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2009年1月31日 (土)

シクロフスキー『革命のペテルブルク』(2)

 「青春」の章はネヴァ河の河口にあるペテルブルク大学の赤い建物の中からはじまります。数多くのすぐれた学者たちのなかで、ひときわ巨大で、そしてシクロフスキーに深甚な影響を与えたのは言語学者ボドウェン・ド・クルトネでした。現代言語学を特徴づける構造主義あるいは機能主義言語学の本家として、クルトネはド・ソシュールと並び称され、次々と発見される厖大で多岐な遺稿・論文は、「言語学の巨人という言葉すら十分でない」(千野栄一)とも言われています。しかし、このポーランド人の学者は、長い間、員外教授としてロシアや西欧の大学を寄る辺なく放浪しなければなりませんでした。生活のためか300にものぼる論文(ロシア語、ポーランド語など十数か国語で書かれた)を発表し、その先駆性が評価されてきたのはつい最近になってからです。

 ボドウェン・ド・クルトネは、その名前の通りフランス系で、十字軍士の末裔であり、エルサレム王となったボードワンの子孫でした。エルサレムが回教徒に奪還されると、ボドウェン一門はポーランドに逃れ、そこで300年間、自分たちを皇子であるとみなしてきました。ボドウェン・ド・クルトネは、ロシアの官憲に執拗につきまとわれ、出生のことや、祖先との関係のことをうるさく聞かれるので、《イワン・アレクサンドロヴィッチ・ボドウェン・ド・クルトネ・エルサレム王》という名刺を注文したという話です。

 

 シクロフスキーがペテルブルク大学でボドウェンの講義を聴いた時、ボドウェンはすでに65歳になっていました。彼は教室で、本を分析するのではなく、われわれの間にある、なによりも思想と伝達の手段としての言葉を分析しようとしていました。ボドウェンは、「単語は音から成り立っている」というあたりまえに見える命題に挑戦し、夾雑物を次々に取り払っていき、ついに音素という重要な概念を提起したのです。言葉にとって最も重要なことは、それが区別されるということで、それは互いに情報を交換し合おうという人間の不断の志向性によるものです。たとえば、閉じた、あるいは開いた信号機によって伝えられる信号を理解しようとする時、重要なのは、信号機の可動部分、つまりそれが閉じているか開いているかであり、信号機の柱は補助的な意味しか持っていません。「存在するのは《音》ではなくて、一連の同種の音響的印象によって発生する心理的源泉としての音素である」と1914年にボドウェンは書いています。

 音の結合が必ずしも言葉ではないということに注目して、ボドウェンは、グロソラリア、つまり初期キリスト教も含む神秘的な宗教の信徒たちが自分たちだけのものとみなしていたさまざまな言語で語るざわめきのようなものに注目しました。『使徒書』や『使徒行伝』には、これらの「言語」について、ときには非難しつつ、数多く言及されています。

 

 シクロフスキーは、ボドウェンのこの機能的言語論に刺激されて、1914年に『言葉の復活』という小冊子を発表しました。彼はそのなかで、グラソロリア、子供のことば遊び、詩人たちの言葉を引用して、自己目的としての言葉について語っています。単語が、それを構成する要素によって研究されるように、詩の概念もそれらの構造をとおしてのみ理解することができるというのです。シクロフスキーは、その青い小さな本を持って、はじめて、ボドウェン・ド・クルトネの貧しい住居を訪れました。ボドウェンは、早速、新聞でその本を批評し、シクロフスキーが開いた講演会に姿を現します。彼は、講演に先立って発言を求め、警察署長が臨席しているにもかかわらず、政府の言語政策の背後に何が隠されているか、言語を消滅させようとする試み、少数民族を抑圧しようとする試みがいかに無益でむなしいものであるかを語りました。そのとき、すでにボドウェン・ド・クルトネは裁判にかけられ、ペトロパヴスク監獄の地獄にも似た独房に監禁されるのを待っているときでした。彼は拍手に送られて退場しました。シクロフスキーがボドウェンを玄関まで送っていくと、ボドウェンは彼に別れの挨拶をし、「きみは自分の窓をもっている。きみはその窓から世界を見ることができるのだ」と言いました。

 

 そして、戦争と革命がやってきます。『革命のペテルブルク』は1921年の回想で終わっていますが、それは、まさにアレクサンドル・ブロークの死の年でした。彼の死とともにロシアの青春が終わったといってもよいでしょう。

 アレクサンドル・ブローク(1880-1921)は、ほんとうに偉大な詩人であったし、そういう詩人だけが持つことのできる苦悩を一身に背負って時代を生き抜きました。象徴主義の詩人として出発し、貧しいロシアの現実のなかに心洗う永遠なるものを探し求めました。化学者メンデレーエフの娘との結婚はうまくいかず、酒と巷間の女に溺れ、すべてを浄化する霊感を求め、疲れ、夢見る詩句に突き当たり、精神を極限まで絞り込み、自分に与えられた使命を最後まで遂行しようと戦いました。女優に憧れて出奔した妻が他の男性の子供を妊娠して帰って来たとき、新しい再生として二人の子供として育てようと決心しながら、その子供は生れて八日目に死んでしまいます。イタリアに旅して、ヴェネツィアに感激しながらフィレンツェの俗臭に失望します。革命を夢見ながら、革命の憤怒を知り、裏切り者と呼ばれ、ほとんど誰からも理解されず、41歳で心神耗弱で亡くなりました。詩人の絶唱である長詩『十二』には、その最後にイエス・キリストが白薔薇の冠を被って姿を現します。

