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2009年1月31日 (土)

シクロフスキー『革命のペテルブルク』(2)

 「青春」の章はネヴァ河の河口にあるペテルブルク大学の赤い建物の中からはじまります。数多くのすぐれた学者たちのなかで、ひときわ巨大で、そしてシクロフスキーに深甚な影響を与えたのは言語学者ボドウェン・ド・クルトネでした。現代言語学を特徴づける構造主義あるいは機能主義言語学の本家として、クルトネはド・ソシュールと並び称され、次々と発見される厖大で多岐な遺稿・論文は、「言語学の巨人という言葉すら十分でない」(千野栄一)とも言われています。しかし、このポーランド人の学者は、長い間、員外教授としてロシアや西欧の大学を寄る辺なく放浪しなければなりませんでした。生活のためか300にものぼる論文(ロシア語、ポーランド語など十数か国語で書かれた)を発表し、その先駆性が評価されてきたのはつい最近になってからです。

 ボドウェン・ド・クルトネは、その名前の通りフランス系で、十字軍士の末裔であり、エルサレム王となったボードワンの子孫でした。エルサレムが回教徒に奪還されると、ボドウェン一門はポーランドに逃れ、そこで300年間、自分たちを皇子であるとみなしてきました。ボドウェン・ド・クルトネは、ロシアの官憲に執拗につきまとわれ、出生のことや、祖先との関係のことをうるさく聞かれるので、《イワン・アレクサンドロヴィッチ・ボドウェン・ド・クルトネ・エルサレム王》という名刺を注文したという話です。

 

 シクロフスキーがペテルブルク大学でボドウェンの講義を聴いた時、ボドウェンはすでに65歳になっていました。彼は教室で、本を分析するのではなく、われわれの間にある、なによりも思想と伝達の手段としての言葉を分析しようとしていました。ボドウェンは、「単語は音から成り立っている」というあたりまえに見える命題に挑戦し、夾雑物を次々に取り払っていき、ついに音素という重要な概念を提起したのです。言葉にとって最も重要なことは、それが区別されるということで、それは互いに情報を交換し合おうという人間の不断の志向性によるものです。たとえば、閉じた、あるいは開いた信号機によって伝えられる信号を理解しようとする時、重要なのは、信号機の可動部分、つまりそれが閉じているか開いているかであり、信号機の柱は補助的な意味しか持っていません。「存在するのは《音》ではなくて、一連の同種の音響的印象によって発生する心理的源泉としての音素である」と1914年にボドウェンは書いています。

 音の結合が必ずしも言葉ではないということに注目して、ボドウェンは、グロソラリア、つまり初期キリスト教も含む神秘的な宗教の信徒たちが自分たちだけのものとみなしていたさまざまな言語で語るざわめきのようなものに注目しました。『使徒書』や『使徒行伝』には、これらの「言語」について、ときには非難しつつ、数多く言及されています。

 

 シクロフスキーは、ボドウェンのこの機能的言語論に刺激されて、1914年に『言葉の復活』という小冊子を発表しました。彼はそのなかで、グラソロリア、子供のことば遊び、詩人たちの言葉を引用して、自己目的としての言葉について語っています。単語が、それを構成する要素によって研究されるように、詩の概念もそれらの構造をとおしてのみ理解することができるというのです。シクロフスキーは、その青い小さな本を持って、はじめて、ボドウェン・ド・クルトネの貧しい住居を訪れました。ボドウェンは、早速、新聞でその本を批評し、シクロフスキーが開いた講演会に姿を現します。彼は、講演に先立って発言を求め、警察署長が臨席しているにもかかわらず、政府の言語政策の背後に何が隠されているか、言語を消滅させようとする試み、少数民族を抑圧しようとする試みがいかに無益でむなしいものであるかを語りました。そのとき、すでにボドウェン・ド・クルトネは裁判にかけられ、ペトロパヴスク監獄の地獄にも似た独房に監禁されるのを待っているときでした。彼は拍手に送られて退場しました。シクロフスキーがボドウェンを玄関まで送っていくと、ボドウェンは彼に別れの挨拶をし、「きみは自分の窓をもっている。きみはその窓から世界を見ることができるのだ」と言いました。

 

 そして、戦争と革命がやってきます。『革命のペテルブルク』は1921年の回想で終わっていますが、それは、まさにアレクサンドル・ブロークの死の年でした。彼の死とともにロシアの青春が終わったといってもよいでしょう。

