« 清水純一『ジョルダーノ・ブルーノの研究』(1) | トップページ | 清水純一『ジョルダーノ・ブルーノの研究』(3) »

2008年11月11日 (火)

清水純一『ジョルダーノ・ブルーノの研究』(2)

志賀浩二の『無限への一歩』(岩波ジュニア新書)を読んでいたら、面白い記述にぶつかりました。著者が小学校六年の時の算数(当時は算術)の教科書の最後のページに、次のような問題が載っていた、というのです。

 「或る所に一本の木が生えた。最初の一年に一メートルの高さになり、次の一年に50センチのび、その次の一年に25センチのびるというように、毎年その前年にのびた長さの半分だけのびるものとすると、この木はどこまでのびるのであろうか」

 志賀少年は、この問題に出会ったとき、毎年伸びつづける木を想像するうちに、ついには自分も吸いこまれて消えてしまうような、はるか彼方の世界に誘いこまれるような不思議な感じに襲われた、と書いています。この問題より前のページに載せられている問題はみな普通の問題であったので、これはこの教科書を書いた人間が、小学校六年間の算術の勉強の最後に、子供たちに送ったメッセージなのではないか、と志賀は考えました。「無限」に向かって羽ばたく子供たちの未来への思いがそこにはこめられているのではないか、というのです。

 (実は、この木は無限に伸びるのですが、2メートルを越すことはありません。初項を1、公比を2分の1とする無限等比級数の和の公式で証明できるのですが、それより次のような説明が分かりやすいでしょう。今、木の真上2メートルの地点に水平に糸を張ります。はじめ、木の高さは一メートル、木の先端と糸との距離も一メートルです。そして、50センチ、25センチと伸びていくようすを想像すると、木は常にその先端と糸との距離の半分を目指して伸びていくことがわかります。つまり、何億年かけても、その木は永遠に伸び続けながらも2メートルの高さには決して届かないのです)

 

 志賀浩二は、その問題について先生がどんな説明をしてくれたかは忘れてしまいました。しかし、その時感じた無限への不思議な思いはいつまでも心に残り、彼が数学を専攻する一因ともなったのです。「無限に対する思いは、数学の形式として取り出される以前に、個人の思索体験または生活体験のなかから、徐々に誘い出されるように生まれ,育まれ、そしてそこに、深く隠されているものではなかろうか。無限とは、それを語ることに、あるためらいを感じさせるような、心の深みに横たわる情感とさえいってよいものではなかろうか」と彼は書いています。

 無限というと、私たちは直ちに集合論、なかんずくカントールを思い起こしますが、集合の退屈な教程に入っていくやいなや、無限への不思議な憧憬は消え去ってしまう、とも志賀は言っています。永遠に伸び続けるが、しかし決してある高さには達することのできない木、この納得できない、心に重くたまるような、それでいて心ときめかせる何かを持つこの瞬間にこそ数学の魅力はあるのです。志賀浩二は『無限からの光芒』(日本評論社)の中で、無限に対するこの驚きと畏怖を一生いきいきと保ち続けた偉大な数学者シェルピンスキーのことを書いています。シェルピンスキーは1882年にワルシャワに生まれ、二つの世界大戦に巻き込まれ、ワルシャワ蜂起でドイツ軍につかまりクラコフの収容所に送られたりもしましたが、生きのび、戦前、戦中、戦後のポーランドの数学界を牽引しながら87歳の長寿を全うしました。幾多の辛酸の中にあって、安らぎと将来の希望を与えたものは、この無限に対する憧憬にほかならなかった、この一筋の道を貫くことによって、己を持し、激しい波風に抗する強靭な精神を持ちえたのだ、と志賀は書いています。

 

 同じような思いを四百年以上前に抱いた一人の男がいました。それがナポリ近くのノラの町に生れたジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)です。子供の時にドメニコ会の修道院に入ったブルーノは、比較的自由な勉強の許された修道院の内部で、徐々に正統カトリックに対する疑問の念を発酵させていました。ついに、ナポリの異端審問所から召喚の通知を受け取ることになり、彼は1576年、ナポリの修道院を出奔します。彼は、ローマに対抗意識のあった北イタリア、とくにヴェネティアなどを放浪しますが、その頃コペルニクスの書に出会い、深甚な影響を受けたようです。

 カトリックは、その組織的統一のために異端説を排除しながら一つの強固な体系を作り上げようとしていました。そのために採用されたのが、アリストテレスープトレマイオス説で、その考えによると、地球は何層にも分かたれた宇宙の不動の中心で、そのさらに中心にローマがあり、その正反対の側にはイェルサレムがあるというのです。この説は単にカトリックの宇宙論であるばかりでなく、2世紀以来の人々の世界観を指導してきたものでした。だが、むろん、科学的根拠などまるでないので、この説はすでにアリスタルコス以来多くの反対論にさらされてきましたが、コペルニクスが最も合理的に秩序だって地動論を展開できたのです。その疾風のような伝播の理由には、当時興隆してきた経験尊重的風潮と多くの彗星の観測結果の確認がありました。

 

 ブルーノには、コペルニクス説がローマの正当性、その世界観を覆す決定的論拠に思えたのです。しかし、ブルーノの宇宙観とコペルニクスのそれは大いに異なっていました。コペルニクスが地動説を唱えたのは、地動説が天動説よりもより簡明に精確に諸惑星の運動を説明することができたからでした。むろん、コペルニクスの錬金術やプラトニズムへの関心、太陽崇拝への傾向も考慮すべきでしょう。つまり、コペルニクスにあっては(驚くことに、彼に続くティコ・ブラーエやケプラーもそうだったのですが)宇宙は太陽を中心に静謐な秩序だった体系を持つべきであるというピュタゴラス的プラトニズムから抜け出ることはできなかったのです。

