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2008年5月 1日 (木)

ランペドゥーサ『山猫』

 岩波文庫の新刊を手に取ると、なぜかいつもほんの少し胸さわぎがします。三月に出たトマージ・ディ・ランペドゥーサの『山猫』は待望のイタリア語からの原典訳ですが、岩波書店の「文庫ニュース」によると、訳者の小林惺は、翻訳原稿の最終確認を終えた夜、夫婦で歓談し、翌朝他界したということです。パーキンソン病を患っていた訳者にとってこの翻訳は時間との戦いでもありました。そして、重厚で格調高い訳文は、この小説のテーマが「死」に他ならないという理由で、さらにその深みを増してきたかのようです。

  『山猫』はその小説的結構の巧みさ、深い内面的真実によって、20世紀最高の小説群の中のひとつに数えられるでしょう。あらすじはきわめて簡単で、1860年のシチリアを舞台に、リソルジメント(イタリア統一運動)の嵐が、衰退していく大貴族の視点を通して冷静に語られていきます。

 シチリア有数の貴族、サリーナ公爵家のドン・ファブリーツィオは時代の蛩音を敏感に感じながら、なすすべもありませんでした。すでにガリバルディが南イタリアに侵攻して、両シチリア王国の国王軍を敗退させていました。サリーナ家は、パレルモの南、ドンナフガータの広大な領地を所有する大貴族ですが、ドン・ファブリーツィオの息子たちはみな貴族の家柄としての資質に欠けていました。唯一人、末娘のコンチェッタだけは、家の紋章の「山猫」に相応しく、高慢で不屈の魂を受け継いでいて、それゆえに公爵のお気に入りだったのです。

  しかし、公爵の本当の愛情は彼の甥、タンクレーディに向けられていました。タンクレーディはファルコネーリ公爵家の跡継ぎですが、元はサリーナ家と並ぶほどの所領を持っていたファルコネーリ家も、代々の遊蕩と放漫な家計によって、タンクレーディの代にはすでに無一文となっていました。両親が死んで身寄りのないタンクレーディを公爵は何くれと面倒を見ていました。というより、タンクレーディはドン・ファブリーツィオにとって日々の喜び、こういう息子がいてくれたら、という理想の青年だったのです。

 ほっそりとしてハンサムなタンクレーディは、愛想よく、機知に富んで、悪戯好きの子供らしさと、現実的な抜け目なさを持っている魅力的な青年でした。彼は貴族でありながら、ガリバルディの千人隊に投じ、祖国統一後の出世を夢見ていたのです。誰からも愛される、という点では『パルムの僧院』のファブリス・デル・ドンゴを思い起こさせますが、実際のところ、作者のランペドゥーサはスタンダールの研究家でもあります。スタンダールにとっても、ランペドゥーサにとっても、反省的な資質を全く持たず屈託もなく現実の勝利を手にしていく青年は彼らの理想でした。自由闊達で、優しく、その場の人々を楽しませる天性の能力。「この階級の人間にとって、人を楽しませる能力は愛情の五分の四を占めている」とランペドゥーサは書いています。「そして、何代にわたる災厄と痛ましい出来事と財産を蕩尽するほどの遊蕩がなかったら、彼のような若者が気品と気配りと魅力を身につけることは不可能なのだ」と。

  絶世の美女も登場します。ドンナフガータの村長であり、シチリアの新興階級の代表である大金持ち、ドン・カロージェロの娘アンジェリカです。タンクレーディは、恋仲のコンチェッタの意地っ張りに失望して、アンジェリカに結婚を申し込みます。彼にとって、アンジェリカの美貌もさることながら、その莫大な持参金は新しい社会に打って出るための貴重な資金と思えたのです。後見人であるドン・ファブリーツィオは、この結婚を祝福しつつも、曲がりなりにもファルコネーリ家の公爵であるタンクレーディが新興階級の平民の娘と結婚することに時代の決定的な変化を感じ取りました。「山猫」の時代は終わり、がつがつしたハイエナの時代になったということを。

