« 2008年2月 | トップページ | 2008年4月 »

2008年3月23日 (日)

モーリス・バレス『グレコ -トレドの秘密』

神保町に本を買いに行くときは、JR御茶ノ水駅の聖橋口を出て、ニコライ堂と日大歯学部の間の池田坂を下って行きます。太田姫稲荷という小さな社を曲がると、左側に「かげろう文庫」その並びに「ボヘミアンズ・ギルド」そのまま靖国通りを渡ると「源喜堂」があり、この三つの古書店でかなりの美術・芸術書を見ることができます。ところで、その「ボヘミアンズ・ギルド」がすずらん通りに移転して、開店祝いの花輪など飾ってあるその店頭の棚からサクっと抜いたのは、モーリス・バレスの『グレコ ― トレドの秘密』(筑摩書房・吉川一義訳)でした。カバーの無い本でしたが、「源喜堂」で2500円の値のついた本が600円とは安いものです。思えば、十年前、この本を遠くの図書館から取り寄せてもらって読んだのですが、その時の深い衝撃と感動は今もなお私の中に残っています。

 1902年にバレスがトレドの教会という教会をまわり、グレコの絵を捜し求めていた時には彼の評価はまだ定まっていませんでした。サント・トメ教会を訪れると、門を開けてくれた番人たちが大騒ぎで蝋燭の炎をかざして、長い棒で『オルガス伯の埋葬』の上半分を指し示しながら、「気違いだ、気が狂ったんだ」と叫んでいました。こうした反応はどこを訪ねても同じで、サント・ドミンゴ・エル・アンティ―グオ教会でも、サン・ホセ教会でも、カテドラルでも、坊主たちのあからさまな軽蔑と嘲りの言葉が聞かれたのです。すでにグレコの生前から、彼が狂人であったという風評があったのですが、画家本人は、皆が驚いても別に釈明するわけでもなく尊大に構えていたということです。「そこに、画家の琴線にふれる秘密があったからだろう」とバレスは書いています。ともかく、狂人であろうがなかろうが、この画家は強烈で特異な精神の持主であったことは間違いない、それでは教会という教会の奥の奥まで、この画家の秘密を探りに行くしかないではないか、とバレスは決意したのです。

 グレコの秘密はトレドの秘密でもあります。はじめてトレドを訪れたバレスは、その風景に驚嘆します。むきだしになった花崗岩の岩盤の上に建てられた町、アフリカを思わせる表土をはがされた薄茶色の土地をタホ川の濁った流れが取り巻く町、トレドはやや離れたところから見ると、誇り高い女の落魄した姿を思わせます。スペインの古都にして政治・文化の中心都市であったトレドは、しかし16世紀半ばのマドリッド遷都により、一気に凋落の道をたどりますが、なおスペイン・カトリックの総本山として直径1キロ半の小さな町に90もの教会と18の修道院をかかえ、人々が日に七回もミサにいく宗教的中心都市であり続けました。

「財産を使い果たしてから三世紀、この町はその伝統を守ってきた。この町はみずから変心するくらいなら、その前に自壊する道を選ぶだろう」とバレスは書いています。しかし、この町には、よそ者を丁重に拒絶するあるものがあります。バレスは、あらゆる時刻にわたり、縦横に街中を歩き回りますが、町の心には厳重に錠前がかかっていて、容易に開けてくれそうにありません。「私がこの町で感じるのは、名指しがたい悦楽の匂いであり、愛と、名誉と、信仰に彩られた過去のなかにも、罪を犯した後ろめたさのようなものが混じりあっているのだ」その後ろめたさはどこから生じてくるのでしょうか。

 「この町では至るところに」とバレスは言っています。「カトリックの分厚い上塗りの下に、今もなおアラブやユダヤの要素が生き残っている。」 ローマ帝国の属州として歴史に登場したトレドは、その後、西ゴート王国の首都になり、八世紀から十一世紀にかけてイスラム帝国の支配下にありました。1085年、カトリックがトレドを制圧した後、カトリック、アラブ、ユダヤの三教が共存する時代が続きます。が、14世紀にカトリックからのユダヤ教迫害が始まり、15世紀の異端審問所の設置によるアラブ、ユダヤの非改宗者への弾圧に至ります。こうして、建築様式にもキリスト教、アラブ、ユダヤの折衷様式が見られるように、人々の心にも哀愁と呪詛と希望が複雑に入り混じっています。

イスラムの時代に改宗せずカトリックを守った人々(モサラベ)、レコンキスタの後、改宗しなかったイスラム教徒(ムデハル)、外面的にはカトリックに改宗して迫害を逃れたユダヤ人(マラーノ)などの子孫が今もなお、トレドの町に生息しています。「自分では敬虔なスペインのカトリック教徒だと思っている人間もその行いから見ると、明らかにセム人の特徴を持っている」とバレスは書いています。トレドは、スペイン随一という深い宗教心の下にかくも複雑な民族的宗教的相貌を併せ持っていたのです。

