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2008年12月31日 (水)

ツルゲーネフ『ハムレットとドン・キホーテ』

 年末に入って体調を崩し、欠勤して職場の人たちに迷惑をかけてしまったのですが、それでも、日がな一日、布団の中で猫を抱きながら書物をあれこれ読み散らかすのは病気の時だけに許された楽しみでもあります。敦崇の『北京年中行事記』(岩波文庫・小野勝年訳―新訳は東洋文庫『燕京歳時記』)などをぱらぱら読んでいくと、日本と似たところもある年末年始の風物詩に遠い子供時代の思い出が呼び覚まされてきます。クリスマスの終わる頃から、街の所々に正月の飾り付けを売る小店が姿を現します。町内会の報せが大掃除の日を告げると、その日は家族総出で畳をはがし、天井のすすを払い、神棚を清めます。やがて、職人の人たちが家々の門に竹を立て、松の枝を飾ると、年の瀬の気分はいやがうえにも高まってきます、、、。

 

 ところで、捨てるはずで積んであった本の束から『世界思想教養全集』第九巻「近代の文芸思想」(伊藤整編・河出書房・昭和38年)という古い本を引っ張り出して、その中から寝ながら読めそうな短いもの、ツルゲーネフの『ハムレットとドン・キホーテ』(藤沼貴訳)を読んでみました。これは、ツルゲーネフが1860年に「困窮文学者・学者援護会」での公開講演会でおこなった講演ということです。原稿執筆に三年もかかったそうですが、練りに練った内容はヴァレリーの『精神の政治学』やヴェーバーの『職業としての政治』などの名高い講演に匹敵する豊かさに満ちています。

 

 ハムレットとドン・キホーテは理想に対する二つの異なった態度を示している、とツルゲーネフは書いています。ドン・キホーテはそれを外部に求め、ハムレットはそれを内部に求めます。ドン・キホーテのなかには、エゴイズムの影さえありません。そこにあるのは、信仰です。何か永遠のもの、不動のもの、真理、一言で言えば、個人の外側にあり、容易に個人には与えられず、奉仕と犠牲を要求するけれども、たえまない奉仕と、犠牲の力によって獲得される真理―この真理に対する信仰なのです。「自分のために生きること、自分自身について思いわずらうことを、ドン・キホーテは恥ずかしいと考えたことでしょう。彼はまったく、自分の外側で生きています。彼は全身これ自己犠牲です」。実際はドン・キホーテは貧乏な、ほとんど乞食同然の人間で、財産も縁故もまったく持たず、年寄りで、ひとりぼっちです。しかし、彼は自分の同胞のために、悪の絶滅のために、人間に敵対する力、魔法使いや巨人、つまり抑圧者たちに反抗して戦います。彼はそのために粗衣粗食に甘んじ、夜天で寝ることも厭いません。

 

 熱狂の人ドン・キホーテに対して、ハムレットは懐疑の人です。彼は、自分が何をのぞみ、何のために生きているのかわかりません。それでいながら虚栄心強く、自分自身と自分の生に執着しています。ハムレットは愛しもせず、信じもしません。女性に対する態度、あのドゥルシネーヤに対するドン・キホーテの心持には情欲のかけらすら感じさせませんが、清純なオフィーリヤに対するハムレットの態度には、人間とくに女性の性向をわきまえた皮肉な冷笑が満ちています。魅力といえば、それがハムレットの魅力でもあるのです。優美な物腰、他人に対する完全な優越感、手厳しい自虐さ、偽善への憎しみなどがその憂愁を秘めた表情とともに人を惑わせるのです。ハムレットがすべてを疑うのは、彼自身、世の物事をくわしく知っているからにほかなりません。それに対して、ドン・キホーテは、ほんの少しのことしか知りませんが、多くのことを知る必要はありません。彼は自分のなすべきことを知っており、なぜ自分が地上に生きているか知っています。

 