 

 ブロークは『シンボリズムについて』と題する本のなかでつぎのように書いています。

 「なにかを思いつこうと頭を悩ますことはまだ芸術家であるという意味にはならず、芸術家であるということは、この世界とはまったく似ておらず、ただこの世界に恐ろしい影響を及ぼすだけの芸術の世界から吹く風に耐えることを意味するのであって、芸術の世界には、原因も結果もなく、時間も空間も、肉体も霊もなく、この世界には数もなく、ヴルーベリは悪魔の四十ものさまざまな頭を見たのだが、現実には、それらを数えることはできないのである」

 

 シクロフスキーは、白夜のペテルブルクを、ブロークとともに果てしなく歩き続きます。白夜のペテルブルクは新鮮で明るく、河岸通りのばら色の花崗岩には暖かみがあり、イサーク大寺院のそそり立つ丸屋根とペトロパヴロフスク大寺院のとぎすまされた尖塔が見えます。二人は、芸術について、革命について、つきることなく話し続けます。「夜は過ぎ去らず、朝も訪れてこなかった。まるで、この夜に不死が訪れたように、朝焼けが朝焼けにとってかわった」

 

 その頃、マヤコフスキーはリーリャ・ブリークという女性と恋に落ちていました。リーリャはマヤコフスキーに、ブロークの署名入りの本を持って来てほしいと頼みました。ブロークは喜んで、『灰色の朝』という詩集に署名しました。マヤコフスキーは、本を手に取ると、すぐに帰り支度をはじめました。たがいに相手をひじょうによく知っており、たがいに相手のためなら身を犠牲にしてもよいと考えている二人の友が向き合って立っていました。

「せっかく来てくれたのだから、少し話してゆきませんか?」と、ブロークが言うと、マヤコフスキーは世慣れぬ青年のように答えました。

 「時間がないのです。署名を待っている人がいますので」

 「人が恋のために時間がなく、急いでいるのはよいことです。でも、友人同士の時間がないということはよくないことです」

 この話をシクロフスキーに悲しげに語ってくれたのはマヤコフスキー自身でした。

 

 1921年八月、ブロークの衰弱はひどくなりました。そのころペテルブルクは貧窮のどん底にあり、ゴーリキーは詩人が十分な治療と食事が得ることのできるドイツへ行かせようと出国許可をとるために奔走していました。しかし、そのゴーリキー自身も壊血病で苦しんでいたのです。

 八月七日、ブロークは母親と妻にみとられて椅子にすわったまま永眠しました。シクロフスキーは、詩人アレクサンドル・ブロークが死んだというチラシを印刷して街角に貼っていきました。役所にデスマスクのための石膏をもらいにいくと、許可制なのでだめだと断られました。「あなたは、アレクサンドル・ブロークのための石膏もくださらないのですか!」張り裂けるようにシクロフスキーは叫びました。

 

霧のたちこめる朝、灰色の朝、、、

 

 ブロークのこの詩句は、シクロフスキーの母親がよくピアノを弾きながら歌っていたものでした。

 

 同じ頃、ゴーリキーは、今はゴーリキー通りとなっている古い六階のアパートの最上階で執務していました。そこに、喘ぎながら狭い階段を上ってきた高等音楽院の責任者グズルノフは、ゴーリキーに、芸術アカデミーの会員に許される食料の配給券をある少年に与えてほしいと頼みます。ペテルブルクの食糧は依然として底を突きつつありました。固くなったパンを八つに裂いて、ゴーリキーはグズルノフと分ち合いました。

 「生年は1906年で、今は映画館で伴奏のピアノを弾いています。母親は教師をやっています」

 「ピアニストですか?」

 「いえ、作曲をしています。わたしには理解できない音楽ですが、才能にあふれています」

 ゴーリキーはメモと鉛筆を引き寄せて、

 「手配しましょう、彼は何歳ですか?」

 「十五歳です」

 「で、苗字は?」

 「ショスタコーヴィチです」

この箇所で『革命のペテルブルク』は終わります。

 

 私は、たいせつなシクロフスキーのロシア・フォルマリスムの理論について書き忘れています。つぎの(3)でかんたんに紹介しましょう。

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2009年1月28日 (水)

シクロフスキー『革命のペテルブルク』(1)

 「祖母は、まるで時刻表に従って、なにかの期間を守るみたいに、ひっそりと、静かに死んだ。汽車もそんなふうに、深夜、駅の屋根の下から、もの静かな煙につつまれて去っていく。プラットホームには人影もまばらで、汽車はプラットホームを見捨てて行く。列車の窓は暗い」

 

死についてのすばらしい比喩。ズナメンカヤ通りで隣に住んでいた年取った医師が、ときどきシクロフスキーの祖母を往診してくれたのですが、ある日、祖母は長い首をそらし、顔をのけぞらして横たわっていました。医師は祖母の重い瞼を押し開け、落ち窪んだ目を覗き込んだが瞳孔は反応を示しません。「もう一度往診して、帰ったら死亡証明書を書くことにしましょう」と言って医師は階段を下りていきました。死装束も、白いスリッパも、祈祷文を書き込んで作った花冠も、すべてだいぶ前から準備されていました。叔母の一人は教会に祈祷に行き、もう一人の叔母は追善供養に必要なものを買いに行きました。階段はうす暗く、そこを上る足音は部屋の中にいてもはっきり聞きとれました。石段を上って医師がやってきて、木製の把手をつかんでドアの鐘を鳴らしました。

