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2008年9月24日 (水)

御田俊一『帝国海軍はなぜ敗れたか』(3)

<なぜアメリカに敗れたか>

 辻政信が大和を訪れたとき、山本五十六と井上成美が冷房の効いた部屋で寛いでいた、と先に書きましたが、山本も井上も海軍きっての戦艦不要論者でした。戦艦不要論が彼らの場合、戦艦を出撃せず「大和ホテル」として司令官たちの心地よい居住場所とする言い訳になっているのです。戦艦不要論、航空隊重視の論は当時もすでに声高に言われていた意見ですが、はたしてそれは正しかったのでしょうか。米太平洋艦隊司令長官のニミッツ提督は作家児島襄の質問に次のように答えています。

 

 児島「アメリカ海軍は、開戦当時、すでに海戦が空母を中心とするように思っていたか。いいかえれば制空権イコール制海権と見抜いていたか?」

 ニミッツ「制空権イコール制海権? とんでもない。空と海とは別物だ。制空権は、制海権獲得の重要な要素にはなり得ても、それだけで制海権は確保できない」

 児島「すると閣下は太平洋艦隊司令官となられた際、やはり戦艦で日本艦隊と戦うおつもりでしたか?」

 ニミッツ「もちろんだ。それが海軍というものじゃないかね」

 

 確かに、アメリカ海軍の戦艦の活躍は凄まじく、隙があれば日本艦隊の手元にまで食い込んできました。第二次ソロモン海戦で、戦艦ノース・カロライナは空母エンタープライズのすぐ後方に陣取り、恐るべき対空砲で日本軍の攻撃機を全く寄せ付けませんでした。またサイパン、硫黄島での海兵隊上陸の前の破壊力ある艦砲射撃は日本軍の反撃の意欲をほとんど失わせるほどのものでした。

 対して、わが連合艦隊の主力である大和・武蔵・長門以下の戦艦は、ミッドウェー海戦に500キロ後方からなにもせず「支援」した以外、ほとんどトラック島や柱島の泊地から動かず、すでに勝敗が定まったレイテ沖海戦で仕方なく重い腰を上げたのです。そこで武蔵はあえなく撃沈、大和は主砲から百発の砲弾を放ったものの一発も命中せず、半年後無謀な沖縄特攻の途上で2500名の乗組員とともに海底の藻屑と消えたのです。

 

 なぜ、大和・武蔵・長門・陸奥の超大型戦艦は最後の最後まで戦わなかったのか。燃料が足りなかったという言い訳は通用しません。なぜなら大和は停泊しているだけで大量の重油を消費するし、大型艦は小型艦よりも動き出せば燃料効率は高いはずです。理由の一つは、山本長官以下首脳陣が戦艦の役割を強く認識していなかったことが挙げられます。戦艦は不要になったのではなく、その役割が変わったのです。ガダルカナルは、大和以下大型戦艦がズラリと並んで徹底的な艦砲射撃を続ければすぐに落とせたのではないでしょうか。敵主力舞台が迎撃してくれば、それこそ望むところ、大和が本当に世界一の戦艦なのか証明できたはずです。御田俊一はアメリカの誇る大型戦艦アイオワと大和を比較して、スピード、防護力、攻撃力など総合力ではアイオワに軍配が上がるが、砲艦決戦になれば大和が勝利するだろう、と書いています。大和の実力を存分に発揮してもらいたかったのですが、実際は巨億をかけて建造されたこの世界最大の軍艦は、山本長官以下高級将官たちの快適なホテル以上の役割を果たしませんでした。

 

 大和が出撃しなかった本当の理由は実は日本海軍に深く根ざす病弊にあったのかも知れません。日本の海軍は、勝海舟が創り、山本権兵衛が育てたといわれますが、この二人は世界の情勢、日本の立場によく通じていましたが、同時に幕末の豪傑にふさわしく、一種反骨の精神がありました。ところが、英国式のエリート教育による海軍兵学校が生み出してきた新しい軍人たちは、閉鎖的な海軍同族意識をその根底に持ち、その共通認識は組織の安定と既得権益の尊重でした。組織の序列は兵学校卒業年次と卒業時の席次(ハンモックナンバー)に厳密に決められ、抜擢人事は上に上るほど皆無となります。真珠湾で気弱な指揮をして大魚を逃した南雲忠一司令官・草鹿龍之介参謀のコンビは、インド洋海戦でも英国艦隊の息の根を止めるチャンスを逃しています。このような弱将はすぐに解雇するべきなのに、何という事か、ミッドウェーでも司令官を務めて日本の運命を変える大敗北を招きました。草鹿参謀長は山本長官に対し、「大失策を演じおめおめ生きて帰れる身に非ざるも如何にか復讐できるよう取り計らっていただきたい」と懇願して、あきれたことに山本長官は再びこの二人を機動部隊の司令官と参謀長に帰り咲かせているのです。

 

 アメリカ軍は、弱将や怯将はどしどし交代させて、太平洋戦争で20人以上の将官をクビにしています。平時は主に年功序列だが、戦時になると、有能とみればどんどん抜擢し、弱将とみれば降格させるのです。これは、合理的なシステムで、というのも、戦地に出てみないと軍人の本当の資質はわからないからで、会議や演習で威勢のいい人間も、いざ生死のかかった場面では全く別人になってしまうことがよくあるからです。「兵学者は必ずしも実戦のすぐれた指揮官ではなく、いわゆる人格者は必ずしも立派な第一線の指揮官ではなかった」(奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』)

 大事なのは、勇怯がわかった時点でただちに交代しうるシステムを作っておくことで、これはその組織がいかに多様な人的資源を包含しうるかにかかっています。勇猛でならした太平洋艦隊のハルゼー大将は、アナポリスの海軍兵学校に入れないほど高校の成績が悪かったのですが、母親がホワイトハウスにまで行って談判し、入学させてもらったということです。(中公新書『零戦と大和』)

 

