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2008年2月17日 (日)

シメリョフ『レストランのボーイ』

 ロシア文学の特徴はいろいろあるでしょうが、私には、その強いインテリゲンチャ性にあると思われます。むろん、文学作品というものはほとんどすべてインテリによって創造されるのですが、そのことを意識し、そのことにこだわる執拗さによって一種不透明な感じをこの文学は与えています。文脈の背後に庶民への見下した視線が透かし見える時があるのです。それが、この国の後進性であり、ソ連時代のあからさまな「貴族」主義、役人主義につながっているのではないでしょうか。

 ところで、イワン・シメリョフ(1875-1950)の『レストランのボーイ』(集英社世界文学全集60・染谷茂訳)は、庶民をだしにした風刺にも、安っぽい政治性にも、偉ぶった哲学にも無縁な、底まで透きとおった本物のヒューマニティにあふれる中篇小説です。1911年に出たこの作品は多くのロシア人に愛読され、一躍彼を新進作家として有名にしました。原卓也の解説によると、1918年、革命後の飢餓の中で、シメリョフが貴重なパンを求めて小さなレストランに入ると、支配人がその名前を聞いて、ボーイの生活を書いた人ではないかと尋ね、そうだと知ると、彼を自分の部屋に招じ入れて、「あなたのためなら、パンはあります」と言ったそうです。シメリョフはゴーリキーヘの手紙で、「(この小説を書いた目的について)私は大衆の代わりに、たとえ一言なりとも言いたかったのです」と書いていますが、並みの作家なら噴飯もののこんな言葉もシメリョフが語ると不思議に納得してしまいます。

  一流のレストランで給仕を勤めるヤーコフ・ソフローヌイチは、息子と娘のことで頭を悩ましています。中学校に通う息子のコーリャは本をたくさん読み、反抗的で、学校や社会の不正を常に糾弾し、レストランで金持ちの客に頭を下げる父親を苦々しく思っています。「父さんなんか無益で下等な仕事をしてるんだ! 50コペイカかそこらで、つまらん碌でなしや下司野郎にごまをすっているんだ」「50コペイカのはした金だって?」とヤーコフは怒ります。「その50コペイカでおまえの上着や、本や、長靴を買えたんだ、酔っ払いや、いろんな人にお辞儀をして、、、。それこそおまえが世の中を知らない証拠というものだ。人々が50コペイカどころか、高級な思惑から、どんなにお辞儀するものか、どんなにごまをするものか、わしはいやっと言うほど見てきたんだ」そういってもコーリャは態度を改めず、学校でも教師や校長に反抗して、ついに退学にされてしまいます。

  娘のナターシャは、女学校を出たものの全く本を読まず、可愛らしいとほめられたのを本気にとって、暇さえあれば鏡の前で科(しな)を作り、友人とのおしゃべりは他愛のないことばかり、日曜日にはいつもスケート場で男の友人たちとふざけています。ヤーコフとその妻のルーシャは、乏しい収入から苦労をして、ナターシャを商人の娘たちが通う女学校に入れたのですが、洋服に数百ルーブルも使う裕福な友人たちと交友するうちに、友達もよべない地味で貧しい自分の家の暮らしが嫌になり、母親の粗末な身なりを軽蔑し、父親の職業を恥と思い、友人には父は会社員と偽っています。

  ヤーコフの唯一の友人といえるのは、理髪店を営むキリール・サヴェリヤーヌイチで、本をよく読み、宗教や社会の話にも詳しいので、ヤーコフは困った時があると彼に相談するのが常でした。ところが、ヤーコフの息子のコーリャが政治犯容疑で逮捕されると、手のひらを返したように冷たくなり、ヤーコフが店を訪ねると怒鳴って追い返します。彼は、やさしさと利口さを見せつけて蛇のように人の心に入り込み、助けになるように見せかけて実は利用することしか考えない卑劣な男に過ぎなかったのです。

