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2009年1月 6日 (火)

G.A.ダリオー『エレガンスの事典』

 「私の経験からいいますと」と、ダリオーは書いています。「一目惚れは、理知で選んだ結婚よりも、ずっとうまくゆくものです。いずれにせよ、賢い買物であると考えて何かを買いますと、いつもきまって、それをほとんど着たことはありません。逆に、抑え切れない衝動にかられて買ったものは、そのときは、まったく馬鹿げてみえても、いつもひじょうに早く償却されるものでした。」

 償却とは、その品の値段を着る回数で割ったもので、さらにその品から受ける喜び、自信、エレガンスによって、かぎりなくゼロに近づくことをいいます。いくら安い買物でも、一回しか着ないものは、まったくの浪費ですが、値段が6倍高くても、数年にわたって毎年8ヶ月間、自信をもって着たものはまさに掘り出し物といってよいのだ、とダリオーは言っています。

 買わずにおれなかった赤いウールのスポーツ・ストッキング。イヤリングを買いに出かけながら、つい買ってしまったゴールドとターコイズのブレスレット。ギャラリー・ラファイエットで2ドルで買ったベージュのスエードのバレリーナ・シューズなどなど、何年も飽きずに愛用している品々を彼女はただ衝動に負けて買ったのです。一方、もっとも思慮分別を働かせて買ったはずの次の品々はほとんど使ったこともないというのです。100足もの可愛い、安い、しかし足に合わず、靴擦れのできる靴、捨て値で売っているので買ったが、何年も戸棚に入れたままの青狐の毛皮、一度着ただけの黒のタフタのイヴニング・ドレス、たくさんの安物のハンドバッグなど、これらに共通しているものは、すこしも情熱を感じないで、ただ実用向きをと考えて買ったものでした。

 

 「一目惚れの真実」とも題すべきこの話は、人生のある秘密に通じているようです。スペインの思想家、ミゲル・デ・ウナムーノは、人間を動物から区別するものは理性ではなくて感情である、と言っているのですが、確かに、動物のメスがしばしばオス同士を闘わせてより強い遺伝子を残そうとする合理的な選択の結果、種自体の衰退を招いていくことを思い出してみましょう。衣服を単純化し、合理的に生産する社会主義計画経済が、無駄で恣意的な資本主義の市場経済に敗れるのは人間が感覚によって生きる動物であることにその原因の一端を担っているからでしょう。商品は差異の記号化であるまえに、事物そのものの秘密を持っています。ダリオーは、自信を失った女性に帽子を買うことをすすめ、感じがよさそうだとか、店員がしきりにすすめたとかという理由で買わず、ただ「あなたが惚れ込んでしまい、神秘的な力が働いて何物かをあなたに感じさせるような帽子を求めなさい」と言っています。そうすると、「新しい帽子は、心のよろいとなり、女の自信のとりでとなり、手桶一杯のトランキライザーよりも、もっと士気を高めることになる」のだというのです。

 

ジュヌヴィエーヴ・アントワーヌ・ダリオーの『エレガンスの事典』(昭和41年・鎌倉書房・吉川和志訳)は、ネックレス、船旅、毛皮、ジャケットなど、150ほどの項目について、エレガンスとファッションの関係を論じたものです。

ところで、エレガンス eleganceとはいかなるものでしょうか。ダリオーによれば、「美しさ」とエレガンスは違います。「美しさ」は生まれつきのものであるのに対して、エレガンスは修練を重ねた末に備わってくるものだというのです。その言葉は、ラテン語の eligere (選ぶこと)に源を発していると見られ、それは文化の香り高い、教養のある習慣とともに発展してきたと言われています。

 よって、エレガンスの出発は子供時代の母親かそれに代わる人たちからの影響であることは当然でしょう。子供は、幼いときから、いつも小ぎれいに身だしなみを整え、毎日下着を変え、手を洗い、髪を整えることをしつけられると、死ぬまでその習慣を変えることはないでしょう。懸命な母親は、子供に、慎み深さとシンプルがエレガンスの基本であることを教える、とダリオーは書いています。

