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2008年3月23日 (日)

モーリス・バレス『グレコ -トレドの秘密』

神保町に本を買いに行くときは、JR御茶ノ水駅の聖橋口を出て、ニコライ堂と日大歯学部の間の池田坂を下って行きます。太田姫稲荷という小さな社を曲がると、左側に「かげろう文庫」その並びに「ボヘミアンズ・ギルド」そのまま靖国通りを渡ると「源喜堂」があり、この三つの古書店でかなりの美術・芸術書を見ることができます。ところで、その「ボヘミアンズ・ギルド」がすずらん通りに移転して、開店祝いの花輪など飾ってあるその店頭の棚からサクっと抜いたのは、モーリス・バレスの『グレコ ― トレドの秘密』(筑摩書房・吉川一義訳)でした。カバーの無い本でしたが、「源喜堂」で2500円の値のついた本が600円とは安いものです。思えば、十年前、この本を遠くの図書館から取り寄せてもらって読んだのですが、その時の深い衝撃と感動は今もなお私の中に残っています。

 1902年にバレスがトレドの教会という教会をまわり、グレコの絵を捜し求めていた時には彼の評価はまだ定まっていませんでした。サント・トメ教会を訪れると、門を開けてくれた番人たちが大騒ぎで蝋燭の炎をかざして、長い棒で『オルガス伯の埋葬』の上半分を指し示しながら、「気違いだ、気が狂ったんだ」と叫んでいました。こうした反応はどこを訪ねても同じで、サント・ドミンゴ・エル・アンティ―グオ教会でも、サン・ホセ教会でも、カテドラルでも、坊主たちのあからさまな軽蔑と嘲りの言葉が聞かれたのです。すでにグレコの生前から、彼が狂人であったという風評があったのですが、画家本人は、皆が驚いても別に釈明するわけでもなく尊大に構えていたということです。「そこに、画家の琴線にふれる秘密があったからだろう」とバレスは書いています。ともかく、狂人であろうがなかろうが、この画家は強烈で特異な精神の持主であったことは間違いない、それでは教会という教会の奥の奥まで、この画家の秘密を探りに行くしかないではないか、とバレスは決意したのです。

 グレコの秘密はトレドの秘密でもあります。はじめてトレドを訪れたバレスは、その風景に驚嘆します。むきだしになった花崗岩の岩盤の上に建てられた町、アフリカを思わせる表土をはがされた薄茶色の土地をタホ川の濁った流れが取り巻く町、トレドはやや離れたところから見ると、誇り高い女の落魄した姿を思わせます。スペインの古都にして政治・文化の中心都市であったトレドは、しかし16世紀半ばのマドリッド遷都により、一気に凋落の道をたどりますが、なおスペイン・カトリックの総本山として直径1キロ半の小さな町に90もの教会と18の修道院をかかえ、人々が日に七回もミサにいく宗教的中心都市であり続けました。

「財産を使い果たしてから三世紀、この町はその伝統を守ってきた。この町はみずから変心するくらいなら、その前に自壊する道を選ぶだろう」とバレスは書いています。しかし、この町には、よそ者を丁重に拒絶するあるものがあります。バレスは、あらゆる時刻にわたり、縦横に街中を歩き回りますが、町の心には厳重に錠前がかかっていて、容易に開けてくれそうにありません。「私がこの町で感じるのは、名指しがたい悦楽の匂いであり、愛と、名誉と、信仰に彩られた過去のなかにも、罪を犯した後ろめたさのようなものが混じりあっているのだ」その後ろめたさはどこから生じてくるのでしょうか。

 「この町では至るところに」とバレスは言っています。「カトリックの分厚い上塗りの下に、今もなおアラブやユダヤの要素が生き残っている。」 ローマ帝国の属州として歴史に登場したトレドは、その後、西ゴート王国の首都になり、八世紀から十一世紀にかけてイスラム帝国の支配下にありました。1085年、カトリックがトレドを制圧した後、カトリック、アラブ、ユダヤの三教が共存する時代が続きます。が、14世紀にカトリックからのユダヤ教迫害が始まり、15世紀の異端審問所の設置によるアラブ、ユダヤの非改宗者への弾圧に至ります。こうして、建築様式にもキリスト教、アラブ、ユダヤの折衷様式が見られるように、人々の心にも哀愁と呪詛と希望が複雑に入り混じっています。