 突然のコーリャの逮捕はヤーコフの一家を悲痛のどん底に突き落としました。新聞には実名で報道され、
23年間勤めたレストランをそれを理由に解雇されました。さらに、娘のナターシャは男と駆落ちしたものの、その男が破産して金の無心にくる始末です。やがて、コーリャは遠い地に流刑されますが、脱走してひそかに父親に会いに来ます。父親に迷惑をかけたと泣いてわびる息子、黙って抱きしめる父親、コーリャは母親への手紙を託してまた姿を消していきます。ところが、母親のルーシャは心痛が重なって心臓麻痺で死んでしまいます。ヤーコフは、息子とも娘とも、友人とも別れ、妻にも死なれ、ついに一人きりでさびしいクリスマスを迎えることになります。彼の脳裏には昔の楽しかったクリスマスの思い出がよみがえってきます。ルーシャは朝早く起きてパイを作り、ガチョウの肉を焼きます。コーリャはクリスマスの臓物のスープが大好きで、ナターシャはクリスマスにもらう芝居の切符を楽しみにしていました。ヤーコフのシャツは糊をかけて椅子にかけられ、教会に着ていくフロックコートはハンガーにかけてあります、、、。もう再び戻ってこない幸福な日々、、、。(イワン・シメリョフ自身のクリスマスの思い出は『ロシアのクリスマス物語』群像社・田辺佐保子訳に美しく書かれています)

  しかし、ヤーコフが一人きりの冷たい壁を眺めながら希望のない自分の運命を呪った時、彼の人生における光明のようなものが見えてきたのです。苦悩と悲嘆を経てその光明はやってきました。コーリャが逃亡先で逮捕され、裁判に処せられるという知らせが届くと、ヤーコフは最後に一目でも会いたいとその町にコーリャに会いにいきます。ところが、その町に着くと12人の囚人が脱走してコーリャを含む4人はまだつかまっていないとのことです。家に帰ると、見知らぬ人が尋ねて来て、「あなたの息子さんは無事で、今は安全なところにいます」と言って、コーリャからの手紙を渡しました。それによると、コーリャは官憲の手を逃れ、あろうことか市場に逃げ込みました。市場では市民に突き出されてまず助からないのですが、コーリャは袋小路の突き当たりにある小さな防寒服を商う店に必死の思いで飛び込みました。そこには髭を生やした老人が居眠りをしていて、コーリャを見ると、少し考えてから黒い聖像の裏の地下室へ閉じ込めてくれました。二週間の間、そこで食料や衣服を提供されて隠れた後に、老人はコーリャを夜陰に紛れて森まで送っていき、「おまえさんを裁くのは神だけだ。じゃあ元気でな」と言って逃がしてくれました。「ぼくには大事な人が二人います。お父さんと、それからあの名前を知らない老人です、、」とコーリャは手紙で書いてきました。

  ヤーコフはその老人に会いたくてその町を再び訪ねます。防寒服を商う店を全部訪ねてみると、最後に袋小路の隅に髭の生えた老人が座っている小さな店を見つけました。店の奥には黒い聖像が置いてあります。ヤーコフは防寒長靴とミトン(手袋)を買い、「どうもご親切に本当にありがとうございました。あなたは私の息子を助けてくださった、、、」といいました。すると老人はきょとんとした顔で「どうも、何のお話かわかりませんが、、、」と言ってヤーコフの顔をじっと見ました。やがて、ヤーコフの肘をつかんで小さな声で「何がどうなっているかはわれわれのあずかり知らぬことです。神様がご存知ならばそれでよい。それだけのことです」と言いました。そして、ヤーコフがどんな暮らしをしているのか、子供がたくさんいるのか、と聞いたあとで、「神様なしに生きていけるものではない」と答えました。「そうです、それに親切な人なしでは、、、」とヤーコフが言うと、「親切な人々というのは胸のうちに神から与えられた力を持っているのです」と老人は付け加えました。

