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2008年1月 5日 (土)

パリ滞在記第十一日オペラ・ガルニエ

 11月25日、日曜日。いよいよ明日パリを発たねばなりません。私たちは朝7時15分にパソコンのあるロビーへ降りて、私が新聞を読んでいる間、妻は出発30時間前から可能なチェック・インのためにエール・フランスのサイトに入りました。まずまずの座席を確保して一安心。それから食堂で朝食をとりながら、今日一日の過ごし方を相談しました。昨夜、お土産の数を数えたらまだ足りないことがわかったので、まずそれを買わねばならないが、あいにく今日は日曜日、お店は全部閉まっています。調べたところ、サン・ジェルマン・デ・プレのシャンピオンというスーパーが午前中だけ開いていることがわかったので、まずそこに行くことにしました。
 モット・ピケ・グルネルから地下鉄8番線でサン・ジェルマン・デ・プレへ。シャンピオンに行くと、日本人旅行者が何組か買い物をしています。シャンピオンを出てサン・ジェルマン大通りを渡り、セーヌ通りからサン・シュルピス通りへ入ります。エルネスト・ルナンゆかりのサン・シュルピス教会を訪ねようと思ったのです。あいにく、サン・シュルピス教会の向かって左の塔が修復中で、すっぽりテントに覆われています。さらに教会前のヴィスコンティ作の有名な噴水も工事中で全く見ることができません。教会前に中学生ぐらいの少女たちが長いテーブルを置いて。自家製のケーキやタルトやコーヒーなどをミサに来た人に提供しています。コーヒーを飲みたいと思ったので、「タダですか? マドモワゼル、シルブ・プレ」と聞くと、「ノン!」と返事して「コム・ヴ・ヴレ(お好きなように)」と言っています。喜捨をしてくれというのですが、いくら出してよいかわからないので、何も飲まず、教会の中に入りました。
 サン・シュルピスはその古い外観にもかかわらず、内部は朝の光に満ちています。重い扉を開けて中に入ると、説教の声が教会内に響いていました。ミサの途中で入室禁止であると、その時気付いたのですが、そっと隠れながら右手の側廊の小部屋にすべりこみました。日本に帰る前にぜひ見ておきたかったドラクロアの祭壇画がそこにあるのです。正面に「ヤコブと闘う天使」そして天井に「悪魔を撃つ大天使ミカエル」の画です。ドラクロアはこの祭壇画を描くために近くのサン・ジェルマン・デ・プレの今はドラクロア美術館になっている家に引っ越してきたのです。ゆっくり見終わってから、私たちは一番後ろの席に静かにすわり、始まったばかりの讃美歌の響き渡る音色に耳を傾けました。差し込む朝の光がこれほど美しいとは。教会内のアーチや祭壇や天井に反射して不思議な色合いを帯びています、、、。

 教会の外に出ると、斜め前のチョコレートのお店ピエール・エルメの前に行列が出来ています。行列の半分は日本人らしき女性です。メトロ10番線でオーステルリッツ駅へ行き、5番線でバスティーユへ。日曜のバスティーユはパリ最大の市場でにぎわっています。昨夜の雨でぬかるんだ地面に、家族連れ、犬を連れた人、一週間分の食料を買う人、さらに観光客がぶつかりながら歩いています。しかし、何という活気でしょう。私たちは、市場中をまわって、七面鳥のモモ焼き(3ユーロ)とバゲット(1ユーロ)を買って、市場の外れのベンチにすわって食べました。今回のパリ旅行でもっとも美味だったものはこの七面鳥だった、と妻は言っています。バゲットもおいしくて、このパンとワインがあれば他に何もなくとも何日も過ごせそうです。私自身は無粋で食にこだわりがないのですが、妻はもともと無類のパン好きで、子供の頃から一人でパンを焼いて食べていたほどなので、パリの食事は全く彼女の嗜好に合っていたはずです(サンドイッチだけで一万円以上使いました!)。唯一私たちが食べられなかったのは山羊のチーズ(fromage de chevre)で、匂いを嗅いだだけで屑箱に捨てました。

