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2008年11月11日 (火)

清水純一『ジョルダーノ・ブルーノの研究』(3)

ブルーノの思想の諸源泉について書きましょう。清水純一の『ジョルダーノ・ブルーノの研究』の魅力は、その精緻なブルーノの主要著作の解説もさることながら、その思想の拠ってきたるところをほぼ公正に詳述しているところにあります。

ブルーノは1548年に生まれ、17歳頃まで、地元の公立学校に通いました。ナポリにイタリア初の異端審問所ができたのが1543年ですから、ブルーノが生れ育った時代はすでに盛期ルネサンスの進取の精神は衰退し、異端抹殺の時代に突入していました。しかし、ブルーノは「ルネサンス最後の哲学者」といわれるように、彼の中にはルネサンスの精神の集大成ともいうべきものが力強く息づいていました。彼は、少年時代に、テオフィロとサルネージという師から深い影響を受けますが、テオフィロはフィレンツェ・プラトニズムを、サルネージはパドヴァ・アリストテリズムを体現していたといわれています。

 

ここで、フィレンツェ・プラトニズムについて簡単に記しておきましょう。ペトラルカ(1304-1374)はキケロとアウグスティヌスから影響されて、人間の一大事は人間の心の真実を知り、それを養うことであり、それは理想的な市民生活の中から生れる、と考えました。それを具現化したのが、ペトラルカの弟子、サルターティ(1331-1406)で、彼は自治都市フィレンツェのために働き、マッティーニ、ブルーニ、アルベルティらとともに、フィレンツェ・プラトニズムの基となったサント・スピリト修道院の集まりの中心の一人となりました。人間の理想について書いたギリシア人への熱い思いはサント・スピリト修道院の人たちにギリシア学の研究を思い立たせ、彼等の招請をうけてフィレンツェにやってきたのが著名なギリシアの学者クリュソラス(1350-1415)です。人々は彼の講義によって、はじめてギリシア原語を通してギリシアの古典を学ぶことができたのでした。

サルターティの考えによれば、人生は努力と苦難の連続であるが、苦労して理想社会の実現に向かうところに人生の意義はある、そしてそれはまた真の人間形成の道でもある、というのです。それゆえ、ソクラテスはキリストとともに彼の理想的人物となりました。救いは神の恩寵によるのみであって、人間の行為によるものではない。しかし、「救いに値する人間行為があるとすれば、それはただ正義のために生きることであろう」とサルターティは書いています。ここにキリスト教とギリシアの理想が美しく合体したのです。サルターティはフィレンツェ市第一書記として、ミラノの僭主スフォルツァから滅亡寸前のフィレンツェを守りました。フィレンツェが黒死病に襲われた時、彼は死の危険を賭して町に踏みとどまり、職務の遂行に邁進していたのですが、人々は彼に郊外に避難するよう忠告しました。しかし、彼は「人間が生きるとは、互いに手をつないで扶け合いながら、祖国のため正義のため誠実のために闘うほかにはありません」と答えて、他の市民を見捨てて逃避することを拒んだということです。

 

フィレンツェ人文主義の栄光はこの瞬間に頂点を極めたのです。しかし、自由都市フィレンツェはメディチ家の急激な興隆と独裁によって、その自治共和制を形骸化していきました。人文主義者たちの政治への参加の季節が終わり、メディチ家の保護のもとでの瞑想的・非社会的な宗教的哲学の時代が始まります。

クリュソラスの招請からほどなくフィレンツェで東西キリスト教宗教会議(1438-1443)が開かれました。滅亡寸前にあった東ローマ帝国から多くの著名な学者が集まったこの会議の興味深い論点はプラトンとアリストテレスの優劣論争でした。そこで、熱烈にプラトン擁護の論陣を張ったのがあの有名なゲオルギオス・ゲミストス通称プレトン(1355-1450)です。プレトンの考えは、ゾロアスター教やユダヤ教のカバラなど古代神秘思想の融合ともいえるもので、その集大成がプラトンの著作に表れているというのです。このプラトン熱はコジモ・デ・メディチの心を動かして、侍医の息子で聡明であったマルシリオ・フィチーノ(1432-99)にギリシア語の勉強を強いてプラトンを翻訳させ、フィレンツェにプラトン・アカデミアを作らせることになりました。