 これは日本では考えられないことで、高木惣吉は『太平洋海戦史』で、「わが太平洋戦争中にあっては、実戦によって見出された指揮官の異常なる能力よりも、士官名簿の順位のほうが遥かに重要な要素であって、たとえネルソンあり、ナポレオンがあったとしても、彼等の年齢では決して戦略問題に容喙する地位に就けなかったろう」と書いています。そして、機械的公平主義、無批判栄転主義が横行し、突出した才能などむしろ遠ざけられ、美点よりも欠点のないことがその人物をはかる尺度となってきます。「一度び将官になってしまえば、勝敗も勇怯も、そして実戦の指揮能力も昇進に関係ないことになり、ということになると、命令しやすい航空隊や水雷戦隊にばかり出動を命じて、自分は出不精になるのは当然だったのだろう」と、御田俊一も書いています。戦時には平時と全く違う昇進規定が必要なのに、ぬるま湯の公務員的体質から抜け出られないところに問題がありました。

 つまるところ、自分も弱将なので、弱将を批判するとわが身にもその火の粉はふりかかってくるというわけです。最大の責任者といえば、連合艦隊司令長官山本五十六をおいてほかになく、ミッドウェーの敗戦で当然辞職して然るべきなのに全く責任をとろうとはしません。だから、「レイテ謎の反転」で悪名高い栗田健男中将は太平洋海戦のすべての場面で大事な指揮をとり、わが身かわいさにことごとく逃げ回って、多くの水兵を無駄死にさせているのに更迭されず、あろうことか最後は兵学校校長になっているのです。

 

 海軍兵学校の教育にその原因を帰する説もあります。複雑な軍艦の構造上、授業はほとんど理科系の教科で占められ、数学の能力如何が席次を決める重要な要素になった結果、「理論的」な人間ばかりが上位を独占するようになったというのです。伊藤清『海軍と日本』によれば、海軍の本家本元である英国では「理論的(セオレティカル)」という言葉は、現実を知らぬ空論家という軽蔑の意味がこめられているそうで、わずか五分で状況が劇的に変わる海戦の場合はほとんど用をなさないことが多いようです。別に数学が悪いというわけではなく、高等師範と同じレベルの数学が教えられていたという、そのエリート意識が問題なのです。死ぬ時にも代数の問題集を手放さなかったという第四艦隊司令長官井上成美中将は極端な例でしょうが、根底的な基盤を持たないエリート意識は自らが手を汚すのを嫌います。昭和の海軍は戦場に出るのを一種の貧乏籤のように考えていた形跡がある、と御田俊一は書いています。戦場に出ることが一種の左遷となっていた、とも言われるゆえんでしょう。上級指揮官が戦闘に参加するのを好まないようでは、海軍全体が堕落するのも不思議ではありません。日露戦争の時、連合艦隊司令長官を東郷と交代させられた日下壮之丈は悔しがって泣いたということですが、当然のことながら、両人とも戦場に出ることを武人の名誉と考えていたわけです。

 

 司令官が出陣するのを嫌がる理由は生命の危険にさらされるからです。軍人がそんな考えを持っていてはお終いですが、昭和の将校たちならそう思ってもおかしくありません。司令官は通常、白い海軍服を着て艦橋から全艦を見渡します。艦橋は最も防備の手薄いところですが、その勇敢な姿が水兵を鼓舞するのです。日露海戦の時、東郷平八郎は露天の三笠艦橋で指揮し続けましたがカスリ傷ひとつ負わず、それに対してロシアのロジェストヴェンスキー提督は頑丈な司令塔にいたにもかかわらず砲弾で重傷を負っています。栗田建男中将はレイテ海戦の折、防弾チョッキを身につけて艦橋に立って部下の失笑をかっていました。

 しかし、この怯懦は許しがたいことで、海軍が航空部隊を便利な使い捨ての道具のように使い、何かといえば航空部隊を出動させ多大の犠牲をパイロットに強い、将官の坐乗する艦隊は遠くの安全なところに退避している構図は、ガ島におけるわが海軍航空隊崩壊の危機に及んでも変わりませんでした。航空隊に入ればまず生きて還れないというのでは士気も衰えようというものです。反対に、アメリカ軍は、あのガ島の危険の最中でも、戦艦部隊を果敢に使って、航空隊の犠牲を極力減らそうとしていたのです。(ガ島の戦いでは、重巡サンフランシスコのキャラハン少将、軽巡アトランタのノーマン・スコット少将の二人がともに艦橋で戦死しています。また米軍のパイロットは常に二交代制で必要な休養が与えられていました)ガダルカナルでは日本軍の6人の飛行隊長のうち5人が戦死して事実上帝国海軍航空隊は壊滅しました。

 

  しかし、本元の原因は、強力な大統領制と曖昧な天皇制の違いでしょう。アメリカの大統領は強大な権力を擁していますが、失政があれば直ちに失職につながります。強い権力は強い責任の上に成り立っているわけです。そのために、戦時では、大統領は三軍を指揮し、命令し、具体的な措置をとります。陸海軍の将官はすべて大統領の部下なので、必要ならばどんどん降格し、抜擢し、最も効果的で強力な戦略を推し進めることができます。ところが、天皇は軍の統帥者でありながら、実際上は臣下の決めた戦略や方針を裁下するだけのことがほとんどで、もし裁下されない場合、軍や側近は、あらゆる姑息な陰険な手段を用いても実現させようとするだろうし、そのような状況では責任の所在は全く不明確なことになります。すなわち、陸軍参謀長なり、海軍軍令部長なり、連合艦隊司令官なりを強力に指揮命令する者は誰もいないのです。しかも、統帥権の独立によって、日本の運命の最高責任者たる総理大臣といえども軍の統帥に口を出すことはできないのです。

 誰も責任をとらない、誰の責任でもない、という曖昧な体制は、とにかく仲間を全力で守るという見当違いな方向への情熱を生み出します。『同期の桜』は海軍の枠をこえて日本人の深い共感を呼び起こしましたが、このような仲間意識が、真珠湾の弱将を再びミッドウェーの敗将にし、日本を惨めな敗戦に導いて行ったのです。

