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2008年9月24日 (水)

御田俊一『帝国海軍はなぜ敗れたか』(2)

<戦いの経過>

 連合艦隊司令長官山本五十六は軍政家としてはともかく、指揮官としては無能だったといってよいでしょう。真珠湾攻撃は現在に至るもその決定の是非が問われていますが、これは難しいところで、アメリカの戦意を高揚させたというマイナス面はあるものの、真珠湾攻撃の決定そのものは山本五十六の戦績の中で唯一擁護できるものではないでしょうか。

 山本は若き日、海軍士官としてハーヴァード大学に留学し、後にアメリカ駐在武官を務め、アメリカという国の社会的、文化的強さを生活のレベルで実感していました。戦争をしたら、まず絶対に勝てない相手。そういう相手を敵に回して勝つためには奇襲しかありません。よく言われるように、彼は第一レースに賭金のすべてを注ぎ込んだのです。これは確かに理屈に合った考えで、危険だが少しの弱気も許されないぎりぎりの戦いでは当然のことといえます。

 しかし、山本にはその決意をとことんまで実行する強さが欠けていました。10倍以上もの富と軍事力のある相手ではあるが、しかし、熟練したパイロットと艦隊乗組員の養成には1,2年の期間がどうしても必要です。だから、真珠湾周辺に米国太平洋艦隊のほとんどすべての航空兵、艦載乗務員が集まっていたその日に徹底して攻撃を継続し、全滅させるか捕虜にしておかねばならなかったのです。そうすれば、少なくとも一年半は日本は太平洋をわがもの顔に暴れまわることができたでしょう。

 ところが、山本は、戦艦五隻撃沈、補助艦18隻破損、航空機(ほとんど地上機)479機使用不能の「大戦果」を確認すると、何と全艦隊を引き上げてしまうのです。連合艦隊の幕僚たちはほとんど全員一致で再攻撃の指令を出すよう要求していましたが、山本は「泥棒だって、帰りはこわいんだ。ここは機動部隊指揮官に任せておこう」とその要求を拒否しました。その機動部隊司令官は三ヵ月後のインド洋海戦でも途中で引き返してしまう弱将の南雲忠一中将でした。最も肝心の石油タンク(アメリカが必死に貯めた450万バレルの重油が入っていた)、戦艦の修理ドック、周辺にいた二隻の空母は全く無傷で残されたのです。もし、再攻撃を行い、石油タンク、修理ドックを破壊し、真珠湾に向かっていた空母を待ち伏せして撃沈し、さらに比叡・霧島の二隻の戦艦を真珠湾に近づけて強力な艦砲射撃で港を壊滅しつくし、基地の戦闘員を殲滅していたら太平洋戦争の帰趨はどうなっていたかわかりません。

 

 アメリカ太平洋艦隊指令長官ニミッツは、真珠湾の損害は思ったよりもはるかに軽徴だった、撃沈された戦艦は旧型のもので、熟練した乗組員を新型の戦艦の方に回すことができてむしろ幸いだった、と語っています。結果的には、真珠湾攻撃はアメリカの復讐心に火をつけ、猛烈な反撃を引き起こさせたことで失敗となりました。そして、なにより日本に不運だったのは、その戦果があまりに誇大に伝えられ、司令長官の山本五十六が神がかり的な崇拝のオーラをまとってしまったことです。続くマレー沖海戦でも英国戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋艦レパルスを海底に葬り去ったことで、あろうことか楽勝気分まで起こってきたのです。信じられないのは、すでに重油不足を覚悟の上で開戦に踏み切ったにも関わらず、真珠湾から帰港して来る機動部隊を出迎えに長門・陸奥の戦艦以下連合艦隊の20隻の軍艦が小笠原沖まで出ていったことで、これは出航手当をかせぐためだけだったと非難されても仕方ないでしょう。

 

ここから一気にミッドウェーの惨敗まで行くのですが、その前にインド洋海戦と珊瑚海海戦がありました。地中海でイタリア艦隊を制圧したイギリス艦隊はセイロン島で日本軍の上陸作戦に備えて待機していました。旧式戦艦五隻、空母三隻を含む三十隻の大艦隊でしたが、対する日本も英国製の高速戦艦金剛以下四隻の戦艦と五隻の空母を擁していました。イギリスが旧式の複葉戦闘機が主だったことを考えれば、南雲機動部隊にとって絶好のカモだったはずですが、何と小型空母一隻、重巡洋艦二隻を撃沈しただけでさっさと引き上げてしまいます。わずか四十浬のところにいた英国艦隊主力は全くの無傷でした。敵の息の根を止めるチャンスがあれば徹底的にやらなければ勝てる戦争ではないのにです。ここで、英国艦隊を叩いておけば、すでにマレー沖で主力艦2隻を失っている英国艦隊は壊滅したでしょう。我が身が無事なうちに引き揚げることはこの戦争においては日本海軍のお家芸でした。米海軍のハルゼー提督は「日本軍は怖くない。優勢でもすぐ引き揚げるから」と言っていました。

