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2008年10月15日 (水)

清水純一『ジョルダーノ・ブルーノの研究』(1)

 かつて、異端という言葉がこれ以上になく輝いていた時代がありました。学生だった私たちは、「正統」なるものすべてに疑いの目を向け、「異端」に憧れ、その雰囲気に酔いさえしていたのです。そして、清水純一『ジョルダーノ・ブルーノの研究』(創文社)や荒井献『原始キリスト教とグノーシス主義』(岩波書店)、高橋巌『ヨーロッパの闇と光』(新潮社)、辻惟雄『奇想の系譜』(美術出版社)などを、それこそむさぼるように読みました。その中でも異端中の異端、ジョルダーノ・ブルーノについての清水純一の本は、私に、ルネサンスについての統一的で鮮明な知識と驚きを与えてくれました。清水はその後岩波新書から『ルネサンスの偉大と頽廃』を出しましたが、これも鏤骨の作品です。

 

 1600年、ローマのカムポ・デ・フィオーリ(花の広場)で、ジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)は裸にされ、柱にくくりつけられ、火刑の煙とともに死んでいきました。それを目撃していた一旅行者の手紙によると、ブルーノは死の恐怖にも全く臆せず、「私に宣告を下しているあなた方のほうが、宣告を受ける私よりももっと怖れているのではないか」という言葉を残して、従容として死んでいった、ということです。「いささか作り話じみてみえるけれど」と清水純一は書いています。「そして、またしばしば反駁も試みられてきたけれども、これらの記録が事実であったことはほぼ間違いない」

 

 ブルーノは信念の人でしたが、ヴェネチアで逮捕され、ローマに送還されて八年に及ぶ拘留生活の間に、むろん、さまざまな葛藤、苦悩がありました。すでに、審問の庭に引き出された時から、彼は死と向き合っていたのです。幾度も妥協できる機会が与えられ、実際、何度かは自らの意見を否定したものの、すべて翌日には書面で撤回しています。敬虔なカトリック教徒であると自認していたブルーノは、信仰上の異端を認めるのに躊躇はしませんでしたが、哲学上の自説、世界は無限な宇宙の相対的な一部分に過ぎない、という論を放棄することはありませんでした。それゆえにローマ法王庁は彼に死罪の宣告を下したのです。

 「信仰が生き方の問題であるとすれば、哲学は生の原理の問題であった。世界の真実を理性によって明らかにしようとする哲学にとって妥協の道はない。一つの結論をどんなに外から強制されたとて、納得もできないのにどうして撤回できようか。それはブルーノの全生活が長い苦しい星霜と努力をかけて到達した結論である。そこに構築された世界観はブルーノの生の根拠であり、そこに描かれた理想はブルーノの生の指針である。この理想を捨てて、いったいどこに生きる意義を見出すことができようか」

 

 ブルーノの裁判・処刑は、しばしばカトリック宗教裁判所の圧制の象徴、自由な精神の弾圧による犠牲として考えられがちですが、果たしてそうだったのでしょうか。清水純一によれば、そのような考えは近代の新教側の偏見で、ブルーノ裁判の推移は合法的なものであり、審問の主導人物ベルラルミーノ枢機卿にも、これを裁可した法王クレメンス七世にも法的に誤りはなかった、ということでした。理不尽な暴力も、むろん拷問の形跡も見当たりません。獄舎では十分な食事が与えられ、葡萄酒も自由に飲め、タオルやシーツは週に二度交換され、同房の囚人との会話も制限されなかった、ということです。ただし、読み書きは監視の対象となり、ブルーノは、もっぱら、彼の尊敬するトマスの書を読んでいたそうです。

 審問もきわめて慎重に行われ、ブルーノは次第に異端を認めていったが、二つの哲学的主張だけは最後まで撤回しませんでした。罪を認めても悔悟すれば死罪は免れたのですが、ある時点でブルーノは生の幻想をきっぱり断ち切ったように思えます。最終的な裁決までに悔悟のための40日間の猶予が定められ、ブルーノの場合さらに40日間の猶予の延長があったのですが、彼は沈黙をもって回答し、ついに1600120日に死刑が宣告されました。

 

 ブルーノが信念を持っていたように、ベルラルミーノ枢機卿にもやはり信念があったのです。厳格な異端粛清によってカトリック教会の再興を使命としていたベルラルミーノにとって、教会規律を厳守し、異端者を極刑に処すことは当然の任務でした。だからこそ、ヴェネツィアで審問されていたブルーノを法王の膝下であるローマの審問の場に引きずり出してきたのです。ベルラルミーノは、古き教会教義を過去の死物と変えてゆく歴史の流れを洞察できなかったのか、あるいは彼はそれを知っていて、それゆえに歴史の流れを変えるために死闘しなければならなかったのか、それはわかりません。事実は彼の目指していたように時代は流れ、イタリアはその後久しく秩序と平和の時代を享受することになったのですが、それはまた近代イタリアの停滞性にもつながり、イタリアはいまだにその後進性に悩み続けている、と清水純一は書いています。

 

 ベルラルミーノもブルーノも強固な信念を持っていました。「そして、なおも私はこう問わずにはおれない。人には異なった信念を抱いているという理由だけで他の人間の生存権を抹殺する権利があるのだろうか。人間同士の矛盾を絶対的対立にまで追い込んでつき放してしまう非寛容性にこそ根本的な問題が存在しているのではなかろうか。この悲劇を避けるために努力し、その方向へと進んでゆくときにこそ、人間の知性は生かされ、人間の進歩は確認されるのだ、というべきではなかろうか」

ここには、60年代の学生運動、政治運動を大学の場から対処してきた清水純一の心の叫びがあるかのようです。

 

遺稿集『ルネサンス 人と思想』(平凡社)を編集した弟子の近藤恒一によると、清水純一は1924年福井市に生まれ、東京の府立四中(現戸山高校)から三高・京大に進みました。専攻はドイツ哲学、特にヘーゲルを研究していましたが、広島大学に赴任してから、イタリア・ルネサンスの研究を思い立ち、イタリア語を一から学び始めました。1953年、29歳の時に戦後初のイタリア国費留学生として、汽船ヴィヴァルディ号でイタリアに向かいました。当地で、哲学史家のパオロ・ラマンナの紹介で、エウジェニオ・ガレン教授と出会いますが、この「新しいブルクハルト」と呼ばれたガレンとの出会いが清水に決定的刺激を与えたようです。イタリアでの同僚には、後に『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス的伝統』を書くことになるフランセス・イェイツもいました。清水はその後、ブルーノ関連の資料を求めて、英国のワールブルク研究所やフランス、イタリアの各地を訪ね、帰国した後、わが国初のすべて第一次資料によるルネサンス哲学の本格的研究書である『ジョルダーノ・ブルーノの研究』を発表しました。しかし、心臓に病を抱えていて、数度の心不全の発作は彼に懸案のデッラ・ポルタの研究を続けさせませんでした。加えて、京都大学文学部長として学生運動に心労し、生前わずかニ冊(共著、約書は除く)の本を残して64歳で亡くなりました。

断続的になるかもしれませんが、ブルーノの思想とその諸源泉についてこれから紹介していこうと思います。

 

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