 ヤーコフにとってすべてがはっきりと見えたのはこの時でした。「神から与えられた力、これこそ多くの人が理解せず、理解しようとしない金言だ。こういうと人はばかにして笑う。しかし、みながこれを理解して、心の中に守ってくれるようになれば、生きることはどんなにらくになることか」

  シメリョフはモスクワの裕福な商人の家に生まれ、モスクワ大学法学部を卒業後、役人として働きながら小説を書き始めました。実家は「福音書以外の本はなかった」といわれるほど宗教心の篤い家庭でしたが、シメリョフは次第に、民衆を救うには革命しかないと思うようになります。しかし、ロシア革命とその後の悲惨で残酷な事実を目の当たりにして、パリに亡命し、77歳で教会に行く途中心臓麻痺で死ぬまで故国に帰ることはありませんでした。ブーニンやアンドレーエフなどと一緒に、亡命作家としてくくられるのですが、その内実は、この世の救いがたさにもかかわらず、ペシミズムに陥ることなく、神が造られたこの世界への愛情を最後まで失わなかった敬虔なキリスト教作家だった、といってよいでしょう。

 

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2008年2月 4日 (月)

カルロ・アントーニ『歴史主義から社会学へ』(2)マックス・ヴェーバー

 「彼は一つの哲学を教えなかったが、しかし彼は一つの哲学であった」とカール・ヤスパースはマックス・ヴェーバー(1864-1920)について書いていますが、それは当惑を表す曖昧な言葉である、とカルロ・アントーニは評しています。未亡人による詳細な伝記は、彼を、闇中を模索する古代の勇猛な戦士にたとえていますが、それは正しい比喩であったでしょうか。「彼の学問的経歴の系統をたどることがすでに困難である」とアントーニは書き始めます。

  すなわち、彼は中世の商法についてその研究生活をスタートし、ローマの農業法制史に移り、ついで東部ドイツ農業労働者の状態の研究に没頭し、そのさい、社会政策上の論争に身を投じました。次に、精神の病で停滞した後で、経済学の方法についての問題を提起したが、すぐに近代資本主義の倫理的宗教的起源の研究に入り、これをさらに世界の宗教倫理にまで拡大していきました。そして56歳での早すぎる死の後に残されたものは厖大な未整理の遺稿でした。

  彼の政治的系譜も表面上は錯綜したものです。国民自由党代議士の息子であるヴェーバーは、トライチケの批判者、ヘルマン・バウムガルテンの甥でもありましたが、自由主義を離れ、反動的なクロイツ・ツァイトゥング紙でデビューし、やがて汎ドイツ主義者たちと不仲になり、友人のフリードリッヒ・ナウマンとともに社会主義者に接近しました。ヴィルヘルム二世の政策に反対し、普通選挙法と議会制度の採用を要望しながら、王政に忠実であり、権力政治説に加担しました。
  「しかし、彼の人物はひとつの強い統一を成している」とアントーニは書いています。「彼はヴィルヘルム時代ドイツのもった最も豊かでまた最も力強い人物の一人である」と。この評は平板ですが、過不足ない正当な評価といえましょう。
 

 「ローマ史家ニーブール、モムゼンを19世紀の他のドイツ史家と区別するものは、社会的関心であった」とアントーニは書いています。「彼らのローマ史は、盗賊のような貴族階級から掠奪しつくされ、軍事的に無力にされた土地を奪取しようとする農民大衆の歴史であった。しかし、ニーブールとモムゼンは、グラックス一族の平民の運命を想い起こしながら、彼らの時代と国土の農業貴族であるプロイセンのユンカーに対して間接の非難を向けたのだ」と。