 エル・グレコは1541年にギリシアのクレタ島に生まれ、26歳でヴェネチア、29歳でローマで修業し、35歳でスペインに赴き、36歳から死ぬまでトレドで暮らしました。おそらく、イタリアでは画家があぶれていて、十分な注文が得られなかったのでしょうが、しかし、トレドの地はグレコにまさに決定的な影響を及ぼしました。

「カスティーリャ地方は、エル・グレコを驚嘆させ、その心をとりこにした。新しい環境に驚いた異国の人が、その微妙なニュアンスを捉え、それを才能に恵まれた現地の人よりもずっと巧みに描くようになるのは、よくあることだ」とバレスは書いています。ビザンチンの教育を受け、ギリシア東方世界に生まれ育ったグレコは、幼いころからイスラム世界のさまざまな暮らしを眺めながら育ちました。だから、彼は、美よりも神を重視するトレドの神秘主義的東方的雰囲気にも、カトリックに改宗したトレドのアラブ住民にも愛着を抱くようになったのは不思議ではありません。むろん、彼の心を覗き見ることはできないが、次のことははっきりしています。グレコは、トレドの灰色の丘陵と鹿毛色の町のたたずまいを眼にしてすぐに、鮮やかなイタリアの色彩と、芝居がかったヴェネチア派の表現技巧を捨て去ってしまったのです。そして、信仰心厚い人々と情熱的で憂い顔のスペイン貴族に囲まれて、彼は、豪奢なヴェネチアや教皇の住むローマにつきものの華やかな装飾を忘れました。彼はパレットの黄金色をすべて打ち捨て、好んで青白く冷たい光を用いるようになりました。こうして、洗練された技巧をあますところなく修得した輝かしいヴェネチア派の実直な弟子は、「奇怪」で「貧弱」な画家になったのです。

 傑作『オルガス伯の埋葬』を見てみましょう。この絵の下半分は、サント・トメ教会に多くの寄進をしたオルガス伯が埋葬される場面を技巧を凝らした写実主義で描いています。オルガス伯は、霊界から降りてきた聖アウグスティヌスと聖ステファヌスに抱えられ、仲間であるトレドの貴族たちに囲まれて、今、手厚く葬られようとしています。画面の上半分は、天界に昇った全裸のオルガス伯が、イエスと聖母マリアに迎えられている場面が幻想的に描かれています。アントワーヌ・ド・ラトゥールはこの絵についてこう記しています。「哀れな狂人の天分が、これほど心に滲みるかたちで示された画は、どこにもない。この画の、さしずめ人間的部分というべき、遺体とそれをとりまく人々を描いた部分は、すばらしい。この人たちは、どの顔も生身のように生きいきとしており、きわめて巧みに群像として処理してある。しかし、作品の上半分には、こうした練達の技巧がすこしも見出せない。天空には混沌とした雲が漂っているばかりで画家の頭脳の混乱ぶりを反映しているとしか思えない」
 こうした見解が蔓延しているせいで、プラド美術館には下半分だけ切り取った複製も存在する、とバレスは書いています。

  「なんてひどい誤解だろう」バレスは強く反論します。「それは、凡庸で、ものを知らない人間が犯す間違いだ。こうした、あまりに現実をたいせつにする人たちには、天空図こそ、画家が作中人物に与えた表情をー画家がいちばん高貴なトレドの人々の風貌と心根の中に捉えた表情をー補って完全にし、その根拠を示すものだということが、どうしても感じとれないのであろう」

 「その表情に、悲哀と、謙虚と、威厳とが、かくもみごとに混じり合っているのは『オルガス伯の埋葬』の貴族たちが、超自然の生がどういうものかを知っているためである。グレコが彼らの頭上に描いたもの、それを彼らは心中から発する眼差しで見つめているのだ。われわれとすれば、精神錯乱と思われかねないこの天空図のなかに、貴族たちの気難しい風貌の下にひっそり息づいている形而上の想念を認めたい」

  つまり、天空図は下に描かれている貴族たちの頭の中のヴィジョン、彼らの全生涯を鼓舞し、規定しているヴィジョンそのものを表しているというのです。忘れてならないのは、この貴族たちが(そしてグレコ自身も)聖女テレサと同時代の人たちであった、ということでしょう。オルガス伯の友人にとって、まだ生きている自分たちは、魂が肉体に拘束された人間にすぎず、死によってはじめて魂は天空に呼び寄せられ、やさしきイエスの典雅な身振りと聖母マリアの慈愛がそれを迎えるのです。

  ここで、はじめてグレコが何を意図していたかがわかります。彼の画はどれも、聖女テレサの教義書と十字架のヨハネの詩篇を補うものであったというのです。それはどれも、立派なカスティーリャの人々に、内的生活への入門の役目を果たしているというのです。
 「どんな書物をひもといても、内的生活がどんなものか、これほど完全で、斬新な概念を与えてくれるものはあるまい。ここには、過去の亡き人びとの目鼻立ちもさることながら、それ以上に、彼らの抱いた夢や、もの想いが見てとれる。 エル・グレコは十七世紀のトレドの人々が生れながらにもつ心の奥底にまで私たちを導いてくれるのである。ここに描かれた人々のいちばん高貴な願望は、天上の高みにまで伸びていくものであるが、かりにグレコがなく、あの幻覚におそわれたような画がなかったとしたら、こうした人々の魂はことごとく忘却のかなたに死滅するしかなかったであろう」