 

 フィチーノは非政治的人間で、もっぱら観相の生活を送ることによりプラトンの奥義に達すると考えていました。ここに、メディチの支配による知識人の無力化、その諦念を読み取ることもできるでしょう。「永遠の哲学」「敬虔の哲学」といわれるフィチーノの思想の、悪く言えば甘さはそこから由来しているのではないでしょうか。彼は、神・天使・人間(霊魂)という階梯を考え、不死の霊魂を持つ人間は神への上昇も、物質への下降も自由であるため世界秩序の中心に位置し、それゆえ神にも等しき存在でありうる、といっています。

 しかし、フィレンツェの、いやイタリア・ルネサンスの哲学における精華は、わずか30歳で毒殺されたピコ(1463-94)の中に最も鮮明に表れているといってよいでしょう。ミランドラの領主という名門に生れた彼は、すでに若くして世界の平和を希求し、ローマに世界の宗教者・哲学者を集めての会議を計画していました。しかし、その異端的要素を感じ取った教皇側は彼に弾圧の手を差し向けます。それを救ったのがロレンツォ・メディチで、彼はピコを熱心に口説いてフィレンツェのプラトン・アカデミアの一員として招請します。ピコはフィチーノの後継者として嘱望されますが、ロレンツォの死後、サヴォラローナの革命に巻き込まれて命を落としてしまいます。

 ピコの思想は、楽観的なフィチーノに比べて遥かに虚無的なものです。「神との神秘的合一」など彼には望むべくもありません。神と人間との懸隔は絶望的なまでに広いので、どんな努力もそれを乗り越えることができません。しかし、人間は、にもかかわらず神を求めます。狂おしいまでに求める果てに、人間はカバラの「死の接吻」によって、つまり死による再生によって神を知るのです。なんと惨めな運命を人間は担っているのでしょうか。しかし、この惨めさは神の偉大さの証拠なのです。人間はこの惨めな運命を知ることによって、上昇への、再生への情熱を抱くのです。それは一人、人間にのみ許された自由です。天使へ、神へと上昇していくことか、より下等の獣に堕ちていくか、それは人間の無限な自由の選択に委ねられています。それゆえ人間は偉大であり、完成された領域に閉じ込められた天使よりすぐれているのだ、とピコは言っています。

 

 ピコの中には、プラトニズム、カバラ、アヴェロイズム、ゾロアスター教からオルフェウス、ドゥンス・スコトゥスに至るまで、あらゆる時代と地域の思想が包含されており、それは彼が、単にキリスト教世界ばかりでなく、異教徒を含めたすべての人類の平和を願っていたことを示唆しているのです。

 ところで、ピコの思想はブルーノのそれと酷似しています。しかし、ブルーノの著作では全くピコには言及されていません。「ピコとブルーノの関係は大きな謎に包まれている」と清水純一は書いています。そのカバラ説、その知性的神秘主義など、二人の関係は間接的影響としてすますには余りに似すぎている、というのです。

 

 フィレンツェのプラトニズム同様、北イタリアのパドヴァのアリストテレス主義(正確にはスコラ的アリストテレスに対してアヴェロエス的アリストテレス主義)はルネサンスを貫く基本常数です。ブルーノの自然科学的傾向はこの派の考えを抜きにしては考えられません。パリ大学で一世を風靡したアヴェロエス主義は1277年に異端を宣言され、急速に終息していったのですが、パドヴァでは13世紀から17世紀に至るまで隆盛を誇り、数多くの著名な学者を輩出しました。

アヴェロエスのアリストテレス解釈で特に影響の大きかったものは、二重真理説と普遍唯一霊魂説です。アヴェロエスによれば、人間の霊魂には二種類あります。一は肉体とともに死滅する霊魂であり、他は個々の人間を超えて永遠に存在する普遍的霊魂で、彼はこの霊魂だけが実在すると考えました。ここから信仰と理性の分離、つまり死すべき人間の信仰と普遍的理性の区別が生じてきます。したがって、互いに異なった根を持つ信仰と理性は、おのおの別のものとしてその真理を追究することが許されるというのです。これが唯一霊魂から生ずる二重真理説です。