 

 アメリカ軍と日本軍の責任の体系の違いは、最も肝要な長期的戦略プランに表れています。マレー沖での英戦艦の撃沈を知ったアメリカ海軍は直ちに超大型戦艦モンタナ級四隻の建造を中止しましたが、そのような細心にして迅速な戦争政策は戦闘機と爆撃機の設計・製造に顕著に見られました。

 零戦とグラマンF4Fはともに1940年に世に出されましたが、当初は零戦の一人舞台でした。零戦は、すでに太平洋戦争開始前に中国大陸で英バッハロー戦闘機やソ連、中国の旧型機を相手にせず、圧勝に継ぐ圧勝でその名を不動のものにしました。帝国海軍はこの零戦、そしてやはり中国大陸で活躍した中攻(海軍中型陸上攻撃機)を過信し、ほとんど無批判的に使い続けました。しかし、この二機には根本的な欠陥があって、米軍相手の太平洋戦争ではほとんど勝つことができなかったのです。

 その欠陥とは海軍のアウトレンジ戦法に原因を持っています。アウトレンジとは、敵戦艦の攻撃可能距離より遠くから攻撃することで自軍の損害を最小にしようとする考えですが、そのためには長い航続距離を持つ航空機が必要でした。つまり、多量のガソリンを積むため重量はできるだけ軽くするので、その結果、機体の防備は無きに等しいことになってしまうのです。零戦や中攻は撃たれると簡単に燃え上がりました。中攻は昭和12年から5年間使われ、改良機の一式陸攻は太平洋戦争開戦まもなく世に出ましたが、この五年間の多くの犠牲者の血によって得られた教訓は全く生かされず、「一式ライター」といわれるほど、すぐ燃え上がる欠陥は全く修正されていませんでした

 零戦も終戦まで五年間使われ続け、防護力は全く改造されず、ただ一機でも多く作れ、という海軍の無策によって多くの若いパイロットを死地に追い込むことになったのです。(太平洋戦争での日本機の損害9200機に対して、アメリカ機の損害は905機で、日本は米の十倍以上の飛行機を失っています)

 

 対して、アメリカ機には欧州戦線での経験が十分に生かされました。ヨーロッパではアメリカで生産された戦闘機および爆撃機が防備、特に燃料タンクの防護の不備によってさんざん酷評され、フランスはアメリカ機の使用を禁じたほどでした。アメリカはこの事実を真摯に受け止めて、各飛行機会社に装甲防備を強化するよう要請し、太平洋戦争には十分な装備で突入することができたのです。グラマンは航続距離と上昇速度では零戦に劣るものの、そのスピード、装甲の強さ、また機銃の破壊力で零戦を次々に落としていきました。「ガダルカナルはグラマンによる勝利だった」とフォレステル海相に言わせるほど、活用度と信頼の高い戦闘機だったのです。また、B17爆撃機、B25ミッチェル爆撃機は零戦に対してほとんど不落でした。「日本は一番だ」という精神主義に凝り固まって、最新の技術を求めようとしない海軍艦隊部の連中は、終戦まで、強力な機銃や対空砲を開発することはできませんでした。

 

 総括すると、アメリカと日本の社会制度の差、科学技術力の差とも見られますが、実は文化と精神の差であったとも考えられます。「大和魂」などより、太平洋戦争を通じて、勇敢さと犠牲的精神は個人主義の国アメリカの方が遥かに勝っていたように感じられます。帝国海軍は開戦当初のウェーキ島での敵の頑張り、グラマンのしぶとさ、空母すら突入してくる果敢さに早く気づいて、敵を侮るという最悪の過ちから直ちに脱しなければいけなかったのです。当時の海軍兵学校では、やれ零戦は世界一だ、大和は史上最強だ、日本海軍の技術は世界最高だ、というお題目を新興宗教の信者のように繰り返しているばかりで、自らを客観視する謙虚な精神は全く見られなかったのです。

 著者の結論はこのようなものです。日本軍は、生産力、性能、作戦どれ一つをとっても、合理的で効果的な戦法を展開できるシステムと人材に欠けていた。天皇制と統帥権の独立は、各部署において無責任の連鎖を引き起こした。主力艦の決戦を主眼とするアウト・レンジ戦法は、軍用機の装甲を無用のものとする考えを生み出し、それがあまりに多くの有能なパイロットの損失につながった。山本長官の戦意の欠如は、航空部隊の切り開いた突破口を主力艦隊が確保すべきなのに全く出撃せず、ために無駄に搭乗員と機体の損害が重ねられた。山本五十六は、ニミッツのように陸上の司令部で各専門部署と協議しながら作戦を進めるか、あるいは東郷平八郎のように先陣を切って戦艦の艦橋で指揮すべきであった。冷房の効いた、食べ物の上等な(大和はすべてにおいて特別待遇でした)大和を離れなかった山本は敗戦の最大の責任者である。

 

「たしかに太平洋戦争においては、幾多の壮烈捨身の戦いがあった。生還を期さない幾多の突撃もあった。しかし、将官と名づける程の者の中に、このような部下の捨身の行為に恥じないといえるほどのものが、一体何人あったろうか。彼等の多くは戦いを避けてきたのではないか」(御田俊一)

使い捨てられて死んだ多くの若い命への哀惜と、戦後天下って余生を悠々と暮らした海軍将官たちへの怒りに似た思いがこの本の根底にはあるのです。

 

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御田俊一『帝国海軍はなぜ敗れたか』(2)

<戦いの経過>

 連合艦隊司令長官山本五十六は軍政家としてはともかく、指揮官としては無能だったといってよいでしょう。真珠湾攻撃は現在に至るもその決定の是非が問われていますが、これは難しいところで、アメリカの戦意を高揚させたというマイナス面はあるものの、真珠湾攻撃の決定そのものは山本五十六の戦績の中で唯一擁護できるものではないでしょうか。