このインド洋海戦は重要な戦いで、ここで英国艦隊を追い払えば、アメリカの対ソ武器供与ルート(イラン・ルート)を遮断でき、ドイツへの巨大な掩護ともなります。さらにアフリカで戦っているロンメルのスエズ進撃をサポートできただろうし、何よりドイツと連絡することで日進月歩の最新の軍事科学を取り入れることができたでしょう。(潜水艦のソナー、艦船のレーダー、高射砲、戦闘機の機銃など、ほとんどすべての分野で日本は立ち遅れていました)

 

19425月に行われた珊瑚海海戦は日米初の空母決戦となりました。南太平洋随一の要衝ポート・モレスビーをめぐるこの戦いに米軍はありあわせの軍艦をかき集め、空母二隻重巡7隻の陣容、対する日本も空母3隻重巡6隻とほぼ互角の布陣です。結果は互いに空母一隻沈没・一隻中破で痛みわけのようですが、戦略的にはポート・モレスビーをアメリカ軍に確保されたことで日本の敗戦となりました。アメリカ艦隊の空母レキシントンは戦闘の一時間後にガソリンが気化爆発を起こし沈没したのですが、幸か不幸か、日本側に幸いしたかに見えるこの事故がまたもや日本側に勝利を謳わせ、深く反省する機会を失わせてしまったのです。南太平洋で圧倒的に優位に立っていた日本は、この海戦でもさらに赤城以下三隻の空母、伊勢以下五隻の戦艦を加えて総力戦でアメリカを全滅に追い込むべきだったのです。兵力を集中して味方の損害を最小にし、敵を個別に撃滅していくのは戦いの基本で、これではアメリカ軍が日本の将官を無能呼ばわりするのも無理はありません。また、マレー沖とインド洋で楽な戦いをした航空部隊がなぜ珊瑚海で苦戦したか、それはアメリカ防空火力の強力さと日本機の防備の弱さにあると認識しなければいけなかったのです。この反省は全くなされずに、次のミッドウェーにつながっていきます。

珊瑚海海戦では日本の暗号が解読されてアメリカ軍に筒抜けでした。これに不審を抱いた艦隊の方で暗号担当者にその旨を申し入れても、担当者は責任を恐れて、絶対大丈夫と突っぱねたというのです。「そういう無責任な担当者を、直ちに入れ替える位の人事の弾力と、物事に対する新鮮な感受性が無くては、アメリカ相手の戦さには無理だったと思われるが、日本海軍は長い天皇制の下に、スッカリ硬直化し、かつ官僚化してしまって、もはや近代戦に勝ち抜けない体質になっていたらしい」と御田俊一は書いています。

 

そして、ついにミッドウェーの戦いが訪れます。19424月、東京から1200キロに近づいた空母ホーネットからドゥーリットル中佐率いる16機のB25ミッチェル爆撃機が飛び立ち、東京・神戸・名古屋・横浜を爆撃して、中国本土に着陸するという離れ業を成功させました。精密な計画と大胆な行動、そして何より勇敢さを示したこの行動は太平洋戦争のターニングポイントとなりました。日本の被害は微々たるものの、連合艦隊司令長官山本五十六は深く衝撃を受け、直ちにハワイ近海にあるミッドウェー島を攻略し、敵艦隊をおびきよせて壊滅し、引導を渡してやろうと決意したのです。敵基地のすぐ近くの危険な戦いについて、日本の軍令部は強く反対しましたが、緒戦の戦果以来威望絶大な山本長官の言には逆らえませんでした。戦略的価値のほとんどないミッドウェーよりも、対ソ援助ルートの遮断や米濠間の切断のため南太平洋からインド洋を制圧する方がはるかに急務でした。東京を爆撃されたのでは天皇にすまないと山本は考えたのですが、戦争に負ければすまないどころではありません。天皇へのそんな余計な配慮をしながら勝てるほどアメリカは甘くありません。

 