 さて、いよいよ8番線でオペラに向かいます。2時半からのオペラ「Alcina」を観るためですが、早く着きすぎたのでオペラ広場辺りの雑踏の中を散策しました。オペラ大通りを横切るカプチーヌ通りは西へ進んでマドレーヌ寺院にぶつかります。それと、ヴァンドーム広場に続く平和通りとBourse(証券取引所)に至る九月四日通りが交錯していますが、日曜日のせいか人通りは多くありません。思えば、ロワッシー・バスで到着したのは、ここオペラ前の広場でした。疲れ切ってバスを降りると、パリの寒さに身を震わせたものでした。もうすっかりその寒さにも慣れています。
 開演30分前に入場が許されました。装飾画に飾られた大広間(グラン・フォワイエ)、豪華な大階段、薄暗い照明の中で四方に煌めく宝石のような灯り、これはパリそのもの、19世紀の夢の世界です。階段を上っていくと各階に正装した係員の姿が見られます。扉の場所を聞くと、そっけない返事をするのは彼らがみな国家公務員だからでしょう。私たちの10ユーロ(約1700円)の席は四階のサイドボックス席の上にありました。座席が傾斜しているので(ボックス席は平ら)舞台は右端が観にくいだけでまずまずよく観ることができます。気がつくとすぐ上からも人の顔が覗いています(そのボックス席も10ユーロです)。私たちの10ユーロの席の一番前の一番左端の席一つだけが7ユーロとなっていて、そこは柱が邪魔で常に身を乗り出してないと見えないのですが、そこに大きなリュックを持った日本人らしき青年がすわって最後まで熱心に観ていました。他の7ユーロの席は私たちの座席のある部屋の右半分で、そこからでは舞台の半分しか見えず、オペラが山場に差し掛かるとほとんどの人は私たちの背後に移って立ち見をしていました。私たちの下のボックス席は21ユーロ、さらに正面は38ユーロで、このへんが最上の席でしょう。一階バルコニーの130ユーロの席にすわれるのはさすがに裕福な人たちでしょうが、それでも日本での外国オペラ観劇の料金に比べればかなり安いといえます。私たちの右隣には、妻が開演前にトイレで出会い、アメリカの田舎から来た素朴な夫婦に会った、と言っていたまさにその夫婦がすわりました。

 2時半になり、さて、いよいよ開演かと思っていると、支配人らしき男が幕前に現れて、何か話しました。うっかりして意味がわからなかったのですが、場内は、ブーイングと笑いで少しざわめきました(何と、舞台上部に出る字幕が、機械の故障で出ないということでした。イタリア語の歌詞では全くお手上げです)。
 ゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデル(1685-1759)の『アルチーナ』の序曲が始まりました。ロマンティックで哀しい調べ、これは予想外の美しさです。いよいよ幕が上がると、たくさんの男性が広い舞台の上に横たわっています。背広をきたり、ズボンだけの男、全裸の男もいます。この『アルチーナ』はバロック・オペラそのものですが、演出家は登場人物すべてに現代の衣装を着せ、舞台背景も大きな部屋だけの簡素なものです。始まりは退屈で、私は不覚にも幕が開いて五分で眠りこんでしまいました。『アルチーナ』は三幕四時間のオペラで、途中2回の幕間休憩があります。最初の休憩になって、やっと私ははっきり目が覚めました。休憩時間に交代で廊下に出てみると、バーカウンターに人が群がっています。ここでシャンパンを飲むのが観光客らしいのですが、混んでいる所で注文するのは気が引けます。ちなみにシャンパン10ユーロ(ボトル65ユーロ)、ビール6ユーロ、赤ワイン5ユーロです。館内をぐるりとまわって席に戻ってくると、妻が同じ10ユーロの席の人たちと話しています。妻の話では、妻がプログラムを持っているのを見て、一番前の席の白人の二人の女性が「一分間だけ見せてくれ」というので妻が「ここは暗くて読めないから、そこで読んであらすじを教えてくれないか」といったところ、承知してくれて、今熱心に読んでいるのだとのこと。やがて、二人の女性のうちの一人が疲れ切った顔で「非常に complicated だ」といって、英語であらすじを説明し出すと、その10ユーロの席のほぼ全員(10人ほど)が立ったまま熱心に聴いていました。どうもその部屋でプログラム(10ユーロ)を買っていたのは私たちだけだったようです(!)。

 ヘンデルの『アルチーナ』はアリオストの『狂乱のオルランド』の挿話を下敷きにしていますが、その筋も内容もバロック的に非常に複雑でねじ曲がっています。アルチーナは魔術を使って自分の島に多くの男たちを誘惑してさそい、飽きると石や樹木や小川にしてしまいます。『オルランド』の主要な登場人物であるルッジェロも魔術により、すっかりアルチーナの虜になっています。そこにルッジェロの婚約者であるブラダマンテがルッジェロを救うためにルッジェロの家庭教師であるメリッソとその島に乗り込んできますが、なぜかブラダマンテは実の兄弟のリッチャルドに変装しています(この辺が無意味に複雑です)。その「リッチャルド」にアルチーナの従者であるモルガーナ(女)とオロンテ(男)が恋してしまうというさらに複雑なねじ曲がりのうちに第一幕が終ります。