しかし、むろん、誰しもハンディ・キャップの問題を抱えているのも当然のことです。母親が完璧なエレガンスの化身であったとしても、あるいは子供の髪を染めたり、イヤリングをつけさせるほどエレガンスに反した母親であるにしても、子供はその影響から逃れ、自分なりの感性とスタイルを築き上げていくことはたいへんなことです。また、克服することが非常に困難で、本人を絶えず打ちのめさずにはおれないようなハンディを抱えている人もいます。しかし、多くのハンディは精神的に克服が可能である、とダリオーは書いています。「エレガンスは、ユーモアと楽観主義の問題でもあります」「たとえ、生まれつきのさずかりものがあなたに少ないとしても」と彼女は言います。「恵まれないものについて嘆き悲しむのは無駄なことです。その代わりに、いちばんすぐれた特徴をいかし、そうでないものを隠すよう工夫しなさい。」「個性とは、自分の精神的な素質、経済的な資力、それに肉体的な欠点や特質を、単に嫌なものだと思うだけでなく、それを全部知り尽くすことなのです」「自分を客観的に見ることができるためには、反省できる知性が必要です。ですから、まったく知性を欠いた女性は、本当にエレガントになるのがきわめて難しいのを思い知らされるでしょう。そうした女性はたまたま自分の気まぐれや好みに合ったファッションを何でも真似ようとするのです。」

 

美しさは、若さを失えば、その輝きも消えていきます。しかし、エレガンスはそうではありません。「エレガンスは年齢の特権」というフランスの諺があるように、年をとるにつれて、自分の特質について正しく知り、ふさわしい身なりを会得するようになるのです。そもそもエレガンスは、顔の火照るような失敗を数多く繰り返し、取り返しのつかない後悔に何度もさいなまれてはじめて身につくものなのだ、とダリオーは書いています。

 

エレガンスには資力の問題はもちろん重要ですが、ベスト・ドレッサーはすべて百万長者なのではなく、むしろ、お金をかけた下品ほど手のつけられないものはない、とダリオーは書いています。フランスの若い女性はアメリカの女性と比べると、とても少ない服しか持っていないのですが、それを大事に、擦り切れるまで着るのだそうです。彼女たちは基本的な色のスカートやセーターを組み合わせて、奇跡のコーディネイトを生み出します。それに、ワードローブにお金を消費する以上に人生には払わねばならぬものがたくさんあるでしょう!

 

ところで、エレガンスと似た言葉に、シック chic があります。ダリオーによれば、シックは「さりげない上品さ」をあらわし、すこしばかりエレガンスより知的なものです。エレガンスが、後天的に備わるものであるに対して、シックはある種の人に生まれつき備わった性質であり、往々にして本人がそれに気づいていないこともあるとのことです。「シックが欠けるとき、シックを得る機会を増やすのに必要なことは、自分がシックでないのに気づくことです。そして、シックに欠けると気がつけば、半分戦いに勝ったも同然なのです。」そのような人は、自分の体型や髪型、身のこなしをよく考え、自分と同じタイプの模範的な人で、その人のシックさが広く知れわたっている人の衣装や生き方から学んだりするでしょう。まさにそれが一つの才能なのです。反対に、自分は生まれながらにシックであり、触れるものをすべて金にしたミダス王よろしく、自分が身につけるものや行いはすべてシック以外のなにものでもないと考えている人たちは、まさにその理由でシックとはほど遠いのです。

 

意図的にシックであることは、だから非常に難しいのです。無頓着を装い、なりふりかまわずといった外見の中に、最高にシックなものがあります。激しい雨が上がった後の、長靴と乱れたコートと濡れた髪の取り合わせが決定的な印象を相手に与えるかも知れません。しかし、そのような微妙な芸当は誰でも、そしていつでもできるとは限りません。ダリオーは、普段の身だしなみ grooming こそ最も大事であり、手と爪は清潔か、靴は磨いてあるか、髪は整えられてあるか、そのようなことを確かめられないうちは人前に出ることをあきらめよ、と言っています。

 

エレガンスといえば、パリのメゾンとそこで活躍するデザイナーたちを無視するわけにいきません。彼らのアトリエこそ、エレガンスと時代の精神がもっとも先鋭な形で結合する場なのです。ダリオーの本が出た1964年当時、まだパリのオートクチュールはその勢いを保っていました。「不滅のバレンシアガ、ディオールの宮殿、シャネルの伝統、ジヴァンシーの尊大な若々しさ、ニナ・リッチの魂を奪う若々しさ、ランヴァンの豪華さ」などなど、彼らはすぐれた裁縫師、仮縫師、売り子をそろえ、その入念な仕上がりは、ただ着心地のよさやエレガンスのためだけでなく、その目的は、ひとつひとつの衣裳に永く変わらない形を作りこむことにあります。今や、極めて高額なオートクチュールはごく一部の人間のためにのみ残されていますが、ピン一本、布一枚に人生を注ぎ込むその情熱、エクセントリックと独創性の異常な張り綱の上で平衡を保つ精神の強さはまだパリのメゾンに伝説的な魅力を与えています。ミラノやニューヨークや東京がファッションの発信地として名乗り出ようと、デザイナーはパリによって聖徒に列せられるまでは完全な成功を勝ち得たとはいえないのです。