ところが驚いたことに、この辺りでは帝国海軍は勝利感と安易感に満ちていました。宇垣参謀長の日記には「皇軍の向ふ所敵無く、、、反枢軸国凡ての智将、勇将、猛将を網羅し来るとも我何をか惧れん」などと記してあります。実際のところ、ミッドウェー海戦直前の時点では日米の水上艦隊の戦闘力は問題にならぬほど開いていました。日本は空母8隻、戦艦11隻、重巡17隻、軽巡11隻を含む350隻の大艦隊でミッドウェーに向かいましたが、対するアメリカは空母3隻、戦艦なし、重巡7隻、軽巡1隻、全て合わせてわずか57隻で、集められるだけ集めてこれだけだったのです。暗号は解読されていたものの、どうやっても負けようのない戦いでしたが、結果は最精鋭空母四隻、航空機322機を失うまさに歴史的大敗を喫したのです。

 

敗因はやはりアメリカ軍の戦意、実力を甘く見ていたというほかはありません。すでに、それまでの戦いで、アメリカのグラマン戦闘機のしぶとさ、艦の対空火力の強力さを目の当たりにしていたのに全くその経験が生かされていませんでした。アメリカ軍は、珊瑚海海戦と同様、濃密な守備体系を作っていたのに、日本軍は10以上に分散し、しかも二隻の空母を陽動作戦としてアリョーシャン列島に向けるとは兵力集中の原則を無視した全くの愚策でした。しかも、山本長官の旗艦大和・長門・陸奥以下の主力艦隊は機動部隊の500キロ後方から大名行列のように進むだけで支援どころか何の役にも立たなかったのです。戦闘の中心はむろん空母を中心とする機動部隊ですから、その空母を守るべく(空母は非常に防備の弱い艦船です)戦艦・重巡が周囲を輪形に固めねばならなかったのです。

どうも楽勝気分で、このままでは勲章がもらえないことを心配して儀装中の武蔵を除く全艦隊がぞろぞろ出陣してきたようです。この海戦だけで連合艦隊の一年分以上の重油を消費し、あげくは熟練したパイロットを含む3500名を失いました。「山本に期待するのは無理としても、彼の指揮はひどすぎた」と御田は書いています。

 

ミッドウェーの大敗後、さすがに山本長官も憂色に沈んだようです。しかし、開戦時の優秀なパイロットの半数を失い、精鋭空母がほぼ壊滅したその時点でも太平洋の彼我の勢力はまだ日本の方がはるかに優勢でした。決定的な敗戦はガダルカナルとそれをめぐる三度にわたるソロモン沖海戦で、これにより攻守ところをかえて、アメリカのワンサイドゲームになってしまうのです。「ガダルカナルは島の名ではなく、感動そのものである」とサミュエル・モリソンは言っています(『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』より引用)。わずか一本の滑走路をめぐって、六ヶ月にわたり繰り広げられた戦いは日本軍の必死の撤収によって幕を閉じました。アメリカはエンタープライズなど三隻の空母と新型戦艦ノース・カロライナを含む全力の布陣、今度こそ日本が願っていた艦隊決戦で決着をつけるチャンスと思われたのに、大和・武蔵・長門・陸奥以下の大型戦艦はトラック島や柱島の泊地に停泊したままでした。大和、長門の巨大な砲があればガダルカナルの米軍基地を焦土にするなど朝飯前であり、アメリカ軍唯一の頼みの綱である輸送船団も全滅にできたでしょう。そして、肝心の米濠遮断も成し遂げえたはずです。まさにガダルカナルは、日本の陸海軍双方にとって天王山だったのです。

陸軍の辻政信参謀はガダルカナルの窮状を訴えるためにトラック島に飛んで、大和に坐乗していた山本長官を訪ねました。ところが、山本は広々とした大和の冷房の効いた部屋でのんびり過ごし、井上成美中将は涼しげな夏の着物と絽の袴姿だったといいます。辻はガ島の地獄絵図を思い感慨に耐えなかった、ということでした。

 

ガダルカナルが終われば、後はアメリカの高い生産力によって新型艦、新鋭戦闘機が続々と参戦することになり、万に一つも勝てない状況に日本は追い込まれました。この時からいつ降伏してもおかしくなかったのに、ひたすら精神主義を打ち出して、最後は特攻という暴挙に出たのはなんと愚かだったことでしょう、死んでいくのは皆まだ成年に達しないような新兵ばかりだったのに。吉田裕『アジア・太平洋戦争』(岩波新書)によれば、太平洋戦争の死者の大部分はマリアナ沖海戦の後に生じているとのことです。統計の残されている範囲では、87パーセントの戦死者が終戦までの一年余の間に発生しているのです。悲惨な沖縄戦、東京大空襲、広島・長崎の惨禍を思えば、アメリカ相手の戦争に勝てなかったのは仕方ないが、せめてもっとましな負け方をしてくれたらと思ってしまいます。

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