 それは、まったく同時代に生きた二人の作家の違いを私たちの前に際立たせてくれます。シェークスピアは、世界中のあらゆるところから題材と人物を、まるで鷲が獲物をさらうようにもぎとってきます。空だろうと地上だろうと昔の妖精であろうと。ところが、セルバンテスは、読者の前に、数少ない人物をやさしく連れ出してきます。彼は、自分の身近なものを何とよく知っていることでしょう。シェークスピアという天才は人間に関わりあうすべてのものを支配下におこうとしますが、セルバンテスは、その豊かさを自分の心だけからくみとってきます。その心はすみきっていて、おだやかで、人生経験に富んでいますが(七年間の苦しい捕虜生活も経験しています)そのためにすさんではいません。「セルバンテスは稲妻のようなことばで皆さんをめくるめかすことはないでしょう。また、圧倒的な霊感のすさまじい力で、皆さんを揺り動かすことはないでしょう」。しかし、彼には、また、わざとらしい警句や、不自然な比喩や、嫌味な奇想などは見られません。このことが、つまりは貧乏な一介の老人であるドン・キホーテに抜きがたい貴族性を与えています。反対に、デンマークの王子という上品な育ちにも関わらず、気取ったハムレットはなり上がり者のように見えてしまうのです。

 

 こんな風に書くと、ツルゲーネフはシェークスピアとハムレットを不当に評価しているようにも見えます。しかし、とんでもない、ツルゲーネフは、このハムレットという人物の中に崇高な役割を見出しています。それはシェークスピアという天才だからこそ創りえたことですが、ハムレットは優れた人間を導く教師だというのです。彼とその親友であるホレイショーの関係を見てみましょう。突出したハムレットに対して、ホレイショーは現代でもよく見かけるタイプです。もっともよい意味で、腹心の部下、弟子、のタイプで、禁欲的で一本気の性格と、熱情的な心と、あまり豊かでない知性を持った男ですが、自分の欠点を感じとっていますし、ひかえめです。彼は教訓や説教をむさぼるように求めているので、頭のいいハムレットを崇拝し、誠実な魂の底から、力いっぱいハムレットに打ち込んで、相手から愛されることさえ求めないのです。ホレイショー的人物はハムレット的人物から思想の種を受けとり、それを自分の胸の中で実らせ、やがては、その実を全世界にばらまくのです。それゆえ、ハムレット的人物もホレイショー的人物によって救われ、その苦悩の滴くを無駄に地面に落とすことはないのです。このような関係は、私たちの身の回りに、あるいは私たちの生涯に必ずあることではないでしょうか!

 

 ホレイショーについてのハムレットの次の言葉は、ツルゲーネフによれば、人間の高い尊厳に対するハムレット自身の考え、どんな懐疑にも弱められないハムレットの崇高な希求が示されているということです。ハムレットは次のようにホレイショーに言います。

 「はばかりながら、ハムレット、自分で自分の好き嫌いがわかるようになり、人間の善し悪しの見分けがつくようになってからというもの、ホレイショーこそは心の友と固く思い定めてきたのだ。人生のあらゆる苦労を知っていながら、すこしもそれを顔に出さず、運命の神が邪険にあつかおうと、格別ひいきにしようと、いつもおなじ気もちで受けいれる、そういう男だ、ホレイショーというのは。心臓と頭の働きがほどよく調和している。けっして運命神の指先で手軽にあやつられ、その好きな音色を出す笛にはならない。まことに羨ましい男だ。激情の奴隷とならぬ男がほしい。この胸の底にそっとしまっておきたいのだ。」

 

 ドン・キホーテにも追随者がいます。むろん、サンチョ・パンサですが、ホレイショーがハムレットに啓発され、心酔しているのと違って、サンチョにとってドン・キホーテはほとんど信仰の対象でした。ただし、その信仰は合理主義のフィルターを通っています。

「サンチョ・パンサはドン・キホーテをばかにしており、この男が狂人だということをよく知っています。ところが、その狂人の後についていくために、三度も故郷と、わが家と、妻と、娘をすて、どこまでもその後にしたがい、ありとあらゆる不愉快さをしのび、死ぬまで、この男に一身をささげ、この男を信頼し、誇りに思っています。そして、あわれな病床で、自分の昔の主人が息をひきとるときには、ひざまずいて、声をあげて泣くのです。損得や、個人的な利益目当てでは、この献身の情を説明することはできません。サンチョ・パンサはありあまるほどの常識を持っています。放浪の騎士の家来が期待できるのは、袋だたきぐらいのものだということを、彼はよく知っているのです。」

 

ツルゲーネフは、サンチョ・パンサの献身を大衆の無私無欲の熱狂のゆえであると説明しているのですが、やや曖昧な見解でしょう。私は、ウナムーノ著作集第三巻を隣室の書棚から何とか引っ張り出しました。『生の悲劇的感情』(神吉敬三・佐々木孝訳)と題されたその本の第六章に次のようなことが書かれています。

