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2008年3月 1日 (土)

デーブリーン『ポーランド旅行』

ローレンス・スターンからブルース・チャトウィンに至るまで、すぐれた旅行記というと、イギリス人の名前がすぐに頭に浮かびます。人間性への尽きせぬ興味、事柄への公平で地道な関心、そこには、何でも知りたいが、知りすぎることは下品なことだ、という紳士の哲学が生きているようです。反対に、ドイツの旅行記というと、主観の勝った退屈なもの、という先入観があるのですが、『ベルリン・アレクサンダー広場』の作家アルフレート・デーブリーン(1878-1957)の『ポーランド旅行』(鳥影社・岸本雅之訳)は、さて、どうでしょうか。期待通りの暗さと重さを持つこの旅行記を、彼が巡った土地ごとに紹介していきましょう。


《ワルシャワのユダヤ人地区》
 デーブリーンは
1924年秋、フィッシャー書店の資金援助を得て、約二ヶ月間ポーランド各地を旅行しますが、その目的は自らの出自を探る旅だった、といってよいでしょう。彼はポーランドで生まれ、十歳のときにポーランド人の両親と共にベルリンに移住してきました。両親はすでにキリスト教に同化したユダヤ人であり、デーブリーン自身も、自らのユダヤ性を格別に意識することはなかったのです。ところが、偶然ポグロムを目撃した経験が、彼にユダヤとユダヤ性についての興味を呼び起こしました。彼はユダヤ人について知るために隣国ポーランドの旅行を決意します。

その当時、世界のユダヤ人口は約1500万人弱で、そのうち350万人がポーランドに住んでいました(ドイツには約70万人がいました)。ポーランドは、ユダヤ文化が最も花開いた土地であり、ハシディズムの発祥地でもあります。彼らは、ここで間歇的なポグロム(大量虐殺)の恐怖に襲われながらも、古来の伝統を守り、ユダヤの教義を伝えてきました。

デーブリーンは、ドイツの啓蒙され同化されたユダヤ人社会に見ることのできない様々な風習、人情、民族性に遭遇し、それらをやや荒い筆致で書き留めていきます。そして、この記録は今となっては限りなく貴重なものになりました。なぜなら、ポーランドユダヤ人の九割に当たる300万人が、第二次世界大戦でナチの民族浄化計画の犠牲となって殺されたからです。彼らと共に、ポーランドのユダヤ社会の伝統であった一切のものが地球上から姿を消しました。古びたカフタン(ユダヤ人の着る長衣)を身につけたラビも、ユダヤ学校でヘブライ語を学ぶ黒髪の少女も、シナゴーグで聖書の数節を美しい声で暗唱する少年も、デーブリーンが出会い、話し、書きとめたほとんどすべての人たちを待つ運命は、飢餓と恐怖の後の残酷な死だったからです。そして、この消滅したユダヤ社会は、二度と戻ることはありませんでした。絶滅収容所から生きて帰ったユダヤ人は、元の家を勝手に収奪していたポーランド人に殺されたり、追い払われたりしました(2000年の統計でポーランドのユダヤ人人口は、わずか6000~9000人です)。

 ポーランドにユダヤ人が住み着くようになったのは13世紀からです。貴族と農民しかいなかったポーランドに商工業を発展させるためと、さらに貴族の財務管理のために、貴族階級が彼らの定住を許したのです。ヨーロッパ各地で迫害されてきたユダヤ人は次第にこの北の地に移動してきました。「ポーランド、貴族の天国、ユダヤ人の楽園、農民の地獄」という言葉もあります。ユダヤ人たちは都市に住み着くと、教会や中心地から離れた地域に直ちに彼らの社会を造り出します。シナゴーグが建てられ、墓地が造園され、清浄な食料品店ができ、ユダヤの祭式用具を商う店も現れます。