 ニーブールの原始的で自由な農業協同体の復活に対して、ユンカーたちは封建的なキリスト教的ゲルマン的理想を対抗させました。この政治的ロマン主義は、「偉大な最後のユンカー」ビスマルクを輩出したことで、依然としてドイツ唯一の政治的階級であることを誇っていました。マックス・ヴェーバーが教育をうけた時は、すでにビスマルクの姿が歴史に属するように見えたのですが、復古時代の「改革」の結果は、今や東部ドイツの慢性的な農業恐慌となって表れていました。農民と地主の困窮は国家の構造に本質的影響を及ぼすようにヴェーバーには思われました。モムゼンの弟子としてローマ史から出発したヴェーバーは、ラティフンディア(大土地所有制、中小農民の没落に拍車をかけた)を純然たる貴族階級の掠奪欲ではなく、地中海文化の内部への移行の内面的な技術的欲求のせいにすることによってモムゼンの見解を凌駕した、とアントーニは書いています。ローマ社会の危機は、翻って、ドイツの農業危機をその政治的結果においてはるかにいっそう重大であるように彼に思わせました。世界市場の競争に襲われたユンカーたちは、保護関税の引上げと、補助金と、移民の禁止を政府に要求しました。ユンカーたちに搾取されていた農民は東ドイツを離れ西部の工業地帯に赴き、その穴を埋めるためにポーランドから季節労働者が流入してきたのですが、これはプロイセン国防軍の基幹の空洞化を意味していたのです。ヴェーバーによれば、ユンカーはドイツ的なるものの系統的な破壊者であり、その没落は保護関税も阻止しえない構造的なものでありました。

 彼は、ドイツ農業の研究から経済社会政策への参加に興味を持ち、キリスト教社会主義の闘士、フリードリッヒ・ナウマンに接近します。だが、彼は学問や福音書に社会問題の解決を求めたこれらの教授たちや神学者たちの希望や幻想に対して、問題を倫理的領域から権力政治の領域に移すことで、それに現実的性格を与えようと努めました。そこには後年の、あらゆる幸福説的理想の排斥という信念が見られます。「我々は幸福なる人間をつくるために社会政策を遂行するのではない。、、、人間が満足を感ずるためではなく、避けがたい生存競争の負担の下において彼らの中にある最良のもの、すなわち国民のために我々が維持したいと思うあの肉体的精神的特質が救われるために、我々の力の可能な限り、外部的条件を改造しようと思うのである」 

 政治が、ヴェーバーにとって緊急の課題となりました。ビスマルクとユンカーの後継者は誰であるべきか。ドイツのブルジョアジーはその非政治的過去のために不適任であるように見えました。プロレタリアートとその指導者には「行動のための叛骨あるエネルギー」、つまり偉大なる権力理想が欠けていました。問題はエリートではなく、政治のエートス、つまり権力本能を付与された職業的政治家の階級の形成にあるとヴェーバーは考えました。彼は王政を支持するが、君主はもし彼が天才でなければディレッタントにすぎない。また、ドイツの官僚は世界一だが、彼らが完璧であればあるほど政治には適さない、彼らには闘争心が欠けているからだ、とヴェーバーは言いました。

 若い時からヴェーバーは、階級や集団の利害を超越して行動すべき一つの「政治的」党派を夢見ていました。今や彼は、「職業的政治家」の中に解決をもとめ、議会主義の研究を始めました。近代ドイツの指導者を養成する新しい場所は議会以外にはない。そして若い闘士の訓練の場は議会の議場ではなく委員会の控えめな部屋である、すなわち、ここで世に知られない仕事の実務と人間同士の直接の接触の中で将来の指導者は養成されるべきである、とヴェーバーは言います。

 ところで、ヴェーバーは、国家の議会的方向への変化を、倫理的自然法的原理の名において推進したのではありません。彼がプロイセンのために普通選挙法の承認を要求したのは、人間の自然的平等を望んだからではなく、逆に自然的社会的不平等に対して、同一の選挙権は、国民の政治的統一の表現としての国家と市民を結びつける唯一のきずなであるように見えたからです。民主主義的改革を要求した他の知識人たち、トレルチュやマイネッケには、意志の自律と自由なる責任というカント的伝統が生きていました。しかし、ヴェーバーは、ユンカーたちを非難したときと同様に、モラリズムのあらゆる残滓から自由であり、政治を純粋に技術的、機械的なものと捉える現実感覚を身につけていました。彼にとって政治は権力ための技術にすぎません。

