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2008年7月23日 (水)

稲垣足穂『東京遁走曲』

 いつだったか、遠い遠い昔のことのように思われます。渋谷宮益坂の珈琲店トップで友人と談笑した後、青山通りを散策して、馴染みの古本屋の奥の棚から稲垣足穂『東京遁走曲』(昭森社)を600円で買い求めたのでした。思えば、宮益坂も青山通りも、今はただ人が多いだけの疲れる通りになっていますが、昔は喧騒から次第に離れてゆく心地よさを味わえる通りでした。「この人の本なんか、ついこの間までは、店先で百円で売られていたよ」とはその時の古本屋の主人の言葉ですが、確かに足穂が読まれるようになるためには1969年の日本文学大賞の受賞、1970年の現代思潮社『稲垣足穂大全』の刊行を待たねばならなかったのです。

  ところで、その箱入りの『東京遁走曲』は幾度かの引越しの折に紛失してしまい、今、手元にあるのは河出文庫版なのですが、先日、家内と二人で久しぶりに神保町を歩いていたとき、すずらん通りにある「ボヘミアンズ・ギルド」の二階で懐かしいその昭森社の本に出会いました。箱から滑り出す時の感触、ぱらぱらと頁を繰る心地よさ、これは足穂本の中でも最も典雅で愛らしい書物でしょう。

 

 さて、その『東京遁走曲』ですが、これは一つの貧乏物語です。明石で育った足穂が35歳で何度目かの上京をし、50歳で結婚のため関西に帰る十数年の困窮にまみれた生活、その間には太平洋戦争の混乱もありました。足穂は牛込横寺町に間借りしますが、その理由はすぐ近所に居心地のよい飲み屋があったからです。アルコール中毒であった足穂は、わずかな原稿料のすべてを酒に変え、さらに机、夜具までも売り払って飲み続けていました。部屋の中には本一冊も、座布団も、茶碗もなく、夜はカーテンにくるまって眠り、昼は寝そべって原稿を書いていました。道で拾ったちびた鉛筆を使い、塀から破りとったチラシの裏に書いていったのです。いよいよ窮すると、清書用のインクを水で薄め、書きかけの原稿用紙の束を質屋に持っていって換金し、ただちに縄のれんをくぐります。そして、あらゆる金策が尽きると、飲み屋の常連たちにたかって一杯のカストリをせしめるのでした。一日にコッペパン一個、あるいはただ水だけしかとらない生活が続きました。

 著名な日本の作家で、モク拾いを何年も続けていたのは足穂だけでしょう。出勤時間を過ぎたころの通りを歩くと、サラリーマンの捨てた吸殻が点々と落ちています。それを拾って、やはり拾ったアルミ製のホルダーに挿して吸うのですが、ある日、さっそく拾った煙草を吸った途端に(何日も食べていなかったので)意識を失って倒れたりもしました。またある時は、バス賃が足りないことに気づいて、買ったばかりで二本しか吸っていない煙草の箱を労務者に半額で買ってもらったこともありました。

  アルコールというものにどれほどの魔力があるのか、酒に強くない私には推量し難いのですが、足穂がそもそも関西を離れる契機となったのは酒による不義理でした。歯科医師であった父親の家にはいつも酒の四斗樽が置いてあったのですが、足穂は子供のころからその樽にゴムのチューブをさして吸っていたそうです。昼間から酔っぱらい、葬儀にも酒瓶を手にして出る有様で、知り合いは道で合うと彼を避け、親類中からつまはじきされ、やむなく東京に逃れて来たのです。宇野浩二の文によると、ある日、足穂はぶるぶる震える指で畳をさして、無数の虫が這いまわっていると宇野に語っていたそうです。

 アルコールとニコチンの中毒が体に回ってきたからですが、「病院か刑務所にでも入らなければ治らない」といわれていたその中毒が、腸チフスにかかって入院することでかえって回復をみたのです。昼間からうつらうつらしている足穂を友人が見つけて近くの国立戸山病院へ連れていき、病名が判明して、ただちに大塚の伝染病病棟に転院させられました。足穂はそこで二階の霊安室の向かいの部屋で二ヶ月半あまりを過ごします。平均して毎日二人ずつ死んでいくその病院では霊安室の灯明の灯が消えることはないのですが、足穂はついに「長方形の木箱に入って裏門を出る」ことなく退院しました。自分は百人の死者の身代わりとして退院できた、と足穂は思います。「これらの人があってこそ、自分は明るい陽の下を表門から出ることができたのではないか? 主よ、永遠の安息を彼らに与え、絶えざる光を彼らの上に照らしたまえ。彼らの安らかに憩わんことを」(『死の館にて』)と彼は書いています。