1924年当時、ワルシャワには35万人のユダヤ人がいました。デーブリーンは、ユダヤのまさに贖罪の日(ユダヤ教でもっとも厳粛な日、人々は一切の活動を停止し、断食する)にワルシャワのユダヤ人地区を訪れます(ユダヤ人には法律上同等の権利が与えられていたので、ポーランドには他の都市のようなゲットーは存在しませんでした)。どのシナゴーグでも、集会所でも、人々はひたすら祈り、その罪を悔います。ユダヤ人墓地は嗚咽、泣き叫び、かん高い聖書の朗読で騒然としています。ある者は墓石を両腕で抱え、ある者は唇を震わせて墓の前に立ち、赤く泣きはらした目で碑銘を見つめています。上等の服を着た娘が地面に突っ伏してうめき声を上げています。それは、イディッシ語で「お父さん、愛するお父さん、あなたはどうして逝ってしまったの。助けてください、生活はつらい、すごくつらい、、」と聞こえました。墓はすべて同じ方向に向いていて、草がそれらを覆いつくしています。歌う声、泣く声、うめく声、そして薫煙が白い雲のように墓石の上を漂っていきます。墓が立ち並ぶ前で、乞食、盲人、聾者たちが群れになって身をかがめ、人々に向かって手を差しのべています。「ユダヤの人たち、どうかお助けを」「どうか施しを」彼らは行き過ぎる人に呼びかけ、手を取り、体に触ります。それは人々の良心の呵責と同じように仮借のない執拗さです。ぞっとするような襤褸をまとい、ショールに子供を包んだ母親、白濁の眼をしてうずくまる老婆。いたるところで財布があけられ、金が取り出されます。山ほどの札を持っている乞食もいます。人々は、過去に死者に行った悪事や、これまで行ったあらゆる不正行為から逃れるために施しをするのです。

「これらのものを見聞きして、私の全身はうち震えた」とデーブリーンは書いています。ドイツの啓蒙されたユダヤ人社会には決して見られないもの、何か先祖帰りしたようなものが、そこには見られます。これらは、この民族の太古の表象が現出したものではないのだろうか、とデーブリーンは自問します。

 贖罪の日の五日後の仮庵の日。この日、人々はエジプト脱出後荒野を流浪したことを記念して、中庭やベランダに粗末な小屋のようなものを作って、そこに食料を運び、一日を祈りに過ごします。小屋の上には小枝が敷かれ、子供たちは蝋燭の先にリンゴをつけて楽しみます。「これはこの民族の一風変わった祭りだ。それは自然祭の名残りなのだ。商いと精神の民のなんと悲しい記憶だろうか」土地も、国も、国家もなく、土地耕作から完全に閉め出されて、この民族にとって自然は、ただ粗末な仮小屋の上に敷かれた木の葉だけになってしまったかのようです。

 日曜日、ワルシャワから二時間ほどのところにある、グラ・カルヴァリアに向かいます。ここはユダヤ教ハシディズムの聖地で、大勢の信者が高名なツァディック(ハシディズムにおける指導者)に会うためにぎゅうぎゅう詰めの列車に乗って集まってきます。赤ん坊を抱えた婦人、キッパ(男が頭に載せる黒い丸い布)をつけた人たち、また大きな荷物を抱え、東北ポーランドからツァディックに会いに何日もかけて普通列車でやってきた人たちもいます。常に祈祷書を携えているこれら悲しげな人たちは、みな、救いを求めてツァディックの下を訪れるのです。

列車がグラに到着しました。長い列車から吐き出された乗客たちは、村に向かってぞろぞろと歩いていきます。キッパを被った黒い頭ばかりの行列が延々と続くのです。彼らを迎える村の住人は、みな、さっぱりした黒いカフタンを着て、黒い光沢のある山高帽子を被り、ゆれる長髪をコルク栓抜きのようにきつくカールしています。「これらは、狂信的、夢幻的、中世的だ。彼らの顔は真摯な平静さをたたえた独特の表情をしている」とデーブリーンは書いています。子供たちは白い靴下にきれいなサンダルをはいていますが、儀礼上、女性たちの姿は見られません。

 レッベ(ツァディックと同義語)の屋敷に着くと、人々は玄関ホールの入り口で押し合いをしています。重い扉から入れるのは一人ずつで、人々は気の遠くなるような時間を辛抱強く待っています。一人だけ西欧的な服装をしたデーブリーンは、通訳の巧みな交渉のおかげで何とか中に入ることができました。レッベに会うとき、人々は小さな紙に名前と願いを書いておきます。レッベの周りにはその小さな紙の山がうず高く積まれています。デーブリーンはツァディックの前に座りますが、質問することは何もありません。沈黙の後で、ツァディックが彼の手をとって、「ショーレム(平和という意味のイディッシ語)」と小さくつぶやきます。デーブリーンが席を立とうとすると、すかさず次の男が紙片をレッベに差し出しています、、、。