この思想が、ヴェネティアのカルチェ・ラタンといわれたパドヴァで盛んに研究されたのは、パドヴァ大学がもともと医学部を中心とした自然科学色の強い大学だったからです。神学部中心のパリ大学に比べ、パドヴァは知識と経験が重視され、アヴェロエスの二重真理説にもとづいて、神学とはっきり分離した哲学その他の学問が合理的に追及される場所だったのです。

また、こうした学風を許す北イタリアという風土も考慮されなければなりません。北イタリア、とくにヴェネティアは、もともと法王権や皇帝権からの干渉を嫌い、それが学問の自由を守ろうとする大学の方向とも一致していました。さらに、ヴェネティアの力の源泉である海上交易の隆盛は、必然的に造船の技術や天文学の知識を深め、商業規模の拡大は、計算術、簿記法、貨幣の鋳造術などを発展させ、織物工業、染色技術などの技術革新を必須のものとしていたのです。このような土地においては、既成の知識体系よりも経験を尊重する風潮が支配的となり、次々と新たな発明発見を生み出します。あの三次方程式の複雑な解法を発見したタルターリアは、学者ではなく、ヴェネティアの貧しい家庭で商人や技術労働者たちに数学を教えて細々と暮らしていました。

 

パドヴァ学派の中では、まず15世紀初頭に活躍した「未明に閃く赤い星」パオロ・ヴェネト(1439年没)が有名です。彼は、アヴェロエス主義的立場から、霊魂を合成物と考え、アヴェロエスの普遍的能動理性を神と同一視しました。この伝統は16世紀初頭に『霊魂不滅論』で世間を沸かしたポンポナッツィ(1462-1525)に引き継がれています。ポンポナッツィは、霊魂は不死であるがありかたによっては可死的であるというトマスの考えとは全く逆に、すべての霊魂は可死的だがありかたによっては不死である、と主張しました。霊魂が可死的であるということは、肉体が滅びれば霊魂も消え去るということを意味します。霊魂の問題はパドヴァのアリストテレス主義者のみならずルネサンス・イタリアの中心的問題でもあったのですが、ポンポナッツィはこの問題を「空想や信仰を全然まじえずにすべて合理性と経験にかなうように」解こうとしました。そして、霊魂そのものの肉体からの不分離性から考えて霊魂の本質は死すべきものであろうという結論に達したのです。ありかたによっては不死的であるという留保は、人間の普遍的理性の働きが可能なのは不死性という要素がありうるとも考えたからでしょう。

そして、この点にポンポナッツィの傑出して優れたところがあるのです。彼は「合理性と経験にかなう」だけではすべてを断定することはできない、と考えました。「霊魂の不死性の問題はどちらとも決めることのできないneutrumの問題である。ちょうど世界の永遠性の問題と同じように、霊魂が不滅であるとせねばならぬ自然的理由rationes naturalesは何もない。かといって、霊魂を死滅すべきだという自然的理由もないのである」と彼は書きました。このneutrum(語義的にはあれでもこれでもない)という観念こそポンポナッツィの独自にして優れた思想のいわば結晶的表現である、と清水純一は書いています。啓示や信仰の助けを借りてこの問題を解こうとせず、あえてneutrumとして自然の限界にとどまらせたものは、自らの能力と限界とを自覚した近代合理主義の精神である、と。

ポンポナッツィの思想はカトリックの根底を動揺させました。なぜなら、死後の霊魂の実在を認めることによって救済の可能性を説くカトリック信仰の土台が、これによって覆されてしまうからです。ローマが彼の『霊魂不滅論』を禁書目録に掲げて弾圧したのも当然といえましょう。

 

