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2009年1月17日 (土)

ピーター・ゲイ『歴史の文体』

  歴史の文体とは何でしょうか。それは、まず歴史家の文章のスタイル,つまり文体(literary style)であり、感情表出のスタイル(emotional style)であり、また歴史家の考え方のスタイル(style of thinking)でもあります。マコーレー『英国史』の一節を見てみましょう。

 

  「古い、バロンたちが造った天守閣の多くは、フェアファックスやクロムウェルの大砲によって粉砕された。そしてこれは瓦礫の山となり、その土の上につたが生い繁っている。のこった天守閣も、その軍事的性格を喪失した。そして、今やそれも農村における貴族の館となった。堀は、鯉やカワカマスのすむ禁漁区に変わり、築山には、芳香のある潅木が植えられている。鏡と絵画で飾られた夏の別荘にまで、築山をめぐって歩くように道がつながっている」

 

 Of the old baronial keeps many had been shattered by the cannon of Fairfax and Cromwell, and lay in heaps of ruin, overgrown with ivy. Those which remained had lost their martial character, and were now rural palaces of the aristocracy. The moats were turned into preserves of carp and pike. The mounds were planted with fragrant shrubs, through which spiral walks ran up to the summer houses adorned with mirrors and paintings.

 

 凡庸な歴史家なら「こうして軍事貴族は没落していった」と書いて済ますところをマコーレーは、軍事的な描写から田園的な描写に巧みに移ることで、読者にその没落を目の当たりに見せることに成功しています。しかも、その田園風景も、瓦礫の上のつたや堀の鯉それに壁面の絵で表され、芳香のする潅木のおかげで、読者はにおいを嗅ぐこともできるのです。さらに、マコーレーは読者が、抽象的な概念の重圧に耐えなくてもよいように、平明にしかし格調高く叙述します。この箇所で一番長い単語は、どうしてもなくてはならない語「貴族」(aristocracy)でした。

 

 トーマス・バビントン・マコーレー(1800-1859)は英国最高の歴史家ともいわれていますが、その理由は、入念に仕上げられた文章の達意さにあります。平易な叙述を連ねながら、それでいて、読者に息をぬくひまを与えません。マコーレーの頭からは常に読者の顔が離れず、田舎のホテルの管理人のように、彼はすべてが満足のいくように運んでいるかを尋ねるべく、しきりに部屋に顔を出すのです。文章を仕上げる不屈の精神、それは絶え間ない産みの苦しみの連続でした。「良い本を作るということは、何と苦労の多いことか」と彼は手帳に書きつけています。

 「マコーレーがいかに機略をめぐらし、その苦労を隠そうとしても、彼の全著作は、いつも強烈な、人気を博そうとする自意識から生み出されたものである」とピーター・ゲイは書いています。マコーレーは、例えていえば、聴衆を喜ばすことにのみ気を奪われた演奏家であったのです。「さて、彼がもっとも喜ばそうとした人物、また無意識にも四六時中彼が呼びかけた相手は、実は父親であった」

 

 マコーレーの父、ザカーリー・マコーレーは、クラッパム派、つまり心の宗教、世界改善に心を捧げた熱心な福音主義者の一団の中でもひときわ目立った存在でした。トム・マコーレーは、このセクトの中で成長し、聖者としての重い義務感をしみ込まされてきたのです。彼は初等教育を受けず、子供時代は家庭で読書に明け暮れていましたが、早熟で聡明、母親に愛され、姉妹からはほめそやされていました。しかし、父親は、息子の自我をクラッパム派流に、つまり罪深きキリスト教徒は高慢であるべきでない、という枠の中に閉じ込めようとしたのです。

 クラッパム主義者の熱心な自己研鑽の態度は、他人にも厳しい批判を怠りませんでした。相手の不完全さを率直に容赦なく指摘することは、福音主義者の最高の義務の一つとされていました。1824年、マコーレーは、父親が設立した奴隷制廃止協会で歴史に残る力強い演説を行いました。王族も列席する中で、鳴り止まぬ拍手に身をさらしたその瞬間はマコーレーにとってすばらしい時であったでしょう。しかし、その帰り道、ザカーリー・マコーレーは、息子に、「なあ、トム、王家の方々の御臨席の時の演説では、腕組みなどすべきでなかったんだ」と話しかけました。これは、得意の絶頂にあった息子にとって壊滅的な打撃でした。

 喜ばせるのが難しい相手を、なんとか喜ばせようとするのが世の常で、マコーレーのケンブリッジでの努力、政治家としての成功も多くはその動機に発していました。ケンブリッジで数学で優等賞を取れなかった時、みじめな気持ちになったのは父親の叱責を恐れたからでした。「したがって、マコーレーの内面生活を支えている強力な心理的な動機は、父から認めてもらおうという願望であった」

 

もうひとつの心理的動機、これがまた強力なものだったのですが、彼の二人の妹ハンナとマーガレットへの情熱的な愛でした。「マコーレーの妹たちへの感情は、その強烈さにおいて異常であり、その本質においてエロティックであった」妹たちへの手紙には「わたしのかわい子ちゃん」と呼びかけ、「おまえとの抱擁」にいかにあこがれているかが書かれています。マコーレーは妹たちが結婚する日を思って矢も盾もたまらず、それに立ち向かったが、結局は結婚したときには、虚脱したうつ病の発作に襲われました。忙しい政治活動のただ中にあって、彼は泣き崩れ、いかに悲嘆にくれたかを告白しました。妹ハンナがトレヴェリアンと結婚したときなど、「二十年余の仕事が、ここ一ヶ月で消え去ってしまった」と書きつけているのです。「これは、性的情欲に欠陥のある男の声ではなく、この性的なものを完全な場所に隔離した男の声である」とピーター・ゲイは書いています。

