春の落葉が降りかかる

 何でもない

 君がまるで狂人のように

 白眼の思想を投げつけようと

 嬰児の握りしめた指のちからほどのこともない

 草の葉にとまったテントウ虫よりも愚かだ

 水の流るる石を見よ

 大いなる石を磨耗して

 石のかたちに流るる水よ

 水のそこいに目覚めた

 貧しいものの、もの言わぬ顔を見よ

 無思想の思想こそおそろしい

 雪隠にはいっていると

 のぞいている目がある

 モモンガア

 とうとう春になりましたね

 何ということだ

 されば、天界を見れば山姥のような花が咲き

 地上を見れば、これは又

 哲人のようなスミレが咲いている

 愁腸し、慷慨し、落涙する

 無言にして、聞けども聞かず

 人語は聞いても益するところが無いからだ

 おお、カヤクグリよ

 お前、孤独な鳥

 天空たかく舞うこともせず

 また、汚濁の地上に降りようともせぬ

 中空にありて飛びながらただ啼いている

 声だけ残して

 お前は消えてゆくか

 お前のなきがらはどこに埋めるのか

 草原は無限であり

 なきがらは小さい

 なきがらは小さい

 なきがらは小さい

              (『谷間の人』所収) 

| | コメント (0)

« 2009年2月 | トップページ | 2009年4月 »