イスラムの時代に改宗せずカトリックを守った人々(モサラベ)、レコンキスタの後、改宗しなかったイスラム教徒(ムデハル)、外面的にはカトリックに改宗して迫害を逃れたユダヤ人(マラーノ)などの子孫が今もなお、トレドの町に生息しています。「自分では敬虔なスペインのカトリック教徒だと思っている人間もその行いから見ると、明らかにセム人の特徴を持っている」とバレスは書いています。トレドは、スペイン随一という深い宗教心の下にかくも複雑な民族的宗教的相貌を併せ持っていたのです。

 エル・グレコは1541年にギリシアのクレタ島に生まれ、26歳でヴェネチア、29歳でローマで修業し、35歳でスペインに赴き、36歳から死ぬまでトレドで暮らしました。おそらく、イタリアでは画家があぶれていて、十分な注文が得られなかったのでしょうが、しかし、トレドの地はグレコにまさに決定的な影響を及ぼしました。

「カスティーリャ地方は、エル・グレコを驚嘆させ、その心をとりこにした。新しい環境に驚いた異国の人が、その微妙なニュアンスを捉え、それを才能に恵まれた現地の人よりもずっと巧みに描くようになるのは、よくあることだ」とバレスは書いています。ビザンチンの教育を受け、ギリシア東方世界に生まれ育ったグレコは、幼いころからイスラム世界のさまざまな暮らしを眺めながら育ちました。だから、彼は、美よりも神を重視するトレドの神秘主義的東方的雰囲気にも、カトリックに改宗したトレドのアラブ住民にも愛着を抱くようになったのは不思議ではありません。むろん、彼の心を覗き見ることはできないが、次のことははっきりしています。グレコは、トレドの灰色の丘陵と鹿毛色の町のたたずまいを眼にしてすぐに、鮮やかなイタリアの色彩と、芝居がかったヴェネチア派の表現技巧を捨て去ってしまったのです。そして、信仰心厚い人々と情熱的で憂い顔のスペイン貴族に囲まれて、彼は、豪奢なヴェネチアや教皇の住むローマにつきものの華やかな装飾を忘れました。彼はパレットの黄金色をすべて打ち捨て、好んで青白く冷たい光を用いるようになりました。こうして、洗練された技巧をあますところなく修得した輝かしいヴェネチア派の実直な弟子は、「奇怪」で「貧弱」な画家になったのです。

 傑作『オルガス伯の埋葬』を見てみましょう。この絵の下半分は、サント・トメ教会に多くの寄進をしたオルガス伯が埋葬される場面を技巧を凝らした写実主義で描いています。オルガス伯は、霊界から降りてきた聖アウグスティヌスと聖ステファヌスに抱えられ、仲間であるトレドの貴族たちに囲まれて、今、手厚く葬られようとしています。画面の上半分は、天界に昇った全裸のオルガス伯が、イエスと聖母マリアに迎えられている場面が幻想的に描かれています。アントワーヌ・ド・ラトゥールはこの絵についてこう記しています。「哀れな狂人の天分が、これほど心に滲みるかたちで示された画は、どこにもない。この画の、さしずめ人間的部分というべき、遺体とそれをとりまく人々を描いた部分は、すばらしい。この人たちは、どの顔も生身のように生きいきとしており、きわめて巧みに群像として処理してある。しかし、作品の上半分には、こうした練達の技巧がすこしも見出せない。天空には混沌とした雲が漂っているばかりで画家の頭脳の混乱ぶりを反映しているとしか思えない」
 こうした見解が蔓延しているせいで、プラド美術館には下半分だけ切り取った複製も存在する、とバレスは書いています。

  「なんてひどい誤解だろう」バレスは強く反論します。「それは、凡庸で、ものを知らない人間が犯す間違いだ。こうした、あまりに現実をたいせつにする人たちには、天空図こそ、画家が作中人物に与えた表情をー画家がいちばん高貴なトレドの人々の風貌と心根の中に捉えた表情をー補って完全にし、その根拠を示すものだということが、どうしても感じとれないのであろう」

 「その表情に、悲哀と、謙虚と、威厳とが、かくもみごとに混じり合っているのは『オルガス伯の埋葬』の貴族たちが、超自然の生がどういうものかを知っているためである。グレコが彼らの頭上に描いたもの、それを彼らは心中から発する眼差しで見つめているのだ。われわれとすれば、精神錯乱と思われかねないこの天空図のなかに、貴族たちの気難しい風貌の下にひっそり息づいている形而上の想念を認めたい」

  つまり、天空図は下に描かれている貴族たちの頭の中のヴィジョン、彼らの全生涯を鼓舞し、規定しているヴィジョンそのものを表しているというのです。忘れてならないのは、この貴族たちが(そしてグレコ自身も)聖女テレサと同時代の人たちであった、ということでしょう。オルガス伯の友人にとって、まだ生きている自分たちは、魂が肉体に拘束された人間にすぎず、死によってはじめて魂は天空に呼び寄せられ、やさしきイエスの典雅な身振りと聖母マリアの慈愛がそれを迎えるのです。