 二度、三度、鐘は鳴りましたが、祖母は横たわったままでした。すでに死装束に着替えさせられ、両目の上には、瞼を閉じたまま硬直するように古い五ペイカ硬貨が置かれていました。黄昏が夜へと移っていくように、彼女は死の世界に移りつつあったのです。がらんとした家の中に呼び鈴が響き渡りました。脳は完全に死にきっていなかったのか、祖母は上半身を起こし、死人にはかせる白いスリッパをはいて立ち上がると、歩きはじめ、ドアを開けました。心臓の弱かった医者は、死人を一目見るなり卒倒してしまいました。「祖母はその後六年生き、自分の身には生涯なにも変わったことが起こらなかったと確信して死んでいった」

 ずっと後になって、シクロフスキーがこの話をセルゲイ・エイゼンシュテインにすると、エイゼンシュテインはこの話をもとにして、イヴァン皇帝の映画を作りました。イヴァンは、善良な皇帝として死の床に横たわったあと、雷帝となって再び起き上がるのです。

 

 『革命のペテルブルグ』(晶文社・水野忠夫訳)はロシア・フォルマリスムの代表的理論家ヴィクトール・シクロフスキー(1893-1984)の幼年時代から青年時代にかけての思い出です。

 深夜までTU-114の離発着の絶え間ないモスクワ郊外のシェレメーチェヴォ空港、その近くに建つ《シチ-3》という建物に暮らしていたシクロフスキーは70歳を迎えようとして、思い出の断片を書き留めていきます。「幼い少年のこと、名もない大人たちのこと、そして単純な出来事をこれからお読みになっても、どうか驚かないでいただきたい」文体が断続的なのは、思い出が断続的だからです。「たくさんのことを語るように努め、時間の順序を無視しよう」「ありふれたことの思い出をたいせつにし、忘れられた匂い、過去の煙や埃を伝えたい」

 思い出の歳月は不揃いな速度をもった急流となって、つぎからつぎと流れ、青春は市街電車に乗って走り去り、老年はTU-114機のごとく、十年ごとの境目をノックもせずに、飛び去ってゆきます。

 

 ユダヤ系ロシア人の父親はペテルブルクに移り住んで結婚し、一人の子に恵まれましたが、妻は夫の友人と駆落ちしてしまいます。彼は絶望し、生きる意味を見失います。短剣を入手すると、それを木の切株に埋めこんでおいて、短剣の切っ先めがけて身を投げました。短剣は心臓をかすめ、胸を突き刺しましたが、彼は一命をとりとめます。職業を変え、キリスト教に改宗し、彼は家庭教師に出かけた家で知り合った女性と結婚します。彼女がヴィクトールの母親で、いつもほとんど家にいて、好きなピアノを弾いていました。

 「母はピアノの前のねじつきの丸椅子にすわって歌っていた。母の足もとにすわって、わたしはピアノの黄色い共鳴盤を下から見上げる。、、、音楽は流れ、よく理解できぬ言葉によって泡立ち消えてゆく。その後、わたしは海辺で汚れた泡を見、嵐の去ったあとの海の澄んだ水を見、そこで、水が濁るのは水がきれいになるためだということ、澱は泡のなかに残されるのだということを知った。母は低いアルトで歌う。いまわたしは、それがベランジェの『老婆』と題する詩であることを知っている。

  わたしの女友達よ、わたしよりももっと長生きしておくれ、

  けれど、わたしのことを忘れないでおくれ、

  そして、おとなしい老婆になったら、小さな暖炉のそばで

  きみの友の歌をそっと口ずさんでおくれ、、、」

 

 父親は砲兵講習所で教官を務めていましたが、ある日、停留所が移転されたことを知らず、電車が停まるものと思って通りを横断しようとして、疾走してきた電車に轢かれました。瀕死の状態で病院にかつぎこまれ、息を引きとる前に、彼は妻の手を握り、どんなに彼女を愛していることかときれぎれに言って、その手に接吻しました。「名づけられないその愛を抒情詩の言葉で語るわけにはゆかなかったのだが、さりとて、父はほかの言葉を知ってもいなかった」

 

 シクロフスキー自身の子供時代はどうだったでしょうか。

 「七十歳に近づいたこのごろ、わたしはもう試験のことを忘れかけているが、以前は、いつも試験に失敗する長い夢を見たものである」。両親はシクロフスキーを、最初、ギリシア大通りにあった公立の第三実業学校に入学させたかったのですが、彼は書き取りで失敗して不合格となり、実業学校の生徒の着る黄色い縁飾りのついた制服を着ることはできませんでした。「わたしは科学アカデミーの建物のそばをなんの戦慄もなしに通り過ぎることができる。しかし、第三実業学校のそばを通る時には、今日にいたるまで、入学できなかったことを思ってため息をつき、尊敬の念を抱かずに通り過ぎることができないほどである」

 