 「だが、ヴェーバーの誤謬はこの技術主義にある」とアントーニは指摘します。議会の唯一つの弁護が、職業的政治家のためのゼミナールであるという点にあるならば、議会は生きかつ活動することができたでしょうか。そして、また、議会の内部や外部に強力な政治集団が出現したとしたら、議会の結末はいかなるものであるでしょうか。「じつは、ヴェーバーは効果的な議会制度の可能性を信じなかったのである」とアントーニは書いています。「議会主義のどのような不倶戴天の敵も、彼ほど容赦なくこの制度を分析したものはいない」ヴェーバーの考える政治的階級の結成は、要するに議会を越えて大衆の信頼を勝ち得るカリスマ性を持った強力な指導者の出現、つまり、皇帝政治的、大統領制的政治に帰着します。「このようにして約四分の三世紀後に、モムゼンの皇帝政治は彼の弟子の中に復活したのである」ただし、モムゼンの場合は階級的エゴイズムにより不適格になり、有害となった貴族階級から政治の指導権を奪い返すために君主政体の正当性を認めたのですが、ヴェーバーは、ヴィルヘルム二世の愚かな政策が破綻したときでさえ、たとえ摂政という形でも王朝が存続することを願いました。彼は共和主義や社会民主主義から何ものも期待していなかったからです。

 ヴェーバーの優れていたところは、彼がいかなる神秘的な「民族精神」にも有機体的な国家観にも反対していたことです。彼は国家に何らの倫理的カリスマも与えようと努めず、国家をただ人間による人間の(暴力を用いた)支配と定義しました。彼は、また学問や経済政策におけるあらゆる種類の直感主義に反対しています。「直感を求めるものは映画館に行け、説教が聞きたければ教会に行け」という彼の言葉は有名です。結局のところ、彼の政治哲学は、「あの執拗なロマン主義的残滓物からのドイツ政治哲学の解放の努力とみなされる」とアントーニは評しています。

 ヴェーバーがドイツの政治に直接働きかけた時が一度あって、それは彼がワイマール憲法の中にドイツ国大統領の例外的特権を入れさせるのに成功したことです(後にヒンデンブルグがこの議会外全権を悪用した)。しかし彼は新しいドイツの運命を見ずに、1920614日に歿しました。「私は我々の恥辱の暗い日々ほどドイツ人であるということを運命の賜物として感じたことはない」と最後に彼は語っています。 

 ヴェーバーの政治学について、最後に彼独特の政治と倫理の問題について書かねばなりません。これこそ、もっとも彼らしい論理、合理主義のきわみまで考えた人間の紡ぎだした論理です。倫理的行為は二つに分けられる、とヴェーバーは語ります。それは、自分の心情の正しさだけをよりどころにして結果を考えない心情倫理と、予見しうる結果の責任を負うべきだとする責任倫理です。心情倫理は原始キリスト教や革命家の倫理で、自分が正しいと信じ、それゆえに(たとえ結果が悪かろうと)自分の行動の正しさに一点の曇りも感じません。右の頬を打たば左の頬も差し出せ、下衣を盗られれば上衣も与えよ、という山上の垂訓の論理は、非合理で不可能であるがゆえに行う価値があるのです。革命家は社会の不正に憤りを感じ、それを非難するが、その行動がかえって相手陣営を助けることになると注意しても彼らは全く意に介しません。彼らの行動の正しさの保証はただ彼らの心情の純粋さにあるのです。「結果をただ神に委ねる」という一見無責任な論理は、しかし、その妥協しない二者択一を突きつけることで、ある崇高な高みまで行くかのようです。