  退院したが、生活は以前と変わらず、夜具も取替えの服もなく、真冬なのに浴衣2枚の重ね着で、寒さで体中ひびだらけになっていました。折りしも、太平洋戦争はさらに深刻の度合いを強め、出版社も緊縮経営に入ったために頼みの綱の原稿収入も前借も途絶えました。しかも、折にふれて助けてくれた飲み屋の常連も出征や徴用で四散し、ついに足穂は八方塞がりの状況に陥りました。ところが、戦争も末期になり、足穂にも徴用が降りかかって、皮肉にも、ここでようやく食いつなぐことができたのです。このような無用の人間を徴用するとは、すでに敗戦が確定したといっても言い過ぎではないのですが、朝食が出る上に給料ももらえるので足穂には望外のことでした。といっても、着ていく服も履き物もありません。上着は画学生が東宝の楽屋からかっぱらってきたぺらぺらの物、ズボンは間借りしている大家の老人からもらった虱だらけの黒い物、履き物は便所のサンダルを手に入れました。
 その格好で鶴見の自動車工場に通い始めたのですが、ある日工場長に呼ばれて、「この工場に一人だけ戦争非協力者がいるが、それはあんたである」と名指しで非難されました。

  戦争は終わり、再び足穂は無産者として放り出されます。もはやどこにも帰るべきところはありません。社会主義作家の金親清の好意で千葉の彼の家へ寄宿しますが、赤錆びたトタン屋根の一部屋だけの家で、金親と老母と二人の娘と幼児が暮らしています。足穂はその土間に寝ていたので、原稿を書くときは千葉駅の待合所まで行き、そこのベンチで書きました。金親の家は幼児を除いて全員共産党員だったので、いつのまにか足穂もその仲間に加えられていましたが、代々木の中野重治がそれを聞いて「絶対ありえないことだ」と語ったそうです。この時期に戦後の傑作『弥勒』が書かれていたとは驚くべきことでしょう。

  実はこの辺りから、足穂の人生最悪の数年が始まります。アル中は再びひどくなり、居酒屋で知り合った若者とその実家の越中に逃れたりしますが、一瞬でも酒が切れると苦しくなります。鉄道自殺も考えますが、周囲の人間への迷惑、また自分の死が神戸の身内に伝えられることの不快を考えると躊躇してしまうのでした。

 衰弱しきって東京に戻ってきても、知り合いの家や事務所を転々とする日々は変わりません。時計や財布を持たないのは当然で、懐には五十円以上入っていた日はないという浮浪者以下の生活です。アルコールのため栄養を摂取できず、階段を下りるときに体を支えきれないほど弱っていました。『ヰタ・マキニカリス』の清書原稿を本にした書肆ユリイカの伊達得夫は、そんな足穂を目撃して、「ついに、稀有の才能もこれで終わりになるのか」と思ったそうです。

  ところが、ここで足穂に起死回生の結婚話が持ち上がります。伊達得夫が京大時代に間借りしていた女子更生施設の寮母は、研修会で東京に出てきて、伊達に再会し、足穂のことを聞かされました。「高い知性と鋭敏な感性に恵まれながら世に容れられざる孤高の人、というものは考えるほど美しいものでなく、かなりみじめな感じですが」と伊達はその女性、篠原志代に足穂のことを説明しました。「しかし、50人の不良少女の面倒を見るより、稲垣足穂の面倒をみたほうが日本のためになりますよ」と。一方、足穂は、彼女が看護婦の資格を持つ尼僧でもあると聞いて、「それでは自分の面倒もよく見てくれるかもしれないね」と伊達に答えています。

 1950年、50歳の足穂は志代と結婚するため京都に赴きます。その頃の京都駅の構内や外には多くの浮浪者がたむろしていたのですが、風呂敷包み一つ提げ、よれよれの国民服を着た足穂は、志代には彼らと遜色ないように思われたのでした。この結婚生活のおかげでしょうか、その破天荒な性格にもかかわらず、足穂は77歳まで生きて彼の全く望んでいなかった世間的栄光さえ手に入れました。志代夫人によれば、それはただ「ついに舞台が表に回り始めたにすぎなかった」のですが。

 

