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2008年9月15日 (月)

御田俊一『帝国海軍はなぜ敗れたか』(1)

 高田馬場は学生が多く、騒がしくて、どうもあまり好きになれない街ですが、BIG BOX古本市が不定期に復活したので、仕方なく足を向けてみました。本の質に対して価格の安いのがこの古本市を主催する早稲田古書店の特徴ですが、休日の半日を費やした苦労は十分報われて、何冊も抱えて帰路につきました。早速、家でビールを飲みながら、200円で買った御田俊一『帝国海軍はなぜ敗れたか』(昭和55年・芙蓉書房)を読み始めたのですが、明快で説得力ある筆致はこの種の本の中では出色のものです。著者は1923年生まれで軍歴はないのですが、「日本はなぜアメリカと開戦したのか」「日本はなぜアメリカに敗れたのか」という問いの答えを長年探っていたとのことです。さて、その結論はどのようなものでしょうか。

 

 <なぜアメリカと開戦したか>

 その元凶は「統帥権の独立」にあったというのですが、もともとこの統帥権というものは、当時明治日本が乗り出した弱肉強食の帝国主義時代にあって、必要やむをえぬものでありました。伊藤博文は、厳しい国際情勢を鑑み、万一自由民権派の手に政権が渡っても、強兵策の遂行が妨げられることのないように、陸海軍の統帥と陸海軍の編成と常備兵力量の決定を天皇に帰属させていた、というのです。そして、そのように規定しても、当時の実力者たち、伊藤や陸軍の山県有朋、海軍の山本権兵衛など維新の革命を身をもって体験した者たちは、統帥権をふりかざして政治を混乱に陥れる心配などなかったのです。また、統帥権を担わされた明治天皇とこれら元勲たちとの間にも国家の興亡についての緊密な意思のつながりが存在しました。

 つまり、統帥権の独立は明治のある時期のみに許される非常の規定であるべきだったのです。軍の独走を抑える権威と実力を持った人間と責任感をもった天皇が存在しない時に、統帥権の独立は愚か者の非常識な行動を正当化する役割しか果たさないのです。事実、軍部は右翼と結びついて、テロを匂わせながら政府首脳や天皇までも脅迫し、国民を地獄の底に引きずり込んで行ったのです。

 

 話は日露戦争にまでさかのぼります。この戦いに勝利して、日本は満州の支配権を得たのですが、この時、日本には二つの選択肢がありました。ひとつは、アメリカの民間資本と満州を共同経営していくこと、もうひとつは、満州を独自で経営し、他の列強の中国の侵略的分割支配に参戦していくことでした。もともとアメリカのねらいは中国市場の開放でしたが、アメリカの鉄道王ハリマンは満州の鉄道や炭鉱を日本と対等で経営することを提案し、彼の夢である鉄道による世界一周の実現を期待していました。戦争のために巨額の債権を引き受けてくれたこの大富豪が日露戦争後直ちに妻と随員を伴って来日したとき、日本政府と国民は歓喜でもって彼を迎えました。これは、日本にとって魅力ある提案でした。というのも、日露戦争には勝ったものの、いつロシアが復讐戦に出てくるか不安であるし(日本にはすでにその体力がありませんでした)、そのために世界最強国のアメリカが緩衝国として入ってくればかなり安全になると考えられたからです。さらに当時の日本は日清戦争で獲得した台湾と朝鮮の経営で手いっぱいの状態であり、独力で満州で産業を興す底力はまだありませんでした。

 

 こうして、政府や元老井上馨、実業家渋沢栄一らの同意の下に日本政府とハリマンとの間にシンジケート設立の合意書(桂・ハリマン覚書)が交換されたのですが、これが、そのまま進展していたら日本の将来はどうなっていたでしょうか。第二次大戦後アメリカとの友好のもとで経済発展したことを考えると、恐らく順調に日本は工業力をつけ、経済的な進展とともに武力に全霊を注ぐこともなく、したがって太平洋戦争もなく国民の運命はこれほど悲惨な道を辿ることもなかったとも考えられますが、あるいは御田俊一も言うように、敗戦そして民主主義という洗礼がこの国民にはやはり必要だったのでしょうか。

 

