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2009年1月28日 (水)

シクロフスキー『革命のペテルブルク』(1)

 「祖母は、まるで時刻表に従って、なにかの期間を守るみたいに、ひっそりと、静かに死んだ。汽車もそんなふうに、深夜、駅の屋根の下から、もの静かな煙につつまれて去っていく。プラットホームには人影もまばらで、汽車はプラットホームを見捨てて行く。列車の窓は暗い」

 

死についてのすばらしい比喩。ズナメンカヤ通りで隣に住んでいた年取った医師が、ときどきシクロフスキーの祖母を往診してくれたのですが、ある日、祖母は長い首をそらし、顔をのけぞらして横たわっていました。医師は祖母の重い瞼を押し開け、落ち窪んだ目を覗き込んだが瞳孔は反応を示しません。「もう一度往診して、帰ったら死亡証明書を書くことにしましょう」と言って医師は階段を下りていきました。死装束も、白いスリッパも、祈祷文を書き込んで作った花冠も、すべてだいぶ前から準備されていました。叔母の一人は教会に祈祷に行き、もう一人の叔母は追善供養に必要なものを買いに行きました。階段はうす暗く、そこを上る足音は部屋の中にいてもはっきり聞きとれました。石段を上って医師がやってきて、木製の把手をつかんでドアの鐘を鳴らしました。

 二度、三度、鐘は鳴りましたが、祖母は横たわったままでした。すでに死装束に着替えさせられ、両目の上には、瞼を閉じたまま硬直するように古い五ペイカ硬貨が置かれていました。黄昏が夜へと移っていくように、彼女は死の世界に移りつつあったのです。がらんとした家の中に呼び鈴が響き渡りました。脳は完全に死にきっていなかったのか、祖母は上半身を起こし、死人にはかせる白いスリッパをはいて立ち上がると、歩きはじめ、ドアを開けました。心臓の弱かった医者は、死人を一目見るなり卒倒してしまいました。「祖母はその後六年生き、自分の身には生涯なにも変わったことが起こらなかったと確信して死んでいった」

 ずっと後になって、シクロフスキーがこの話をセルゲイ・エイゼンシュテインにすると、エイゼンシュテインはこの話をもとにして、イヴァン皇帝の映画を作りました。イヴァンは、善良な皇帝として死の床に横たわったあと、雷帝となって再び起き上がるのです。

 

 『革命のペテルブルグ』(晶文社・水野忠夫訳)はロシア・フォルマリスムの代表的理論家ヴィクトール・シクロフスキー(1893-1984)の幼年時代から青年時代にかけての思い出です。

 深夜までTU-114の離発着の絶え間ないモスクワ郊外のシェレメーチェヴォ空港、その近くに建つ《シチ-3》という建物に暮らしていたシクロフスキーは70歳を迎えようとして、思い出の断片を書き留めていきます。「幼い少年のこと、名もない大人たちのこと、そして単純な出来事をこれからお読みになっても、どうか驚かないでいただきたい」文体が断続的なのは、思い出が断続的だからです。「たくさんのことを語るように努め、時間の順序を無視しよう」「ありふれたことの思い出をたいせつにし、忘れられた匂い、過去の煙や埃を伝えたい」

 思い出の歳月は不揃いな速度をもった急流となって、つぎからつぎと流れ、青春は市街電車に乗って走り去り、老年はTU-114機のごとく、十年ごとの境目をノックもせずに、飛び去ってゆきます。

 

 ユダヤ系ロシア人の父親はペテルブルクに移り住んで結婚し、一人の子に恵まれましたが、妻は夫の友人と駆落ちしてしまいます。彼は絶望し、生きる意味を見失います。短剣を入手すると、それを木の切株に埋めこんでおいて、短剣の切っ先めがけて身を投げました。短剣は心臓をかすめ、胸を突き刺しましたが、彼は一命をとりとめます。職業を変え、キリスト教に改宗し、彼は家庭教師に出かけた家で知り合った女性と結婚します。彼女がヴィクトールの母親で、いつもほとんど家にいて、好きなピアノを弾いていました。

 「母はピアノの前のねじつきの丸椅子にすわって歌っていた。母の足もとにすわって、わたしはピアノの黄色い共鳴盤を下から見上げる。、、、音楽は流れ、よく理解できぬ言葉によって泡立ち消えてゆく。その後、わたしは海辺で汚れた泡を見、嵐の去ったあとの海の澄んだ水を見、そこで、水が濁るのは水がきれいになるためだということ、澱は泡のなかに残されるのだということを知った。母は低いアルトで歌う。いまわたしは、それがベランジェの『老婆』と題する詩であることを知っている。

  わたしの女友達よ、わたしよりももっと長生きしておくれ、

  けれど、わたしのことを忘れないでおくれ、

  そして、おとなしい老婆になったら、小さな暖炉のそばで

  きみの友の歌をそっと口ずさんでおくれ、、、」

 

 父親は砲兵講習所で教官を務めていましたが、ある日、停留所が移転されたことを知らず、電車が停まるものと思って通りを横断しようとして、疾走してきた電車に轢かれました。瀕死の状態で病院にかつぎこまれ、息を引きとる前に、彼は妻の手を握り、どんなに彼女を愛していることかときれぎれに言って、その手に接吻しました。「名づけられないその愛を抒情詩の言葉で語るわけにはゆかなかったのだが、さりとて、父はほかの言葉を知ってもいなかった」

 