午後にはレッベの大宴会が開かれ、人々はできるだけレッベの近くに行こうと、テーブルの下までもぐりこみます。レッベは神に近いところにいると考えられるので、彼のより近くにいて、彼の空気に触れ、彼の食べ残しにあずかることで、その聖性のいくらかをもらおうとするのです。「この世を来世への玄関、入り口にすぎないと考えている人々がいるが」とレッベの講話を載せている小冊子には書かれています。「本当はこの世も来世なのだ。ところが、人はこれが分からない。これが分かるには罪から逃れ、欲望から離れ、神の晴朗さに近づかねばならない」と。

《ヴィルノ》 
 ヴィルノは現在のリトアニア共和国の首都ビリニュスのポーランド名。ここで、ごく簡単にポーランド史を振り返ってみましょう。かつて、ポーランドはヨーロッパの強国でした。しかし、
16世紀後半、選挙王政の制度を取り入れてから国は分裂し弱体化していきます。18世紀末から120年間、ロシア、ドイツ、オーストリアの強国に分割されてポーランドは地図上から姿を消してしまいます。「ポーランド人は世紀を超えて不幸な境遇にあった。抑圧は人を屈折させ、弱気にさせる。これで素朴な人間ができるわけがない」とデーブリーンは書いています。こんな話もあります。三国の国境付近にいたポーランドのユダヤ人が困っていた、なぜかというと、ロシア人は賄賂を常に取り、ドイツ人は決して賄賂を受け取らず、オーストリア人は受け取ったり受け取らなかったりしたから、というのです。ところが、第一次世界大戦はポーランドに全く予想外の結果をもたらしました。大戦が終わってみると、分割していた三つの帝国がそろって崩壊し、ポーランドは独立を再び手に入れることができたのです。さらに、リトアニア、ウクライナの領地まで力ずくで手に入れ、国民はかつての大国の幻想さえ抱きました。しかし、1939年ヒトラーの電撃作戦にもろくも破れ、その後ソ連の傘下に入った後、自由化の波の中で、EUに加盟を果たします。何と数奇な運命に翻弄された国家でしょう。ノーマン・デーヴィスの『ポーランド史』が、その副題を「神の遊技場God’s playground」としたのもゆえなしとしません。

 リトアニアはウクライナと同じギリシア・カトリックを信奉しています。ギリシア・カトリックは、儀礼をギリシア正教から、教義をローマ・カトリックから取り入れています。デーブリーンの訪れたヴィルノの小さな教会は、金色のドームに覆われ、内部は厳粛なビザンチン風の金色の壁画に覆われ、青いガウンを羽織った司祭は、香煙盤を掲げて歩きながら人々に薫煙を浴びせかけます。この異国風の典礼を目の当たりにして、デーブリーンはそこに神秘的呪術的なものを見出しています。(彼自身はアメリカに亡命して後、ローマ・カトリックに帰依しています)

 偉大なガオン(博識のラビ)の礼拝所。木造の建物の中で、男が二本の棒に巻かれたトーラーを掲げて、人々に見せています。もう一方では人々が分厚い書物に顔を落として低い声で話し合っています。歩き回る人はほとんどいません。この礼拝所につけられたガオンの名は、ヴィルノ中でしばしば目にします。彼の名はエリヤフ・ベン・シュロームといい、18世紀のはじめの四半世紀にヴィルノで生まれ、80歳近くまで生きました。すでに七歳にして、ヴィルノの大きなシナゴーグで説教をし、九歳で聖書を、そして十歳でバビロニア・タルムードの大部分を諳んじました。人々はこの博識で偉大な男をエリア・シュローム、(判定の)完璧なる分銅、と呼びました。このガオンは、一時、自分の身を洗い清めるために流謫の身となり、ポーランド、ドイツを放浪し、ヴィルノに落ち着いて禁欲的生活を送り、タルムード、カバラ、数学、天文学の研究を進めました。