 さて、ポーツマス会議から帰国した外相小村寿太郎は、この覚書のことを知るや否や関係各所に猛然と圧力をかけ始めます。この小村寿太郎、そして小村の仲間である満州派遣軍総参謀長児島源太郎、台湾総督後藤新平らは、維新の時にまだ少年であり、智謀の限りを尽くして日本を作ってきた慎重な維新の元勲たちとは違い、冒険主義的ではるかに積極性に富んでいました。彼らは、当時、台頭してきた一つの集団の意見を代表していたのです。つまり、いたずらに列強の侵略を待つより、進んでそれに参加することにより国の独立を保とうとしたので、そのためには南満州鉄道を大陸経営の基本として排他的に独占し、他の先進国の仲間入りをしようとしたのです。

 この考えはわからぬではないし、いやむしろ当然かもしれません。アフリカなどは十九世紀の最後のわずか25年間にその八割が列強の支配下に入っています。隣国の中国も食い荒らされてもはや独立国の体をなしていません。ロシアを破って、一等国への切符を手にしたと思った日本が満州の共同経営案を拒否する下地も確実にあったのです。しかも満州独占派の小村寿太郎は、誰もが尻込みするポーツマス全権大使を引き受けたことで政府に大きな貸しがありました。負けたと思っていないロシアは賠償金を一銭も払わず、戦費をまかなうため苦しんだ日本国民は、各地で暴動を起こし、ついに戒厳令が敷かれる有様となったのですが、その非難の矛先は全権の小村に向けられると思われたからでした。

 小村は八方手を尽くして桂首相に覚書の撤回を承諾させ、すぐにワシントンに帰っていたハリマンにその報がつたえられました。

 

 結果はどうなったか。日露戦争では多額の外債に応じたり、講和会議を仲立ちしたアメリカは一転、裏切られたと思ったのか、日本に対する反感は翌年のカリフォルニアでの排日運動から日本人労働者の入国制限にまで発展しました。これ以降、アメリカはその極東政策の敵手として日本を考えるようになります。(軍事的相手としてはまだ取るに足らぬものと思っていたのですが)

 そして、独力で為しうると考えていた満州経営はどうなったかは歴史の知るとおりです。満鉄は経営したものの資本と技術の不足から重工業はついに発展せず、太平洋戦争においても満州は戦力増強に益するところまことに少なかったのです。

 

 すでにこの時から、日本の政府、軍部には大きな錯誤が、つまり日露戦争の勝利による国力の過信がありました。日本の後ろ楯となった英米の存在、差し迫ったロシアの革命の動き、首都から遠い極東での戦い、海戦に弱いロシア人の気質など、冷静に見れば最初から勝つ公算の大きい戦いだったのです。それでも日本海海戦であれほどの勝利がなかったら、シベリア鉄道で送られてくるはずの新手の敵軍で戦争はどうなっていたかわかりません。となると、東郷平八郎の武勲(ネルソンと並んで史上最高の提督といわれています)は、アジアと日本の運命を大きく変えるものとなったので、もしその勝利がよくあるように判然としないものであったら、日本はこれほど傲慢にはならなかったでしょう。「米英連合艦隊一時に来襲するも恐るるに足らず」「米英一呑み」とか、後に大言するようになる下地はこの時にできたのです。旗艦三笠からして英国製だし、技術はほとんどすべて輸入で、粗鋼生産高など比べることの不可能なほど微小だったことの謙虚な考察は見られません。

 

 日英同盟はまだ維持していたものの、アメリカとの離反は避けがたかったのですが、やがて西欧諸国は第一次大戦に突入して、極東は一時的に視界の外に置かれます。日本がこの大戦に本格的に参戦しなかったことが、近代戦の苛酷さ、戦争技術の進歩の速さなどへの認識の決定的な立ち遅れをもたらした、といわれています。ワシントン条約は、大戦のもたらした悲惨さを教訓とし、軍備拡張による財政の負担を制限するために開かれましたが、英米日の主力艦5.5.3という割合は出席者ほとんどの賛同と感激の拍手で決定した、といわれています。日本全権の加藤友三郎海相は、対米七割を固執する全権顧問加藤寛治中将を抑えて、対英米六割を受諾しました。加藤友三郎は会議後次のように語っています。まず、自分は近年悪化しつつある日本とアメリカの関係を良くしようという意図を持っていたが、提案の比率には驚いた。しかし、よくよく考えてみると、これは日本には好都合なのではないか、というのも財政上、日本は新艦製造競争に参加できず、逆にイギリスはともかくアメリカは必要とあらばいくらでも戦争準備を遂行する実力がある。その場合、とても5,5,3という比率ではおさまらないだろう、と。彼は、また、国防は軍人の占有物ではなく、軍人大臣を廃して文官大臣制を設けるべきだ、とも言っています。残念なことに、加藤はこの2年後首相在任中に急死してしまいました。