フィレンツェ・プラトニズムの人間主義的側面はブルーノの自由の思想を形つくり、アヴェロイズムはブルーノの経験合理主義の態度に影響を与えました。しかし、ブルーノ哲学の源泉を考えると、どうしても看過できないもう一つの源流があります。それは、魔術・錬金術の伝統です。看過できない、というよりそれこそルネサンスの主流ともいってよいでしょう。ルネサンスは古代の文化の再生というよりキリスト教的ヒエラルキーの解体でした。トマスによって体系づけられたラテン・アリストテレス主義はその秩序正しい世界に魔術の容れる余地を残していませんでした。つまり、魔術をそれ自身内包していた異教世界、東方世界の世界観を徹底して排除することによってそれは成り立っていたのです。

ギリシアの古典を原典から学びたいという欲求は、世界と人間の秘密を知りたいという、それだけで魔術的なものです。ルネサンスの人たちは、時代が古ければ古いだけ、人間は賢かった、という観念から逃れられませんでした。(人間社会は進歩すると考えるようになったのは近代になってからです)ルネサンスには、とくにこの考えは強烈になってきたのですが、同じように過去への憧れが強まった時期がありました。それは紀元二世紀頃のローマで、いわゆる五賢帝時代のパクス・ロマーナにより、帝国の行政機構が能率よく機能し、道路・通信は立派に整備され、ギリシア古典の教条的な授業がシステマティックに行われていた時期でした。フランセス・イェイツによれば、その当時の人々はプラトン学派やストア学派やエピクロス学派などの完成され、それゆえに行き詰った教義に飽き、標準的な教育では与えることのできない真実の知識を熱烈に求めていた、ということです。理性は効力を失い、この世界は、神秘的な、直感的な、魔術的な方法を求めていました。彼らは、最古の人たちは純粋で、神聖であり、後代の理性論者のあくせくした理論よりも、ずっと真実に近く、神により親しかったのだと考えました。彼らは、また同時にさらに遠方のものほどより聖なるものであるという観念に囚われていました。インドの苦行者やペルシアの僧侶、カルデアの占星術師などですが、何よりも彼らが憧れたのは太古のエジプトの知恵でした。エジプトの古い寺院、その地下で行われる儀式、などは二世紀という時代の雰囲気の中では抗いがたい魅力を持っていたのです。エジプトの神トートはギリシアのヘルメス(ローマではメルクリウス)と同一視され、さらに「三重に偉大な」という形容詞をつけられました。このヘルメス・トリスメギトスによるという多くの著作がこの頃おそらくギリシア人によって書かれましたが、それが後世ヘルメス文書とされているものです。

 

1460年、コジモ・デ・メディチが各地に放っていた写本蒐集役の一人がマケドニアから14編のヘルメス文書を含む手稿をコジモのもとにもたらせました。コジモは、すでにプラトンを翻訳中のフィチーノの手をとめて、ただちにヘルメス文書の翻訳にとりかかるよう命じました。このことからも、ヘルメス文書への世人の期待の大きさがわかるようです。15世紀の人々は2世紀の人々と同じように、知をその源流まで遡及して汲みとりたいと願っていたのです。

ところが、ここに大きな錯覚がありました。ルネサンスの人々は、その文書がアリストテレスやプラトンよりも遥かに古い著作であると信じていたのですが、この錯覚には仕方がない面があって、それはかのアウグスティヌスが著作の中で、ヘルメス・トリスメギトスをギリシアのどんな著作家よりも古いと断言していたからです。それはともかく、この文書はピコをはじめ多くの思想家たちに深い影響を与えたようです。ブルーノも例外ではありません。とくにその自然観の類似には驚くものがあります。

 

ヘルメス文書の一つ『アスクレピウス』では、「神は第一、世界は第二であり、人間は第三である」と書かれています。これは、ブルーノの神・自然・技術(人間)の根源的三分割構造を思い起こさせます。注目すべきは、ヘルメス文書の中では、世界はほとんど神と同等の位置を与えられ、しかも世界は自然(ナトゥーラ)という力で自ら孕み、かつ生み出す力を持っているというのです。自然は悪さえも生み出し、しかも神はそれを統御することはできません。しかし、世界は混沌かというとそうではなく、精神(スピリト)が万物に内在し、貫徹し、万物は常に上からのものに依存しています。「天は感覚できる神である」がゆえに、自然は神における自然、感覚できる神ともいえるのです。このような自然即神の思想はブルーノと根底でつながっています。ブルーノは、神と自然には絶対の断絶があるが、我々は自然を通して神を知ることができるがゆえに自然こそ神である、といっています。