  次に、「グレコの最高傑作」とバレスが断言する『聖霊降臨』を見てみましょう。ここに描かれている人々は、ひとり残らず一体となって、ひとつの同じ動作で身を躍らせ、この世に生れついた限界を脱して、明るく上空を飛翔する聖霊に追いつこうとしています。一堂に会したスペインの生身の人々が、並外れた感動にとらえられ、身をくねらせ、溶け出し、蒸発していくのです。

 彼らは、私たちの見ている前で、精神的存在へと姿を変え、法悦状態にとりつかれ、そのすがたは変容して神人となります。「これは、宗教上の真実を、感覚でとらえられるように表現したものといえよう」とバレスは書いています。グレコの描く人体が、みな細長く伸びているのは、蝋燭の炎が力強く上へ上がっていくように、人々の魂が天空に達するために伸び上がっていくからでしょう。

  そして、ついにグレコがトレドの秘密を解き明かしてくれるのです。もし、グレコが付き添ってくれていなければ、崩壊寸前のこの町に魂のかけらさえ感ずることもなく、トレドの人々がどんな星に導かれていたのかも知らないままでいるにちがいない、とバレスは言っています。「グレコは、私がカテドラルを見てまわるとき、トレドの人々がどんな感動を抱いてそこをぎっしり埋めていたかを教えてくれる。画家は、イタリア特有の幸せな歓喜からも、フランドルの詩情を欠いた健全さからも遠く離れて、陰気で、瞑想好きな、いまわしい憂鬱の虫にとりつかれた民族のふところへ、私たちを案内してくれるのである」

  「それなのに、グレコは気違いだと言われた、、、 気をつけてもらいたい。ただ、いかにもスペインらしいカトリックであっただけの話である。私がスペインらしいというのは、ある種の気高い資質を体現しているからで、それはどんなカトリックの国民でも発揮できはするけれども、ひとりスペイン民族のみが看板にできる気高さなのである」

 グレコの画を見るがいい、とバレスは書きます。この人たちは、神をおのれに吸い寄せようと、それほどに、神を切望しているのだ。彼らのどんなしぐさにも聖体の秘蹟の意味が宿っているのである、と。

  また、グレコの秘密はバレスの秘密でもありました。スペインがグレコにその宗教意識に決定的活力を与えたように、バレスもまたスペインから霊的活力を与えられたのです。フランスでは宗教意識は心の中に押さえ込まれているが、トレドでは、それは自然にあふれ出てくる、フランスではミサは整然とおこなわれるが、トレドでは人々の気持ちが直接染み出してくる、と。まるで、フランス人の虚栄心と偽善を憎み、イタリアの情熱にとりつかれたスタンダールを思わせます。バレスは、その政治的身振りから、好きな作家と名指すのは躊躇してしまうのですが、彼の書く文章はいつもなぜか心に強く響きます。『自我礼拝』はむろんのこと、『国家主義とドレフュス事件』のような政治的パンフレットにも美しい数節が潜んでいます。おそらく、彼は(スタンダールのように)感動を作り出していく作家ではなく、感動から出発する作家だからでしょう。(『グレコ ー トレドの秘密』の訳者、吉川一義の解説もバレスにおとらず情熱的です)

下は『オルガス伯の埋葬』(サント・トメ教会)と『聖霊降臨』(プラド美術館)です。

Entierro_del_conde_de_orgaz


 

Pentecoste

 

 

| | コメント (0)

2008年3月13日 (木)

アレクサンドル・グリーン『波の上を駆ける女』

 「これは恋愛小説ですよ」とこの本を私に貸してくれた女性は言っていました。もう、ずいぶんと遠い昔のことです。一頁一頁、惜しむように彼女が読んだというその小説を私も読みました。ラム酒の芳香とシガーの煙に包まれたその物語の雰囲気は覚えていますが、あらすじはすっかり忘れていました。先日の神田古書会館の即売会「紙魚の会」で、久しぶりにこの本に出会いました。古書価はわずか100円ですが、その本を手にし、その本を開くと、私の青春時代そのものが甘酸っぱい香りとともに立ち現れてくるようです。

  いま再びこの物語を読んでみると、『波の上を駆ける女』(晶文社・安井侑子訳)は、確かに恋愛のある秘密に通じているようです。アレクサンドル・グリーン(1880-1932)本名アレクサンドル・ステパーノヴィッチ・グリネフスキー、はポーランドから流刑されてきた父親と土地のロシア人を母親にしてシベリアの町ヴィヤトカで生れました。海洋冒険小説に夢中だった少年は、中学校を卒業すると故郷のさびしい町をはなれて船乗りになるためオデッサへと旅立ちました。そのときグリーンは15歳、このときから放浪に明け暮れる波瀾にみちた生涯が始まるのです。船乗り、金鉱掘り、志願兵などを経験した後、22歳の時に左翼社会革命党(エス・エル)に入党し、三度の入獄を体験します。このころから彼は小説を書き始め、リアリズム小説の習作を経て後、一気に独特のロマンチズムと想像力あふれる小説世界を作り出します。