 彼はネフスキー大通りにあった私立のバギンスキー実業学校に入学します。そして、勉強が嫌になり、退学します。

「余計なものはなにひとつない貧しい部屋のなか、黄色と赤の縞の紐がつき、手の届かないほど高い所にとりつけられた小さなランプの下に、擦り切れたジャケットを着、ズボンの下からのぞいて見える胴の赤い長靴をはいている、よくふとった灰色の瞳の少年がいる。この少年は椅子に膝を立て、机に肘をついている」ほんとうは、予習のために教科書を読まなければならなかったのですが、少年シクロフスキーは教科書以外の本を読み始めます。

 

「フィンランド汽船会社の小さな汽船が橋の下へ乗り入れるように、わたしは本の世界へ入りこんでいった。橋はとても長く、嫌悪しか催させないこの世は消えてしまい、舵輪のそばにランプのようなものが黄色くともり、上のほうでは舵輪が低い音を立ててざわめいている」

 

これもすばらしい比喩。読書が、侮辱されて痛んだ心臓の上にやさしい手をかざします。「わたしを深く感動させたのは、なにごとも信じず、なにごとにも同意せず、まるで未成年者のために特別生れてきたかのようなピーサレフだった。そして、ピーサレフを読んだあとに、わたしはプーシキンを読みはじめた」

「絶望から救い出してくれるのは書物だけだった。わたしにとって、プーシキンが、海の中から浮かび上がってくる島みたいに見えてきたのは、ちょうどそのころのことであった」

プーシキンのあとに、彼は、ゴーゴリを読みました。「わたしを助けてくれ! 連れて行ってくれ! 疾風のように速い三頭立ての馬をつけてくれ!」という『狂人日記』の最後のモノローグは、その生き生きした真実の言葉ゆえに彼の心に深く焼きついたのです。

 

「一人の作家とは連帯であり、全人類の思想の顕現である」

作家は時代の重荷を持ち上げ、人々の魂に火を焚きつけるが、その炎は昼間でも遠くからはっきり見えるほどでした。しかし、文学は輝かしい仕事だが、また、自分自身を焼き尽くす炎でもあります。

「マヤコフスキーは1915年に決起し、未来を見通し、自己を十三番目の使徒であると感じ、神との論争を開始した」なぜなら、神の創世に誤りがあったことは、「断崖に打ち当たる波の高みから見ても」明らかであったからです。そして、この「生活の全体を抱きかかえる詩人」マヤコフスキーは37歳でピストル自殺します。

「エセーニンは、1918年に、預言者エレミヤに捧げた詩のなかで、自分を預言者であると感じて、聖書の預言者として神に向かい、非難と質問を浴びせた」。エセーニンはアルコール中毒の果てに30歳で手首を切って自殺します。

 

そして、このシクロフスキーの『革命のペテルブルク』(原題は「むかしむかし、、、」という意味)も粛清と自己批判の果てに、くぐもった時代に差し出された曖昧な告白の書です。時系列を無視して、思い出すままに書きつけられ、幼き日の回想の間にさりげなく意見が挟まれる形式は、実は彼の文学そのものの本質にかかわっているのです。

「いまは若くもなく、白髪になっているある女流詩人に、なぜ詩のなかで個人的なことをそんなに率直に、露骨に語る決心がついたのかと人々がたずねたことがあった。

彼女は弁解するみたいに答えた。―それは韻を踏ませるためです、と。」

つまり、文学とはそのようなものなのです。形式こそすべてなのです。シクロフスキーは死なずに、90歳を越えるまで生き、自らの理論の死亡証明書を書かねばなりませんでした。彼は、盟友エイヘンバウムが死んだ時、次のように書きました。「道を誤ったということだけでなく、最後まで行き着けもしなかったことを見るのは人間の誤ちの分析のなかでもっともつらいものである」と。

 

彼は、幼年時代の回想の最後に、さまざまな放浪の果てに、トムとハックが幸福になるという最後を書けなかったマーク・トウェインについて語っています。

「死を前にして、マーク・トウェインは、五十歳になったハックルべリ・フィンが病気になり、ほとんど錯乱状態でミシシッピー流域の古い町に帰ってくるという最後の長編小説を書こうと望んでいた」。トウェインの人生には幼年時代しかなく、彼は子供たちの中に、ハックやトムを探し求めました。「トム・ソーヤーは幻滅しつつ戻ってくるが、人生は彼をも欺いたのである。トウェインはひじょうにつらい人生を生きたし、どこへも飛んでいく場所もなかったし、また彼は、すばらしい天気、清純な魂、そして孤児であるということから成り立つ幼年時代の幸福を除けば、自分の主人公たちのために幸福を作ってやることもできなかった。」

 この述懐で幼年時代の章は終わります。

 

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2009年1月17日 (土)

ピーター・ゲイ『歴史の文体』

  歴史の文体とは何でしょうか。それは、まず歴史家の文章のスタイル,つまり文体(literary style)であり、感情表出のスタイル(emotional style)であり、また歴史家の考え方のスタイル(style of thinking)でもあります。マコーレー『英国史』の一節を見てみましょう。

 

  「古い、バロンたちが造った天守閣の多くは、フェアファックスやクロムウェルの大砲によって粉砕された。そしてこれは瓦礫の山となり、その土の上につたが生い繁っている。のこった天守閣も、その軍事的性格を喪失した。そして、今やそれも農村における貴族の館となった。堀は、鯉やカワカマスのすむ禁漁区に変わり、築山には、芳香のある潅木が植えられている。鏡と絵画で飾られた夏の別荘にまで、築山をめぐって歩くように道がつながっている」

 

 Of the old baronial keeps many had been shattered by the cannon of Fairfax and Cromwell, and lay in heaps of ruin, overgrown with ivy. Those which remained had lost their martial character, and were now rural palaces of the aristocracy. The moats were turned into preserves of carp and pike. The mounds were planted with fragrant shrubs, through which spiral walks ran up to the summer houses adorned with mirrors and paintings.