 

ここで、スノッブ(snobs)について書いておきましょう。スノッブという言葉はラテン語のsine nobilitate (非貴族)から由来するらしいのですが、もともと、英国の大学生で、高貴な生まれではないけれど、貴族の一員であるように見せかけようとして、服装から立居振舞の隅々にいたるまで、貴族の真似をしているものを指したものでした。ところで、このスノッブたちはファッションの世界ではその死活を握る要素になっています。オートクチュールの裏地の仕上がりを調べ、その裁断の見事さに本当に感嘆できるのは非常に限られたセンスを持っている人たちだけです。パリのメゾンを支えているのは、そういう人たちではなく、名高いデザイナーの衣裳を着ることで最高の洗練さに近づいているという気持ちを持ちたいスノッブたちなのです。スノッブに見捨てられたデザイナーは破産を宣告されたも同然です。スノッブたちは移り気なので、オードリー・ヘプバーンがジヴァンシーを、カトリーヌ・ドヌーブがサンローランを選んですべてを任せるようには一人のデザイナーに固執することはありません。彼らは、輝かしい名声をあげたデザイナーが新しく出ると、それにひきつけられずにはおれないのです。

だから、どの世界にもまして、メゾンの宣伝部員は心身を消耗しつくすほどの気遣いと体力を必要とされます。イヴ・サンローランの成功は宣伝の天才ピエール・ベルジュの存在を抜きには語れません。コレクションの初日の金色の椅子を誰に割り当てるか、どんな人間に会釈して微笑みかけ、どんな人間を最高にもてなすか、それはプレタポルテの時代になっても、いや大衆の時代になったればこそ重要になっています。紹介者のない客は入れないような店の衣裳を着ていると、どんな婦人でも自信が増し、威信が加わったような気持ちになります。メゾンは、このような心理を知り抜いていて、表参道のアルマーニの店のように、どの店でも最上の顧客しか使用できない隠れた休憩室を用意したりしているのです。

 

ダリオーのこの本は、今では、大きく時代が変わり、実用的な面ではほとんど用をなさないでしょう。外出する時は必ず身につけること、と断言された帽子と手袋は日常生活ではあまり見かけません。しかし、エレガンスを人が憧れるかぎり、そこには多くのヒントが隠されていることを発見するでしょう。もっとも短い項目「ひざ knees」には、

 「幸せに暮らしたければ、隠れて暮らせ Pour vivre heureux, vivons caches」という諺は、ひざのために考え出されたようなものです。

とだけ書かれています。

 最後に「男性」という項を紹介しましょう。派手な縞の背広、けばけばしいシャツ、ジュエリー、金時計、を身につけないことはもちろんですが、エレベーターの中では必ず帽子をとること、という規定もあります。「男性のエレガンスは、保守的ということと意味が同じなのです」とダリオーは言っています。「服装が悪くても、とがめられずにすむのは、富豪と天才だけです」と、これもそのとおりでしょう。

 

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コメント

はじめまして、歴史好きながらアニメの記事を書いているブロガーです。いろいろためになる本の記事を読める当ブログと相互リンクしたいのですがいかがでしょうか?

>「美しさ」は生まれつきのものであるのに対して、エレガンスは修練を重ねた末に備わってくるものだというのです。

 「美しさ」は名人の才能、「エレガンス」は培われた達人の才能ということでしょうか。

>意図的にシックであることは、だから非常に難しいのです。

 「シック」とは美の閃きと言うべきなのでしょうね。シックを先天的に持つ人が「美しさ」を有する人で、経験で身についた人が「エレガンス」を有する人であると?

 拙いコメントで失礼しました。

投稿: 五遷・主簿 | 2009年1月12日 (月) 20時28分

五遷・主簿さん、こんにちは。
コメントありがとうございます。
相互リンクは今の所身内だけにしていますので申し訳ありません。
それでは。

投稿: saiki | 2009年1月12日 (月) 23時04分

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