  グリーンの小説は、風変わりな人間の多いロシア文学の中でもひときわ異彩を放っています。舞台は、ほとんど船旅の先にある遠い南の国で、その架空の地名にも登場人物の名前にも何らロシア的なものは見られません。彼の作り出した小説世界はグリーンランディアと呼ばれ、そのファンタジーに満ちた世界に魅了された人間をグリーンマニアと呼びます。おそらく、その魅力は、ただ甘ったるいファンタジーだけではなく、リルケが歌ったような「熱い手を持ち、苦しい夢を抱く」人々への共感にあふれているからでしょう。

  旅に生きる男、トーマス・ハーヴェイは港町リッスで、今、船を降りたばかりの見知らぬ少女の姿を目にします。質素な白い麻の帽子と青いスカートをはき、人ごみの中でも超然としているすらりとした美少女、彼女はまるで自分のまわりのすべてを思い通りに支配せずにおかないような雰囲気を持っています。ハーヴェイはホテルに電話して、その少女の名前がビーチェ・セニエルであること、着いてすぐにまたどこかに旅立ってしまったことを知ります。

 ハーヴェイは正体の知れぬ「成らざる夢」を探し求めていました。もはや届かぬものとあきらめかけたその時に、彼の前に現れたビーチェ・セニエルは、彼が探し求めていた「成らざる夢」そのものではないかとハーヴェイに思わせました。

  翌日、友人の家でカードをしているとき、突然ハーヴェイの耳に「波の上を駆ける女」という言葉が聞こえます。どこから来たかわからないその声に誘われるように、帰り道、港に停泊している美しい船を見つけますが、その船の名はまさに「波の上を駆ける女」でした。ハーヴェイはただちにその船に乗ることを決意しますが、船長のゲスはなぜかハーヴェイを歓迎せず、航海中でも彼への敵意を露にしていきます。ついに大喧嘩した後、ゲスはハーヴェイをボートにのせて大海に放り出します。暗い夜に一人でボートに取り残されたハーヴェイ、しかし、そこで、物語中随一の不可思議な出来事が起こります。黒い髪をして象牙色のレースの服を着た美しく物静かな女性がボートに乗り移ってきたのです。フレジー・グラントと名乗ったその女性は、ハーヴェイに、「あなたは、翌朝一艘の船に助け上げられ、ヘル・ヒューという港町で再び私に逢うだろう。けれど、私があなたに逢ったことは、これから出会う一人の女性を除いて誰にも話してはいけない、特にあなたが逢いたいと願っているビーチェ・セニエルには決して話してはいけない」と謎めいたことを言いました。そして、暗い波の上を駆けるように遠く消えて行ってしまうのです。

  翌朝、予言とおり、ハーヴェイはヌィロク号という船に発見され、その船の上で船長の姪であるデジーという少女に会います。青い眼をした明るく無邪気な少女デジーはハーヴェイの心を引きつけましたが、ハーヴェイは自分の「成らざる夢」としてのビーチェ・セルニエを忘れることはできません。

ヘル・ヒューの港につくと、ちょうどカーニヴァルの真最中で、男も女も顔に半マスクをつけて仮装しています。花火の音、楽団の響き、人々が踊り楽しむ広場の真ん中にハーヴェイは波の上を駆ける女の彫像を見つけます。そして、その彫像に導かれるようにハーヴェイは町の劇場で、マスクをつけたビーチェ・セニエルと遭遇するのです。

ビーチェ・セニエルは、ハーヴェイが「波の上を駆ける女」号に乗っていたことを知って驚きます。というのも、「波の上を駆ける女」号は彼女の父親の持ち船だったのですが、破産した父親の担保としてゲスに船をとられてしまったのです。ゲス船長に対する共通の憎しみから二人は急接近します。ビーチェはハーヴェイに、「波の上を駆ける女」号の上で起こったことをすべて話すよう求めますが、ハーヴェイは波の上を駆けていった女性フレジー・グラントについてだけは黙っています。

 ここで突然、殺人事件が起こって物語が急展開します。最初に疑われたビーチェ・セニエルは、ハーヴェイの尽力もあって嫌疑を晴らしますが、そのためにビーチェはハーヴェイに愛情さえ抱くようになります。ところが、ビーチェ・セニエルは自分の愛する男性に絶対の誠実さを求めます。彼女は、ハーヴェイが自分にすべてを話していないことを不審に思います。仕方なく、ハーヴェイは、フレジー・グラントの忠告を無視して、夜の海の上を駆けて消えていった女性のことを話します。すると、ビーチェの顔色が突然変わります。「ハーヴェイ、どうか冗談だと言って下さい」とビーチェはハーヴェイに言いました。「ハーヴェイ、それを信じろというのは、カローやフラゴナールの描く非現実を現実と信じろというようなものです、波の上を駆ける女を信じろというのは。あなたという一人の人間の中に二人の人間がいるということを、、、」「ビーチェ、許してください」とハーヴェイは答えます。「しかし、それは真実にあったことなのです」