  ここで、はじめてグレコが何を意図していたかがわかります。彼の画はどれも、聖女テレサの教義書と十字架のヨハネの詩篇を補うものであったというのです。それはどれも、立派なカスティーリャの人々に、内的生活への入門の役目を果たしているというのです。
 「どんな書物をひもといても、内的生活がどんなものか、これほど完全で、斬新な概念を与えてくれるものはあるまい。ここには、過去の亡き人びとの目鼻立ちもさることながら、それ以上に、彼らの抱いた夢や、もの想いが見てとれる。 エル・グレコは十七世紀のトレドの人々が生れながらにもつ心の奥底にまで私たちを導いてくれるのである。ここに描かれた人々のいちばん高貴な願望は、天上の高みにまで伸びていくものであるが、かりにグレコがなく、あの幻覚におそわれたような画がなかったとしたら、こうした人々の魂はことごとく忘却のかなたに死滅するしかなかったであろう」

  次に、「グレコの最高傑作」とバレスが断言する『聖霊降臨』を見てみましょう。ここに描かれている人々は、ひとり残らず一体となって、ひとつの同じ動作で身を躍らせ、この世に生れついた限界を脱して、明るく上空を飛翔する聖霊に追いつこうとしています。一堂に会したスペインの生身の人々が、並外れた感動にとらえられ、身をくねらせ、溶け出し、蒸発していくのです。

 彼らは、私たちの見ている前で、精神的存在へと姿を変え、法悦状態にとりつかれ、そのすがたは変容して神人となります。「これは、宗教上の真実を、感覚でとらえられるように表現したものといえよう」とバレスは書いています。グレコの描く人体が、みな細長く伸びているのは、蝋燭の炎が力強く上へ上がっていくように、人々の魂が天空に達するために伸び上がっていくからでしょう。

  そして、ついにグレコがトレドの秘密を解き明かしてくれるのです。もし、グレコが付き添ってくれていなければ、崩壊寸前のこの町に魂のかけらさえ感ずることもなく、トレドの人々がどんな星に導かれていたのかも知らないままでいるにちがいない、とバレスは言っています。「グレコは、私がカテドラルを見てまわるとき、トレドの人々がどんな感動を抱いてそこをぎっしり埋めていたかを教えてくれる。画家は、イタリア特有の幸せな歓喜からも、フランドルの詩情を欠いた健全さからも遠く離れて、陰気で、瞑想好きな、いまわしい憂鬱の虫にとりつかれた民族のふところへ、私たちを案内してくれるのである」

  「それなのに、グレコは気違いだと言われた、、、 気をつけてもらいたい。ただ、いかにもスペインらしいカトリックであっただけの話である。私がスペインらしいというのは、ある種の気高い資質を体現しているからで、それはどんなカトリックの国民でも発揮できはするけれども、ひとりスペイン民族のみが看板にできる気高さなのである」

 グレコの画を見るがいい、とバレスは書きます。この人たちは、神をおのれに吸い寄せようと、それほどに、神を切望しているのだ。彼らのどんなしぐさにも聖体の秘蹟の意味が宿っているのである、と。

  また、グレコの秘密はバレスの秘密でもありました。スペインがグレコにその宗教意識に決定的活力を与えたように、バレスもまたスペインから霊的活力を与えられたのです。フランスでは宗教意識は心の中に押さえ込まれているが、トレドでは、それは自然にあふれ出てくる、フランスではミサは整然とおこなわれるが、トレドでは人々の気持ちが直接染み出してくる、と。まるで、フランス人の虚栄心と偽善を憎み、イタリアの情熱にとりつかれたスタンダールを思わせます。バレスは、その政治的身振りから、好きな作家と名指すのは躊躇してしまうのですが、彼の書く文章はいつもなぜか心に強く響きます。『自我礼拝』はむろんのこと、『国家主義とドレフュス事件』のような政治的パンフレットにも美しい数節が潜んでいます。おそらく、彼は(スタンダールのように)感動を作り出していく作家ではなく、感動から出発する作家だからでしょう。(『グレコ ー トレドの秘密』の訳者、吉川一義の解説もバレスにおとらず情熱的です)

下は『オルガス伯の埋葬』(サント・トメ教会)と『聖霊降臨』(プラド美術館)です。

Entierro_del_conde_de_orgaz


 

Pentecoste

 

 

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