 

 凡庸な歴史家なら「こうして軍事貴族は没落していった」と書いて済ますところをマコーレーは、軍事的な描写から田園的な描写に巧みに移ることで、読者にその没落を目の当たりに見せることに成功しています。しかも、その田園風景も、瓦礫の上のつたや堀の鯉それに壁面の絵で表され、芳香のする潅木のおかげで、読者はにおいを嗅ぐこともできるのです。さらに、マコーレーは読者が、抽象的な概念の重圧に耐えなくてもよいように、平明にしかし格調高く叙述します。この箇所で一番長い単語は、どうしてもなくてはならない語「貴族」(aristocracy)でした。

 

 トーマス・バビントン・マコーレー(1800-1859)は英国最高の歴史家ともいわれていますが、その理由は、入念に仕上げられた文章の達意さにあります。平易な叙述を連ねながら、それでいて、読者に息をぬくひまを与えません。マコーレーの頭からは常に読者の顔が離れず、田舎のホテルの管理人のように、彼はすべてが満足のいくように運んでいるかを尋ねるべく、しきりに部屋に顔を出すのです。文章を仕上げる不屈の精神、それは絶え間ない産みの苦しみの連続でした。「良い本を作るということは、何と苦労の多いことか」と彼は手帳に書きつけています。

 「マコーレーがいかに機略をめぐらし、その苦労を隠そうとしても、彼の全著作は、いつも強烈な、人気を博そうとする自意識から生み出されたものである」とピーター・ゲイは書いています。マコーレーは、例えていえば、聴衆を喜ばすことにのみ気を奪われた演奏家であったのです。「さて、彼がもっとも喜ばそうとした人物、また無意識にも四六時中彼が呼びかけた相手は、実は父親であった」

 

 マコーレーの父、ザカーリー・マコーレーは、クラッパム派、つまり心の宗教、世界改善に心を捧げた熱心な福音主義者の一団の中でもひときわ目立った存在でした。トム・マコーレーは、このセクトの中で成長し、聖者としての重い義務感をしみ込まされてきたのです。彼は初等教育を受けず、子供時代は家庭で読書に明け暮れていましたが、早熟で聡明、母親に愛され、姉妹からはほめそやされていました。しかし、父親は、息子の自我をクラッパム派流に、つまり罪深きキリスト教徒は高慢であるべきでない、という枠の中に閉じ込めようとしたのです。

 クラッパム主義者の熱心な自己研鑽の態度は、他人にも厳しい批判を怠りませんでした。相手の不完全さを率直に容赦なく指摘することは、福音主義者の最高の義務の一つとされていました。1824年、マコーレーは、父親が設立した奴隷制廃止協会で歴史に残る力強い演説を行いました。王族も列席する中で、鳴り止まぬ拍手に身をさらしたその瞬間はマコーレーにとってすばらしい時であったでしょう。しかし、その帰り道、ザカーリー・マコーレーは、息子に、「なあ、トム、王家の方々の御臨席の時の演説では、腕組みなどすべきでなかったんだ」と話しかけました。これは、得意の絶頂にあった息子にとって壊滅的な打撃でした。

 喜ばせるのが難しい相手を、なんとか喜ばせようとするのが世の常で、マコーレーのケンブリッジでの努力、政治家としての成功も多くはその動機に発していました。ケンブリッジで数学で優等賞を取れなかった時、みじめな気持ちになったのは父親の叱責を恐れたからでした。「したがって、マコーレーの内面生活を支えている強力な心理的な動機は、父から認めてもらおうという願望であった」

 

もうひとつの心理的動機、これがまた強力なものだったのですが、彼の二人の妹ハンナとマーガレットへの情熱的な愛でした。「マコーレーの妹たちへの感情は、その強烈さにおいて異常であり、その本質においてエロティックであった」妹たちへの手紙には「わたしのかわい子ちゃん」と呼びかけ、「おまえとの抱擁」にいかにあこがれているかが書かれています。マコーレーは妹たちが結婚する日を思って矢も盾もたまらず、それに立ち向かったが、結局は結婚したときには、虚脱したうつ病の発作に襲われました。忙しい政治活動のただ中にあって、彼は泣き崩れ、いかに悲嘆にくれたかを告白しました。妹ハンナがトレヴェリアンと結婚したときなど、「二十年余の仕事が、ここ一ヶ月で消え去ってしまった」と書きつけているのです。「これは、性的情欲に欠陥のある男の声ではなく、この性的なものを完全な場所に隔離した男の声である」とピーター・ゲイは書いています。

 