 山本は若き日、海軍士官としてハーヴァード大学に留学し、後にアメリカ駐在武官を務め、アメリカという国の社会的、文化的強さを生活のレベルで実感していました。戦争をしたら、まず絶対に勝てない相手。そういう相手を敵に回して勝つためには奇襲しかありません。よく言われるように、彼は第一レースに賭金のすべてを注ぎ込んだのです。これは確かに理屈に合った考えで、危険だが少しの弱気も許されないぎりぎりの戦いでは当然のことといえます。

 しかし、山本にはその決意をとことんまで実行する強さが欠けていました。10倍以上もの富と軍事力のある相手ではあるが、しかし、熟練したパイロットと艦隊乗組員の養成には1,2年の期間がどうしても必要です。だから、真珠湾周辺に米国太平洋艦隊のほとんどすべての航空兵、艦載乗務員が集まっていたその日に徹底して攻撃を継続し、全滅させるか捕虜にしておかねばならなかったのです。そうすれば、少なくとも一年半は日本は太平洋をわがもの顔に暴れまわることができたでしょう。

 ところが、山本は、戦艦五隻撃沈、補助艦18隻破損、航空機(ほとんど地上機)479機使用不能の「大戦果」を確認すると、何と全艦隊を引き上げてしまうのです。連合艦隊の幕僚たちはほとんど全員一致で再攻撃の指令を出すよう要求していましたが、山本は「泥棒だって、帰りはこわいんだ。ここは機動部隊指揮官に任せておこう」とその要求を拒否しました。その機動部隊司令官は三ヵ月後のインド洋海戦でも途中で引き返してしまう弱将の南雲忠一中将でした。最も肝心の石油タンク(アメリカが必死に貯めた450万バレルの重油が入っていた)、戦艦の修理ドック、周辺にいた二隻の空母は全く無傷で残されたのです。もし、再攻撃を行い、石油タンク、修理ドックを破壊し、真珠湾に向かっていた空母を待ち伏せして撃沈し、さらに比叡・霧島の二隻の戦艦を真珠湾に近づけて強力な艦砲射撃で港を壊滅しつくし、基地の戦闘員を殲滅していたら太平洋戦争の帰趨はどうなっていたかわかりません。

 

 アメリカ太平洋艦隊指令長官ニミッツは、真珠湾の損害は思ったよりもはるかに軽徴だった、撃沈された戦艦は旧型のもので、熟練した乗組員を新型の戦艦の方に回すことができてむしろ幸いだった、と語っています。結果的には、真珠湾攻撃はアメリカの復讐心に火をつけ、猛烈な反撃を引き起こさせたことで失敗となりました。そして、なにより日本に不運だったのは、その戦果があまりに誇大に伝えられ、司令長官の山本五十六が神がかり的な崇拝のオーラをまとってしまったことです。続くマレー沖海戦でも英国戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋艦レパルスを海底に葬り去ったことで、あろうことか楽勝気分まで起こってきたのです。信じられないのは、すでに重油不足を覚悟の上で開戦に踏み切ったにも関わらず、真珠湾から帰港して来る機動部隊を出迎えに長門・陸奥の戦艦以下連合艦隊の20隻の軍艦が小笠原沖まで出ていったことで、これは出航手当をかせぐためだけだったと非難されても仕方ないでしょう。

 

ここから一気にミッドウェーの惨敗まで行くのですが、その前にインド洋海戦と珊瑚海海戦がありました。地中海でイタリア艦隊を制圧したイギリス艦隊はセイロン島で日本軍の上陸作戦に備えて待機していました。旧式戦艦五隻、空母三隻を含む三十隻の大艦隊でしたが、対する日本も英国製の高速戦艦金剛以下四隻の戦艦と五隻の空母を擁していました。イギリスが旧式の複葉戦闘機が主だったことを考えれば、南雲機動部隊にとって絶好のカモだったはずですが、何と小型空母一隻、重巡洋艦二隻を撃沈しただけでさっさと引き上げてしまいます。わずか四十浬のところにいた英国艦隊主力は全くの無傷でした。敵の息の根を止めるチャンスがあれば徹底的にやらなければ勝てる戦争ではないのにです。ここで、英国艦隊を叩いておけば、すでにマレー沖で主力艦2隻を失っている英国艦隊は壊滅したでしょう。我が身が無事なうちに引き揚げることはこの戦争においては日本海軍のお家芸でした。米海軍のハルゼー提督は「日本軍は怖くない。優勢でもすぐ引き揚げるから」と言っていました。

このインド洋海戦は重要な戦いで、ここで英国艦隊を追い払えば、アメリカの対ソ武器供与ルート(イラン・ルート)を遮断でき、ドイツへの巨大な掩護ともなります。さらにアフリカで戦っているロンメルのスエズ進撃をサポートできただろうし、何よりドイツと連絡することで日進月歩の最新の軍事科学を取り入れることができたでしょう。(潜水艦のソナー、艦船のレーダー、高射砲、戦闘機の機銃など、ほとんどすべての分野で日本は立ち遅れていました)

 

19425月に行われた珊瑚海海戦は日米初の空母決戦となりました。南太平洋随一の要衝ポート・モレスビーをめぐるこの戦いに米軍はありあわせの軍艦をかき集め、空母二隻重巡7隻の陣容、対する日本も空母3隻重巡6隻とほぼ互角の布陣です。結果は互いに空母一隻沈没・一隻中破で痛みわけのようですが、戦略的にはポート・モレスビーをアメリカ軍に確保されたことで日本の敗戦となりました。アメリカ艦隊の空母レキシントンは戦闘の一時間後にガソリンが気化爆発を起こし沈没したのですが、幸か不幸か、日本側に幸いしたかに見えるこの事故がまたもや日本側に勝利を謳わせ、深く反省する機会を失わせてしまったのです。南太平洋で圧倒的に優位に立っていた日本は、この海戦でもさらに赤城以下三隻の空母、伊勢以下五隻の戦艦を加えて総力戦でアメリカを全滅に追い込むべきだったのです。兵力を集中して味方の損害を最小にし、敵を個別に撃滅していくのは戦いの基本で、これではアメリカ軍が日本の将官を無能呼ばわりするのも無理はありません。また、マレー沖とインド洋で楽な戦いをした航空部隊がなぜ珊瑚海で苦戦したか、それはアメリカ防空火力の強力さと日本機の防備の弱さにあると認識しなければいけなかったのです。この反省は全くなされずに、次のミッドウェーにつながっていきます。