  だが、この物語の核は、むろん誰よりもドン・ファブリーツィオ公爵その人です。父親からは好色と軽薄の資質を、ドイツ人の血を引く母親からは抽象と数学的能力を授かった公爵は、生そのものの喜びと同時に、その猥雑さへの空しさに捉われていました。50歳になろうとするドン・ファブリーツィオは、娼家への出入りを続けながらも、夜は自宅に設置した天文台から星々を覗き、その複雑な視差計算に没頭します。女性への官能的思い、狩猟の喜び、美食への嗜好という俗的欲望と相まって、天空の中に一秒と違わず出現してくる星々への崇敬に似た憧れがありました。それが地上に蠢く人間の運命と悲哀について宇宙的規模での省察に彼を導いたのです。

  すぐれた小説がそうであるように、この物語は美しい断片がモザイクのように組み合わせられながら、その一つ一つのいずれにも物語の核が散りばめられています。その核とは、秩序ある宇宙との精神的合体によって、死すべき存在への赦免と愛情を見出そうとする公爵の願いなのです。

狩の場面を思い出しましょう。公爵は朝早く、忠実な従者と慣れ親しんだ犬たちを連れて狩に出ます。アルグートとテレジーナの二頭の猟犬は、獲物のにおいを嗅ぎ、地面に伏せながら身を硬く緊張させ、低いうなり声を発します。数分後、灰色の野兎が草むらの中で動くと、同時に二発の銃声がして、数秒後にはアルグートが瀕死の野兎を公爵の足元に置きました。
 「(野兎は)痛ましくも、顔面と胸に深い傷を負っていた。ドン・ファブリーツィオは、二つの黒い大きな眼でじっと見詰められているのを感じた。眼はたちまち緑青色のヴェールに覆われはじめ、非難する様子もなく彼を眺めていたが、そこには世の事物の成り立ち全体に向けられた、茫然自失の表情がこめられていた。柔らかな毛に覆われた耳は早くも冷たくなり、頑丈な造りの小さな脚は、リズミカルに痙攣し、はかない逃走を示す身振りを繰り返した。野兎は、大抵の人間と同じように、捕獲された瞬間から脱出の可能性を夢見、不確かな救済の期待に慄(おのの)きながら死んでいった。慈愛に満ちた公爵の指先が、哀れな鼻面を愛撫しているとき、最後の身震いをしたかと思うと動物は息を引き取った」 
 狩は公爵のかけがえのない楽しみの一つであり、皆がまだ眠っている早朝に忍び足で邸宅を出、朝露で濡れそぼった草むらの上にまるで彼を待っていてくれたような金星の輝きを見ると、公爵の胸は高鳴るのです。しかし、そのような楽しみの中にも、公爵の頭から離れないのは、すべての存在が否応なく従わざるを得ない生と死の謎でした。

 物語のもっとも軽やかで歓楽に満ちたページは、婚約した若い二人、タンクレーディとアンジェリカが使われていない部屋が並ぶ宏大な邸宅の内部を手を取り合って散策するときです。二人は純潔を守ろうとしながらも、その欲望は苦悶と化し、法悦と苦悩、抑制までもが快楽となる瞬間に、タンクレーディはアンジェリカの緑色の瞳の中に自分の黒い瞳を見出します。この幸福の瞬間、すなわち、婚約は予定された幸福の猶予期間でありながら、本当の幸福は実はその猶予のとき以外ではなかったのだという瞬間に、人生は皮肉な逆説の顔を見せるのです。「それはまるで忘れられたオペラ作品をよそに独り生きのびた序曲のようである」と作者は書いています。二人の長い結婚生活は、結局は不成功に終わるのですが、その予告編だけが完成品としての美しさを持っていたのです。

 しかし、小説のクライマックスは、やはり、物語の終わり近くに描かれるパレルモでの大舞踏会の場面でしょう。サリーナ家の全員は正装し馬車に乗って舞踏会に出かけます。聖ドメーニコ教会の裏を進んでいると、誰かが亡くなったのか、臨終の聖体を授けに行く司祭に行き会います。司祭は聖杯を持ち、従者は銀の鈴と白い傘を持っています。ドン・ファブリーツィオは慣例通り馬車を停めさせ、降りて歩道に跪きます。それは司祭への敬意であると同時に身罷った死者への祈り、人間の運命への祈りに他なりません。