 ギボンやブルクハルトと同じように、マコーレーも生涯独身を通しました。しかし、ギボンやブルクハルトが、すすんでそれを望んだように、マコーレーがそれを望んだとは思えません。ギボンは、ローザンヌで出会い、恋に落ちたスーザン・キュルショー(後にネッケル夫人となる)との結婚を父親に許してもらえず、泣く泣く彼女に断りの手紙を書いたときでも、内心は救われたという安堵の気持ちがありました。ローマの歴史を書いているその時だけ彼は幸福だったのです。バーゼル大学の教授であったブルクハルトを結婚させようとする企みは多かったのですが、彼は気楽に無関心を装ってこれらを軽く処理していきました。彼は「情熱的な黒い瞳よりもイタリアそのものの方を好んだ」と友人への手紙に書いています。ルネサンスの歴史を書くことは、彼にとって身代わりにそこに生きることであり、現実ではとうてい許されないこと、性的放恣や残酷さを紙の上に実演して見せることでした。偉大な歴史を書き上げることは、また、偉大な個人とそれが生み出す芸術と同じく不死への確固たる自信を彼に与えるものだったのです。

 彼らに対してマコーレーの生の基調は、永遠に拒絶された愛です。決して満足させることのできない父親、決して結ばれることのない妹たち、これらが彼を鞭打ち、終わることのない労苦へ、完璧な著述への精進に向かわせたのです。

 

 ピーター・ゲイの『歴史の文体』 Style in History 1974(ミネルヴァ書房・鈴木利章訳)は、ギボン、ランケ、マコーレー、ブルクハルトという四人の大歴史家のスタイルについての研究ですが、その目的は歴史相対主義への挑戦にあります。「歴史的事実は、ただ歴史家の心の中にだけ存在する」というカール・ベッカーの言葉を敷衍してE.H.カーは、話題となった著名な講演で、「歴史を研究する前に歴史家を研究してください」(『歴史とは何か』岩波新書・清水幾太郎訳)と書きました。つまり、歴史とはそれを書く歴史家の主観という眼鏡をとおして見られるのだから客観的歴史などというものはない、というのです。明らかにカーは「歴史家の主観という眼鏡」を否定的なものと捉えているのですが、それに対してピーター・ゲイは、歴史家の主観は、その強烈な個性によって、他の人間には見ることのできない歴史的現実を把捉することができる、と書いています。ギボンの皮肉な眼差しは、皮肉であるがゆえに、ローマの政治家の欺瞞的な陰謀や教父たちの人間的小ささを描くことができました。劇を組み立てるようなランケのスタイルは、強国間の複雑な対立という、今まで誰も理解できなかったことを可能にしました。ブルクハルトの叙述は偉人と自己を無意識に同一視していますが、この感情移入のおかげで、はじめて、ルネサンスの巨大な生命力やその歴史的独自性を包摂することができたのです。自由主義と人間の進歩を信ずるホイッグ史観はマコーレーの巨大な先入観としてありましたが、しかし、それが彼にイギリスの社会、文化、経済生活の改善を躊躇なく評価させたのです。

 この四人のほかにも、モムゼンがいます。彼のローマ史は、モムゼン自身の土地寡頭制論者・軍人・教会に対する憎しみによって成立しているので客観的評価に値しないという論調に対し、ゲイは、モムゼンが古代ローマの政治をあんなに生き生きと描けたのは彼の時代の政治に偏見を持って積極的に参加していたがためであった、と擁護しています。

 

 そして、これはピーター・ゲイの結論ですが、したがって、歴史は科学ではありえないという人たちに彼はこう反論します。歴史は全面的に科学である、いや科学以上である。なぜなら、歴史は科学であると同時に芸術であるのだから、真理に至る(ほかのものは真似のできない)独自の方法を持っているのだ、と。「スタイルは、科学する歴史家の、芸術である」それゆえに『ローマ帝国衰亡史』も『イタリア・ルネサンスの文化』も『英国史』も、その歴史的事実のいくつかが否定されてもなお不滅の名著であるのです。

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2009年1月 6日 (火)

G.A.ダリオー『エレガンスの事典』

 「私の経験からいいますと」と、ダリオーは書いています。「一目惚れは、理知で選んだ結婚よりも、ずっとうまくゆくものです。いずれにせよ、賢い買物であると考えて何かを買いますと、いつもきまって、それをほとんど着たことはありません。逆に、抑え切れない衝動にかられて買ったものは、そのときは、まったく馬鹿げてみえても、いつもひじょうに早く償却されるものでした。」

 償却とは、その品の値段を着る回数で割ったもので、さらにその品から受ける喜び、自信、エレガンスによって、かぎりなくゼロに近づくことをいいます。いくら安い買物でも、一回しか着ないものは、まったくの浪費ですが、値段が6倍高くても、数年にわたって毎年8ヶ月間、自信をもって着たものはまさに掘り出し物といってよいのだ、とダリオーは言っています。

 買わずにおれなかった赤いウールのスポーツ・ストッキング。イヤリングを買いに出かけながら、つい買ってしまったゴールドとターコイズのブレスレット。ギャラリー・ラファイエットで2ドルで買ったベージュのスエードのバレリーナ・シューズなどなど、何年も飽きずに愛用している品々を彼女はただ衝動に負けて買ったのです。一方、もっとも思慮分別を働かせて買ったはずの次の品々はほとんど使ったこともないというのです。100足もの可愛い、安い、しかし足に合わず、靴擦れのできる靴、捨て値で売っているので買ったが、何年も戸棚に入れたままの青狐の毛皮、一度着ただけの黒のタフタのイヴニング・ドレス、たくさんの安物のハンドバッグなど、これらに共通しているものは、すこしも情熱を感じないで、ただ実用向きをと考えて買ったものでした。