ビーチェ・セニエルは悲しい眼差しをしてハーヴェイから去っていきました。 
 ハーヴェイは傷心した思いで、ヘル・ヒューを発ち、紅茶会社の外国通信員として奇妙な二重生活を送り始めます。一つは真面目な事務員としての顔、もう一つは思い出にさいなまれ、思い出に追いかけまわされる男としての顔でした。絶えず彼は強い痛みとともにビーチェ・セニエルのことを思い出すのです。「しかし」と彼は思います。「あらゆることにもかかわらず、私は自らの尊厳が賭けられたあの瞬間に、嘘をつかなかったことで、幸せだった。そして同時に、ビーチェが、自らの世界の明るい庭において、何一つ譲らなかったことを嬉しく思った。私は、自分と彼女との間のへだたりを正当なものと認め、私が彼女とちがう存在であることを悔やむしかなかった」

 ある日、レガの町で、店のショー・ウィンドーに飾ってある帆船の模型を見ていたとき、誰かがハーヴェイの両目を後ろから隠しました。振り向くと、まっすぐな陽気なまなざしで彼を見ているデジーがいました。瞬間、ハーヴェイの胸の中にデジーへの愛情が湧き上がってきます。デジーは大好きなハーヴェイに偶然出会えた喜びで夢中です。「あなたが好きよ、ハーヴェイ」とデジーは叫びます。「おお、どんなに逢いたかったことでしょう! 私はたくさん言い残してしまったんですもの。あなたは、フレジー・グラントに逢ったのね!? 私に言うのが恐かったの? あなたは、波の上を駆ける女を見たのね?どんなに私が驚いたか、どんなに私が有頂天になったか、わかって? あなたのこの目がフレジー・グラントをみたのよ。底知れない海の深みの上に素足で立つことを恐れなかった、レースの服を着た少女を」

ハーヴェイはデジーと結婚し、物語は幸福な幕を閉じます。 
 グリーン
48歳のとき書き上げた最晩年の長編小説であるこの物語は、ロマンティックな男の人生の総決算とも読めるでしょう。ここには、三人の女性が登場します。憧れの対象であり、理知的で物静かで謎のような存在であるビーチェ・セニエル、明るく、無邪気で子供のようなデジー、そして波の上を駆ける女、フレジー・グラント。むろん、「波の上を駆ける女」はハーヴェイの心の真実、それあるがゆえに自分を律することのできる真実そのものです。「成らざる夢」の実現であるビーチェ・セニエルはハーヴェイを好きになったが、それは彼を優しくて立派な人間だと思ったからです。しかし、彼女は、波の上を駆ける女を見たというハーヴェイの言葉に動揺し、彼を嘘つきだと思って彼から去って行きました。一方、南の国の純で恥ずかしがり屋のデジーは、何の疑念もなくハーヴェイの物語を信じました。彼を愛していたからその話を信じたのではなく、その話の真実ゆえに彼を愛したのです。夢見る男の挫折と救いについて、これほどの美しい比喩があるでしょうか。

 

 

 

| | コメント (2)

2008年3月 1日 (土)

デーブリーン『ポーランド旅行』

ローレンス・スターンからブルース・チャトウィンに至るまで、すぐれた旅行記というと、イギリス人の名前がすぐに頭に浮かびます。人間性への尽きせぬ興味、事柄への公平で地道な関心、そこには、何でも知りたいが、知りすぎることは下品なことだ、という紳士の哲学が生きているようです。反対に、ドイツの旅行記というと、主観の勝った退屈なもの、という先入観があるのですが、『ベルリン・アレクサンダー広場』の作家アルフレート・デーブリーン(1878-1957)の『ポーランド旅行』(鳥影社・岸本雅之訳)は、さて、どうでしょうか。期待通りの暗さと重さを持つこの旅行記を、彼が巡った土地ごとに紹介していきましょう。


《ワルシャワのユダヤ人地区》
 デーブリーンは
1924年秋、フィッシャー書店の資金援助を得て、約二ヶ月間ポーランド各地を旅行しますが、その目的は自らの出自を探る旅だった、といってよいでしょう。彼はポーランドで生まれ、十歳のときにポーランド人の両親と共にベルリンに移住してきました。両親はすでにキリスト教に同化したユダヤ人であり、デーブリーン自身も、自らのユダヤ性を格別に意識することはなかったのです。ところが、偶然ポグロムを目撃した経験が、彼にユダヤとユダヤ性についての興味を呼び起こしました。彼はユダヤ人について知るために隣国ポーランドの旅行を決意します。

その当時、世界のユダヤ人口は約1500万人弱で、そのうち350万人がポーランドに住んでいました(ドイツには約70万人がいました)。ポーランドは、ユダヤ文化が最も花開いた土地であり、ハシディズムの発祥地でもあります。彼らは、ここで間歇的なポグロム(大量虐殺)の恐怖に襲われながらも、古来の伝統を守り、ユダヤの教義を伝えてきました。