 アレクサンドル・ブローク(1880-1921)は、ほんとうに偉大な詩人であったし、そういう詩人だけが持つことのできる苦悩を一身に背負って時代を生き抜きました。象徴主義の詩人として出発し、貧しいロシアの現実のなかに心洗う永遠なるものを探し求めました。化学者メンデレーエフの娘との結婚はうまくいかず、酒と巷間の女に溺れ、すべてを浄化する霊感を求め、疲れ、夢見る詩句に突き当たり、精神を極限まで絞り込み、自分に与えられた使命を最後まで遂行しようと戦いました。女優に憧れて出奔した妻が他の男性の子供を妊娠して帰って来たとき、新しい再生として二人の子供として育てようと決心しながら、その子供は生れて八日目に死んでしまいます。イタリアに旅して、ヴェネツィアに感激しながらフィレンツェの俗臭に失望します。革命を夢見ながら、革命の憤怒を知り、裏切り者と呼ばれ、ほとんど誰からも理解されず、41歳で心神耗弱で亡くなりました。詩人の絶唱である長詩『十二』には、その最後にイエス・キリストが白薔薇の冠を被って姿を現します。

 

 ブロークは『シンボリズムについて』と題する本のなかでつぎのように書いています。

 「なにかを思いつこうと頭を悩ますことはまだ芸術家であるという意味にはならず、芸術家であるということは、この世界とはまったく似ておらず、ただこの世界に恐ろしい影響を及ぼすだけの芸術の世界から吹く風に耐えることを意味するのであって、芸術の世界には、原因も結果もなく、時間も空間も、肉体も霊もなく、この世界には数もなく、ヴルーベリは悪魔の四十ものさまざまな頭を見たのだが、現実には、それらを数えることはできないのである」

 

 シクロフスキーは、白夜のペテルブルクを、ブロークとともに果てしなく歩き続きます。白夜のペテルブルクは新鮮で明るく、河岸通りのばら色の花崗岩には暖かみがあり、イサーク大寺院のそそり立つ丸屋根とペトロパヴロフスク大寺院のとぎすまされた尖塔が見えます。二人は、芸術について、革命について、つきることなく話し続けます。「夜は過ぎ去らず、朝も訪れてこなかった。まるで、この夜に不死が訪れたように、朝焼けが朝焼けにとってかわった」

 

 その頃、マヤコフスキーはリーリャ・ブリークという女性と恋に落ちていました。リーリャはマヤコフスキーに、ブロークの署名入りの本を持って来てほしいと頼みました。ブロークは喜んで、『灰色の朝』という詩集に署名しました。マヤコフスキーは、本を手に取ると、すぐに帰り支度をはじめました。たがいに相手をひじょうによく知っており、たがいに相手のためなら身を犠牲にしてもよいと考えている二人の友が向き合って立っていました。

「せっかく来てくれたのだから、少し話してゆきませんか?」と、ブロークが言うと、マヤコフスキーは世慣れぬ青年のように答えました。

 「時間がないのです。署名を待っている人がいますので」

 「人が恋のために時間がなく、急いでいるのはよいことです。でも、友人同士の時間がないということはよくないことです」

 この話をシクロフスキーに悲しげに語ってくれたのはマヤコフスキー自身でした。

 

 1921年八月、ブロークの衰弱はひどくなりました。そのころペテルブルクは貧窮のどん底にあり、ゴーリキーは詩人が十分な治療と食事が得ることのできるドイツへ行かせようと出国許可をとるために奔走していました。しかし、そのゴーリキー自身も壊血病で苦しんでいたのです。

 八月七日、ブロークは母親と妻にみとられて椅子にすわったまま永眠しました。シクロフスキーは、詩人アレクサンドル・ブロークが死んだというチラシを印刷して街角に貼っていきました。役所にデスマスクのための石膏をもらいにいくと、許可制なのでだめだと断られました。「あなたは、アレクサンドル・ブロークのための石膏もくださらないのですか!」張り裂けるようにシクロフスキーは叫びました。

 

霧のたちこめる朝、灰色の朝、、、

 

 ブロークのこの詩句は、シクロフスキーの母親がよくピアノを弾きながら歌っていたものでした。

 

 同じ頃、ゴーリキーは、今はゴーリキー通りとなっている古い六階のアパートの最上階で執務していました。そこに、喘ぎながら狭い階段を上ってきた高等音楽院の責任者グズルノフは、ゴーリキーに、芸術アカデミーの会員に許される食料の配給券をある少年に与えてほしいと頼みます。ペテルブルクの食糧は依然として底を突きつつありました。固くなったパンを八つに裂いて、ゴーリキーはグズルノフと分ち合いました。

 「生年は1906年で、今は映画館で伴奏のピアノを弾いています。母親は教師をやっています」

 「ピアニストですか?」

 「いえ、作曲をしています。わたしには理解できない音楽ですが、才能にあふれています」

 ゴーリキーはメモと鉛筆を引き寄せて、

 「手配しましょう、彼は何歳ですか?」

 「十五歳です」

 「で、苗字は?」

 「ショスタコーヴィチです」

この箇所で『革命のペテルブルク』は終わります。

 

 私は、たいせつなシクロフスキーのロシア・フォルマリスムの理論について書き忘れています。つぎの(3)でかんたんに紹介しましょう。

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