 

 「一目惚れの真実」とも題すべきこの話は、人生のある秘密に通じているようです。スペインの思想家、ミゲル・デ・ウナムーノは、人間を動物から区別するものは理性ではなくて感情である、と言っているのですが、確かに、動物のメスがしばしばオス同士を闘わせてより強い遺伝子を残そうとする合理的な選択の結果、種自体の衰退を招いていくことを思い出してみましょう。衣服を単純化し、合理的に生産する社会主義計画経済が、無駄で恣意的な資本主義の市場経済に敗れるのは人間が感覚によって生きる動物であることにその原因の一端を担っているからでしょう。商品は差異の記号化であるまえに、事物そのものの秘密を持っています。ダリオーは、自信を失った女性に帽子を買うことをすすめ、感じがよさそうだとか、店員がしきりにすすめたとかという理由で買わず、ただ「あなたが惚れ込んでしまい、神秘的な力が働いて何物かをあなたに感じさせるような帽子を求めなさい」と言っています。そうすると、「新しい帽子は、心のよろいとなり、女の自信のとりでとなり、手桶一杯のトランキライザーよりも、もっと士気を高めることになる」のだというのです。

 

ジュヌヴィエーヴ・アントワーヌ・ダリオーの『エレガンスの事典』(昭和41年・鎌倉書房・吉川和志訳)は、ネックレス、船旅、毛皮、ジャケットなど、150ほどの項目について、エレガンスとファッションの関係を論じたものです。

ところで、エレガンス eleganceとはいかなるものでしょうか。ダリオーによれば、「美しさ」とエレガンスは違います。「美しさ」は生まれつきのものであるのに対して、エレガンスは修練を重ねた末に備わってくるものだというのです。その言葉は、ラテン語の eligere (選ぶこと)に源を発していると見られ、それは文化の香り高い、教養のある習慣とともに発展してきたと言われています。

 よって、エレガンスの出発は子供時代の母親かそれに代わる人たちからの影響であることは当然でしょう。子供は、幼いときから、いつも小ぎれいに身だしなみを整え、毎日下着を変え、手を洗い、髪を整えることをしつけられると、死ぬまでその習慣を変えることはないでしょう。懸命な母親は、子供に、慎み深さとシンプルがエレガンスの基本であることを教える、とダリオーは書いています。

しかし、むろん、誰しもハンディ・キャップの問題を抱えているのも当然のことです。母親が完璧なエレガンスの化身であったとしても、あるいは子供の髪を染めたり、イヤリングをつけさせるほどエレガンスに反した母親であるにしても、子供はその影響から逃れ、自分なりの感性とスタイルを築き上げていくことはたいへんなことです。また、克服することが非常に困難で、本人を絶えず打ちのめさずにはおれないようなハンディを抱えている人もいます。しかし、多くのハンディは精神的に克服が可能である、とダリオーは書いています。「エレガンスは、ユーモアと楽観主義の問題でもあります」「たとえ、生まれつきのさずかりものがあなたに少ないとしても」と彼女は言います。「恵まれないものについて嘆き悲しむのは無駄なことです。その代わりに、いちばんすぐれた特徴をいかし、そうでないものを隠すよう工夫しなさい。」「個性とは、自分の精神的な素質、経済的な資力、それに肉体的な欠点や特質を、単に嫌なものだと思うだけでなく、それを全部知り尽くすことなのです」「自分を客観的に見ることができるためには、反省できる知性が必要です。ですから、まったく知性を欠いた女性は、本当にエレガントになるのがきわめて難しいのを思い知らされるでしょう。そうした女性はたまたま自分の気まぐれや好みに合ったファッションを何でも真似ようとするのです。」

 

美しさは、若さを失えば、その輝きも消えていきます。しかし、エレガンスはそうではありません。「エレガンスは年齢の特権」というフランスの諺があるように、年をとるにつれて、自分の特質について正しく知り、ふさわしい身なりを会得するようになるのです。そもそもエレガンスは、顔の火照るような失敗を数多く繰り返し、取り返しのつかない後悔に何度もさいなまれてはじめて身につくものなのだ、とダリオーは書いています。

 

エレガンスには資力の問題はもちろん重要ですが、ベスト・ドレッサーはすべて百万長者なのではなく、むしろ、お金をかけた下品ほど手のつけられないものはない、とダリオーは書いています。フランスの若い女性はアメリカの女性と比べると、とても少ない服しか持っていないのですが、それを大事に、擦り切れるまで着るのだそうです。彼女たちは基本的な色のスカートやセーターを組み合わせて、奇跡のコーディネイトを生み出します。それに、ワードローブにお金を消費する以上に人生には払わねばならぬものがたくさんあるでしょう!