珊瑚海海戦では日本の暗号が解読されてアメリカ軍に筒抜けでした。これに不審を抱いた艦隊の方で暗号担当者にその旨を申し入れても、担当者は責任を恐れて、絶対大丈夫と突っぱねたというのです。「そういう無責任な担当者を、直ちに入れ替える位の人事の弾力と、物事に対する新鮮な感受性が無くては、アメリカ相手の戦さには無理だったと思われるが、日本海軍は長い天皇制の下に、スッカリ硬直化し、かつ官僚化してしまって、もはや近代戦に勝ち抜けない体質になっていたらしい」と御田俊一は書いています。

 

そして、ついにミッドウェーの戦いが訪れます。19424月、東京から1200キロに近づいた空母ホーネットからドゥーリットル中佐率いる16機のB25ミッチェル爆撃機が飛び立ち、東京・神戸・名古屋・横浜を爆撃して、中国本土に着陸するという離れ業を成功させました。精密な計画と大胆な行動、そして何より勇敢さを示したこの行動は太平洋戦争のターニングポイントとなりました。日本の被害は微々たるものの、連合艦隊司令長官山本五十六は深く衝撃を受け、直ちにハワイ近海にあるミッドウェー島を攻略し、敵艦隊をおびきよせて壊滅し、引導を渡してやろうと決意したのです。敵基地のすぐ近くの危険な戦いについて、日本の軍令部は強く反対しましたが、緒戦の戦果以来威望絶大な山本長官の言には逆らえませんでした。戦略的価値のほとんどないミッドウェーよりも、対ソ援助ルートの遮断や米濠間の切断のため南太平洋からインド洋を制圧する方がはるかに急務でした。東京を爆撃されたのでは天皇にすまないと山本は考えたのですが、戦争に負ければすまないどころではありません。天皇へのそんな余計な配慮をしながら勝てるほどアメリカは甘くありません。

 

ところが驚いたことに、この辺りでは帝国海軍は勝利感と安易感に満ちていました。宇垣参謀長の日記には「皇軍の向ふ所敵無く、、、反枢軸国凡ての智将、勇将、猛将を網羅し来るとも我何をか惧れん」などと記してあります。実際のところ、ミッドウェー海戦直前の時点では日米の水上艦隊の戦闘力は問題にならぬほど開いていました。日本は空母8隻、戦艦11隻、重巡17隻、軽巡11隻を含む350隻の大艦隊でミッドウェーに向かいましたが、対するアメリカは空母3隻、戦艦なし、重巡7隻、軽巡1隻、全て合わせてわずか57隻で、集められるだけ集めてこれだけだったのです。暗号は解読されていたものの、どうやっても負けようのない戦いでしたが、結果は最精鋭空母四隻、航空機322機を失うまさに歴史的大敗を喫したのです。

 

敗因はやはりアメリカ軍の戦意、実力を甘く見ていたというほかはありません。すでに、それまでの戦いで、アメリカのグラマン戦闘機のしぶとさ、艦の対空火力の強力さを目の当たりにしていたのに全くその経験が生かされていませんでした。アメリカ軍は、珊瑚海海戦と同様、濃密な守備体系を作っていたのに、日本軍は10以上に分散し、しかも二隻の空母を陽動作戦としてアリョーシャン列島に向けるとは兵力集中の原則を無視した全くの愚策でした。しかも、山本長官の旗艦大和・長門・陸奥以下の主力艦隊は機動部隊の500キロ後方から大名行列のように進むだけで支援どころか何の役にも立たなかったのです。戦闘の中心はむろん空母を中心とする機動部隊ですから、その空母を守るべく(空母は非常に防備の弱い艦船です)戦艦・重巡が周囲を輪形に固めねばならなかったのです。

どうも楽勝気分で、このままでは勲章がもらえないことを心配して儀装中の武蔵を除く全艦隊がぞろぞろ出陣してきたようです。この海戦だけで連合艦隊の一年分以上の重油を消費し、あげくは熟練したパイロットを含む3500名を失いました。「山本に期待するのは無理としても、彼の指揮はひどすぎた」と御田は書いています。

 

ミッドウェーの大敗後、さすがに山本長官も憂色に沈んだようです。しかし、開戦時の優秀なパイロットの半数を失い、精鋭空母がほぼ壊滅したその時点でも太平洋の彼我の勢力はまだ日本の方がはるかに優勢でした。決定的な敗戦はガダルカナルとそれをめぐる三度にわたるソロモン沖海戦で、これにより攻守ところをかえて、アメリカのワンサイドゲームになってしまうのです。「ガダルカナルは島の名ではなく、感動そのものである」とサミュエル・モリソンは言っています(『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』より引用)。わずか一本の滑走路をめぐって、六ヶ月にわたり繰り広げられた戦いは日本軍の必死の撤収によって幕を閉じました。アメリカはエンタープライズなど三隻の空母と新型戦艦ノース・カロライナを含む全力の布陣、今度こそ日本が願っていた艦隊決戦で決着をつけるチャンスと思われたのに、大和・武蔵・長門・陸奥以下の大型戦艦はトラック島や柱島の泊地に停泊したままでした。大和、長門の巨大な砲があればガダルカナルの米軍基地を焦土にするなど朝飯前であり、アメリカ軍唯一の頼みの綱である輸送船団も全滅にできたでしょう。そして、肝心の米濠遮断も成し遂げえたはずです。まさにガダルカナルは、日本の陸海軍双方にとって天王山だったのです。