デーブリーンは、ドイツの啓蒙され同化されたユダヤ人社会に見ることのできない様々な風習、人情、民族性に遭遇し、それらをやや荒い筆致で書き留めていきます。そして、この記録は今となっては限りなく貴重なものになりました。なぜなら、ポーランドユダヤ人の九割に当たる300万人が、第二次世界大戦でナチの民族浄化計画の犠牲となって殺されたからです。彼らと共に、ポーランドのユダヤ社会の伝統であった一切のものが地球上から姿を消しました。古びたカフタン(ユダヤ人の着る長衣)を身につけたラビも、ユダヤ学校でヘブライ語を学ぶ黒髪の少女も、シナゴーグで聖書の数節を美しい声で暗唱する少年も、デーブリーンが出会い、話し、書きとめたほとんどすべての人たちを待つ運命は、飢餓と恐怖の後の残酷な死だったからです。そして、この消滅したユダヤ社会は、二度と戻ることはありませんでした。絶滅収容所から生きて帰ったユダヤ人は、元の家を勝手に収奪していたポーランド人に殺されたり、追い払われたりしました(2000年の統計でポーランドのユダヤ人人口は、わずか6000~9000人です)。

 ポーランドにユダヤ人が住み着くようになったのは13世紀からです。貴族と農民しかいなかったポーランドに商工業を発展させるためと、さらに貴族の財務管理のために、貴族階級が彼らの定住を許したのです。ヨーロッパ各地で迫害されてきたユダヤ人は次第にこの北の地に移動してきました。「ポーランド、貴族の天国、ユダヤ人の楽園、農民の地獄」という言葉もあります。ユダヤ人たちは都市に住み着くと、教会や中心地から離れた地域に直ちに彼らの社会を造り出します。シナゴーグが建てられ、墓地が造園され、清浄な食料品店ができ、ユダヤの祭式用具を商う店も現れます。

1924年当時、ワルシャワには35万人のユダヤ人がいました。デーブリーンは、ユダヤのまさに贖罪の日(ユダヤ教でもっとも厳粛な日、人々は一切の活動を停止し、断食する)にワルシャワのユダヤ人地区を訪れます(ユダヤ人には法律上同等の権利が与えられていたので、ポーランドには他の都市のようなゲットーは存在しませんでした)。どのシナゴーグでも、集会所でも、人々はひたすら祈り、その罪を悔います。ユダヤ人墓地は嗚咽、泣き叫び、かん高い聖書の朗読で騒然としています。ある者は墓石を両腕で抱え、ある者は唇を震わせて墓の前に立ち、赤く泣きはらした目で碑銘を見つめています。上等の服を着た娘が地面に突っ伏してうめき声を上げています。それは、イディッシ語で「お父さん、愛するお父さん、あなたはどうして逝ってしまったの。助けてください、生活はつらい、すごくつらい、、」と聞こえました。墓はすべて同じ方向に向いていて、草がそれらを覆いつくしています。歌う声、泣く声、うめく声、そして薫煙が白い雲のように墓石の上を漂っていきます。墓が立ち並ぶ前で、乞食、盲人、聾者たちが群れになって身をかがめ、人々に向かって手を差しのべています。「ユダヤの人たち、どうかお助けを」「どうか施しを」彼らは行き過ぎる人に呼びかけ、手を取り、体に触ります。それは人々の良心の呵責と同じように仮借のない執拗さです。ぞっとするような襤褸をまとい、ショールに子供を包んだ母親、白濁の眼をしてうずくまる老婆。いたるところで財布があけられ、金が取り出されます。山ほどの札を持っている乞食もいます。人々は、過去に死者に行った悪事や、これまで行ったあらゆる不正行為から逃れるために施しをするのです。

「これらのものを見聞きして、私の全身はうち震えた」とデーブリーンは書いています。ドイツの啓蒙されたユダヤ人社会には決して見られないもの、何か先祖帰りしたようなものが、そこには見られます。これらは、この民族の太古の表象が現出したものではないのだろうか、とデーブリーンは自問します。

 贖罪の日の五日後の仮庵の日。この日、人々はエジプト脱出後荒野を流浪したことを記念して、中庭やベランダに粗末な小屋のようなものを作って、そこに食料を運び、一日を祈りに過ごします。小屋の上には小枝が敷かれ、子供たちは蝋燭の先にリンゴをつけて楽しみます。「これはこの民族の一風変わった祭りだ。それは自然祭の名残りなのだ。商いと精神の民のなんと悲しい記憶だろうか」土地も、国も、国家もなく、土地耕作から完全に閉め出されて、この民族にとって自然は、ただ粗末な仮小屋の上に敷かれた木の葉だけになってしまったかのようです。