  しかし、足穂とは何と特異な作家でしょうか。ポケットからこぼれ落ちたような童話のいくつか(『一千一秒物語』や『チョコレット』)と、飛行機と宇宙の星々と役に立たない器械への執着、それは簡素さへの、単純さへの、無垢への、天上の清明さへの憧れに他なりません。飛行機はシンプルな器械の極致です。できるだけ軽く、余分なものを振り捨てることによって器械は天空に上り、ついには星になり、金平糖になり、再びポケットの中に戻ってきます。彼が、どれほど余分なものを憎んだかは信じがたいほどです。彼の部屋を訪れた誰もが、そこに何もないことに驚いています。何かを集めること、何かを自分のものとして収集していくことの小市民性を彼ほど馬鹿にした人間もいないでしょう。たくさんの物を持つ者への軽蔑、それは「ご馳走」を食べる人間へのあからさまな侮蔑とも似ています。彼は、ある日、室生犀星の家に招かれて、食事時に卓の上に並べられた十を超える料理を見て驚きました。「これを淫行と言わずして何と言おうか」と彼は書いています。「おかず喰いの文学」はすべて駄目である、なぜなら文学の本質から外れた気取り、脂粉、衒いは堕落以外の何者でもないから、と。文学は米だけで十分、いや水だけで十分だというのです。

  「人生に何の興味もない時にだけ、人は童話の天文学者になります」(タルホ・コスモロジー)言い換えると、これは、人は人生に興味を失って後、作家となるということです。「愛欲にとらわれる度合いによって人は文学から遠ざかる」と、彼は確かどこかで書いていました。人間関係を深く考察していくことなぞ、彼には全く興味の範囲外のことでした。文学とは、結局、自分自身を考察することに他なりません。対人関係についての彼の冷たい眼差し、あるいは社会と政治への執拗な無関心はここからくるのです。彼の自我は温かな家族愛に恵まれなかった少年時に形成され、そこから寸分も変更されることがありませんでした。謎と苦悩など彼には世迷言にすぎません。ある日、水のほとりを歩いていると、両端に白い斑点のある小さな滴虫類を見つけた、顕微鏡で見てみると、そこには山や森や家々や、羊の群や犬が検出され、そこで蠢く一粒子が計らずもこの自分であった、、、。小品『地球』の最後はこのように終わり、フェヒナーの「人間は肉体を捨ててから真個の覚醒生活に入る」という言葉が添えられています。
 これが足穂の人生を見る視点ともいえるもので、彼にとって視点を移すとは、一度宇宙に出て、そこから地球を眺めてまた帰ってきてみることに似ています。ちょうど放物線がすべて相似であるように、人生は彼には拡大してみるか縮小して見るかの違いしかないのでしょう。

 好きなことしか書かない、金のために書かない、という彼の徹底した態度は、新聞小説や注文された雑文を書き散らす作家への辛らつな批評となります。家族を食わせるためだとしても、何かのために書くというのは潔癖な態度とはいえない、というのです。家族がいながら銅臭を嫌い、極貧に甘んじた吉田一穂を例外として、その点では他の作家は足穂から見れば俗物に違いなかったのでしょう。確かに足穂から目を転じると、石川淳や伊藤整も武田泰淳も小者に見えます。芥川が本名の龍之助から龍之介へ、西条八十が八十吉を八十とするのも、足穂から見れば無用の気取りであり、その文学の脆弱さを示すものです。表面的なつくりものにすぎない、と三島由紀夫を評したのは的確で、三島が本当に何が書きたかったのかわからない作家であるということはそのとおりでしょう。

 足穂は、手品や自転車を趣味としながら夜になると新宿の薄暗いバーで飲むことしかできなかった萩原朔太郎を揶揄していますが、私は堂々とした足穂よりも、自分の中にくぐもった朔太郎の趣味を愛します。自分がとにかく絶対であるべきだと信じる姿は足穂の彼自身の作品への態度に表れています。自身の作品への止むことのない添削、書き換え、削除、加筆ははなはだしく、そのために版によって大分異なる足穂の文の引用するためには、独特の苦労が要るわけです。つまり、足穂は自分の作品を工芸美術品とみなしていて、訂正すればするほど完成に近づいていくと思っていたのでしょう。しかし、明らかにこれは間違っています。美術館に作者が出向いてその都度作品を削りなおしていたら、見る人は戸惑うでしょう。添削することは、同時にあるものを失ってしまうかも知れないわけで、また、作品とは発表した時点で作者の手の下を離れ、人類共通の文化的財産に属してしまうものです。足穂のこの自己完成への図々しさが、彼の文学作品の面白さの大事な部分を損なっているように私には思えます。

それに反して、気楽に書かれたエッセイである『東京遁走曲』は整然とした記述も、時系列も出鱈目ですが、それゆえに私には面白い、何度も手にとって、神楽坂や牛込の辺りをぶらついた昔を思い出しながら読み返しています。福音書同様に、それは一人の人間の感動を与える記録に他ならないからです。

 

 

 

 

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