舞踏会は盛大に催されました。タンクレーディの粋な若々しさ、アンジェリカの恐ろしいまでの美しさ、コンチェッタの上品で清楚な顔立ち。だが、疲れたドン・ファブリーツィオは人のいない図書室でグルーズの《義人の死》という絵画に見入ります。画面では今まさに一人の老人が幾人かの身内に囲まれて死んでゆくところが描かれていました。「自分もまたこのように死ぬのだろうか」という思いが頭をよぎります。そして、なぜ自分の死を思うことは、他人の死のように悲しみとしてではなく、逆に慰みと感じられるのか、不思議に思います。そのとき、彼を探していたアンジェリカが入ってきて、叔父に最後のダンスの相手になってくれと頼みます。

華やかな舞踏会の会場、その真ん中でワルツを踊るドン・ファブリーツィオとアンジェリカ。時間が止まったかのように、舞踏会場の人々は二人の踊りを見つめています。ドン・ファブリーツィオの脚は軽く動き、手はアンジェリカの腰を強く抱きます。彼女のむきだしの肩からは若さの艶やかな香りが立ち上ってきます。公爵は一回転するごとに一年ずつ肩から年齢がはがれていくように感じ、まだ若かったころ妻と踊った幸福な時代を思い返します。幻滅、倦怠、その他もろもろのことを知らなかったその時代のことを、、、。死ぬなんて、とんでもない、と一瞬彼は思いました。

  舞踏会が終わったときはもう明け方になっていました。馬車に乗り込んだ家族に、公爵は自分は歩いて帰ると言い出します。星の降る空を眺めながら帰りたかったのです。すると荷馬車が向こうからやってきて、その中に屠殺場で殺されたばかりの四つに切り刻まれた家畜の屍骸が積まれています。赤い血の滴りが荷馬車の跡に続いていました。四つ角に立つと、白いターバンのように朝もやでくるまれた金星の姿が見えました。「彼女はいつだって自分を待っていてくれた」とドン・ファブリーツィオは思います。しかし、彼女はいつになったら、無様な人間社会や係累から遠く離れた自分だけの世界で束の間に終わることのない逢瀬を約束してくれるのだろうか、そう思ってドン・ファブリーツィオは深いため息をつくのでした。

 作者のトマージ・ディ・ランペドゥーサ(1896~1957)は代々シチリアで宰相を務めた名門ランペドゥーサ公爵家に生れました。ドン・ファブリーツィオのモデルは作者の曽祖父だと言われていますが、この小説に登場する広大な屋敷も貴族の生態もほとんど等身大の作者の体験から出ています。「貴族の家系を存立させる重要な基盤は、すべてその伝統の中、なおも生き続ける根源的な記憶の中にある」と書いたランペドゥーサにとってイタリア統一後に出現した「新興貴族」などは貴族の名に値しなかったのでしょう。さらに、シチリア人であること、シチリアがいやいやながらイタリアに統一されたことに作者はこだわります。シチリアの風土(それはこの小説の中でも興味深く描かれています)への熱い思いは、この物語の中で、ドン・ファブリーツィオが新国家イタリアの上院議員への推挙を拒絶する長い対話の場面で表現されています。

貴族であること、シチリア人であること、しかし、それ以上に作者は死すべき人間であることに深くとらわれています。訳者の解説によると、ランペドゥーサは晩年パレルモの若者に英仏文学を講じていましたが、その受講生の一人は「彼は文字通り、死の影を宿していた」と語っていたそうです。人生のすべての事物、事柄を死を通してしかみることができない人間のさびしい顔立ちが目に浮かぶようです。舞踏会で若いカップルたちが楽しそうに踊っているのを見た公爵は次のように思います。
 「ドン・ファブリーツィオは心が晴れやかになるのを感じた。彼の不快な気分は、揺り籠以前と、臨終の苦しみの後の、その二つの闇の間でわずかに与えられる光を味わい楽しもうと懸命にあがく、この儚い生き物への同情心に席を譲った。確実に死すべき人間に対して、過酷に振舞うことがどうして許されるというのか。彼らは、街の通りを鳴きながら屠殺場へ引かれてゆく動物たち同様、哀れで救いようのない、愛すべき存在なのだ。その、彼らの耳にも、いつの間にか、三時間前に聖ドメーニコ教会の裏で聞いた鈴の音が届くことだろう。永遠以外のものを憎む資格など人間にはない」