陸軍の辻政信参謀はガダルカナルの窮状を訴えるためにトラック島に飛んで、大和に坐乗していた山本長官を訪ねました。ところが、山本は広々とした大和の冷房の効いた部屋でのんびり過ごし、井上成美中将は涼しげな夏の着物と絽の袴姿だったといいます。辻はガ島の地獄絵図を思い感慨に耐えなかった、ということでした。

 

ガダルカナルが終われば、後はアメリカの高い生産力によって新型艦、新鋭戦闘機が続々と参戦することになり、万に一つも勝てない状況に日本は追い込まれました。この時からいつ降伏してもおかしくなかったのに、ひたすら精神主義を打ち出して、最後は特攻という暴挙に出たのはなんと愚かだったことでしょう、死んでいくのは皆まだ成年に達しないような新兵ばかりだったのに。吉田裕『アジア・太平洋戦争』(岩波新書)によれば、太平洋戦争の死者の大部分はマリアナ沖海戦の後に生じているとのことです。統計の残されている範囲では、87パーセントの戦死者が終戦までの一年余の間に発生しているのです。悲惨な沖縄戦、東京大空襲、広島・長崎の惨禍を思えば、アメリカ相手の戦争に勝てなかったのは仕方ないが、せめてもっとましな負け方をしてくれたらと思ってしまいます。

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2008年9月15日 (月)

御田俊一『帝国海軍はなぜ敗れたか』(1)

 高田馬場は学生が多く、騒がしくて、どうもあまり好きになれない街ですが、BIG BOX古本市が不定期に復活したので、仕方なく足を向けてみました。本の質に対して価格の安いのがこの古本市を主催する早稲田古書店の特徴ですが、休日の半日を費やした苦労は十分報われて、何冊も抱えて帰路につきました。早速、家でビールを飲みながら、200円で買った御田俊一『帝国海軍はなぜ敗れたか』(昭和55年・芙蓉書房)を読み始めたのですが、明快で説得力ある筆致はこの種の本の中では出色のものです。著者は1923年生まれで軍歴はないのですが、「日本はなぜアメリカと開戦したのか」「日本はなぜアメリカに敗れたのか」という問いの答えを長年探っていたとのことです。さて、その結論はどのようなものでしょうか。

 

 <なぜアメリカと開戦したか>

 その元凶は「統帥権の独立」にあったというのですが、もともとこの統帥権というものは、当時明治日本が乗り出した弱肉強食の帝国主義時代にあって、必要やむをえぬものでありました。伊藤博文は、厳しい国際情勢を鑑み、万一自由民権派の手に政権が渡っても、強兵策の遂行が妨げられることのないように、陸海軍の統帥と陸海軍の編成と常備兵力量の決定を天皇に帰属させていた、というのです。そして、そのように規定しても、当時の実力者たち、伊藤や陸軍の山県有朋、海軍の山本権兵衛など維新の革命を身をもって体験した者たちは、統帥権をふりかざして政治を混乱に陥れる心配などなかったのです。また、統帥権を担わされた明治天皇とこれら元勲たちとの間にも国家の興亡についての緊密な意思のつながりが存在しました。

 つまり、統帥権の独立は明治のある時期のみに許される非常の規定であるべきだったのです。軍の独走を抑える権威と実力を持った人間と責任感をもった天皇が存在しない時に、統帥権の独立は愚か者の非常識な行動を正当化する役割しか果たさないのです。事実、軍部は右翼と結びついて、テロを匂わせながら政府首脳や天皇までも脅迫し、国民を地獄の底に引きずり込んで行ったのです。

 

 話は日露戦争にまでさかのぼります。この戦いに勝利して、日本は満州の支配権を得たのですが、この時、日本には二つの選択肢がありました。ひとつは、アメリカの民間資本と満州を共同経営していくこと、もうひとつは、満州を独自で経営し、他の列強の中国の侵略的分割支配に参戦していくことでした。もともとアメリカのねらいは中国市場の開放でしたが、アメリカの鉄道王ハリマンは満州の鉄道や炭鉱を日本と対等で経営することを提案し、彼の夢である鉄道による世界一周の実現を期待していました。戦争のために巨額の債権を引き受けてくれたこの大富豪が日露戦争後直ちに妻と随員を伴って来日したとき、日本政府と国民は歓喜でもって彼を迎えました。これは、日本にとって魅力ある提案でした。というのも、日露戦争には勝ったものの、いつロシアが復讐戦に出てくるか不安であるし(日本にはすでにその体力がありませんでした)、そのために世界最強国のアメリカが緩衝国として入ってくればかなり安全になると考えられたからです。さらに当時の日本は日清戦争で獲得した台湾と朝鮮の経営で手いっぱいの状態であり、独力で満州で産業を興す底力はまだありませんでした。

 

 こうして、政府や元老井上馨、実業家渋沢栄一らの同意の下に日本政府とハリマンとの間にシンジケート設立の合意書(桂・ハリマン覚書)が交換されたのですが、これが、そのまま進展していたら日本の将来はどうなっていたでしょうか。第二次大戦後アメリカとの友好のもとで経済発展したことを考えると、恐らく順調に日本は工業力をつけ、経済的な進展とともに武力に全霊を注ぐこともなく、したがって太平洋戦争もなく国民の運命はこれほど悲惨な道を辿ることもなかったとも考えられますが、あるいは御田俊一も言うように、敗戦そして民主主義という洗礼がこの国民にはやはり必要だったのでしょうか。

 

 さて、ポーツマス会議から帰国した外相小村寿太郎は、この覚書のことを知るや否や関係各所に猛然と圧力をかけ始めます。この小村寿太郎、そして小村の仲間である満州派遣軍総参謀長児島源太郎、台湾総督後藤新平らは、維新の時にまだ少年であり、智謀の限りを尽くして日本を作ってきた慎重な維新の元勲たちとは違い、冒険主義的ではるかに積極性に富んでいました。彼らは、当時、台頭してきた一つの集団の意見を代表していたのです。つまり、いたずらに列強の侵略を待つより、進んでそれに参加することにより国の独立を保とうとしたので、そのためには南満州鉄道を大陸経営の基本として排他的に独占し、他の先進国の仲間入りをしようとしたのです。