 

このような考えは、ブルーノの初期の記憶術に関する著作にも色濃く表れています。ブルーノの記憶術はラヴェンナートゥスやライムンドゥス・ルルスの影響を受けていますが、その実用よりも原理的において詳しいという特徴があります。彼は二重の円盤の上にアルファベットを二重に書き並べ、それを回転させることによって記憶を引き出そうとしました。二重のアルファベットは記憶の像と記憶の場所を示しています。ブルーノは世界万物のすべてはある象徴によって置き換え可能であり、逆に、世界に配置された象徴を辿っていけば万象の知識に出会えると信じていたようです。つまり、「この発想の根底には、万物は互いに秩序にしたがって構成されているという原理的前提があり、きわめて複雑に見える万物の結合構成も、これを知性によって遡行すれば、若干の基礎的原理に還元しうるし、逆にまた、若干の基礎的原理から万物は演繹構成しうるという確信がある」

これは汎知論的、百科全書的理念です。というのも百科全書(エンサイクロペディア)とは森羅万象の知識をアルファベットによって配列したものにほかならず、それだけではばらばらのものを相互に結びつける円環的教養(エンサイクロペディア)にほかならないからです。事実、ブルーノの弟子アルシュタッドは記憶術から出発してエンサイクロぺディストの先駆者となり、さらにその弟子には児童教育で有名な汎知主義者コメニウスがいます。

 

だらだらと書いているうちに長いものとなってしまいました。要するにブルーノの哲学は中世の伝統の上に積極的に異端思想をとりいれて作り上げたもので、その思想の根底には無限へと羽ばたこうとするルネサンスの精神活動があった、というのが清水純一の結論です。

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清水純一『ジョルダーノ・ブルーノの研究』(2)

志賀浩二の『無限への一歩』(岩波ジュニア新書)を読んでいたら、面白い記述にぶつかりました。著者が小学校六年の時の算数(当時は算術)の教科書の最後のページに、次のような問題が載っていた、というのです。

 「或る所に一本の木が生えた。最初の一年に一メートルの高さになり、次の一年に50センチのび、その次の一年に25センチのびるというように、毎年その前年にのびた長さの半分だけのびるものとすると、この木はどこまでのびるのであろうか」

 志賀少年は、この問題に出会ったとき、毎年伸びつづける木を想像するうちに、ついには自分も吸いこまれて消えてしまうような、はるか彼方の世界に誘いこまれるような不思議な感じに襲われた、と書いています。この問題より前のページに載せられている問題はみな普通の問題であったので、これはこの教科書を書いた人間が、小学校六年間の算術の勉強の最後に、子供たちに送ったメッセージなのではないか、と志賀は考えました。「無限」に向かって羽ばたく子供たちの未来への思いがそこにはこめられているのではないか、というのです。

 (実は、この木は無限に伸びるのですが、2メートルを越すことはありません。初項を1、公比を2分の1とする無限等比級数の和の公式で証明できるのですが、それより次のような説明が分かりやすいでしょう。今、木の真上2メートルの地点に水平に糸を張ります。はじめ、木の高さは一メートル、木の先端と糸との距離も一メートルです。そして、50センチ、25センチと伸びていくようすを想像すると、木は常にその先端と糸との距離の半分を目指して伸びていくことがわかります。つまり、何億年かけても、その木は永遠に伸び続けながらも2メートルの高さには決して届かないのです)

 

 志賀浩二は、その問題について先生がどんな説明をしてくれたかは忘れてしまいました。しかし、その時感じた無限への不思議な思いはいつまでも心に残り、彼が数学を専攻する一因ともなったのです。「無限に対する思いは、数学の形式として取り出される以前に、個人の思索体験または生活体験のなかから、徐々に誘い出されるように生まれ,育まれ、そしてそこに、深く隠されているものではなかろうか。無限とは、それを語ることに、あるためらいを感じさせるような、心の深みに横たわる情感とさえいってよいものではなかろうか」と彼は書いています。