 かつてのイタリアの貴族たちは、この現世の苦しみと倦怠からの救いを芸術作品に求めました。しかし、ドン・ファブリーツィオは天体望遠鏡で星々を観測している時だけ平穏でいられたのです。彼は二つの小惑星を発見し、彗星の複雑な計算を成し遂げて賞賛されました。天空の澄み切った整然とした動き、偉大な秩序、そこには地上にはない調和と安らぎがありました。

そして、ついに公爵に死が訪れます。73歳になった老公爵はタンクレーディとコンチェッタの見守る中、パレルモのホテルで静かに息を引き取りますが、それを描く章はコニー・ウィリスの『航路』を思わせる感動に満ちています。死にゆく公爵に次々とかつての思い出がよみがえってきます。幼少年時代の友達、気持ちを通じあえた犬たち、心をときめかせた恋の思い出、アラーゴ(著名な天文学者)から手紙をもらったときの驚き、修道院での悔悟のひと時、、、、そして、意識がまさに遠のいていく瞬間に、旅支度をして鞄を提げた若い女性が汽車の時間に遅れるのを心配して慌てて部屋に入ってきます。身内の人間をかきわけ、ヴェールを外した美しい顔を公爵に近づけ、恥ずかしそうに、すぐにも身をまかせようとしています。彼の求愛に応じて、明け方の東の空から降りてきたのです。「大空の星の間で見かけたときよりも、ずっと美しい女(ひと)のように思われた」
 これがドン・ファブリーツィオの臨終の瞬間でした。

作者のランペドゥーサはほとんどこの一作で世に知られています。『山猫』は作者の死の翌年1958年に出版されました。

 

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コメント

『山猫』といえばヴィスコンティ監督の名画を思い出します。クラウディア・カルディナーレはまぶしいほど美しかった。古今東西の名作映画の中でも、この作品は何度見ても飽きがこない。歳を重ねるごとに、人生について考えさせてくれる傑作です。

主演のバート・ランカスターもベテラン俳優としての持ち味をフルに出していました。歳を取るということは切なく悲しいが、それを受け入れるしかないのもまた人生です。

ランカスター主演の映画としてはこの『山猫』、ベルトルッチ監督の『1900年』、ジョン・フランケンハイマー監督の『終身犯』が私のお気に入りです。名優と名監督が出会えば、当然のことながら名画が誕生するのはあきらかです。

そしてオペラでこういった作品がないかと考えたところ、即座に思い出したのがヴェルディの『ドン・カルロ』です。フィリッポⅡ世のアリア「一人寂しく眠ろう」は、若さを失った人間の深い感情を声高にではなく、しみじみと歌い上げ、決して若くはない主人公を題材とした前記三作の名画にあい通じるものがあると思います。

ところで私は、自分なりの読書計画を立てておりまして、急には変更できません。しかし管理人さんの「翻訳原稿の最終確認を終えた夜、夫婦で歓談し、翌朝他界した」とのコメントにより、なんとしても読まなければならない作品としてメモを取りました。

追伸
ネットで情報を集めていたところおもしろいブログに出会いました。一度ご覧になってはどうでしょう。管理人さんに近い年齢の方と思います。

http://pepecastor.blogspot.com/

投稿: 自由が丘 | 2008年5月20日 (火) 19時07分

自由が丘さん、こんにちは。
映画は実はまだ見ていないのですが、機会があったら見てみたいと思っています。
バート・ランカスターは『OK牧場の決闘』しかすぐ頭に浮かびません。それでは。

投稿: saiki | 2008年5月20日 (火) 23時51分

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