 『マルコ福音書』第九章で、唖の悪魔にとりつかれた息子を持った男がイエスのもとを訪れます。悪魔が息子にとりつくと、どこであろうが彼をめちゃくちゃにし、口から泡を吹かせ、歯ぎしりをさせ、全身を硬直させるので、治してほしいと連れてきたのです。そのとき、イエスは、奇跡としるし以外には求めようとはしない者たちに心の苛立ちを覚え、「ああ、不信仰な代(よ)だ! 私はいつまでもあなたたちとともにおり、いつまでもあなたたちを忍んでいなければならないのか! その子をここに連れてくるがよい」と叫びました。人々はその子をイエスの前に連れてきました。イエスは、その子が地面をころびまわるのを見て、いつごろからこうなったのか父親にききました。小さい時からです、という父親の返事に対し、イエスは「もしあなたが信ずるならば、信じるものにはすべてが可能である」と言いました。そのとき、そのてんかん性というか、悪魔にとりつかれた息子の父親は、次のような、極めて意味深い、不朽の言葉をもって答えました。「主よ、私は信じます。私の不信仰をお助けください。」

 

 この答えは矛盾しています。信じるのなら不信仰ではありえないからです。しかし、(ウナムーノによれば)その矛盾こそ、この悪魔に取り付かれた子の父親の心の底からの叫びに、最も深く人間的価値を与えるものなのです。彼の信仰は、不確実性に基づいた信仰で、信じるがゆえに、つまり信じたいがゆえに、自分の息子を治す必要があるゆえに、主に対し、自分の不信仰を助けてほしい、そうした治癒が可能であろうかという疑念に対する助力を欲しいと願ったのです。「人間の信仰とはかかるものである」とウナムーノは書いています。「サンチョ・パンサが主であるドン・キホーテに対して抱いた英雄的な信仰とはそういうもの、つまり不確定性、懐疑を基礎とした信仰である」と。

 

 ドン・キホーテの素朴な偉大さは、信念それ自身の誠実さにあります。彼は、ガレー船の罪人たちに打ちのめされても、あるいは豚に踏みにじられても、少しもその理想は損なわれず、その事業の成功を露ほども疑いません。ツルゲーネフは、このような偉大さの例としてシャルル・フーリエの名前を出しています。フーリエは自分の計画を実現するために、百万フラン提供してくれる人はいないかと、新聞でイギリス人に呼びかけ、何年もの間、その奇特なイギリス人に会うために足をはこんだというのです。もちろん、そんなイギリス人が現れたことは一度だってありませんでした。このことを笑う人は多いでしょうが、そこにはサンチョ・パンサのような現実的な人間を付き従わせる引力のようなものがあるようです。

 

 「ハムレットもドン・キホーテも、その死にぎわは感動的です」と最後にツルゲーネフは書いています。ハムレットは死を前にして穏やかになり、ホレイショーに生きるのだぞといいきかせます。そして、あれほど蔑んだ母親を許し、凡てを許そうとしたか、あるいはすべてに許しを請おうとしていたかのようにも見えます。「もう、、、何も言わぬ」これが瀕死の懐疑家の最後の言葉でした。ホレイショーは慟哭します、「ああ、ついに気高い御心の玉の緒も絶えた。お休みなさい、優しき王子よ、舞い上る天使の群れの歌声に乗って永遠(とわ)の安らぎに赴かれんことを!」(野島秀勝訳)

 ドン・キホーテの死はさらに人の心を揺り動かします。サンチョ・パンサが、なぐさめようと思って、もうすぐ二人でまた武者修行に行きましょうね、といいます。すると死のせまった人が答えます。「いや、そんなことはすべて、永遠にすぎさってしまったのだ、そして私はみんなに赦しを乞うているのだ。私はもうドン・キホーテではない、お人よしのアロンゾにかえったのだ、昔、みんなが呼んでいたように、Alonso Bueno (お人よしのアロンゾ)だ」と。

 

 この瞬間に、この人物の偉大な意義が、だれにでも理解されるものになる、とツルゲーネフは書いています。しかし、これは難解で、再びウナムーノの本を開いてみましょう。「ドン・キホーテは、本質的には、絶望した人間であった」と彼は書いています。絶望した人間として生き、希望をもった人間として死んだというのです。しかし、これは、あの不幸なハムレットにもあてはまるのではないでしょうか。

 

(今年も拙ブログを読んでくださった皆様に感謝いたします。皆様にとって2009年が幸多い年でありますように!)

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