 日曜日、ワルシャワから二時間ほどのところにある、グラ・カルヴァリアに向かいます。ここはユダヤ教ハシディズムの聖地で、大勢の信者が高名なツァディック(ハシディズムにおける指導者)に会うためにぎゅうぎゅう詰めの列車に乗って集まってきます。赤ん坊を抱えた婦人、キッパ(男が頭に載せる黒い丸い布)をつけた人たち、また大きな荷物を抱え、東北ポーランドからツァディックに会いに何日もかけて普通列車でやってきた人たちもいます。常に祈祷書を携えているこれら悲しげな人たちは、みな、救いを求めてツァディックの下を訪れるのです。

列車がグラに到着しました。長い列車から吐き出された乗客たちは、村に向かってぞろぞろと歩いていきます。キッパを被った黒い頭ばかりの行列が延々と続くのです。彼らを迎える村の住人は、みな、さっぱりした黒いカフタンを着て、黒い光沢のある山高帽子を被り、ゆれる長髪をコルク栓抜きのようにきつくカールしています。「これらは、狂信的、夢幻的、中世的だ。彼らの顔は真摯な平静さをたたえた独特の表情をしている」とデーブリーンは書いています。子供たちは白い靴下にきれいなサンダルをはいていますが、儀礼上、女性たちの姿は見られません。

 レッベ(ツァディックと同義語)の屋敷に着くと、人々は玄関ホールの入り口で押し合いをしています。重い扉から入れるのは一人ずつで、人々は気の遠くなるような時間を辛抱強く待っています。一人だけ西欧的な服装をしたデーブリーンは、通訳の巧みな交渉のおかげで何とか中に入ることができました。レッベに会うとき、人々は小さな紙に名前と願いを書いておきます。レッベの周りにはその小さな紙の山がうず高く積まれています。デーブリーンはツァディックの前に座りますが、質問することは何もありません。沈黙の後で、ツァディックが彼の手をとって、「ショーレム(平和という意味のイディッシ語)」と小さくつぶやきます。デーブリーンが席を立とうとすると、すかさず次の男が紙片をレッベに差し出しています、、、。

午後にはレッベの大宴会が開かれ、人々はできるだけレッベの近くに行こうと、テーブルの下までもぐりこみます。レッベは神に近いところにいると考えられるので、彼のより近くにいて、彼の空気に触れ、彼の食べ残しにあずかることで、その聖性のいくらかをもらおうとするのです。「この世を来世への玄関、入り口にすぎないと考えている人々がいるが」とレッベの講話を載せている小冊子には書かれています。「本当はこの世も来世なのだ。ところが、人はこれが分からない。これが分かるには罪から逃れ、欲望から離れ、神の晴朗さに近づかねばならない」と。

《ヴィルノ》 
 ヴィルノは現在のリトアニア共和国の首都ビリニュスのポーランド名。ここで、ごく簡単にポーランド史を振り返ってみましょう。かつて、ポーランドはヨーロッパの強国でした。しかし、
16世紀後半、選挙王政の制度を取り入れてから国は分裂し弱体化していきます。18世紀末から120年間、ロシア、ドイツ、オーストリアの強国に分割されてポーランドは地図上から姿を消してしまいます。「ポーランド人は世紀を超えて不幸な境遇にあった。抑圧は人を屈折させ、弱気にさせる。これで素朴な人間ができるわけがない」とデーブリーンは書いています。こんな話もあります。三国の国境付近にいたポーランドのユダヤ人が困っていた、なぜかというと、ロシア人は賄賂を常に取り、ドイツ人は決して賄賂を受け取らず、オーストリア人は受け取ったり受け取らなかったりしたから、というのです。ところが、第一次世界大戦はポーランドに全く予想外の結果をもたらしました。大戦が終わってみると、分割していた三つの帝国がそろって崩壊し、ポーランドは独立を再び手に入れることができたのです。さらに、リトアニア、ウクライナの領地まで力ずくで手に入れ、国民はかつての大国の幻想さえ抱きました。しかし、1939年ヒトラーの電撃作戦にもろくも破れ、その後ソ連の傘下に入った後、自由化の波の中で、EUに加盟を果たします。何と数奇な運命に翻弄された国家でしょう。ノーマン・デーヴィスの『ポーランド史』が、その副題を「神の遊技場God’s playground」としたのもゆえなしとしません。

 リトアニアはウクライナと同じギリシア・カトリックを信奉しています。ギリシア・カトリックは、儀礼をギリシア正教から、教義をローマ・カトリックから取り入れています。デーブリーンの訪れたヴィルノの小さな教会は、金色のドームに覆われ、内部は厳粛なビザンチン風の金色の壁画に覆われ、青いガウンを羽織った司祭は、香煙盤を掲げて歩きながら人々に薫煙を浴びせかけます。この異国風の典礼を目の当たりにして、デーブリーンはそこに神秘的呪術的なものを見出しています。(彼自身はアメリカに亡命して後、ローマ・カトリックに帰依しています)