 無限というと、私たちは直ちに集合論、なかんずくカントールを思い起こしますが、集合の退屈な教程に入っていくやいなや、無限への不思議な憧憬は消え去ってしまう、とも志賀は言っています。永遠に伸び続けるが、しかし決してある高さには達することのできない木、この納得できない、心に重くたまるような、それでいて心ときめかせる何かを持つこの瞬間にこそ数学の魅力はあるのです。志賀浩二は『無限からの光芒』(日本評論社)の中で、無限に対するこの驚きと畏怖を一生いきいきと保ち続けた偉大な数学者シェルピンスキーのことを書いています。シェルピンスキーは1882年にワルシャワに生まれ、二つの世界大戦に巻き込まれ、ワルシャワ蜂起でドイツ軍につかまりクラコフの収容所に送られたりもしましたが、生きのび、戦前、戦中、戦後のポーランドの数学界を牽引しながら87歳の長寿を全うしました。幾多の辛酸の中にあって、安らぎと将来の希望を与えたものは、この無限に対する憧憬にほかならなかった、この一筋の道を貫くことによって、己を持し、激しい波風に抗する強靭な精神を持ちえたのだ、と志賀は書いています。

 

 同じような思いを四百年以上前に抱いた一人の男がいました。それがナポリ近くのノラの町に生れたジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)です。子供の時にドメニコ会の修道院に入ったブルーノは、比較的自由な勉強の許された修道院の内部で、徐々に正統カトリックに対する疑問の念を発酵させていました。ついに、ナポリの異端審問所から召喚の通知を受け取ることになり、彼は1576年、ナポリの修道院を出奔します。彼は、ローマに対抗意識のあった北イタリア、とくにヴェネティアなどを放浪しますが、その頃コペルニクスの書に出会い、深甚な影響を受けたようです。

 カトリックは、その組織的統一のために異端説を排除しながら一つの強固な体系を作り上げようとしていました。そのために採用されたのが、アリストテレスープトレマイオス説で、その考えによると、地球は何層にも分かたれた宇宙の不動の中心で、そのさらに中心にローマがあり、その正反対の側にはイェルサレムがあるというのです。この説は単にカトリックの宇宙論であるばかりでなく、2世紀以来の人々の世界観を指導してきたものでした。だが、むろん、科学的根拠などまるでないので、この説はすでにアリスタルコス以来多くの反対論にさらされてきましたが、コペルニクスが最も合理的に秩序だって地動論を展開できたのです。その疾風のような伝播の理由には、当時興隆してきた経験尊重的風潮と多くの彗星の観測結果の確認がありました。

 

 ブルーノには、コペルニクス説がローマの正当性、その世界観を覆す決定的論拠に思えたのです。しかし、ブルーノの宇宙観とコペルニクスのそれは大いに異なっていました。コペルニクスが地動説を唱えたのは、地動説が天動説よりもより簡明に精確に諸惑星の運動を説明することができたからでした。むろん、コペルニクスの錬金術やプラトニズムへの関心、太陽崇拝への傾向も考慮すべきでしょう。つまり、コペルニクスにあっては(驚くことに、彼に続くティコ・ブラーエやケプラーもそうだったのですが)宇宙は太陽を中心に静謐な秩序だった体系を持つべきであるというピュタゴラス的プラトニズムから抜け出ることはできなかったのです。

 

 ブルーノは、無限な宇宙では固定的な中心は存在しえず、すべて相対的な関係に置かれているのだから、地球を中心に考えることもできれば、太陽を中心に考えることもできる、また他の星を中心に考えることもできる、と言っています。ブルーノのこの考えは、宇宙そのもの、その無限性を感ずるところから生ずるので、「不動の天圏」を想定したコペルニクスとは根本において違っています。

 ブルーノの哲学は、この驚くべき宇宙への賛嘆から始まります。宇宙は神秘的な美しさに満ちています。「神的なるものをわれわれの眼前に彷彿させるこの宇宙ほど美しいものがはたしてほかにありうるだろうか?」