 シクロフスキー自身の子供時代はどうだったでしょうか。

 「七十歳に近づいたこのごろ、わたしはもう試験のことを忘れかけているが、以前は、いつも試験に失敗する長い夢を見たものである」。両親はシクロフスキーを、最初、ギリシア大通りにあった公立の第三実業学校に入学させたかったのですが、彼は書き取りで失敗して不合格となり、実業学校の生徒の着る黄色い縁飾りのついた制服を着ることはできませんでした。「わたしは科学アカデミーの建物のそばをなんの戦慄もなしに通り過ぎることができる。しかし、第三実業学校のそばを通る時には、今日にいたるまで、入学できなかったことを思ってため息をつき、尊敬の念を抱かずに通り過ぎることができないほどである」

 

 彼はネフスキー大通りにあった私立のバギンスキー実業学校に入学します。そして、勉強が嫌になり、退学します。

「余計なものはなにひとつない貧しい部屋のなか、黄色と赤の縞の紐がつき、手の届かないほど高い所にとりつけられた小さなランプの下に、擦り切れたジャケットを着、ズボンの下からのぞいて見える胴の赤い長靴をはいている、よくふとった灰色の瞳の少年がいる。この少年は椅子に膝を立て、机に肘をついている」ほんとうは、予習のために教科書を読まなければならなかったのですが、少年シクロフスキーは教科書以外の本を読み始めます。

 

「フィンランド汽船会社の小さな汽船が橋の下へ乗り入れるように、わたしは本の世界へ入りこんでいった。橋はとても長く、嫌悪しか催させないこの世は消えてしまい、舵輪のそばにランプのようなものが黄色くともり、上のほうでは舵輪が低い音を立ててざわめいている」

 

これもすばらしい比喩。読書が、侮辱されて痛んだ心臓の上にやさしい手をかざします。「わたしを深く感動させたのは、なにごとも信じず、なにごとにも同意せず、まるで未成年者のために特別生れてきたかのようなピーサレフだった。そして、ピーサレフを読んだあとに、わたしはプーシキンを読みはじめた」

「絶望から救い出してくれるのは書物だけだった。わたしにとって、プーシキンが、海の中から浮かび上がってくる島みたいに見えてきたのは、ちょうどそのころのことであった」

プーシキンのあとに、彼は、ゴーゴリを読みました。「わたしを助けてくれ! 連れて行ってくれ! 疾風のように速い三頭立ての馬をつけてくれ!」という『狂人日記』の最後のモノローグは、その生き生きした真実の言葉ゆえに彼の心に深く焼きついたのです。

 

「一人の作家とは連帯であり、全人類の思想の顕現である」

作家は時代の重荷を持ち上げ、人々の魂に火を焚きつけるが、その炎は昼間でも遠くからはっきり見えるほどでした。しかし、文学は輝かしい仕事だが、また、自分自身を焼き尽くす炎でもあります。

「マヤコフスキーは1915年に決起し、未来を見通し、自己を十三番目の使徒であると感じ、神との論争を開始した」なぜなら、神の創世に誤りがあったことは、「断崖に打ち当たる波の高みから見ても」明らかであったからです。そして、この「生活の全体を抱きかかえる詩人」マヤコフスキーは37歳でピストル自殺します。

「エセーニンは、1918年に、預言者エレミヤに捧げた詩のなかで、自分を預言者であると感じて、聖書の預言者として神に向かい、非難と質問を浴びせた」。エセーニンはアルコール中毒の果てに30歳で手首を切って自殺します。

 

そして、このシクロフスキーの『革命のペテルブルク』(原題は「むかしむかし、、、」という意味)も粛清と自己批判の果てに、くぐもった時代に差し出された曖昧な告白の書です。時系列を無視して、思い出すままに書きつけられ、幼き日の回想の間にさりげなく意見が挟まれる形式は、実は彼の文学そのものの本質にかかわっているのです。

「いまは若くもなく、白髪になっているある女流詩人に、なぜ詩のなかで個人的なことをそんなに率直に、露骨に語る決心がついたのかと人々がたずねたことがあった。

彼女は弁解するみたいに答えた。―それは韻を踏ませるためです、と。」

つまり、文学とはそのようなものなのです。形式こそすべてなのです。シクロフスキーは死なずに、90歳を越えるまで生き、自らの理論の死亡証明書を書かねばなりませんでした。彼は、盟友エイヘンバウムが死んだ時、次のように書きました。「道を誤ったということだけでなく、最後まで行き着けもしなかったことを見るのは人間の誤ちの分析のなかでもっともつらいものである」と。

 

彼は、幼年時代の回想の最後に、さまざまな放浪の果てに、トムとハックが幸福になるという最後を書けなかったマーク・トウェインについて語っています。

「死を前にして、マーク・トウェインは、五十歳になったハックルべリ・フィンが病気になり、ほとんど錯乱状態でミシシッピー流域の古い町に帰ってくるという最後の長編小説を書こうと望んでいた」。トウェインの人生には幼年時代しかなく、彼は子供たちの中に、ハックやトムを探し求めました。「トム・ソーヤーは幻滅しつつ戻ってくるが、人生は彼をも欺いたのである。トウェインはひじょうにつらい人生を生きたし、どこへも飛んでいく場所もなかったし、また彼は、すばらしい天気、清純な魂、そして孤児であるということから成り立つ幼年時代の幸福を除けば、自分の主人公たちのために幸福を作ってやることもできなかった。」

 この述懐で幼年時代の章は終わります。

 

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コメント

すばらしい、エッセー、しばし感動しました〜♪ ありがとうございます

投稿: 垂水源之介 | 2014年1月22日 (水) 09時52分

垂水源之介さん、コメントありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

投稿: saiki | 2014年1月24日 (金) 13時21分

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