 責任倫理は、目的を遂行するために、妥協や陰謀を駆使して、手段はともかく自己の責任を果たそうとします。人間は弱いもの狡猾なものであると認め、自ら手を汚すことも躊躇しません。ここから彼の「職業としての政治」の冷たい論理がはじまります。「世界は悪魔によって支配されていること、政治に関係する人、言い換えると、権力と暴力を用いる人は誰でも、悪魔的な権力と契約を結ぶのだということ、さらに善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは人間にとって決して真実ではなく、むしろその逆が真実であるということ、このことは古代のキリスト教徒も知っていた」「心情倫理と責任倫理を妥協させることは不可能である」(『職業としての政治』)。

「彼はトレルチュやマイネッケのように、妥協の可能性について思い違いをしなかった」とアントーニは書いています。福音書に従い、聖フランシスとトルストイを模倣するか、あるいは世界をそのすべての帰結とともに受け入れるか、というディレンマを逃れる可能性は全く存在しません。 

「ヴェーバーはこの世界を受け入れると公言するが、これをキリスト教徒の眼をもって罪と暴力と戦争の王国として考察し続けた」とアントーニは書いています。「それどころか彼は、それをトルストイやドストエフスキーの眼で考察した。彼の時代のすべてのドイツ人と同じように、彼は大審問官の対話について考察した。スラブ的キリスト教は、まさしく東洋的であるがゆえに、福音書に最も近いように彼には思われた」

「彼は世界を受け入れると公言したが、実は少しもそれを受け入れたわけではない。なぜなら、世界はデーモンに支配されていると言うことは、たしかにそれを受け入れたわけではないからである。世界をヘーゲル的に受け入れることはヴェーバーには縁なきことであった。というのは、彼は現世の苦悩、暴力、戦争、精神を人生の不可欠の要素と認め、それらのものを、人生観から、すなわち、生れて、そして苦悩と死に打ち勝つ、善の見解から認めたからである」

我々はたがいに矛盾する二つの世界に属する、キリストのように、聖フランシスのように、死に瀕したトルストイのように生きることができなければ、この汚濁した世界に染まりながらそれに耐えながら生きるしかない、それ以外の生きかた、たとえばトレルチュがしたようにキリスト教倫理を社会政策や政治に適用しようとすることは徒労であり、全くの偽善である。政治に手を染める人間は、責任倫理に基づいて行動すべきで(つまり、悪魔に身を売りながら)ともかく冷静さと狡猾さで目的を遂行せねばならない、そして最後の責任を引き受けるべきだ、とヴェーバーは言います。

「けれども、それはいったい何に対する責任であろうか」とアントーニは問いただします。そして、ここに意想外の答えが現れるのですが、それは何と、ダンテの世界です。カルロ・アントーニによれば、ヴェーバーが構想していたのは、神を頂点とする中世の位階秩序で、その中に政治家も学者も嵌め込まれるのです。それは、ルッター的な天職(ベルーフ)の概念であり、神によって召命された「職業」の位階を与えられて、はじめて政治家は権力本能を付与され、学者は専門知識に没頭できるのです。この秩序、この社会的倫理の中で、人間は単に「職業人」であり、有能に職業を行使する人であって、ディレッタントは呪われた存在となります。だからヴェーバーは、ブルクハルトのように(彼もまたこの世界を悪が支配しているとみなしていたのですが)芸術的観照の領域に逃避しようとはしなかったのです。また、友人たちが新しいドイツの指導者にヴェーバーを推した時、彼はただちにそれを拒否しましたが、それは自分が運命的に学問の位階に嵌め込まれていると感じたからです。

「学者は預言者でも人生の教師でもない」といい、こうあるべきだ、あるいはこうすべきだ、と教える学者は「この世に存在するうちのもっとも神に見捨てられた人」だと書いたヴェーバーは、自らの矩を守りながら、「にもかかわらず」いつのまにか自らの外にあふれ出してしまった人間です。彼にとって学問がもつ意味は何かと問われて彼が出した有名な、そして謎めいた答え、「私はどの程度に抵抗することができるか見たいと思う」という言葉の意味もおそらくその辺りにあるのではないでしょうか。

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