 この考えはわからぬではないし、いやむしろ当然かもしれません。アフリカなどは十九世紀の最後のわずか25年間にその八割が列強の支配下に入っています。隣国の中国も食い荒らされてもはや独立国の体をなしていません。ロシアを破って、一等国への切符を手にしたと思った日本が満州の共同経営案を拒否する下地も確実にあったのです。しかも満州独占派の小村寿太郎は、誰もが尻込みするポーツマス全権大使を引き受けたことで政府に大きな貸しがありました。負けたと思っていないロシアは賠償金を一銭も払わず、戦費をまかなうため苦しんだ日本国民は、各地で暴動を起こし、ついに戒厳令が敷かれる有様となったのですが、その非難の矛先は全権の小村に向けられると思われたからでした。

 小村は八方手を尽くして桂首相に覚書の撤回を承諾させ、すぐにワシントンに帰っていたハリマンにその報がつたえられました。

 

 結果はどうなったか。日露戦争では多額の外債に応じたり、講和会議を仲立ちしたアメリカは一転、裏切られたと思ったのか、日本に対する反感は翌年のカリフォルニアでの排日運動から日本人労働者の入国制限にまで発展しました。これ以降、アメリカはその極東政策の敵手として日本を考えるようになります。(軍事的相手としてはまだ取るに足らぬものと思っていたのですが)

 そして、独力で為しうると考えていた満州経営はどうなったかは歴史の知るとおりです。満鉄は経営したものの資本と技術の不足から重工業はついに発展せず、太平洋戦争においても満州は戦力増強に益するところまことに少なかったのです。

 

 すでにこの時から、日本の政府、軍部には大きな錯誤が、つまり日露戦争の勝利による国力の過信がありました。日本の後ろ楯となった英米の存在、差し迫ったロシアの革命の動き、首都から遠い極東での戦い、海戦に弱いロシア人の気質など、冷静に見れば最初から勝つ公算の大きい戦いだったのです。それでも日本海海戦であれほどの勝利がなかったら、シベリア鉄道で送られてくるはずの新手の敵軍で戦争はどうなっていたかわかりません。となると、東郷平八郎の武勲(ネルソンと並んで史上最高の提督といわれています)は、アジアと日本の運命を大きく変えるものとなったので、もしその勝利がよくあるように判然としないものであったら、日本はこれほど傲慢にはならなかったでしょう。「米英連合艦隊一時に来襲するも恐るるに足らず」「米英一呑み」とか、後に大言するようになる下地はこの時にできたのです。旗艦三笠からして英国製だし、技術はほとんどすべて輸入で、粗鋼生産高など比べることの不可能なほど微小だったことの謙虚な考察は見られません。

 

 日英同盟はまだ維持していたものの、アメリカとの離反は避けがたかったのですが、やがて西欧諸国は第一次大戦に突入して、極東は一時的に視界の外に置かれます。日本がこの大戦に本格的に参戦しなかったことが、近代戦の苛酷さ、戦争技術の進歩の速さなどへの認識の決定的な立ち遅れをもたらした、といわれています。ワシントン条約は、大戦のもたらした悲惨さを教訓とし、軍備拡張による財政の負担を制限するために開かれましたが、英米日の主力艦5.5.3という割合は出席者ほとんどの賛同と感激の拍手で決定した、といわれています。日本全権の加藤友三郎海相は、対米七割を固執する全権顧問加藤寛治中将を抑えて、対英米六割を受諾しました。加藤友三郎は会議後次のように語っています。まず、自分は近年悪化しつつある日本とアメリカの関係を良くしようという意図を持っていたが、提案の比率には驚いた。しかし、よくよく考えてみると、これは日本には好都合なのではないか、というのも財政上、日本は新艦製造競争に参加できず、逆にイギリスはともかくアメリカは必要とあらばいくらでも戦争準備を遂行する実力がある。その場合、とても5,5,3という比率ではおさまらないだろう、と。彼は、また、国防は軍人の占有物ではなく、軍人大臣を廃して文官大臣制を設けるべきだ、とも言っています。残念なことに、加藤はこの2年後首相在任中に急死してしまいました。

 

 ワシントン条約には、同条約成立の八年後に再び会議を持つことが決められていたので1930年、今度は補助艦の比率を決めるロンドン会議が開催されました。ところが、このロンドン会議の調印をめぐって日本国内では大騒動が持ち上がったのです。加藤友三郎はすでに亡く、強硬派の加藤寛治は大将に昇進して海軍軍令部長にとなり、同次長の末次信正とともに会議の初めから補助艦七割を要求していました。米英側は比率10,10,6.97まで譲歩しましたが重巡洋艦六割は譲りませんでした。全権の若槻礼次郎はこの案を受諾し、国内では首相浜口雄幸が加藤友三郎の正論を再び開陳して加藤寛治らの強硬派を諌め、正式調印にこぎつけました。しかし、ここでこの条約の批准をめぐり、野党政友会の総裁犬養毅、枢密院の伊東巳代治らは民政党の政府攻撃の材料にこの問題をとりあげます。国会の壇上に登ったのは鳩山一郎で、彼は国防計画は統帥権に属するのに政府が軍令部の反対を押し切って調印したのは不当であるという論法で政府を攻撃しました。まさに浅慮短見の極み、政治家は軍を政治の主導の下に置くことこそ肝要なのに、自党の利益のみ考えるとは言語道断です。そもそも財政上の大問題である国防計画を軍令部が勝手に決めることこそ問題だったのです。

 