 

 ワシントン条約には、同条約成立の八年後に再び会議を持つことが決められていたので1930年、今度は補助艦の比率を決めるロンドン会議が開催されました。ところが、このロンドン会議の調印をめぐって日本国内では大騒動が持ち上がったのです。加藤友三郎はすでに亡く、強硬派の加藤寛治は大将に昇進して海軍軍令部長にとなり、同次長の末次信正とともに会議の初めから補助艦七割を要求していました。米英側は比率10,10,6.97まで譲歩しましたが重巡洋艦六割は譲りませんでした。全権の若槻礼次郎はこの案を受諾し、国内では首相浜口雄幸が加藤友三郎の正論を再び開陳して加藤寛治らの強硬派を諌め、正式調印にこぎつけました。しかし、ここでこの条約の批准をめぐり、野党政友会の総裁犬養毅、枢密院の伊東巳代治らは民政党の政府攻撃の材料にこの問題をとりあげます。国会の壇上に登ったのは鳩山一郎で、彼は国防計画は統帥権に属するのに政府が軍令部の反対を押し切って調印したのは不当であるという論法で政府を攻撃しました。まさに浅慮短見の極み、政治家は軍を政治の主導の下に置くことこそ肝要なのに、自党の利益のみ考えるとは言語道断です。そもそも財政上の大問題である国防計画を軍令部が勝手に決めることこそ問題だったのです。

 

しかも、政界のこの動きは海軍の強硬派を勢いづけ、加藤寛治軍令部長は政府攻撃の上奏文を天皇に奉呈し、参謀の草刈少佐は抗議の切腹自殺、など問題はますます大きくなりました。しかし、ライオンと呼ばれた首相の浜口雄幸はひるまず、ついに批准案の可決に成功しますが、批准の翌月、浜口は東京駅で右翼青年にピストルで襲撃され翌年死亡します。翌年、満州事変、その翌年血盟団による井上準一郎民政党幹事長と三井の大番頭団琢磨の暗殺など、世はとんでもない方向に走っていきます。「これらの源を探ると、鳩山一郎や伊東巳代治の愚挙もさることながら、憲法における統帥権の独立の規定のなせる所が最も大きいと考えられる」と御田は書いています。

 

ここから1934年のワシントン条約破棄、無条約時代の突入、太平洋戦争の開戦まで道はまっすぐに続いています。加藤友三郎の流れをくむ海軍正統派の岡田啓介は、加藤寛治・末次信正の一派を抑えようとしますが、軍令部、青年将校、右翼勢力らは、五・一五事件の再発を脅しに使って政府を恫喝しました。これが政府の協調外交派を無気力にしたのは間違いありません。

 

それにしても、軍縮条約破棄とは海軍軍令部は何を考えていたのでしょうか。軍令部は条約破棄にあたって、アメリカに1010という絶対受け入れられない条件を提示していました。日本の十倍の国土と富を有する国が軍備を平等にする理由など公平に見て全くありません。では、海軍は軍縮条約体制からの脱退によって、どのように国防の安全を強化しようというのでしょうか。この点について天皇は軍令部長に「対米均等権を要求するときは会議は決裂し軍備競争が再開されるが、そうなれば対米均等はもとより不可能ではないか?」とするどい質問をしています。軍令部は、自由競争になれば日本に適した艦を建造でき、特徴ある兵力を整備できるのでかえって経済的だとわかりにくい説明に終始したのですが、実はこの謎のような答えを解く鍵はむろん大和・武蔵の超大型戦艦の建造だったのです。このマンモス戦艦によってアメリカ海軍の機先を制し、西海岸のドックで建造される大型艦はパナマ運河を通過できないので、他日アメリカが追いつこうとしても十分水をあけられると考えたのです。