 同じころ、ウクライナ地方にユダヤ教の「邪説」が現れました。これを唱えたのはタルムードとトーラーに精通していない一人の男でした。男はロシアの地方の町や村で貧しいユダヤの民衆に様々なことを語り始めました。この無学なタルムード信奉者とはラビのイスラエル・バール・シェムトブ(律法よりも宗教感情を重視するハシディズムの創始者1700年頃―1770)その人でした。彼はシナゴーグにこもることなく、戸外に出て、鳥の鳴き声や樹木の言葉を学んだと伝えられています。「なんとまあ、世界は光と不思議な謎に満ちていることだろう。それなのに、小さな手が目をふさぎ、偉大な光を見えないようにしている」と彼は語っています。「礼拝のための導きでもなく、神との合一への懸け橋でもないとすれば、トーラーとはなんだろうか。それなのにラビたちは、この目標を追及することもせず、学識を自慢している。タルムードを知らなくとも、誰でも皆正しく偉大であることができるのだ」。

 無学な人々が彼のもとへ押し寄せました。「彼は偉大な、天然自然なままの人物だったに違いない」とデーブリーンは書いています。「この驚嘆すべき人物は偉大な霊魂の力を、その絶大さを説いた。人々は彼をツァディック、すなわち奇跡をおこし、人々を救う神秘的存在に加えた。彼は喜びと快活さ、ひたむきな祈りを説いた。彼には悲しみは非難すべきものに思われた。彼には純粋な思想としての感情がすべてだった。そして、森や穀物畑で祈ることもまたよしとした。ハシディーム、すなわち信心深い人、と彼らは自らを名乗った」

 ヴィルノのガオンは直ちに、民衆をまどわせるハシディズムの指導者と信奉者を破門しました。「あの輩(やから)を迫害し、もみ殻のように跡形もなく吹き飛ばしてしまうがよい。ハンセン病や膿汁に病む者たちのように、あの輩の住むねぐらから追放せよ」と、彼は叫びました。ハシディズムの書物は焚書にあい、迫害は激しさを増したが、それにもかかわらずハシディズムは燎原の火のように広まりました。しかしガオンは決して敗北はしなかったのです。彼の都市ヴィルノは依然としてリトアニアのエルサレムとして理性的信仰の中心地であり続けました。

 バール・シェムトブは「神の教えは完璧だ。それは魂に活力を与えてくれる」という言葉を残してその偉大な生涯を閉じました。バール・シェムトブと最後まで闘った大ガオンは、ヴィルノの古い廟墓に葬られています。妻が死んだとき、彼は「私は食べるのにずいぶん苦労した。けれども、それはトーラーと神のためだった。しかし、お前は私という一人の人間のために苦労しなければならなかった」と語りました。彼の墓のまわりには祈りと願いの紙片が山のように置かれています。

 「ユダヤ人とは何と驚嘆すべき民族だろう」とデーブリーンは書いています。「私はよく知らないままに、ドイツで目にしたもの、せかせかと働く人たちや、家庭のことにかまけてしだいに肥満していく商人たち、目先の早いインテリ、繊細な感性を持った、落ち着きのない、数え切れないほど多くの不幸な人たちのことをユダヤ人だと思っていたのだ。彼らは、この地で変わることなく生きつづけている民族の中核から遠く離れて、隔絶し退化してしまった種族だということを、今私は知った。それにしても、こんこんと尽きることなく湧き出る豊かなバール・シェムや、陰鬱な炎を宿したヴィルノのガオンを生み出すこの中核とは何と驚くべきことか。一見、開けていないように見えるこの東部地方で、並外れたことが起きたのだ。すべては精神をめぐってのことだった。この民族ほどに宗教的・精神的なものに専心する民族は他にはほとんど例をみない。ユダヤ人は国家形態や革命、戦争、国境線などと格闘する必要がなかった。彼らがバビロンの流れのほとりで涙したのは、そんなことのためではなかったのだ」

 デーブリーンは、この後、ルブリン、レムベルク、ウッジ、そして古都クラカウの美しい聖マリア教会などを訪れますが、もうあまりに長くなりました。彼は最後の地ポーランドの回廊、ダンツイヒで、砂浜を歩きながら、最強なのは自然だ、そして二番目は人間の精神と意志だ、という結論にたどり着きます。これこそユダヤ人の結論といえましょう。

 

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