しかも、政界のこの動きは海軍の強硬派を勢いづけ、加藤寛治軍令部長は政府攻撃の上奏文を天皇に奉呈し、参謀の草刈少佐は抗議の切腹自殺、など問題はますます大きくなりました。しかし、ライオンと呼ばれた首相の浜口雄幸はひるまず、ついに批准案の可決に成功しますが、批准の翌月、浜口は東京駅で右翼青年にピストルで襲撃され翌年死亡します。翌年、満州事変、その翌年血盟団による井上準一郎民政党幹事長と三井の大番頭団琢磨の暗殺など、世はとんでもない方向に走っていきます。「これらの源を探ると、鳩山一郎や伊東巳代治の愚挙もさることながら、憲法における統帥権の独立の規定のなせる所が最も大きいと考えられる」と御田は書いています。

 

ここから1934年のワシントン条約破棄、無条約時代の突入、太平洋戦争の開戦まで道はまっすぐに続いています。加藤友三郎の流れをくむ海軍正統派の岡田啓介は、加藤寛治・末次信正の一派を抑えようとしますが、軍令部、青年将校、右翼勢力らは、五・一五事件の再発を脅しに使って政府を恫喝しました。これが政府の協調外交派を無気力にしたのは間違いありません。

 

それにしても、軍縮条約破棄とは海軍軍令部は何を考えていたのでしょうか。軍令部は条約破棄にあたって、アメリカに1010という絶対受け入れられない条件を提示していました。日本の十倍の国土と富を有する国が軍備を平等にする理由など公平に見て全くありません。では、海軍は軍縮条約体制からの脱退によって、どのように国防の安全を強化しようというのでしょうか。この点について天皇は軍令部長に「対米均等権を要求するときは会議は決裂し軍備競争が再開されるが、そうなれば対米均等はもとより不可能ではないか?」とするどい質問をしています。軍令部は、自由競争になれば日本に適した艦を建造でき、特徴ある兵力を整備できるのでかえって経済的だとわかりにくい説明に終始したのですが、実はこの謎のような答えを解く鍵はむろん大和・武蔵の超大型戦艦の建造だったのです。このマンモス戦艦によってアメリカ海軍の機先を制し、西海岸のドックで建造される大型艦はパナマ運河を通過できないので、他日アメリカが追いつこうとしても十分水をあけられると考えたのです。

 

不思議なことに、日本海軍は、無条約時代に突入しても、各国は軍縮時代とさして変わらぬ行動をとるだろうと考えていたらしいのです。例えばワシントン条約で艦齢が20年までの艦は新規造船が認められない(ロンドン条約で26年に延長)とされたのですが、これによって各国も艦齢を重視して新艦建造を控えるだろうと独断していました。無条約時代になればそんな規定に全く意味がないことに気づいていないのです。誤算はアメリカの建造能力、意欲を下算していたことにあるのです。海軍は条約廃棄後十年はアメリカに優位に立てると楽観したのですが、アメリカが海軍大拡張計画を決定して新式艦を続々建造し始めるのに遭遇して真っ青になりました。

 

軍事力の充実はもちろん国力の充実によるものですが、日華事変以降、民需を削って軍需に回していたため日本の基礎国力は下がりつつありました。しかも中国大陸に百万もの兵を派遣して国内の労働力を奪うと同時に若い技術者や熟練労働者を構わずに召集したために軍需工場の生産技術は低下していました。そのため、アメリカとの軍事力の差は質・量ともに絶望的なまでに開き、海軍自身の計算でも昭和十八年には日米艦艇の勢力比は対米三割にまでなるだろうと予測されていました。このような事態は海軍の条約脱退派には思いもよらぬことで、あれほど強気になって条約破棄を主張した海軍の責任が強く追及されるのは間違いありません。また、陸軍はこれ以上の海軍軍備増強策を承認しないだろうし、対米三割ともなれば勝てるはずのない戦争の準備をするよりは対ソ増強計画のため陸軍の予算を強化するだろう、結果として海軍は陸軍の下位に甘んじるだろうと思われたのです。

 

ここで、立場のなくなった海軍に起死回生のチャンスが一つ残されていました。それは思い切って対米戦争に突入することで、そうなれば陸軍も国民も戦争に引き込むことになり、海軍単独の責任から逃れられるだろうと考えたのです。すでに条約破棄を想定して制限を大幅に超える改造と建造を実施していたことで、あと1,2年は対米八割を維持できると予測していました。さらに、中国大陸における零式戦闘機、中型攻撃機の活躍、やがて完成する大和への期待などが、「座して死を待つ」より国民を巻き込んでのとんでもない博打に海軍を駆り立てたのです。結果はどうなったか。海軍上層部は多く安全な場所に退避し、初年兵、学徒、若き未熟な航空兵を次々に危険な戦地に駆り出して殺し、自らは戦後ものうのうと生き延びているのです(海軍からA級戦犯で極刑を言い渡され者はなく、わずかに岡、嶋田の二名の海軍大将が終身刑になったのみ)。

 

 さて、巻き込まれた陸軍はどういう対処をしたか。実は、軍のために国民を犠牲にするのは陸軍もすでに行ってきたことで、ここでは同病相憐れむというか、すでに陸軍は中国大陸で勝てなくなっていました。中国軍は予想以上に強く、日本は外国からの補給路を断てなかったのです。ここで、対米戦に踏み切り、インド洋を制してアメリカの補給路を遮断し、ドイツのイギリスへの進撃を待てば活路を見出せると考えたのでしょう。陸海軍とも、緒戦でアメリカを叩いて戦意を喪失させれば、しばらく暴れまわったあとで、ポルトガル、スウェーデン、法王庁あたりに終戦工作を依頼できると考えたのだから呆れます。国内ではすでに軍を統御できる人物もなく、ここでこそ統帥権を発揮できる天皇は全く無力でした。チャーチルは『第二次大戦回顧録』で、ドイツとの開戦を決意した時、もし敗れればロンドン塔で絞首刑になる覚悟をした、と書いています。それだけの決意が天皇にあれば事態はまだ違ったものになっていたかもしれませんが、ともかく国民を守るべき軍隊が、自らの存在を守るために国民を犠牲にするのでは、壊滅するのも当然といえましょう。

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