 偉大なガオン(博識のラビ)の礼拝所。木造の建物の中で、男が二本の棒に巻かれたトーラーを掲げて、人々に見せています。もう一方では人々が分厚い書物に顔を落として低い声で話し合っています。歩き回る人はほとんどいません。この礼拝所につけられたガオンの名は、ヴィルノ中でしばしば目にします。彼の名はエリヤフ・ベン・シュロームといい、18世紀のはじめの四半世紀にヴィルノで生まれ、80歳近くまで生きました。すでに七歳にして、ヴィルノの大きなシナゴーグで説教をし、九歳で聖書を、そして十歳でバビロニア・タルムードの大部分を諳んじました。人々はこの博識で偉大な男をエリア・シュローム、(判定の)完璧なる分銅、と呼びました。このガオンは、一時、自分の身を洗い清めるために流謫の身となり、ポーランド、ドイツを放浪し、ヴィルノに落ち着いて禁欲的生活を送り、タルムード、カバラ、数学、天文学の研究を進めました。

 同じころ、ウクライナ地方にユダヤ教の「邪説」が現れました。これを唱えたのはタルムードとトーラーに精通していない一人の男でした。男はロシアの地方の町や村で貧しいユダヤの民衆に様々なことを語り始めました。この無学なタルムード信奉者とはラビのイスラエル・バール・シェムトブ(律法よりも宗教感情を重視するハシディズムの創始者1700年頃―1770)その人でした。彼はシナゴーグにこもることなく、戸外に出て、鳥の鳴き声や樹木の言葉を学んだと伝えられています。「なんとまあ、世界は光と不思議な謎に満ちていることだろう。それなのに、小さな手が目をふさぎ、偉大な光を見えないようにしている」と彼は語っています。「礼拝のための導きでもなく、神との合一への懸け橋でもないとすれば、トーラーとはなんだろうか。それなのにラビたちは、この目標を追及することもせず、学識を自慢している。タルムードを知らなくとも、誰でも皆正しく偉大であることができるのだ」。

 無学な人々が彼のもとへ押し寄せました。「彼は偉大な、天然自然なままの人物だったに違いない」とデーブリーンは書いています。「この驚嘆すべき人物は偉大な霊魂の力を、その絶大さを説いた。人々は彼をツァディック、すなわち奇跡をおこし、人々を救う神秘的存在に加えた。彼は喜びと快活さ、ひたむきな祈りを説いた。彼には悲しみは非難すべきものに思われた。彼には純粋な思想としての感情がすべてだった。そして、森や穀物畑で祈ることもまたよしとした。ハシディーム、すなわち信心深い人、と彼らは自らを名乗った」

 ヴィルノのガオンは直ちに、民衆をまどわせるハシディズムの指導者と信奉者を破門しました。「あの輩(やから)を迫害し、もみ殻のように跡形もなく吹き飛ばしてしまうがよい。ハンセン病や膿汁に病む者たちのように、あの輩の住むねぐらから追放せよ」と、彼は叫びました。ハシディズムの書物は焚書にあい、迫害は激しさを増したが、それにもかかわらずハシディズムは燎原の火のように広まりました。しかしガオンは決して敗北はしなかったのです。彼の都市ヴィルノは依然としてリトアニアのエルサレムとして理性的信仰の中心地であり続けました。

 バール・シェムトブは「神の教えは完璧だ。それは魂に活力を与えてくれる」という言葉を残してその偉大な生涯を閉じました。バール・シェムトブと最後まで闘った大ガオンは、ヴィルノの古い廟墓に葬られています。妻が死んだとき、彼は「私は食べるのにずいぶん苦労した。けれども、それはトーラーと神のためだった。しかし、お前は私という一人の人間のために苦労しなければならなかった」と語りました。彼の墓のまわりには祈りと願いの紙片が山のように置かれています。

 「ユダヤ人とは何と驚嘆すべき民族だろう」とデーブリーンは書いています。「私はよく知らないままに、ドイツで目にしたもの、せかせかと働く人たちや、家庭のことにかまけてしだいに肥満していく商人たち、目先の早いインテリ、繊細な感性を持った、落ち着きのない、数え切れないほど多くの不幸な人たちのことをユダヤ人だと思っていたのだ。彼らは、この地で変わることなく生きつづけている民族の中核から遠く離れて、隔絶し退化してしまった種族だということを、今私は知った。それにしても、こんこんと尽きることなく湧き出る豊かなバール・シェムや、陰鬱な炎を宿したヴィルノのガオンを生み出すこの中核とは何と驚くべきことか。一見、開けていないように見えるこの東部地方で、並外れたことが起きたのだ。すべては精神をめぐってのことだった。この民族ほどに宗教的・精神的なものに専心する民族は他にはほとんど例をみない。ユダヤ人は国家形態や革命、戦争、国境線などと格闘する必要がなかった。彼らがバビロンの流れのほとりで涙したのは、そんなことのためではなかったのだ」

 デーブリーンは、この後、ルブリン、レムベルク、ウッジ、そして古都クラカウの美しい聖マリア教会などを訪れますが、もうあまりに長くなりました。彼は最後の地ポーランドの回廊、ダンツイヒで、砂浜を歩きながら、最強なのは自然だ、そして二番目は人間の精神と意志だ、という結論にたどり着きます。これこそユダヤ人の結論といえましょう。

 

| | コメント (0)

« 2008年2月 | トップページ | 2008年4月 »