 第二幕で話が急に動き出します。ルッジェロはメリッソの尽力でアルチーナの魔術から解放されます。アルチーナはオロンテからルッジェロの裏切りを知らされ絶望の淵に沈みます。ここで、二度目の休憩があります。どうも、10ユーロの席の観客は全員観光客らしく、お互いに写真を撮ってもらい合ったりしています。私は自分の席にすわって、シャガールの天井画の下に広がる幕間の別世界のような光景をオペラグラスでゆっくり観察しました。オペラ・ガルニエのどの席にすわっても場内のほとんどすべての観客を見ることができます。二階のボックス席の客は大きなケーキのようなものを食べています。オーケストラ席の前の客はヴァイオリン奏者に何か話しかけています。眼鏡をかけてプログラムを熱心に読んでいる老人もいます。そして、また人々がそぞろ歩く廊下に出ると、そこにはややけだるい雰囲気も漂っています。吹き抜けの広間の手すりの下に置かれた二つの空っぽのワイングラス、シャンデリアの下で抱き合う若くない恋人たち、、、、。

 最後の第三幕の幕が上がる前にオーケストラに対する盛大な拍手が起こりました。指揮者のジャン・クリストフ・スピノージとアンサンブル・マテウスの面々は立ち上がって観客の拍手の嵐に答えています。第三幕は怒濤の展開となります。アルチーナは心を翻したルッジェロに復讐を誓うが、同時にもし自分のところに戻ってくるなら裏切りの罪は許すと言います。しかし、アルチーナの甘くうっとりした世界に未練を残しつつも、ルッジェロはアルチーナのもとを離れる決意を下します。絶望するアルチーナ。魔術は解け、物に変えられていた囚われの人間たちはもとの姿を取り戻し、アルチーナはついに息絶えます。
 結局のところ、これは深い愛の物語です。アルチーナは真実の愛に落ち込むことで魔術の力を失います。ルッジェロは婚約者の下に帰るが、もっとも美しい日々は終ってしまったのだ、ということに気付いてしまいます。ただ、魔法の中でのみ私たちは幸福なのです、、、。ルッジェロ役の著名なヴァッサリーナ・カサロバよりも、アルチーナを演じたエンマ・ベルの圧倒的な演技と声に魅了されました。妻はあまりに感動して涙が出そうだった、と言っていました。幕が降りると割れんばかりの拍手、皆が立ち上がっています。「ブラボー!」という声があちこちで聞かれ、再び現れた出演者たちが手を振って観客に応えました。
 終演後、観客たちは帰り始めますが、この瞬間がなかなか心地よいのです。正面の大階段をみなゆっくりと降りていきます。気がつくのは老人の多いことで、決して裕福そうな人ばかりではないが、これが人生のひとつの楽しみである、という顔がとても印象的でした。そして、ファサードをくぐって外に出ます。19世紀のパリの建築の最高傑作といわれるオペラ・ガルニエは、その左右対称の美しさもさることながら細部まで徹底して施された装飾がすばらしい。これは、まさにバロックです。

 四時間の観劇を終えると、もう7時近くなっています。パリ最後の夜なのでマドレーヌ界隈からシャンゼリゼに向かって散歩し、どこかのカフェでビールでも飲もうと思っていたところ、妻がオペラに昂奮したのか頭痛がする、と言い出しました。ホテルに直行する前にオペラ大通りの Paul でサンドイッチと渦巻きパンを買いましたが、その時、私は今夜のワインを買ってないことに気付きました。日曜日で、酒類を売る店はすべて閉まっています。日本にいる時はビールか梅酒ぐらいしか飲まなかったのですが、パリではおいしいワインがとても安いのでたくさん飲んでいるうちにワインがなければ眠れなくなってしまいました。オペラ座の周囲でワインを買えるところは全くありません。仕方なく地下鉄でモット・ピケ・グルネルまで帰ると、案の定、普段の喧噪とは裏腹に駅周辺で開いている店は一軒もありません。絶望的な気持ちで、それでも横丁に入って探してみると、何と一軒だけイラン人の親子がやっている食料品店(epicerie)の灯りが点いていました。実は、この店には数日前缶詰を買おうと入ったところ、店の前の果物は腐りかけで缶詰は埃がつもり、しかも値段が高いので、といって何も買わず帰るわけにもいかずペリエの缶をひとつだけ買って、もう絶対にこの店にはこないぞと思って出てきたのでした。しかし、今は砂漠にオアシスの思いで、その店に突入しました。イラン人の父親はテレビを見ながらレジにすわり、愛想のよい息子は客がくるとドアを開けています。入口横にあったワインの棚は思いかけず品揃えも充実していて、私は3.9ユーロのボルドーを買ってホテルに帰りました。
 幸い、妻の頭痛は軽く、ワインとサンドイッチはこれ以上にないおいしさでした。パリ最後の夜はあまりにも静かに更けていきます。

 

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