 しかし、宇宙が無限であることはいかにして我々に知られるのでしょうか。実は、それを知ることは我々には不可能なのです。感覚でそれを知ることはむろんできません。感覚は我々が見ることのできる範囲を超えることはできないからです。理性はどうでしょうか。無限に続く自然数の列というものを我々は考えることはできます。いや、厳密にいえば、それも不可能で、何兆何億の先にさらに理性はそれ以上の数の列を考えうるでしょう。実は無限を比量的理性で捉えようとする限り、それは有限の世界に落ちていってしまうのです。クザーヌスは、それゆえに、宇宙は無限ではない、と言いました。彼によれば、宇宙は展開された無限であり、そのような仕方でのみ無限なのです。本当の無限は神のみにあり、神こそすべてにおいて有限を超越する全的無限といえる、というのです。ここで、ブルーノはクザーヌスとも袂を分かちます。ブルーノによれば、我々は神については語りえない、それは我々の限界を超えているから、というのですが、しかし、神は無限の中に、無限を通して我々に感じられるのです。どういうことかというと、我々は無限を知ることはできないが、無限は有限との切点において、その有限の中に無限自身を映すというのです。これこそ自然の中に映り出た神にほかなりません。「宇宙の無限はその限界である」という言葉は難解ですが、要するに神を思い、神に向かうクザーヌスに対し、コペルニクスは無限に向かい、無限こそ神であると思うのです。ただし、この神は我々には無限と有限との切点において「宇宙霊」という形をとって万物の生命、活動の根幹を形成します。

「ブルーノ哲学の主題はこの無限者にあった」と清水純一は書いています。「無限者は我々の理解を絶しながら、しかも我々は無限者に問い続けずにはいられない。我々には無としてしか映らぬ無限者こそ、ブルーノにとってはしかし真実在であった」これに対して我々の世界は影に過ぎません。この、世界が影である、という自覚を通してのみブルーノの思想は成立するのです。

 

 ここからブルーノの有名な「イデアの影」についての考えが生れてくるのです。彼によれば、万物の原理は三つあり、それは神と自然と技術(アルス)である、ということです。神(イデア)を我々はむろん直接見ることはできません。しかし、神は自然を通して、まるで太陽の光が物体に当たってその影を作り出すように、自然の中に映り出るのです。「神は自然万物のうちに、また、うちにしか存在しない」という言葉の真意はそこにあります。ブルーノのうちにはパドヴァ・アヴェロエス主義に淵源を持つ自然重視の思想があり、それによれば、自然は神に至る媒介に過ぎぬがゆえに軽視されるのではなく、媒介であるがゆえに重視されるのです。人間はその技術(アルス)による自然の探求を通じて神を知ろうとするが、自然という厚い壁は人間がそれに近づくことを峻拒します。しかし、真理に憧れる人間は、狂おしいまでの情熱でこの神的秘密を探り当てようとします。

ここで、ブルーノはギリシア神話のアクタイオーンの運命を私たちの中に呼び覚まします。狩の途中で水浴中のアルテミス女神の裸身を見たアクタイオーンは女神の怒りに触れて鹿の姿に変えられ、自分の犬に八つ裂きにされて死んでしまいます。アクタイオーンは神性なる美を狩ろうとする知性を、その猟犬とは思惟の働き、つまり理性を意味します。アクタイオーンはまだ経験に乏しい若者で、深い森の中を獲物の足跡を追って進んでいきます。この足跡はイデアへの道で、よろめきながら歩いた先に、ついに若者は訪れるものとて稀な森の奥の沼の面に輝く裸身が映っているのを発見するのです。それは、世界という鏡の上に映り出た裸の真理の姿、神性の光り輝く姿でした。そして、愛が愛する対象を愛されるものに変身させるように、美を求める者はその行為によって自らを対象と同じものに変えていきます。これは一つの自己否定、自己転換なのですが、こうして美しい鹿の姿に変身したアクタイオーンは、それを捉えることのできない理性である自らの猟犬によってかみ殺されてしまいます。この時、彼はそれまでに探し求めてきたものが実はほかならぬ自己の中にあったことに気付くのです。すなわち、神を美を無限を洞察するとはカバラの「死の接吻」ともいうべき一種の生まれ変わりをも意味するとされたのです。

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