 

不思議なことに、日本海軍は、無条約時代に突入しても、各国は軍縮時代とさして変わらぬ行動をとるだろうと考えていたらしいのです。例えばワシントン条約で艦齢が20年までの艦は新規造船が認められない(ロンドン条約で26年に延長)とされたのですが、これによって各国も艦齢を重視して新艦建造を控えるだろうと独断していました。無条約時代になればそんな規定に全く意味がないことに気づいていないのです。誤算はアメリカの建造能力、意欲を下算していたことにあるのです。海軍は条約廃棄後十年はアメリカに優位に立てると楽観したのですが、アメリカが海軍大拡張計画を決定して新式艦を続々建造し始めるのに遭遇して真っ青になりました。

 

軍事力の充実はもちろん国力の充実によるものですが、日華事変以降、民需を削って軍需に回していたため日本の基礎国力は下がりつつありました。しかも中国大陸に百万もの兵を派遣して国内の労働力を奪うと同時に若い技術者や熟練労働者を構わずに召集したために軍需工場の生産技術は低下していました。そのため、アメリカとの軍事力の差は質・量ともに絶望的なまでに開き、海軍自身の計算でも昭和十八年には日米艦艇の勢力比は対米三割にまでなるだろうと予測されていました。このような事態は海軍の条約脱退派には思いもよらぬことで、あれほど強気になって条約破棄を主張した海軍の責任が強く追及されるのは間違いありません。また、陸軍はこれ以上の海軍軍備増強策を承認しないだろうし、対米三割ともなれば勝てるはずのない戦争の準備をするよりは対ソ増強計画のため陸軍の予算を強化するだろう、結果として海軍は陸軍の下位に甘んじるだろうと思われたのです。

 

ここで、立場のなくなった海軍に起死回生のチャンスが一つ残されていました。それは思い切って対米戦争に突入することで、そうなれば陸軍も国民も戦争に引き込むことになり、海軍単独の責任から逃れられるだろうと考えたのです。すでに条約破棄を想定して制限を大幅に超える改造と建造を実施していたことで、あと1,2年は対米八割を維持できると予測していました。さらに、中国大陸における零式戦闘機、中型攻撃機の活躍、やがて完成する大和への期待などが、「座して死を待つ」より国民を巻き込んでのとんでもない博打に海軍を駆り立てたのです。結果はどうなったか。海軍上層部は多く安全な場所に退避し、初年兵、学徒、若き未熟な航空兵を次々に危険な戦地に駆り出して殺し、自らは戦後ものうのうと生き延びているのです(海軍からA級戦犯で極刑を言い渡され者はなく、わずかに岡、嶋田の二名の海軍大将が終身刑になったのみ)。

 

 さて、巻き込まれた陸軍はどういう対処をしたか。実は、軍のために国民を犠牲にするのは陸軍もすでに行ってきたことで、ここでは同病相憐れむというか、すでに陸軍は中国大陸で勝てなくなっていました。中国軍は予想以上に強く、日本は外国からの補給路を断てなかったのです。ここで、対米戦に踏み切り、インド洋を制してアメリカの補給路を遮断し、ドイツのイギリスへの進撃を待てば活路を見出せると考えたのでしょう。陸海軍とも、緒戦でアメリカを叩いて戦意を喪失させれば、しばらく暴れまわったあとで、ポルトガル、スウェーデン、法王庁あたりに終戦工作を依頼できると考えたのだから呆れます。国内ではすでに軍を統御できる人物もなく、ここでこそ統帥権を発揮できる天皇は全く無力でした。チャーチルは『第二次大戦回顧録』で、ドイツとの開戦を決意した時、もし敗れればロンドン塔で絞首刑になる覚悟をした、と書いています。それだけの決意が天皇にあれば事態はまだ違ったものになっていたかもしれませんが、ともかく国民を守るべき軍隊が、自らの存在を守るために国民を犠牲にするのでは、壊滅するのも当然といえましょう。

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