 

ところで、エレガンスと似た言葉に、シック chic があります。ダリオーによれば、シックは「さりげない上品さ」をあらわし、すこしばかりエレガンスより知的なものです。エレガンスが、後天的に備わるものであるに対して、シックはある種の人に生まれつき備わった性質であり、往々にして本人がそれに気づいていないこともあるとのことです。「シックが欠けるとき、シックを得る機会を増やすのに必要なことは、自分がシックでないのに気づくことです。そして、シックに欠けると気がつけば、半分戦いに勝ったも同然なのです。」そのような人は、自分の体型や髪型、身のこなしをよく考え、自分と同じタイプの模範的な人で、その人のシックさが広く知れわたっている人の衣装や生き方から学んだりするでしょう。まさにそれが一つの才能なのです。反対に、自分は生まれながらにシックであり、触れるものをすべて金にしたミダス王よろしく、自分が身につけるものや行いはすべてシック以外のなにものでもないと考えている人たちは、まさにその理由でシックとはほど遠いのです。

 

意図的にシックであることは、だから非常に難しいのです。無頓着を装い、なりふりかまわずといった外見の中に、最高にシックなものがあります。激しい雨が上がった後の、長靴と乱れたコートと濡れた髪の取り合わせが決定的な印象を相手に与えるかも知れません。しかし、そのような微妙な芸当は誰でも、そしていつでもできるとは限りません。ダリオーは、普段の身だしなみ grooming こそ最も大事であり、手と爪は清潔か、靴は磨いてあるか、髪は整えられてあるか、そのようなことを確かめられないうちは人前に出ることをあきらめよ、と言っています。

 

エレガンスといえば、パリのメゾンとそこで活躍するデザイナーたちを無視するわけにいきません。彼らのアトリエこそ、エレガンスと時代の精神がもっとも先鋭な形で結合する場なのです。ダリオーの本が出た1964年当時、まだパリのオートクチュールはその勢いを保っていました。「不滅のバレンシアガ、ディオールの宮殿、シャネルの伝統、ジヴァンシーの尊大な若々しさ、ニナ・リッチの魂を奪う若々しさ、ランヴァンの豪華さ」などなど、彼らはすぐれた裁縫師、仮縫師、売り子をそろえ、その入念な仕上がりは、ただ着心地のよさやエレガンスのためだけでなく、その目的は、ひとつひとつの衣裳に永く変わらない形を作りこむことにあります。今や、極めて高額なオートクチュールはごく一部の人間のためにのみ残されていますが、ピン一本、布一枚に人生を注ぎ込むその情熱、エクセントリックと独創性の異常な張り綱の上で平衡を保つ精神の強さはまだパリのメゾンに伝説的な魅力を与えています。ミラノやニューヨークや東京がファッションの発信地として名乗り出ようと、デザイナーはパリによって聖徒に列せられるまでは完全な成功を勝ち得たとはいえないのです。

 

ここで、スノッブ(snobs)について書いておきましょう。スノッブという言葉はラテン語のsine nobilitate (非貴族)から由来するらしいのですが、もともと、英国の大学生で、高貴な生まれではないけれど、貴族の一員であるように見せかけようとして、服装から立居振舞の隅々にいたるまで、貴族の真似をしているものを指したものでした。ところで、このスノッブたちはファッションの世界ではその死活を握る要素になっています。オートクチュールの裏地の仕上がりを調べ、その裁断の見事さに本当に感嘆できるのは非常に限られたセンスを持っている人たちだけです。パリのメゾンを支えているのは、そういう人たちではなく、名高いデザイナーの衣裳を着ることで最高の洗練さに近づいているという気持ちを持ちたいスノッブたちなのです。スノッブに見捨てられたデザイナーは破産を宣告されたも同然です。スノッブたちは移り気なので、オードリー・ヘプバーンがジヴァンシーを、カトリーヌ・ドヌーブがサンローランを選んですべてを任せるようには一人のデザイナーに固執することはありません。彼らは、輝かしい名声をあげたデザイナーが新しく出ると、それにひきつけられずにはおれないのです。

だから、どの世界にもまして、メゾンの宣伝部員は心身を消耗しつくすほどの気遣いと体力を必要とされます。イヴ・サンローランの成功は宣伝の天才ピエール・ベルジュの存在を抜きには語れません。コレクションの初日の金色の椅子を誰に割り当てるか、どんな人間に会釈して微笑みかけ、どんな人間を最高にもてなすか、それはプレタポルテの時代になっても、いや大衆の時代になったればこそ重要になっています。紹介者のない客は入れないような店の衣裳を着ていると、どんな婦人でも自信が増し、威信が加わったような気持ちになります。メゾンは、このような心理を知り抜いていて、表参道のアルマーニの店のように、どの店でも最上の顧客しか使用できない隠れた休憩室を用意したりしているのです。

 

ダリオーのこの本は、今では、大きく時代が変わり、実用的な面ではほとんど用をなさないでしょう。外出する時は必ず身につけること、と断言された帽子と手袋は日常生活ではあまり見かけません。しかし、エレガンスを人が憧れるかぎり、そこには多くのヒントが隠されていることを発見するでしょう。もっとも短い項目「ひざ knees」には、

 「幸せに暮らしたければ、隠れて暮らせ Pour vivre heureux, vivons caches」という諺は、ひざのために考え出されたようなものです。

とだけ書かれています。

 最後に「男性」という項を紹介しましょう。派手な縞の背広、けばけばしいシャツ、ジュエリー、金時計、を身につけないことはもちろんですが、エレベーターの中では必ず帽子をとること、という規定もあります。「男性のエレガンスは、保守的ということと意味が同じなのです」とダリオーは言っています。「服装が悪くても、とがめられずにすむのは、富豪と天才だけです」と、これもそのとおりでしょう。

 

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