 

 ブルーノは、無限な宇宙では固定的な中心は存在しえず、すべて相対的な関係に置かれているのだから、地球を中心に考えることもできれば、太陽を中心に考えることもできる、また他の星を中心に考えることもできる、と言っています。ブルーノのこの考えは、宇宙そのもの、その無限性を感ずるところから生ずるので、「不動の天圏」を想定したコペルニクスとは根本において違っています。

 ブルーノの哲学は、この驚くべき宇宙への賛嘆から始まります。宇宙は神秘的な美しさに満ちています。「神的なるものをわれわれの眼前に彷彿させるこの宇宙ほど美しいものがはたしてほかにありうるだろうか?」

 しかし、宇宙が無限であることはいかにして我々に知られるのでしょうか。実は、それを知ることは我々には不可能なのです。感覚でそれを知ることはむろんできません。感覚は我々が見ることのできる範囲を超えることはできないからです。理性はどうでしょうか。無限に続く自然数の列というものを我々は考えることはできます。いや、厳密にいえば、それも不可能で、何兆何億の先にさらに理性はそれ以上の数の列を考えうるでしょう。実は無限を比量的理性で捉えようとする限り、それは有限の世界に落ちていってしまうのです。クザーヌスは、それゆえに、宇宙は無限ではない、と言いました。彼によれば、宇宙は展開された無限であり、そのような仕方でのみ無限なのです。本当の無限は神のみにあり、神こそすべてにおいて有限を超越する全的無限といえる、というのです。ここで、ブルーノはクザーヌスとも袂を分かちます。ブルーノによれば、我々は神については語りえない、それは我々の限界を超えているから、というのですが、しかし、神は無限の中に、無限を通して我々に感じられるのです。どういうことかというと、我々は無限を知ることはできないが、無限は有限との切点において、その有限の中に無限自身を映すというのです。これこそ自然の中に映り出た神にほかなりません。「宇宙の無限はその限界である」という言葉は難解ですが、要するに神を思い、神に向かうクザーヌスに対し、コペルニクスは無限に向かい、無限こそ神であると思うのです。ただし、この神は我々には無限と有限との切点において「宇宙霊」という形をとって万物の生命、活動の根幹を形成します。

「ブルーノ哲学の主題はこの無限者にあった」と清水純一は書いています。「無限者は我々の理解を絶しながら、しかも我々は無限者に問い続けずにはいられない。我々には無としてしか映らぬ無限者こそ、ブルーノにとってはしかし真実在であった」これに対して我々の世界は影に過ぎません。この、世界が影である、という自覚を通してのみブルーノの思想は成立するのです。

 

 ここからブルーノの有名な「イデアの影」についての考えが生れてくるのです。彼によれば、万物の原理は三つあり、それは神と自然と技術(アルス)である、ということです。神(イデア)を我々はむろん直接見ることはできません。しかし、神は自然を通して、まるで太陽の光が物体に当たってその影を作り出すように、自然の中に映り出るのです。「神は自然万物のうちに、また、うちにしか存在しない」という言葉の真意はそこにあります。ブルーノのうちにはパドヴァ・アヴェロエス主義に淵源を持つ自然重視の思想があり、それによれば、自然は神に至る媒介に過ぎぬがゆえに軽視されるのではなく、媒介であるがゆえに重視されるのです。人間はその技術(アルス)による自然の探求を通じて神を知ろうとするが、自然という厚い壁は人間がそれに近づくことを峻拒します。しかし、真理に憧れる人間は、狂おしいまでの情熱でこの神的秘密を探り当てようとします。

ここで、ブルーノはギリシア神話のアクタイオーンの運命を私たちの中に呼び覚まします。狩の途中で水浴中のアルテミス女神の裸身を見たアクタイオーンは女神の怒りに触れて鹿の姿に変えられ、自分の犬に八つ裂きにされて死んでしまいます。アクタイオーンは神性なる美を狩ろうとする知性を、その猟犬とは思惟の働き、つまり理性を意味します。アクタイオーンはまだ経験に乏しい若者で、深い森の中を獲物の足跡を追って進んでいきます。この足跡はイデアへの道で、よろめきながら歩いた先に、ついに若者は訪れるものとて稀な森の奥の沼の面に輝く裸身が映っているのを発見するのです。それは、世界という鏡の上に映り出た裸の真理の姿、神性の光り輝く姿でした。そして、愛が愛する対象を愛されるものに変身させるように、美を求める者はその行為によって自らを対象と同じものに変えていきます。これは一つの自己否定、自己転換なのですが、こうして美しい鹿の姿に変身したアクタイオーンは、それを捉えることのできない理性である自らの猟犬によってかみ殺されてしまいます。この時、彼はそれまでに探し求めてきたものが実はほかならぬ自己の中にあったことに気付くのです。すなわち、神を美を無限を洞察するとはカバラの「死の接吻」ともいうべき一種の生まれ変わりをも意味するとされたのです。

|

« 清水純一『ジョルダーノ・ブルーノの研究』(1) | トップページ | 清水純一『ジョルダーノ・ブルーノの研究』(3) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 清水純一『ジョルダーノ・ブルーノの研究』(1) | トップページ | 清水純一『ジョルダーノ・ブルーノの研究』(3) »