 

 ギボンやブルクハルトと同じように、マコーレーも生涯独身を通しました。しかし、ギボンやブルクハルトが、すすんでそれを望んだように、マコーレーがそれを望んだとは思えません。ギボンは、ローザンヌで出会い、恋に落ちたスーザン・キュルショー(後にネッケル夫人となる)との結婚を父親に許してもらえず、泣く泣く彼女に断りの手紙を書いたときでも、内心は救われたという安堵の気持ちがありました。ローマの歴史を書いているその時だけ彼は幸福だったのです。バーゼル大学の教授であったブルクハルトを結婚させようとする企みは多かったのですが、彼は気楽に無関心を装ってこれらを軽く処理していきました。彼は「情熱的な黒い瞳よりもイタリアそのものの方を好んだ」と友人への手紙に書いています。ルネサンスの歴史を書くことは、彼にとって身代わりにそこに生きることであり、現実ではとうてい許されないこと、性的放恣や残酷さを紙の上に実演して見せることでした。偉大な歴史を書き上げることは、また、偉大な個人とそれが生み出す芸術と同じく不死への確固たる自信を彼に与えるものだったのです。

 彼らに対してマコーレーの生の基調は、永遠に拒絶された愛です。決して満足させることのできない父親、決して結ばれることのない妹たち、これらが彼を鞭打ち、終わることのない労苦へ、完璧な著述への精進に向かわせたのです。

 

 ピーター・ゲイの『歴史の文体』 Style in History 1974(ミネルヴァ書房・鈴木利章訳)は、ギボン、ランケ、マコーレー、ブルクハルトという四人の大歴史家のスタイルについての研究ですが、その目的は歴史相対主義への挑戦にあります。「歴史的事実は、ただ歴史家の心の中にだけ存在する」というカール・ベッカーの言葉を敷衍してE.H.カーは、話題となった著名な講演で、「歴史を研究する前に歴史家を研究してください」(『歴史とは何か』岩波新書・清水幾太郎訳)と書きました。つまり、歴史とはそれを書く歴史家の主観という眼鏡をとおして見られるのだから客観的歴史などというものはない、というのです。明らかにカーは「歴史家の主観という眼鏡」を否定的なものと捉えているのですが、それに対してピーター・ゲイは、歴史家の主観は、その強烈な個性によって、他の人間には見ることのできない歴史的現実を把捉することができる、と書いています。ギボンの皮肉な眼差しは、皮肉であるがゆえに、ローマの政治家の欺瞞的な陰謀や教父たちの人間的小ささを描くことができました。劇を組み立てるようなランケのスタイルは、強国間の複雑な対立という、今まで誰も理解できなかったことを可能にしました。ブルクハルトの叙述は偉人と自己を無意識に同一視していますが、この感情移入のおかげで、はじめて、ルネサンスの巨大な生命力やその歴史的独自性を包摂することができたのです。自由主義と人間の進歩を信ずるホイッグ史観はマコーレーの巨大な先入観としてありましたが、しかし、それが彼にイギリスの社会、文化、経済生活の改善を躊躇なく評価させたのです。

 この四人のほかにも、モムゼンがいます。彼のローマ史は、モムゼン自身の土地寡頭制論者・軍人・教会に対する憎しみによって成立しているので客観的評価に値しないという論調に対し、ゲイは、モムゼンが古代ローマの政治をあんなに生き生きと描けたのは彼の時代の政治に偏見を持って積極的に参加していたがためであった、と擁護しています。

 

 そして、これはピーター・ゲイの結論ですが、したがって、歴史は科学ではありえないという人たちに彼はこう反論します。歴史は全面的に科学である、いや科学以上である。なぜなら、歴史は科学であると同時に芸術であるのだから、真理に至る(ほかのものは真似のできない)独自の方法を持っているのだ、と。「スタイルは、科学する歴史家の、芸術である」それゆえに『ローマ帝国衰亡史』も『イタリア・ルネサンスの文化』も『英国史』も、その歴史的事実のいくつかが否定されてもなお不滅の名著であるのです。

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コメント

こんばんは。トムです。
先日、昔文庫で読んだカール レーヴィットの「ブルクハルト 歴史の中に立つ人間」単行本を古本屋で見つけ読み直しました。年月を経てもぐいぐい引き込まれていく力は変わりません。最初のニーチェとブルクハルトの比較が面白いですね。2人は同じ歴史にしがみつきながらコインの表と裏のように出会うことがない人間ですね。歴史家の中ではやはりブルクハルトが好きです。昔に比べると多少ましな読書ができるようになったと実感できますがこれからも歴史家の知識、思想の一片に触れることができる程度に精進していきたいと思います。

投稿: トム | 2009年1月19日 (月) 19時15分

トムさん、こんにちは。
レーヴィットのその本は、私もいまだに手元においています。マイネッケは、ランケを「考えうる最高の人間」として崇敬していたのですが、ドイツの敗北の後で、その考えを改め、彼とは異質とも思えるブルクハルトの悲観主義に接近してきました。楽観主義一色であった十九世紀の歴史にあって、ただ、ブルクハルトのみが、大衆社会の恐怖を感じとっていたのです。その反ユダヤ主義、その個人崇拝など、様々な問題があるものの、もっとも古びることのない歴史家といえるのだと思います。
それでは、また。コメントありがとうございます。

投稿: saiki | 2009年1月19日 (月) 23時20分

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